粉川哲夫の【シネマノート】
  HOME      リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)


1999-07-30

●エステサロン ヴィーナス・ビューティ (Venus Beaute/1999/Toni Marshall)(トニー・マーシャル)

◆ワーナーに『マトリックス』を見に行ったら列が出来ており、2、3人まえのところで満員になった。30分まえである。コーヒーを一杯飲まなければ、入れた。メディアボックスに行こうと、タクシーに飛び乗ったら、京橋の「中公」も「新日本証券」も知らない運転手。新橋で下り、TCCへ行く。
◆ロベール・オッセンも出ているが、金にあかせて娘につきまとうな朴訥な初老の男を端役で演じている。主役は、「もう愛に絶望した」とかで、もっぱら性愛に熱心な40女を演じるナタリー・バイ。キャフェテリアでほとんど売春婦の手口で男を拾い、インスタントな性愛を楽しむ。が、この映画では、ほとんどセックス・シーンはない。逆に、ある意味で、すべてがセクシャルでもある。エステ・サロンでのマサージやさまざまな処置、会話・・・がすべてがセクシャルであり、ときにはエロティックである。
◆ナタリーは、疲れていて、そのくせセックスに飢えている女を巧みに演じている。こういう女は、よくいるが、演じるのは難しい。
◆そういう彼女につきまとう男。彫刻をやっているというが、実感はない。彼は、「愛」の側から彼女に近づくが、女は、もう「愛」を信じていないという構図的なやり取りがあって、やがて、この男がエステに客として現われる。
◆すっきりしない映画だが、エステのホステスと客の関係こそが最も「理想的」な性・愛関係であるといっているようなところがある。
◆ポワティエという町が出てくる。ナタリーの故郷。かつて、そこで銃の暴発で恋人を傷つけ、パリに出てきた。
◆身体を焼きに来る露出狂の女がいる。このシーンは、ボカシなしだった。当然。
(TCC)



1999-07-28_2

●ウェイクアップ・ネッド (Waking Ned/1998/Kirk Jones)(カーク・ジョーンズ)

◆これも、独特の笑いにあふれた作品。
◆イントロは、テレビで宝くじの抽選をやっていて、それを見ながらイアン・バネンが手に汗にぎるかのような雰囲気で、自分のくじと番号を照合している。「あ、あと4桁で当りだ」という声を聞いて妻が(それまで持ってきてくれたいっても持ってこなかったアップルパイを持って)テレビの前にくる。が、「当たった」と言いながら、クジを粉々にちぎってまいてしまう。「クジにははずれたけど、うまいアップルパイにはありつけた」と。
◆当たりクジを買った者がこの村(タリーモア)の人間だあることを知ったイアン・バネンは、その人物を探しはじめる。そのやり方がおかしい。村の人口は52だというから、それほど難しくなない。しかし、探し当てたその人物は、クジに当たったショックで死んでいた。
◆ここからの話は読める感じがしたが、ここには、本来の意味での「共産主義」がある。「所有」(独占)よりも共有を。イナカ性の弁証法的展開。
◆ダブリンから派遣された宝くじの会社の調査員に対する村人たちの対応のなかに、都市に対する不信と軽蔑の感情が出ている。「調査員たって、どやって区別するんだい?」「くしゃみさ」都会の人間は、村の空気になじめず、アレルギーが出てしまう。
(メディアボッックス)



1999-07-28_1

●ウォーターボーイ (The Waterboy/1998/Frank Coraci(フランク・コラチ)

