粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-12-27

●バガー・バンスの伝説(The Legent of Bagger Vance/2000/Robert Redford)(ロバート・レッドフォード)

◆最近おとなしいおすぎ氏が、突然、「きおつけてよおぉ!」という大声を出したので見ると、開映直前に飛び込んできた北川女史が氏の後頭部を直撃したらしいのである。
◆意外とぱっとしない作品。ウィル・スミスがもっと虚構的で謎めいていてよかったのに、ただの善意のひとにみえてしまう。
(FOX試写室)



2000-12-26_2

●リトル・ダンサー(Billy Elliot/2000/Stephen Daldry)(スティーヴン・ダルドリー)

◆「小さな」ダンサーをばかにしたつけがまわってきた。お涙ちょうだいの印象が強かったのであとまわしにしているうちに、口コミで評判が高まり、試写室の定員を上回る客が集まった。ヘラルドは、予備席を設けたり、立ち見をするのを許さない。先日は、30分まえに行ったが入れなかった。今日は、30分を切っていたが、東宝東和からタクシーを飛ばした。ひょっとして入れるかもしれないと思ったからである。ダメなら、近くのUIP(『スーパーノヴァ』)か松竹(『女帝』)に走るつもりだった。が、エレベータを降りると、会社のひとが、「満員ですが、ソニーの試写室でダブルで上映しますので、そちらに行ってください、席はとっておきます」と言う。これは、さいわいと、またタクシーを走らせて、墨田川添いの聖路架タワーに行く。ところが、しばらく待たされたのち、会社のひとがあらわれ、「まことにすみませんが、映写機の調子がわるくて・・・5時40分からヘラルド試写室で必ず」と緊張の面持ちでのたまう。次回は1月10日だというので、仕方ない、電話を何本かかけて、夕方の予定を調整する。おかげで、久しぶりに築地から銀座の街を散歩することができた。
(ヘラルド試写室)



2000-12-26_1

●僕たちのアナ・バナナ(Keeping the Faith/2000/Edward Norton)(エドワード・ノートン)

◆ニューヨークの夜景を空から映すイントロシーン。ネオン。酔っ払ったノートンが建物から出てきて、街路をよろよろ歩き、ゴミのなかに倒れる。金を渡そうとする通行人。建ち上がってバーへ。バーテンが一人。彼が自分の悩みを彼に話すという物語形式ではじまる。なかなかうまい導入。しっとりとした色とトーンの画面で、ノートン初監督作品とは思えない。
◆自分は、アイリッシュの神父ブライアンを演じ、ベン・スティラー(ジェイク役)に演じさせているが、基本にユダヤの感性。ジェイクの母(アン・バンクロフト)が、訪れたアナ(ジェナ・エルフマン)に、昔の写真などを見せながらソファーで話すシーンは、ウディ・アレンの『ユーヨーク物語』にもあったが、ユダヤの母親が、自分の息子の嫁になってほしい女性に示す典型的な態度。こういうことをきっちりつかむノートンは、明らかにユダヤ系。
◆ニューヨークを久しぶりに訪ねてきた二人の幼なじみのアナをJFKに迎えに行き、3人を乗せたイェローキャブがマンハッタンに向かう。カーマインというレストランで昔を懐かしみ、ブライアンは、「80年代のニューヨークには何でもがあった」と言う。が、70年代に燃えたわたしに言わせれば、80年代のニューヨークは、すべてが失われはじめた、と言いたい。
◆アナのしゃべり方が、MOMAのキュレイターのバーバラ・ロンドンに似ている。つまり、ビジネス大好きのしゃべり方でちょっと神経にさわるのだ。が、これは、ジェナ・エルフマンが、ヤッピーの女を演じているからであって、以前はそうでなかったが、アナはいまはそういう感じの女になっているということを表現しているのだ。彼女は、ケータイを太腿にくくりつけている。
◆ブライアンとジェイクが訪れるカラオケ機材屋のオーナー(ケン・リョン)は、チョイ役ながら、主役を食う演技。今後、どこかで、もっと大きな役で再会できるだろう。
◆「進んだ」ラバイであるジェイクは、スケジューラーにPALMを使っている。
◆壁にカフカの顔をかたどった大きな絵があるのは、カフェBoulvardだろうか?
◆プラハからアメリカに亡命した神父役でミロシュ・フォアマンが出ている。神父とは笑える。
◆登場人物の老ユダヤ人は、ジェイクの「急進的」な改革に嫌悪感を示し、「伝統とは心地よさなんだ」と言うが、いくつもの屈折のすえにたどりつく2人の境地は、過激というよりも、ある種の「心地よさ」であり、カソリックでもユダヤでもない、マルチカルチャーのニューヨク的「伝統」である。最初のシーンで出てくるバーテンは、モズレムとユダヤそれから・・・の混じったトランスレイシャルなバックグラウンドを持つことがわかる。これは、ジョークとしても、この映画の基本。
◆エンド・クレジットに、In Memory of Roben Nortonとある。エドワード・ノートンの父か?
(東宝東和試写室)



