粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-06-30

●ジュブナイル(Juvenile Boys Meet the Future/2000/Takashi Ymazaki)(山崎貴)

◆日本の「未来もの」「科学もの」って、どうしてみな奥行きがないのだろう? テクノロジーをばかにしているのだ。テクノロジーは、置き物やインテリアと同様の「見立て」として考えられているにすぎない。
◆子供たちのせりふがみなダメなのは、大人の頭のなかにある「子供」のせりふと身ぶりを少年・少女俳優たちに強制しているからだ。みな「いかにも」の言い方とリズムばかり。「・・・じゃん」とか「・・・せぇ」とか・・・。
◆ダルマとフクロウが合体したかのような金属っぽいロボットが、独力で(ペートがもらった食事を食べるような雰囲気で)せっせと与えられたジャンクを使って何か(最終的に戦闘マシーンであることがわかる)を作っている。その姿は「かわいい」(試写には、出演した子供たちが来ていて、しきにそのロボットの姿を見て、「ワカイ~イ」と言っていた。また、香取慎吾がふんする「天才技術者」は、このドラマに登場する子供たちに愛されている。もし、この映画の社会的な要素を見るとしたら、このあたりだろう。つまり、こうしたロボット的なものと「人間的なもの」との同一化(人間の死には泣けないが、ロボットに機能停止には涙を流す)と、香取慎吾的なキャラクター(全然数学にもハイテクにも強よそうには見えない)が科学者や技術者を演じるという時代変化である。
◆ロボットが子供たちを救うために自ら光線銃のレーザーを受けて動かなくなったとき、香取は、このロボットの背中からMDに似た一枚のディスクを抜きだし、これは、まだ存在しないディスク形式だから、いまはこのロボットをよみがえさせることは出来ない、と。そして、それから20年あまりして、科学者に成長した遠藤雄弥が、デジタルペーパーの「雑誌」(透明ファイルぐらいの厚みの表目にさまざまな映像・文字が映る。必要ならモニターにも映せる)を見ながら、叫ぶ。「ついにあのあのディスクが発売された! テトラを生き返らせることができる!」おいおい、先端的な科学者だったら、そんなもの、商品化されるまえに自分で読み出す工夫をしなよ。
◆空の色や人家を俯瞰する映像の色合いはなかなか美しい撮り方をしている。
(東宝)



2000-06-29_2

●オルガズモ(Orgazmo/1997/Trey Parker)(トレイ・パーカー)

◆葛井克亮が製作総指揮、夫人のフラン・ルーベル・クズイが製作をしているというので期待してみた。わたしは、彼らが、まだアルバイト仕事のようなことをうやっていた時代にニューヨークで会ったことがある。でも、クズイちゃん、これはおそまつすぎるぜ。
◆ユタ州から来たモルモン教徒の主人公とその恋人が茶化されているが、この映画自体、ちょっとモルモン教徒出身の人間が作ったんじゃないかと思うくらい、性表現に及び腰。ポルノ映画を作っている現場が舞台であり、それを茶化すことが目的なのだから、一回ぐらい性器をどばっと映さないと、この手のテーマでは上面をなぞったかんじになってしまう。どぎついことは、すべて口で表現して済ませている。
◆パーカーは、『モンティ・パイソン』の影響を受けたと言っているが、あの毒と政治性はおよびもつかない。ダ゚ュ落はみな子供っぽい。いいのは、彼の演技だけ。脳天気な「アメリカ人」を思わせるあの「健全そのもの」の表情はいい。
◆マフィアが日本人の店に絵に描いたような脅しをかけ、日本人の板前(牧まさお)――彼のスシ・ラップも中途半端――が腕を折られるが、全部型通りで面白くもアイロニーもない。
◆製作総指揮ということでKUKIの中川徳章が出ていて、2人の日本人ポルノ女優を出演させているが、これまた名ばかり。別に中川が関わる必要もなかった。すべてにわたって、全然、才能が活かされていないのだ。
(松竹)



2000-06-29_1

●スチアート・リトル(Stuart Little/1999/Rob Minkoff)(ロブ・ミンコフ)

