粉川哲夫の【シネマノート】
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1998-12-15

●おもちゃ (1998)(深作欣二)

◆画面が「映画」の色をしているのが気にいった。いや、そういうのが最近少ないのだ。本作初出演の宮本真希が抜群にいい。
◆冒頭、「ちょうちょ、ちょうちょ・・・」の童謡で始まるのにあっけにとられる。
◆深作らしく、スト破りや売春防止法推進の婦人団体デモなどのシーンが挿入される。
◆しゃべりは、少しテンポも速すぎる感じ。しかし、さもなければ、現代の観客を満足させるテンポが出せないだろう。
◆時子はいつも走っている。彼女の気づかいは、「気配り」とは違う。役者宮本真希の性格ともだぶって、非常に魅力的な気づかいになっている。めったにない気づかいと機転のよさが時子の天性であるかのように物語は進む。
◆時子の実家で、貧しいがゆえの父(腕は「無形文化財」並なのに、収入は少ない)と息子(会社を解雇された)とのいがみあい。
◆水揚げまえに密かに思う青年に会いに出かけるシーンで、青いJRの電車が見える。時代は昭和30年代なのだが、そのときJRの電車はすでに青かったっけ? 千日前の映像も現代のである――これは、何を示唆しているのか?
◆水揚げの儀式のとき、時子は、焚いているキャラの匂いの感想を加藤武にきかれて、「実家の機織りの音です」と答えると、加藤が、「風流じゃのう」と言う。すると、時子は、「貧しいわたしには、わびしいだけです」と答える。
(大映試写室)



1998-12-14_2

●ワンダフルライフ(1998)(是枝裕和)

◆構成スタイルがユニークである。
◆映画的願望と物語的想像とを合致させ、そうすることによって、人生的な願望も満たしている非常にスタイリッシュな作品。
◆人は死ぬと、3日のあいだに自分が冥土に持っていきたい記憶を選び、そのシーンを映画にしてくれるセクション(そのスタッフたちは、そのような記憶を選ぶことを拒否したために冥土へ行けないでいる中間人である)がある。
◆そういう場所が、SF的な空間ではなくて、古い役所か学校のような建物であるのがおもしろい。
(メディアボックス)



1998-12-14_1

●SAFE(Safe/1995/Todd Haynes)(トッド・ヘインズ)

◆映画は始まったら、隣の男がウナギ弁当を出して食いはじめた。その臭いがまじって、別の印象をつくった。
◆電車のなかで咳をしている人が多い。そういう時代の気分によくシンクロしている。
◆が、救いのない話。これだと、どうなるのか? ふーんというしかないのか? ひどくなっている環境に怒りをもつのか?
◆アレルゲンのテストで、アレルゲンが見つかり、発作がおこったが、だからといって、治療の方法が見つかるわけではないのだった――そのとき、医師が、「ON/OFFはできるが、おいはらうことはできないのです」と言う。
◆「心のなかの動きが外の世界でも起っている」
◆主人公が最後のほうのシーンで、殺風景な部屋で小さな鏡に向かって「アイ・ラブ・ユー」と行っているのを見て、思った――自己愛が衰えると、免疫力が衰える?
◆80年代は、ミーイズムの時代だと言われたが、この時代は、免疫力が衰え、それを自己愛で補っていたのか?
◆病の社会的側面と心理的・身体的側面
(映画美学校)



1998-12-11_2

●ニノの空(Western/1997/Manuel Poireier)(マニュエル・ポワリエ)

◆日本語タイトルは、不適切。原題はWestern。この作品の主役はニノではなくて、パコ(セリジ・ロペス)である。彼が次々に出会う女との関係とその行き着いたところがテーマであり、ニノは、『真夜中のカーボーイ』のラッツォのような役。
◆最後に、男には興味はないが、子供を生み、育てることに最大の喜びをもつという女性に出会う。というよりも、戻ってくるはずだった最初の女性(エリザベート・ヴィタリが存在感のある演技をしている)に振られて、行き場を失った彼が、ニノとともにその女性のところで子供たちといっしょに食事をしているシーンが映る。面白いのは、そのテーブルにいる子供たちの数。最初、5人(彼女によれば、彼らの父親はみな違うという)だったのに、10数にになっている。
◆センチメンタルでちょっぴりシュールなロードムービー。
(メディアボックス)



1998-12-11_1

●りんご(The Apple/La Pomme/1998/Samira Makhmalbaf)(サミラ・マフマルバフ)

◆ドキュメンターとフィクションの違いを越えた作品。ここでは、そういう区別は意味がない。最初のほうは、ビデオをフィルムに起こしている。この点においても、(理由は別にあるのだが)18歳のこの監督サミラ・マフマルバフにとってはどうでもいいものになっていることを示唆する。
◆日本から見ても、西欧から見ても、イランには、相当異なる感覚と思考が存在することがわかる。
◆余ったものとその日に食べるパンとを交換してほしいと物売りの呼び声のような節つきでうたい歩く老人。彼は、盲目の妻の希望もあった、ふたりの幼い少女を家に閉じ込めておく。しかし、近所の人の非難で福祉事務所が動き、少女を保護し、父親に警告する。しかし、彼は、さもなければ、子供たちが近所の悪ガキたちに何をされるかわからないとして、聞き入れようとしない。
◆これに対する福祉事務所のソーシャルワーカーのオバサン(アジゼ・モハマディ)の対応がおもしろい。彼女は、子供たちを外に出し、彼(60歳の老人)を、家に閉じ込めてしまうのだ。そして、近所の家から鉄ノコを借りて、彼に渡し、出たければ、自分で鉄格子を切って出なさいと言う。管理・指示するようりも、自分で経験させるということが、イランでは日常の生活文化のなかにあるのだろうか?
◆福祉事務所に呼ばれた両親と子供たちが事務所の廊下を歩いているところで初めて聴こえる浪花節のような音楽はなんだろう?
◆食事の前の祈りで、老人は、「神様、この世はつらいことばかりです。早くあの世に召してください・・・・」と涙ながらに祈る。
◆彼は、しばしば手に大きな氷を持っているが、あんなに長く持っていて冷たくないのか?
◆少女たちは、「急ぐ」ということを知らない。このふたりが、家の外に出て、しりあったやはり双子の少女たちと街に行き、路店の腕時計に興味をひかれるところがおもしろい。時間への接近。映画の最後は、父親と子供がいっしょに時計を買いに行くところと、盲目の母が、自力で街路に出てみるシーン。リンゴをつかむ。
(メディアボックス)



1998-12-10

●ユー・ガット・メール(You've got M@il/1998/Nora Ephron)(ノーラ・エフロン)

◆インターネット・メールをよく知った作り。飛躍したいんちきがないのがいいし、電子メールで起りうるシチュエイションを使ったブライトな作品。ノア・エフロンらしいサタイヤー(「詩的で毒のある言葉」――ジョンがいっしょに住んでいる編集者の女性は、かなりノラ・エフロンをモデルにしている)(昔よりは軽くなったが)のきいた会話がいい。
◆ヴィデオ画像をコンピュータに取り込んで、ポリゴンを下げ、ディテールを抽象化した画像が冒頭に出る。ちょっとVRMLのよう。これが、リアルな画像に溶解する。
◆ジョー(トム・ハンクス)とキャスリーン(メグ・ライアン)が使っているコンピュータはMac。回線へのアクセスは、電話線。モデムのシャーという音が聞こえる。AOLだから、当然そうなる。
◆キャスリーンが住んでいるのは、515 West End Avenue。店は78 Street。ジョンは、152 Riverside Drive。
◆FOX Booksのスタイルは、(1)ディスカウント本(2)ふかふかのソファー(3)カプチーノ。
◆ノートパソコンの画面に映るメールの文字/ナレイトする声(ハンスク/ライアン)/キーボードのカシャカシャする音――これらが、映像的にも、音楽的にも美しくアレンジされていておしゃれ。
◆キャスリーンが、鏡で化粧を直しているところへ、(そのときは嫌いな)ジョンの顔が突然映り込んでくるときの驚き方がおかしい。
◆ジョンが、パーティで自分だけキャビアをさらってしまうシーンがあり、キャスリーンが、「まあ、あんたって・・・」といった反応をするが、これは、わざとだとうか、それとも、そういう自分勝手なお坊ちゃんとして描かれているのだとうか?
◆男は、なんで『ゴッドファーザー』のなかのセリフが好きなのかという皮肉。
◆スーパーインポーズ(戸田奈津子)の誤訳:「ラダイト」が「リディット」と表記されていた。「ラダイト」とは、1811~17にかけてイギリスの編み物地帯で起った機械(新たに導入された編み物機械)の打ち壊し運動。転じて、新しいテクノロジーに対する拒否の態度を表現するのに使う)。「ハンドルネーム」も、「パスワード」と表記されていた。「君のハンドルネームは何?」は、パソコン通信出身のAOL(この映画のスポンサーであり、話はこのネットを舞台にしている)らしく、「アドレス」と言わないでハンドルネームと言う。もっとも、AOLでなくても、本名を名のらいでやるチャットでは、どんな名でもよい。要するに、アクセスするためのアドレスのことだから、「アドレスは何?」とでも訳しておけばいい。「パスワード」なんかひとに教えるバカはいないじゃない?
◆ネットのなかで拡がり、出来上がってしまった関係をファイストゥファイスの世界へ移し替えることは可能かという、電子メディアにとっての難問にも切り込んでいる。
◆とにかく、ノラ・エフロンは、よくわかっている。
◆Don't Cry ShopGirl.
(渋谷パンテオン)



1998-12-08

●のど自慢 (1998)(井筒和幸)

◆勢いが出てくるのは、3分の2以上進んだのど自慢大会予選大会のころから。それまでは、役者の演技がみなわざとらしくて、見ているのがつらい。演出がダメなのだ。
◆ただ、そのなかで、室井滋と伊藤歩は光っていたから、よほど才能があるのだろう。
◆オープニングのテレビシーンもしらける。そのあと、田舎から列車で出てくる室井と尾藤イサオを見送る「社長」が別れのアメリカ的抱擁をしたり、「ハブアナイスデイ」と言ったり(田舎ではかえってこういうことが多いのか?)、なんか浮いている。
◆なぜ(日本人は)こんなにカラオケや歌が好きなのかという観点から見ると、非常にシュールな感じがよく出ている。外国で上映されたり、数十年たって見ると、新鮮かも。
◆つまらない台詞の例:「こんな顔でいいのかな」→「野に咲く百合」
◆大友康平一家の下から2番目の娘、北村和夫の孫、この二人の髪型がみな伊藤歩のそれと似ているのはなぜか?
(東宝8F第1試写室)



1998-12-07_2

●ダンス・ウィズミー(Dance with me/1998/Randa Haines)(ランダ・ヘインズ){5-15}
◆悪くはないが、視点が分裂している。チャヤンを主にするのか、ヴァネッサ・ウィリアムズを主にするのかをどこかで決めるべきだった。出だしは、チャヤンの話。チャヤンを使いながら、少しサルサの見せ場が弱い。サルサが、ネットワークのように関係が次々に動いていくのだということは、よくわかったが。
◆クリス・クリストファーソンは、いい感じに老けた。
◆この映画から、キューバとアメリカとの関係の度合いを量ることもできる。サルサのような関係になってきたということ。
◆ダンス教習場のおやじが、いきなり、「ニーチェを読みなさい」と言ったのは、なぜか?
◆クレジットでThanks toとなっているIseki Satoruとは誰か?
◆チャヤンがただの人のいいキューバ青年に映ってしまうところは、監督の本意ではないだろう。クリスの放棄したポンコツ車を直してしまうところや、その部品を買いにキューバ人の家に行くくだりのほのぼのした感じはもっと活かせたはず。
(ソニー試写室)



1998-12-07_1

●レ・ミゼラブル(Les Miserables/1998/Bille August)(ビレ・アウグスト)

◆文学物の映画化としては、力作。時間の経過が物語のリアリティにとって重要だが、英がは、なかなかそうした経過を出しにくい。ここでは、それが成功している。
◆だが、民衆蜂起の描き方は弱い。
◆慈善の反対は、搾取ではなく、掟を墨守すること(ジャベール)か?
◆この物語のなかでは、バルジャンを救った神父にも、バルジャンにとって、慈善は、規則に逆らって行われる。『レ・ミゼラブル』が、反体制の物語であることを考える。だから、蜂起のシーンは、この映画のやり方では駄目なのだ。
◆多くの都市シーンをプラハで撮ったというが、「東欧のパリ」プラハは、本当に古いパリに似ているのか? 城壁都市の感じはよく出ている。
◆ジャベールが、情報に執着し、実際にバウジャンの情報を調べ、そして、革命家たちの諜報に力を入れたところがよく描かれている。実際、警察は、この時代に諜報ということに力を入れはじめた。
◆バルジャンとみなされて偽のバルジャンが審問にかけられるシーンで、ホンモノのバルジャンがかけつけ、昔の囚人仲間の体の傷や番号のイレズミを指摘して、自分がホンモノであることを証明するシーンがある。このことは、情報論的には、彼がホンモノであることを示す証拠にはならない。なぜなら、彼は、彼らのそうした情報を得たうえで、そのような論証を行うことができるからである。
(ソニー試写質)



1998-12-01

●イン&アウト(In & Out/1997Frank Oz)(フランク・オズ)

◆ぎりぎりのところまでもっていって、'I am a gay"と告白するところがおかしい。
◆「Gay microwaveでもあるかのようじゃないか」とは、周囲の連中がゲイフォビアを示したときのハワード(ケビン・クライン)のせりふ。
◆ちょっと、本当にゲイの味方なのかいなと思わせるところもある。この話は、ゲイについてではなくて、その人物の隠された過去があばかれることによって、周囲の対応ががらっと変わってしまい――しかし、アメリカ的な「正義心」のようなものが人々のなかに芽生えて、それが、どんどんひろがっていくという、ある種のパターン映画でもある。そのパターンを楽しむかどうかで評価が分かれるだろう。
◆実際にはゲイでもなんでもない父兄たちが、卒業式の席上、次々に"I am a gay"と立ち上がっていくシーンは、単純ながら、すがすがしい、と思う人とそうでない人。
◆マット・ディロンの恋人役のファッションモデルが、へんぴなモーテルに泊まらされ、電話をかけようとして(ダイヤル式を知らない)ダイヤルの数字の上をプッシュボタンのうように押すところはおかしい。これも、わざとらしいといえば、それまで。
◆バーバラ・ストライザンドの『愛のイエントル』や『ファニー・レディ』への言及が多い。
◆Frankie Maherに捧げられいる。
(ギャガ試写室)



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●ルル・オン・ザ・ブリッジ(Lulu on the Bridge/1998/Paul Auster)(ポール・オースター)

◆思わせぶりな愚作。撃たれて死ぬまでの瀕死の人物の意識に浮上したものを描くのなら、相当な工夫が必要。ジョイスの時代ではない。
◆ウィレム・デフォーが出てくるまではなんとか見れる。それ以後の話がぱっとしない。
◆みな一癖ある役者をそろえながら、もったいないことこのうえない。ジーナ・ガーションまで使って、こんなのない。そのため、デフォーやレッドグレーブのように、「老醜」をさらすような役をやるはめになる。気の毒。
◆ミラ・ソルヴィーノ(セリア)がカイテルのCDを買ってきて透明な外装をはずそうとして手を焼くシーンと、カイテルが拾ったカバンのなかの包みを開くシーンとの類似性。
◆マンディ・パティンキン(前妻のいまのつれあい)の話と問い:「飛行機のトイレで、美人とすれちがう。ドアを開けると、便器のカバーの上に糞がしてある。こういうとき、おまえは、スチアーデスを呼ぶか、どうするか? 自分は、それを紙でふいた。おれはそういう人間なんだ・・・。」ポール・オースターには、こういうノリを積み重ねた作品のほうが向いている。
◆セリアは、258W 25Streetに住んでいることになっている。ここは、6番街に近いチェルシー地区。
◆カイテルが泣くシーンがあるが、その泣き方が、『ユリシーズの瞳』の最終シーンの泣き方にそっくり。芸がない。
(ヘラルド試写室)



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●スモール・ソジャーズ(Small Soldiers/1998/Joe Dante)(ジョー・ダンテ)

◆ダンテらしい批判が光る(といっても、いかにも「アメリカ」的な、反ファシズム「啓蒙」映画ではある)。
◆「平和的」なゴーゴナイトがかなり雰囲気を出しているのだから、コマンドー・エリートたちは、もっと「悪辣」で「冷酷」でもよいはず。とにかく、「怖さ」が欠けている。もう少し「怖い」(『ドールズ』ように)のかと思ったら、全然そうでなかった。
◆リトル・ソルジャーズが、バビー・ドールに「生命」を与え、売春婦的なキャラクターにつくりかえてしまうくだりはなかなかおもしろかった。
(UIP試写室)



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●ベルベット・ゴールドマイン(Velvet Goldmine/1998/Todd Haynes)(トッド・ヘインズ)

◆かなりいい出来。都市の「うさんくささ」が残っていた70年代と同質の雰囲気がある。映画が「時代を描く」ということは模倣ではなく、同質の雰囲気や気分に「共鳴」(レゾナンス)させることだ。
◆ブライアンが初めてカート・ワイルドのコンサートに接するシーンがいい。ワイルドを演ったユアン・マクレガーの歌(自分で演ったらしい)がなかなかなのだ。
◆こいつが猛烈うまい。役者が初めてやったらしいが、これならコンサートでもいける。
◆30才半ばの歳で、都心の、庭の広いけっこうな家に住んでいるのは、「逆玉」のせい。
(ヘラルド試写室)



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●あ、春(1998)(相米慎二)

◆黒ネコがはっているのを追うカメラで始まるのはなぜか? 次に法事に念仏。それからニワトリ。
◆「グルグル、ゴロゴロ」という猫の喉の声のような音が基調低音のようにしばしば使われる。
◆主線は、山崎努(父)がふらりとやってきて、いそうろうし、死ぬまで。副線は、
◆佐藤が失業するまで。斉藤由貴の喘息がひどくなるのもひとつの線か?
◆山崎が佐藤の息子に「ちんちろりん」(骰子賭博)を教える。たき火をしたり、ある意味で失われてしまったものを持ち込む。
◆佐藤と村田雄浩(早々と転職の手筈を整えている)とが会社の帰り、歩きながら、「(家へ)帰りたくんぇな」というくだり、日本のサラリーマンの感じが出ている。上映まえの挨拶で、佐藤は、「監督もぼくも、サラニーマン経験がないので、苦労した」と言っていたが。また、日本の家庭で男が、いつのまにか、妻を「母親」役にしてしまうことに気づいたとも言った。
◆山崎が、ホームレスと仲間になったり、いっしょに大ざっぱな音楽演奏をやったりするシーン――相米の底辺への思い入れだろうが、昔の観客へのアリバイのような感じもする。
◆冨司淳子、藤村志保は、十分活かされているとはいえない。
(よみうりホール)



1998-11-16

●愛のトリートメント(the treatment/1997/dir:Jonathan Gems)(ジョナサン・ジェムズ)[1999-01-15-->]
◆売春婦を中心にして話が展開するのだが、サエない。もっとダーティな描き方ををしてもいい。客の「変態」ぶりにしても、平板。
◆少しおもしろいと思ったのは――市長の誕生パーティに一人の売春婦を巨大なケーキに入れたが、その女が(あとでわかる)盲腸炎にかかかっていて失神してしい、売春宿の主人は、大慌てでとりつくろうが、ケーキの蓋をあけてそこに「死体」があることを発見した上院議員が、「よくぞわしの趣味がわかったな」とばかりに、喜んでしまうシーンぐらい。要するにこいつはネクロフィリアだったのだ。しかし、これとて、中途半端な描き方。
◆少しリズィー・ボーデンの『ワーキング・ガールズ』でも見て研究してはどうか?
(メディアボックス)



1998-11-13_2

●アインシュタインの脳(Einstein's Brain/1994/Kevin Hull)(ケヴィン・ハル)

◆日本の突撃リポート隊が作った映像ではないのに、それに似ているのは、杉本教授のキャラクターのなせるところか? とにかく、なんでもおみやげをもらってくるのが好きな日本人のこずるさが見えていやだった。コレクターの嫌み。ドラマではないところが、そうさせる。
◆BBCは、この手のヤラセドキュドラマをよく作る。
◆ユーモラスなところはとりえ:杉本のねだりに、トーマス・ハーベイ博士が、台所から包丁を持って来てアインシュタインの脳の一部と称するものをまな板の上で切り、杉本に与えるシーンの奇怪さとおかしさ。
(映画美学校)



1998-11-13_1

●ラブゴーゴー(Love Gogo/1997/Chen Yu-hsun)(チェン・ユーシュン[陳玉勲])

◆テンポがいかにもファニー。
◆カップ麺にホットチョコレートをどろっとかけ、大粒のシナモンをふりかけた味。キッチュだけでできているような映画。
◆最初、セールスマン(シー・イーナン)が出てくるが、じきに、ケーキ/パン屋を演じるチェン・ジンシンの怪演になる。妹もなかなか。インスタントものを食うシーンが多い。そこに足の悪い美人がパンを買いにきて、そこから、へんなほうに話が進む。通常の視点の持続といった「文法」を守らないのがいい。
(ユニ・ジャパン)



