粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-09-29

●シャフト(Shaft/2000/John Singleton)(ジョン・シングルトン)

◆冒頭のクレジットタイトルが安い感じがしたが、なかなかの出来だった。エスニック・センスが抜群。黒人同士の微妙な言葉使いややりとりがいい。ピストルの撃ち方に美学が感じられる。テンポもいい。
◆サミュエル・L・ジャクソンのシャフトは、暴力的でセクシーなので、「差別する奴は許せねぇ」みたいな正義感を丸出しにしても全然「正義」をたてにとった感じがしない。
◆警察仲間の白人が黒人差別丸出しの台詞を(親しい間であるからこそ)言い、シャフトにたしなめられると、「じゃあ、ethnic sensibilityを勉強するか」。
◆気のきいた台詞が随所にちりばめられている。署内の仲間(一人はダン・ヘダヤが演じる)が、ドミニカ人のヤクザに買収されて、それがシャフトにばれたので、シャフトを殺そうとする。が、そこに、1度はこの2人に撃たれたが、防弾チョッキで助かった女性警官(ヴァネッサ・L・ウィリアムズ)が助けに来て、シャフトにホールドアップしている2人の警官に後ろから銃を突きつける。その瞬間、「撃て! 撃て!」と叫び、撃たれる2人を見ながら、「It's Giulian's town」。この意味は、なかなか意味深長。市長ルドルフ・ジュリアーニは、警官の数を増強し、ニューヨーク市の犯罪を50%減らし、殺人を70%減少させたといわれているが、一方で、「ファシスト」という非難もある。シャフトの台詞は、「この街には警官が多すぎるから、悪い奴はぶっ殺せ」という含みもある。あるいは、「この街は警官でもっているんだから、悪徳警官は死すべし」とも。
◆ひねったユーモアが多い。発端は、レストランに黒人が入ってくると、白人の若い男(クリスチャン・ベイル)が、「ここには安い酒はないぜ」などと差別的なことをしつこく言い続ける。そこで、その黒人が、白いハンカチに二つ穴を空け、男の顔に投げつける。それがうまく頭にかぶり、ちょうどKKKのマスクのようになる。
◆ここから、若い男は怒り、外で待ちぶせし、黒人をスチール・パイプで殴りつける。映画は、このシーンを最初には出さず、シャフトが、瀕死の重症をおって倒れている黒人がいるという知らせをきいて、現場にかけつけるところから始る。黒人は、救急車に運ばれる寸前に死亡してしまうが、シャフトが、「make it?」と訊く。これは、字幕では、「助かるか?」と訳されていた。
◆黒人を殺した男は、不動産王の息子で、すぐに保釈になり、スイスに逃亡する。親をかさに着る嫌みな男だが、親父の豪邸には、親父の若い女いる。その女が着けている宝石を見て、息子が親父をなじる。「ママの宝石を着けさせるな」。どうやら、母親はもういないらしいのだ。
◆殺害現場を目撃した女ダイアン・パルミエリ(トニー・コレット)、殺された黒人の母親(最後に、彼女のすごいシーンがある)、ドミニカ人の麻薬の元締めピープルズ・ヘルナンデス(ジェフリー・ライト)をめぐって、話が展開する。
◆ダイアンには2人の兄弟がいる。娘を守ろうとする態度はステレオ・タイプ化されたイタリア系。ピープルズが、弟をシャフトに殺されたときのキレ方もたぶんドミニカ人気質をコピーしているのだろう。
(イマジカ)



2000-09-27

●キンスキー、我が最愛の敵(Mein Liebster Feind/1999/Werner Herzog)(ヴェルナー・ヘルゾーク)