◆うわべは「ほほえましい」家庭ドラマあるいは動物ものだが、角度を変えて見ると、WASPへの酷しい揶揄のドラマ。だって、ねずみを養子にしなければ、家庭の「しあわせ」が保てないのだから。そういえば、息子ジョージの作った模型のヨットの腹には、「WASP」という船名があった。
◆ソニーの装置のしかもしれないが、音の方向性が非常に作為的。映像は具象的なのだが、それがどこであるかという場所性を人工的に感じさせる。観客を音のなかに閉じ込める。わざとか? E.B.ホワイトの作品に基づいているので、そうしたのか?
◆リトル家は、フィフス・アヴェニューのセントラルパーク地区にある。当然、暮らしはアッパー・ミドルである。父親役のユー・ローリーは、声の質が50年代のハリウッド映画の役者に近い。母親のジーナ・デイビスも、ダウンタウンの女性の雰囲気とは一線を画する。子供のジョージ(ジョナサン・リップニッキー)は、当然、良家の坊ちゃん然としている。だから、この映画を見ていると、時代感覚がぐらついてくる。これは、50年代のニューヨークが舞台なのか、と。しかし、セントラル・パークで行なわれる模型ヨット競争のシーンを見ると、そこに出てくるリモコンなどの型式からすると、「現代」である。
◆「平和」や「しあわせ」というものが、核心に触れない、当たり障りのない人間関係のなかで保たれている。これは、50年代風である。ジョージのクラスメートにも、有色人種は一人も見当たらない。
◆ニューヨークを舞台にした最近の映画は、どれも、現時点を描くよりも、擬古文調に時代をずらし、個物に凝って映像を作る傾向がある。これもその一つ。
◆この作品については、『週刊金曜日』(2000年7月28日・325号)に批評を書いた。
(ソニー)



2000-06-28

●ボーイズ・ドント・クライ(Boys Don't Cry/1999/Kimberly Peirce)(キンバリー・ピアース)

◆最近のアメリカ映画のなかでは、最も一貫性のある表現を目の当たりに出来る作品。わたしは、この監督のスタイルに魅了された。『マグノリア』のように、書きたいことが多いので、後回しにし、結局、ほかの作品よりも少ないメモしか書けないということになりそう。
◆手持ちカメラの活用、アップの撮り方のユニークさ。
◆ブランドン・ティーナ(ヒラリー・スワンク)は、もし、ニューヨークでなら、トランスジェンダーとしても場を見出せただろう。が、1993年のネブラスカ州の片田舎では、女なら男、男なら女に「変身」しなければならなかった。トランスジェンダーとは、本来、別の性に変身したいという欲求ではなくて、固定した性を逸脱していることである。だから、トランスジェンダーの最も本来的な姿は、男でも女でもない「トランス」な性になることである。
◆この映画は、「遅れた」地域でトランスジェンダーであることの不幸と悲劇を描いていると同時に、トランスジェンダーであることを日常的環境のなかで描いて見せた稀な作品である。スワンクの演技のなかには、単に「おんな男」や「おとこ女」ではないしぐさや表現がある。その極致は、彼女が無残に殺されてしまうところだ。その死は、女性の虐殺であると同時に、「少年」の虐殺でもある。
◆最初「男」だと思っていたラナ(クロエ・セヴィニー)が、ブランドンを「女」として、そしてさらにはトランスジェンダーとして受け入れていく過程がすばらしい。が、それは、無残にも田舎の暴力によって一掃されてしまう。
◆ラナは、ブランドンと性的な関係を持っているが、彼女は、ブランドンが「女」であることに気づかなかった。が、事実は、彼女は気づきたくなかったのだ。ブランドンは、人工のペニスなどを持ち歩き、「男」として振る舞う「技術」を心得ていた。当然、おかしいと思った相手もいただろう。が、ブランドンを愛したラナは、そういうセックスでよかったのである。ということは、彼女は、すでに通常のジェンダーを越えて(トランス)いたのである。
(FOX)



2000-06-21

●クローサー・ユー・ゲット(The Closer you Get/2000/Aileen Ritchie)(アイリーン・リッチー)