1998-11-12

●ジョー・ブラックをよろしく(Meet Joe Black/1997/Martin Brest)(マーチン・ブレスト)

◆音楽も効果音もなにも聴こえない、ただ空気の音がかすかにしているような静寂が続くシーンがあるのが、印象的。
◆間延びしているといえばいえるし、ブラッド・ピット大好きのファンへのフェティシズム的サービス(となりの中年女性の観客は、もう、ブラッドがかわいくてたまらないという感じで、ブラッドの動きの一つひとつにクククという笑を浮かべていた――こういうのを、「母性愛をくすぐられる」というのだろうか、わたしには、わからない反応)にすぎないとも言えるが、ジェットコースターに乗せて、これでもか、これでもかというハリウッド映画とは一味ちがうリズム感を作りだしてはいる。
◆アンソニー・ホプキンスが、自分の死になじんでいくプロセスを描くうえでは、このような時間の流れが必要かもしれない。しかし、結末は、がっかりさせる。
◆「死と税金は避けられない」というジェイク・ウェバーのセリフを逆手にとって国税局(IRS)検査官
◆冒頭の方で、ピットが彼女にみとれて、車にはねられる一瞬のシーンは、これまでになく新鮮で強い印象を与える。
(丸の内ピカリー2)



1998-10-20

●時雨の記(1998)(澤井信一郎)

◆冒頭の屏風の絵のようなバック、一定の情感を強制するもったいぶった音楽(久石 譲)。こう来て、「大人の愛の物語」(パンフレットの言葉)というわけで、吉永小百合のほうは、鎌倉の古い和風の家に一人で住む花道の師匠という設定から、着物を着こなし、和歌に通じ、器や由緒ある店が似合う端正で気品のある古風な女がおのずから浮かび上がってきて、現に、吉永小百合はそういう――いかにも原作者中里恒子らしい国文学少女的スノビズム丸出しの――キャラクターを演じようとしている。
◆しかし、これは、吉永には無理というものである。着物の着こなし、花に鋏みを入れる手さばきは容認しよう。顔もまあ、これでもいい。しかし、吉永のくぐもった声(この映画の音声の取り方が中央に集中していることも手伝って)、「品格」とは無縁の「庶民的」にきまじめなものごしは、このキャラクター向きではない。この映画化は吉永の年来の夢だったようだが、それは、見果てぬ夢というものである。
◆渡哲也のほうは、そういうあこがれの対象のような女についにめぐりあう相手だから、相当泥臭くてもいいのだが、それにしても、「セコムしてますか」の長嶋茂雄に幾分似ている顔つきで出てきて、西行がどうのこうのといわれると、この映画の世界全体がひどくうそくさくなってしまう。
◆明らかに、映画の一部には、仕事と会社一方でやってきて50の坂を越えた「企業戦士」の反省といったテーマが隠し味になっている。だが、だからといって、妻に対して、「これからは残りの人生を心のおもむくままに生きたい」というだけの描写では、ただの身勝手としかうつらない。
◆おまけに、啓蒙精神を発揮して、ご丁寧にニュースのクリップ映像をはさみ、時代を教科書風に解説する。やめてよ、と言いたくなる。
◆素朴なリアリズムに寝そべった作品なのに、たびたび狭心症の発作を起こす渡の額には、汗の滴ひとつないというのもうかつである。
◆*京都の「おぐら「、「しる芳」という懐石料理屋、「たちくい」とう花器屋が出てくるが、実在ではない。
(東映試写室)



1998-10-19

●学校III(1998)(山田洋次)

◆学校シリーズというより、いや山田洋次映画というより、大竹しのぶ映画。
◆学校も山田節もぐっとおさえて、大竹しのぶを全面展開させたのがよかった。
◆オプニングのクレジットが出るまえのイントロは、山田洋次の映画ではないかのような鋭さがみなぎっている。
◆山田式の抒情に流れるスタイルは随所にあるが、田中邦衛やケーシー高峰、中村メイコといったパターン化されて演技にい堕しやすい役者をただの脇役にまでぎりぎりおさえこんだのがよかった。(それでも、メイコの演技はやばいが)。従来だと、この手の役者は、お決まりのずっこけたクサい演技を無神経にくりかえすのだ。
◆秋野暢子(小林稔侍の別居中の女房役でちらりと出るが、あとは自殺をはかったということが間接に知らされるだけ)、小林克也(冒頭に経営コンサルタント役で出るがそれっきり)というふうに、ぜいたくな使い方――しかも、それっぽくない使いかたをしている。
◆しのぶの息子は幼児自閉症のまま成長したという設定で、いつも独り言のようなことを口にしていて、最初ひどく不自然なのだが、それが気にならなくなる――こういうところが、不思議な作り。
◆それにしても、この映画でも出てくる「そうする以外に会社が生き延びる方法はないので、ご理解ください」というリストラ退職を求める決まり文句は、考えてみると全然論理をなしていない。
◆山田洋次にとっては転機になる作品。
(新宿松竹)



1998-10-16

●アイ・ウォント・ユー (I Want You/1998/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)

◆さりげなく、やがて激しくというのがウィンターボトム流。今回も同じ。映画の眼は、母が死んでから口をきかなくなった(たぶんバルカン半島出身の)少年ホンダ(ルカ・ペトルシック)。趣味は、盗聴。BSF(?)のオープンデッキやパラボラ式の集音マイクも持っている。彼と同居している姉スモーキ(ラビナ・ミテフスカ)は、いつも別の男と寝ている。弟に録音を取らしたりし、2人のあいだには何のわだかまりもない。美容院で働くヘレン(レイチェル・ワイズ)は8年前、男と逢い引きしているところを父親に見つかり、親を殺してしまったということが次第にわかる。罪を着た男マーティン(アレッサンドラ・ニヴォラ)は、途中まであたかもたちのい悪いストーカーのような感じでヘレンにつきまとう。避けていたヘレンが、昔惨劇のあった部屋で、彼を愛していた記憶がよみがえったかのように彼を受け入れ、セックスをするシーンは非常にリアル(しかし、挿入している身ぶりの際にパンティが下ろされていないのは、不自然。ひょっとしてマーティンのペニスは、パンティまで突き通してしまったのだろうか?)
◆構造的に見ると、ヘレンは、ホンダを子供のように愛し、「ママだと思いなさい」と言い、そのときから、マーティンは、昔の恋人から「父」の位置に追いやられたのだ。だから、保護監察官からヘレンに再び近づいたことをとがめられ、町から出ることを命じられ、ヘレナにも拒否されて、彼女を殺そうとし、助けたホンダの一撃で倒れたマーティンを器物で殴打し、殺してしまうのは、必然だった。それは、「父殺し」なのだ。ウィンターボトムには、潜在的に「父殺し」のテーマがある。
(ヘラルド試写室)



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●始皇帝暗殺(The First Emperor/1998/Chen Kaige)(チェン・カイコー)

◆古典的な映画の迫力。役者もパワフル。実戦のシーンは、CGのとは大分ちがう。まるで、発生機のエイゼンシュタインという感じ。シュピルバーグも真っ青。ただ、こういう映画は、相当の(国家規模の)組織力がなければ撮れないから、どこか与えられたものを享受する感じは残る。現に、戦闘シーンや整列する兵士のシーンでは、軍が協力している。
◆大河ドラマの素材だが、そういうものには堕していないところがすごい。しかし、こういう映画は、始皇帝的統率力と権力がなければ作れない。
◆最近のカタストロフものは、みなCGを使うので、話や音はデカいが、奥行きは浅い。
◆国家統一の代償。死の観念が根本的に違う時代。剣で勝負して、相手が温情で命を助けようとすると、自ら剣を突き刺して死んでしまう・・・。末代の復讐を恐れて家系を絶ってしまう。
◆冒頭のシーン:暗殺プロの荊軻が一家を惨殺しに行き、盲目の少女だけを見逃そうとすると、彼女は自ら鑿を腹に突き刺し、「抜いてくれ」といって荊軻が近づくと、その鑿で刺そうとする。失敗するが、最後の言葉は、「左ききとは気づかなかった」。
(ヘラルド試写室)



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●鮫肌男と桃尻女(1998)(石井克人)

◆映像や設定、小道具の工夫やアイデアはおもしろいが、役者がそれらについていけていない。
◆郵便局に強盗に入り、ミニカセットレコーダーを操作しながら、要求を出すところは秀逸。鮫肌黒男を演った浅野忠信と桃尻トシコの小日向しえは悪くない。脇でオタク的、癖にこだわる(指を鳴らしながらしゃべる)とか、変態的な奇妙さを出さなければならない我修院達也、島田洋八や寺島進が力不足。
◆冒頭に出るブランアン・L・ワイスの言葉(4000年まえからあなたを知っている・・)は、何の意味があるのか?
(メディアボックス試写室)



1998-10-12_2

●アンツ(Antz/Eric Darnell/1998)(エリック・ダーネル、ティム・ジョンソン)

◆明らかにクリス・ランドレスの『The Story of Franz K.』の影響が濃厚なのに、彼の名はクレジットにはなかった。SGIが深く協力しているのだが、SGIのシステムには、クリスの作ったものは自明にインプットされているということだろうか? Z(ズィ)の(ちょとETにも似た)顔、表情、声の反響しかた、みな似ている。むろん、ストーリーは、ランドレスのものにくらべると単純であるが。
◆アリが巨大な球を作るとこととか、無数の数珠つなぎになるところの映像、「インセクトピア」に行き、アリの眼で人間環境を見るシーン・・・
◆「コロニー」を「王国」と訳しているのは、よくない。
◆インセクトピアがニューヨークというのは、アレンへのサービス?
(UIP試写室)



1998-10-12_1

●ヴァンパイア(Vampire/1998/John Carpenter)(ジョン・カーペンター)

◆あのカーペンターが作ったというので、期待して行ったが、がっかりし、驚いた。ジェイムズ・ウッズ、マクシミリアン・シェル、特にダニエル・ボールドウィンとシェリル・リーはよくやっている。これでは、ただのスプラッター・ムービである。しかも、人体を残酷に切り刻み、物以下にあつかうのを映像にしたいだけに作ったような映画。
◆バチカンが吸血鬼刈りに資金を出しているとか、14世紀の吸血鬼が復活して、黒い十字架を奪いに来たとか、いう話はあるが、全くひねりがない。
◆あえて見るべきものがあるとすれば、チーム性か。吸血鬼刈りの精鋭部隊が吸血鬼に壊滅させられたのち、生き残りの1人とたまたまいあわせ、吸血鬼にかまれた売春婦、いやいや仲間にさせられた若い神父の混成部隊。
◆しかし、そのチームは、本来の組織は(吸血鬼にとして活動するノウハウが出ている。
(ヘラルド試写室)



1998-10-09

●恋の秋(Conte d'Automne/1998/Eric Rohmer)(エリック・ローメル)

◆一見、「フランス語初級講座」風のはっきりした発音とからみのない会話とシーンで進行するが、やがて、気づくと、ロメールの独特のユーモラスで、愛すべき(豊潤な)日常世界に魅惑されているのを感じる。見事である。ベアトリス・ロマンとアラン・リボルのからみがうまい。
◆試写の途中で席を立った人がいたが、この作品は、ワインのように、こちらがその気になってやさしく、ゆっくりつきあわなければ、相手もおいしくなってはくれない。
◆最後の葡萄の収穫祭のシーンで、そこで、結ばれることが確認されるはずのロマンとリボルをあえて画面に出さない。バンド演奏のシーンを前面に出す。
(メディアボックス)



1998-10-06

●宋家の三姉妹(The Soong Sisters/1997/Mabel Cheung)(メイベル・チャン)

◆まず、NHKの大河ドラマのタッチが思い浮かんだ。(日本の協力はフジテレビだということをあとで知った)歴史の流れを啓蒙的になぞるからだろうか? 姉妹の物語に注目するといったやりかたのためだろうか?
◆映画では、宋家の3人の娘たち(靄齡アイレイ、慶齡ケイレイ、美齡ビレイ)がアメリカ留学で身につけた自由な精神で、自発的にそれぞれ孔祥煕、孫文、蒋介石と結婚したことになっているが、実際には、相当な根回しがあったように思う。つまり、中国の中枢の力を宋家がにぎるという意志が働いたということ。また、それぞれのなかに有名人志向があったという側面は、美化され、(美齡ではさすが美化しきれなかったが)省略されている。
◆いずれにせよ、姉妹の関係のなかで中国現代史の異質な部分が共存し、たがいに交流しあっていたというところはおもしろい。
◆役では、ミシェル・ヨーが一番、うまい。
◆『愛を乞う人』でさえ、レイコ・クルック/ドミニク・コラダンのような特殊メイクのエキスパートを使っているのだから、香港・日本合作のこの作品が、その辺の手を抜き、役が老けていくにつれ、見ていて気恥ずかしい感じをさせられるのは、解せない。
◆冒頭の子供時代の描写は美しい。
(東宝東和本社9F試写室)


1998-10-05_2

●アルマゲドン(Armageddon/1998/Michael Bay)(マイケル・ベイ)

◆またしても爆発と破壊をCG技術に頼った「超大作」。ニューヨークやパリの破壊のシーンは、定型。米とロシアの宇宙船のドッキングのトラブルは余分。ばかげている。ロシアの技術への皮肉? 飽きる。大体、ブルース・ウィリスが出るものでいいもはない。CGシーンには、いいのもあるが、イマジカの「日本一」の試写室で見ると、音だけが派手で映像が逆に痩せて見える――これは、CGに頼った映像の特徴。
◆この作品は、地球の破滅や宇宙がテーマであるようでいて、その実、アメリカのポピュリズムの精神、チーム、連帯の精神のようなものを基底にしている。国家よりも仲間、アウトローの精神。ファミリーがどう組まれるか。I am with you.『ヒート』では、あっけなくデニーロに殺されてしまうウィリアム・フィシュナーが演じる軍人が対比的。彼は、国家の命に盲従しようとするが、ウィリスは、「ここまで来て中央の命令をきくのか」とウィリスは言う。そして、それが、地球を救うことになる。この場合、地球の危機なんかではなく、ロスのビル(『ダイハード』)の方がよかった。
◆リブ・タイラーはいい演技をしている。スティーブ・ブシェミーは、ウィリスを食う演技。
(イマジカ)



1998-10-05_1

●ワン・エイト・セブン(One Eight Seven/1997/Kevin Reynolds)(ケヴィン・レイノルズ)

◆ブルックリン・ブリッジの俯瞰。軽快に自転車を走らせる中年の黒人。マンハッタンに入り、高校の構内に乗り入れ、教室に入る。ニューヨーク・ウェイ。授業時間が迫っていたということもあったが、これには、魂胆があった。自転車を逆さにし、生徒に車輪を回させて、慣性の体験をさせようと計画していたのだ。それは、成功し、ふだんは言うことをかかないワルガキが感動してこの教師を尊敬の目で見る。しかし、この教育熱心な教師が、刺される。最悪の生徒を落第させたのを恨まれたのである。速いテンポで、この教師G=ガーフィールド(サミュエル・L・ジャクソン)の前歴を紹介するこのイントロの部分は見事。
◆15か月後、彼が、ロスの高校に代用教員として再就職するところからが物語の本番。ワルガキがなかなかいいつらがまえをしている。
◆白人女教師との出会い。「学生はお客さん(クライアント)」だといって抜本的な手を打たない校長。いまは金のためだけに教師をやっているジョン・ハード。彼って、ちょっとハーベイ・ケイテルに似てる。昔はツッパリだったが、いまは作家になろうちしている(しかし、ときどき売春まがいなこともやっている)女子生徒リタ。
◆物語は、クラスのなかのツッパリ・グループとの対立をめぐって進むが、この映画の基本に、キリスト教信仰がある。Gは、終始モラリシュである。映画の解説では、やっていないように書いてあるが、彼は、グループのリーダーを殺し、もう一人に注射器を付けた矢を射って眠らせ、指を切り取ったはず。それらは、「罰」なのだ。だから、最後は、彼が「殉教」する。
◆グループのワルの一人セイザーにロシア・ルレットを迫られた彼が、何べんもこめかみに引き金を引いても弾は出ないのにびびったセイザーは、「今度はお前の番だ。なんでお前はやらないのか、それでも男か」と挑発され、苦しげに本音をはくシーンがいい。
◆彼は、「男」としてかっこつけるしか生き方がないと苦しげに言う。すると、Gは、「おまえもマチズモの犠牲者なんだな」と言って、「じゃあ、おれが代わってやる」と、いきなり引き金を引く。
◆クリス・デュリダスのクラブDJ感覚の選曲がいい。
◆高校を荒廃させている理由の一つが、現代の過剰弁護士社会化であることもこの映画で示唆されている。教師は、生徒が盗みを働いたとしても、警察の許可なしにうかつにそのロッカーをチェックできない。教師が訴えられ、学校が賠償責任を負うケースが激増しているから。
(メディアボックス)



1998-10-02

●ぼくのバラ色の人生(Allez danser!/1997/Alain Berliner)(アラン・ベルリネール)

◆きわめて自然に女の子になりたいと思っている男の子リュドヴィックが、ごく自然にやることで周囲を混乱させる。別にゲイであることの権利をつっぱって主張するのではなく、ごく自然に、淡々とユーモラスに描いている。(生物学的に)男である子供が、女であろうとしたとき、いかに社会の常識といったもがもろいものであるかを、さらりと見せてくれる。
◆郊外の平均的な家庭のガーデンパーティの光景や、家族生活、近隣との関係が気ばらずに撮られている。リュドヴィックのことをわかってくれる祖母をのぞけば、特に個性の強い人間は出て来ない。
◆そのことも一因になって職を失った父親が復職し、別の町日に住むことになり、一家が引っ越すと、そこに男の子のような娘がいて、その子と親しくなるだろう暗示で映画は終わる。
◆タイトルのせいで、しばらく敬遠して見なかったのだが、意外におもしろかった。
(ギャガ試写室)



1998-09-29
●フェイス(Face/1997/Antinia Biord)(アントニア・バード)

◆表面は、街のギャングとその仲間たちの仁義/信義や裏切りの話だが、物語の根底にベルリンの壁崩壊後の政治状況を置いているのが通常のギャング映画と違う。
◆80年代に、活動家である母の影響でしばしばデモに出ていたレイ(ロバート・カーライル)の意識には、ギャングの仲間たちと何をやっていても、そのころのことがフラッシュバックする。母は、依然として活動を続けており、いまはクルド人差別の問題と戦闘っている。レイの恋人コニーも、母の仲間である。母からすれば、息子は「転向者」である。その母に、警官に追われたレイが、金と車を貸してくれと泣きつくシーンがある。
◆政治活動での連帯性・同志愛とギャングの仲間意識との違いが特に浮き彫りにされるわけではないが、〈仲間である〉ということは、根底において同じだという発想がこの作品の基底にある。
◆警官に追われる例の意識に、「労働者は負けない」と叫びながら警官隊に規制されるデモ隊の映像がよみがえる。
(メディアボックス)



1998-09-28

●Xファイル(The X-Files/1998/Rob Bowman)(ロブ・ボウマン)

◆前半は猛烈いいテンポ。連邦ビルの爆破は、現実の事件とダブっておもしろい。陰謀の奥深さが効果的。しかし、段々底が見えてきて、なんだという感じが出てくる。マーチン・ランドーの使い方がそのことを象徴している。
◆北極(?)の基地は、ちょっと『エイリアン』的。ダナ・スカーリーが一旦凍らされて、それにモルダーがずぶりとワクチンを注射すると息を吹き返すというのはあまりに無理な設定。しかし、その基地が爆発・陥没して、そこから巨大なUFOが飛び立つシーンは、意外性があって感動的。
◆ひと気のない場所(兵器になる蜜蜂を飼っている施設、あやしいタンクローリーを運ぶ貨車が走る広大な風景、一面雪と氷の北極ー?・・・)の描写はなかなかいい。
◆モールダーとスカーリーは、友達でも愛人でもない職業的「パートーナー」であることに意味がある(これは、テレビ・シリーズからの継続)。だから、ふたりは、唇を合わせるキスをしない。感極まってもキスの場所は額なのだ。だが、この作品では、その一線を越えそうになるところがある。が、唇を合わせそうになる瞬間に邪魔が入る。結局、瀕死のスカーリーを助けようとモルダーが口移しの人工呼吸をするシーンで基本路線を維持する。
◆今回、ロンドンに本拠を置く「謎の組織」のメンバーが顔を出すが、ちょっと出しすぎ。『Xファイル』シーリーズは、究極のところをつねにあいまいにしておくところがいいのだから、こういうやり方は、全体を浅薄にする。
(FOX試写室)



1998-09-22

●アウト・オブ・サイト(Out of Sight/1998/Steven Soderbergh)(スティーヴェン・ソダーバーグ)