◆クラウス・キンスキー(1926~1991)とのやっかいな共同作業をヘルツォークが回顧していくドキュメンタリーだが、撮影中にやっかいなトラブルを起こすキンスキーの「狂気」が強調されればされるほど、わたしには、彼の「狂気」が非常に入念に計算されたもののように思えてくるのだった。彼は、決して「自然児」ではなかった。ヘルツォークは、そのことを十分承知しており、激しく彼を批判する言葉も吐いているのだが、あの顔の温厚さのゆえか、批判にはきこえない。結局、この映画は、タイトルに示されているように、「最愛の敵」への愛情深いオマージュなのだ。キンスキーが死んでから8年後に作られたわけだが、このような「愛」が生まれるには、8年ぐらいの時間が必要だ。
◆エーファ・マッテスが、『ヴォイツェック』の撮影、カンヌ映画祭で助演女優賞をとったときのことを語る表情がいい。
◆キンスキーが、"Kinsi Uncut"のなかで、ヘルツォークについて言っていることは、そのままキンスキーにもあてはまるだろう。「ヘルツォークは惨めな、嫌らしい、悪意だらけの、強欲な、守銭奴の、卑劣で、サディスティックな、二心を持つ、卑怯なウジ虫だ」。
◆矛盾と緊張をはらんだ2人の関係は、非常に面白いテーマだが、ヘルツォークのストレート(を装った)視覚では、このねじれた関係の面白さが出ない。8年という時間は長すぎた。
(メディアボックス)



2000-09-26

●ギター弾きの恋(Sweet and Lowdown/1999/Woddy Allen)(ウッディ・アレン)

◆浜田剛爾に頼まれた公開対談が、彼の帰国が遅れ、中止になったので、この試写会に来ることができた。ラッキーである。予定が決まってから試写状が来て、残念に思っていたからだ。が、開場20分まえに到着したヤマハホールのロビーには、わたし以外に客は1人しかいなかった。ウディ・アレンの試写会でこの盛況か? イヤな予感。それと、パンフレットを積み上げたテーブルのそばに立っている配給会社の人たちは、どことなく慣れない感じ。おいおい、大丈夫? 映画の宣伝は勢いだぜ。
◆映画は、残念ながら、二番煎じだった。ウディ自身が主人公を演じていないのを除けば、スタイルは、『カメレオンマン』(Zeilig)と同じ。いかにも実在したかのような人物をでっち上げ、それを「再現映像」風に見せ、あいだに実名で登場する人物(ウディ・アレン、ベン・ダンカン、ナット・ヘントフ、ダグラス・マクグラフなど)によるコメントをはさむやり方。
◆1944年に同名の作品があり、これには、ベニー・グッドマンが自身で出ているが、演奏以外は見るべきところなしの映画らしい。ウディ・アレンは、この映画を当然意識していたはずだが、そういうひねりを考慮しても、これまでの彼の作品にくらべれば、奥行きも、芸もない。
◆例によって「私映画」のスタイル。ジャンゴ・ラインハルトの次の天才だと思っているユダヤ系のギタリスト、エメット・レイ(ショーン・ペン)は、いつも、「アーティストは自由でなけりゃ」と言って、女を愛してもすぐに捨てる。ただ、映画の世界には、この手のキャラクターがゴマンといるから、エメットの程度では、それは、口先だけに聞える。友達との賭けで、しぶしぶ引っかけた少女、ハッティ(サマンサ・モートン)は、実は、口が利けなかった。筆談メモに書く字も判読不明。が、ハッティは、エメットのギターに魅せられ、エメットも彼女に不思議なやすらぎをおぼえて、1年もいっしょに暮してしまう。
◆サマンサ・モートンの目の演技がすばらしいが、後半でそれほどでもなくなる。エメットが、ハリウッドで伴奏をつける仕事があったとき、いっしょに行って、監督の目にとまり、映画に出演したというくだりは、くだらなすぎる。このへんから、モートンの演技もダメになる。エメットのつかのまの妻を演じるユマ・サーマンは、最初、ハっとするようなセクシーさで目を引くが、これも、すぐにしぼんでしまう。どこか、演出に問題があるのだ。ショーン・ペンは、エクセントリックなキャラクターや、ヤクや酒にひたったときの演技が超うまい役者だが、この映画では、どこか焦点があっていない。全体として、メイクのせいもあって、お人よしな感じ。
◆シカゴの黒人の家(レストラン?)でジャムセッションをやるシーンはなかなかいい。エスニシティを越えた交流の「理念型」の描写。
◆見方によっては、サマンサ・モートンは、若いときのミア・ファーロウに似ている。そして、口の利けない少女とのやりとりは、どことなく、アレンが「犯した」というミアの養子たちとのやりとりを想像させる。
◆はすっぱな女たちに疲れ、久しぶりにハッティを訪ねると、彼女は、読みにくい字の筆談メモを渡す。そこには、「結婚した」と読める文字があった。
◆"I made mistake"と叫んで、ギターを樹に叩きつけて、壊すシーン。アレンのいまの実感か?
(ヤマハホール)