◆アイルランドの片田舎ドニゴールの話。こんなド田舎にいてもしょうがないと思っている若者。男も女も生活に満足していない。外(特にアメリカ)が夢多い世界に見える。男も女も、身近な相手よりも、まだいない相手にあこがれる。これは、日本にもある傾向だ。島国特有のものか?
◆この辺境にも、外の要素はある。スペインからの出稼ぎ漁師だ。女たちは、手っ取り早く彼らに関心を示す。それは、彼らがエキゾチスムを持っているからだ。
◆ことの起こりは、教会の映画会のフィルムが、予定の『十戒』ではなく、ボー・デレク主演の『テン』(70年代にそのヌードが話題になったっけ)だったことで、それを見てしまった村の男たちがアメリカ女にとりつかれてしまう。
◆せりふは、かなりきつい。友達同士でも、皮肉や冷やかしがものすごく多い。
◆ちょっとテンポが緩慢だが、この村のちょっとオフビートの感じはよく出ている。この緩慢なテンポのおかげか、最初に予想される2つの可能性(村の男たちがアメリカの新聞に出した広告を見てアメリカの女が実際に来て、話しが展開するのか、それとも、結局は村のなかで相手が見つかるのか)のどちらになるのかが決め難い。これは、うまいやり方だ。
◆夫が出て行った女ニーアム・キューザック)と初老の男(ショーン・マッギンレイ)との恋、36歳の童貞男(パット・ショート)を最後に受け入れるおばさんくさい女(ルース・マッケイブ)との愛がいい感じ。
(FOX試写室)



2000-06-20

●タイタンA.E.(Titan A.E./2000/Don Bluth)(ドン・ブルース)

◆3028年、地球はエイリアンによって崩壊させられる。父がひそかに残した人類の生き残りの鍵を息子が引き継ぐ。ここで母と息子ではなく、父と息子であることに注目。いまのアメリカで最も関心を得るテーマなのだ。
◆宇宙物は、抽象的な全地球概念を出すことによって、それぞれ(特にアメリカ)の国家性が強調されるという仕組みを持っている。しかし、宇宙を出さなければ国家を意識させられないというのは、今を象徴している。
◆アニメではどこかで見たようなキャラクターが登場するのを避けることが難しい。というのも、金をかけて作ったソフトを流用することが普通だからだ。この映画でも、女性アキーマ(声:ドリュー・バリモア)は、『ムーラン』のキャラクターにそっくりだ。
◆こういう映画を見ると、いずれは、人工的な空間に(人工的な重力や空気のもとで)生活する人間が出てくるだろうという気がする。この映画で描かれるスピード感は、確実に具体化するだろう。
◆動物との共生があたりまえになり、人間は、世界の生き物のごく一部であるという設定。
◆「父」はいるが、「母」は主題にならないのが、面白い。
(シネマ・メディアージュ)


2000-06-16

●アイスリンク(La Patinoire/1998/Jean-Phillipe Toussanint)(ジャン=フィリップ・トゥーサン)

◆アイスリンクでの撮影のどたばたで、ヨーロッパの政治情勢を象徴的に描こうとしているとのことだが、全然ダメ。アメリカから招いた主演男優は、覇権主義を象徴する? リンク上でホーケーの実演をするチームは、どうやらリトアニアのグループらしい。しかし、わずかにパロディ化に成功しているのは、シネチッタのような映画会社やカンヌ映画祭とかの「覇権主義」。
◆これほど笑いを要求されていることがわかりながら、全然笑えない映画もめずらしい。
◆パーティで歌を求められてトム・ノヴァンブルが革命歌を歌ってしまうところはいい。
(徳間ホール)


2000-06-15

●ザ・ハリケーン(The Hurricane/1999/Norman Jewison) (ノーマン・ジェイソン)

◆非常に正統的なメロドラマ。事実にもとづき、「感銘」深いシーンが多いが、「古い」という印象をぬぐえないのはなぜか? ワイントンが22年間の獄中生活の末に、連邦裁判所の判事の決定によって釈放されると決まった瞬間、あたかもその会場にいるかのような「感動」に襲われる。だが、まてよ、実際に現場にいたら、もっと意外な気持ちに襲われるのではないか、というような疑問がわきおこってくるのを抑えることができないのはなぜか? 型通りの歓声、抱擁、涙、検事側の不服な目と態度・・・どれをとってもみな「いかにも」のシーンである。
◆興味深いのは、共同生活をし、EPA(Environment Protection Agency) の活動をしているカナダ人の3人のグループ。一人は大学教授、あとの2人は建築家らしい。3人の生活は、どこか新しさを感じさせる。しかし、リサ(デボラ・カーラー・アンガー)との関係には、わずかに彼女個人とルービンとの関係が描かれるが、他の2人の個人性は不明である。考えてみると、この映画ほど、個々の人物の内面に肉薄しない映画はない。まるで中に入るのを遠慮しているかのように。ルービンがもうひとりの自分と言い争うシーンがあるが、人格とは、この映画ではたかだか2人であるようだ。人格は、いまや、多人格化し、多数の自我がせめぎあっているはずなのに。
◆なぜ、3人のカナダ人がこれほどまでルービンの救済に入れ込んだのかがあまり明確ではない。レズロ(ラズロ)からルービンの自叙伝のことを知ったからだけではなく、もっと、彼らの新しい生き方の部分がもっと描かれてもよかった。
(よみうりホール)


