粉川哲夫の【シネマノート】
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1999-05-25

●アドレナリン・ドライブ(Adrenaline Drive/1999/Shinobu Yaguchi)(矢口史靖)

◆起こりそうもないこと、うますぎることを積み重ねることに躊躇をしない技法。
◆車の窓からのウォークスルー的な映像でスタート。音楽は軽快。
◆せりふは下手だが、カンにさわる言い方をするスーパーの店主。耐えている運転席の青年。
◆やくざの事務所があるマンションでガス爆発があったのに、救急車が一台。しかも、その間に石田ひかりしか現場に来ない。瀕死のやくざ組長が救急車に収容されるが、いつの間にか事務所になったアルミのケース(なかに現金が詰まっている)がいっしょに持ち込まれている。救急車が川に落ちても、人は来ず、パトカーが来る。アルミケースをロッカーに隠した石田ひかり。やがて、そのなかから床に血がしたたり落ちるが、その量が異常。なんでそんな血が出るのか? 逃亡するために潜り込んだ幌つきの車で大騒ぎしても運転手は気づかないのはなぜ?
◆石田ひかるは、安藤政信と逃亡して宿泊したホテルのスイートルームと小躍りするが、その動きからがいい。病院で血に滑って転ぶときも、その転びぷりがよかった。
(シネカノン)



1999-05-21

●マイ・ネーム・イズ・ジョー(My Name is Joe/1998/Ken Loach)(ケン・ローチ)

◆ジョーを演じるピーター・ミラーが、役者らしくないのがいい。
◆37才だが50才ぐらいに見える。自分に自信のない男。
◆ある種の恋愛映画だが、社会の絶望の度合いが強いので、その方はかすんでくる。
◆同窓会に行って違和感を感じている男。
◆引き込む映像。
◆終わり方はなんかあっけないが、これしか終わり様がないという気もする。それほど、救いのない世界でもある。
◆好きな映画ではある。
(メディアボックス)



1999-05-19

●ブルワース(Bulworth/1998/Warren Beatty)(ウォーレン・ビーティ)

◆ストラーロの映像は少しがっかりだが、アクチュアルな映画。黒人スラムのシーンが生きている。アミリ・バラカが道化回しの役で出ている。
◆基本的にアフリカン・アメリカンへの肩入れが感じられる。
◆アミリ・バラカは言う、「ゴーストではなく、スピリットになれ」と。わたしは、ここで、アルバート・アイラーが、『ゴースト』から出発して『スピリチュアル・ユニティー』に至ったのを思い出した。
◆最初のシーン:(時は、1996年3月)テレビを見ながら、テーブルに向かい、涙を流しているブルワース(選挙戦の先行きが絶望的なことが直接の理由だが、すべての現状への彼の絶望的な胸の内が表現される)。
◆黒人には全面的な支持の姿勢をし、ユダヤ人には、かなりきつい:映画界の支援者のパーティへ、ケンタッキー・フライド・チキンのボックスを持ち込み(チキンは、象徴的に黒人の好物とされる)、ユダヤ人批判をする。
◆黒人のクラブに連れていかれて、ラップに染まり、DJまでやってしまうノリはドラッグ〈ノリ〉。
◆ハル・ベリー演じる黒人(少し肌が白い――母親は白人だという暗示がある「お母さんの失敗をくり返すな」と祖父が言う)(実は、ブルワースがマフィアに依頼した自己暗殺の役を引き受けていることが次第にわかる)は、両親の影響で、60年代の黒人闘争の精神を教えられている。彼女は、言う:黒人の重要なリーダーはみな殺された・・・生産工場が運動の指導者を生むのだが、生産工場が第3世界に移され、そのチャンスがはずされた・・・
◆メディアはもとより、日常会話などの偽善(たとえば、"fine")が暴かれるシーンがいたるところにある。ジャック・ウォーデンと医者だっだかがばったり会って、「どう?」と言い、"fine"を返す。そのくり返し。
(FOX)