2000-12-22

●どつかれてアンダルシア(仮)(Muertos de risa/1999/Alex de la Iglesia)(アレックス・デ・イグレシア)

◆イグレシアは、『ビースト 獣の日』で瞠目したが、『ペルディータ』で失望した。この作品には、前者のよさと後者の〈横道へのつっぱしり〉が混在している。
◆スペインの現代史のいくつかの重要事件・トピックスを「本気」と「冗談」こもごもに挿入するのは、一面で、ドラマを単なる映画のなかの出来事としてだけでなく、現代史に拮抗する出来事としてとらえよう――ある種のメタファーにしよう――とする方法である。『ビースト 獣の日』は、はやばやと20世紀末という時代とキリスト教をめぐって、そういう方法が成功したすぐれた例だった。しかし、今回は、どうも腰くだけのような気がする。
(松竹試写室)



2000-12-21

●ハート・オブ・ウーマン(What Women Want/2000/Nancy Meyers)(ナンシー・メイヤーズ)

◆やはり、イマジカのスクリーンはいいのだという気がした。わたしの悪い方の目でも見やすいのだ。
◆うまい作りだと思う。セリフも気がきいている。
(イマジカ)



2000-12-20_2

●ユリョン(Yuryeong/1999/Min-byung Chun) (ミン・ビョンチョン)

◆愛国映画。が、愛国の意味が変わってきたことへの鋭い意識。現在の政治意識、国家の方向の変化をばっちりとりこみながら、エンターテイメントとしての要素をはずさないには見事。映画産業としては、日本などより確実に上。
(ヘラルド試写室)



2000-12-20_1

●ファイナル・デスティネーション(Final Destination/2000/James Wong)(ジェイムズ・ウォン)

◆ゴロ合わせで作ったスリラードラマ。若い出演者がいい。ここから将来のスターがでてくるのだろう。
(ギャガ試写室)



2000-12-19

●レクイエム・フォー・ドリーム(Requiem for a Dream/2000/Darren Aronofsky)(ダーレン・アロノフスキー)

◆役者はみないい(特にエレン・バースティンは奮闘)が、批判の姿勢が常識的。テレビ中毒とドラッグ中毒とを重ねあわせたのはよい。が、そのなりゆきが予想通りで、こういう道にはまったらこうなるぞ、と警告している感じになっている。
◆夫に先立たれ、子供も成長して出て行った一人暮しの孤独な女性だけを描いたら、この映画はもっと深みが出ただろう。両方を平行描写したのが、ごく一部をのぞいて(そこでは、ある種音楽的なまでのパリンプセスト効果がある)成功していない、
(シネセゾン渋谷)



2000-12-16

●ザ・ウォッチャー(The Watcher/2000/Joe Charbanic)(ジョー・シャバニック)