2000-06-14_2

●ステュービット・イン・ニューヨーク(Kicked in the Head/1997/Matthew Harrison)(マシュウ・ハリソン)

◆ジェームズ・ウッズがどうしようもない叔父を演じているが、あいかわらずユダヤ臭をふんぷん。わたしは好きだが。
◆この映画のしいてよいところをあげればたぶん会話だろう。皮肉とユーモアを味つけした会話。アル中のスチュワーデス(リンダ・フィオレンティーノ)の醒めた感じ。
◆みんなクレイジーで面白いが、こういうクレイジーさは、いまのニューヨークでは古いのだろう。これは、スコセッシの『救命士』が「古い」と感じられるのと同じである。
◆ピストルがバンバンぶっぱなしても、誰も死なないのがいい。だから、最後にウッズが、犬に見取れて車にはねられるシーンが、妙に強く感じられる。
(徳間ホール)


2000-06-14_1

●あの子を探して(Yi ge dou bu neug shao/Not One less/1999/Yimou Zhang)

◆非常に円熟した作り。
◆いま中国では、金への関心が国家的規模であおりたてられているのだろうか? この映画でも、寒村の子供たちは非常に金に細かい。貧しいからあたりまえだと思うかもしれないが、そういうことではなく、金に細かいことが肯定されており、それは、自然にそうなったのではなく、国策的にそういう方向が強められているような気がする。
◆村のシーンもいいが、街の撮り方はうまい。少年が街をほっつき歩くシーンは、子供のたくましさが出ていて感動する。
◆少女が子供たちを教えるやり方に、官僚主義の残゚謔フようなものを感じた。が、子供たちは、そういうものにしなやかに抵抗して生きている。子供たちはラディカル。
◆ずっと古典的なやりかたで撮るが、テレビの使い方はなかなか新鮮。テレビに出てしゃべれないスタジオの少女。ちょっと時間をづらしてその映像を見ている少年。少女の目に涙。少年の目にも涙。教師として生徒を思う話としてよりも、メディアを通じた愛(『パリ、テキサス』的な意味で)として面白い。
(ソニー)


2000-06-09

●ブラッド・シンプル(Blood Simple/1999/Joel Coen)(ジョエル・コーエン)

◆編集しなおしたニューヴァージョンだが、かえってもとのうさんくささがなくなってしまった。
◆ニブい感じの田舎男(M・エメット・ウォルシュ)が悪党の本性を現わすところは旧作とかわらず、怖い。
◆パンフには、旧作と新作との音楽の使い方などの細かい違いが記述されているが、この映画はDVDなどでそういう比較をしながら見るためのものかもしれない。
(徳間ホール)



2000-06-07

●マルコヴィッチの穴(Being John Malkovich/1999/Spike Jonze)(スパイク・ジョーンズ)

