粉川哲夫の【シネマノート】
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1999-09-27

●雨あがる(Ameagaru/1999/Koizumi Takashi)(小泉堯史)

◆役者とスタッフが舞台で挨拶。アスミックの挨拶大好き(?)の竹内伸治氏が司会。寺尾はいい味になった。黒澤久雄は、しきりに仕切ろうとするあせりが感じられる。三船史郎は、親父のまねの大ざっぱがけっこういい。宮崎は、なんかばかみたい。
◆出入り口の安全灯をカバーしたのは、賢明。蝋燭の灯火のような繊細な作りのこの映画は、暗闇の空間でないと、その味を味わえない。
◆黒澤久雄がしきりに「黒澤組」を強調していたが、たしかに、この映画の画面からは、旧来の映画の作り方――つまり、あたかも「同じ釜の飯を食う」かのような合宿の気分で映画を作る――がひしひしと伝わってくる。
◆考えて見ると、この映画、みなそれぞれに親父の冠を気にしながらつくったような作品。その意味で、見ている方としては、息子たちがちゃんとやっているかどうかが気になり、はらはらさせられるようなところがある。特に三船がそうで、会場の一角に陣取った「黒澤組」の連中のあいだから、彼が演技をするたびに笑いが上がった。それは、失笑の笑いではなく、「ご子息、よくやった」という身内的な安心感の笑いだった。実際、彼が殿様役をやったのははまり役だった。
◆寺尾の剣づかいは、なかなかしっかりしたものだった。
◆こういう映画は、どうしても「論理的」な欺瞞というものがつきまとう。映画としてはどうでみいいのだが、そこには、映画としての矛盾のほころびも見出される場合がある。たとえば、寺尾が、藩の城主から呼ばれて初めて城に出向くとき、「困った、こんな着物では・・・」とつぶやくと、宮崎美子がすかさず、よそいきの羽織(?)(わたしは着物の知識がない)をさっと出す。まさに「山内一豊の妻」をやるわけだが、こういうものをいつも所持している割りに、最後の方で、大井川を渡るシーンでも、山添いの道を二人で歩いていくシーンでも、ほとんど荷物を所持していない。な~んか、へんだなー。
◆寺尾をはじめとして、仲代達矢(辻月丹)も三船(永井和泉守重明)も、通常の時代劇の世界でのように意地を張ることをしない。ある種の「やさしさ」と「素直さ」をもった関係を旧世界のなかに仮構することによって、不思議な世界を作ろうとしている。ちょっと、善人ぶりすぎているところがないでもないが。
(東京国際フォーラム)



1999-09-24

●白痴(Hakuchi/1999/Tezuka Shin)(手塚真)