◆キアヌの映画らしい、スタイリスティックな映画。最初の方で、キアヌが犠牲者の女性を回転イスにくくりつけ、そのまま踊らせるような極めて様式化されたシーンがあるが、この映画のシーンはすべてそうだ。カーチェイスののち、ガソリンスタンドに突っ込み、走り抜けたキアヌの車が、吹き出したガソリンにライターで火を点火し、爆発させるシーンなど、まさにその典型。
◆捜査のプロセスを見せるのだが、誰が捜査されるのかは、最初から観客にわかっている。わからせておいて、スリルを味あわせる技法はかなり成功している。が、犯行をくりかえすキアヌ・リーブスにも、恋人を彼に殺された過去をもつFBI捜査官のジェームズ・スエイダーにも、わたしには、「異常」や「残酷」という印象は感じられなかった。ジェームズは、しばしば悪夢にうなされ、睡眠剤を自分で注射し、セラピスト(マリサ・トメイ)のところに通うが、そういう設定が必要ではないような気がした。わたしがおかしいのだろうか? つまり、2人の戦いには、ドラマのプロセスとしても、どこか最初から「自然に」定められている感じがし、なにも説明がいらないのだ。二人は戦い、そして最後はキアヌが滅びるだろうということをすべて知りながら見るドラマなのだ。これは、ある意味でゲーム的なドラマである。
◆こま数を抑えたデジタル動画でジェームズの過去や、彼を監視するキアヌの目を描写する方法は、悪くはないが、それほどユニークでもない。
◆ジョエルは、恋人を殺されたロスを離れてシカゴに移った。投げやりの生活をしていることは、彼のアパートの殺伐とした雰囲気で暗示される。食事は、いつもベトナム・レストランで食べる。最初にそのシーンが出てきたとき、うしろに「忍」の大きな文字の描かれた掛け軸が見える。けっこう細かい演出。
◆この映画、登場人物の誰一人として、浮いた感じの者がいない。すべてがこの世界にぴったりとはまっている。市警の刑事を演じるクリス・エリスなど、その典型。おそらくそれは、どぎつい暴力シーン(戦いのための戦い)やセックスシーン、内面の「劇的な」告白のシーンがあまりないからだろう。
(ギャガ試写室)



2000-12-13_2

●アヴァロン(Averon/2000/Mmoru Oshii)(押井守)