◆このひらめきは天才的。意外性豊かで、非常に現代的なテーマを追求しているアクチュアリティは、とても初監督の仕事とは思えない。今年見た作品のなかではベストの1つだろう。
◆マリオネットをやっているから手先が器用→新聞広告で見つけた会社で書類整理の仕事をするというジョーク。
◆その会社がビルの7 1/2階にあるというが、エレベータにはその表示はない。すると、エレベータのなかで一緒になった黒人女性が、「教えてあげる」とばかり、7階を過ぎたところでいきなり非常ボタンを押し、エレベータを停める。そして、かたわらのバールを取り出し、ドアーをこじあける。これも、予想のつかない意外性。
◆いっしょに住んでいるロッテ(キャメロン・ディアス)は、イヌ、チンパンジー、オオムを飼っている。彼女は、マルコヴィッチ体験をすると、自分は、本当は男として生まれるべきだったのだと言いはじめる。このへん、アメリカの女性によくありがちなパターンを鋭く風刺している。自分は本当は男だった→だからそれまでのヘテロ・セックス関係を解消し、ホモセクシュアルの世界でやりなおす、と。
◆「他人の頭のなかに入りたい」という欲求は、いま、セックスをしたいという欲求よりも強いのかもしれない。そして、セックスも、そういう欲求を地盤にして求められる。この映画の登場人物たちは、マルコヴィッチの頭のなかに入って、目指す相手とセックスする。
◆冒頭で出てくるマリオネットのシーンが、ふり返ると、この物語全体を暗示しているというスタイリスティックな構成。身体性への(単なる思いつきを越えた)洞察。身体の内部と外部、身体の内部の外化と外部の内化。
◆若干、もってまわっているのが、ドクター・レスターとその仲間たち。彼らは、集団でマルコヴィッチの頭のなかに住み込むことによって長生きしているというが、全体との関連がやや不明。が、彼らは、「マルコヴィッチ」の人格の構成員なのだろう。
◆この映画から示唆されるとは、近代主義的な心理学を越えた新しい「人格」理論である。われわれの意識には、外部への"portal"(出入口)があり、そこを通じて、外界の要素(物と人)がたえず出たり入ったりしている。
(渋谷東急)



2000-06-06

●伝説の舞姫 隹承喜(Choi Seung-Hee and Kim Mae-Ja/2000/Tomoko Fujiwara)(藤原智子)

◆岩波ホール配給の映画の試写会に来る人は、他の試写会の人とは大分違う。「岩波文化人」と文科系の学者・もの書き。必然的に、レセプションの応対は、相手によって腰の低さが極度に変わる。
◆韓国は上下関係の酷しい国である。この映画の案内役の金梅子(キム・メジャ)は、韓国では「実力者」の一人である。だから、この映画でも、つねに「先生」付で気づかいされている。その意味で、通常の「案内者」をこの人に期待することはできない。と同時に、この映画は、「隹承喜と金梅子」という英語題が示唆しているうように、隹承喜をメインにするつもりでいながら、うまくできないとまどいのようなものがある。
◆冒頭、「怖いおばさん」風の金梅子が、皇居を外堀近くを歩いているシーン。それから国立美術館へ、隹承喜が演じた仏像彫刻を見に行く。さらに東京画廊へ。にこりともしない態度で作品を見ているのが異様。この人は、基本的に「インタヴュー」が出来ない人だが、その対話が比較的うまくいっているのは、アキコ・カンダとのときだけである。これは、ひとえにアキコ・カンダの魅力と度量に負っている。
◆隹承喜のアメリカ公演を記録したショットは、アメリカで出ているビデオから再びフィルムに落としたことが歴然としているが、「提供者」として久保覚の名があった。久保氏の隹承喜への入れ込み方は相当なものだったが、彼がその映像の「提供者」というのはおかしいのではないか?
◆古い新聞のページが出てくると、必ず「禁無断転載」という断り書きが出る。これは、わずらわしい。
◆隹承喜の娘の同級生が何人も出て来るなかに、小林亜星とともに、東経大の八巻俊雄教授の姿があったには意外だった。
◆隹承喜の師石井漠の娘、石井歓(みどり)のかくしゃくとしたしゃべり。先頃亡くなった尾崎宏次のプロ意識に抜かれたしゃべりが懐かしい。
(岩波シネサロン)


2000-06-02

●千里眼(Senrigan/2000/Manabu Aso)(麻生学)

◆カメラはいいが、出てくる肝心のテクノロジーと心理学が「インターネットができない黒木」以下。だいたいこの人のつっぱった体育会系ノリの表情・身ぶりが気にいらない。
◆対する水野美紀は、せりふが棒読み。
◆米軍のミサイル・システムのパスワードを書き替えられたのを黒木が解読するというくだりで、そのパスワードがすべて数字から成り立っているというのは、お粗末すぎる。いまどき、ネットのパスワードですら、数字・アルファベット・記号の混合が普通である。数字だけなら、スーパーコンピュータで簡単に解読できる。
(東映)



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