◆暗い画面の背後で赤ん坊の泣き声がする最初のシーンからの18分間は、世紀の傑作が生まれたと思った。第二次大戦の焼け跡、広島の原爆投下後の廃墟、延々と広がる瓦礫の砂漠を思わせる空間で色あざやかな衣装をまとったファッションモデルの写真撮影が行われるとい妙とアイロニー。それからタイトルが出て、まがりくねった路地がつらなる戦前の玉の井を思わせるような空間の俯瞰から、それをねじるような動きで降りていくカメラアングルの斬新さ。ナレーションは白々しいが、首を吊ろうとしている浅野の家にカメラが移り、終戦直後の下町的な家の風景。ちゃぶ台、庭には鶏がかけずり、豚までいっしょにいる。急に空に爆撃機(プロペラが6搭)が現れ、空襲警報が鳴る。
◆しかし、場面がテレビ局に移ると、たちまち低俗になってしまった。そもそも、かなたにそびえるバベルの塔風の建物と廃墟、廃屋のなかや廃墟の野外にテレビがあるという設定は、『マックス・ヘッドルーム』のへたな二番煎じである。
◆もっと最悪なのは、テレビ局のなか。軍隊式暴力を振るいつづける原田芳雄は、完全に場違いだし、銀河という「超アイドル」の存在も、説得力がない。
◆必ずしも橋本麗香が全然ダメとは言わないが、設定された「超アイドル」を演じるには、全くアウラが欠けている。歌の下手。演技は、「新劇」的であって、映画では空虚な印象ばかりが目立つ。
◆銀河の秘書役の女が「あんた命をなくしてよ」といういい方をするが、こういうせりふは「新劇」にしかもうない。たしかに、この映画は新劇的である。
◆原田にしても、橋本にしても、型にはまったイジメしか能がなく、全然怖さもスゴさも感じられない。すべての問題は、手塚が批判的に描こうとしていることが、そもそももはや批判の対象にはならないということだ。イジメはどこにでもある。退廃的であることを描くために用意した(テレビ局の連中が)ドラッグをやっているシーンにしても、あまりに古すぎて、笑うにも笑えない。岡田真澄の醜悪さも使いようだが、ここでは、ただただレベルを下げただけ。
◆近未来的なイメージと過去的なイメージをないまぜにするやり方は、「ポストモダン」美学で使い古されたが、それをいかにも無教養になっている感じ。それならば、テレビ局は、有形的でなくして、物理的にはあちこちに分散し、それらをネットで統合するようなやり方が好ましい。テレビ局のなかや、銀河がいる護衛付きの部屋の「モダニズム」は何だ? 
◆銀河は、ショーペンハウアーの『意思と表象の世界』を読み、タイ風の衣装を着けた召使に「コプンカー」(タイ語のありがとう)と言う。番組のなかでも、タイ風の帽子が出てきた。何でタイなのか? わたしには、安易な印象しかなかった。
◆浅野忠信は、ずっと煮え切らない人物を演じるが、あまり意味があるとは思えない。彼が首を吊ろうとする初めの方のシーンもつまらない。いいのは、かれが焼け跡の間の道を歩くところ。なんかぴったりしている。彼は、8ミリ映画作家という設定だが、彼が8ミリカメラを動かすときに仕草がでたらめ。あれじゃ、8ミリは撮れない。まるでビデオカメラの撮り方なのだ。手塚は8ミリには詳しいはずだから、これは意図的なのか?
◆甲田益也子は、手塚の長年の説得の末の出演だそうだが、目がファッションモデルのままなんだな。ナレーション(坂口安吾の原作を読んでいるわけだから、必ずしも整合しなくてもいいのだが)一応、サヨは「白痴」、木枯(草刈正雄)は「気違い」ということになっている。が、木枯には「奇行」(雪の日に屋根に登って扇を使いながら舞をやるとか)があるとしても、サヨは、ちゃんと話が出来る。なんか、約束違反だなという気がする。もっと高度な作りで、このギャップを考えさせるというのではないから。
◆木枯の家に浅野がまぎれ込むシーンは悪くない。どうも、手塚は、閉所を描くのがうまいようだ。ここに並んでいる石作品(顔が描かれている)は、どこかで見たような気がする。「人間と石との違いは、人間には顔があることだ」、「人間は顔のある石だ」と草刈はのたまう。
◆最後の炎上シーンにしても、なんかバカみたいという感じ。なんで急に『タワリング・インフェルノ』や『ボルケーノ』のテンポになっちゃおうのか?
◆クレジットに「シリコングラフィックス」の名があった。しかし、明らかにSGIマシーンを使っていると思われるシーンは、みな作りが安いのだ。テレビで銀河が出る番組のシーンでも、映像処理にもっと重厚さがあったら、あれほどトーンは落ちなかっただろう。
◆浅野に台本を書かせるプロデューサにしても、ああいう設定は、内容を安くするだけだ。
◆最後に坂口安吾らしき人物の書斎を出す安易さ。浅野が坂口という設定なのだが、そういう作りなら、もっと構成が違ったろうに。
(松竹試写室)



1999-09-22

●あの娘[こ]と自転車に乗って(Beshkempir, The Adopted Son/1998/Aktan Abdykalykov)(アクタン・アブディカリコフ)