◆この独特のノリとユーモアはどこかで体験したことがあると思ったら、『ウェディング・シンガー』と同じ監督だった。
◆つくりはB級だし、他愛がないことの連続なのだが、ぐいぐいと引きつけられる。
◆父なき家庭におけるマザー・パワーとマザコンは、大なり小なりアメリカの現実である。キャシー・ベイツは適役――今回はセクシーですらある。
◆ここでも、(いずれ尊敬にかわるとしても)イジメが前面に出てくる。最近のアメリカ映画はイジメが大好き。
◆ヘンリー・ウィンクラー(監督)もまた、トラウマ(精神的傷痕)をもっているが、登場人物は、みんなマトモではない。アダム・アンドラーの恋人役のヴィッキー(フェルザ・バルク)は、見るからにアウトローの顔をしている。
◆R&Bをふんだんに使った音楽の選曲もいい。
◆CGの使い方も、非常に安い(たとえば、対戦相手の顔を見ているとそれが、かつて自分にイジワルをした人物の顔にモーフィングするなど)のだが、それが的確なので、実に効果的である。
◆訳では、「想像力を持て」となっていたが、英語では、「Visualizeせよ」である。そして、対戦相手に対しては、「pretend」が主要な武器になる。visualizaton-pretendの弁証法。
(ブエナビスタ試写室)



1999-07-19

●エイミー (Amy/1997/Nadia Tass)(ナディア・タス)

◆これは傑作。
◆ロックのスターであった父親の事故死を目撃して以来、聾唖になってしまった7歳の娘が言葉を取り戻すまでの話。
◆非常にオーストラリア的な作品。
◆州の福祉局の役人たちの官僚的な姿勢が批判される一方で、警官は地域住人の味方として描かれるところがオーストラリア的。口のきけない子が、歌ならばわかるのかどうかで、路上の争いになり、警官が来る。事情を聞いた警官は、みずから大声で歌い出す。そういうことが実際に起こるかどうかは別にして、こういう転換と設定がいかにもオーストラリア的だと思う。
◆福祉局の役人が、子供を学校にやらないことについてあれこれうるさく言ってくるのにいやけをさした母親タニヤ(あの『革命の子供たち』で熱演したレイチェル・グリフィス)が、2人でメルボルンの貧民街にアパートを借りる。いいかげんだ不動産屋があたりのひどさが暴露するにつれて、レントを週180から100ドルまで下げる。
◆ミュージカルと意識し、役者たちが普通の語りから歌う調子の語りに移るシーンがあるが、それが、単なるミュージカルの手法を取り入れたといったものではなく、人が歌うようになるのはどういうときか、歌でしかコミュニケートできない人がいたときに自分をその位置に置く美しいやり方、を考えさせるのである。エイミーが誘拐されたのではないかというので住人と警官が彼女を捜すシーンに、それが最もよく出ている。とにかう、いつも自分勝手でイヤミなことばかり言っている老女まで、ソプラノで歌いながらエイミーを捜すのだから。
◆ポスターや解説に、エイミーの父が電気事故で即死するとあるので、観客は映画を見る前から物語の背景をかなり知ってしまうことになるが、フラッシュバックを積み上げていって、その瞬間をハイスピードで撮る展開は非常に映画的であり、そんな既存の知識をどうでもいいものにする。映画の結論を聞いてしまうと映画を見る楽しみが半減するとかいう意見があるが、そんなことで半減するような映画は、映画的表現の力が弱いのである、ということを示す例がここにある。
◆謹厳そうな精神分析医が、エイミーが歌ならわかると聞いて、いきなり診断の長椅子に横たわり、「ゴット・セイブ・ザ・クイーン」を歌い出し、母親が、「国家を寝て歌うんですか?」という、オーストラリア的ユーモア――こんな歌、根ながらじゃなきゃ、歌えないよ、という皮肉。そのあと、エイミーは、電車にのって、「ゴット・セイブ・ザ・クイーン」を歌い続け、母親を困らせ、「ここはイギリスじゃないのよ」と文句を言う乗客もいる。オーストラリアでは、昔から国歌論議があり、労働歌の「ワォルチング・マチルダ(Waltzing Matilda)」を国歌にしたらどうかという意見もあった。イギリスの国歌をそのままオーストラリアの国歌にすることには、相当の反対があった。1974年以後、国歌の改正の動きが強くなり、最終的にAdvance Austraslian Fairが国歌になった。いまでも、「ゴット・セイブ・ザ・クイーン」が本来の国歌だと思っている者もいる。
◆タニヤの父親は、最初の方に出てくるが、たしかイタリア語をしゃべっているように聞こえた。が、タニアがのちにアルバイトをするのは、タンゴの踊りがあるスパニシュ・レストランであった。エイミーの回復に最初に関心をもつ隣の若者ロバートもタンゴがうまい。あの一角はスパニシュ・コミュニティなのか?
◆エイミーを演じるアラーナ・ディ・ローマは、猛烈歌がうまい。全然しゃべらない子が、いきなり歌い出し、それが並でないというのは、テクニックとしては非常に効果的。
◆この種の治療に経験のある医師が、最後に、歌を通じてエイミーを誘導し、彼女が、父親の死に自分が荷担したという錯覚の責任を感じ、それがトラウマになっていることを引き出し、それによってエイミーは、一挙にしゃべることができるようになるのだが、こういうことは、実際にはありえないかもしれない。しかし、それが映画にとってどうだというのか?
(メディアボックス)