◆リアリティの問題をこんなに素朴純情に問題にされると、悪口が言えなくなる。玉ねぎの皮を剥いていくような話。
◆いくつかの「フィールド」があり、「究極のフィールド」にたどりつくことが問題らしい。日常的な「肉」のフィールドでは、みな孤独で、ばらばらに暮しているらしい。他方、サイバースペースでは、彼や彼女らは、つねに戦っている。なぜ戦わなければならないのかはわからない。ゲーム感覚というのか、撃ち合いのような戦いのシーンばかりが続くのにうんざりする。なんで他者との関係というと戦いだけなのか?「パーティ」を組んで戦うのが普通だが、パーティを離脱して戦う一匹狼的存在もある。女主人公のアッシュマウゴジャータ・フォレムニッキ)はその一人である。戦いから離脱した者は、「廃人」、「未帰還者」と呼ばれる。
◆「パーティ」に対してどういう態度をとるか――裏切るか、孤独に戦うか、離脱し、「未帰還者」となるか――が問題であるらしい。後半、「未帰還者」になっている、かつての「パーティ」のリーダー(イエジ・グディコ)に対して、アッシュは、「仲間を捨ててあなたがやりたかったのは、病院のベットで廃人になることだったの?」という批判を向ける。これは、どこか、全共闘の党派(パーティ)にとっての裏切りや忠誠の問題を思わせる。押井のこの世界は、見かけほど新しくはなく、70年代をサイバースペースとして現代に逆対置したものにすぎないのかもしれない。
◆押井にとってサイバースペースは、その先を隠している暫定的なフィールドにすぎない。対象をつねにメタフォリカルな1段階としてしか見ることができない発想は、古すぎる。押井は、しばしば、サイバースペースと60年代末から70年代初頭の全共闘的空間とを重ね合わせるが、ある意味で、対象をつねにメタフォリカルな1段階としてしか見ることが出来なかったことが、この時代の、そして全共闘の古さだった。
◆ドラマで設定されていることにくらべて、出てくるコンピュータやそのスピードおよび操作方法が古いには、『未来世紀ブラジル』や『1984年』なんかと同じポストモダニズム美学の志向からか?
◆サイバースペースをあつかいながら、押井には、どうしても肉体や「生もの」への志向を抑えることができない。両者の対立を描くよりも、どこか、そういうレベルを至高のものとしている雰囲気が露呈している。アッシュ(が、野菜を洗い、肉や果物を調理するシーン。途中までうまそうな料理が出来るのかと思うが、出来上がったものはまずそうなグーラシュのようなもの。犬のために作ったのだから仕方ないか。
◆古めかしい本を開くと、ページは真っ白。書物は禁じられている。が、こういうファシズム的全体管理を問題にするのは、この映画がいかに古い状況認識に立っているかを物語る。もうそういう状況は、ただのお話しとしてしか意味がない。管理はもっと多数化している。
◆ずっとダークレッドがかった色の画面で通してきて、最後に映画の普通のカラー(映るのも、ワルシャワの街頭)になる転換は、十分予想のできるが、音も色もすっかりちがう世界から「身近」な世界に還るというか、入ると、すがすがしさを感じないではいられなかった。しかし、こっちがホントなんだというような含みをきくと、それだったら、いままでの「苦労」は意味がないじゃないかという気もする。
◆それにしても、究極の遺言(?)を伝えるかのように現れたイエジ・グディコが着ているスタンドカラーの白いシャツはなかなか仕立てがよいかった。彼は、血にそまりながら言う。「アッシュ、事象にまどわされるな。ここがおまえのフィールドだ」。
◆「究極」の世界に入ると、"Welcome to Class Real"というサインが出る。ベンヤミンの「天使」を誤解して形象化したのではないかと思わせる少女が出てくるが、この少女は、いくつかのClassを横断している。アッシュが彼女に銃の狙いを定める――が、その少女は薄気味悪い笑いを浮かべる――ところでこの映画は終わるのだが、それは、この「天使」にリアリティをあやつる究極の軸を見たからだろうか?
(ヘラルド試写室)



2000-12-13_1

●狗神(Inugami/2000/Harada Masato)(原田眞人)

◆オープニングは、リアリティのあるしっとりとした色調の安定した映像(従って、基調は「演劇的」)で、紙透き機(やがて紙を透いているのが天海祐希であることがわかる)の印象的なアップと音。そこからその土地をイメージさせる空中からの俯瞰。なかなかいいと思っていると、いきなり女(深浦加奈子)が飛び込んできて、夫の悪口をどなりまくる。その台詞がどうしようもない。この映画では、「方言」トレーニングがおそまつで、天海と年配のベテラン(藤村志保、淡路恵子)を除くと、みな台詞がひどい。とはいえ、後半になると、そういうハンデが気にならなくなるのも事実。音の悪い試写室のせいもあるのか?
◆トーンは「演劇的」なのだが、普通に食卓に座っている美希の母(藤村志保)が、実は、すでに死んでいるらしいとか、美希自身が、画面では天海の素顔に近い若さで映っているが、実はもっと年老いている――映画の姿は、天海にとってだけ――というようなことを説明的に明示しない。これが、この映画に奥行きを作る。
◆他の日本映画に比してこの映画では、映される食卓が豊かである。並んでいるものがみなうまそうだ。大きな取り箸の存在も、この家(坊之宮家は、「とりつかれると食い殺される」狗神筋の家)らしい設定。
◆スクーターで新聞を配ってまわる女がいるが、彼女は、新聞をアメリカ式に運転席から家の軒先に放り投げる。
◆初めて会った美希(天海祐希)と奴田原晃(渡部篤郎)とが最初のセックスからドギースタイルだったので、おやと思ったら、彼と彼女は「狗神筋」だったのだ。
◆奴田原を助ける青年がさりげなく音声認識ソフトを使っているのは、なかなかいい。
◆「狗神筋」は、近親相姦をくり返すが、それは、「血と血を混じらせて祖先の姿をよみがえらせる」ためだという。なるほど。
◆この映画では、マイノリティが、いかにその「アイデンティティ」(ジム・マグウィガンが『モダニティとポストモダン文化』のなかで言っていうような意味で)を守り、生き延びようとするか、そして、マジョリティは、いかにマイノリティを「敵」視し、孤立させていくか、また、孤立させられたマイノリティがどのような反応に出るか、を考えざるをえない。
◆ガイアナの集団自殺にも通じるシーンがある。
◆坊之宮家は、もともと平家の落人だったが、深い山奥に避難所を見出し、定住した。マイノリティは、しばしば、自然に頼って生き延びるし、そうせざるを得ない。森を食いつぶした巨大爬虫類は滅び、森を避難所として森と共生した類人猿は生き延びた。生物は、マイノリティであるかぎりは「自然破壊」をすることはない。逆に言えば、自然を破壊しないためには、集団はマイノリティにとどまらなければならない。
(東宝8F試写室)



