粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-10-26

●光の雨(Hikarino Ame/2001/Takahashi Banmei)(高橋伴明)

◆立松和平の原作小説にもとづく、「連合赤軍リンチ事件」の映画化。1971年7月、共産同赤軍派と京浜安保闘争(日本共産党神奈川県常任委員会人民革命軍)との合体によって結成された連合赤軍の、主として「総括」、同志殺害の泥沼を描く。冒頭、ナレーションで「革命がしたかった」という言葉が流れるが、それは過去形であり、「革命」があたかも形の決まったゲームか事業にように聞こえる。この響きが示唆するように、この映画には、連合赤軍がやろうとしたことのポジティヴな側面はほとんど何も見出すことができない。むしろ、連合赤軍が、「総括」ばかりをやってきたかのようなイメージを強調する結果になる。
◆モノクロで当時のニュース映像や再現映像で60年代末から70年代初めの反体制運動の状況が手際よくスケッチされる。史実にかなり忠実に、(70年12月18日、京浜安保が)交番でピストルを奪おうとして失敗し、1名が射殺された事件、(71年2月から始まる、共産同赤軍派による)連続金融機関襲撃のM作戦、(71年2月17日、京浜安保による真岡)銃砲店襲撃による銃火器奪取、山岳地帯での軍事訓練等々である。しかし、映画はこのあと突然、連合赤軍の「総括」の始まりを描き、延々とその過程(というより堂々めぐり)を克明に(誰がどのようにしてリンチされ、殺されたかを)描く。あたかも、連合赤軍には、これしかなかったかのように。
◆この映画は、映画監督の樽見省吾(大杉漣)――連合赤軍に加わったが、脱走し、それが生涯のしこりになっている――が、連合赤軍についての映画を撮る――しかし、それに挫折し、姿をくらまし、樽見の依頼でメイキングビデオを撮っていた阿南満也(萩原聖人)があとを引き継いで完成するというスタイルを取っている。したがって、連合赤軍の「総括」、グルーピングの困難、「革命」をやることの問い等々が、それぞれ、映画を作る人間たちの困難、映画を作り上げることの意味への問いと重ね合わされている。「出演者」へのヴァーチャルなインタヴューのシーンなどは、作り物めいた稚拙さが目立つとしても、基本のスタイルは、歴史的描写→←撮影現場の場面変換のなかで生まれる中断が、ブレヒトの「異化効果」的中断になっていて、映画手法的には高く評価できる。
◆ただし、連合赤軍も当時のさまざまな党派も、「革命」を、映画を撮るようなこととは考えてはいなかったし、この映画は最終的にうまく完成し、スタッフ/キャストたちの喜びに満ちた打ち上げまであるのだから、この映画は、やはり贔負の引き倒しなのである。
◆70年代を知らないいまの「若者」(銃も「ジュー」じゃなくて「ズゥー」と発音する世代)たちがオーディションを受け、その時代を学習しながら映画をつくっていくわけだが、彼や彼女のなかには、権力との対峙という感性が欠如している。それは、仕方がない。70年代後半にはすでに、権力はメディアや都市環境を活用した管理を適用しはじめ、彼や彼女はその申し子なのだから。
◆その意味では、この映画には、全く別の見方を可能にする側面もある。それは、彼や彼女とその父親や母親との関係の映画として見ることだ。おおざっぱに言って、全共闘世代は、その子供に権力をふるえない。それは、「左翼」の親の特徴でもあるが、とにかく、教育や管理を批判してきた者として、子供たちに権力をふるうことがむずかしい。この映画で、大杉漣が演じる映画監督が、映画を完成できずに失踪してしまうのも、役者として集めたいまの世代に対して映画製作上の強権をふるうことができなかったということでもある。なるほど、樽見省吾(大杉漣)の「甘え」や「心優しさ」はいかにも全共闘世代の特徴であり、ある意味で、映画で描かれる論理先行の総括は、甘え」や「心優しさ」の裏返しでもあったのである。この問題は、やがて、イジメの問題として全般化する。それは、決して総括されていない。まさに、樽見省吾は逃げたままなのである。デジタルビデオで映画を完成させる阿南満也(萩原聖人)の処置は、70年代のツケをづるづる引きずったまま「IT革命」に突入してしまった90年代以後の状況そのものである。
◆実在の連合赤軍最高幹部・森恒夫にも指導部の永田洋子にも、映画でそれぞれ山本太郎、裕木奈江がかなりうまく演じるような私情的パーソナリティがなかったわけではない。森の「専制君主」ぶり、永田の「女王」ぶりは週刊誌レベルでも報道されたし、実際に二人が情欲的につるんで、その権力欲からリンチに走った側面がなかったとは言えない。だが、少なくとも連合赤軍結成当初は、公式的な「共産主義革命」の理念に生きることが彼や彼女の願いだったはずだ。映画でも、彼らが、「党のため」「党の規則」と称して非常に抽象的な理屈をふりまわすシーンが続くが、問題は、なぜ、そういう抽象化がエスカレートしていったのかである。「兵士」をリンチしたり、殺したりすれば、「党派」の損失であることは目に見えているし、もはや「革命」を遂行することもできなくなることは誰にでもわかるはずなのに、それをせず、どんどん一次元的なロジック、形式論理の罠にはまってしまう。それは、なぜなのか? この問題を徹底的に究明することなしには、連合赤軍の悲劇を語ることはできないだろう。こうした集団のディレンマを描いる点では、「楽園」(共産コミューン)が総括・リンチに陥っていくプロセスを描いている『ザ・ビーチ』、『ディスタンス』、『リリー・シュシュのすべて』の方が、問題の核心にせまっている。
◆映画で描かれる一連の「リンチ」/アジトの山岳内移動後、上京した森恒夫・永田洋子の逮捕、「長征」した残党が浅間山荘にこもり、銃撃戦ののち逮捕のなかで、「連合赤軍リンチ事件」が一般に公表されたのは、72年3月7日のことだったが、当時、和光大学で非常勤講師をしていたわたしは、4月からのゼミでは、もっぱら身体性の問題を議論することになった。それは、わたしから出たというよりも、すでにメルロ=ポンティの身体論に馴染んでいた学生たちのあいだからおのずから出てきたテーマだった。解放を志向したはずの人々が、なぜ仲間の身体に暴力をふるうリンチや内ゲバというディレンマに陥るのか、それは、身体にすでに書き込まれている可能性なのか・・・。この問題は、党派に属さずに当時に運動に関わった者、運動に距離を置きながらも支援していた者たちすべてが無視することのできない問題だった。ゼミの内部では、1、2年続いた議論を通して「文化」(おそらくわれわれは、のちの「カルチャラル・スタディーズ」の「文化」を先取りしていただろう)に到達したが、党派的な状況は、運動全体の最終的な後退とともに、「唯銃主義」(森は、これを自己批判する書を残して自殺した)をますますエスカレートさせ、東アジア反日武装戦線や日本赤軍の武力闘争へと進んでいく。この流れは、残念ながら、今日の「テロリズム」までつながっており(オサマ・ビン・ラディンが、アルカイダのネットワークを通じて発表したビデオメッセージは、70年代の集会スタイルで構成されていたのは興味深い)連合赤軍崩壊後に可能性としてあったラディカルな文化主義は依然、密封されたままになっている。
(シネカノン試写室)



