粉川哲夫の【シネマノート】
CinemaNotes


2000-04-28

●エドtv(EdTV/1999/Ron Howard)(ロン・ハワード)

◆『トゥルーマン・ショウ』では常時撮られていることを知らない主人公がそのことに気づくドラマだったが、この映画では、主人公エド(マシュー・マコノヒー)は、自分から志願して24時間ライブのテレビカメラの被写体になる。
◆現代は、ヌーディズム社会化が進んでいるとわたしは考える。どこにいても、カメラに見られている。そのことに抵抗をおぼえる一方で、撮られることへの欲求も高まっていく。そして、撮られていないと不安であるという意識も生まれる。『トゥルーマン・ショウ』は、まだそういうことに批判的だったが、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』はそういう意識の不可避性をよく描いていた。この映画は、そういう新しい「ヌーディズム」文化の一例を与える。
◆サンフランシスコのトゥルーTV局の記者会見で、プロデューサーのシンシア(エレン・デジェネアス)は、その新しい番組プランは、「1970年代のPBSにあったxxxファミリー(聞き取れなかった)のようなものですか?」という質問が出る。これに対して、シンシアは、「フツーの人」を使った「台本・俳優・編集なし」の24時間ぶっ通しライブだと応える。
◆この映画でも、エドの本当の父親は不在。兄(ウッディー・ハレスロン)が仕切っているが、定職はない。父(デイス・ホッパー)は、行方知らず(あとから出てくる)。母(サリー・カークランド)は、車椅子の老人(マーチン・ランドー)と暮らしている。
◆『ガン・ホー』に出ていた日本人俳優(ケディ・ワタナベ)がテレビ局のスタッフとして出ていた。ロン・ハワードにかわいがられているのだろうか?
(UIP試写室)



2000-04-26_2

●白いはなびら(Juha/1998/Aki Kaurismäki)(アキ・カウリスマキ)

◆カウリスキマは、なぜ「無声映画」を撮ったのだろうか? 無声といっても、音楽ははいっている。売春クラブのマダムが、シャンソンを歌うシーンやユハ(サカリ・クオスマネン)が復讐の意志を固めて斧を研ぐシーンではそれぞれの音が聞える。
◆最初のシーンは、ユハがマルヤ(カティ・オウディネン)をサイドカーに乗せてさっそうと走るところ。町につき、そこでキャベツを売る。なけなしの金を得て、「しあわせ」な2人。素朴な生活。いかにも無声映画的映像。
◆そこに一人の男シュメイッカ(アンドレ・ウィルムス)が入り込んでくる。いかにも悪魔的な顔をしている。ちなみに、ユハは、純朴な顔、マルヤは、ヴァフタンゴフのイーディッシュ劇のヒロインのような顔。表現主義の時代のヒロインのように、目の周りを濃く化粧している。シュメイッカは、スポーツカーが故障し、たまたま出会ったユハに修理を頼む。人のいい彼は、この男を家に連れていく。シュメイッカはマルヤに遭ったとたん、くどきはじめる。外の世界を知らないマルヤは、たちまち心が揺れてしまう。シュメイッカが去った(「今度は迎えに来る」と言い残して)あと、マルヤはどんどん変貌する。仕事がいやになり、食事も作らず(電子レンジ食をユハに与える)、ファッション雑誌を片手に化粧を濃くし、タバコをすうようになる。そしてついに、二人で寝ていたベッドの寝具の1つをはがし、別室のソファーに置き、ユハに、ここで寝てくれと言う。
◆無声映画には、「いかにも」の、特有の身ぶりと表情があるが、この映画でも、それを踏襲している。マルヤが目を見張るところとか、身ぶりの多くはそうだが、登場人物のキャラクターの設定も「いかにも」にしてある。
◆ユハは、自分で蒸溜酒を作っている。シュメイッカにふるまうが、自分の方が飲みすぎて、寝てしまう。シュメイッカは、ユハの目を盗んでついでくれたグラスの酒をわきに捨てる。そして、ユハが寝込んでしまったのをいいことに、マルヤを誘惑する。
◆夫を捨てて、男についていったら、売春宿で働かされるはめになり、子供ま出来てしまう等々、すべて「いかにも」スタイル。
◆酔いから目覚めると、妻は出て行ったあとなのだが、そのときのショックを示唆するような音楽のうしろでモールス信号が聴こえる。なぜ?
◆最後は、ナタを研ぎ、犬を 預けて、復讐の向かう。そして撃たれた身体で意志を果たすが、ゴミ捨て場に崩れる。この辺は、東映映画みたい。カウリスマキの無声映画への関心は、「型」への興味だった。
(ユーロスペース)



2000-04-26_1

●最終通告(Vollmond/1998/Fredi M. Murer)(フレディ・M・ムーラー)