◆『セックスと嘘とビデオテープ』や『カフカ 迷宮の悪夢』を作ったあのソダーバーグとは思えないテンポと内容。フラッシュバックのシーンにソダーバーグらしい凝りが見られるが、全般的にアクション映画の撮り方。
◆ジェニファー・ロペスがとにかくかっこいい。
◆クルーニーが地面に投げつけるネクタイ、もてあそんでいるライター、ロペスが父親からもらうピストルなどなど、小物にも凝っている。
◆刑務所内の雰囲気。
◆最初の方で、脱獄さわぎにまきこまれたロペスが、詰め込まれた車のトランクのなかでクルーニーと『ボニーとクライド』(俺たちに明日はない)や『コンドル』の話をするところが笑える――甘くしたタランティーノ感覚。
(UIP試写室)



1998-09-21

●従妹ベット(Cousin Bette/1998/Des McAnuff)(デス・マカナフ)
◆最近、『仮面の男』、『マスク・オブ・ゾロ』のようにヨーロッパをあつかったアメリカ映画がよく作られる。数の問題よりも、そういう志向があるということ。
◆ジェシカ・ラングはうまいが、もう1ランク上の演技を期待した。ジェラルディン・チャップリンは、最初の短いシーンながら、臨終の女(本当に痩せこけて)を迫力ある演技で差をつけている。
◆ナポレオン以降の「帝政貴族」も「由緒ある」貴族も没落しつつあった19世紀なかばの時代。ベットは、そのなかで階級の解体に手を貸している。ジェシカの醒めた目は悪くない。ただ、ここで描かれる階級には、たとえばヴィスコンティが描いたような奥行きや退廃がない。
◆衣装係(ジェシカ)も彫刻家(アデン・ヤング)も手仕事に関わっている点で他の有閑貴族とは違う。
◆この映画から、逆に、バルザックの世界を思う。はてしなく借金をし続けるヘクター家、高利貸の暗躍、新興事業家の台頭、爆発する民衆蜂起。ベットが仕組む人の関係、金の操作。原作を読み返したくなる。
◆最初は、かなり演劇的な気がした。
(FOX試写室)



1998-09-17_2

●ブギーナイツ(Boogie Nights/1997/Paul Thomas Anderson)(ポール・トーマス・アンダーソン)

◆70年代の”バンド”感覚がいい。バンド感覚とは、楽団のことではなく、ファミリーでも組織でもないつながりのことだ。80年代には、それは崩れた。それは、身体への執着があるから、この映画のようにポルノ映画の製作「ファミリー」(バンドの意)とそのスター(の舞い上がりと凋落)を主題にしているのは、実に70年代的である。「ファミリー」が、
◆音楽、ダンス、ファッション、役者の配置は、オタク的なDJ感覚で選ばれ、奥が深い。バート・レイノルズが演じる監督の家は、70年代的なフリースペースで、地面でセックスしているのを囲んでみたり、AIDS以前のフリーな感じがなつかしい。すぐやっちゃう時代。こういう時代が崩れていくプロセス、映画(話はポルノだとしても)が次第にビデオに食われていく時代の変化もリアリティがある。
◆選曲のうるささにもかかわらず、声がワンポイントマイクで採ったような感じなのはなぜか?最後にマーク・ヲールバークが、鏡の前で自慢のペニス(35センチとか)を出すところで終わるのだが、この需要なシーンでボカシがかかる。むろん、長さは見えない。日本には、70年代はなかったのである。
(ギャガ試写室)



1998-09-17_1

●ネネットとボニ(Nenette et Boni/1996/Claire Denis)(クレール・ドゥニ)

◆ アップの画面が多い。音と匂い/臭い--身体性への意識が強い。
◆車が店になっているピッツァ店でピッツァをこねるボニ(グレゴワール・コラン、非常に繊細な演技)の手と粉の動きはセクシー。これが、セックスや最後の赤ん坊の身体につながる。
◆父親のわからない子供を宿しているネネット(アリス・ウーリー)が産院の場面で出てくる超音波の装置の音と、ボニがもらったコーヒーメーカーの音が混合されて、使われ、シュール効果を出している。
◆パン屋のおかみ(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ダイアナに似ている)が、ボニの夢想ともとれるシーンで、人と人とを結びつけるのは化学物質だという。彼女は香水をつけず、体の匂いを大切にしているという(これは、ボニの好み--だから、彼の空想ともとれる--そうした位相の異なる映像が混じる)。自分の匂いが好きなボニ。
◆最初無関係に並行描写で紹介される兄と妹は近親相姦をにおわせる。最後に生まれる子供は彼の子でもいい。
(TCC)



1998-09-11

●モンタナの風に抱かれて(The Horse Whisperer/1998/Robert Redford)(ロバート・レッドフォード)

◆画面が美しい。力作である。受けること請け合い。アカデミー賞まちがいない。長さが気にならない。ゆるやかだが、そのなかで何かが変わっていく時間の必要にシンクロした時間の使い方。
◆安楽死への異議を馬を通じて示唆する。馬といっしょに安楽死させてと言う娘(スカーレット・ヨハンセン)。
◆馬を癒し、人間を癒す。「まじめ」で、メロっぽいところもあるのだが、おさえがきいている。モンタナの「自然」生活がかなり理想化されているし、こういう生活は、おそらく、映画のなかにしかないのだろうが、それが気にならない。
◆アニー(クリスティン・スコット・トーマス)が、娘と馬を連れてモンタナに行く途中、墓がある場所に立ち寄る。ここはどこか?
◆「ママに13才のときがあったの?」と皮肉を言う娘。
◆ドボルザークの協奏曲のLP
(ブエナビスタ試写室)



1998-09-08

●ミスター・フリーダム (Mister freedom/1968/William Klein)(ウィリアム・クライン)

◆最初のほうはけっこういいのだが、後半古さを否めない。低予算ということもあるだろう。キッチが活きていない。風刺はよくわかるが、わかりすぎるところが古い。68年にはあった毒がきかないのである。
◆最初の方の小型テレビの使い方(UNCLEをパロっている?)はうまい。パリに来るまではいい。パリに来てすぐフリーダムが家族で写真を撮っている日本人からカメラをひったくるシーン――あれは何か?
◆批判的に撮られているスーパーマーケットも、いまでは批判にならない。
◆後半でも、デモの映像を使ったところはいい。
◆イブモンタン(フォーミダブル)がいい笑いをする。
◆アメリカが、「働かざる者は食うべからず」で、自分が獲得したものを人に分け与えようとしないということ、自分が窮地に陥ると、相手を巻き添えにして、「これはおまえがさせたのだ」と賞して自滅する傾向――このへんを批判するのはあたっているが、インパクトがない。
◆つねに「アーメン」を言うミスター・フリーダムとキリスト教=アメリカ帝国主義という定式はある。
(徳間ホール)



1998-09-03

●キスト(Kissed/1996/Lynne Stopkewich)(リン・ストップケウィチ)

◆スタイルは語りの形式。子供のときは子供の声、成人してからはその声――とすると、その時間系列はどうなっているのか?
◆子供のときから死体(小動物)愛好がある、長じては人間の(特に男性の)死体愛好(ネクロフィリア)に深入りする女性を描くが、どこか信仰的な臭いがいして、鋭さに欠ける。あつかっている題材のわりに映像が平板なのだ。
◆たぶん、それは、視点の背景に強固なキリスト教的観点が隠されているからではないか?
◆少女時代と成長した時代のサンドラの顔が全然似ていないというのは問題。
◆死体が物体ではないことをくり返し強調するのはいい。その点で、葬儀屋の死体処理も、解剖学講義の解剖も、死体を物としてしか見ていないことにサンドラが異議を感じる。「気持ちわるくないよ。死んでいるんだから」という言い方。
(シネスウィッチ銀座2)



1998-08-25

●プライベート・ライアン(Private Ryan/1998/Steven Spielberg)(スティーブン・スピルバーグ)

◆戦争の「残酷さ」を描こうとしたというふれこみにしては、あまりに美しい。
◆セピアっぽい、コントラストを落としたヤヌス・カミンスキーの映像が目を引く。
◆オマハビーチの激戦は生々しくえがかれているが、わたしにhは、『フルメタル・ジャット』や『プラトーン』の方が、戦争の残酷さを生々しく、残酷に描いていたように思う。つまり、カミンスキーの映像のせいか、血に染まった海、手や足のちぎれた死体の散乱すら「美しい」のだ。
◆むろん、戦争の馬鹿らしさは、そもそも軍の政治的効果から4人兄弟の1人を戦死させないために8人の特命隊の命を危険にさらすということを平気でやる軍の決定に現われている。この戦いには、(ナチスへの憎しみは部分的に現われているにしても)虚しさしかないないはずだが、それでも、使命をなしとげたという点は「充実」感として描かれる。――だから、徹底的に虚しさだけを描いている点では前述の2作品の方が上だと思うのだ。
◆いいのは、老ライアンが家族とともにミラー大尉(トム・ハンクス)が葬られている軍人墓地を訪れるシーンだろう。最後に、若きライアン(マット・ディロン)を下方から仰観した映像が、現在の老ライアンの顔に溶複していくところ。(それにしても、この1、2年で老け役を作るマイキャップ技術は飛躍的に上がった)。彼は、最後に、「自分の人生は有意味だったのか?」と自問し、泣く。結論的には、虚しさが描かれているのだが、映画の出来が「うますぎる」。
◆狙撃兵ジャクソン2等兵を演じたバリー・ぺッパーは秀逸。
(日本劇場)



1998-08-21_2

●ムーラン(Mulan/1998/Barry cook, Tony Bancroft)(ハリー・クック、トニー・バンクロフト)9/26-
◆中国に関係があっても、中国を無視して描くのもありといういかにもハリウッドらしい映画。身ぶりも発想も、まるで、チャイニーズ・アメリカンの3世という感じ。
◆これだと、中国の女は、みんなチャイニーズ・アメリカンになったほうがいいという感じ。
◆口の動きはデリケートで、米粒を少しだけ箸にとって口に持って行くような描写でも、木目が細かい。しかし、『アナスタシア』ほどではない。
◆人物の表情がつり上がっている――中国人の目であるより、朝鮮人の目。
◆不思議な美しさと感動のあるシーン:ムーランが髪を刀でばっさり切るシーン、山を爆撃して雪崩を起させるシーン
◆明らかにエディ・マーフィーとわかる声が耳ざわり。そのドラゴンが出てくるあたりから、全体が、昔のディズニー節になってしまう。
(ブエナビスタ試写室)



1998-08-21_1

●地球は女で回ってる(Deconstructing Harry/1997/Woody Allen)(ウッディ・アレン)

◆アーニー・ロスのボーカル(伴奏はデイブ・ブルーベック?)をバックに、ジュディ・デイビスがタクシーを降り、怒りをあらわにした表情で門に向かうシーンが、最初のクレジットタイトルでくり返し現われる。
◆作家である主人公が「書けなくなった」ということと、彼が(セラピストに告白する)「現実の世界と想像の世界との区別がつかなくなった」ということとは同じ問題の二つのあらわれかた。
◆この映画では、アレンがfuckingを言う回数が多い。
◆タイトルの"deconstructing"は、流行の「脱構築」理論の概念を揶揄している。
◆ウイスキーを飲むシーンも、いままで多くはなかった。
◆前妻と子供のことで争うシーンに、"West End W92St"のサインが見える。
◆戸田奈津子の字幕で、言わずと知れたクリフォード・オデッツの戯曲のタイトル"Waiting for Lefty"がサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」になっていた。ベケットはオデッツをもじったのに、ナッチャンはオデッツを知らないのだろうか?
◆姉(キャロン・エアロン)は、いかにもという感じのジューイッシ・タイプ。彼女が、ハリーを批判して、「あんたなんか、cynicism, nihilism, sarcasm, and organismにしか関心がないでしょう」と言う。
◆技法的に面白いのは、ロビン・ウィリアムスの顔がボケてしまう(ヘンリーも、一時同じ症状を呈する)ところ。彼は、映画俳優で、最初は、撮影中に彼の顔だけがピンボケ(not focus)になってしまうという現象が起こる。これは、自我論的・表現論的に実に示唆的である。
◆映像のリアリティを第1の基準にすれば、「自分に自信がない」、「自我があいまいな」人物は、その顔がピンボケになる。
◆例によって「女とセックスすること」にしか関心のない男という基本設定。
◆映像が途中で飛ぶのが気になった(つなぎが変)。
(松竹第1試写室)



1998-08-20_2

●カフェ・ブダペスト(Bolshe Vita/1995/Lbolya Feket)(フェケテ・イボヤ)

◆寒々した港のシーン
◆89年の解放がいかに世界を変えたかをひしひしと感じさせる
◆ワジム(Vadim)を演じるIgor Chernievichのテーナ演奏はなかなかいい
◆ブタペストが交流点になり、そこに集まってくるロシア・イギリス・アメリカの若者を描く
◆ハンガリアにとってロシアは侵略者の記憶がある。89年になって、ロシア人は、ある種の難民としてブダペストに来たが、やがてロシア・マフィアも来る。
(大映第2試写室)



1998-08-20_1

●キャラクター 孤独な人の肖像(Karakter/1997/Mike van Diem)(マイケ・ファン・ディム)

◆父親の時代の終わりのための鎮魂歌
◆父親とは、自分を相手が殺したくなるような気持ちにさせながらも規律や決まりのモデルを示さなければならないのか?
◆ドレイブルハーブンは、市民に対しては法律の万人として「父」であり、父であることを拒否される女性の息子に対しては、自分を憎悪しきるほどの屈折したやりかたで「父」を演じる。
◆父は、息子に殺されるべき存在なのか?
◆「邪魔ばかりしてきたじゃないか」というヤコブに対して、「協力だったのだ」と言葉少なく語る。
(メイディアボックス)



1998-08-19

●TOKYO EYES(1998/Jean-Pierre Limosin ジャン=ピエール・リモザン)

◆東京という都市を「乱視」的な眼で見ているところがいい。それは、吉川と武田が親しくなりはじめぐらいのところまで続く。が、それでも、電車のなかや、朝の街頭(ゴミ回収車が来る)などのさりげないシーンは新鮮。
◆通行人、店員(本屋)やバスの運転手の対応、クラブの客の選別、「おれもゴミなんだ」といってゴミのそばに座っていてもそれを無視して機械的に行動するゴミ回収作業人の態度等々、いまの日本のイヤなところを切りとってはいるが、それがこの映画のメインではない。
◆もっと雰囲気的なものをとらえること。
◆若い男女のセックスに依存しない関係が生き生きと描かれている。
◆吉川が武田のやっていることを知っても、吉川には意識の変化がないのがいい。同様に、吉川の兄が刑事であることも実感がないのがいい。
◆吉川ひなのの発音:「タクシー」→「タクシ/スィ」(東北弁のなまりではなく、中国語の発音に近い)、「もしもし」→「もシ/スィもシ/スィ」、「まだ」→「ま/ムだ」
◆吉川が武田の部屋に来て、びっしり並んだLPのまえで、「音楽ないの?」と言うのは、傑作。彼女にとって、「音楽」とはCDなのだ(しかし、この設定は月並みではないか?)

◆吉川も武田真治も、(たぶん)脚本にない台詞をしゃべったときがいい。
◆ビートたけしの出演は意味がない。
(メディアボックス)



1998-08-18

●ワイルド・マン・ブルース(Wild Man Blues/1997/Barbara Kopple)(バーバラ・コップル)

◆ウッディの映画との距離のなさに驚く。ここには、閉所恐怖症で、バスルームに神経質で、あらゆることにナーバスになるウッディがいる。
◆その彼が、最後の演奏地のロンドンでは風邪をおして演奏しなければならなかった。
◆ヴェニスのゴンドラに乗っていても、心おだやかではない。
◆毎日、決まった薬を飲む。
◆両親も、みな、映画に出てきた「父」であり「母」である。ユダヤ系の典型でもある。
◆ウッディは語る、「映画作家は、自分の思春期を撮る」のだ、と。
◆ヴェニスでレストランに夕食をしにいくとき、1人のレポータが写真を撮ろうとすると、「いまはダメ」と言い、その男が去ると、スン・イーに、「あいつのfucking chingを殴ってやろうか」とつぶやく。彼の映画でfuckingが語られることはほとんどない。
◆クラリネットの演奏は、そんなにうまくはないが、ところどころ、彼は、わざと3枚目的な演奏をしているのではないかと思わせるところがある。
◆イタリアのトリノで、コンサートのスポンサーである電話会社の上役にうんざりする様、その会場の最前列におぎりで来ている人の感じがよく撮られている。
(松竹第一試写室)



1998-08-12

●気まぐれな狂気(Truth or Consequences N. M./1997/Kiefer Sutherland)(キーファー・サザーランド)

◆音楽と音の処理がへた。テンポはいい。
◆人がキレたり、狂ったりする瞬間の描写がいい。
◆ロッド・スタイガーの演技は、短いが、熱が入っている。これを「演劇的」というなかれ。しかし、キーファーが、最後にあまりにあっさりと殺されてしまうので、拍子抜けした。もっと、しぶとく生き残ってもよかったはず。
◆マーティン・シーンが、銃を撃ったことのない男に撃たれたときの表情(「まさか!」と言いそう)がうまかった。
(ソニー試写室)



1998-08-11

●エデンへの道(Der Weg nach Eden/Robert Adrian Pejo/1995)(ロバート・エイドリアン・ペヨ)

◆(明らかに)火葬の釜の中。炎が見える。ヴィデオドローム風の重くあやしい音楽。
◆解剖医ヤノーシュは、朝の4時半に出勤する――そういうことができるのはいいではないか。
◆葬儀に74288フォリント。
◆解剖された遺体は丁寧に縫い合わされるが、取りはずされた臓器は、めちゃめちゃに突っ込まれて戻される。
◆見事な魚さばき。
◆最後のシーン:解剖医ヤノーシュが骨壷をもって庭に現われる。中央の柱のような台のうえにそれを置く(止め付ける)。すぐにその回りに噴水がたちのぼる。そして、次の瞬間、骨壷から勢いよく骨粉が四方に噴射し、噴水の水にまじって庭に放射される。
(ユニジャパン)



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●愛を乞うひと(1998)(平山秀幸)

◆雨が降っており、足だけが映っている――こういう撮り方には、どこか大時代的なものを感じる(監督は1950年生まれだというのに、役者の演技もどこか、昔の伝統を引き継いでいる感じがするのはなぜ?)
◆(子供が孤児院の庭で紐をまたぐ遊びをしているが、そのときの歌が「小田原提灯ぶらさげて・・・」というのもパターン)
◆「文部省選定」というから警戒したが、その割りにはよかった。
◆舞台は、現代と、昭和29(1954)年から33、39(1964)年へ飛ぶのだが、ロケに若干問題がある。場所が西新井や三ノ輪のあたりだから、まだ時代がずれているとしても、ある面があまりに古すぎ(昭和20年代の感じ)、他方は、(これはミスだと思うが)新しすぎる(たとえば、中井と娘が雨のなかを――妻がなじり、泣く――家出していくシーンで、道の奥に高速道路らしいコンクリートの橋梁が見える。また、西新井の引き上げ寮から見える工事現場で、これは、60年代以降にしか使われなかったクレーン車が見える)。
◆新旧のテレビに映るCMがどちらも文明堂というのは、いかがなものか?
◆おもしろいのは、現代の原田が、娘を初めて殴り、そのあと、思わず笑みを浮かべてしまい娘に一層軽蔑されるシーン。これは、明らかに子供のとき、母から殴られたことが関係しているはずだが、それが、母の側の心理に同化した結果なのか、それとも、殴られて笑みを浮かべたことが投射されたのか・・・?
◆西新井の引き上げ者寮のシーンは、「昔、ああいう感じだったなあ」という気にさせるところはある。
◆原田と子供時代の娘(牛島ゆうき)が熱演。
(東宝本社8階試写室)



1998-08-10_1

●カンゾー先生(1998)(今村昌平)

◆カラーは、少し濃い目。音楽が60年代風だと思ったら、山下洋輔だった。
◆時代の変化をパノラマ風に見せる努力(軍の横暴、竹槍訓練、小者の日和見、細菌兵器実験、8月7日の原爆)をしているが、その必要はあるか?
◆柄本が走っているのがいい。(映画の基本は動き)
◆麻生久美子は、小型ながら、色気がある(最後に鯨に引かれて海中を進むとき、下着が脱げて下半身が見えるシーンはセクシー)
◆ただ、モルヒネに溺れている世良公則のキャラクターがややぶちこわし。唐十郎も、同じ。軍隊とのハデな撃ち合いは空想的。
◆柄本があれだけ動いているのだから、アクションはいらない。
(大映試写室)



1998-08-08

●おまえを喰いたい。(Deep Rising/Stephen Somers/1998)(スティーブン・ソマーズ)

◆予想したが、3流のホラー。しかし、画像は、けっこう細かく作っていた。問題は、出てくる人間が、あまり個性がないこと。テレビドラマ的個性。
◆海に浮かぶ「カジノ」の出し物に日本のタイコがあった。東シナ海という設定だからかもしれないが、この会場の雰囲気は無国籍風。
◆バケモノは、ダコがモデルのようだが、人を飲み込む口が新奇
◆飲み込まれて、顔が溶けて出てくるのは、『アナコンダ』のほうがリアル。
◆オスギとクロが来ていた。
(ヤクルトホール)



1998-08-06_2

●相続人(The Gingerbreadman/Robert Altman/1997)(ロバート・アルトマン)