1999-05-18

●スカートの翼をひろげて(The Lnad Girls/David Leland/1998)(デイヴィッド・リーランド)

◆景色よし、役者よし、映像よし――ただし、結末が月並みなので、全体が「よくある話」になってしまった。
◆線路に耳を当てている老人(これと同じことを終わりの方で息子がやる)。やがて2両連結の客車のついた蒸気機関車が着く。3人の若い女性たち。老人は、彼女らをむかえに来たのだった。それにしても、愛想がわるい男。
◆*音があまりよくない。中央の手前に音が集中している。
◆女性がたちが車に乗せられてたどり着いたところは、農家。牛がおり、乳をしぼる。牛の大きな乳房とペニスとのアナロジーを感じる女性たち。
◆爆撃で空が真っ赤になっているサウスハンプトンが遠くに見える場所という設定。
◆この映画を見ていて、ふと、映画にはにおいがないのだと思う。そうさせたのは、この映画がかなり物の嵩・物性のようなものをなまなましく描いているからだろう。牛小屋のシーンとか、緑の大地が耕耘機で耕され、新しい土がむき出しになるとき、そこから土のにおいがしないのが不思議に思われるのである。
◆ステラをスティーブン・マッキントッシュがオートバイに乗せて、走るシーンは、いかにも田舎道を突っ走っているという感じがする。
◆父親は1918年まで兵役に服していた。戦争はうんざりだと思っている。国家が地域に介入してくるのも嫌っている。だから、農地を増やすために、牧草地を開墾せよという国の命令に抵抗する。
◆徴兵のために健康診断を受けたジョーが、心臓に異常音があるというので失格する――これを喜んでしまうという描き方はしない。けっこうこの映画は保守的。父親が抵抗していた開墾をやってしまうのが若い女たちなのだ。
◆それにしても、この映画、女たちがつねに男に飢えているという設定で物語を進めているところがないでもない。邦題は、そういうところから生まれた。
(ギャガ)



1999-05-14_2

●菊次郎の夏(北野武/1999)

◆[ヘラルド試写室は鬼門? 開演少しまえに「高みの見物だぁ」とか言いながら入ってきた野球帽のオヤジ――それは、立川談志。まるで自分のうちみたいな感じ。例によって途中(浅草のシーンが終わったら)出ていった。隣でなくてよかった。が、そのころから、となりのオジサンがなにかガサゴソガサゴソ言わせはじめた。なんだ!と思って見ると、折りたたみ傘のひだを一枚一枚直しているのだった。何で今?]
◆少年正男(関口雄介)が主人公のように見えるが、この映画は、「正男の夏」ではなくて、「菊次郎の夏」であるところがミソ。これは、菊次郎の夏の夢なのだ。
◆誰にも、少年のときの思い出と、もう一度少年にもどってみたいという願望がある。そういう思いにうったえようとするのがこの作品のねらいだ。
◆正男がサッカーのボールを持ってグランドにいるのを俯瞰で撮っているシーンは、いかにも孤独でございという感じで月並みだが、一体に、臭みのない映像。
◆浅草や競輪場のシーンの作りはうまい。ビートタケシは、変に「強い」役よりも、こういう半端なちんぴら風のキャラクターを演じた方がいい。
◆音のとりかたも繊細。
◆正男役の関口が最初に出て来るとき走っているが、走り方にペーソスのある役者。
◆浅草までのシーンは、非常にいいのだが、タクシーを無断で運転するシーンあたりからわざとらしさが目立ってくる。そして、タケシ軍団の井手らっきょが出てくるころには、テレビのりになったくる。
◆正男の夢に出てくる麿赤児の舞踏とか、少し後で天狗が勅使河原三郎風に踊る舞踏、もっと後で、ビートタケシが山伏や新撰組のかっこうで出て来るシーンは、なんか外国受けをねらっている感じ。
◆こういうサービスのなかでは、細川ふみえの彼氏役で出ている男(ザ・コンボイの黒須洋壬)が演るロボット的な大道芸。
◆いつまでたっても来ないバスの停留所で、ビートタケシは、自分だけ車で去る男に「百姓!!」とののしる。また、ヒッチハイクしようと、白杖をついた盲人のふりをするが、これは、マスメディアにおける「差別」過敏症に対する彼のチャレンジなのだろうう。しかし、どうかね、これは?
◆菊女郎が眠る正男を膝枕させながら、「この子もおれと同じだな」とつぶやくシーンがあるが、この映画は、菊次郎がつかの間子供になって遊ぶ映画である。だが、探しあてた母が、すでに再婚して別の家庭を作っていることを知ったあと、(特にグレート義太夫/井手らっきょ組との出会って、いっしょにキャンプするシーン)正男と菊次郎の遊びがエスカレートしていくこともあり、どう見ても、がっかりした正男を菊女郎がなぐさめようとしているという感じが強く出てしまう。そして、そんなにサービスしなくてもいいんじゃないの、という気になってしまうのだ。
◆まあ、車が停ってくれないので、道路に釘を立ててパンクさせようとするあたりは、菊次郎年令の男が、子供時代にやったことをいま子供といっしょにやって、ノスタルジックに楽しんでいるという感じはするが。
(ヘラルド)