◆『山の焚き火』で驚かせたこの「巨匠」の作品はあまり日本では見れない。先日、中古ビデオ屋で彼の『H・R・ギーガーのパッサーゲン』というドキュメンタリー・ビデオを見つけた。ここでも、ムーラーのメディアへの鋭い関心がわかる。
◆神秘主義的なもの、社会・エコロジー的なもの、そしてラディカル・メディアへの意識が新鮮かつ強烈。
◆Live TVというライブで事件を追いかけるミニTV局が出てくるが、映画のなかではそのラディカル性と(新しいタイプの)商業主義とが同時に異化される。
◆冒頭は、水底を映していくシーン。さまざまなものが沈んでとり、パソコンらしきものも見える。それからカメラは、水上に出、目隠しして水の方に歩いてくる少女エミ(マリーベレ・クーン)の姿を映す。この映画は、水中から浮上した者の眼なのだ。島の視点。
◆エミは、兄がいないことを母イレーネ(リロ・バウアー)に告げるが、パソコンで仕事をしている彼女は相手にしない。親は多忙であり、子供はかまわれない。父親(ベネディクト・フライターグ)は、妻と別居し、ここにはいない。原発の仕事にかこつけて愛人と逢っている。
◆最初、原発反対活動家グループの誘拐事件ではないかと思われたが、捜査を担当した刑事ヴァッサー(ハンス・ペーターミュラー)は、データベースを調べるうちに、スイスの全域で同時期に13人の子供(みな水辺に住む家の)が失踪していることに気づく。
◆ミュラーは、階級やイデオロギーで人を分けるのではなく、ある次元を信じられるか、そして、いまの何を見ているかで、分けるように見える。たとえば、刑事は、釣りを愛し、猫を愛する独身。自然や神秘的な次元を信じる余裕がある。エミの父は、体制主義者であり、原発を守ることに熱心だが、彼の愛人の祖父(?)は、超資本主義者で、「電力供給の自由化で原発は自然に廃止されるよ」とまっとうな現実認識を示す。
◆子供にかまっていられない親が暗黙に批判され、夢、神秘、素朴・・・と一体になった子供の次元の喪失が批判されているが、単純な批判の形態をとらない。そういう次元に気づく者(刑事とイレーネ)が美しく描かれ、そういう次元との出会いが劇的に描かれる。
◆いかさないオジサンの風貌のヴァッサーとイレーヌとが、初めてレストランでデートするとき、イレーヌが両手を差し出し、ヴァッサーの両手に触れる瞬間のシーンは、神秘、欲望、自然、つまりはコミュニオンとしての愛の表現として――さりげないシーンだが――感動的。
◆Live TVのスタジオに集結した親たちが、それぞれの「パフォーマンス」をして、子供たちに呼びかけ、彼や彼女たちの非を悟った瞬間、スタジオのモニター画面に、山の上に集まって祈りをささげている(?)――とにかくコンヴィヴィアリティを体験している――子供たちの姿が浮かび上がる。
◆手と眼。手をこすり、眼を覆うといいことが起こるかも。
◆【追記】ユーロスペースで公開されるに際し、劇場パンフに少し長い文章を寄稿した。合わせてご一読ください→クリック
(映画美学校)



2000-04-25

●映画史第2部(Hisoire(s) Du Cinema/1998/Jean-Luc Godard)(ジャン=リュック・ゴダール)

◆「絶対の貨幣」/「新たな波」/「宇宙のコントロール」/「徴(しるし)は至る所に」の4パート。なお、「徴」は、signes だから、「記号」の含意も、むろん、ある。
◆「政府が気づいていないのは、欧州で少数民族が絶滅させられていること」
◆「映画に何が出来るか?」とは、何も出来ないということである。が、その意識をもって映画を作ることと、そうでないのとは大違いだ。映画に何かが出来ると思っている映画は無数にある。政治的にもマーケッティング的にも教育的にも。
◆「映画は思考の一つの方法である」とゴダールは言うが、それについで「だが、すぐ忘れられる」が、どこにかかるのかが分からなかった。思考の方法であることが忘れられるのか、思考するすぐそばから忘れるのか?
◆一九四二年ダニエル・ダリューらのフランス映画の「美女」たちがドイツに招かれたが、そのすぐ後の列車がアウシュビッツへ向かった――こういう言い方は、事実でなくてもよい のだ。こういう言い方をすることによって、物語(映画)は歴史に復讐する。まさに、記号論的に組み替えられる記号は至る所にある。
◆「遠近法は西洋の原罪である」とゴダールは言う。むろん、ニーチェは、「真の世界」は「遠近法的仮象」にすぎないと言っている。
◆マニフェストと手を結びつけるゴダール。たしかに「マニ」は「手」である。「人間の条件は、手で考えることだ」。
◆「壮麗な徴=記号の飽和」
◆ゴダールは、言った――「わたしは時を聴く作品を作りたい」。
◆『映画史』のスタイルを一言で言えば、それは、映画についてのVDJ(VJ + DJ)である。映画のなかに現われる「時」、映画とともにあった「時」を「聴かせる」DJとしてゴダールはいる。ゴダールの映画が音の映画であることはすでに周知のことだが、たとえば、この第2部でも、彼のサウンド感覚はサエている。ガーンと1度だけ鳴るピアノも、数十の楽器のオーケストラ之一音よりまさる。
(徳間ホール)



2000-04-18_2

●リプリー(The Talented Mr. Ripley/1999/Anthony Minghella)(アンソニー・ミンゲラ)