1999-07-15_3

●アイズ・ワイド・シャット (Eyes Wide Shut/1999/Stanley Kubrick)(スタンリー・キューブリック)

◆席がスクリーンから遠いのではないかと心配したが、1階12列43番で、自分で選んだであろうような席だった。ワーナー君、今回は感謝。
◆基本的に、ドラマのなかでどれが「本当」なのかわからないということ、人間関係とくに夫婦関係なんてものは、双方の妄想や誤解や思い込み次第でどうにでもなってしまうし、そもそもセックスというのは、そういうヴァーチャルな性格をもっていること――こんなことを考えさせはする。しかし、今回は、これぞキューブリックというところはない。
◆わたしは、ニューヨークの街頭のショットを「実写」だと思った。それは、すべてロンドンに作られたセットによる映像であった。
◆セットとして「ニューヨーク」を「再現」する場合、そのディテールに細心の注意をはかる。そもそも、映画で「ニューヨーク」を描きたいと思った場合、「本当」のニューヨークを使う場合でも、「ニューヨーク」らしからぬ要素は排除しようとするだろう。ディテールを気にしないで済むのは、どこにもない場所として設定する場合だけである。だから、特にセットを組む場合には、観客の眼をだます、あるいは、観客を特定の意図的な知覚環境に置くということが必然的にともなってくる。
◆仕掛けるという意味では、この映画は、仕掛けだらけである。なぜ、トム・クルーズ(ビル)は、自分で車を運転せずに、イエローキャブばかり利用するのだろうか? ビルとアリス(ニコール・キッドマン)は、決してリッチな生活をしている階級には見えない。シドニー・ポラックのパーティで二人で踊りながら、「どうして毎年招待されるんだろうね?」と話しあうのは、彼らが、このようなセレブリティの集まりとは無縁であうることを示唆している。
◆階級意識と仕掛け(パラノイア昂進術)については、『イメージフォーラム』に詳しく書いた。最近再発されたビデオ『バリー・リンドン』の最後に出てくる文章を確認できた。「物語の人物が生き、闘ったのは、ジョージ三世の治世である。善人も悪人も、ハンサムもブスも、リッチもプアも、いまはみ平等である」。これは、キューブリックの皮肉であり、彼は、平等など決してありえないと思っていた。そもそも、彼の映画が、自分の不平等に合わせてさまざまな妄想や幻想をみづから組み立てられるように出来ている。
◆7月31日の封切直後、有料のパンフレットが回収になったというニュースを聞いた。
(東京国際フォーラム)



1999-07-15_2

●エントラップメント (Entrapment/1999/Jon Amiel)(ジョン・アミエル)