2000-12-12_2

●はなればなれに(Bande a part/1964/Jean-Luc Godard)(ジャン=リュック・ゴダール)

◆冒頭の車のシーンからして、全然古さを感じさせないのに驚く。おそらく、発表時に見たら、もっとショッキングだったかもしれない。クロード・ブラッスールがスポーツカーを乱暴に走らせ、舗道に乗りあげてパークするのも、アメリカ映画を見慣れたわれわれには、どうということもないが、当時なら、意外性があったと思う。ゴダールの映画は、いつもそういうやり方で新鮮な驚きをあたえたものだ。
◆車に対して、アンナ・カリーナを自転車に乗せるイキな配置。いま自転車は流行りだが、この時代には、ハッとさせる新鮮さがあった。
◆英語会話の学校なのにハーディやシエクスピア(読みあげるテキストはフランス語)の講義をしてしまう女教師。ゴダールの映画にはこういう「変なひと」ばかり出て来て笑わせた。
◆この映画には、その前後のゴダールの作品のさまざまな要素が発見できる。ナレーション(ドラマ的なシーンを見せておいて、「遅れて来た観客のために要点を説明しよう」というような人を食ったユーモアがたっぷり)、新聞や本のおテキストを読むシーン。アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスールの女一人に男2人の関係は、トリフォーの『突然炎のごとく ジュールとジム』(1961年)の影響か?
◆ゴダールのポリティカル/状況的ユーモアも随所にある。トイレでアンナ・カリーナが、男に声をかけられると即座に、「あなたはルノーにお勤め?」「なぜ?」「だって、ルノーみたいに馬鹿な顔をしてるから」。ルーブル美術館を走り抜ける――美術「鑑賞」なんかその程度でいい。
◆3人がいっしょに、カフェのフロアで踊るシーンは実に魅惑的。うっとりする。
◆カリーナがスカートにつけている大きなクリップは、他所でも使われていた。その連続性。
◆上映中、フィルムが切れ、かなり長い時間の空白があった。かえって60年代的でよかった。
(映画美学校)



2000-12-12_1

●ただいま(Seventeen Years/1999/Zhang Yuan)(チャン・ユアン)

◆最初からただならぬ家庭の雰囲気。妻は、夫にささいなことで(肉なんか切ってないで、米をとぎなよ――米を先にしたら肉が出来るまでにさめてしまう・・・)ガミガミ文句を言い、2人の娘のあいだにもどこかわだかまりがある。それもそのはず、インテリだが、文革の「下放」でその経歴を無意味にされた夫は、勉強好きの次女をかわいがり、下の娘タウ・ラン(リウ・リン)をないがしろにする。その日も、食事の時間に遅れた。が、次女にしても、「大学に入ってこの家を出てやる」と思っている。
◆照明が(したがって映像の色も)そもそも演劇的なのだが、演出は演劇的かつドキュメンタリー的。古いイタリア映画の雰囲気。
◆タウ・ランは、親の金5元(日本円で約70円)を盗んだのを自分になすりつけた姉をもののはずみで殴りつけ、それがもとで姉は死ぬ。前半は、ここにいたる味気ない家族関係のドラマ。失意の父母。後半は、収監されて17年たった日へ飛ぶ。
◆女囚刑務所の主任シャオジェを演じるリー・ビンビンがキレイすぎる。宮沢りえを大柄あにした風貌。着ている軍服風のコートがかっこいい。こんな主任なんかいるのかねぇ。だから、彼女がタウ・ランに親切にするのを見たとき、わたしは、はしたなくも、2人はレズ関係におちいるのではないかと思ってしまった。
◆しかし、このややシュールレアリスティックな設定は、この映画が信じている現代への夢を現わしているとも言える。この映画は、文革時代とその後遺症の時代への批判を隠さない。労働者階級への観念的な崇拝と知識階級の軽視は、この映画のような夫婦を生んだことも事実である。自分の知識は全く評価されず、知識への思いは娘にたくすしかない。妻はそういう夫を理解できない。不幸な関係。その帰結としての長女の死と次女の収監。が、17年後、一時帰宅が許されたタウ・ランが、見た自分の街は、大変貌をとげ、育った集合住宅は跡形もない。しかし、この映画は、17年後の時代を批判的には描いていない。まず、シャオジェの存在。こんなひとは、あの時代にはいなかった――まして、役人のなかには(だから、シャオジェは、夢のような存在である必要がある)。そして、彼女のおかげでたどり着いた両親の家には、決して裕福ではないはずだが、ちゃんとシャワーもある。
◆普通の中国人の食卓では「取り箸」のようなものは見かけない。父親は、下の娘に自分の箸でおかずをとってやる。そのおかずの皿にすかさず母親や上の娘の箸がのびる。
◆次女が寝るまえに洗面器に魔法瓶から湯を張って、足湯をするシーンがある。これは、この時代には「ぜいたく」なことだったのだろうか?
◆足湯のシーンには、隣室から母親の性のあえぎ声がかすかに聴こえるが、こういうさりげない身体関連の描写がおもしろい。娘の死に呆然自失していた父親が、急に集合住宅の通路に出ると、外に向かって放尿する。タウ・ランがシャオジェと親の転居先を探して街を歩き回り、公衆便所のところで、シャオジェが、こともなげにコートを脱ぎ、「先に行くから、持ってて」とか言って、中に入っていく。
◆女囚刑務所では、囚人たちがみな一人ひとり洗面器とコップなどの洗面道具を持って洗面所に行く。自分の器を持つというのは、アジア的な風習なのか?
◆探し訪ねた家に2人が入ったとき、父親は、厳重にカギをかけ、そのカギをはずして、しまった。だが、17年の断絶にわずかゆらぎが生まれかけたのを見たシャオジェは、そっと席を立ち、家を出る。だが、どうやって? ドアを開けたとき、彼女は、決してカギを差したり、回したりはしなかった。やはり彼女は、タウ・ランの夢想のなかの「天使」だったのか? こういうふうに見れば、この映画は、文革時代を否定して現在を肯定する(シャオジェはソーシャルワーカーの鑑だ?)ための作品であることをまぬがれる。
(メディアボックス)



2000-12-05_2

●ゲットア・チャンス!(Where the Money is/1999/Marek Kanievska)(マレク・カニエフスカ)