◆高所からの俯瞰シーン。茶色の大地、少し緑がかった土地。人の気配はない。カメラがゆっくりと動いている。しばらくして、河が見え、橋が見える。1台赤い車が走っている。車のなかで電話をしているらしい声。いきなり、画面に空が映る(車のボンネットに映った空を撮っている)。
◆法律の専門家である弁護士が、法律にがいじがらみになりながら、別れた妻とのあいだの子供を養育するシーン。
◆ロバート・デュバルのまわりに集まっているホームレスたちは、なんの一団なのか?
◆デュバルとベレンジャーは、あまり活かされているとは思えない。
◆アルトマンにしては、批判的な「思想」がない。
◆映画が始まるまえに、イスの背中を一度でも(軽くであれ)蹴られたら、すぎにその席を変わるべし。さもないと、映画を見ているあいだ中、ひんぱんに背を蹴られることうけあい。
(ヤマハホール)



1998-08-06_1

●アイス・ストーム(The Ice Storm/Ann Lee/1997)(アン・リー)

◆映画は、(あとで出てくるシーン)トビー・マグガイアーが、グランドセントラルから乗った電車が嵐でストップし、その車中でコミック『Fantastic Four』を読んでいるシーンから始まる。
◆70年代を70年代のスタイルで撮ったこの映画は、あのころは、家庭の危機というやつがあったのだな、ということを思い出させる。いまや危機は、常態化したので。
◆時代は1973年のアップステイト・ニューヨーク。この時代のミドルクラスの2つの家庭のあいだで起こった出来事を、70年代後半から80年代初頭の映画がやったようなスタイルで描く。いまは、もう、こんなにまじめに家庭の崩壊を描かない。ある種の代案が制度化されてしまったからである。(法律がらみの規制のもとで別れた妻・夫の子供を世話する・・・)この映画では、まだ、夫婦はあっさりとは離婚しない。その代わり、子供が犠牲になる。
◆シガニー・ウィバーが『エイリアン』などとは全く違うキャラクターを好演している。ちょっと出るだけだが、セックスするときに表情がいい。
◆バリバリに凍った樹氷が風でゆれて固い音を立てるのが印象的。
◆キーパーティを主催する女は、『34丁目の奇跡』で怖い顔をして文句を言う客をやっていた女優。このキーパーティというのも50年代的。
(ギャガ試写室)



1998-08-04_2

●シークレット 嵐の夜に(A Thousand Acres/1997/Joselin Moorhouse)(ジョセリン・ムアハウス)

◆これぞ傑作。ジェシカ・ラング、ミッシェル・ファイファー、ジェイソン・ロバーツ、どれをとってもはまり役。なぜアカデミー賞を取らなかったのか。
◆最初は、絵に描いたような円満なファミリーに見えるのが、次第にくずれていく。その崩れ方がすごい。父が娘を犯していたこと(ただし、これは、次女の妄想かもしれない)、父の勝手な変心(これも、彼の老いから来る痴呆の一種ともとれる)、次女の夫の死、そして長女の脱出。
◆最初、まるで女権の拡張など無関係に生きている人々がいる話のようにみせかけて、最後は、女の自律でしめる。妥協の人生を送ってきたというタイプの女性が、最後にファーストフッドの店で働き、自律したとき、その変化が表情にたくみにあらわれている――ジェシカ・ラングのうまさ。
(ギャガ試写室)



1998-08-04_1

●フラッド(The Flood/Hard Rain/Mikael Solomon/1996-97)(ミカエル・ソロモン)

◆1級のサスペンス。
◆ダムの決壊を単なるスリル促進剤としてではなく、少し引いた感じで使っている。
◆浸水した建物にジェットスキーを乗り入れるというアイデアは新鮮。これは、車がビルに飛び込むことを映画にしたときと同じくらいの発明。今後、模倣が出るはず。
◆初め職務に実直そうな保安官が、最後には、一番ワルになってしまう(ワルだったのではない)という設定の意外性。
◆思考の余裕を与えないので、なぜモーガン・フリーマンが金を奪おうと決意したのかがはっきりしない。
◆保安官の方は、長年不遇な扱いを受けてきたことがあちこちで示唆される。
◆ことあるごとに聖書の言葉を引用するレイ(リッキー・ハリス)が、最後に、「種切だ」と言って、ブルース・スプリングスティーンの言葉を引用する。
(東宝東和本社9F試写室)



1998-08-03_2

●北京のふたり(Red Corner/John Avnet/1997)(ジョン・アブネット)

◆二人の間に生まれる愛をメロドラマ的に描かないのもいい。
◆この手のテーマだと、いかにも西欧の目から見た東洋(しかも、アジア的・非民主主義的・人権無視的・権威主義的な管理がつづいている体制)のステレオタイプのオンパレードになりかねないのに、これは、ぐっとおさえて、相当いいところにいっている。
◆古い中国の体質のなかでバイ・リンは、やや西欧っぽいが、この程度までは許せる。裁判で裁判長が英語をしゃべってしまうのも、おかしいが、許容範囲。
◆最初の方のシーンで、クラブに行くと、アメリカ的(というより日本的)なクラブがあり、そこで「YMCA」が鳴っている。これは、いまの中国への皮肉?
(UIP試写室)



1998-08-03_1

●ピガール(Pigalle/1995/Karim Dridi)(カリム・ドリディ)

◆最初のシーン:女が走っている。(なぜ?)アラブ系の子供と青年がひったくりをする。ストリート・ワイズの感覚がいい。だが、殺人事件がたびかさなるにつれ、少しすべてがお話っぽくなる。
◆街の男と女の屈折したやりとりや、倒れている者のポケットからものを盗む感じは生き生きと描かれる。
◆せむしの「帝王」の怖さは虚構的。
◆オカマの年老いたシャンソン歌手と若者とのやりとり。
◆ポルノ屋のオヤジや、名調子でアナウンスするポルノ屋の兄ちゃんなんか、なかなかいいのだが、ジャン・ギャバンの映画のようになってくると、いただけない。サスペンスっぽい部分を省略すると、いい映画。
◆最後に、女が自転車に乗り、アラブ系の子供と楽しそうに街を進んでいくシーンは、ちょっと唐突。
(TCC試写室)



1998-07-24

●ライブ・フレッシュ(Live Flesh/Carne Tremula/Pedro Almodovar/1997)(ペドロ・アルモドバル)

◆戒厳令下のマドリッドの街にひびく女の悲鳴――それは、売春宿の一室で陣痛に苦しむ女の声だった。女は女将に助けられてバス(車庫に行くのを強引に止めた)に乗ったが、破水し、そこで子供を生んでしまう。その親子に交通局は、永代パスを授与する。
◆イントロの映像は、庶民的な身体感を感じさせる。
◆それから20年後――戒厳令の記憶も薄れがちな時代――マドリッドの街頭には人があふれ、人々は自由にふるまう――から物語は始まる。
◆その青年ビクトルが、ディスコで知り合い、トイレのなかでセックスした女エレナが忘れられなくて、キスマークをつけた紙に書かれた番号に電話する。が、相手は、ただの遊びのつもりだった。マンションに強引にやってきたビクトルに女は冷たい。あげくのはては、ピストルを向け、もみあううちに、床に落ちたピストルが暴発する。
◆その瞬間、テレビでやっている映画(ブニュエルの『アルチバルト・デラクルスの犯罪的人生』)のモノクロ・シーンで女の首に弾が当るのが全面に映る。
◆銃声を聞いたという通報で2人の刑事――少しまえに、一方の刑事サンチョが妻クララの不倫で嫉妬深くなっており、アル中気味であることが描写される(映画の終わりの方で、その不倫の相手がいま不倫の悩みを話している同僚のダビドでることが明かされる)――がやってくる。もみあいになり、一人の刑事が撃たれる。
◆それから4年後――ビクトルが刑務所を出る――撃たれた刑事ダビドは半身不随になったが、いまではパラリンピックの選手――その妻はあのエレナである――母が残した家(体を売って建てた家――しかし、土地開発で周囲は「サラエボのよう」)に行き、墓参りをしたとき、偶然、エレナに再会する。彼女の父の葬儀があったのだ。
◆そこで出会った女は、クララで、ビクトルの家までやってくる。
◆全体が「運命」的な流れで展開するような気がする。
・ビクトルとエレナ→最後は結婚し、いっしょに孤児院を運営する
・エレナとダビド→結婚/離婚
・ダビドとクララ→映画ではその関係が明かされるだけ
・サンチョとクララ→夫婦/不倫/相討ち
・ダビドは孤立し、サンチョは死ぬ
(東宝本社試写室)



1998-07-23_2

●トゥルーマン・ショウ(Trueman Show/Peter Weir/1998)(ピータ・ウィアー)

◆すべてがヴァーチャルになる時代にふさわしい映画。
◆徹底したシュミレーション。もし、その人の人生がすべてヴァーチャルに構築(人生としては同じだが、その目的は観客に見られるため)されたものであるとしたらどうか――という設定。
◆圧巻は、最後の――決死の覚悟で海をヨットで渡ると、そこに見えた海岸線(映画の観客には本当の海のように見える)が、実はセットの仕切りであり、その向こう側には「普通」の世界がひろがっており、トゥルーマンは、そのドアを越えるのを逡巡するというシーン。彼がそのドアを越えるところで映画は終わる――彼のヴァーチャルでない人生はそこから始まる。
◆この映画は、完全に「虚構主義」を越えている。ヴァーチャリティが単なる虚構主義でも実用主義でもないということの適例を与える。
◆【追記】他誌にこの映画の批評を書いたので参照してください。 (丸の内ピカデリー1)



1998-07-23_1

●仮面の男(The Man in the Iron Mask/Randall Wallace/1997)(ランダル・ウォレス)

◆前半、エピソードを積み重ねているにすぎないような進み方だったが、じきによくなる。初監督としてはなかななのもの。
◆ディカプリオは、感じの悪い若者を演じるとき個性を発揮するということを証明した。ジョン・マルコヴィッチの目がいい。
◆ルイ14世が、その治世のなかで双子の兄弟とすりかえられたという設定がいい。だたぢ、そのすりかえの過程の描写はものたりない。もっとハラハラドキドキがほしかった。
◆ダルタニアン(ガブリエル・バーン)とルイ14世の母アンヌ王女(アンヌ・パリロー)との間に生まれたのがルイ14世であるという設定もおもしろい。
◆ディカプリオは、この分では、「大物」専門家でいくのだとうか?
◆この種の映画がハリウッドで生まれる背景には、アメリカの王室願望がないでもない。その点では、若干滑稽である。
◆この映画には、金や権力のためにギラギラした欲望を煮え立たせている人物は一人も出てこない。ルイ14世にしたところで、自分勝手なだけで、権勢欲があるようには見えない。
(UIP試写室)



1998-07-22

●スウィート・ヒアアフター(The Seet Hereafter/Atom Egoyan/1997)(アトム・エゴヤン)

◆複数の物語が同時に進行する:弁護士は娘の問題で悩んでいる(娘はドラッグに溺れ、あげくはAIDSにかかる)/コミュニティの複雑な人間関係/事故をめぐる経過/結論に至る意外なプロセス
◆人生が完結した単一の物語ではないように、この映画は、具体的な人生に近づく。
(配布ビデオ)



1998-07-21_2

●ダイヤルM(Dial M/Andrew Davis/1998)(アンドリュー・デイビス)

◆グウィネス・パルトロウ(ジョディ・フォスターに似ている)――最初はヒッチコック的なおとなしい「お嬢さん」的女性だが、最後は現代の強いアメリカ女になる。夫に殺されそうになってピストルで逆襲するときの強さが決めて。
◆マイケル・ダグラス――利己的で傲慢な男をたくみに演じるが、『ゲーム』とあまりに雰囲気が似過ぎている。
◆ヴィゴ・モーテンセン――まあまあ
◆デイビッド・スーシェ――最初から夫に疑いをもつ目つきがいい。彼がしゃべる母語は何語か?
◆テンポはいいが、ヒッチコック的な「怖さ」はない。
◆画家のロフトは、ブルックリンのグリーンポイントにあることになっている。
(ワーナー試写室)



1998-07-21_1

●犬、走る(1998)(崔洋一)

◆飯の食い方とセックスの仕方がへた。
◆岸谷五朗、大杉漣、冨樫真の3人の関係は、『突然炎のごとく』に似ていなくもない。
◆暴力がかなり鋭く描かれているのだが、幾分ワンパターン。
◆やりたいことをやる刑事のキュアラクターが、岸谷の「やさしい」性格を反映して、ふっきれない。その点、ヤクザの組長をやった遠藤憲一はいいが、十分活かされてはいない。こいつで1本撮ったらどうか。
◆日本人ー韓国人ー中国人との関係への崔の思いがあるのだろうが、それがよく見えない。
◆金以外に信じようとしない男のあいだに生まれる友情・愛情のようなものに関心があるのだろうが、そのセルフィッシネスがまだあの程度では甘いと思うのだ。
◆大杉が、ヤクザに追われて屋根から屋根に飛び移って逃げるシーンには、大杉の運動神経に驚いた。
◆サムルノリのラップが使われていた。
(東映第1試写室)



1998-07-17

●オースティン・パワーズ(Austine Powers:International Man of Mystery/Joy Roach/1997)(ジェイ・ローチ)

◆シャレていて、オタク向きのディテールがおもしろいが、もっとクレイジー、もっとナンセンスでよい。導入部の遊び(オースティン・パワーズがファンに追われる1960年代という設定のシーン)はひきつける。ここまで見て、思い出し、期待したのは、『ムトゥ 踊るマハラジャ』だったが、あれほどのエスカレーションは起こらなかった。
◆オースティンがよく口にする「シャガデリック」とはどういう意味か?
(松竹第1試写室)



1998-07-16

●リーサル・ウェポン4(Lethal Weapon 4/Richard Donner/)(リチャード・ドナー)

◆「子供時代の終わり」を象徴する映画。みんなガキ。アメリカで当っているのは、そのためか?
◆ファミリーがなぜかくも強調されているのか?
◆オーストラリアのメイトシップを思わせるのは偶然か?
◆敵もまたファミリーのために悪を働く。
◆テンポのよさは抜群。
◆悪魔的に強いジェット・リーに蹴られても、殴られても、死なないで済んだり、海中でコンクリートの塊に足をとられても、溺死しない非現実性は、無視しよう。これは、劇がなのだから。
◆中国から連れてこられたファミリーが、かくまわれたダニー・グローバーの家で毛沢東の生涯を映すテレビを見ているのは、何の暗示か?
(丸の内ピカデリー1)



1998-07-15

●河(1997)(ツアイ・ミンリャン[蔡明亮])

◆初めの女と青年の出会い、彼女が働いている映画撮影のシーン、ホテルでのラブシーンは不用。考えすぎれば、水死体の役を演じる青年は、最後にそういう運命をたどることを示唆しているのか? そして、淀んだ河が、全体のメタファーになっているのか? しかし、のちのシーンに再度出てくる階上から流れてくる水で十分に示唆されている。
◆途中で、観客は、彼女や彼らが家族であることに気づく。60がらみの男は、サウナで男と寝て、家に帰ってくると、一人でおかずを電気釜の上にのせ、温めて食べる。これだけ見ると、男は独身のように見える。
◆中年の女は、レストランで働いているが、電気釜のあるテーブルが置かれたアパートに帰ってきても、それが先の老人と同じ家であるようには見えない。
◆まして、息子が同じ家に済んでいるようにも見えない。だから、彼が、首の不調のなかでバイクに乗り、転んでしまったとき、すれちがった男が気にして戻るのだが、その時点でも二人が親子であるようには見えない。
◆アパートの天井から水が落ちるのは、メタフォリックに描かれている。上階から流れてくるのだが、ドアーをノックしても返事がない。(最後に、その水は階上の水道であることがわかる)(男は、空き地からトタンを拾ってきて、水を外に流す装置を作る――この辺が細かく、ユーモラス――息子をカイロプラティックに連れていった帰りに、電柱のところに立てかけておいたトタンをピックアップするとか、父が息子を射精させてトイレットペーパーで拭いてやるとか――)
◆サウナのようなゲイの密会所の廊下の雰囲気。
◆祈祷師、鍼、カイロプラティック等、一通り、治療の方法が見える。
(シネカノン)



1998-07-14_2

●マスク・オブ・ゾロ(The Mask of Zorro/Martin Cambell/1998)(マーティン・キャンベル)

◆アメリカ離れしているのは、剣のさばきがいいため?
◆楽しめる。カリフォルニアをアメリカからもスペインからも独立させてしまおうという野望のアイデアはおもしろい。
◆キャサリン・ゼタ=ジョーンズがなかなかいい。
(日劇)



1998-07-14_1

●ピンク・フラミンゴ(Pink Flaningos/John Waters/1972-1997)(ジョン・ウォーターズ)

◆26年もまえの作品がいまだにボカシ付きでしか上映できない日本の映画環境の遅れ。こっちが変わらなければ、政治も変わるまい。
◆佐藤重臣は無修正で公開したことがあるのに。
◆マーケットで肉を買って股の間にはさむとき、デバインの性器は見えたか?
◆レイモンドがマスターベートして、その精液を女の腟に注射器で注入するシーンは、佐藤重臣版では無修正で出ていたと思う。
◆犬の糞を食うシーンは、今回の方が鮮烈だった。
(ヘラルド試写室)



1998-07-10

●SAMURAI FICTION(1998)(中野裕之)

◆しゃれている。最後に「人の命の尊さ」みたいなことをマジでご宣託するところは、ちょっとダサいが、それをいれても、相当な傑作。
◆役者もみな普通でなく、ひとくせあっていい。運命のいたづらで次々に人を殺してしまうスゴ腕の浪人を演じる布袋寅泰がいい。山で暮らす浪人(風間杜夫)の娘を演じる緒川たまき)もチャーミング。
◆刀身がきらっとひらめくと、次にコンピュータグラフィックス処理をほどこされた映像が出てくるところのかっこよさ。
◆型にこだわっているように見せずに型を見せる。
◆日本ではないような殺風景の土地を使っている。
(メディアボックス)



1998-07-07_2

●アンドロメディア(1998)(三池崇史)

◆サイバースペースの設定はお粗末だが、若者たちの関係がすがすがしく(島袋寛子と原田健二がいい)、見終わって悪い気がしない。
◆しかし、なぜ、この手の話では、コンピュータに余分な「造作」が加えられるのだろう? コンピュータにとぐろを巻くケーブル・・・舞/アイが顔を現わすコンピュータは、PHSのようなものをごてごてくっつけたノートパソコン。毎度のことながら、話通りの人工知能が可能なほどの技術水準なら、コンピュータは、非常に簡素なものになるはず。
◆だが、それにもかかわらず、なぜ、島袋と原田とのやりとりが、(この手の作品にはありがちな)気恥ずかしさをおぼえずに見れるのだろうか?
◆舞の兄の存在(唐渡亮はなかなかいい)は、あまり意味がない。竹中とその一党もくだらない。
(松竹第1試写室)



1998-07-07_1

●BEAT(1998)(宮本亜門)

◆最初、衛星から見た地球といった映像が出る。それがアップになると主人公の目。ここまでは悪くない。
◆が、すぐにタバコを吸っていつシーンになって、ああ、これはダメだなと直観する。タバコから始まる映画でロクなものはない。
◆子供たちが「ワーい」といって走ってくるシーンは、テレビなんかによくあるが、いいかげんやめてもらいたい。
◆アサイドの使用と、やたら足を映すのが、少しおもしろい。
◆脱走兵が追われていて、そこに祭りの行列がかさなるシーンは、唯一、見ごたえがある。が、これも、馬をまつる祭りの衣装や踊りに負っている。[朝鮮語に似た沖縄放言]
◆アメリカ兵が、「親友が一番大事だ」と言う。親友をうらぎらないこと。
◆演技的には、飄々と三弦を引いていた「三弦じいさん」が一番よかった。
◆ベトナム戦争下の沖縄を舞台にする意味があったのだろうか?
◆『馬鹿が戦車でやってくる』に出てくるような役どころの(たぶん設定としては)知恵遅れの少年が出てくるが、これが、しばらくすると、「普通」の子になってしまう。
◆沖縄を正面からあつかう自信のなさが、流れ者の男(真木蔵人)という無責任な存在を主人公にさせたという宮本らしいオリコウな処理がイヤミ。
◆だいたい、60年代の沖縄だというのに、誰も小綺麗すぎる。
◆「先に帰ってシャワーでも浴びてろ」というタケシが言う場面があるが、この時代の沖縄では、シャワーはそんなにポピュラーまのもだったのだろうか?
(ブエナビスタ試写室)

1998-12-18

●スネーク・アイズ(Brian De Palma/1998)(ブライアン・デ・パルマ)