◆初期の007のように、適度の身体性を保持し、登場する道具にも空想的な無理がない。ただし、預金を自動的にダウンロードしてしまうソフトの名が「エンヤ」(エンヤのCD)というのだが、これがどんなものであるかはあいまい。セットするのに成功したのに、なぜか誤動作して、はずしてしまう――この話はそれっきり。
◆エンターテインメントに徹し、変なメッセージよりも、おしゃれな設定とスタイルに意を用いる。
◆レンブラントの絵を盗み、そこにエルヴィスのポスターを貼っておくとか。
◆セキュリティ・システムのレーザー光線に見立てて、赤い糸をはり、その間をくぐる練習をするシーンでは、黒タイツをはいたキャサリン・ゼタ=ジョーンズの肉体(特にヒップ)の動きをエロティックに見せ、同時に、全体の動きを舞踏の1シーンのように見せる。
◆電車が去るとそれまでホームにいたコネリーの姿が消えるというのも、一つのスタイル。しかし、最後のシーンは、なくてもよかった。いかにもアメリカ映画のスタイルでばかげている。ホームでゼタ=ジョーンズがずっと待っていて、もう来ないのではないかというところで終わってもよかったし、そのあとのFBIに捕まるところで終わってもよかった――というより、そういう可能性を多重に想像させるとことであいまいに終わった方がよかった。
◆単なるアクションではないこの映画の性格は、ボンドがヘリを操縦してゼタ=ジョーンズを連れていく島の城の部屋のシーンによく出ている。孤独に住んでいる男の空間。マレーシアのスラムの撮り方も悪くない。とにかく、街頭マーケットにカーチェイスで突っ込んだり、ピストルをぶっぱなしながらスラムのなかを逃げ回るような撮り方はしない。
◆この映画には、ほとんど悪意の権化みたいなのがいない――これは珍しいことである。
(FOX)



1999-07-15_1

●ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ (Lock, Stock & Two Smoking Barrels/1998/Guy Ritchie)(ガイ・リッチー)

◆この春、ロンドンで見た。コクニー訛と街の言葉がよくわからなくて、ディテールが理解できなかったが、そのリズムとスタイルのユニークさに変わりはない。
◆ガイ・リッチーが、約束の取り立てをしてきてP・H・モリアーティに言うように、この映画は、一言で言えば、「エモーショナル」だぜぃ、という感じ。
◆街頭でサクラを使ったインチキ商売をやっているシーン。警官が来て、逃げる。黒字に白い文字で役者の名。音楽が説明的なナレーションになる。絶妙なリズム。
◆鍋の底から映した映像のように、さまざまなユーモラスのカメラアングルがある。
◆画面は、全体に黄ばんだセピアっぽい色調で仕上げ、フィクショナルな感じを出している。そのため、情報を吐かせるために裸にして逆さ釣りにしてゴルフのショットをするといった残酷なシーンも、ユーモラスに感じられる。
◆いきなりバーから火ダルマの男が飛びだしてくるシーンがあり、何の前後関係も示されないが、しばらくしてその理由が、現場にいた人物が仲間に話すという形で示される。
◆ロックの使い方が実にうまい。エディ(ニーク・モーラン)がカードに負け、フラフラしながら外に出てくるシーンなど最高。なんでこんなにロック(ロックでありながらハウスの要素も入っている)の使い方がうまいのだろうと思ってしまう。
◆最後のシーン:男が一方の手で欄干をつかみながら、他方の手でアンティックの銃が2丁入った袋を握り、口に携帯電話をくわえて奮闘している。携帯が鳴るが出られない。電話は、その銃が何万ポンドもするものであることを知ったエディたちが、捨てるのをやめさせようとしているのだが、男は出られない。
(ソニー試写室)



1999-07-14

●ポーラX (Pola X/1999/Leos Carax)(レオス・カラックス)