◆とても遠いところへ来たという印象。泥にまみれた遊ぶ子供たちや葬儀のシーンは、日本人と似ているということがよく言われるキルギスの人々だが、日本とは大分違う。もっと、素朴で、日本のような陰湿さや陰険さがない。なつかしさをさそう映像。が、そのなつかしさは、必ずしも過去への郷愁ではない。ひょっとしたら未来からやってくるものかもしれない。
◆カラフルな敷物がまず映る。そこに5人の比較的年配の女性たちが靴をぬいで座る。儀式的な身ぶりがあって、最後に、オカモチのような器具が映る。それは、ある種の揺りかごで、そこに、さきほどから老女がかかえていた赤子を寝かせ、念入りに布で覆う。
◆この映画は、部分カラーで撮られているが、最初にカラフルな画面が出るので、その後セピアやモノクロの画面が出てきても、その色の記憶があとまで残り、全部カラーだったのではないかと感じてしまう。
◆中ぐらいの髪の生えた頭を母親らしき女性がバリカンで刈り、前の部分だけを残して坊主刈りにする。一定年令に達した儀式か? 先ほどの赤ん坊がここまで成長したという設定なのだが、そういう時間の経過はあまり感じられない。バックで聴こえている鳥や動物の泣き声、風に木の枝がなる音・・・は変わらない。
◆子供たちの遊び。この社会では「悪ガキ」と思われる5人が「レンガ」を作る池で顔や腕にべったり泥を塗っている。何をしているのかと思うと、やがて彼らは、蜂の巣をつつきに行くのだった。
◆垣根のあいだから、巨大に太った女が裸で背中に蛭をたくさんのせて、血をすわせているのを覗く子供たち。やがて彼らは、砂原(?)へ行き、女の身体を造形する。性器の部分は念入りに作り、なぜか水をためる。それから、彼らは一人ひとりその「裸体」に乗ってセックスのマネごとをする。ふと、物音にふり返ると、牛の大群が来る。牛は、ほとんどが、その「裸体」の上をよけて通るのはおもしろかった。子供たちは牛を引いて家に帰る。
◆映画は、最初の赤ん坊から成長したベシュケンピールの物語という設定だが、西欧の映画とちがって、「主人公」という感じはしない。他の出演者とも等価な部分が多い。
◆映画に行きたいという息子に厳しい父と、甘い母。父が息子をしかるとおろおろする祖母――この構図は、日本に似ている。ただ、自分の息子をいじめられたといってどなりこんで来た男が、「うちの息子は女房とはちがうんだ(だから勝手になぐってはならない)」と言う。夫と妻との関係が示唆される。
◆友達をなぐり、しかえしされるが、その原因は、ベシュケンピールが、「捨て子」だと言われたことだった。実際に、最初のシーンは、「捨て子」を養子にする儀式だったのである。
◆映画技師の青年がいて、彼は、村の娘を自転車に乗せてデートをする。前にのせたくて(なぜか)後ろの荷台をドライバーではずす。その際、家に女性を迎えにいくのは、ベシュケンピールの役目だ。この村では、直接迎えに行ってはならないらしい。
◆川での魚採り。大きなのは、腹をさいて、卵を取り出す。そこへ使いの少年。ベシュケンピールの祖母が危篤だという。テントごしに、泣き声をあげて追悼する人々。ここでは、それまでのいさかいも解消される。
◆ベシュケンピールが映写技師から自転車を借りて、ときどき画面にも登場したかわいい少女を乗せ、デートする。
◆最後のシーンは、カラフルの糸であやとりのようなことをやるシーン。
(シネカノン試写室)



1999-09-21_2

●母の眠り(One True Thing/1998/Carl Franklin)(カール・フアンクリン)