◆「13分間ノーカットの驚愕のオープニング・シーン」という表現がパンフレットにあるが、シネスコの横長画面を巧みに使っている:たとえば、被写体カラモニター画面への移動とか、カメラが動くのではなくて、人を動かすとか・・・。
◆アトランティック・シティのスタジアムとカジノ・ホテルにある(ということになっている)1500台の監視カメラ――このスペースにいる者は、カメラの目を逃れることは難しい。その効果的な使い方が、ウソっぽくないのがいい。
◆最後に安易な解決が出されるが、それまでは、すぐれた緊張感が続く。
◆ボクシングの試合シーンを音だけで表現し、ずっと観客側を写し、最後に回顧的にリング上を見せる憎い演出――いたるところにこのようなニクい演出がある。
◆「パレスチナ人のテロリスト」とくるから、またかと思っていると、それが意外な逆転のネタでしかない・・・とか。
◆ゲイリー・シニーズが出てくると、その冷ややかな顔から、「善人」のイメージは、うかばない。どうせそのうちバケの皮をはがすのだろう――といった予感がある。この予感を裏切るところまで行ってほしかったが、ここは平凡。
(松竹第1試写室)



1998-06-26

●悪魔を憐れむ歌(Fallen/1997/Gregory Hoblit)(グレゴリー・ホブリット)

◆もったいをつけているが、こけおどし。
◆何でもない人が、通りがかりの接触によって、「悪」が感染し、それが次々に感染して、殺人を犯すシーンは、おもしろい。
◆ジョン・ボブズ(デンゼル・ワシントン)自身も、その「悪」に感染するかもしれないという恐怖を感じるところもおもしろい。
◆しかし、父を同じようなプロセスで失った経験をもつグレタ(エンベス・ヂビッツ)――神学教授――の存在は、デンゼルの弟の息子を預かってもらうところで、立ち消えになり、中途半端もはなはだしい。
◆ローリング・ストーンズのTime is on my sideとの関係。
◆ドナルド・サザーランドが「悪魔」であってもよかったが、それも普通の死に方で終わる。グッドマンもこの映画では、活きていない。
◆そもそも、冒頭、ガス室で死刑になるリースの存在は、どういう意味をもつのか? 彼が、ボブズの手を握ったことの意味は不鮮明である。
◆ブレてにじんだような映像効果も、意味があるとは思えない。
(ワーナー試写室)



1998-06-22

●GODZILLA(Godzilla/1998)(ローランド・エメリッヒ)

◆ムロロア環礁でのフランスの核実験の結果DNAの変異が起こり、ゴジラが誕生したという設定は、なかなか批判的でいいと思っていたら、フランス政府の特使としてジャン・レノを配置し、そのアフタケアーをさせるなど、話がお利口すぎる。
◆いくつかのおもしろいテーマを設定しながら、そのどれにもいい顔をするので、結局、迫力の欠ける物語になってしまった。
◆1968年のムロロア環礁の核実験、チェルノブイリの事故、何かと言えば攻撃することしか知らない軍、再選のことだけを願う市長、人を抜け駆けすることばかりねらっているテレビ人、クロアッサンやコーヒーのことばかり気にしているのを強調してそのフランス人的背景を示そうとする安易な演出(これは、少し手厳しすぎるが)――こういう感じがやや感じられる。
◆ゴジラがニューヨークに現われるまではいいのだが。
◆最初、実にセコイ感じで描かれるテレビ人も、やがて、そうではなくなってしまう。
◆軍人も、ばかな破壊をくり返すが、最後は、をの健闘をたたえられるような描き方になっている。
◆*ニューヨークで略奪が起こったとき、ニュースのせりふに、「ワーナーやデズニーの店がやられている」という言葉が出てきた――これは、トライスターのワーナー、デズニーへの皮肉か?
◆誕生する小ゴジラの動きは、いかにもモーション・キャプチャーのシステムを使ったという感じが見え見え。その動きは、すでに『ジュラシックパーク』で見せられた。
◆ゴジラの全体が映るシーンでは、必ず雨が降っていたりするのは、画面合成の粗さをごまかすためか?
◆ゴジラを人格的に描かないことによって、それに振り回される人間や環境に焦点を当てられるという利点はあるが、なにかあまりにゴジラが抽象的になっている。
(日本劇場)



1998-06-17

●ムトウ 踊るマハラジャ(Muthu/1996)(K・S・ラヴィクマール)

◆とにかく、こんなおもしろい映画はない。なぜこんなにおもしろいのか、という言葉がふともれそう。
◆リズム、場面の転換の奇想天外さ。主演のラジニカート(往年の坂上弘に似ている)の発する独特のおかしさ。ミーナの美しさとセクシーさ。
◆音楽もダンスも、古さをおさえながらメチャ新しい。
◆西欧の大衆映画をパロったカメラワークもおかしい。
◆とにかく傑作。
◆会場での笑いや感動の動きが単一ではない。場内がどっと同質のエモーションでつつまれるのではなく、あちこちに異質のエモーションの波紋が拡がるのがおもしろい。
(シネマライズ)



1998-06-15

●不夜城(リー・チーガイ 李志毅)

◆歌舞伎町がこれほど異国的に撮られたことはなかった。リズムもいい。カメラはとにかくいい。
◆しかし、話と登場人物の素姓や背景の複雑さと屈折の割りに、金城武と山本未来が素直すぎる。彼らは、そうした屈折を表現していない。どちらもいい俳優ではある。背景の複雑さゆえの屈折した(ちょうどカバーニの『愛の嵐』的な)ラブロマンスなのだが、ただのラブロマンスになっている。
◆セックスの身ぶりが平板
◆金城は、ゲイ的なセックスの方が向いているかもしれない。
◆歌舞伎町(の映像)が、完全に中国勢に占拠されてしまった。まだ、歌舞伎町にどこにも、チャイナタウン然と提灯や垂れ幕が他を圧している一角はない。
◆「大久保2ー24」という表示が見えたが、それが実在の場所かどうかは不明。
(東映試写室)



1998-06-08

●雨上がりの駅で(Campagna de Via*?gio/1996)(ピーター・デル・モンテ)

◆それぞれに悩みを抱えて動いている
◆中心は、パンク少女(アーシア・アルジェント)と老教授(ミッシェル・ピコリ)。
◆いつもいらだっている少女。
◆何も悩んでいないように見えるピコリ。
◆こちらには、彼が、昔の思いでの場所へ行きたがっているようにみえるが、実際のアtルツハイマー症の老人がそうであるように、どこへのたどり着かない。
◆わかっているのか、わかったいないのか、最後に二人が微笑みあう――たぶん、これが、人々が憎悪や愛を越えてつきあうことにできる領域なのかもしれない。
◆信じようとしるから裏切られる。老人は、すべてを信じるしかないとう状況のなかにいる。誰かが「お久しぶり!」と近づいてくる。が、思い出せない。だから、とりあえず、抱き合っておく。でも、それによって、二人は仕合わせでいられる。
◆決して結論のないエピソードの積み重ねという形式で出来ているこの映画。
◆ミッシェル・ピコリが、誰かに明確な自己意識をもって語りかけるということがなく、もっぱら外部者の目からえがかれているのが、アルツハイマー症の実感を強くさせる。
(シネカノン試写室)



1998-06-05

●ディープ・インパクト(Deep Impact/1998)(ミミ・レダー)

◆[客が多かったので、整理番号を配った]
◆導入部がうまい。
◆ハイスクールの生徒たちが惑星を望遠鏡でのぞいているシーン。一人の少年(?)が、名称不明の惑星を発見し、その画像が天文学者のもとに届けられる。
◆天文台でチャールズ・マーティン・スミスがピザをほおばりながら、その写真を見、「ウ?!」となって、あわててコンピュータでチェックする。現われた軌道は・・・?データをフロッピー(At&Tの青いラベルが見える)にセイブして、車に乗り込む博士。が、途中の道路でブレーキの故障した大型の運搬車とぶつかって、谷へ落下した車は爆発。ここまでが導入部。
◆一転して、別の話のうように、テレビ局のシーンになる。「エリー」という名が大統領執務室で密かに大きな問題になっているらしい情報。それは、大統領の愛人の名ではないか。しかし、「エリー」問題で内閣秘書官が身代わりに辞任したのではないかと疑いだしたレポータのティア・レオーニは、彼の家を訪れた直後、FBIに拘束される。そして、その場所に大統領が現われ、この「問題」(FBI側は彼女が真相をつかんでいると錯覚した)の報道を2日待てと告げる。
◆混乱したディアは、局にもどり、コンピュータで「ELE」を検索する。そして、最後に「E.L.E.」と入力したとたに、モニター画面に「Extinction Level Event」という文字を見出す。
◆惑星上で太陽光線が射し、地面が「地雷の畑」のようになる瞬間の映像
◆惑星が地球に衝突し、マンハッタンに大津波が押し寄せるシーン
◆地球の終末に際して、人々がどうするかについての描写はやや弱いが、それを、ティア/ヴァネッサ・レッドグレーブ/マキシミリアン・シェル親子のやり取りに焦点をあてることで回避する。
◆・米国大統領(モーガン・フリーマン)の腕にイレズミ。なぜ?
(UIP試写室)



1998-06-04

●TAXI(Taxi/1997)(ジェラール・ピレス)

◆リュック・ベッソンが、ずいぶん昔のセンスを取り戻したな、と思ったら、それは、誤りで、彼はの製作を担当しているのであった。もう、自分で作らないほうがいいようだ。
◆車の使い方がいい。カーチェイスものにはウンザリしているが、これなら見れる。ピザ屋で働いて金をため、プジョーの改造車を作らせてタクシー業を開く。無理な注文でもこなして、目的地にぶっとばすところが笑える。ワイルドないっぐりあたま。他方、警察官らしからぬ、マザコンのフレデリック・ディーファンタルがいる。これもいい。女「ジャン・レノ」といった雰囲気のエマ・シェーベルイもいい。
(朝日ホール)



1998-06-03

●スクリーム2(Scream 2/1997)(ウェス・クレイヴン)

◆安手の感じもするが、とにかく台詞がしゃれている。既存映画へのおちょくりも多い。
◆ハイスクール・カルチャーというか、ある系列に属する。
◆映画研究のクラスが出てきた。
◆まえの「スクリーム」を見ていると、笑えるところが多い。
(朝日ホール)



1998-06-02

●真夜中のサバナ(Midnight in the Garden of Good and Evil/1997)(クリント・イーストウッド)

◆いい役者をそろえながら、イーストウッドらしからぬ退屈な演出。サバナの夜がけだるく謎めいているといっても、退屈とは無縁のはず。
◆ゲイのテーマは、イーストウッドには無理。
◆犬の首輪だけを散歩させている男にしても、アブ(解説にはハエとある)に糸をつけてかっている(つねに毒薬の瓶をもちあるいている)男とかが出てくるが、全然クレイジーな感じがしない。
◆後半の裁判シーンも月並み
◆ケビン・スペイシーもジョン・キューザックも、シャブリ・ドゥボーも、ブードゥーのホームレス、アーマ・P・ホールも、みんないい。
◆外でスピシーとは違う庶民的なパーティをやっている男の存在がわからない
◆花屋の女とキューザックとの関係も意味がない
(ワーナー試写室)



1998-06-01

●ザ・ブレイク(The Break/1996)(ロバート・ドーンヘルム)

◆刑務所で、最初から、別格あつかいの感じで姿を現わすスティーブン・レイの放つ独特雰囲気はいい。
◆銃や道具の操作は、みな、具体性がある。
◆アクションもうまく撮っている
◆アイルランド時代の恋人がなかなか強い印象を残すので、ニューヨークに来て、別の女を愛してしまい、それっきりになると、気になる。
◆IRAがガテマラ解放戦線(?)と連帯してしまうところもおもしろい。
(メディアボックス試写室ー旧シネセゾン)



1998-05-29_2

●ビッグ・リボウスキ(The Big Lebowski/1998)(ジョエル・コーエン)

◆湾岸戦争のときに、つかのま生き返った60年代のヴェトナム「反体制」世代の話
◆「反体制」や「ニューレフト」の世代が、オジンになり、世の中のお荷物になっている状況のアイロニーが随所にただよう。
◆湾岸戦争の時代に引っかけたのは、この時代に、わずかに、この世代は生きがえったからである。
◆ジェッフ・ブリッジスのレイジーなスタイルは、まさに60年代のカリフォルニア・カルチャーである。
◆ジョン・グッドマンがカソリックからユダヤ教に回収したアクの強いキャラクターを作っている。サバト(土曜)には、仕事をしない。
◆不思議なユーモアをもった映画
◆どいつもこいつも変わっている。
◆盗まれた車のなかに残されていた試験解答の持ち主の高校生は、一体、どういう意味があるのか? 車の金を使ってスポーツカーを買ってしまったのだと錯覚し、ジョン・グッドマンがそのスポーツカーをぶち壊すと、それはよその人間のもので・・・
◆少年の親は、有名な脚本家ということになっているが、人工呼吸装置のなかでやっと生きている。
◆ボーリングの競争相手はアラブ人か? 湾岸戦争に引っかけていいる?
◆ボーリングとセックスの暗喩。
(徳間ホール)



1998-05-29_1

●アンラッキー・モンキー(サブ)

◆最初の10分間の導入部は見事。しかし、後半(工場廃水の問題で工場側を責め立てる会のあたりから)そのいい感じが薄れていく。
◆台詞をわざと棒読み調にしているのか? 間接話法?
◆冒頭、車のなかで堤真一がしゃべっていて、相手はいねむりしているというシーンがある。
◆偶然の異常さの利用:刃物を持って逃げている堤が、路地から出会いがしらに、ウォークマンを機器ながら歩いてきた女とぶつかり、刃物を腹に刺してしまう。
◆ボストンバックを開らくと、紙幣の束が見える。このとき「菊川」という表札が見える――なぜ? [ここまでの10分間が導入部]
◆大杉漣が、(ここでも棒読み調で喋り)清水宏・山本亨・鈴木一功の「村田組」へ大きな話をもってきて、では、一杯のんでというわけで、ビールを清水がつごうとすると、ビンが割れ、それで大杉が頭を割られて死んでしまう。
◆ラーメン屋で銀行強盗のニュースと路地裏での殺人事件が報じられているが、それを見ていると、ラーメン屋のオヤジがスウィッチを切ってしまう。
◆逃げていて堤が、公害源の工場側と住民との交渉の集まりにまぎれこみ、最後には、一席ぶって受けてしまうシーン――たしかに、こういう場でのやりとり、社会派の反応の仕方、工場側の対応、ばパロディ化されてはいるが、このシーンが後半の質の低下の境目になる。
◆激突のあと、両者がわきあいあいと酒を飲んで、愚痴を言い合っている構図
◆商店街で麿赤児と出会う堤が、モノローグし、それがエスカレートしていくが、すれちがっても、何も起こらない。
◆意外性の利用という点では、この映画は、最初から、間の悪さをテーマにしており、銀行強盗にはいろうとしたら、同じ目出し帽をかぶった別の強盗がおり、そいつが車にはねられる。
◆最後に、一度地面に埋められた大杉が地面から出てきて、ピストルを乱射する――ファンタジー的なシーンは、ほかにもあるが、これは、どうもいただけない。
◆警察に自首しようとして署のまえに行くと、捕まった大杉が手に現金の入ったバッグを持ってパトカーから下りてくる。
◆殺してしまった吉野公佳の姿がくり返し出てくるのは、冗長すぎる。
◆一番最後:自殺しようとして、交通の激しい道路を(ほとんど目をつぶるようにして)渡るが、車には轢かれない。
(松竹第1試写室)



1998-05-26

●普通じゃない(A Life Less Ordinary/1997)(ダニー・ボイル)

◆全然「普通」の映画。
◆舞台はアメリカということになっており、アメリカらしさを出そうとしているが、全然そんな感じがしないのが、「普通」ではない。
◆ロマンティックなことを好んだり、銃に頼ったり、バーの庶民性等々、「アメリカ的なもの」をならべるが、それを(イギリス的な目から)揶揄(たとえば『ビーン』がそうであったように)するのでもなく、平板になぞっている。
◆キャメロン・ディアスは、非常に魅力的な女優だが、アメリカの富豪の娘という役には向かない。それと、ダニー・ボイルは、アメリカの富豪の雰囲気をとらえそこなっている。
◆ユアン・マクレガーは、最後にスコットランドの正装で出てくる。本編が終わってから出てくるアニメでは、イギリスに住むことになっている。
◆イアン・ホルムは、アメリカ的なキャラクターを出せる役者ではない。
◆天国から使わされるホーリー・ハンターとデルロイ・リンドーの2人組のドタバタは、なるほどアメリカ的だが、怪我の仕方なんかはイギリス的。
(フォックス試写室)



1998-05-19_2

●アサシンズ(Assasin/1997)(マチュー・ガソヴィッツ)

◆世代の断絶、老い、死、青少年と暴力/メディアの問題が投入されていることはわかる。
◆前半の3分の2とその後とが分裂している。
◆マックスはヴァグネルに殺されてしまい、少年メディが前面に出てくる。これだったら、最初からメディとヴァグネルに焦点を当てた方がよかったのではないか?
◆セックスと血・暴力ばかりをばかばかしく流しつづけるテレビ。
◆規則づくめの学校。
◆25歳のマックスようりも、13歳のメディの方が暗殺者に向いていたということになるが、これは、単に暗殺者の話ではない。老いて、昔通りににはいかないヴァグネル。家族も身寄りもない老人の死とは?
◆ガソヴィッツ自身は出る必要はなかったのでは?
◆ミッシェル・セローはうまい。
(シネマ・カリテ1)



1998-05-19_1

●ウェルカム・トゥ・サラエボ(Welcome to Sarajevo/1997)(マイケル・ウィンターボトム)

◆『パーフェクト・サークル』の場合は、路上で狙撃されることの不条理ばかりが印象に残ったが、この映画では、モズレム+クロアチア対セルビアの関係が少しわかる。むろん、セルビアの残忍な民族浄化政策が批判的に描かれる。
◆最初の方で、路上で狙撃された民間人を助けずに、ヴィデオを撮り続けるジャーナリズムが批判的にとらえられているようにみえる瞬間がある。(これは、記者がクロアチア人の子供をイギリスに脱出させることによって埋め合わされるらしい)。
◆国外に子供たちを脱出させようとするバスた止められて、「・・・チ」という語尾の名の子供が兵士によって連れだされるシーンは、怖い。
◆最後のシーンは、戦火のなかにもかかあらず、丘の上で行われるチェロのコンサートシーン。曲は、アルヴィノーニのもの。
◆自室にもどってきて、急に撃たれるシーンがよくわからなかった。
(ヘラルド試写室)



1998-05-18

●ボディ・カウント/ヤバい奴ら(Body Count/1996)(ロバート・パットン=スプルイル)

◆文字通りピカッとなってハレーションを起こすような間合いで過去に遡及する技法はうまい。
◆作中の「重要」人物をあっさり死なせる。フォレスト・ウィテカーなどは、最初の段階で撃ち殺されてしまう。卑劣なキャラクターの表現にかけては定評のあるジョン・レグイザモ、覚めたヂヴィッド・カルーソ、食えない感じの女を映じるリンダ・フィオレンティーノもいい。
◆美術館で奴等に捕まった警備係が、頭から袋をかぶせられながらしゃべる理屈ぽい話がおもしろい。
◆車がエンコして助けを待っていた女が、最初は、気弱な感じだが、段々、そうではなくなる。しかし、この女が最後まで生き延びると思わせて、そうではないところがにくい。
◆みんな自分のことしか考えないで死んでいく。
(ユニジャパン試写室)



1998-05-15

●ダロウェイ夫人(Mrs. Dalloway/1997)(マルレーン・ゴリス)

◆パーティのシーン(着飾ってキザなおしゃべりをするパーティを開いて、はたして期待した有名人が来てくれるかを心配し、来たは来たで、自分のスノビズムにうんざりしてしまう屈折・・・)といったあたりがいいだけで、「内的独白」をただなぞっただけの映像は凡庸。
◆なんでこういう映画だと、普段映画を見ていないようなやつで試写室がいっぱいになるのだろうか? そういう人は、必ずといっていくらいの割りあいで椅子の背を蹴るのだ。落ち着いて映画が見れない。
(ヘラルド試写室)



1998-05-11

●アナスタシア(Anastasia/1997)(ドン・ブルース)

◆明らかに「リアルタイム・アニメーション」を作っている。キャラクターの口の動きは、単一の「口パク」ではなくて、生身の口と同じ動きをする。その画像は、デジタル処理でどのようにでも変えられので、役者の生身は単なる素材となる。これだと、さまざまな身ぶりや動作をライブラリーに保存しておけば、将来的に役者なしの映画が可能であるという方向の始まりを意味する。
◆クレジットの最後の方に、Silicon Graphicsの文字があった。
(よみうりホール)



1998-05-08

●アサインメント(The Assigment/1997)(クチスチャン・デュゲイ)