1999-05-14_1

●催眠(落合正幸/1999)

◆まず、音の録りかたが荒いのが気になる。試写室の音響設備の問題かもしれないが、ステレオになることもあるから、やはりワンポイントで録音しているのだろう。観客への心理的効果をねらった(神経をさかなでするような)音もあるので、わざとのつもりかもしれないが、その効果は出ていない。音の粗雑な大きさだけが強調される。
◆台詞がみなうまくない。特に、監察医を演じる佐戸井けん太のうそぶいたようなしゃべり方は、レジオドラマや新劇の定型。
◆宇津井の家を訪れた稲垣が、ジンかウィスキーを出されて飲み、むせるシーンの平凡さ。
◆催眠術師の升 毅が菅野を脅したあと、「ウワッハハハ」と笑う笑い方は、ステレオタイプ的に「気味悪さ」を出そうとするドラマのなかにしかない。
◆催眠のかけ方があまりに型にはまりすぎていて、リアリティがない。こんなんでかけられの、と思ってしまう。稲垣吾郎のカウンセラーは、とてもプロには見えない。彼は、「催眠はとことん誤解されている」と言うが、この映画もそういう元凶の一つ。
◆菅野美穂が、多重人格で、「わたしは宇宙人・・・」というシーンは、ドラマのなかの演技としても、見て入られない。
◆この映画では、特に警察署内で、みんなまるで子供のようにあすぐに言い争う。
◆真相をようやく理解しはじめた宇津井健が、催眠の本を読みはじめるが、その本のタイトルに Das Wesen....というドイツ語が見られるが、開いているページは、えらく時代ものの感じ。こんなものを読んで役にたつのだろうか?
◆黒沢清以来、サイコものが日本では流行りになっている。宇津井健は、映画のなかで、「人は脈絡なく死ぬようになった」と語り、署長も、「みんあ死にたくなる世の中だ」と語る。
◆人がたくさんいるシーンで「外国人」が目立つ――国際化の時代を絵いしているわけ?
◆いいのは、ほとんどみんな死んでしまう結末か。
(東宝8F)



1999-05-12

●25年目のキス(Never been Kissed/1999/Raja Gosnell)(ラジャ・ゴスネル)