◆最初にちょっと出てくる空爆のモノクロ映像は、第2次世界大戦の時代のものだろう。このあと出演者の名が出て、すぐにカラーになり、広大な庭のシーンになる。
◆全体に集音が近い感じ。
◆激情の振幅は、『ポンヌフの恋人』に共通している。難民のイザベラ(カテリーナ・ゴルベワ)は、セーヌに飛び込む。
◆バルカンの若者たち(と思われる)がスクウォットしている巨大な工場跡(あるいは倉庫跡)が出てくる。そこで、人々は、コンサートをやり、たむろし、武装訓練をしている。
◆スクウォット・ハウスで新たな滞在者のたびにどこからか鉄のドアーを持ってきて取りつけるシーンがある。
◆ショットのつなぎで決してフェイド・イン/アウトを使わず、単純につないでいく手法。
◆サウンドは、音楽を最少にし、環境音のメカニックな側面を強調しながら使う。バイクのエンジンの音、鉄のドアのきしみ。その意味で、スクウォット・ハウスでのインダストリアル・テクノっぽい演奏は、このスタイルにぴったり合っていた。
◆オートバイの転倒シーンが何度か出てくるのだが、これは、なんかカラックスの「激情」志向の満たされなさを埋め合わせているような気がする。ドゥヌーブも暗い夜道にオートバイを走らせ、転倒して死ぬのだが、ドゥヌーブにバイクを走らせるなどおかどちがいである。慣れない人間が乗ったから事故を起こしたという論理はシャレにならない。バイクのメタファー?
◆「人を罰すれば、人から罰せられる」とムジールが言ったという台詞が出てくるが、ムジールはそんなことを言ったのだろうか?
◆従兄のティボー(ローラン・リュカ)の口に銃口を突っ込んだとき、次の瞬間に現われるシーンがすぐに読めた。後ろのガラスが粉々に砕け、ティボーが仰向けに倒れるだろうという。
(映画美学校)



1999-07-13_2

●オフィース・キラー (Office Killer/1997/Cindy Sherman)(シンディ・シャーマン)

◆低予算のスティーブン・キング・ムーヴィーの感じ。
◆サエない女が意地の悪いオフィスの同僚や上司を次々に殺して(それが計画的というよりも、情緒的で殺しの雰囲気がないのばおもしろい――そのくせ、死体を自宅にシンディー自身の作品のように飾ってある)、最後は、車で次の街に移動するシーンで、この恐るべき女があなたのオフィスにつとめるようになるかもしれないよ、「マネージャーよご注意」といった感じでジ・エンドになる。ここまでいくのなら、もっとセクシーになってもいいのではないか?
(本郷角川ビル試写室)



1999-07-13_1

●GO! GO! L.A.(Go! Go! L.A./1998/Mika Kaurismaki)(ミカ・カウリスマキ)

◆スコットランドのブラッドフォードで葬儀屋をやっている青年リチャード(デイヴィッド・テナント)の言葉がロスに行って、おっとりした感じを失っていくプロセスはおもしろい。
◆いかにもイギリスから見たアメリカ。
◆期待したヴィンセント・ギャロは引いた演技。
◆主人公が壁に貼っている大きなポスターのなかのジョニー・デップの顔が動いたりするように、夢想や想像のイメージがしばしば挿入される。
(メディアボックス)



1999-07-12

●ノッティングヒルの恋人 (Notting Hill/1999/Roger Michell)(ロジャー・ミッチエル)