◆パトシシア・ハイスミスの同じ原作にもとづく『太陽がいっぱい』の方がはるかによかったのは、主人公トム・リプリーの(マット・デイモン)の階級差がもっと鮮明だったからだ。いくら相手を造船業の富豪に仕立て上げても、階級移動が柔軟なアメリカでは、いつまでも階級格差を維持した姿勢を取り続けるのはむずかしい。マット・デイモン自身は、階級的コンプレックスを隠したキャラクターを演るのはうまいし、それっぽい顔をしているのだが、50年代的な「暗さ」はない。
◆錚々たる俳優をそろえながら、これだけの出来とは驚く。後半、トム・リプリーの「犯罪」が暴露するプロセスが非常にダラダラしている。何度も終わるチャンスを失ったという感じ。
◆トムが父親に頼まれて息子ディッキー(ジュード・ロウ)を探しにイタリアのナポリへ行くが、この時代が1958年。この時代は、ハードバップとクール・ジャズが交錯する時代のはずだが、ディッキーに連れていかれたジャズ・クラブの雰囲気は、まるでアメリカの都市のよう。当時のナポリであんなにジャズがさかんだったのだろうか? なお、このシーンの撮影は、ローマのカフェ・ラティーノで行なわれたという。
◆ある意味で、この映画も、『スリーピー・ホロー』や『ボーン・コレクター』と同じような《擬古文体》(quasi-classic style)の系列に入る作品。ただ、これらの作品にくらべると、ヨーロッパを舞台にしてしまったために、《擬古文体》としての人工性ではなくて、作りものめいたフェイク性がでてしまった。チェット・ベーカーの声をまねるマット・ディロンのウソ臭さが象徴的。
◆イタリア人に同化したいディッキー。当時世界の成金だったアメリカ人は、ヨーロッパで「醜いアメリカ人」を演じた。
◆面白い部分がないわけではない。それは、『太陽がいっぱい』よりも、もっとゲイ的な領域に踏み込んでいるところ。相当後まで、ゲイの問題を明示しない。サンレモ・ジャズ・フェスティヴァルへの列車のなかで、居眠りするディッキーに身体をすり寄せたり、窓ガラスに映るディッキーの顔に自分の顔が重ね合ったのを見て、胸を高鳴らせるリプリーといった示唆的シーンはある。リプリーとディッキーの関係は、ボーイ・ボーイ的なガキ的関係に見える。だが、リプリーのゲイ性は、ディッキーと沖合いに出たボートのなかで始めて明かされる。同性愛のわからないディッキーが拒否と嫌悪を示したことがきっかけで、死の争いになる。以後、急速に進展するピーター(ジャック・ダベンポート)との関係は、完全にゲイ的なものとして示される。
◆売れっ子のフィリップ・シーモア・ホフマンが出ているが、ただの成金的「アメリカ人」を演じているにすぎない。あっけなく殺されてしまうし。ちともったいない感じがする。
◆リプリーは、何人も人を殺すが、それならチャプリンの『殺人狂時代』のようなコミカルな仕立てにすべきだった。チャプリンの作品は、原題がMonsieur Verdouxで、この映画と同様に「・・・氏」がつく。
(丸の内ピカデリー)



2000-04-18_1

●2番目に幸せなこと(The Next Best Thing/2000/John Schlesinger)(ジョン・シュレシンジャー)

◆アメリカならありえる複雑な家族関係を巧みに構築。悪くない。
◆アビー(マドンナ)のところから荷物をまとめて出て行く男ケヴィン(ニール・パトリック・ハリス)が、突然で(とアビーは思っている)理由がわからない(そこがアビーのうかつなところ)で、狼狽するアビーに対して、「less complicated woman」がいいんだと言う。「もっと複雑でない女」というところが面白い。
◆マドンナの顔を映画で見るのは久しぶり。丸さがなくなり、少し面長になった感じ。ギャルの要素が完全に抜けた。非常に成熟し、別の風格が出来た。
◆夫に出ていかれて狼狽するアビーが電話する相手ロバート(ルパート・エベレット)は、ゲイ。アビーは、ケビンとは、"last chance for normal life"だったのに!と嘆く。ノーマルになりたい人間は、決してノーマルではない。
◆一方、ゲイ友がエイズで死んで落胆したロバートは、アビーに頼る。「今晩いっしょにいて」。マティーニを飲みすぎて、2人はソファーで本来しないはずのことをしてしまう。
◆妊娠するアビー。たちまち数年たち、アビーとロバートは、それぞれの立場を守りながら、「家庭」を作る。子供はロバートになついている。そこに登場するベン(ベンジャミン・ブラット)。アビーがやっているヨガ教室にやって来たニューヨークの投資家。ここから、アビー/ロバート/息子の「家庭」が崩れていき、息子の親権をめぐって、裁判ざたになる。
◆ベンとの最初のデートで行ったレストランは、気取っている。予約しないで行ったので、2時間待てと言われる。そこでベンは、「ハリソン・フォードがあとから来る」と冗談めかして言う。ところが、これが真に受けられる。このへん、ホントカね?という感じもするが、いまのニューヨークの気取ったレストランでは「ありがち」なこと。
◆お互いに憎みあっているわけではないのに、裁判をしなければならないという雰囲気がよく出ている。それにしても、マドンナがこうも泣く役をやるとは。
◆アメリカ人は、法律によって市民権を守るが、近年、逆にそれによってがんじがらめになっている傾向がある。それは、いずれ、爆発的反動を起こすだろう。
◆「パパは何人もいらない」、「血は人間性とは無関係」
(ブエナビスタ)



2000-04-14_2

●アイアン・ジャイアント(The Iron Giant/1999/Brad Bird)(ブラッド・ビアード)