◆アメリカ映画には、歌舞伎のような「型」があり、わたしなんかは、そういう「型」を見るのも楽しみだ。むろん、その型はうまく演じられていなければならない。したがって、この手の映画では、役者が決め手になる。その意味で、この映画では、役者に不足はない。ニューマンは別にしても、リンダ・フィオレンティーノが魅力的な演技をしている。
◆冒頭、男女がムスタングのコンヴァティブルを運転している。なぜムスタングなのかはあとでわかる。ここでは、車の「型」を見ることがまず要求される。ここでは、まだポール・ニューマンは登場しないから、この車からニューマンを思い浮かべることはできないにしても、ニューマンが登場してからは、なぜムスタングなのかということ(「型」)を考える必要がある。ムスタングは、ニューマンの愛用車であり、彼がこの車を最大限に使うことは予想されるからである。
◆看護施設のある老人ホームに老人(ポール・ニューマン)が護送されてくる。警察病院のベットが満杯で一時的にここにあづけられたのだ。車イスに乗っているが、知覚反応がない。これを臭いと感じたのは、このホームで働くキャロル(リンダ・フィオレンティーノ)。彼女は、いしょにこここで働く夫と老人をドライブに連れ出す。そして・・・。案の定、老人の「ボケ」は、ほとんど禅の境地(タバコを手につけても耐えられる)にまで自分を修練した演技であることがわかる(このへんも「型」で、その見せ方がこの映画の見どころだから、筋書きをバラすことも許されるだろう)のだが、退屈しきっているキャロルは、元スゴ腕の銀行強盗だったこの老人を新たな銀行強盗にくどく。馬鹿言うな、お前らみたいな素人と銀行強盗なんかできるわけがないと突っぱねるニューマン。が、次第に女のきっぷと度胸に折れ、その気になる。そのプロセスの「型」がうまく描かれる。
◆銀行強盗のシーンも、最後の逃走シーンも、「型」を楽しむべし。こいつは、見なけりゃどうにもならない。映画の筋をバラしたと言って憤る馬鹿がいるが、こういう映画を見れば、映画の筋を知ることと映画を見ることとは全然違うことがわかるだろう。
(メディアボックス)



2000-12-05_1

●ゴジラXメガギラス(Godzilla vs Megagilas/2000/Teduka Masaaki)(手塚昌明)

◆冒頭、ゴジラの映画にたくしながら、1959年から1996年までのゴジラの足跡をドキュメンタリー風に紹介する。このシーンはなかなかいい。が、ここで見られる対ゴジラの人間は、いずれも、あえてやられるように対応している。不思議。これが、日本の戦争の「型」なのか?
◆田中美里と星由美子(歳とった)がはりきっているが、日本映画で女性がはりきると、なんかニヒルな(冷酷な)雰囲気をただよわせるのはなぜか?
◆登場人物たちは、ほとんど防衛庁に属するが、ラスト・クレジットに「協力・防衛庁」の文字はなかった。防衛庁内の陰謀(ゴジラは高度エネルギーをかぎつけて現れ、日本の都市を破壊したのだから、もはや核などの高度エネルギー施設は作らないと決めたはずなのに、伊武雅刀らは密かにプラズマエネルギーの施設を作っていた)を描いているので、許可が下りなかったのだろうか? しかし、この程度の国家批判では、国家を批判したことにならない。国家権力の陰謀はもっと複雑だ。
◆ゴジラをブラックホールに吸収させてしまうブラックホール砲を、縮小して人工衛星に搭載させるプロジェクトのために徴用された谷原章介は、秋葉原の部品屋の店員だが、ロボット作りつまりはマイクロテクノロジーの「天才」という設定。秋葉原ねぇ。それと、オルグしに秋葉原に行くのに、田中美里は何も防衛庁の制服を着ていかなくてもいいんだがなあ。
◆ブラックホール・プロジェクトの失敗で繁殖した古代生物が渋谷の街の地下に住み着き、渋谷のエコロジーが狂ってくる。その結果、道玄坂下(101のあたり)一帯が、水につかってしまう。渋谷で育ったわたしは、昔、足まで浸水した渋谷駅周辺の光景を思い浮かべた。
◆メガギラスのようなゴジラの対抗馬が出て、結果的にゴジラの暴力(都市破壊)が許されてしまうというロジックは、いかにも日本的。日本では、現状を肯定するために、それを否定する「メタ現実」を作り出す。たとえば、天皇制の犯罪(第2次大戦を戦った日本軍は、れっきとした天皇の軍隊であった)は、それを否定した「アメリカ」を「メタ悪者」みなして肯定される。「反米」の構造は単純ではない。
◆もっとも、日本流の帳消し(うやむや化)は、「水に流す」のだが、ゴジラは火を吹く。火吹き怪獣としてのゴジラ。
(東宝試写室)