2000-09-21

●コヨーテ・アグリー(Coyote Ugly/2000/David McNally)(デイヴィッド・マクナリー)

◆「純真」な(そして判で押したようにガンコな親父――ジョン・グッドマン――がいる)イナカの娘ヴァイオレット(パイパー・ペラーボ)が都会に出てきて苦労の末成功するという、定番だが、妙な魅力があるのは、新人の役者たちががんばっているからか? テンポも早く、いいタッチ。それと、「成功」といっても、初志を貫徹する程度の成功である点か?
◆父親は、高速道路のゲイトのチケット切りをやっているのだが、家の門(かど)には国旗をかかげている。そういう地域なのである。設定は、ニュージャージーのサウス・アレボイ。
◆タイトルは、イースト・ヴィレッジにある同名のバーの名であるが、わたしの見るところ(最近ニューヨークをほっつき歩いていないので、このページを「愛読」してくれている、在ニューヨーク30年の刀根康尚氏なんかからは冷笑されるかもしれないが)、映画のバーは、ミート・マーケットの近く(つまりウエスト・ヴィレッジ)であるように見えた。
◆女がカウンターでセクシーなダンスを披露しながら、客が女にタッチしたら、外に追い出されるとか、女は自分のボーイフレンドを連れてきてはいけないとか、オーナー(マリア・ベロ)が規則を定めている――といった、妙に禁欲的なところがアメリカの危険を侵したくない階級には受けるだろう。知り合う男ケヴィン(アダム・ガルシア)も、露骨にセックスを迫ったりしないし、全体としてそれほどワイルドなキャラクターやシーンはない。子供連れでも「安心して見れる」というやつ。ただ、こういう映画を作るのは、そう簡単ではないということを考慮して、わたしは、この作品を評価する。日本の宣伝では、「フラッシュ・ダンスのジェリー・ブラッカイマー」という名ばかりが踊るが、これが監督第1作のデイヴィッド・マクナリーにも注意を向けるべきだ。
◆何か(バーのなかで喧嘩が起こるとか)あったときに、まだ仕事に不慣れなパイパーが、機転をきかせ、またビール瓶のあつかい方に慣れて来るといったシーンがあるが、こういうのは、特に、プロフェッショナリズムへの憧憬と尊敬が強いアメリカでは大体、観客受けするような気がする。
◆ケヴィンが、ある店で紙袋を受け取り、かなりの額の紙幣を渡しているのをヴァイオレットが見てしまうシーンがある。ドラッグの取り引きに荷担しているのかという不安。が、その中身は、レアなコミック雑誌であることがわかる。ケヴィンは、オタクなのだ。出身はオーストラリアということになっていて、演じるアダムもオーストラリア出身。
◆ソング・ライターをめざすヴァイオレットは、そう傑出しているとは思えないが、彼女がアパートでカシオのキーボード(亡き母の形見だという)でフォークっぽい自作を演奏していると、向かいのアパートの窓越しにダラっとした赤いセータを来た黒人がヒップホップを流しながら踊っているのが見える。彼女は、それに合わせて演奏をはじめる。このシーンは悪くない。黒人の顔は見えないが、なかなかデキるダンス。
(丸の内ピカデリー1)



2000-09-18

●ホワット・ライズ・ビニース(What Lies Beneath/2000/Robert Zemeckis)(ロバート・ゼメキス)

◆ゼメキス、フォード、ファイファーという名前からもっと凝った作品を期待したが、失望。周囲は、みな若い女性。困るのは、こけおどしのシーンになると、必ず後ろからは背を蹴られ、横で起こる足踏みが直に伝わってくることだった。ル・テアトル銀座の椅子には妙な段があり、このうえなく座りにくいのだが、横で振動を加えると、それが列全体に響く。
◆最初、「幸せ」そうな「よき家庭」をこれみよがしにしたようなシーンが続く。美しい妻(ミッシェル・ファイファー)は、プロのチェロ演奏家だったが、夫(ハリソン・フォード)と娘のために家庭に専念してきた。夫は、デュポン研究所から抜擢され、遺伝子生物学の尖端の研究プロジエクトの教授として抜擢された。高名な数学者の父を持ち、その豪邸を引き継いでいる。なに不自由のない生活。娘が大学に進学し、家を出ているのをファイファーは淋しく思っているが、娘を誇りにしている。こんな生活のなかで、ある日、最近引っ越してきたばかりの隣家で夫婦が争っているのを目撃する。そして、以後、ファイファーは、その妻が夫によって殺されたのではないかと確信する。
◆ヒッチコックの『裏窓』を思わせる展開をしながら、そうはならないのだが、といって、『裏窓』のモチーフをパロっているわけでもない。この隣家にまつわるエピソードは、活かされず、ただのエピソードに終わってしまう。娘も、ファイファーの友人も、ファイファーの精神分析医も、その場かぎりの役でしかない。何も有機的な関係をもたない。これじゃ、「最後」をバラされたら、もう、見なくても済むという気になるかも。殺される女性が、外見的に妻(ファイファー)と似ているが、それも、あまり深い意味はない。
◆結局、(「絶対に結末を明かさないで」という配給会社の願いに従って、詳細は省くが)結末は、最後にわかる「犯人」との、よくある(死んだと思ったら、置き上がってわーっと襲って来るといったたぐいの)パターのスリラーに終始する。
◆「人もうらやむような」夫婦がいたら、彼と彼女は、決して見かけほど「幸せ」ではないという教訓? そういえば、ハリソン・フォードは、「重要な仕事」だといって、夫婦のペッドにノートパソコンを持ち込み、仕事をしていた。こういう「仕事中毒」は、アメリカでは、ロクなやつではないのですな。
◆フォードが隣家から聞えてきた交わりの声に関して、「あいつらはsexual olympicに励んでいる」という。なるほど。
(ル・テアトル銀座)



2000-09-12

●ザ・ディレクター(RKO283/1999/Benjamin Ross)(ベンジャミン・ロス)

◆久しぶりのTCC。壁をはりかえ、スクリーンの周りを黒くし、椅子も張り替えた。座席に毛皮(人工?)がついているのは、ここだけ。狭さは変わらず。
◆『市民ケーン』のフィルムを一切使用しなかったのは、版権のためか、それとも全部再現しようとしたからか?
◆ウェルズの天才的な側面よりも、「独裁的」な側面(ややものたりない)に焦点を当てている。最後に、ウェルズが映画で(愛憎・批判/尊敬をこめて)モデルにした新聞王ファーストとエレベータのなかで出会うシーンがある。ウェルズは、言う。「この映画は単なる陳腐な私生活の暴露ではないと思う。これは、世界を手に入れて、魂を失った男の物語だ」。これに対してハーストは、こう言う。「わたしの人生は映画で壊されたのではなく、すでに終わる寸前だったのだ。あいにく、君の闘いはようやくはじまたばかりのようだが」。ウエルズは、ファーストのなかに古い、打倒されるべき「帝王」を見、ファーストは、ウェルズのなかに情報時代の新しい「帝王」を見ていた。しかし、賢明なウェールズは、(時代のいたづらもあって)「帝王」にはならなかった。もっとも、彼は、ラジオ放送『宇宙人襲来』の反響を通じて情報の「帝王」を経験し、そのばからしさも自覚していた。
◆メモ:(ファーストに)「こんな暮しをして庶民の味方かよ」。「ローズ・バッド=プッシー」。愛人のマリオン・デイヴィス(メラニー・グリフィス)がファーストに、高価なコレクションを指さして、「こんなもの必要があって買ったの? ただの所有欲からじゃない」と非難すると、ファーストは言う。「わたしには、needとwantは同じだ」。
◆アメリカ映画の好みだとしても、映画では、(二人ないしは集団の)コラボレーションが劇的・感動的に描かれる。脚本家ハーマン・マッキンウィッツ(ジョン・マルコビッチ)、プロデューサーのジョージ・シェーファー(ロイ・シェイダー)との関係。マルコビッチもシャイダーもいい味を出している。
◆崩れゆく「帝国」をまえにして、若い愛人だけを頼りにする老人の孤独を、ファースト(ジェイムズ・クロムウェル)とマリオンとの閑散とした豪邸の広間でのダンス・シーンがよく現わしていた。
(TCC)



2000-09-11_2

●サイレンス(Le Silence/1998/Mohsen Makhmalvbaf)(モフセン・マフマルバフ)

◆ちょっと作りが「知的」すぎる。「盲目」の少年が、『太陽は、ぼくの瞳』とはちがい、盲人の演技をしている(実際はどうか不明)ように見えてしまう。
◆たぶん、それは、意図的なのだろう。「健常者」が、あえて目をつぶって演技することがテーマなのだ。監督の意図は、その点で、盲目の少年をそれらしく描くことよりも、また、盲目の役者が、映画で見せる何かを撮るよりも、何か概念的・観念的なことがまずあるようだ。
◆映像的には、少年が、朝、路上にずらりと並んだ女たちがそれぞれに自分の焼いたパンを手に持って売り込んでいる「市」で食事を手に入れるシーンが面白い。果物の食事。
◆それにしても、「運命の扉を叩く」ベートベンの『第五』ではね。最後のシーンは、少年が、鍋釜職人の街へ行き、手を指揮者のように振ると、職人たちのハンマーや金テコの音が、だんだんシンフォーニーをつくる夢想的・ミュージカツ的なシーン。しかし、そのシンフォニーが『第五』なのだ。
(メディアボックス)



2000-09-11_1

●長崎ぶらぶら節(Nagasaki Burabura-bushi/2000/Fukamachi Yukio)(深町幸男)

◆「・・・とたい」(あそこが長崎の港タイ)と言えば九州弁になるかのような九州弁を使った映画でまともなものはこれまでにあったのだろうか? 吉永小百合と渡哲也の九州弁は、にわか勉強のNHK連続ドラマ的なまがいの「地方なまり」にすぎない。このへんだけでも、もう、この映画はダメなのだ。そもそも、演出/製作には、なかにし礼の原作を活かす気などなく、基本は、興業的にはそこそこまで行った『時雨れの記』の組み合わせをリサイクルしているにすぎない。吉永には、芸者のキップはない(その点、高島礼子は、テレビの人であったにもかかわらず、このところ、「映画人」になりつつあり、芸者をやらせても、悪くない)。渡には、大店の主人なのに、金に愛想をつかして、一晩で散財してしまう古賀十二郎のある種の「粋狂」は微塵も出せない。まして、後半生を歴史研究に専念するような知的センスを(ちらりとであれ)のぞかせるような繊細な演技力もない。よって、この映画の出来は、最初からわかっているのである。
◆心は、芸者・愛八(吉永)にある古賀(渡)と生活をともにしている妻を演じているいしだあゆみが、妙にやつれた顔で、哀愁をただよわせているのが、いしだの演技としても出色だと思ったが、ひょっとして、いしだは、病気だったりして。
◆冒頭で、幼い愛八が、男に連れられ、山道を歩いてくるグリーン・セピアの映像のシーンで、「ぶらぶら節」を歌う役者は誰だろう? 古い無声映画の登場人物のやうな目つきがなかなかよかった。
◆相撲取りをやった永島敏行なんか、見ていて恥ずかしいという役柄と演技だった。この映画は、誰がやっても、箱がだめなのだ。
◆大正11年冬という場面で、吉永が、芸者引退の意志を冗談めかして言うが、その台詞が、「老兵は退場させてもらいますバッテン」。これって、マッカーサーの「老兵は消えゆくのみ」を引っかけているんじゃない? おかげで、この瞬間、吉永は、役から飛び出して、「現代」に出てきてしまうのである。この辺に、この映画の歴史感覚のインチキさがはからずも露呈している。
◆けっこう日の丸が出て来るのが不思議だった。吉永自身、軍艦に向かって国旗を振っていた。終わりの方の夕日も、日の丸を暗示している。
(東映)



2000-09-09

●漂流街(The Hazard City/2000/Mitsuike Takashi)(三池崇史)

◆原作のこけおどしなクソリアリズム志向をすっかり抜いて別のリアリズムを生み出しているところがユニーク。わたしは、これこそヴァーチャルなリアリティだと言いたい。非常にいい。
◆冒頭の砂嵐の舞うなかに登場したマリオ(テア)、たちまち並いる悪党を拳銃でぶち殺してしまうシーンは、CGで作ったマカロニ・ウエスタンのよう。実際、闘鶏のシーンでは、闘う鶏を完全CGIで出してしまった。ここは笑える。ほかにも、その意外性に笑いがこみあげてくるようなシーンが多数ある。サンパウロからあっという間に日本に来て、今度はヘリに乗っているマリオ。ヘリは、不法入国者を護送するバスを襲い、それに乗っていた女ケイ(ミッシェル・リー)を救い出す。そして、新宿の上空に到達すると、マリオはケイの手を取って、地上に飛び降りる。それが、スーパーマンのようなリアリズムへのこだわりが全くないのがいい。「生々しさ」を意識して撮っているのは、暴力のシーンか。が、これも劇画のようなタッチ。
◆宇田川町の路上でマリオを襲う集団も、舞踏のようなテンポで格闘技の技をくりひろげる。
◆こずるいロシア人をおどすケイが、相手の飲んでいたウォッカを取り上げ、口に含んで、点火したライターの火にブロウ。色はちょっとあやしかったが、火吹きはちゃんとやっていたように思う。
◆路地で立ち話をしていると、むこうから自転車が来る。が、1台去ると次にもまた。そして、それが、延々と続く。こういうことは「現実」にはありえないとしても、映画こそこういうことが出来るのだ。映画に出来ることを徹底的にやるところがいい。
◆こういう映像は、次に何が出て来るかという期待をかきたてずにはおかない。これは、ムービング・ピクチャーの基本。
◆この映画では、日本語がヴァーチャルな(どうでもいい)言語になっている。伝達性(観客に対しても)のある言語は、ポルトガル語や中国語(かなりインチキ)の会話に対する字幕。ちょうど日本のCMで最後に英語が挿入されるように、日本語が音の響きだけの言語になっているのがおもしろい。この映画での言語の主役は字幕。
◆ブラジル人がやっている(たぶん)ケーブルのエスニック放送がおもしろい。日本にも、こういうメディアを軸にさまざまなエスニシティのコミュニテイが出来つつあることはたしか。
◆柄本明が演じる刑事のいいかげんさも悪くなかった。なんでこんな役を出す必要があるのかと思ったら、その意味は最後のシーンでわかる。ただこいつをやらせるためだけと考えてもいい。
◆中国人マフィアを演じた及川光博はいい感じを出していた。映画初出演とは思えない。



2000-09-06

●クレイドル・ウィル・ロック(The Craidle Will Rock/1999/Tim Robbins)(ティム・ロビンス)

◆FTP(フェデラル・シアター・プロジェクト)についての映画であることは、試写室に足を運ぶまで知らなかった。FTPは、わたしが70年代のニューヨークで少し調べたことがあるし、その中心人物のハリー・フラナガンには、いまでも興味を抱いている。彼女がやったことはすばらしいし、彼女の本の唯一の邦訳本『現代の欧州演劇』(北村喜八訳編、日日書房、1931年)は、いまぺージをぱらぱらめくっても、1920ー30年代の多くのことに思いを馳せさせる。
◆フラナガンを演じているのは、チェリー・ジョーンズ。確信をもち、理性的に動く魅力的な女性活動家をうまく演じている。1937年の段階ですでに形成されつつあったのちの非米活動調査委員会の前身ダイス委員会で、彼女は、「なぜロシア演劇を持ちあげるのか?」と質問されて、「いま世界で最もすばらしいから」と答える。それは、当時誰しもが認める事実だった。
◆ハンク・アゼリアが演じるマーク・ブリッツスタインは、夢みがちな作曲家で、家でも街でも、ことあるごとに、亡き妻(これが、ブレヒトの英訳をしている小説家エヴァ・ゴールドベック)の姿とブレヒトの姿が、ウディ・アレンの『ボギー、俺も男だ』の「ハンフリー・ボガード」のような構図で登場する。最初、クルト・ワイルがモデルかと思った。彼は、ブレヒトとワイルの熱烈な信奉者で、『ザ・クレイドル・ウィル・ロック』は、ブレヒト以上にブレヒト的な演劇である。
◆大詰めで、予定されていた『クレイドル・・』の舞台が、政府の圧力によってFTPが手を引き、マキシーヌ・エリオット劇場で上演できなくなったとき、代わりの劇場をアレンジする者、ピアノを手配する者、とともに、観客たちが、ブロードウェイを行進しながら、「なにもない」劇場に集合し、最初は、ブリッツスタイン一人の弾き語りで始るくだりはすばらしい。組合を意識して舞台に加わらなかった役者たちが、オリーブ・スタントン(エミリー・ワトソン)の体当たり的な参加をきっかけに、次第に予定された「舞台」の様相を呈して来る。観客もこの雰囲気に深く巻き込まれ、場内がまさにイリイチの言った「コンヴィヴィアリティ」(祝宴)の雰囲気を生み出す。
◆この舞台は、いわば「事故」でこのようなスタイルを使うことになったのだったが、オーソン・ウエルズは、この年の11月に上演した『ジュリアス・シーザー』で、むき出しの壁や「何もない空間」を意図的に使った。また、同じ年のソートン・ワイルダーの作による『わが町』では、同じようなスタイルがより意識的に洗練された形で使われた。こうしてこのスタイルは、ブロードウェイの新スタイルとして評価されるようになったのだった。
◆ジョーン・キューザック演じる女性と、元党員だった腹話術師(ビル・マレー)とのエピソードは、反共意識というものが、どのように生まれるのかを個人的レベルで描き出す。われに返ったマレーが、クラブのショウで、人形に(腹話術で)インターネショナルを歌わせ、その場を去るシーンが印象的。
◆なんでもありの30年代だが、この映画にもファシズムへの「言及」がある。ムッソリーニの愛人だったマルゲリータ・サルファッティ(スザン・サランドン)と財界人とのやりとり。欲望という観点から描いているところがいい。
◆ジョン・キューザックが演じるネルソン・ロックフェラーは、魅力的な人物で、ほれこんだメキシコのアーティスト、ディエゴ・リヴェラ(ルーベン・ブラデス)のアトリエで乱痴気騒ぎをするところなどいい感じなのだが、それにもかかわらず、体制の人間の限界というものをあらわにする。それが、教条的にでなく描かれている。キューザックは適役。
◆貧しい子沢山のイタリア人俳優を演じるジョン・タトゥーロの演技にも、やけに力がはいっている。役者たちをそうさせる映画だったのだろう。
(本郷アスミックエース試写室)



2000-09-04

●インビジブル(Hollow Man/2000/Paul Verhoeven)

◆ハリウッドのホラーと『ダイハード』的なアクションの定石に従った、ドラマそのものは平凡な物語。が、見どころは、Cyber F/X社のWhole Body Scanning技術などを駆使して作りあげた――肉体が皮膚の上層から内蔵、骨・・・の順に透明化していく過程を見せる――映像。皮膚と筋肉が透明になれば、内蔵が見え、内蔵が透明になれば、その下の骨が見えるのは理の当然だが、そういう単純な論理を押さえながら見せていく「露悪的」なホラ話。「ホント」に身をすりよせないから、『ホワイトアウト』のうような犯罪性はない。
◆ケビン・ベーコンが、分子構造のシュミレーションをやっているシーンがあったが、あの程度のものは実際にあるのだろう。コンピュータの場面上で3次元の分子構造を組み替え、「レンダー」のような状態にすると、その物質がコンピュータ内で出来上がり、有機的に問題ないかどうかを判定してくれる。
◆ニトロを遠心分離機にかければ、爆発するのは、単純に考えてもわかる。狂った博士(ケビン・ベーコン)は、遠心分離機にありったけのニトロを突っ込み、タイマーを仕掛けて、逃げようとする。非常にわかりやすい。「ホント」は、そう簡単にはいかないとしても、ヴァーチャリティの内部での「リアリティ」をもってしまう。この種の「リアリティー」への製作者側および観客側の欲求は、いま、ますます高まっているのだろう。わたしは、この手の映画を「ジェットコースター・ムービー」と名づけるが、世の中がまちがっているにしても、この種の映像は、確実に市民権を獲得しつつある。
◆エリザベス・シューは、いつも同じような情感をただよわせている(それはいい)ので、ついつい、『リービング・ラスベガス』の彼女を思いうかべてしまい、彼女が、(たとえどんなに狂ってしまっても)ベーコンに歯向かうようには、見えない――といったところがある。彼女は、相手の狂気を極限まで許してくれそうな雰囲気を定着させてしまったので。
(ソニー試写室)



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