◆一般試写会。子供と母親の組み合わせが多い。
◆舞台は1957年という設定。ソ連のスプートニク成功の年、核戦争の危機が高まりはじめた時代ということを意識させたかったのか?
◆父親不在の母子家庭。これは、50年代的ではなく、いまの観客向き。
◆冷戦は、マシーン・テクノロジー特有のもの。この技術がエスカレートしていけば、おのづから核爆発の危機が生まれる。が、別のマシーンがあった――これが、アイアン・ジャイアント。
◆アイアン・ジャイアントは、巨大なマシーンであり、鉄を常食にしているが、こころは幼児のように素直。そして、その身体の核部分は、それぞれが自律可能であり、ばらばらになっても、すぐにもとに連合しあう。列車とぶつかって壊れた身体は、自己再生し、もと通りに組み合わさる。これは、マシーン・テクノロジーを越えた、細胞や情報のリゾーム的、オートポイエーシス的機能である。つあり、アイアン・ジャイアントは、ただのマシーンではないのである。
◆軍と政府の役人の愚直な判断で、核ミサイルのボタンが押される。それを、アイアン・ジャイアントは、身を挺して空中で破壊する。これは、個人的行為だが、いかにもアメリカ的(とりわけ50年代的)な身ぶりである。国家のためではなく、民衆のために自分の命を犠牲にするという姿勢――これは、別にアメリカにかぎったことではないが、そもそもそういうことが不可能であり、たとえそういうことが可能に見える状況のなかで身体を張っても、所詮は意味がないのだということが根底から認識されないことには、「国家のため」という動員や強制も続く。「民衆のため」も「国家のため」も根底の発想は同じ――抽象的な「全体」しか見ていない――である。
◆核ミサイルが空中で爆発したら、この映画の終わりのような「平穏」な状態ではいられない。『ディープ・インパクト』でもそうだったが、汚染のことも考慮しないのは、発想がいつも抽象的な「全体」だけだからだ。
◆車などのスクラップを扱いながら、同時にそれでオブジェを作っているアーティストが出てくるが、その声(ハリー・コニックJr.)とともに、なかなかいい感じ。
(九段会館)



2000-04-14_1

●映画史 第1部 (Histoire(s) Du Cinema/1998/Jean-Luc Godard)(ジャン=リュック・ゴダール)

◆「すべての歴史」/「ただ一つの歴史」/「映画だけが」/「命がけの美」の4パート。
◆方式的には、テレビのために作られた映像をフィルムに焼き直したものだが、こうして見ると、ゴダールは、この「シリーズ」をテレビ(カナル・プリュス)のために作りながら、つねに映画を、そして映画を越えたメディアを考えていたことがわかる。いま、フランス映画社の手で「フィルム」化されたが、今後、別のメディアに移し直され、この映像のさらに新たの側面が見えてくるかもしれない。その意味でも、今回のフィルム化は、画期的なことであった。
◆蓮實重彦の言葉(『批評空間』より)が、パンフレットに引用されている――「20世紀が後世に誇れる何かがあるとしたら、とりあえずゴダールの『映画史』しかないと自信をもって言える時が来ると思う」。何でこの人は、「誇る」とか「自信」とかにこだわるのだろうか? 「後世に誇れる」かどうかなど、わたしはどうでもいい。そんなレベルでゴダールは、つまり「遺産」や「モニュメント」としてこの作品を作っているのではないし、たとえそうだとしても、そんなレベルで映画を問題にしているかぎり、映画は、投機やオークションの対象としての骨董品と同じである。
◆ゴダールの世代というのがかなり集まった。ゴダールだからというので(「巨匠」の音楽会に行くような意識で)来たと思える人もいた。一体に観客の年令が高い。夫人に手を引かれて杖をついてやっと歩いている加藤周一の姿もあった。
◆ゴダールの音に対する驚くべき感覚。映像のオペラ。特に、最初の部分をなす「すべての歴史」がすばらしい。オペラと化したモンタージュと引用。
◆タイプライターに向かうゴダール。葉巻。タイトルが打たれると、かすかに「ピッ」という音がして、連続的に打鍵するマシーンの唸り音がはじまる。それは、アクセントであり、映画・マシーン・車・時間・銃・・・と連動したメタファーにもなる。
◆それ自体が「詩的」であるナレーション。ゴダールのナレーションがいかにすぐれているかは、あとで登場するジャン=ピエール・ゴスやジュヌヴィエーブ・パスキエのしゃべりとくらべれば、すぐわかる。
◆「映画とは女と銃なり」という語り。この作品でのゴダールのナレーションは、たぶん、すべて引用である。「暗闇こそが光」。「これは、ビデオではない、未完としての映画である」という語りは、先述のわたしの考えを確証する。
◆ナチズムへのこだわりは、一貫している。ヒトラーと映画。50年代のハリウッドのラブ・ロマンス映画は、ナチの殺伐たる行為のおかげで輝くことができた。
◆「ただ一つの歴史」のなかでは、映画の「大きな物語は、セックスと死だ」と言われる。女・銃・セックス・死。
◆「映画は、情報産業でも娯楽産業でもなく、むしろ、化粧(コスメティック)産業だ」。「映画は、技術でも芸術でもなく、記憶のトレイである」。記憶と映画。「記憶がトレイである場」。
◆技術的には19世紀に発明され、20世紀に決着した映画は、「写真を継承しているがゆえに、現実を移す権利と義務を負う」。「映画は、キリスト教と同様に、事実そのものではない」。「別の一つの場が映画に当てがわれるべきである」。すなわち、「記憶がトレイである場」。
◆ゴダールは、映画は、技術的には、19世紀に出来たコミュニケーション形式の一つだと言う。19世紀に、XXXがロシアの収容所で投射の理論を展開していなければ、図像を壁に投射するとう方式は生まれなかった、と。「映画は投射する」。映画は引き寄せる。
◆「映画だけが」の章は、作りがやや甘い。「命がけの美」になって、(あのタイプの連続音ももどる)密度をややとりもどす。ゴダールは、キャップをかぶり、上半身裸でタイプを打つ。
◆ゴダールにおける葉巻とタイプと本の意味。
◆「命がけの美」(これは、「究極の美」の方がよくはないか?)のなかで、「手で考える」ということを言う。そして、ハリウッド映画では、カメラが男では、腰の位置に、女では胸の位置に向けられる傾向があるとも言う。
◆映画史と医学史との関係。映画は「人体標本」である。「コダックの富は、(映画よりも)(X線の)感光版で築かれた」。
◆写真が生まれたとき、それは、モノクロではなく、カラーであることも不可能ではなかった。にもかかわらず、それがモノクロとして出発したのは、当時の人々の意識のなかに、アイデンティティに対する写真の脅威があった。それを守るために、人々は、カラーを許容しなかった。
◆「映画は芸術でもなく、技術ですらない。それは、神秘である」。
(徳間ホール)