◆カルロスというテロリストの活動よりも、それを押さえようとするCIAのテロ対策部員ジャック・ショウ(ダーナルド・サザーランド)とモサドの諜報部員(ベン・キングスレー)、そして、彼らに見出され調教されるカルロスにうり二つの男アニバル(アイダン・クイン)の関係と活動が中心。
◆カルロスの残忍さとしたたかさを短く、かつ鋭く描き、あとは、ジャックとアニバルの関係に重点を置く。
◆トレーニングを受け、カルロスになりきる内に、人格が変わってきて、妻や子供のもとに帰っても、もはやもとの自分にもどれなくなるところがおもしろい。
◆アニバルが逃げるカルロスを追って水に飛び込み、それを知らずにジャックが水から出てきた男を撃つと、それがアニバルであるというシーン(「暑いな」という合言葉に反応したのでアニバルだと気づく)。驚いて、負傷したアニバルを車に移すサザーランド。次のシーンでは、自宅にもどったアニバルが妻と子供と教会に行くために車に乗り、その車が爆発する。葬儀のシーンに続く最後のシーンでは、南欧の海岸に近い感じの家に郵便屋が封書を届けてくる。カルロスが現われ、手紙を受け取り、開く。その背後にちらりと妻と子供の姿が見えるが、それが、アニバルの妻と子供に似ているように思えた。封筒のなかには、アニバルの死を報じる切り抜きと、「ジャック」という署名の走り書きがある。
◆果たして、この人物はカルロスなのか、それとも(ジャックが逃がした)アニバルなのか?――なら、車の爆発は?
◆サザーランドが、『コンドル』で殺し屋を演じたマックス・フォン・シドーに迫る渋さを演じている。
(ソニー試写室)



1998-05-05

●ダイヤル ヒ・ス・ト・リ・ー(dial H-I-S-T-O-R-Y/1997/Johan Grimonprez)(ヨハン・グリモンプレ)

◆イメージフォーラム・フェスティヴァル Program O
◆死への考察が色濃い作品。テレビ映像や(警察側の)映像、衛星中継のハック映像などを巧みに編集。
◆小説家とテロリストとが補完関係にあるというテーゼ。小説が衰退するからテロが活気づく。逆に言えば、小説的想像力の展開は、テロ防止政策よりも有力なのかもしれない。
◆最後のシーンでクリントンとエリツェンが出てきて、クリントンが抑え切れない笑いをする。2人は何を話していたのか?
(パークタワーホール)

【追記 2003-10-29】
◆ヨハン・グリモンプレが来日し、東京ではイメージフォーラム、大阪ではremoがそれぞれイヴェントを組んだ。わたしは、両者に招かれ、後者では作家とのトーク、前者では短いレクチャーをした。後者は、わたしがグリモンプレ氏から話を引き出す役割に徹した。以下は、前者でしゃべった話の要旨である。
◆この映画(ビデオで処理されているし、現在、DVDで配布されているが、本人は自作を「フィルム」と言う)は、ハイジャックという概念の変化を描いてもいる。最初にテレビに報道された1960年代のスカイ・ハイジャックに対する、ハイジャックされた飛行機の乗客も、それを知った人々も、まだある種のユーモアを感じていた。それは、次第に失われて行き、9.11(むろんこの映像は出てこない)以後は、「ハイジャック」は、論外の極限的な犯罪行為とみなされるうようになった。本来、「ハイジャック」は、それが、政治活動の方法になったときでも、抑圧された「弱者」が、圧倒的な力を持った組織や国家の権力に対抗する方法であった。マスメディアの技術/弾圧技術/ハイジャック対策の強化とともに「ユーモア」は失われて行った。
◆グリモンプレは、想像力、パラノイア装置という観点からハイジャックをとらえる。彼は、ドン・デリーロ(『マオ II』)にならって、「小説家の社会的な役割は、爆弾製造者や狙撃者にとってかわられている」と言う。この場合、「小説家の社会的な役割」とは、ある種の「パラノイア装置」である。小説もハイジャックも一つの出来事を作る。そして、その出来事は、現代では、小説もハイジャックも、ともにマスメディアを媒介にして社会化される。その結果、出来事そのもののなかに潜在する「複数多様性」(multitude/multipricity)が、「レディメイド性」(万人共通の均質性)に萎縮していく。本来かぎりなく解放されてしかるべき「欲望の流れ」が、個々人の「意識/無意識」のなかに閉じ込められ、集団パラノイアになっていく。こうして、出来事は、今日で言う「イヴェント」や「スペクタクル」になっていく。
◆グリモンプレ自身がこういう言い方をしているわけではなく、わたしが言っているのであるが、発想的には、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリがくりかえし言ってきたことと重なる。ジル・ドゥルーズは、こう言っている――「わたしたちのひとりひとりが言い表したことを生産するのは、主体としてのわたしたちではなく、複数性であり、群れであり、人民であり、民族である。わたしたちを通過していくagencement collectifである。」(ジル・ドゥルーズ「精神分析に対する5つの提案」)「複数性」を持った「欲望の流れ」つまりagencement collectifは、「レディメイド性」(万人共通の均質性)に萎縮し、「わたくし」、個々人の「意識/無意識」のなかに閉じ込められ、制度としての精神分析の対象なる。
◆個人的行為としての、初期のスカイ・ハイジャックには、こうした「複数性」への方向と、スペクタクルへの飛躍とのあいだのゆらぎが存在し、それが、「ユーモア」を生んだ。そういう揺れが、初期のスカイ・ハイジャックにはあったが、それが、極度に組織された「スペクタクル」になっていく。9.11はその行き着いたものである。ここでは、「テロ」も、「国家テロリズム」として、国家事業になっていく。
◆グリモンプレは、テレビメディアの「均質性」を認める一方で、その逆説を信じている。送る側にとっては均質的であっても、受け取る側にとっては多様である。それを実証したのがこの『dial H-I-S-T-O-R-Y』である。
◆均質的なテレビを複数・多様化する方法として、ザッピングが選ばれた。zapには、やっつける、早送りする、「テレビを見ながらリモコンでコマーシャルを飛ばす」、バッシッという音、などの意味があるが、ここでは、グリモンプレが、テレビのニュース映像、ドキュメンタリー、ドラマ映像、CM、アニメーションの映像等々を再構築・編成する方法を指す。
◆この映画は、タイトルがすばらしい。そのタイトルがすべてを語っているからである。「HISTORY」が「H-I-S-T-O-R-Y」と表記されているのは、「歴史」もザップされるべきだという含意がある。逆に言えば、歴史は、権力者による「事件」史であり、それは、ザップされることによって、その実相が見えてくるということだ。dial history→歴史のダイヤルをプッシュする(プッシュダイヤル)→歴史はすでにバラバラになっており、組み合わせることによってしか形をなさない。なお、zappingという技法は、その言葉は使われてはいないとしても、すでにシテュアシオニスト(ギィ・ドヴォール『スペクタクルの社会』)が採用している。
◆こうしたザッピングは、ネットサーフィンにおいて、インターネットにおいてあたりまえになるが、この映画は、ゴダールが映画でビデオを先取りしたように、映画でインターネットを先取りしているようなところがある。
◆グリモンプレは、大阪のremoでのわたしの質問(「なぜハイジャックに関心を持ったのか?」)に応えて、「世の中に訴えたいことがありながら、その方法がなかなか手に入らないフラストテーションが自分とハイジャッカーと似ていたからだろう」と言った。それで思い出したが、この作品は、最初、ゲリラ的なやり方で公開された。わたしは、1998年5月、イメージフォーラム・フェスティヴァルで上映したものを見た。当時、この作品は、最初、「不法」は、版権問題がクリアーされていなかった→コピーライトへのチャレンジでもあった。しかし、現在はちがう。個々の既成映像は、すべて版権をクリアーし、合法的な作品になっている。彼は、「アンティ・コピーライト」のアクティヴィズムは捨てたのか? 彼は、「多くの人の目に触れることがいい」と言う。一般のテレビで放映された映像や大手の新聞の記事は、パブリック・ドメインであるというわたしの発想からすると、彼の現在の考えは、一歩後退ではないか? 彼は、パイラシー/海賊行為、「ゲリラ的な戦略」、「オールタナティブ」といった発想を捨てたのか? と同時に、ローカルであると同時にグローバルであるインターネットが普及し、従来型のマスメディアは確実に終わりつつある現在、パイラシーやゲリラ等々の発想自体が有効性を失っているのか?



1998-05-04

●イメージフォーラム・フェスティヴァル Program A(鈴木志郎康他)
(1)万城目 純『AKB-DELUX』
(2)瀬戸真理子『S/[Non-S]の死因』
(3)Visual Brains『De-Sign 9 (Scale)』
(4)寺嶋真理『椿姫』
(5)鈴木志郎康『芽立ち』
◆鈴木さんの作品を除いて、身体への執着が強い作品ばかりだった。
◆(1)は、手回しのランダムな速度で祭りの踊りを撮っている。
◆(2)は、開かれた脚の間からドロドロした白い流体(ときどき臓物のようなものが混じる)を取り出したり、その脚の表面(ストッキング)を切ったり、キューピー人形を愛撫したり、(父親によるレイプ?)
◆(3)は、妊産婦の腹に超音波センサーを当てて、内部をスキャンした映像を使っている。手際はいいが、スタイルが型(VBスタイル)にはまっている。
◆(4)ゲイのテーマもあって、おもしろかった。足の不自由な男が鍼灸院に行って見る夢の形をとる。母親のおもかげの女性に似た女装のゲイボーイ(「椿姫」の役を演じる)が、車椅子を補助する青年と戯れる。
◆(5)は、例によって、日記形式。上映後のスピーチで、鈴木氏が、「音が眼差しである」という指摘をしたのはおもしろい。
◆庭に咲く草花の「芽」と若いアーティストとをひっかけている。
◆もし、「音が眼差し」だとしたら、無声映画は、眼差しを外部(観客)に引き出している点で、内部に眼差しを持つ近代的な映像とは根本的に異なるし、それよりももっと自由の映像であるかもしれない。
(パークタワーホール)



1998-04-28

●コレクター(Kiss the Girls/1997)(ゲイリー・フレダー)

◆最初、誘拐犯とおぼしき人物のナレーションから始まるが、なぜそういう始まりをするのかよくわからない。
◆ひとつ一つのシーンは強烈だが、見終わって記憶をたどろうとすると、よく覚えていない魔術性がある。これは、意図的というより、ある種の「未熟さ」のためだとろうが、それが、逆にこの作品をユニークにしている。
◆とにかくアシュレイ・ジャッドの魅力が全開。『ヒート』で見せた才能は偶然ではなかった。
◆地下室や秘密の部屋、ノース・カロライナの森、西海岸の人里離れた家・・・といった空間設定がうまい。人よりも空間のスリラー。
◆最後の犯人がガスを部屋に充満させてライターを点火すると威嚇するシーンも、犯人のキャラクターの怖さよりも空間の怖さである。しかし、このとき、ガスはそのまま流れ続けたのだとしたら、そのままモーガン・フリーマンらが話続けていたのはなぜなのか? このとき、モーガンは、ミルクの紙パックごしにピストルを発射して犯人を倒すが、これは、どんなテクニックなのか?
(UIP試写室)



1998-04-27

●ボクサー(The Boxer/1997)(ジム・シェリダン)

◆5月23日、北アイルランドをめぐる住民投票が開票され、ブレアの和平案が71。12%の賛成で承認された。(投票率81%)

◆刑務所での結婚式が許されている。
◆知り合いがいるのもかかわらず、皆に無視されながら一人で出獄するダニー・プリン(ダニエル・デイ=ルイス)。
◆ダニエル・デイ=ルイスは、この作品ではどこかアーノルド・シュワルツネガーに似て要る。
◆ダニーとかつてのボクシング・コーチ(いまはアル中に身を持ち崩している)のアイク・ウェアーとの関係は、ある種同性愛的である。
◆冒頭に「・・・IRAは健在か? 健在だとも」という歌が出る。
◆東ベルファースト=プロテスタント、西ベルファースト=カソリック
◆運動にとっての基本的な問題を提起している:もし、和平が成立しそうになり、それを助長するような動きが民衆側から生まれつつあるとき、もし地元の警察が(貧しい子供たちに靴などのプレゼントが与えられたとき)
◆「ダニー・ボーイ」の意味
◆ボクシングの闘い;IRAの闘い(IRA 対 英国);IRA内部の闘い(武闘派 対 和平派);家族の内の闘い――が重層的に織りなし、終局へ向かう。見事。
◆武闘派には組しないが、ベルファーストの自律と人々の自由のためには闘うという姿勢。
◆組織内部の処罰としての暗殺と暴力が25年間支配してきた。
◆ベルファーストに住むということに執着する視点
◆最後に武闘派のハリーが殺されるが、その遺体の傍らで悲しみにくれているのは妻だけなのが悲劇。
◆ボクシングのシーンは、それほど「リアル」ではない。
(UIP試写室)



1998-04-23

● ワグ・ザ・ドック ウワサの真相(Wag the Dog/1997)(バリー・レビンソン)

◆途中から予算切れ(?)で迫力が弱くなるのは残念。
◆現代政治への風刺はきいている。
◆「犬はなぜ尻尾を振るか? 犬の方が尻尾より偉いからだ」「戦争はショウビジネス」
◆ホフマンとデニーロのテンポが一気に噛み合ってくるところのシーン。
◆アメリカのスピリッツ、伝統を守ろうというソングの二重の皮肉。
◆ブルー・スクリーンで撮った娘の映像に背景や音をのせ、手に持たせたポップコーンの部分を白猫に替えてしまう編集技術のシーンは、ウソがなくおもしろかった。
(ギャガ試写室)



1998-04-22

●卓球温泉(山川 元)

◆専業主婦の非人間的な現実がこんな映画でも批判的にとらえられるようになったいまの状況がおもしろい。
◆現代の家出は車でするのか、と思う。
◆家出し、昔新婚旅行のときに泊まった旅館(廃業になろうとしている)に来るあたりまではいい。新保守主義(ニューライト)の映画かと思ったが、最初の主婦の家出→伝統の再興というテーマはすぐにこしくだけになり、単なる村起こしの話になる。
◆JーWAVEのトークショウのパーソナリティ(牧瀬里穂)に「家出しちゃいなさい」と言われて家出したのだったが、そのパーソナリティが、実は、問題の旅館の娘だったという設定はとってつけた感じ。
◆松坂慶子で進んできた話が、後半、牧瀬里穂の方にいってしまった、バランスを崩す。終わり方もあっけなさすぎる。余情がない。
(日劇東宝)



1998-04-21_2

●てなもんや商社(本木克英)

◆感覚が日本ばなれしていて、乾いているのがいい。比較文化論的にしっかりしている。
◆最初の場面の設定は1987年。
◆録音状態が悪い。
◆李をやっている鄭 浩南は、東経大の陣内氏に似ている。
◆小林聡美はがんばっている。
(松竹第一試写室)



1998-04-21_1

●Uターン(U-Turn/1997)(オリバー・ストーン)

◆入り込んだら脱出できない環境。全体に血なまぐさい。昔の「不条理劇」の復活?
◆画面が荒れているのは、誰かの視点を示唆しているのか?
◆マフィアに脅され指を2本ハサミで切られた男の逃避行だが、最初のあるこの弱い者イジメがずっとバリエイトして続く――バーでいちゃもんをつけてくる男。
◆64年のムスタングの乗るショーン・ペン
◆Jesus is Lore(イエスは教え)という看板が示唆するものは?
◆基本的にキリスト教の束縛のもとで外見をとりつくろっている辺境アリゾナの小タウンの閉鎖的な人間関係のどろどろした欲望(近親相関・不倫・陰謀)をあばく。
◆一見何の変哲もない田舎町が、実は、蟻地獄だった。
◆ニック・ノルテを映すとき、口が臭うような撮り方をしているのがおもしろい。車の修理をやっている男もそう。全体として、そういう感じ。
(松竹第一試写室)



1998-04-17

●マッド・シティ(Mad City/1997)(コスタ・ガブラス)

◆冒頭のシーン:ダスティン・ホフマンがものかげに隠れている。その姿はまるで狙撃犯のよう。建物から出てくる男に突撃取材。
◆ホフマンをヒーロとしてよりも、マスコミの「良心派」として(つまり、「真実」のためだけに取材するのではなく、自分の返り咲きのためでもある)描いているところがいい。最初は、彼が、あれこれジョン・トラボルタに指示して「ドラマ」をつくりあげていくので、これがマスコミのやり方を代表しているように見えるが、やがて、その上手(アラン・アルダ)がいること、そこでは、取材対象の命も軽視されることがあらわになる。
◆最初ウブな撮影見習いのような雰囲気で出てくる女(ミア・カーシュナー)が、次第にそういうシステムの人間になっていくのもこの映画のもう一つの筋。ガブラスは、いつも人間の変化(環境、メディアによって帰られていくこと)に関心がある。
(ワーナー試写室)



1998-04-15

●ジャッキー・ブラウン(Jackie Brown/1997)(クエンティン・タランティーノ)

◆まずパム・グリアーの魅了される。
◆ディスクールの相対性がプリズムのように反射しあい、相補的な参照関係を生み出す。見事な構造と演出。捜査官への「うそ」――オーデルへの「うそ」――演技としての「うそ」――これらが合わせ鏡のようになっている。単なる「薮の中」的世界の整合性ではなく、そこから次元のちがうヴァーチャルの次元を生み出している。
◆今回は、ほとんど死体を見せない。
◆ジャッキーが好きな「デルフォニック」のLPのテープを買って車で聞くマックス。
◆最後にいっしょにジャッキーとスペインに行ったりしないところがいい。
◆頭の弱い感じのルイス・ガーラは、老いたXX(『ミーン・ストリート』でデニーロが演じた)という感じ。
(よみうりホール)



1998-04-14_2

●ブルース・ブラザース2000(Bluse Brothers 2000/1998)(ジョン・ランディス)

◆色々難点はあるが、これだけR&Bの歴史的スターが一同に会するのを見ることはそうはない。
◆前作のパターンを追っているにすぎないとしも、ちらりちらりと現代風刺はある
◆最後のクレジットの横に映る映像でジェイムズ・ブラウンが御家芸を見せる
◆Edo's Love Exchangeという電話サービス会社のシーンで歌うJonny Langがいい。このシーンは、いい。ソングもいい。
◆ストリップ・バーで初めて歌うときのジョン・グッドマンもいい。
◆とにかく、この映画は、歌のシーンがみな楽しめる。
◆アレサ・フランクリンの出てくるシーンは、前作にひっぱられすぎている。
◆シカゴのラジオ局WEXRのトークラジオで働いている・・・
(丸の内ピカデリー1)



1998-04-14_1

●オスカーとルシンダ(Oscar and Lucinda/1997)(ギリアン・アームストロング)

◆非常に感動的な映画だった。どうどうたる映画。
◆時代は1848年、曾祖父の話として語られる。
◆母の死を嘆くあまり海に入水しようとした父のために、水恐怖症になっているオスカー。
◆子供のとき、ガラスの占い(?)の感動的な記憶が賭け事への情熱の源泉になっているらしいルシンダ。
◆兄弟団、英国教会、バプティストなどのキリスト教宗派がが林立していた。
◆「信仰とは、神の存在に賭けること」
◆ルシンダは、賭けをするたびに財産の重圧から解放された
◆船のなかでオスカーとルシンダが出会い、カードを始めるシーンの感動
◆レストランでオスカーがルシンダに「あるアイデア」を話すシーン(ルシンダが愛していると思っている辺境地の牧師のためにガラスの教会を作って運ぶ)――これは、奇抜なアイデアを思いついて、それを人に話し、賛同されるシーンとしても感動的。
◆ストラットン牧師はなぜ自殺したか?
◆ケイト・ブランシェットがいい。
◆チャイナタウンの賭博場の雰囲気
◆信仰と賭けとの関係、資本主義とキリスト教との関係を考えさせる。
◆すぐセックスしたりしない(時代考証にしたがっているというだけでなく――表現スタイルして)ところがかえってエロティック
◆アボリジニを抑圧してきた過去についてもアームストロングはクール。
(フォックス試写室)



1998-04-08

●レインメーカー(The Rainmaker/1997)(フランシスフォード・コッポラ)

◆基本の形式としての語り(マット・デイモンが報告する)

◆女性の扱い方の変化:最近のアメリカ映画には、「出来る女」よりも、「家事」に束縛されていたり、夫の暴力に苦しんでいたりする女性がよく登場する。そのため、多くの場合アメリカの南部を舞台にする。
◆クレア・デーンズ(スチルではなぜか子供っぽく映っていて印象が違う)の夫がバットを振り回して暴れるシーンは、なかなか怖い。
◆この作品も、メンフィスを舞台にしている。話は、悪徳企業が保険金を出さなかったために骨髄移植が受けられなくて死んだ元従業員の告訴を担当する弁護士の話だが、彼が出会った女性が、夫の暴力に脅かされている。
◆新しいタイプのヒーロー:金のために動かないというのでも、政治的信条を曲げないというのでもない。愛する者(家族を含む)のために復讐するというのでもない。もっと具体的な真理のために動く。
◆ミッキー・ロークはサエないが、ジョン・ボイトはますますいい。ロイ・シャイダーの出演時間は短いが、貫禄を活かしている。
◆いまアメリカで新しい関係性が生まれつつあるように思う。この作品もそのことを表している。
◆法廷の論理至上主義に対する反省も。
◆敗訴した会社は巨額な賠償をしなければならないことになったが、破産することによってそれを逃れるという結末で、コッポラは、大企業の本質に迫る。
◆マット・デイモンは、スケートのミヒャエル・バラックに感じが似ている。
(丸の内松竹)



1998-04-01

●キングダムII(The Kingdom II/1997)(ラース・フォン・トリアー)