◆このごろシカゴを舞台にした映画が多い。ニューヨークは、いま、つまらなく華麗になっているが、そのことと映画の舞台がニューヨークに移っていることとは関係があるはずだ。
◆最初、シカゴ風というのか、すごくテンポのはやいダジャレ的な会話が続き、そのまま高校生のガキ世界に突入するので、ツイテいけないなという感じになったが、全然そうではないのだった。けっこうおもしろい。その世界を全面肯定しているかのようにはじまりながら、そこへの批判もある。所詮は、すべてハリウッド「ノリ」の映画だが、とこととんハリウッドスタイルでやるのがいい。最後に教師が現われるところなんか、ほとんど「現実性」がないのだが、そこがおもしろい。
◆「白いジーンズは1983年以後はない」
◆「プロム」[(prom > promnade):高校で学年末に行なわれる舞踏パーティ]のシーンが実際よりも誇張されているとしても、こういうものがあるのは、日本と全くちがう環境。
◆リーリー・ソビエスキーは、メガネをかけたいじめられやすい高校生を演じているのだが、その芝居の質がちょっと別格という感じ。デキる役者だ。
◆いくつかの世界の相違:
・新聞社:ワンマン社長がいて、仕事ができないとどんどんクビにされる世界(それをユーモラスに)
・ハイスクール:イジメがあり、歴然と階層がわかれている;君臨する者とはじかれる者
・弟(デイビッド・アークェット)の野球世界
◆全部描き方が中途半端なのだが、そこがおもしろい。
◆ところで、高校というのは、ある程度歳をとってから行ったほうがいいのかも。
(FOX)



1999-05-11

●鉄道員(ぽっぽや)(降旗康男/1999)

◆ノスタルジアの時代なのだろうか? この映画のテーマは、「センチメンタル・ジャーニー」(高倉の妻だった恵利チエミのヒットソング)。
◆モノクロとそれに薄く人着したような画面が美しい。最初モノクロで出て来る過去のD51機関車の映像が雪のなかを走り、カメラが機関車の釜を映すと、そこだけうっすりカラーになっている――『アラー・オブ・ハート』に似た技法。
◆リストラで組織から追い出される人間が増えているいまの時代には受けそうな雰囲気。
◆しかし、乙松(高倉)のように、鉄道のために家庭も私情も犠牲にしてきたという「がまん強い」態度をこの人物の個性(「横滑りがきかない」と乙松は言う)や特殊性に還元すべきではない。こういう人物が億といたし、いまもまだいるわけだが、これは、日本の組織がそういう個性や特殊性を要求してきたのであり、つくってきたのだと考えるべきだろう。家族や個人のレベルを欠いたシステム。
◆新しいタイプの「雪女」伝説。最初、カマトトぶって、いつも笑っている広末が気になったが、「雪女」ならしかたがないと思う。
◆広末の出て来るシーンは、一見、唐突な感じがするのだが、色を替えながらの回想シーンが何度も出たあとなので、「現実」のシーンのトーンで描かれているこのシーンが、実は幻想的なシーンであることがわかったも、それほど不自然か感じはしない。
◆「うちは、赤旗も日の丸もごめんだ」と、奈良岡朋子演じる食堂の女主人ムネは、d=炭坑労働者のけんかを仲裁しながら言う。
◆「462や751が戦争で負けた日本を立ち直らせると親父に言われてぽっぽやになった」と乙松は言う。
◆大竹しのぶは、うまいのだろうが、なんか『学校 III』とそっくり。「ついてない」女の「せつなさ」を演技させたらこの人をおいてないという感じになっているのは、どうか。
◆同僚の仙次(小林稔侍)と乙松との関係は、西欧的な観点からするとホモセクシャル的である。かつてカフカは、官僚制のなかに新たなエロティシズムとセクシャリティを洞察したが、日本の伝統的な組織のなかには、男と男とのあいだにホモセクシャルとは異なるが、実質的には同じセクシャリティを発見できる。彼らは、直接の情交はしないが、その関係は非常にセクシャルである。
◆酔っ払った仙次を世話する乙松が、畳にお仰向けに寝ている仙次の上にかぶさる形になったとき、彼は、昔、トンネルのなかでガスにやられた仙次を助けたときのことを思い出す――だが、そのシーンは、単なる回想を越えて、もっとエロティックだった。
(大映7F試写室)



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