2000-04-12

●エリン・ブロコビッチ (Erin Brockovich/2000/Steven Soderbergh)(スティーブン・ソダーバーグ)

◆これまでのソダーバーグの作風とは一風違う。
◆完全にジュリア・ロバーツの個性と魅力で展開するワンマンショウ。ロバーツは、ふっと自分にこもってしまうような表情の演技が抜群にうまい。
◆ロバーツの人気は、『ノッティング・ヒルの恋人』のような映画もあったが、その場合も、「高貴」さよりも、大衆性がポイント。この映画では、その「下品」なしゃべり方が受ける。それは、エリートや特権階級に向けられるとき、ますます効果を発揮する。
◆ロバーツが車を運転していて眠くなったとき、恋人に電話して、「眠くなりそうだから、何かしゃべり続けて」と言う。こういうケイタイの使い方もある。
◆物語の約束的前提では、エリンは、ハイスクールしか出ていない「無教養」の女ということになっている。それが、法律事務所で勤めはじめるのは、全くの偶然というより、エリンの強引さの結果。しかし、映画で見るかぎり、エリンは、全然「無教養」ではない。相当な人物に見える。この辺、おかしいというのは、現実を知らない人。こういう人物は、けっこういるのだ。「教養」なんて、いつでもついてしまう。エリンという女性の魅力がただものではないことは、一流法律事務所から乗り込んできたハーバード出の女性弁護士が、すでにエリンが調べ上げたことをもう一度チェックしようとして、被害者宅を回るが、誰も口を開こうとしないシーンによく出ている。
◆エリンは、「無教養」であるがゆえに、記憶に強い。メモを見なくても、自分がインタヴューした被害者の電話番号やデータをおぼえている。ハーバード出の弁護士との対決が見もの。
◆ちらりとだが、エリンに惹かれ、彼女の子供たちの面倒をみ、家事をやるジョージ(アーロン・エッカート)は、男(主夫)の目で仕事文化を見ている。男にとってであれ、女にとってであれ、家事とは、不条理なもの。ジョージは、仕事に熱中して帰りが遅いエリンを助ける。が、そういう生活には、もともとハーレーで放浪するバイク野郎の彼には、無理がある。だから、どこかでこの関係は爆発する。しかし、この映画で面白いのは、ここで、家事に従属させられた妻が夫に気持ちを爆発させる逆のパターンを取らないことだ。エリンは、「だってあたしは、仕事がしたいのよ」と言って、居直る。これは、フェミニズム後の時代の男には言えない台詞。
◆それにしても、アメリカの金銭至上主義には異質な文化を感じる。こういう傾向は昔からあったが、近年、それは、ますます加速しているのではないか?
(ソニー試写室)



2000-04-11

●アナザヘブン(Another Heaven/2000/Joji IIda)(飯田譲治)

◆冒頭にヨハネ黙示録12章の言葉なんか出てくるが、こういうのは、やめた方がいい。アメリカ映画でもこういう出し方はあるが、これは、冗談みたいなもの。この映画ではそこまで枯れていない。単なる底の浅いカッコづけなのだ。
◆特徴的なのは、アップの映像、スプラッター・ムービー風の、残酷だと思ってもらいたいショット(ただし、劇中の人間がそろって集団で嘔吐するほどのものではない。それに、それほど動的なリアルさを持ってはいない。石膏で作ったかのようにスタティック)、『マトリックス』だの『ターミネーター2』だの、メイジャーどころのモデルがすぐわかるCGテクニックをうまく使った効果といったところか? 筋書きの基底は、非常に甘ったれたロマン。
◆謎の生命体に侵入された人間が超能力を発揮するのだが、その生命体は、その人間の脳を使いつくすと他の人間に移って行く。
◆アップの映像が多いので、それで破綻をきたさないためには相当の力量がないと無理。市川実和子は全然ダメだったし、警察病院医師をやった松雪泰子もダメ。その点、岡本夕紀子は見事だった。こうなると、原田芳雄や柄本明なんかの職業化した演技が全体を支配し、テレビノリの江口洋介などが漁夫之利を占める。
◆最初は脳味噌のシチュー、・・7人目は酢の物・・と来たので、この映画は、殺人グルメで行くのかとおもったら、そういう路線は途中から消えてしまった。
◆作りの「甘さ」は意図的で、あとからメディアミックスで使おうという魂胆が見え見え。ま、それもいいでしょう。
(松竹試写室)



2000-04-10

●顔(Kao/1999/Junji Sakamoto)(阪本順治)