◆会話に遊びがあり、しゃれている。
◆ヒュー・グラントが出ているせいか、この映画の根底にはゲイ的関係があり、そのうえで展開する人工的な異性愛の話なのか、といった「創造的」な解釈が思いつく。
◆ヒュー・グラントは、わたしには、『モーリス』のためか、ゲイのイメージが強い。
◆だから、この映画のなかで、いっしょに住んでいるスパイク(リス・エヴァンス)や、経営している本屋の店員マーティン(ジェームズ・ドレイファス)との関係は、単なる男性同士の関係ではなく、ゲイ的なものなのではないかという気持ちが起きる。
◆そう考えると、どんどん新たな解釈が生まれ、アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)がヒューに好意を持ったのは、そういうことを前提にしてのことではないか・・・
◆『ローマの休日』を真似ているというが、ジュリア・ロバーツには、それほどの「高貴」さや「カリスマ性」がなく、そのうえ、ヒュー・グラントが非常に存在感のある俳優なので、かえって、2人の出会いが、オスカーまでとった「世界的なスター」と「しがない町の本屋の中年男」との出会いのようには見えないのである。むしろ、2人は出遭うべくして出遭ったカップルという印象が強い。ま、そういう見方をすると――予定調和的な出遭いの物語――観客がどういう経過を経て予想したようになるのかを楽しむ映画として見れば悪くはないという気がしてくる。
◆それにしても、ヒュー・グラントの演じるウィリアム・タッカーという人物は、(いまのハリウッド映画のことは何も知らないが)知的で自分を偽らず、アグレッシブでもなく、アナ・スコットでなくても、魅力を感じてしまうような人物像になりすぎてはいないか?
◆そういえば、『ローマの休日』だって、グレゴリー・ペックがいくら平凡ぶってもダメなのだ。この辺が、ボーイ・ミーツ・ガール映画の問題点である。物語としての設定と、映像を通して感じられる人物像とのあいだのあまりのギャップ。結局、この種の映画は、その物語を見せているのではなく、最初から決まっているロジックがどう成立するか、あるひは不成立になるかを見せるのである。
◆ウィリアムの妹の誕生日に、初めてアナが来て、みんなで、誰が一番不幸かを物語って競うシーンがある。あの雰囲気は、アメリカ的とも違っうイギリス的な雰囲気だと思う。
◆自分との関係が新聞に書かれてしまうということに関して、ウィリアムは、「新聞なんて1日じゃない、翌日には捨てられる」というと、アナが、「とんでもない、新聞は永遠よ、一度載ったら、永遠に引用される」というようなことを言うシーン。
◆仲間との関係が重視された映像。
(丸の内ピカデリー)



1999-07-09_2

●パラサイト (The Faculty/1998/Robert Rodriguez)(ロベルト・ロドリゲス)

◆どれをとっても、この手の映画の定石を踏んでいるにすぎないのだが、それでいてひきつけるものがある。役者の配列も悪くない。ロバート・パトリックのように、どうしても『ターミネータ2』で異星人をやったということを前提に見られるアレンジだが、それがかえって効果的。
◆いまの高校生(というより、映画が高校生を描くスタイル)が、昔よりナスティになっているのか? 『25年目のキス』でもそういう感じがあった。
◆日本などは、別に「謎の生命体」の寄生を受けなくても、学生はみな一様の反応・行動をする傾向があるが、この映画では、そうなってしまうことを描くことによって、すでにアメリカでも出ているであろうと思われるそうした傾向を揶揄している。
◆「謎の生命体」がコカインに弱いという皮肉。
◆人とつき合うのが嫌いで、レズのふりをしているクレア・デュバルがなかなかいい。SF狂で、「Invasion of the Body Snatchers(『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』は、ジャック・フィニーの小説にもとづいているが、フィニーは、ロバート・ハイライインの『人形つかい』をぱくった」といった台詞を吐く。
(ギャガ試写室)



1999-07-09_1

●ハリケーン・クラブ (Harricane Streets/1998/Morgan J. Freeman)(モーガン・フリーマン)