◆[急に警備が厳しくなり、1Fで名前を書かされた]
◆ラース・フォン・トリアーの試写、しかも問題作の試写だというので、相当混んでいるだろうと思ったら、ガラガラだった。
◆もとはテレビで放映されるシリーズとしてつくられたようだ。
◆画面は赤味がかったセピア。
◆冒頭の太い声のナレーションがいい。「霊的なものへの尊大さ」という表現があった。
◆巨大な病院が舞台。ダウン症の男女が地下で皿を洗う仕事に従事している。彼らがこの建物のなかでは一番「まとも」。
◆病院だから、ヴォン・トリアーが得意とするカルトっぽい肉と臓物のどろっとむめむめした感じがいたるところにある。
◆地下といっても、一番下には「地獄」があるらしい。検視室、火葬場もある。上の階上には、医師たちが秘密結社的なばかげた会合をする場所もある。
◆医師たちは、みな、いいかげんであり、現代の病院の現状が茶化されてもいる。
◆さまざまなストーリーが重層的に織りなしている。
(1)救急車の特権を利用して、道路をノンストップで走らせ、何分で病院までたどりつくかを賭けている医師や従業員たちがいる。
(2)異常な速度で成長していく子供
(3)脳手術に失敗し、患者の少女を白痴にしてしまった医師ヘルマー
(4)心身症に悩みオールタナティヴ医学に惹かれていく医師
(5)出来の悪いその息子
(6)退院した日に玄関で例の救急車にはねられて頭部に怪我をし、不十分な手術を受けたが、霊媒手術師の手で患部を摘出してもらい、助かる老婦人――霊能者
(7)その息子で、60年代末から70年代にかけてヒッピーをやっていた(インターナショナルも歌える)
(8)ひとつの最も「健全さ」を代表しているかのように折々出てくるダウン症の若い男女
◆スウェーデンとデンマークが対比される、デンマークへのうらみ? スウェーデンが効率主義の国として揶揄されることもある。
◆RIGETという文字が見るが、それが次々にはげ落ち、地面でTIGERという順序に並ぶ
◆虎=病院;蛇=医者;渡り鳥=霊
◆雑誌『ミッキーマウス』の1974年号
(松竹第1試写室)



1998-03-30

●バタフライ・キス(Butterfly Kiss/1995)(マイケル・ウィンターボトム)

◆あまり気持ちのいい映画ではなかった(後ろの奴が靴でシートを蹴るので、背中にひびいておちつかなかったこともある)
◆同化ができないところがいいのかもしれない。同化を排した作り。
◆ある種形而上学的な作り。カミュの『異邦人』の殺しのように意味がない。
◆殺伐とした風景。
◆殺される者は、みな悪意が見えない。
◆自分がわるいことをしてもすべてが認められてしまうと嘆くユーニス(アマンダ・プラマー)。奥に入ってしまっている心の病を持つエキセントリックな女性をプラマーが迫真の演技。
(シネカノン試写室)



1998-03-26_2

●恋愛小説家(As good as it gets/1997/James L. Brooks)(ジェイムズ・L・ブルックス)

◆人嫌いで、偏屈(わたしなんか、身につまされる)、過度の衛生潔癖症 [OCD=Obsessive Compulsive Disorder](これはわたしにはないが、そうなる可能性はある)の男メルビン(ジャック・ニコルソン)が、ひょんなことで犬の世話をするはめに陥ったことから(自分が他者に愛されるのだという自信を得たかのように)次第に一人の女性を愛するようになる話。
◆わたしなんかから見れば、メルビンのキャラクターはまだ手ぬるい。もっと偏屈でもよかった。彼は、単に病気(衛生パラノイア)であるにすぎない。だから、「快方」に向かう。が、偏屈さというのは、直らない――これが病気なら、不治の病である。
◆その意味では、この映画は、それぞれに「病気」をもった人々がいかに互いを励ましあっていきていくかという「共生」の物語でもある。違いを認めながら、共有部分をもつこと。
◆励ますことの素晴らしさ。
◆毎日行くレストランでも鼻つまみだが、ニューヨークの水準では殺されかねないような人種主義的・女性差別的な発言をくり返す(日本では、こういう映画は作れない)。
◆自分の自由ということばかりを目指してきたアメリカ人が、ここにきて、自分を越えたインターパーソナルな領域の重要さに目覚めたかのよう。
◆ヘレン・ハントが実にいい。人を豊かの気持ちにさせる天性をもった女性を演じている。「結婚しない女」からこういうタイプへの願望がいま確実に起こっているのだろう。
◆ゲイの絵描きを演じたグレッグ・キニアもなかなかいい。
◆印象的なシーンは:キャロルが雨のなかをメルリンのアパートへ来るところかな――決定的に浮き彫りになるシーンというのはない。
(ソニー・ピクチャーズ試写室)



1998-03-26_1

●遥かなる帰郷(La Tregua/1996)(フランチェスコ・ロージ)

◆アウシュビッツに捕らわれている人々がそれほど痩せさらばえていないのは、あまり気にしないようにしよう。国際商品として通用させるために英語の使用が不自然に多いことも問題にしないようにしよう。
◆人は、極度に悲惨な環境でも、決定的な体験をすると、それがある種の常態になってしまう。プリモにとって、それは、アウシュビッツからロシア領内を越えてトリノに生還する旅の過程とりわけロシアの体験だった。ロシアの場面が非常に情感的に描かれている。ある意味でロシアへの愛というような映画だ。実際、ロシアは、国家としては戦争の利害のなかで動いたとしても、自国の貧しさのなかで強制収容所から解放されたユダヤ人を保護した(少なくともある時期まで)。
◆ラーデ・シャルベジャが演じるギリシャ人が言うように、ロシアでは "War is always"なのだから、過去の戦争を忘れてはならない。プリモも最後のシーンで、「一片のパンのために闘わなければならないような日々があったことを忘れてはならない」と言う。その意味では、「暖かい部屋のなかで暮す」ということの方が異常なのだ、と。
◆「アスシュビッツが存在するかぎり、神は存在しない」
◆「ナチの最大の悪は、人々の魂を打ち砕いたこと」
◆素晴らしいシーン:帰郷の列車が出発しようとしている。一時滞在のなかで知り合い、愛しあったロシアの女とユダヤ人の青年が別れを惜しんでいる。そこへ、乗り込もうとした一人の青年が、泣いている女に気づき、なぐさめる。列車が出発する。みなが窓からこの青年に「早く」と言う。が、彼は、突然、「この人と暮す」と叫び、女を抱き締める。走りはじめる列車。車窓で弾かれるバイオリンの音が画面にかぶさる。メロだが、人生なんて、こう生きたいと思うシーン。
(ヘラルド試写室)



1998-03-23_2

●絆(根岸吉太郎)

◆いいとこもある。斉藤洋介と中村嘉葎雄がしぶい味を出している。麻生祐未も悪くない。しかし、どこか退屈なところがある。
◆なんか横溝正史的な世界を思わせる。
◆記憶のネットワーク(絆)の話ではある。昔、養護施設で一緒だった仲間というネットワーク。元、家族(義理の父と異母兄弟)であったネットワーク。ヤクザのネットワーク。警察のチームワーク(こちらは2人)。
◆血のつながりのある父が悪人で、義理の父が、思いでの家庭の核になっている。父なき時代の話ではある。役所広司は、子供は残さないという――つまり父親にはならない。
◆父なき絆としてなにがあるか、という問い。
(東宝第一試写室)



1998-03-23_1

●SADA(大林宣彦)

◆善良な大林には、無理な素材だった。
◆色々工夫しているが、阿部定とは基本的にはずれた感性で作られているように見える。
◆阿部定だけでなく、大正から昭和にかけての激動期を描くコンセプトが違う気がする。ただ、時代の表層をなぞっているだけ。それは、定が好む(とこの映画では描かれている)ドーナッツの紙袋の店名やカフェ、モガボの風俗などの突っ込みのなさにあらわれている。
◆立原道造の詩も出てくる。
◆時代を意識するのなら(おそらく「差別語」批判を恐れて)「ライ」ではなく「ハンセン氏病」を使ったり、定が書く手紙の書きだしを「前略」(これは、戦後もずいぶんたっての言いまわし)で始めさせたりしてはだめだ。
◆片岡鶴太郎も黒木 瞳も役柄としては最適と思うが、ここではその才能が全くいかされていない。エロティシズムが全く欠如しているのは、見事というほかはない。
◆石橋蓮司がわずかに時代の暗さを表すにとどまる。
◆竜蔵の女房役の根岸季衣が異顔で面白味を出しているが、定と歌舞伎の真似事みたいな取っ組み合いをさせられ、ダイナシ。
◆嶋田久作の道化回し的な役はいらない。
◆大林は、日本の旧時代の感覚を脱しきれない――深刻な事態を自嘲的にしか描けないというシャイさ。
◆唯一おかしかったのは、最後に、5、6人の刑事と定の写真――全員が笑っている。
(松竹第1試写室)



1998-03-19

●ビヨンド・サイレンス(Jenseits der Stille/1996)(カロリーヌ・リンク)

◆子供時代のララを演じたタティアーナ・テョゥリーブが抜群にうまい。子供のころから修羅場に接してきた(しかし、愛情にあふれた世界にいた)子供の早熟な目つき。
◆だから、18歳のララ(シルビー・テステュー)が急に出てくると、それまでの緊張がぐっと下がる(しかし、じきに盛り返すが)。
◆聾唖の家族の物語だが、手話という新しい表現手段でアプローチした家族物語としても見れる。聾唖という特殊な環境を、手話という特殊な方法で表現したのはなく、手話という表現方法が、聾唖と健状者という区別の向こう側にあるものを見せてくれる。
◆聾唖だから起こったことだとしても、家族のなかでは、同じことが別の形で起こる。
◆最近は、(健状者の世界では)家族という集団形態が根底から変わりはじめているのに対しては、ララの家族は、家族であることが、生活上からも必要であるところが、違う。
◆叔母のクラリッサは、いま多くの現代人がやっているような人間関係(家族からの離脱・離婚・・・)のなかで暮している。
(松竹第2試写室)



1998-03-17

●大安に仏滅(和泉聖治)

◆いまの時代の雰囲気がよく出ている。
◆サラリーマンと親父をやってる男は身につまさられることうけあい。
◆手抜き工事の家はいまの日本のアナロジー。
◆話は、家庭の日常的な出来事だが、そのミクロな出来事が、マクロな世界をメタフォリックに参照させるような厚みを獲得している。
◆欠陥住宅の被害仲間である中村梅雀と路上で橋爪 巧が路上に座り込み、(中村が、思いつめて、お互いの家に火をつけて保険をとればいいと狂乱したあげく)肩を抱き合って泣くシーンは、会社で働くことが至上の価値だった世代と社会、ひいては、そういうやりかたで築いた経済と国家体制の根本的な転換を求められている日本そのものだという感じを起させる。(ちょっとホメすぎれば)。
◆中村梅雀にしても、梶原善、左とんぺい、清水ミチコ、伊藤かずえ、等々、才能のある役者が脇を固めている。
(東映試写室)



1998-03-16

●ドライ・クリーニング(Nettoyage a Sec/1997)(アンヌ・フォンテーヌ)

◆通常のフランス映画には出てこない町(ベルフォール)とそこでクリーニング屋を経営する夫婦を描く。小学生の男の子と老母が同居している。
◆仕事の後でふらりと入ったナイトクラブでロイックと会ったことがすべてを変えた。正確には、彼がそののち店を訪ねてくるのだが、すでに最初の晩に2人は彼に魅せられ、ナイトクラブをいっしょにはしごをしてしまう(あとで800Fせびられるが)。
◆妻ニコルは、ロイックに急接近するが、夫ジャン=マリーの方はそうではない。しかし、嫉妬するわけでもないところが、この映画のおもしろいところ。ロイックは、ジャン=マリーに気があると感じるが、ジャン=マリーの方はなかなか一線を踏み越えられない。この場合、ロイックは、一見、したたかな「両刀使い」で、セックスを武器に2人を翻弄し、遂には店を乗っ取ってしまう――というような展開をするかに見えるが、そういうことはない。彼は、バイセクシャルというよりも、セックスに対してもっとフリーなのだ。そういう感じを新人のスタニスラル・メラールはよくあらわしている。彼が日中初めてクリーニングの店にやってきたとき、うっすらと紅を引いた口と「白皙の美青年」という言葉がぴったりの顔が異彩を放つ。
◆しかし、ジャン=マリーが彼を殺してしまうという終末は、つまらない――床に流れた血をニコラが黙々と雑巾で拭くという演出は悪くないが。3人でうまくやるという結末はつくれなかった。いかにもフランス映画らしい結末で終わる。
◆人間(近代社会における)の宿命のようなものを感じさせる映画ではある。
(TCC)



1998-03-13

●パーフェクト・サークル(Le Cercle Parfait/1997)(アデミル・ケノヴィッチ)

◆アーディスが怖い夢を見たと言って目覚めると、ハムザは、「怖いことはない。現実より怖い夢はないのだから」と言う。
◆川がながれ、橋がある美しい景色。が、ふと画面の端を見ると、民家の内部から火が上がっている。
◆テレビで無声映画を皆で見ているシーン:男が皿の上の靴をのせて、食べている。この映像をサラエボで見るのは、意味がちがう。実際に、サラエボの人たちは、靴も食わなければならないような状況だった――靴は食わなかったが、燃料がないので靴を燃やす。
◆現実にあったことなのだが、サラエボでは、無防備の市民が、多数撃たれて死んだ。逃げ出したても逃げ出せない市民を、路上で見つけると、遠方から(狙撃者の姿は見えない)撃ってくる。何が目的なのか? ナチのように犠牲者狩りをするわけではない。公然と市民の絶滅を目的に動いているのでもないように見える。
◆憎しみや征服欲が直接的には見えないのに、人が殺される。一種の自動過程となった戦争。なんのために殺されるのかもわからない。殺す方もなんのために殺しているのかわからない。
◆耳の聞えない子供が、それまで自分をカバーしてくれた弟が殺されると、兵士を逆襲して銃を奪い、撃ち殺すシーンはいかにも映画的だが、映画という儀式に許されたパワフルな映像であることを否定することはできない。
(徳間ホール)



1998-03-12_2

●すべての些細な事柄(La Moindre des Choses/1996)(ニコラ・フィリベール)

◆ガタリがいた空間であるので、見ていても思いは深い。
◆ああ、ガタリは、ここで「革命」を実践していたのかという実感。ラ・ボールドでは、患者と医者・世話する人のあいだの制度的な差異を明示しない。患者も運営会議に出る。
◆「まとも」な絵が描けるわけではない女性患者に別の患者が怒りもせずにつきあってモデルになっている。ここでは、誰も怒らない。
◆雨が猛烈に降るシーン――半端でないのがいい。
◆カメラは、最初愚鈍のように見えた人物が、はっとするような面をもっていることを明らかにする。
◆演劇の本番よりも、プロセスの方がよいのもおもしろい。
(TCC)



1998-03-12_1

●フラバー(Flubber/1997)(レス・メイフィールド)

◆よくあるパターン――たぶん子供向きをねらっているのだろう。
◆室内を浮遊している円板型のアンドロイド・マシーン(?)とロビン・ウィリアムスのつきあいがおもしろい。マシーンのモニターに映る映像(マシーンの感情を表したりする)は大抵、ハリウッド映画からの引用である。
◆話は、温和なバットマン的。大学が経済危機にあり、それを利用している金持ちがいる。
◆フラバーをコンピュータ映像で踊らせたり、飛び回わさせてりする技術はなかなか。
◆フラバーは、「空飛ぶラバー(ゴム)」だが、精神はない。だから、所有者/製作者の言いなりになるが、自分でなにかをするということはない。
(ブエナビスタ試写室)



1998-03-11

●ブレイブ(The Brave/1997)(ジョニー・デップ)

◆最初のシーンで、ジョニーが外にいて、それからバラックのなかに入ると、女と子供が寝ている。それは、朝という設定なのだが、昼間のような感じがし、彼女らが病気で寝ているかのように見える。(それから、彼がインスタントコーヒーをいれ、妻の枕元に置く――これが日課になっているらしい)。
◆最初の設定がいかされずに終わるが、いまのインディアンたちが置かれている状況が強烈な印象を残す。
◆イギー・ポップのエスニック的な音楽が心に響く。
◆舞台となるネイティヴたちのコミュニティの埃っぽい、そして煙い(smogy)茶色の雰囲気がよく出ている。
◆命を売り渡すシーンで出てくるマーロン・ブランドと地下室の設定が活かされないので、あれは何だという気がする。しかし、ネイティヴ・アメリカンの現状の雰囲気をとらえた映像が印象的。
◆ブランドの車椅子には小型のカメラが2個付いている。あれは何か?
◆ネイティヴは、すぐれた伝統をもちながら、いまのアメリカでは、最もジャンク的なカルチャーに汚染されている。金が入れば、安酒をくらってアル中になり、子供もジャンク・フードとプラスティックに埋没している。
◆しかし、そういうジャンクを飾りたてて祭りをやるシーンは、ある種のスラム・パラダイス。
◆電灯はあるが水は川の汚水であるように。
(ギャガ試写室)



1998-03-10

●L.A.コンフィデェンシャル(LA. Confidential/1997)(カーティス・ハンソン)

◆告発でも啓蒙でもないが社会性、娯楽でもカルトでもない映画性、がいい。フィルム・ノワールを踏襲しながら、それを越えている。
◆ケビン・スペイシーの50年代流のキザさとスマートさ。ラッセル・クロウの暴力性(これは50年代風ではない)。ギア・ピアースの知的な(ヤッピー・カルチャーをつき抜けた)政治性。ジェイムズ・クロムウェルのバロウズ的な悪。デイヴィッド・ストラータンは、50年代の甘さを体現して妙。
◆親父が母に暴力をふるい、そのあげくに殺して逃走してしまったので警官になったというラッセル・クロウの理屈はフロイト的。
(ヘラルド試写室)



1998-03-09_2

●グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち(Good Will Hunting/1997)(ガス・ヴァン・サント)

◆『マイ・プライベート・アイダホ』で突き放した青年が、「癒し」を受ける。『マイ・プライベート・アイダホ』以来のテーマがいま一つの「癒し」の方法を発見した。
◆最後の映画に「ウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバークの思い出に」とあったのはなぜか?
◆この映画は、主として男と男のコミュニケーションの物語である。ウィルは、ハーバードで知り合った女子学生がカリフォルニアに行ったのを追う(21歳の誕生日のプレゼントにもらったボロ車がハイウェイを走るシーンで終わる)ことになっているが、メインは男同士のつきあいが描かれている。
◆ロビン・ウィリアムスを見すぎているので、結末が予想できるのが難。しかし、アメリカ的なよい意味での単純さが感動させる。
◆ウィルがハーバードの秀才を、博覧強記の才能でやりこめていくシーン(相手の言ったことがみな誰かの模倣にすぎないことを暴く)は、なかなかスリルがある。
◆「自由とは魂が呼吸する権利」
(丸の内ピカデリー2)



1998-03-09_1

●炎のアンダルシア(Al Maaair/1997)(ユーセフ・シャヒーン)

◆現代のイスラム原理主義の問題を12世紀のアベロエスにふりかかった出来事にたくして描いている。扇動と洗脳の技術。権謀術数。支配する者の意識は今も昔も変わらない。
◆奥さんがしきりに食べ物をふるまう。料理を食べさせるということのことの偉大さ。
◆人生を楽しむというテーマがくりかえし現われる。このへんで、ハキム・ベイを思い出す。
◆アベロエスをやった役者の笑い(ちょっと幼な顔をする)が気になって、好きになれなかった。
(東宝試写室)



1998-03-02

●ビーン(Bean/1997)(メル・スミス)

◆欧米映画では異常なくらいしゃべらない。
◆毎週1本見るようなノリでつくられているし、そういう笑いをねらっているので、1本の映画作品としてはものたりない。しかし、見終わると、なんか別れ難い印象をもってしまうのは不思議。
◆ナンセンスなわるふざけの極致。「イタズラ精神」が希薄になってしまった日本では、初見ではすんなり入ってこないかもしれないが、こういう笑いがイギリスでどのようなコンテキストで生まれるのかには興味をおぼえる。アメリカの笑いとは違う。
◆「チャールズは馬づらだ」というせりふが出てくる。
◆本来あるはずのビーンの残酷性がここではおとなしくまとまりすぎている。
◆TVシリーズでは、いたずらをしてやりっぱなしがビーンの特徴らしい。
◆TVシリーズのプロモーションなら3星にしてもよい。悪意が希薄。
(ギャガ試写室)



1998-02-26

●F(金子修介)

◆調子のいいメロだが、それにどとまらないのは、メディアを介さないと本音をはけない世代の感性をおさえている点。荻野ヒカル(羽田美智子)は、中学生のころから機械に強かった。
◆話は1983年から97年までという設定。
◆熊川哲也は、イギリスのロイヤルバレイの団員という設定で、日本のレストランでも英語で注文(ウエイターがインド人だった)くらい英語ができるということになっている。にもかかわらず、「おめでとう」を「コングラチュレイション」と(「ズ」を抜かす)言う。
◆もう会わないかのように展開して最後に『ミセス・シンデレラ』風に終わると見せかけて、抱きあったヒカルのせいふが、「何か元気出てきた」。これは、あっけらかんとしていて新鮮。(うしろの若い女性が、「落ち込んだ」と言っているのが聞こえた)。
(ヤクルトホール)