◆おそらく今年度最高の日本映画の1本に入るであろう作品。藤山直美の天才的演技とノリ。
◆藤山は、すでに存在するやや「智恵遅れ」か「内向型」の娘を再現するのではなく、父のいない家庭で(妹は家を出、ホステスをやっていて、家の連中を見下している)孤独にミシンを踏む女が(一定の条件のなかで)とるであろう心理的反応を作りあげている。
◆藤山は、すでにある典型を演じるのではない。自分をある状況のなかに追いつめ、そこで必然的に生まれる身ぶり・表情を演じる。カニのような横歩き、ぱっと外に出て、電車に乗り、放浪して、気づく(観客が)と、彼女は、靴下だけで歩いている――というのが、すごく自然に感じられるのも、そのためだ。
◆最初の展開では、藤山が妹を殺すとは想像できない。それも、「予想外」といったおおげさな感じでなく、淡々と予想外のことを出してくるのが、面白い。藤山は、そういう急な展開を演じる天才的な感覚をもった役者だ。葬式から突如、妹殺人――そして、香典袋をわしづかみにして家を飛び出すという展開の軽快さと予想を裏切られる心地よさ。
◆冒頭に、「1995年1月14日」という時間が表示される。何でかなと思っていると、それがやがて「そうか」とわかる。というよりも、これは、勘のいい奴には、阪神大震災がからむな、とわかるから、「じゃあ、それをどう料理するのかな」という期待になる。
◆同じように、藤山が、しきりに、自分は海へ行ったこともないし、泳げないということを言い、彼女を拾ってくれたラブホテルの経営者(岸部一徳)から泳ぎを教えてもらうシーンがある。これは、絶対に決め手で使われるなという期待をかきたてる。それは、大方の予想どおりになるのだが、それが月並みだとは思わない。予想を裏切ることも演出だが、予想に応えることも演出の一つであり、双方をうまく使っている点、坂本は巧みだ。
◆豊川悦司のカッコマンぶり、國村隼のダサさ、大楠道代の陰のある(腕に剃刀傷)キップのよさ、中村勘九郎に行きずりの強姦魔を演じさせた着想、配役のい見事さ。
◆Cobaの英語のテーマソング「顔」は悪くない。
◆ここでは、「家庭」は終始否定される。父は女を作って家を出、母は二人の娘を育て、脳溢血で死ぬ。妹は、殺される。正子が転がり込んだラブホテルの主人は、首を吊り、すっかり馴染んだバアの女主人のヤクザの弟は、金のいざこざで殺される。列車のなかで知り合った男は、リストラの腹いせにデータを持ち逃げし、故郷に帰るが、じきに妻に逃げられる。「家庭」はどこにもない。
(メディアボックス)



2000-04-07

●地上(ここ)より何処かで(Anywhere But Here/1999/Wayne Wang)(ウェイン・ワン)

◆アデル(スーザン・サランドン)のような自己中心的でナルシスティックな母親はどのように出来上がったか?
クリストファー・ラッシュの『ナルシシズムの文化』で描かれた世代像。そしてその娘は、彼女らとどうちがうのか?
◆裕福でもないのに、ベンツを買ってしまう母。再婚(?)した夫がいるのに、娘(ナタリー・ポートマン)を役者にすると称してハリウッドに出てくる。しかし、だからといって猛烈なタレントママでもない。だから、娘はオーディションは受けるが、それっきりである。娘は、むしろ、大学への進学に意欲を燃やす。
◆「母のもとを去るのが待ち遠しい」という娘のナレーションで始るが、映画の中心は、娘から見た母親像である。
◆ビバリー・ヒルズへ出て来て、出会う不動産屋の女性(キャロライン・アーロン)は非常に存在感がある。だから、わたしは、この女性とアデルとのあいだにもっとドラマが展開する(ひょっとしてこの女性とレズ関係になる?)かと思ったが、ただの脇役だった。
◆娘が、去った父に初めて電話し、失望するシーン。彼女は、ボーイフレンドへの冗談で、(広告を出したことはあまりないが)「家庭を求む」という広告を出したことはあるわ、と言う。
◆故郷から遊びに来た従兄のベニーとの楽しい数日、そして死。その葬儀にもどった母が弟ともめる。よくある展開。全体に、いまいち。
◆故郷の「あんな町」に住んでいると、毎日別の場所を夢みてばかりいることになるから、自分の好きなところに引っ越したというのがアデルの生き方だが、これは、正しい。
◆アデルは、ウィスコンシンのベイ・シティから出てくるが、葬儀で帰ったとき、娘の友達が、いま、ドイツ語を勉強していると言う。そういえば、このあたりはジャーマン・タウンなのかも。そして、この親子もドイツ系なのかも。
◆最近のアメリカ映画ではよく涙が見えるが、この映画など典型。
(FOX試写室)



2000-04-06

●クレイジー・イングリッシュ 瘋狂英語(Fengkuang Yingyu; Crazy English/1999/Yang Zhang)(チャン・ユアン)

◆このように個性的な被写体にめぐまれた場合、ドキュメンタリー映画を撮るレベルでの差異はどの程度出るのだろう? よほどのドジをしないかぎりこの映画は出来ただろう。その意味で、この映画は、チャン・ユアンの映画であるよりも、リー・ヤンの映画である。
◆リーは、英語を身体でおぼえる方法・システムを作り上げた。手を渦のように回したりするいくつかの身体運動。20の手サイン。「身体でおぼえる」。
◆「You」と言うときに、人差し指で相手を指すように叫ぶ。これは、youの存在を身体的に明確化する上でも効果的。
◆「international muscleに改善しよう」。「日本人の英語はひどい」。「国民性の改善」。「自信に満ちた中国人になろう」。
◆金を人生の目的にするということは、アメリカ的生活では「あたりまえ」だが、中国は、確実に、日本より早くそういう方向を浸透させるだろう。リー・ヤンは、「なんで英語をやるのかときかれたら、make moneyのためと答なさい」と言い、決断を簡潔にする。
◆すでに「戦略部隊」を持っているリー。そのクールな作戦とパッショネイトなパフォーマンス。この映画すら、そういう計算のなかでアレンジされているはず。リーのパフォーマンスに唱和する何千人という観客を見ると、文革の頃の光景が思い出される。ファシズム的な要素を感じてしまうのだ。
◆新彊ウイグル自治区の女性たちは、非常に神経が細やかなように見えた。
(メディアボックス)



2000-04-05

●白い刻印(Affliction/1997/Paul Schrader)(ポール・シュレイダー)