◆ニューヨークを舞台に、若者の感覚をよくとらえていると思っていると、精力ギレのような終わり方をする。
◆店から一旦出てきて、それからウィンドのまえで躊躇したのち、決心したように目出し帽をかぶった青年がピストルを引き抜いて店に入って行くシーン。これがモノクロで出る最初のシーン。これが、最後近くでカラーのフルショットになる。
◆河沿いの廃墟の一角にある地下シェルター跡(?)が若者たちの隠れ家になっていて、一応マーカス(ブランダン・セクストン・サード)がリーダー格だが、トップになりたくてカッコばかりつけているチップ(デイヴィッド・ローランド・フランク)がグループにゆらぎを作っている。マーカスは、グループでCDをかっぱらって学校(PS57)で売りさばくところまではやるが、チップは、窃盗からドラッグの売買へエスカレートしていく気配である。
◆マーカスの母は、暴力をふるう夫を殺して獄中にいるが、マーカスには、密入国者の入国を手伝う活動をしていて捕まったように言っていた。祖母はバーをやっている。そこに出入りする怪しげな初老の男も、警察に追われて、怪我をする。マーカスが知り会う同じ高校の女子生徒メレーナ(イザドラ・ヴェガ)は、父と二人で暮らしている。その父は、変質的に娘を愛し、マーカスとつき合うのを嫌う。
◆こういったプロットは、特に新鮮味はないが、退屈でもない(現場感覚はある)。
◆後半で、天井のマイク(撮影用)が見えてしまうシーンが一カ所ある。こういうのを放置して出す神経はなんだろう?
(シネカノン試写室)



1999-07-07_2

●EM エンバーミング(青山真治/1999)

◆死体に化粧をほどこすエンバーミングの装置を見せたのち、マンションのソファーでロラン・バルト『恋愛のディスクール』を読み、ワインをグラスに空けてカッコつける高島礼子。なんか、この辺でガックリする。
◆最初、「日本のクルストファー・ウォーケン」松重豊との会話がしっくりしない。演技が青臭い。高島が目線の合わない気のないしゃべり。
◆解剖シーンは、よくできている。臭いは感じないが。
◆慈恩(本郷巧次郎)の存在が無意味。
◆また多人格のテーマ。もういいよ。
◆鈴木清順がガスで襲われたあと、ビールを飲むシーンがあるが、そのときビール瓶はラベルを隠すようにテーブルの上に置かれている。こういう些細なディテールに、この映画の及び腰が出ている。しかし、鈴木が、「生きているうちが華なのよ」とつぶやくと、場内に笑いがもれた。
(東宝東和一番町分室試写室)



1999-07-07_1

●ホーホケキョ となりの山田くん(高畑勲/1999)

◆NHKや朝日新聞で「庶民」を描かれるとひっかかるときの感情がよみがえる。うん、いいけど、ちょっとちがうんじゃない、という感じなのだ。
◆そういう「とほほ」感覚を制度化しないでほしいという気もする。そんなもの、どこにもないからである。むしろ、古典落語の味かな?
◆昨日もカレーだったから、今夜の献立は変えないと、と悩んでいるまつ子が、ぽんと手を打って、「そうや、思い切って、カレーや」というおかしさに典型的にあらわれているように、所詮、漫才か落語の世界にすぎない。
◆猥雑さの全くない世界。
◆サブカルが体制内化される例の典型。いしいひさいちの「とほほ」感というか、なさけなさ、三枚目の雰囲気は、番犬のポチの表情ぐらいにしか残っていない。
◆画像はきれいである。区切りに俳句を置くのもシャレている。矢野顕子の音楽・ソングもいい。しかし、こういうコギレイな場に置かれた「庶民」というのは、どういうものなのか? 所詮、『となりのやまだ君』は、朝日という場で許容されているマンガである。
◆ケ、セラセラ、なるようになる・・・未来は見えない、なるようになる
◆12チャンネルがウィークデイの午前6時からニューヨークからのライブで放映している「モーニング・サテライト」で、少しまえから「ケ、セラセラ」が流されていた。いま、この歌は時代の気分にマッチする。矢野顕子は、そういう感覚をうまくつかんで、使っている。
(東劇・松竹試写室)



リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート