粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-11-29

●処刑人 (The Boondock Saints/1999/Troy Duffy)(トロイ・ダフィ)

◆ヨーロッパにラジオパーティをやりに行ったり、あれやこれやで、11月分の更新が出来なかった。前のようにリアルタイムで書き込む方式ではないので、書いてもHTMLへの変換/はめ込みがおっくうになる。今月の打ち止めは、本当は30日に日本劇場で上映される『グリンチ』のはずだが、それが、遠藤ミチロウのソロコンサート(東経大、5:30pmより)の企画のために見れない。彼の企画を大学キャンパスでやるのは11年ぶり。彼は、いま、バンド活動をやめ、ギターをかかえて過激に歌う漂泊の「吟遊詩人」として日本全国を回っている。
◆センスは極めて差別的だが、スタイルは面白い。初監督というが、なかなかのインテリ。作中、そのインテリジェンスを代表するのが、FBI捜査官を演じるウィレム・デフォー。この役は、彼の役者経歴のなかでも出色なものの一つであり、従来のイメージを書き替えた。殺人現場に来て、死体を検閲するに際し、CDプレイヤーのヘッドフォンを耳に装着し、スウィッチを入れ、壮麗なオペラをフルヴォリュームで聴きながら仕事にかかるのである。女装の潜入。事件を指揮者のような身ぶりで説明し、それにダブって、「再現」映像が見える。
◆残された死体の目にコインがのせられているのを説明するデフォーが、「シンボリズム」とか「ネームオロジー」という言葉を使う。面白い。
◆エンド・クレジットの後ろで、テレビの街頭インタヴュー・シーンを流し、映画で描かれるたこと――カソリック信仰のもとで、2人の男と(大詰めで登場する)謎の男(ビリー・コノリー)が次々に「悪」を滅ぼしていく――の是非を語るという風に相対化されてはいるが、コンテンツのセンス自体は、非常にレイシスト(人種差別)的、セクシスト(性差別)的、メールショウビニスティック(女性差別)的である。
◆マフィアのボスに「コメディアン」という゚モ名の下っ端がジョークを言えと言われて苦し紛れに言うジョーク――メキシコ人とアフリカ系の黒人(「ブラック・ピープル」と言うと、「ニガー」と言えとどなられる)と白人の3人がいて、精霊に願いをきいてやると言われる。メキシコ人は、アメリカの同朋が全部故郷に帰れるようにと願い、それがかなう。黒人は、同じくアフリカに帰る。残った白人は、「じゃあ、メキシコ人も黒人もみんな出て行ったんだな」と言い、「じゃあ、おれはコークでももらおうか」と言った。
◆舞台にしたサウスボストンがそういう街なんだと言うこともできるし、アメリカの街の「小屋」で行なわれる大衆的なお笑いの多くが、こうした差別を利用しているのと同じ仕掛けを利用したにすぎないのかもしれない。
◆主役の2人(ショーン・パトリック・フラナリーとノーマン・リーダス)アイルランド系のカソリック、イタンリアン・マフィアとロシア・マフィア、そして、おそらくデフォーの役はユダヤ人。「クリーム付きのベーグルを買って来い」と部下にくり返し言う。もっとも、コーヒーを買いに行かせるときも、「カフェラテ」にこだわる。
(徳間ホール)



2000-11-28_2

●小さな目撃者 (Do Not Disturb/1999/Dick Maas)(ディック・マース)

◆マリオン内の映画館で試写があるときは、みな階段に並ぶ。その列は数階下まで連なる。手すりや壁のあるところに並べれば運がいい。階段は狭いので、足だけで平衡をとるのはつらいからである。この日は、わたしは早く列に並んだので、1階下の手すりに背を持たせ、本を読みはじめた。しばらくして、背中に激しい振動を感じる。どうやら、わたしのすぐ後ろにいる男が後から来た2人の女性と話に熱中し、興奮が高まるたびに背中を手すりにぶち当てるらしい。落ち着かないので、手すりを離れる。が、そのひとはやめない。そのうち、わたしの前の人がいぶかしげに振り向く。「オレじゃないよ」と言いたいが、わかってくれただろうか? 以下、日本的忍耐の10数分が続く。が、堪忍袋の緒が切れたわたしは、うしろをしっかり振り向き、相手の顔を見る。が、その瞬間、わたしは「戦意」を喪失してしまう。その人物は、ヒゲこそはやしているが、まるで、前掛けをした金太郎みたいな童顔の人物だったのだ。幼児がキャッキャッと叫びながら全身を動かすのはしかたがない。
◆アムステルダムでロケしたというので期待したが、この街の表層を利用しているだけだった。運河ではボートを、路地ではチェイスをといった機能主義的な利用のみ。バーホーベンもそうだが、オランダの映画人は、機械的にものごとをとらえる傾向がある。
◆アムスにやって来た一家の娘(フランチェスカ・ブラウン)が、ホテルの出入口を間違えて、バックヤードに出てしまい、そこで偶然、殺人を目撃する。が、この映画では、観客が「真相」をこの娘とともに知っていて、作中人物(両親や警察)の多くは知らないという古典的なスタイルで進む。そうした無知を利用してスリルを盛り上げようというわけだが、こういうスタイルはもう古い。視点は、娘に置くべきだった。
◆母親(ジェニファー・ティリー)が、ホテルのフロントでパスポートを忘れ、夫(ウィリアム・ハート)に注意されるシーンがあるが、これは、事件の核心となるシーンで、(ホテルのレストランに行って)メガネを部屋に忘れてきたことに気づき、部屋へもどるための予備工作なのである。つまり、この女性は、こういう軽率さがあるということを印象づけておくわけだ。こういう計画性は鼻につく。だいたい、娘がしゃべれないのも、そういう人物を描くためではなくて、ドラマとスリルを成立させるためにすぎない。
◆ジェニファー・ティリーの舌たらずのハスキーなしゃべり方はなかなかいい。
(丸の内ピカデリー2)



2000-11-28_1

●ウーマン・オン・トップ (Woman on Top/1999/Fina Torres)(フィナ・トレス)

◆南北線六本木1丁目からFOXとギャガの試写室は近い。早く着いてしまったので、冬の気配の風が吹く六本木を歩く。ばったりと知り合いに会う。
◆ボサノバとブラジリアン・フレイバーを流行らせるのに一役買うだろう映画。語りでしゃれた距離を取り、軽やかに展開する。あまりカタイことを言わないで楽しむべし。
◆製作のアラン・ポールには、その昔、何度か会ったことがある。ロバート・ウィルソンが初来日したとき、わたしは彼の講演のイントロダクションをしゃべったのだが、そのとき、彼にぴったりくっついていたゲイの青年がアランだった。が、やがてリドリー・スコットの『ブラック・レイン』のアソシエイト・プロデューサーになり、TVシリーズなどもてがけるようになる。最近は、「日本通」とう肩書は捨てたようだ。この作品でも、「日本」は全く出で来ない。当時と一貫しているのは、ゲイのテーマか。ここでも、イザベラ(ペネロペ・クルス)の幼友達モニカ(ハロルド・ペリーノー・Jr.)はゲイという設定。イザベラも、「上位」(オン・トップ)のセックスしかできない「女まさり」。
◆深みはないが、面白い台詞(乗り物酔いなので、タクシーの運転手に100ドル与え、自分で運転するイザベラに、黒人の女運転手が「あんた、どこの宇宙から来たの?」)やプロットがある。ブラジルに電話し、祈祷師の言うような儀式をし、男と縁を切るためのリモートな祈祷を受けるシーン等々。
◆入れ込んだ料理シーンがあるわけではないが、料理への愛は感じられる。そして歌。ある意味でこの映画は、料理と歌とは共存できるか、どちらが価値あるかというお話。そもそもの始りは、料理のうまいイザベラが歌のうまいトニーニョ(ムリロ・ペニチオ)と出会い、レストランを開いたが、客がトニーニョに関心を示すのに嫉妬したイザベラ、そんな彼女、そしてつねに「上位」をゆずらない彼女に嫌気をさしてトニーニョが浮気をしたこと。
◆イザベラがリキを入れて作る料理やコーヒーの香り窓から街に流れていくシーンでは、CGを使って、アロマの流れを見せる。この安っぽい作りがまた悪くない。
◆商業のレベルにエスニック・カルチャーが浮上した70年代。それは、ミクロなものを活性剤にしてマクロなものが生き延びるための過渡的な延命術にすぎないように見えたが、グローバリズムの今日、ミクロな自律的単位のネットワーク的連合のなかでしかグローバルなものが成立しないという傾向が進み、ミクロな個的な自律的単位の重要性が確認されつつある。その意味で、イザベラのローカルな人気番組が、全国放送になるととたんにダメになるというくだりがあるが、こういうことは今日の動向に無知なバカプロデューサーのもとでしか起きえないのである。
(FOX試写室)



2000-11-22

●バーティカル・リミット (Vertical Limit/2000/Martin Campbell)(マーティン・キャンベル)

◆冒頭から強烈に引き込む。ここで起こることが、基調としてある。3人、あるいはあなたとわたしかのどちらかしか生きられないとしたら、あなたは、自分を殺し、相手を助けるか、あるいは自分だけ生き延びようとするか? まあ、これは、自分の歳にもよるでしょうが、歳をとると、生への執着が強くなるらしいから、わかりませんね。
◆終盤、落下シーンなど、これでもかこれでもかと危機をあおるので効果が薄れるが、少なくとも中盤までは、「これってどうやって撮ったんだろう?」と思わせる緊張感あふれる映像が続く。
◆自然と人間との関係、効果的なCMを使うためにはひとの命を危険にさらすことも辞さないメディアプロデューサーとスポンサー、兄と弟、山で妻を失った男(スコット・グレンの渋い演技)の執念・・・多くのテーマがあるが、それらはやがて、スリリングなドラマ展開のためにどうでもよくなってしまう。まあ、しょうがないか。
(ソニー試写室)



2000-11-21_2

●ekiden (ekiden/2000/hamamoto masaki)(浜本正機)

◆ヨーロッパに行かなければならなくて、大映本社でやった試写を見ることができなかった。で、『13デイズ』の余韻を惜しみながら、近くのカフェでビールを飲み、それからエスプレッソを飲んで4時まで時間をつぶして映画館へ。ところが、ガラガラ。予告のあと本編が始っても、総数10名ほど。こいつはやばいんじゃない。
◆駅伝リレーとは、日本社会の共同性を規定するものであり、それが、いま過去のもにになりつつあるということを思わせた。走ること(形態はマラソン)と、つないでいくということとがセットになっている集団文化。
◆しきりに「いっしょに走りません?」とひとを勧誘する伊藤高史の演じるキャラクターはワンパターンだし、天才的なランナーだが、心臓の欠陥が発見される中村俊介の先の見えるキャラクター、その間をゆれる田中麗奈、男のあいだでハッパをかける女・・・だと言ってしまえば、身もふたもない。たしかにおさだまりのところはあるが、妙に引きつける要素もある。
◆田中麗奈は、最近、インターネット配信の映画に出たが、その顔を見ると、その目がET的であるなと思う。
(丸の内シャンゼリゼ)



2000-11-21_1

●13デイズ (Thirteen Days/2000/Roger Donaldson)(ロジャー・ドナルドソン)

◆ヘラルドの試写室は上映環境としてはベストワンだと思うが、その環境を邪魔する「事件」が必ず(わたしの身に)起こるのが不思議。今回は香水だった。わたしのすぐ前の女性の香水がすごかった。わたしは香水が嫌いではないが、その化学的な刺激臭にはまいった。わたしだけでない証拠に、その女性が座ってからわたしの左右にいた人がそろってアレルギー性のくしゃみをしはじめた。あとは、緊張の高まるシーンになると、左方の男が、ポキポキと指関節を鳴らすのにも参った。けっこう大きな音なのだ。
◆ポリティカル・ドラマとしてfirst class。実在の人物を出しているが、こちらが恥ずかしくなるようなウソ臭さがない。強いていえばケネディ兄弟が美化されすぎている点か? キューバ危機の13日間の緊迫したドラマを、軍部への批判をからめながら展開し2時間20分という時間を感じさせない。
◆1962年10月当時、アメリカにいた人は、キューバ危機の恐怖を口をそろえて語る。「世界戦争」になるのではないかと思った、と。これまで、ケネディは、対決をくいとめるよりも、チキン・ゲームをあえて選択したように言われることがあったが、この映画では、そうではなかった風に描いている。
◆大統領特別補佐官ケネス・オドネル(ケビン・コスナー)の視点にウエイトが置かれているから、ケネディ兄弟が悪く描かれるはずもないが、3者が同じアイルランド系であることは示唆される。アイリッシュ・コネクション。
◆60年代のアメリカにはまだ「家庭」があった。が、ケネディから電話がかかる(家に赤い電話機と黒い電話機がある)と、深夜でも飛んでいくオドネルには、「家庭」生活はない。それを「大変なんだ」と恩に着せるような描き方でなく、ある種の虚しさとして描くコスナー。危機が回避されたときに見せるオドネルの妻の表情がそこにつながる。
◆モノクロになるシーンの意味がやや不明。
◆アメリカの会議の特徴だが、ずううと話をしていて、いきなりThank you gentlemenで終わるスタイル。学校の授業の終わり方もそうだが、ダラダラした会議ばかりやっている日本的習慣からすると、もうちょっと余韻がほしくなる。わたしは、会議は、どちらのも大嫌いだが。
◆軍部が先走ってキューバを威嚇するORTSACという演習をやる。それを知ったケネディが、CASTROをただ逆にしただけの暗号の作り方に、「ペンタゴンの浅智恵だ」と苦々しく言うシーンがおかしい。
◆クロンカイトの映像は本物を使っている。
◆わたしがニューヨーク大で仕事をしていたころ、「ベトナム戦争の加担者」マクジョージ・バンディが大学に招かれるというので反対のキャンペーンがあった。この映画でも、彼は、ずいぶんと国家秘密の核心にいたことがわかる。個々人の命を左右する動員体制の戦争に関しては誰もプロなどいないはずだが、バンディにしてもマクナマラにしても、動員体制に平気で加担できたのだった。
◆この映画では、ケネディは、基本的にある種の「善意」に賭けた。たとえ善意を信じてないとしても、「善意」に賭ける戦略が国家(と世界)の運命を決めたという話。
(ヘラルド試写室)



2000-11-20

●レッド・プラネット (Red Planet/2000/Antony Hoffman)(アンソニー・ホフマン)

◆宣伝に反し、規模の小さい映画。それほど多くない出演者(テレンス・スタンプのような大物まで)が、最初の方からどんどん(でもないが)死んでいく。これは、ある点では、予算の削減方法でもある。
◆見せ場は、軍事用に作ったロボット(それを借りてきたという)1体だが、それが、ソニーのAIBO(先日、阿藤進也さんが背中にしょって持ってきてくれた。不思議なことに、「彼」は初対面の鈴木志郎康さんに対しての方が、持ち主の阿藤さんによりも、多くの芸をして見せるのだった)を触ってしまった者の目からは、全然新鮮ではない。すでに2足歩行ロボットが市販されそうな現在、2050年にもなって、ロボットがAIBOと似たようなメタルタッチというのも変。メールが母親から何百通も来ているというようなセリフがあるが、これも、時代錯誤。最後に、このロボットの核燃料電池を取り出して、古いロシアの宇宙船の電源にしてしまうのも、技術表現として観客をなめている。
◆火星の風景は、ラース・フォン・トリアの映画のような色。この部分は悪くない。
◆3人いるが、(ロシアが残した)宇宙船は2人しか乗れないとか、サバイバル・ゲームのようなところがあるが、それに徹しているわけでもない。もっとも、そうなると、『バトル・ロワイヤル』のような殺伐とした話になる。が、一面で「科学がすべてではない、知の先には何らかの信仰がある」(このことを言い出すのはテレンス・スタンプだが、すぐに消えてしまう)というようなテーマが基本にありながら、これもどこか中途半端。機械やテクノロジー、自然を前にした人間の無力感のようなものも描くが、徹底してはいない。
◆この映画をただの駄作として切り捨てるのではないとすると、その取り柄は何か? う~ん・・・キャリー=アン・モスはいい俳優だが、そう活かされているとも思えないし・・・。とにかく、みんな突っ込みが足りないのだ。
◆火星に降り立ってみて、意外なことを発見するこの映画の核心部分も、観客には予想がついてしまい、それがはっきりするのを、犯人がわかっているのに、なかなかわからないふりをする警察や探偵を見ていらだつような気持ちで待つことになる。
◆食事をするシーンが全くないが、あと50年もすると、何か特殊な食事法が発明されるのだろうか? そのくせ、「普通」にシャワーを浴びたり、小便をするシーンはある。
(渋谷東急)



2000-11-17_2

●ペイ・フォワード (Pay it Forward/2000/Mimi Leder)(ミミ・レダー)

◆褒めすぎの言い方をすれば、この作品は、コンピュータから始った「オープン・ソース・コード・ムーブメント」、利潤追求(ペイ・バック)とは別のロジック、ローカルでミクロなもののグローバルな連合で動く新しい脱資本主義的システムの萌芽、トランスローカルなネットワーク・・・こうした今日の動向を想像力ゆたかな物語で具体化した。
◆一見、「小さな親切」や富裕なる者の儀式にすぎない「慈善」の話に見えるところもあるが、全く違う。一人ひとりの想像力が、奇跡のようにネットされ、ウィーブされることに目を向けさせるところが、この映画の魅力だ。
◆単線的ではない物語構成。トップシーンは、男(ケビン・スペーシー)が自宅でジャズボーカルを聞きながらアイロンをかけているところ。が、シーンはすぐにドラマティックなシーンに移る。銃撃戦があり、車が暴走し、現場にいたフリーランスのジャーナリスト(ジェイ・モア)の車が壊される。ところが、通りがかりの男が自分のジャガーをやるという。どうして?という彼に、「ペイ・イット・フォワードだ」と応える紳士。ここから、彼がなぜこういう発想が始ったのかを追って行くのだが、映画は、単線的にそのまま進むわけではない。われわれは、「ペイ・イット・フォワード」とは何かという興味を抱きながら、本編の雰囲気をただよわせる小学校の教室の場面に移る。
◆顔にケロイドがある(この秘密はやがて明かされる)うえに、何となくサエない新任の教師ユージン(ケビン・スペイシー)が子供たちに課題を与える――「世界を変えるアイデアを考えなさい(Think of an idea to change world)」。 とても世界を変えることなんか出来そうにない環境(ラスベガスに設定)のなかで発せられた質問に意味がある。が、トレバー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は、この質問に深く心を動かされる。この教師には何かが感じられた。彼の母親はバーとカジノで働き、彼を養っている。父親は、アル中で暴力をふるい、家を出ている。祖母はホームレスになって家に近づかない。
◆トレバーが考えたことを黒板に書くシーンがある。その図は、まさに○からいくつかの○が分かれ、そこからさらに○というネットワークの派生する様を描いている。つまり、○1が○2のために何かの問題を解決し、○3○4のために何かをやる・・・という動きを描いている。
◆レダーらしい、しゃきっとしたエピソードをいくつも積み重ね、一方で、先述のジャーナリストが次第にトレバー少年のところまでたどりつく。「ペイ・イット・フォワード」を一つの「運動」だとして報道するのはこのジャーナリストであり、彼の報道を通じて全米にこれが広まっていくという設定。これは、事実ではないが、そういうことがあっても少しも不思議ではないし、またそういうものを求める現実がある。が、ミミ・レダーは、大詰めで、願望と現実との差異を見つめさせることも忘れない。
(ワーナー試写室)



2000-11-17_1

●新・仁義なき戦い (Shin-Jinginakitatakai/2000/Sakamoto Junji)(阪本順治)

◆布袋寅泰がアレンジした音楽の一部を除いて『仁義なき戦い』との関係はない。ヤクザの内部抗争の話なら、『仁義なき戦い』以外にも数多くあるのだから、このタイトルにこだわる必要はなかった。だから、このタイトルは、全然プラスになっていない。かえって、マイナスである。
◆一応、旧『仁義』が、戦中・戦後をすべての始りの軸にしているのを意識して、「サイレン」の音から始る。が、1972年の大阪にはまだ戦後の闇市的な雰囲気が残っていたとしても、大気汚染の警報(サイレン)と空襲のサイレンとは全然緊張感が違うという意識が抜けている。
◆映画自体は、監督も俳優(豊川悦司、布袋寅泰、 松重豊、 岸辺一徳ほか――佐藤浩市も重要な役で出ているが、あまりよくない。この人は、CMで安売りしすぎて、映画俳優としてはダメになった)もクセ者であり、面白いテーマを含んでいる。
◆「親に金持ってくるのがヤクザやろ」という台詞は旧『仁義』にあったっけ? いい台詞じゃないか。「おれは生きざま、あいつは死にざまや」という布袋の台詞もいい。
◆少年時代(1972年)、門谷甲子男(のちの豊川悦司)と在日の栃野昌龍(のちの布袋寅泰)は親友だった。借金の取り立てに来たヤクザの足蹴にされる父親を見て、歯向かう昌龍。そのために数日後、ヤクザに2人が襲われるが、やられそうになった甲子男を昌龍が救う。これがイントロ。ドラマは30年後に飛ぶ。甲子男は、栗野組の幹部になり、昌龍は、コリアンクラブを経営する実業家になっている。
◆映画は、どちらかというと、栃野昌龍にシンパシーを持って世界を描いている。彼は、少年院にも入ったし、非合法に韓国人女性を雇ったりしているが、ヤクザを憎み、ヤクザには一線を画している。そういう彼らを食いものにしようとするヤクザや刑事を批判的に描いている。
◆「初めて連れて来てくれた」と妻と子供が言う墓で栃野が十字を切るシーンで、彼がクリスチャンであることが暗示される。 彼は、稼いだ金の一部を密かに「半島」に送っており、その秘密をネタにヤクザから金を脅され、次第のこの世界に巻き込まれていく。
◆この映画は、だから、ヤクザの映画というよりも、大阪の在日韓国人の物語なのである。阪本はなぜ、そう割り切れなかったのだろうか?
(東映試写室)



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●パン・タウデウシュ物語 (Pan Tadeusz/1999/Andrzej Wajda)(アンジェ・ワイダ)

◆ポーランドとロシアとの確執、ポーランド人の気質、分割され併合されたリトアニア、19世紀初めの時代とナポレオンなど、東欧にとってリアルな問題がにえたぎっているようなドラマ。しかし、全体としてどこかNHK大河ドラマ的。視点が大きすぎるのだ。カメラはアップでも、望遠で撮ったアップのように、どこか距離がある。台詞はパッショネイトでも、どこか白々しい。冒頭と最後のシーンで示されるうように、パリへ亡命した人々の目が基本にあるからそれでもいいのかもしれない。1834年発表の原作は、アダム・ミツエキヴィッチが亡命先のパリで書いた。
(松竹試写室)



2000-11-14_1

●バトル・ロワイヤル (Battle Royale/2000/Fukasaku Kinji)(深作欣二)

◆ビートたけしが出ていることもあって、「若者」にうんざりしているいまのオヤジ受けしそうな作品。が、これでもか、これでもかと「若者」を追いつめるので、そのうち、オヤジも自分でうんざりしてくるかもしれない。
◆しかし、近未来に、「BR法」というものが出来て、中学生が集団で誘拐され、孤島に閉じ込められ、殺し合いの「バトル・ロワイヤル」(BR)をやらされるという設定は、ファシズムがやって来るといった警鐘ドラマと同じで、あまりリアリティがない。世界は悪くなるとしても、同じパターン(均質化や統合化)では起こらないのだ。権力システムも学習する。
◆BRを強いられた中学生のなかに、コンピュータに強い生徒がいて、本部のコンピュータネットのハッキングと、『腹腹時計』(兄貴が活動家だったという設定)を参考に除草剤と硫黄などを使って爆弾を作るシーンがある。が、彼らはあっけなく他の生徒に殺されてしまうのだが、一人の生徒が、全員首に強制的に装着された首輪に盗聴マイクが仕掛けられていることに気づき、仲間にそのことを知らせるというシーンがあるにもかかわらず、その後のシーンで、除草剤を見つけてきた仲間が、大声で「ほら、除草剤見つけてきたぞ」みたいなことを言ってしまう(別の失敗という設定ではなく)。これじゃ、すぐにたくらみが本部に知れてしまうということは明白だ。なんか、せっかくのプロットを台なしにしている感じ。
◆セルフィッシュな生徒を演じた柴咲コウがいい。BR経験者の関西者を演じた山本太郎もかなりいい。
(東映試写室)



2000-11-13

●追撃者 (Get Carter/2000/Stephen Kay)(スティーブン・ケイ)

◆ヤクルトホールがまだ「新しい」試写会場であった時代を思い出させたのは、スクリーン右手にこうこうと光る緑の非常灯であった。いま、すこしづつ、この悪名高き非常灯を消した状態で映画を見せるところが増えてきたが、古い会場ではそもそもその電源を切ることができないのである。
◆スタローンの「新境地」というので期待したが、まるでロボットのような演技だった。裏切ったやつをやっつけていくだけ(自分は絶対に負けない)の「モラル」マシーン。これでおもしろい場合もあるが、今回はダメ。最後にヒゲを剃ってさっぱりするシーンがあるが、最初からこの顔で出た方がよかったのではないか?
◆事件の核心にコンピュータ・プログラマーで財産を築いたアラン・カミングがいるが、これを目の仇にするのは、この種の新階級に妬みと恨みを抱いている階級へのサービスのおもむきがないでもない。スタローは、あいかわらず「反動」を演じているわけで、なにも代わり映えがない。
◆ミッキー・ロークは、いつもよりいいし、マイケル・ケインも手堅い演技をしているが、全然活かされない。
(ヤクルトホール)



2000-11-10

●ルアンの歌 (So Close To Paradise/1998/Wang Xiaoshuai)(ワン・シャオシュアイ)

◆冒頭に赤い大文字で、この映画が当局の検閲をパスしたものであることが示される。これは、皮肉だろうか、それとも観客への暗示的「警告」だろうか? というのは、ワンの「初めて検閲を通った作品」だというので期待したが、どうしても限界を感じてしまったからである。
◆80年代の中国経済の高度成長期に農村から都市に出てきた青年トンツー(シー・ユー)は、波止場で荷運びの「てんびん屋」をやり、生真面目に金をためている。同郷の先輩ガオピン(グォ・タオ)は、いまはヤバイ仕事に関わっている。最初の方のシーンは、ガオピンが、組織の金を、金で雇ったチンピラ、スーウー(ワン・トン)を使って横取りしようとして、スーウーに裏切られるくだりが断片的に描かれる。時間系列を微妙にずらした描き方はうまい。
◆ガオピンは、サザンオールスターズの桑田佳祐に似ている。スーウーは、どことなく宮台真司に似た所があって、笑ってしまった。
◆「純朴」な青年が、普通では手の届かない女に情愛をいだくというテーマはよくある。この映画も、一見、そういう型をおさえているように見える。
(シネカノン試写室)



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