◆木々をボカして撮った背景(カラフルな水面のように見える)の上にキャストが流れる。冒頭のシーンは、親子4人が車で移動しているところ。まるで50年代のような雰囲気。すべてが一時代前の雰囲気。それもそのはず、場所はニュージャージーのWASP(この映画には黒人の姿はない――監督は黒人)小都市モリスタウン。
◆一転して、それから十数年はたった1987年。幼かった娘(レニー・ゼルウィガー)は雑誌New Yorkで働いている。ニューヨークの気ぜわしく、セコい雰囲気のステレオタイプ的な描写(だが、これ決して映画の致命傷にならない)。
◆原稿を書きながら、レニーが、インスタントコーヒーの粉をコーラーで溶いて飲むシーン。
◆1987年から1988年にかけての物語と明記されているが、すべてが一時代前の雰囲気。それもそのはず、場所はニュージャージーの小都市モリスタウン。
◆母(メリル・ストリープ)の死について検事の尋問(私的なオフィスでのような雰囲気――詰問調ではない)を受ける。映画は、質問と回想的シーンとを交互に見せるスタイルで進む。
◆最初、娘――ニューヨークで「男」と対等に仕事をしている女性の目でメリルのことを見る。家庭を守り、女同士で集まり、夫に従う保守的なハウスワイフ。しかし、それが、次第に、それほど単純ではないことがわかる。こういう視点って、ポスト・フェミニズム的な目なのか、それとも、保守の巻き返しなのか?
◆皿が割れても、「捨てないで、モザイクに使うから」と言うメリル。完成された「家事」技術。
◆夫の誕生日を準備し、それが終わるのを待って病院に行くメリル。誕生日のとき、「オズの魔法使い」ばりの短いスカートを履いて、まわりを明るくする。パーティが終わったとき、「明日病院だから」とさりげなく言う台詞が重い。
◆パーティに普段着の黒い服を着て来たレニーが、「斧でめった打ちにするリジー・ボーデン」という台詞をはく。これは、どういう意味か?リジー・ボーデンといえば、『キャリアガールズ』や『Born in Flame』のレズビアン監督である。
◆検診の結果、ガンが発見され、入院・手術。その間、夫は、大学の講義を休まない。それは、必ずしも、彼が仕事に忠実であるからではなく、出来上がった名誉と学生の人気を失いたくないからである。
◆退院後のメリルの病状が悪化していくにつれて変わっていく表情のメイキャップと演技がすごい。
◆家事とは何か? 周囲を明るくすることが自分の仕事だと思うとメリルは言う。結婚生活は譲歩だとも言う。「幸せになるのは簡単。いまあるものを愛すること」。そう言う彼女が、身体の衰えとともに、車椅子での台所の作業がうまくいかなくて、絶望的な悲鳴をあげるシーン。
◆だんだん母に似てくる娘。終わりの方の墓のシーンで、地面に球根を植えながら、父に植え方を指図する。この辺は、昔のアメリカ映画だと、女の家庭への回帰、女は女であると主張しているとして、「反動的」とみなされたのだけどね。
◆最後のクレジットにかぶる歌は、「もう遅いかもしれないけど、あなたはわたしに教えた・・・シンプルな生活に意味があることを・・・」というような歌詞。
(UIP試写室)



1999-09-21_1

●秘密(Himitsu/1999/Yojiro Takita)(滝田洋次郎)

◆前作とよりもよい。広末というやっかいなタレント(有名すぎて才能はあまりない)をうまく料理している。
◆原作(東野圭吾)があるとしても、とにかく、身体/人格の交換(作中では「憑依」という語が使われる)というアイデアがいい。
◆後半、娘の人格が眠りのたびに戻って来て、妻=広末と娘=広末とが手紙やビデオのやり取りをする。これは、メディア論的におもしろい。
◆娘の人格が戻るのは、妻=広末の策略であったらしいことが暗示されて終わるこの作品は、ある意味で、ひねった形での日本の女の「自立」物語でもある。
◆妻=広末が、学校からもどると、必ず、「へーちゃん何か作るね」と言うのは、日本の男にとって耳が痛いはず。
◆日本の妻は、夫を「おとうさん」と呼ぶ。だから、娘=身体が妻=人格として「おとうさん」と呼ぶのか、娘=人格として「おとうさん」とよぶのかはどうでもよくなる。
◆滝田は、ときどき安いユーモアを出そうとする。この映画でも、小林薫が一人でメシを食べているシーンで、熱そうなご飯の上に真っ赤な明太子を1本乗せ、それを口にまるごともっていき、目を細めるシーンがある。この明太子は明らかに、ペニスのアナロジーになっているが、ただのだじゃれ。小林薫がもっているゲイ的な要素を示唆しているわけではない。
◆滝田は、この物語を近親相姦の方へ持っていくこともできた。が、そうしないことによって、この物語を一般化し、「日本論」化した。
◆報知の「おもしろ映画採点」で、わたし以外の2人の評者が、ともに厳しい★点を付けているのに驚いた。滝田の「日本論」的な関心の出方としては、それほどひどくはないと思うが。
(東宝8階試写室)



1999-09-16

●M/OTHER(M/other/1999/Suwa Nobuhiro)(諏訪敦彦)

◆神経を逆なでするような音のあつかい方。むろん、わざとである。最初、トイレを流す音がし、三浦友和が出てくる。遅い勤めを暗示するような永久寝不足の身ぶり。ウィスキーを飲んで、寝直すという。音楽はウェーベルン的。
◆女(渡辺真起子)が、マックで何かしている。しばらくして、MOにセーブして、コンピュータを離れる。仕事場でマックを使っているシーンもある。デザインをやっていることがわかる。コンピュータの描き方には嘘がない。先のシーンでMOにセーブしていたのは、フロッピーには収まりきらない画像ファイルであることがわかる。
◆あまり景気によくないらしい、男の経営するレストラン。伊豆の店を閉めるとか。
◆手持ちカメラでのシーンは、心の揺れる場面。女がマックを動かしているときは、カメラは固定。音も映像もない空白の使い方。
◆三浦は、丁寧だが、どこかインチキくさい感じ。渡辺は、男っぽいところがある。ものをはっきりは言わない。この映画の会話は、すべて三浦と渡辺のアドリブらしい。
◆男の前妻と子供が自動車事故を起こし、前妻が入院したというので、(女には相談なしに)男が子供を家に連れてくるところからすべてが始まる。
◆一方で、「母親」役に同化していくようにみえながら、女が男に愛想をつかしていくプロセス。
◆取り決めだけで、自由に役者にしゃべらせているのは、うまくいっている。そのかわり、沈黙が多くなった。ミケランジェロ・アントニオ風の沈黙。近所の「母親」同士のつきあいで、子供がたわむれているシーンは、完全にアドリブだろう。
◆予想したように、女はやがて「どうしてあたしがあんたの子の面倒を見なけりゃならないのよぉ」と叫ぶことになる。ここで男は、素直にあやまり、「もう仕事なんかどうでもいい、二人でどこかへ引っ越そう」というような台詞をはくが、女の意識はもはやそういうところにはない。この辺が、この映画のいいところ。日常性や家事・育児というものの本質に迫る目がある。それと、女の側からすれば、あなたがすべてを捨てるのはいいが、あたしの方はどうなるの? あなたが仕事をやめれば、同じようにあたしも仕事をやめるわけ?――という異議がある。そういう論理は、男の身勝手というものだろうといわけだ。
◆クレジットにデイヴィッド・デヒーリーの名があったが、彼は何をしたのだろうか?
(映画美学校)



1999-09-14

●月光の囁き(Gekko-no-sasayaki/1999/Shiota Akihiko)(塩田明彦)

◆30分すぎても会社の人はいなかったが、製作関係者らしい人たちがロビーで談笑していた。試写の開始まえに、監督の塩田と出演の北原の挨拶があった。
◆原作と同じように剣道の練習をやっているシーンから始まる。最初淡々と、といってやがてどろどろとといのではなく、最後までどろどろした感じに陥ることなく、「サド-マゾ」関係とは単純化できない屈折した男女関係を描いている。おもしろい。
◆研二は、最初、しごく「まとも」で内気な少年として登場する。「タダの人」でないことが示されるのは、彼が、学校のつぐみのロッカーの鍵穴に自分の鍵を差し込んだ開いてしまい、そこにあった下着の匂いを嗅ぐときと、自宅に来たつぐみがトイレを使う音を録音したのがわかるときところからだが、といっても、このぐらいのことは、(実際にはやらないとしても)誰の意識のなかにもある欲望である。このように、「普通」から「狂気」へ飛躍しないことによって、ある種の無意識(たぶんガタリの「機械状無意識」という言葉が似つかわしい)のレベルの表現に達していることのユニークさ。
◆日高拓也と北原紗月は、「純情」を装っていた子や「清純」そうな女の子ががだんだんスゴみを見せるとかいうのではなく、終始ある種のういういしさを保ちながら、素朴さを越えたハイブリッドな感性やセクシャリティを表現している。
◆オママゴト風に見えて、そうではなく、すべてが「自然」に見える。が、その自然は、知らぬ間に拡張されている。
◆研二もつぐみも、親の(特に父親の)存在がほとんどない。
◆前半で階段から仰向けにわざと落ちた研二が、無傷であるシーンは、終末のシーンで、伏線だったとわかる。研二が、川上温泉の滝に飛び込むことをつぐみに要求され、素直に滝の向かうとき、敏感は観客は、やつは死なないと確信するはず。
◆「犬は、散歩の途中で帰れと言われて、帰るか?」という研二の台詞はいい。
(半蔵門東宝別館試写室)



1999-09-13_2

アナライズ・ミー(Analyze This/1999/Harold Ramis)(ハロルド・レイミス)

◆配布されたパンフレットの記載で、ハロルド・レイミスが綴りともどもライミス(Raimis)に誤記されていた。
◆冒頭のシーンがダメな作品は、大体、そのあともダメな場合が多いが、この作品は、トップに付けた日本語のタイトルがそもそもヒドかった。レンガ模様のバックにカタカナ。
◆ジャズ(50年代のシーンで "Smiles of you"が流れる)とナレーション(デニーロ)という形式もそうだが、ウディ・アレンの下手な模倣のような作品。俗流のフロイト概念(たとえばエディプス・コンプレックス)を笑いのネタにし、精神科医としてアウラのある父とそこそこの息子、マフィアのボスとその息子を関係づける。
◆デニーロは、かなり愚作にも出演しているが、こういうのには、出てほしくなかった。
◆ビリー・クリスタルと太った息子とのとりあわせ。アリガチな単親家族。
◆婚約者の父が、結婚式のとき、突出した台詞をはくが、その後はそれっきり活かされない。
(ヘラルド試写室)



1999-09-13_1

●I love ペッカー(Pecker/1998/John Waters)(ジョン・ウォーターズ)

◆冒頭、"sweet ass, I don't care..."と歌って、人を小ばかにしたような悪ふざけの笑いの入る歌(Happy-go-lucky-me)が流れる。この歌は、ウォータズが描こうとしているボルチモアの気質のようなものをよく現している。
◆あいかわらずのボルチモア節だが、ニューヨークをダシにしなければボルチモアの特異性を強調できなかったところが時代の変化?
◆ペッカーの個展がニューヨークで開かれた初日のパーティのシーンで、ニューヨークの実在の有名人たちが登場し、その多くが、ニューヨークのスノビズムを体現するサービスをしているが、さすがにシンディ・シャーマンは、(頼まれた義務を果たすかのように)寡黙な表情でお愛想しただけだった。
◆おもしろいのは、いまのニューヨークで急速に姿を消した都市のうさんくささが、ボルチモアには健在だよと言わんばかりに描かれていること。ペッカーの母親によれば、ボルチモアでは、25セントでちゃんとした古着が買える。ホームレスと街の人とが「共存」している。
◆「ボルチモアはホモの天国」と誰かが言う。下品はゲイのストリップを見せるバー。そこで働くペッカーの姉(マーサ・プリンプトン)が猛烈いい。
◆ペッカーの妹(ローッレン・ハルシー)もいい。彼女は、甘いものに目がなく、hyper-adicted disoderという診断を受けるが、ニューヨークに行ってからは、異常な菜食主義(ベジタリアン・過食症?)になる。ペッカーの祖母は、マリヤの人形の「お告げ」を腹話術でやり、それをお告げとして信じている。この2人は、昔のウォーターズ作品の登場人物の伝統を感じさせる。
◆クレイジーな登場人物には事欠かないが、全体としてウォーターズの旧作の登場人物のような「悪趣味」、「陰惨さ」は感じられない。これは、時代の趨勢か?
◆単語集:teaback(ゲイバーのお立ち台でパンツの上からあそこに客の顔をつけさせるサービス)、datch oven(ベットのなかでおならをして、隣のやつに布団をかぶせること)、take out your unit(あそこを見せな――女が言う)、show me your gay ID(ゲイの証拠を見せろ)、
◆最後のパーティ・シーンは、フェリーニ的。ここでは、ニューヨークに距離を取りながら、ニューヨークを拒絶するのでもないある種友好的な姿勢が出てもいる。
(ヘラルド試写室)



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