1998-02-24_2

●トゥモーロー・ネバー・ダイ(Tomorrow Never Dies/1997)(ロジャー・スポティスウッド)

◆香水の匂いがただよってくるようなロマンティックな往年の007シリーズのシーンは望めないが、「活劇」シーンはよくできている。爆発の火花もCGではないそうで、その分、身体的な迫力がある。
◆ミッシェル・ヨーが、(銃を操作するとき以外は)非常によい。
◆ピアース・ブロスナンは、大分落ち着いて、「風格」すら出てきた。
◆後部座席に飛び乗って、特性のBMWををリモコン操作するシーンが、カーチェイスの型にはまったシーンにうんざりしてわたしには、非常に新鮮だった。実際に可能であるかどうかは問題ではない。映画は、ありうべきことを「現実」として見せることに意味があるのだから。
◆『ピースメーカー』でも出てきたが、ここでも、顔のデータベースをスキャンするシーンがあった。
◆『アンダーファイヤー』のスポティスウッドらしく、マスメディア批判が基調にあり、007シリーズのなかでは、一番そういう側面が出ている。カーヴァーは、事件を予想するだけでなく、まずニュース・ストーリーを捏造して、それからそのストーリに合わせて事件を作る。それがエスカレートして第3次大戦を起こそうという陰謀にまでいってしまったのだ。いつも薄笑い(『未来世紀ブラジル』のマジメ顔と対照的)を浮かべたジョナサン・プライスはいい。
(UIP試写室)



1998-02-24_1

●スターシップ・トゥルーパーズ(Starship Troopers/1997)(ポール・バーホーベン)

◆汚れの全く感じられない空間の雰囲気は、教室のシーンは、どこか50年代風。
◆未来のインターネット放送のような画面も含めて、皮肉をきかせているが、あまり響かない。戦争のばかばかしさは出ていない。
◆巨大な虫の合成は見事。しかし、それにしても、なぜ、あれだけの宇宙飛行の技術をもつ時代に、弾丸の出る銃機しかないのか? もっと強力な武器を駆使すれば、あんな虫はすぐ破壊できるだろう。「弾がなくなった」はない。
◆最後に虫の親玉が捕まる――これが無数の虫をあやつっていたという設定。しかし、これでは、結局、中央集権になってしまい、たいして怖くない。虫の恐ろしさは、そのウェブ状の「連隊」にあるのではないか?
◆あいさつに立ったバーホーベンは、「真面目に受け取らないでください」と言っていたが、それは、「連合政府のために勇敢に闘おう」みたいな終わり方をするところにアイロニーを読みとってほしいということだったが、どうも、そういう説明をしないと、子供なんかはそのアイロニーがわからないというとことがある。
(日比谷映画)



1998-02-23

●アミスタッド(Amistad/1997)(スティーヴン・スピルバーグ)

◆マジメな「教育」作品で、頭が下がるが、どこかひっかかるのはなぜか?
◆言葉がわからないことからくる誤解、ズレ、意外性・・・の部分はおもしろい。
◆全体としては、造反や反抗のための殺害の正当性を描いているのだから、日本あたりの啓蒙映画とは全然スタンスがちがう。それはいい。
◆弁護士役のマシュー・マコノヒーがいい。捕らわれのアフリカ人をまず密輸「物品」とみなして検事側を切り崩すのはアウトノミア的。
◆アンソニー・ホプキンスの老け役は見事。
◆アフリカ人がキリスト教に引き込まれていくプロセスの描写は、プロパガンダ的。そういうふうにしてアフリカ人がキリスト教徒になったという説明としてはわかるが。
(徳間ホール)



1998-02-20_2

●エイリアン4(Alien Resurrection/1997)(ジャン=ピエール・ジュネ)

◆個々の気持ち悪いシーン(ぬめぬめした内臓感覚)はいいのだが、全体のテーマが弱い。
◆瞬間瞬間を楽しめばいいように出来ているのだから、その意味では悪くない。内臓への執着は一貫している。
◆マイケル・ウィンコットの恋人役のクム・フラワーズのヒップがすばらしい。
◆この手の映画ではどれもそうだが、なぜ、ドアーなどが閉まるとき、ひどく重々しい機会の音がするのだろうか?
◆エイリアンの人造のかたわらで、エイリアンの「母」が気弱になっているのが滑稽。
◆シガニー・ウィバーは、筋肉質な感じを出していて悪くない。
◆3月13日のTBSで筑紫哲也のインタヴューで、「娘さんに見せるか?」と問われて、シガニー・ウィバーは、ノーと答えたのが印象的。
(ワーナー試写室)



1998-02-20_1

●絶対X絶命(Desperate Measures/1998)(バーベット・シュローダー)

◆子をもつ親の身勝手には、さすがの凶悪殺人犯も唖然。
◆骨髄移植をしなければ子供が死ぬというのが大義名分だが、物語展開の基礎としては弱いと思うのだ。
◆FBIファイルを盗んだり、骨髄移植のために犯人に発砲できずに同僚が重傷を折ったり、死んだりしながら、それでもゆるされてしまうプロセスは、非現実的。
◆アンディ・ガルシアはあまりサエていない。マイケル・キートンは、目つきがなかなかいい。
(朝日ホール)



1998-02-18

●コップランド(Cop Land/1997)(ジェイムズ・マンゴールド)

◆定石を押さえた秀作。
◆「狼」の群れのなかで孤軍奮闘するわけだが、(スタローンが主演であるにもかかわらず)力づくではなく、若いときに左の聴力を失った男の屈折がよく出ている抑えた演技が光る。
◆スタローンがニュージャージーからマンハッタンに行き、地下鉄駅から外に出るシーンがニューヨークの感じをよく出している。
◆「対角線(diagnal)で行け」がレイ・リオッタの口癖。
◆「(古いLPで聴いているのを見てアナベラ・シオラが)CDも出ているのよ、ステレオで聴けるのに」と言うと、スタローンが、「おれは片耳だ」。
◆スタローンが耳元でピストルを発射され、両耳が聞こえなくなった直後、カイテルらと闘わなければならなくなるシーンで、周囲の音がほとんど聞こえない状態を描いたシーンはなかなかよかった。死にぎわのカイテルが何か言うが、スタローンは、「聞こえないよ」と返す。
(松竹第2試写室)



1998-02-16

●ディアボロス(Devil's Advocate/1997)(タイラー・ハックフォード)

◆ゲーテの『ファウスト』の翻案という話を聞いて期待したが、それは、非常に遠い関係にすぎなかった。
◆アル・パチーノのアクの強さは活かされている。
◆キアヌ・リーブスはそつなくこなしている。
◆しかし、奥行きがない。たとえば、『ビースト 獣の日』にあったような奥行きの深い批判精神と諧謔がない。
◆映像は、やたらとモーフィングを使う。
◆パチーノが初めてキアヌを自分のオフィスビルの屋上に連れていくシーンの手すりのない屋上は怖い。
◆黙示録18章
◆血はvirutual curencyだと言う黒人のカルト師
◆「悪魔は虚栄を好む」
◆鈴木志郎康の16ミリ映像のように雲が走る。
◆"virtual currency"という言葉がパチーノの口から出てきた
(よみうりホール)



1998-02-09_2

●リング(中田秀夫)

◆冒頭、女子高生がきゃあきゃあ叫ぶのが耳につく。声と身ぶりで怖がらせている。こいつらがメインかと思ったら、その一方はあっさり死んでしまい、松嶋菜々子が中心になる。それにしても、松嶋の演技は下手で、声とオーバージェスチャーで怖がらせるやり方は変わらない。
◆『らせん』と独立した1本としてはおそまつ。とにかく、バランスが悪い。松嶋も真田もサエないのは、彼らの技量の問題というより、演出の問題だろう。
◆真田が相手の手を握って念写するところは、ドーンとモノクロの画面に変わり、かなりうまく撮られている。
(新宿コマ劇場)



1998-02-09_1

●らせん(飯田譲治)

◆佐藤浩市と中谷美紀の奮闘で『リング』よりはマシになっている。
◆映像としては、真田広之が解剖され、胸をえぐられて解剖台に乗っているシーンの絵柄は秀逸。
◆しかし、DNAやウイルスについて生半可な知識を振り回さないほうがいい。見ていれない。映像信号が人体に対し、細胞分裂を触発し、身体内に天然痘のウィルスを発生させるという話はおもしろいが、メインにされると、困ってしまう。
◆人間の「新しい進化」云々というが、『ビデオドローム』のせりふみたい。モニターから女が出てくるところは、確実にそのパクリ。
(新宿コマ劇場)



1998-02-05

●ライアー(Liar/1997)(ジョナス・ペイト&ジョシュ・ペイト)

◆非常に演劇的な構成。舞台の多くは、警察の取り調べ室内。
◆だから、観客は、内容よりも、その場のテンションを楽しむ/ハラハラする。その点では、社会性は希薄。そういうことを求めさせない作り。
◆役者は、ティム・ロス、クリス・ペン、エレン・バースティン、ロザンナ・アークェットなど、達者な連中ばかり。
◆アブサンって、そんなに怖いアルコールなのか?
◆エレン・バースティンの目(マスカラの部分?)はなぜ、ときどき光るのか?
(徳間ホール)



1998-02-04

●革命の子供たち(Children of the Revolution/1996)(ピーター・ダンカン)

◆5分の4まではエクセレントだと思った。
◆スターリンに誘われて、セックスし、そのためにスターリンが心臓マヒを起こしてしまい、おまけに密かに彼の子を宿すという設定はすばらしい。
◆スターリン主義や左翼運動への風刺もきいている。
◆ニューズリールの使い方も巧み。
◆役者は、巧者ぞろいで、スターリン(『アマデウス』でサリエリをやったF・マーリー・エイブラハム)もジュディ・デイヴィスの老け役も、不自然さがない。
◆40~50年代のオーストラリアで、パブが6pmに閉まるのであわててビールを飲む人々のことは、昔、本を書くためのインタヴューで聞いたことがある。
◆ただ、俗流心理学と遺伝学をパロりすぎるところが、少し話を弱くしている。母親コンプレックス、牢獄に入りたいという欲求の源泉、制服の警官にいじめられたいという欲求、婦人警官(実は、その両親は、東欧(ラトビア?)でスターリンに殺された。
◆ペレストロイカで失望する純正「共産主義者」の母。
(TCC)



1998-02-03

●大いなる遺産(Great Expectations/1997)(アルフォンス・キュアロン)

◆全体に金をかけている(フロリダの海に面した「失われた楽園」のセット)し、それほど破綻がないし、役者もがんばっている(少年・少女時代のフィン、エステラはいい)。それにもかかわらず、4★を出せないのはなぜか?
◆デ・ニーロの存在に無理がある。脱獄してフィンと出会うところはいい。陰でフィンの個展を仕掛けるのもいい。しかし、最後に現われて(ここまでもいい)、秘密を打ち明け、おまけにマフィアに地下鉄のなかで殺されるというのは、余分。せっかくのムードが壊れる。
◆場面の流れ方が下手で、時間の経過が描けていない。
◆バンクロフトは、変人の老女をやや滑稽に演じているが、適切でない。(loveではなく、bandだというようなことを言ったのは、印象的)。
◆もし、ストーリーの通り、結婚式をすっぽかした男に復讐する女なのなら、もっと冷徹さを出さなければダメ。フィンが、昔自分が言われたせりふ、「ここに何があるかわかりますか? 破れた心臓です」と言い、それに老女があらためて涙するのなら、もっと本腰を入れて意地悪をしなければならない。
◆「グランド・ストリートのロフト」というせりふを、字幕では、「グリニッチのロフト」と誤訳していた。
(よみうりホール)



1998-02-02

●エンド・オブ・バイオレンス(The End of Violence/1997)(ヴィム・ヴェンダース)

◆スタントマンがケガをする最初のシーンは、おそまつ。
◆メインタイトルのキャスティング・バックのシーンは悪くない。
◆リズムがない――画面の切り替えがどろっとしている。メリハリがない。
◆刑事役の男優は下手。みんなニセモノっぽい。ゾルダンという監督役の男はちょっといいが、活かされない。ラッパーをやった黒人はいい。
◆ラントをやるスペースのシーンはおもしろい。
◆コンピュータ・テクノロジーのおそまつさ。
◆いつも机に向かっている老人の存在がわからない(タイプライターに固執)
◆庭師の長老に有名な悪役が出演していた。
◆個人の行動をことごとく監視する装置が設置されるという発想は、『デコーダー』の方が早いし、徹底している。
(松竹第1試写室)



1998-01-30_2

●ジャッカル(The Jackal/1997)(マイケル・ケイントン・ジョーンズ)

◆ロシアの近代史をスナップショットで見せる最初はなかなかいい。
◆ジャングルの音楽はさわやかだが、リズムは、たるい。
◆ロシアのチェチェン・マフィアを押さえにクラブに入るシーンもいい。外で張っていたロシア情報局の女性少佐(ダイアン・ヴェノーラ)が、変装(?)をかなぐり捨てて中に入っていくところは実にいい感じ。彼女は、この映画のすべてのなかで抜群。
◆ブルース・ウィリスは、ぜんぜんジャッカルらしくない。リチャード・ギアのマヌケさはなんだろう? 元IRAの大物ということになっているが、うろうろするだけ。全然異彩が発揮されない。
◆大体、ジャッカルが発注する機関銃の自動システムたるや、ものものしいだけで、子供だまし。あの程度のことに何であんなに金をかけなければならないのか?
◆車が狙われるのに、色を塗り替えるだけしか能がないのは、なぜ?
◆ジンネマンの『ジャッカルの日』のシンプルで、クールな殺人のほうがずっと迫力がある。
◆殺したり、逃げたりするやりかたで、ニクイ、見事だといえるシーンがウィリスのジャッカルにはない。
(日劇東宝)



1998-01-30_1

●一生遊んで暮したい(金澤克次)

◆大阪的なゴタゴタした感じはいいが、何かというと単調に殴ったり蹴ったりが多すぎる。
◆猴岩石の有吉弘行と森脇和成は、意外とがんばっている。これなら、もっと彼の才能をもっと活せたはず。
◆しかし、よくわからない映画。
(試写ビデオ)



1998-01-28

●ポストマン(The Postman/1997)(ケヴィン・コスナー)

◆アメリカ的自衛・連帯思想の初等教科書。ダサくてドジな作りがなかなかいい。
◆独裁者を倒す基礎教程。啓蒙的であるが、アメリカでは、この手の映画が繰り返しつくられ、反逆の精神がたたきこまれる。
◆口から出まかせの話が、人をうち、共感者を生み出してしまうところ。
◆情報が武力を制する。軍事よりも情報のネットワークの方が強い。
◆ヴァーチャルな自発的なネットワークから、次第に「理念」に固執する「信者」を生み出すプロセスもおさえている。
◆オリビア・ウィリアムスが、銃でコスナーを守るシーンは、女に頼りたい願望をもっている男にはたまらない。
(ワーナー試写室)



1998-01-27_2

●お墓がない!(原隆仁)

◆メロをメロとしてでなく撮り、メロの効果をあげるクールさがあるが、どこかものたりない。岩下志摩のキリっとした演技はあいかわらずで、たのもしい。『極道』と同じとは言うまい。
◆岩下は、老け役を演じる役をやるが、あまり違和感がないのは不思議。『マルタイの女』で宮本が「大女優」をやったのとは段違いに「格」があるのはさすが。ベンツ(?)から下りるとき、手を取ってもらはないと気がすまないといった「高慢」さも、イヤ味がない。
◆「大女優」の世間知らずを示すエピソードもステレオタイプなのだが、それも気にならない。ツボは押さえている。
◆石橋蓮司の監督が、撮影シーンで「カット」と叫ぶのは、ちょっとうんざり。
◆ミッキー・カーチスの屋台のおでん屋は、気の毒。
(松竹第1試写室)



1998-01-27_1

●ヤマトナデシコ(山口貴義)

◆団塊世代が愛する「わびしさ」とナルシズムがよく出ている。
◆よくいる女の感じがうまく出ている。誰とでもすぐ寝て、わがままだが、憎めない。基本的に甘えっ子で、それが男を呼び寄せる。
◆中央線沿線のローカルなカルチャーがよく出ている。いまでは骨董品化しはじめているので、登場する世代も40代。団塊の世代。わたしが教えていた和光生たちに似たキャラクター。
◆ダサ~い感じがよく出ている。こういう人種は、いま、少なくなった。昔のゴールデン街風の飲み屋にはよくいた。
◆やはりタバコを吸うシーンが多いのは、「学生」映画のなごり?
◆井の頭公園内にあるおでんの店が何度か出てくる。おでんを食うというのも、この映画の性格を現わしている。
(東和映画試写室――川北メモリアルビル)



1998-01-16_2

●極道の妻たち 決着(Gokudo no Onnatachi Kejime/1997)(中島貞夫)

◆カアちゃんの伝統は依然根強いとしても、それもそろそろ終わり始めたようだ。その先が見せられないには、映画の作風が古いから。
◆終わり始めた強いカアちゃんの伝統。その先を見せろと言うのは、中島貞夫には酷というものか?
◆ヤクザのしゃべり方がもう古い。あのしゃべり方は旧東映ヤクザ映画のなかにしかない。
(東映試写室)



1998-01-16_1

●ニル・バイ・マウス(Nil By Mouth/1997)(ゲイリー・オールドマン)

◆もっとサイテーの親はいくらでもいるが、そのとらえ方が憎しみでも愛でもないのが秀逸。
◆アップの画面が多いので、一見、その映像世界に接近させるかのように見えるが、その実、そういう形で遠避ける。
◆エリック・クランプトンの音楽はいらなかった。自然音のシーンがいい。レイモンドに暴力をふるわれて入院した妻ヴァレリーが顔を腫らしてベットに寝ているシーンでは音楽は使われない。
◆最低の父親がこれほどストレートに、そして愛情深く描かれたことはない。批判してはいないのがおもしろい。
◆「キス一つしてくれなかったオヤジ、何一ついい思い出がないオヤジ、名だけのオヤジ」
◆「最低の街」をヴィヴィドに描いている。
◆おもしろいのは、ヤクの売人にしても、レイモンドを追うヤクザにしても、抗争や暴力としては描かれないこと。出来事としての映像。それが、カメラをアップにして撮った理由か?
(ヘラルド試写室)



1998-01-14

●フル・モンティ(The Full Monty/1997)(ピーター・カッタネオ)

◆地域固有の雰囲気(ここではシェフィールド)がすぐれた舞台になるイギリス映画の最近の状況はうらやましい。
◆シェフィールドの核プラントの煙突(?)が映る。
◆失業を笑える状況。
◆女が立ち小便するシーンは、すごい。
◆「フル・モンティ」と言いながら、決して性器を見せるシーンがないのは、健全路線を狙ってのこと?
◆シネマ・カリテ2の会場は満席で、遅れて行ったわたしは立ち見だったが、その反応は、ちょっとニューヨークやロンドンの映画館の雰囲気に似ていた。反応が非常にいいのだ。(笑い方がちょっと違っていたから、敏感に反応していたのは、日本人の客ではなかったのかもしれない)。
(シネマ・カリテ2)



1998-01-12

●ゲーム(The Game/1997)(ディヴィッド・フィンチャー)

◆シャレている。『スティング』に似た終わり方だが、最後に、あれと似た解放感、一緒に映画を作ったような連帯感を感じさせられるのは不思議。
◆One-to-one businessの時代の感覚。
◆遊び感覚抜群。合わせて、ネット社会や高度サービス社会の不安を体験させもする。
◆オールビーの『動物園物語』が無意味になる時代を感じた。
◆有体に見れば、金と力を持っている男が、そのもろさ、無意味さを体験するという側面もある。
◆カフカ的な雰囲気もある。
◆電子社会では、声や肉筆は、公開できなくなる。
(ギャガ試写室)



1998-01-07

●ピースメーカー(The Peacemaker/1997/MImi Leder)(ミミ・レダー)

◆バルカン半島からロシアにかけての政治・軍事情勢を教科書的におさえながら、ドラマを展開。
◆最近のアメリカ映画ではロシアはいつも三枚目。
◆教会での祈りのシーンから始まったので、悽惨な殺人が始まるのかな(『ゴッドファーザー part2』の先入観)と思ったら、案の定、財務大臣が殺された。
◆列車(模型だとしても)の俯瞰シーンがなかなか雰囲気がある。列車の使い方がうまい。
◆ニコール・キッドマンが使っているラップトップの背には、「digital」の文字が見えた。映画の終わりのクレジットタイトルには、「...courtesy of Silicon Graphics」の文字が見えた。
◆「物語の中心には、一人の男の悲劇がある」とミミ・レダーが言ったという。その男(マーセル・ユーレス)は、セルビアに住むクロアチア人であり、宗教はモズレムである。「昔の街を返してくれ」
◆カーチェイスはあるが、ハリウッド映画特有の、単なる効果をねらったものではない。
◆ジョージ・クルーニーが代表する軍人的な国家の論理と、個人ー家族の論理がまじわらぬままえがかれている。鵜飼哲が論じる「償い」「赦し」「復讐」の問題が一応出揃っている。
(UIP試写室)



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