◆試写室には最低30分まえには行く。さもないと最前列のお自分の好きな席がとれない。が、映画によって、最後まで最前列の席が1つだけ空いていることがある。そして、そういう席に時間ぎりぎりに、あるいは時間が過ぎてやってきた人がぱっと座ることがる。ずるいなと思うが、空いていたのだからそれはそれでいい。しかし、そういう人はそれからが問題。今日のおっさんは、場内が暗くなりはじめてから飛び込んできたのだが、それから折りたたみ傘をていねいにたたみはじめた。その音が「シャラッ」「シャラッ」とうるさいのだ。一番まえだぜ。この映画の音は、非常に繊細だったので、ひどく妨害された。
◆雪の見える人けのない田舎町。ウィレム・デフォーのナレーションで始る。車のなかの父親(ニック・ノルティ)と娘。父親だけが陽気になろうとしているが、全然乗ってこない幼い娘。案の定、妻と別居して許された時間、娘と会っているシーンなのだ。娘は明らかに父を嫌っている。
◆ニック・ノルティは、凶暴さを内に秘めた危険な男を演じるのがうまい。彼が演じるウェイド・ホワイトハウスも、そういう人物だ。次第にわかるが、それは、暴力的な父親(ジェームズ・コバーン)の環境のもとで形づくられた。酒びたりで妻と子供に暴力をふるう夫を演じるコバーンの演技は迫力がある。
◆この映画は、そうした暴力の根源と宿命のようなものに観客の意識を向けさせる。わたしは、ふとウィリアム・フォークナーを思った。コバーンは、憎たらしげに、「お前にはおれと同じ血が流れている」と言うが、それは、ニックへの愛情でもある。殴り合い、殺し合うという形でしか愛情を交換できない親子。暴力とは何か? どのみち、アメリカ社会に脈々と流れている暴力の伝統。
◆二人兄弟の弟を演じるウィル・デフォーの存在がやや希薄。彼は、いつも覚めた目ですべてを見ている(現に、ボストンの歴史学の教授という設定)し、この映画が彼のナレーションで構成されているように、彼の目で描かれているわけだが、そういう視点の具体的形象としての彼が果たして必要であったかは疑わしい?
◆しかし、彼がちらりと語ったことが、兄のパラノイアを昂進させるわけだから、彼は、距離を取ることで人に暴力をふるわせているわけである。
◆ニック・ノルティの友人のジャック(ジム・トゥーリー)が、州の組合幹部(ショーン・マッキャン)を雪の山での狩りに案内するが、突然、その男は雪の坂道を転がり落ち、自分の銃の弾にあたっれ死ぬ。その瞬間の映像を観客は見る。が、ニックは、この組合幹部を邪魔に思っていた連中によって殺されたのではないかという疑いをいだく。弟は、その推理を裏づける。観客は、自分の目を信じるならが、組合幹部の死は、事故である。この辺のあいまいな描き方がおもしろい。
(メディアボックス)



2000-04-04_1

●ショウ・ミー・ラブ(Facking Amal/1998/Lukas Moodysson)(ルーカス・ムーディソン)

◆内向的な少女アグネス(レベッカ・リビエベリ)がひそかにクラスの同性に愛情をいだき、それが裏切られたり、すれ違ったりする話はめずらしくない。が、この映画の面白さは、一方でそういう少女を主人公に置きながら、他方で、もっとはすっぱな、教養志向でなく、(世の平均的な流れに乗って)男にモテたいと願い、男らしい男に近づく少女エリン(アレクサンドラ・ダールストレム)が、次第に、前者の愛情を感じるなかで、自分のなかのレズ的志向に目覚めるというプロセスを描いている点だ。
◆アグネスの部屋には、『スクリーム』のポスター。
◆冒頭、キーボードの音。荒れた画面のアップで少女の顔が出る。コンピュータに日記を書いている。あるクラスメートへの愛の記述。バーンとロックが鳴って、タイトル。導入は悪くない。
◆引っ越してきたばかりで、気にして親はプレゼントを用意したり、誕生パーティにクラスメートを呼ぼうとするが、アグネスは、覚めている。父はクラスで配るようにパーティの招待状を作り、コピーするが、アグネスはしぶしぶ学校にもっていく。
◆クラスの感じは、ひどくすさんでいる。アグネスが配った招待状も、新参者をコケにする。 まあ、どこの学校もこんなものかもしれないが、イジメの雰囲気が日本とどこか共通性があるのは、オーモルという閉鎖的な環境のためだろうか?
◆パーティに来ては、アグネスの部屋に入ってしまい、パソコンの日記まで読み、なかなかドアを開けないエリンたち。あげくに、あの子レズなんだと、キスしたら・・あげるとばかり、カケをして、アグネスにキスして見せる。傷つくあぐねす。この辺のイジワルな感じとプロセスはうまい。
◆出てくる男の子たちは、「女にはケイタイのことなんかわかんねえさ」というような台詞を言わせ、最初からバカなマッチョ存在にしておく監督。この映画は、最初から男に距離を置いている。
(映画美学校)



2000-04-04_2

●サイダーハウス・ルール(The Cider House Rules/1999/Lasse Hallstrw枸)(ラッセ・ハルストレム)