2000-12-05

●ザ・セル(The Cell/2000/TarsemSingh)(ターセム)

◆カルト映画予備軍。
◆磁気共鳴装置を使ってジェニファー・ロペスが他人の意識のなかに入り込む(あるいは共通世界を持つ)という設定は、サーバースペースものではよく使われる。『マトリックス』でも『アヴァロン』でもそうだった。この映画でも、これが物語の一つの核になるのだが、この映画の魅力とカルト性は、むしろ、連続婦女誘拐殺人事件を追うFBI捜査官(ヴィンス・ボーン)をめぐって展開される。犯人逮捕にいたるスリル。そして、ジェニファーの技術と能力は、逮捕されたが、すでに発作で昏睡状態にある犯人の潜在意識に入り込んで、自動装置で殺されようとしている犠牲者の居場所をさぐるために要請される。
◆犯行のシーンも描かれ、観客はすでに犯人の居所を知っており、それを追う捜査官のたどる過程を予知しているのだが、にもかかわらず、古典的なスリラーの型には陥っていないところがいい。
◆犯人の潜在意識が暴かれるにつれ、同時に、アメリカ社会における母/父と子の関係の難しさ、幼児虐待の現実・・・もあらわになる。ただのミステリーではない。
(丸の内プラゼール)



2000-12-01

●風花(Kazehana/2000/Somai Shinji)(相米慎二)

◆渋谷駅ハチ公前の交差点を渡る。今日も、どこかのテレビ局のクルーが、通りがかりの若者に街頭インタビューしている。この街は、いま、テレビのチープなバラエティ番組やニュース番組のネタ探しの場になっている。そのため、この街の若者は、取材してもらうのを待ち構えてこれみよがしの衣装や化粧をするエクスプレッショニストになってしまった。
◆一面桜が咲いているかのような風景をモノクロに近い色で映す冒頭シーン。中央にある木の根本にだらしなくよりかかっている女と男。目覚めた男があわててズボンをはく。先ほどから細かな光る粉末のように見えていたものが次第に画面にひろがっていく。風花である。解説に、風花とは、「冬から春へと向かう晴れた日に、まだ雪の残る山肌を撫でて風に吹かれ舞い散る桜の花びらのような細雪のこと」だという。
◆この映画は、役柄や、暗示される設定を離れて見た方がいいだろう。設定によれば、この映画は、男運の悪い風俗嬢(小泉今日子)と酒癖が悪く、「性格の悪い」(嫌みな)文部省エイリート官僚(浅野忠信)との話である。が、映画を見るかぎり、特に浅野は、そういう官僚の嫌みは感じさせない。小泉も、それほど生活に疲れた感じがしない。彼女は、生まれた土地で死のうと思うが、そういう必然性を感じさせない。だから、浅野が、雪原で睡眠薬を飲んで横たわる小泉を見つけて救い出す大詰めのシーンも、あまりコンヴィンシングではないのである。つまり、設定に忠実に見たら、失敗作だと言わざるをえないのだ。
◆フラッシュバックのような形式で、過去に起こった光景が出てくるが、登場人物の意識をなぞっているのではなく、いわば〈パリンプセスト〉方式とでも名づけるべき新鮮さがある。時間系のあつかい方は見事である。
◆浅野によれば、彼は、監督からいつもどなられたという。そして、彼は、設定されているようなエリート官僚とは全く裏腹のタイプだと言う。たしかに、スクリーンの浅野は、いつもながらのやさしさと、甘さをたたえた人物であって、高級官僚の地位にふんぞり返って、スポンサーの金で放蕩をくり返し、写真週刊誌にすっぱ抜かれて、人生をダメにした(というのがこの映画の設定)自分勝手で権威主義的な男には見えない。
◆その意味では、登場人物たちの過去を示すシーンは、ない方がよかった。あるいは、もっとあいまいにした方がよかった。何をやっている人間なのかわからないまま、そして、当人たちも相手ほほとんど知らないまま、北海道へ逃避行をする――そのなかで見えてくるもの。それだけでよかったのではないか?
(シネカノン)



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