◆ウエル・メイドのドラマ。時代は1940年代。場所は、人里はなれたところ。妊娠した女性の駆け込み寺のような孤児院。女が駆け込み、子供を生んで去っていくこともあれば、赤子を連れてくる女もいる。逆に、ここの子供を里子にする者もいる。そういうとき、子供たちは、人一倍いい子になって、里子される努力をする。まだ幼い子供が自分を売り込むために懸命な努力をするシーンはあわれ。選ばれて連れられたいく子供を窓に群がってながめ、うらやましがる子供たち。
◆時がたち、幼かったホーマー(トビー・マグワイヤー)も成人し、院長(マイケル・ケイン)を助けている。不法だが堕胎もやる院長のことを当惑ぎみに見るホーマー。
◆院長は、この院の仕事のためにすべてを捧げているが、人生には絶望しているようだ。暇なときには、ベッドで、麻酔のエーテルを吸って酔っている。老齢の看護婦エドナ(ジェーン・アレキサンダー)、中年のアンジェラ(キャシー・ベーカー)はともに存在感がある。アナジェラは、ときおろ院長のベッドのなかにいる。
◆戦争帰りの兵士ウォリー(ポール・ラッド)の恋人キャンディ(シャリーズ・セロン)。マリリン・モンローっぽい化粧。二人で子供を堕ろしに来る。町の風を持って来たのか? ホーマーは、女が退院する日、二人について彼らの町へ。ウォリーの母(ケイト・ネリガン)のりんご園で働く。
◆りんご園は、黒人の季節労働者によって維持されている。ボスのミスター・ローズ(デルロイ・リンド)とその娘ローズ・ローズ(エリカ・バドウ)。仲間思いのミスター・ローズ。が、やがてローズ・ローズが、なんと父の子を宿していることがわかる。かつて院長に批判的だったホーマーが、院長から受けついだ技術を実践する決心をするまでの逡巡。この映画の厚みは、このあたりのよく出ている。近親相姦に対する周囲の驚きと軽蔑を描きながら、同時に、そうならざるを得なかった部分、そのことに苦しむ父、父に屈従しながら、最後に父を刺し、どこかに消える娘・・・。
◆ウォーリーがふたたび戦地に出たあと、キャンディとホーマーが急速に近づいていくのも、二人の意志というよりも、何かにつき動かされてそうなったようなトーンで描かれる。人生は、実際、いつもそうなのだからというよりも、そういうトーンを創造したのが、この映画のユニークさだ。ドラマの時間性ではなく、日常の時間性(くり返しのうように見えながら、瑣末なレベルで更新されている)に接近すること。
◆ただの出来事の再現でも、ドラマティックな物語でもなく、記憶(プールされた記憶ではなく)が、記憶という機関がよびさまされるような体験をさせること。この映画は、そんな力をもっている。
◆ときには、法をやぶることも必要であること。この映画がキリスト教的に見えるとしても、それは、1940年代のアメリカの田舎の平均性を押さえているにすぎない。
(日本劇場)



2000-04-03

●ナインス・ゲート(The Ninth Gate/1999/Roman Polanski)(ロマン・ポランスキー)

◆場内が暗くなってから、パチッパチッという音に画面への集中をそがれて、右隣を見ると、何をしているのかわからないが、指を組んでいる白髪の老人の手のあたりからそういう音がする。上映中ずっと悩まされた。後半は、左隣の「老人臭」豊かな人のイビキ。この人、上映前にギャギャの社長が挨拶に来たから、「相当」の人なのかも。たぶん、劇場関係だろう。でも、寝てたらしょうがないよな。でも、フィルムを上映する側としては、眠ったかどうかは一つの基準になる。眠れるような映画がいいのか、それとも眠ってしまうような映画だからダメとするのか。
◆3分の2ぐらいまでは、なかなかうまい転回だった。それまでは、オカルトとは切り離して見ることができるサスペンスだから。が、そのあと、黒魔術的な儀式が出て来てリアリティがコケた。
◆固いものの上でペンを走らせているような音。夢のなかへ連れ込むような暗い回廊のような空間をウォークスルーする映像のなかから、ドアをくぐるたびに出てくるクレジット。しゃれている。そのあげく、ぱっと展開する最初のシーンは、ニューヨーク。RCAビルディングが見える。
◆時代ものの本がづらりと並ぶ室内。老人がペンを走らせている。最初の画面の音はこれだった。(そうだとすると、あのウォークスルーの画面はこの老人の意識か?)カメラに天井からの縄。おもむろに立ち、首をくくる。このシーンを見て、ふと思ったのは、こういう死に方をした場合、当然、失禁があるはずだが、カメラが映したズボンには、そんな形跡は全くなかった、と。
◆わたしが「新擬古文スタイル」と呼ぶ流れ。この老人の家のように、マンハッタンの人工性のなかにある「古く」由緒あるものを映画のカギにしていく手法。『スリーピー・ホロウ』でも『ボーン・コレクター』でも使われた。この作品は、スペイン・フランス合作だが、ポランスキーあたりになると、最近の商業映画の動向をちゃんと読んでいるようだ。
◆問題になるのが17世紀の稀覯本だが、ジョニー・デップがそれをどこにでも持ち歩き、それを開いたページの真上でパッとタバコに火をつけたり、ワイングラスをかざしたりするのが、ひどく気になった。そういう本を扱うプロがそんなぞんざいなことをするだろうか? 眼鏡をかけ、ヒゲをはやしても、デップはデップ。アメリカン・ボーイだ。
◆そういう場所に事欠かないということなのか、(当然CGI処理をしているから)構想力の成果なのか、ヨーロッパ的な空間を見せるという点では、やはりポランスキーはヨーロッパ人の面目躍如。
◆謎の助っ徒で出てくるエマニュエル・セイナーがいい。足蹴りなんかで敵をノシてしまうところなんかほれぼれする。が、こいつが、終わりの方でデップとやってしまうのはいただけない。そういう関係にはならない方がよかった。
◆図版にさりげなく描かれた「LCF」は、「ルシファー」(悪魔)の略だというが、「AT」の方は何だろう?
(徳間ホール)



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