2001-10-24

●ピアニスト(La Pianiste/2001/Michael Haneke)(ミヒャエル・ハネケ)

◆前の仕事を済ませてタクシーを飛ばし、特急に乗れなかった電車にいらいらしながらぎりぎりに飛び込んだので、もう観客は場内に入っていると思いきや、劇場の外にまだ長蛇の列があった。が、客たちはこの劇場の癖をよく知っている人たちではなかったらしく、スクリーンに近い席はがらがらだった。ヤクルトホールのスクリーンは、カーテンがかかっていると大きいように思われるが、それほど大きくないのだ。だから、わたしには前から3列目ぐらいが丁度いい。
◆すべてがわたしには非常にわかりやすい進行。「痴女」ないしは「女変態」という設定のエリカ(イザベル・ユペール)の心情は手にとるようにわかる。ということは、映画として失敗だったということかもしれないし、あるいは、わたしが変態だということかもしれない。まあ、見る側の特性を試される映画ではある。後ろに座っていた女性は、しきりに笑い声を発していたが、けっこう彼女もこの映画と波長が合っていたのかもしれない。他の女性は笑ってはいなかった。
◆エリカは、ウィーン国立音楽院のピアノ教授。母(アニー・ジラルド)との二人暮し。母は、娘の帰宅が少しでも遅れると狂乱状態になり、帰宅したした娘を罵り、娘もそれに反抗し、争い、そして和解するという「ゲーム」をくり返している。
◆ウィーンには、すでにすたれているとはいえ、金持ちが演奏家を家に招き、演奏をさせ、そのあとディナーパーティをするというような習慣が残っているらしい。エリカはある日、クレメール家に招かれ、もう一人のピアノ教授と連弾をする。その演奏を燃えるような目で見つめている青年がいた。彼はその家の息子ワルター(ブルノ・マジメル)で、理科系の学生ながら、あとでお返しのピアノを弾くときにエリカにも無視できない感情を沸き起こしたようにピアノの才能を持っている。
◆ここで開かれるパーティの段取りが抜群にいい。演奏が終わると、女主人が出てきて、「こういう会のあとでは無粋かもしれませんが」といったことを言い、隣室に通じるドアーを開くと、そこに調理がばっちりとセットアップされいる。
◆このパーティで近づいてきたワルターにエリカは、アドルノの音楽論(シューマンとシューベルトに関する)の話をする。
◆ワルターは、急速にエリカに近づき、つきまとう。彼女の学生になるために音楽院を受験し、(ワルターの愛を感知したエリカはワルターを避けるためにあえて否定的な評価をするが)エリカの学生の位置を獲得する。他方、エリカは、避けながれも、彼のあとをつけたりする。そしてある日、あたかも情熱の高まった男女が所かまわず愛しあうかのように、トイレに入ったエリカをワルターが追い、トイレのなかで抱き合う瞬間がやってくる。しかし、一瞬その情熱に反応したかに見えたエリカが、次の瞬間、「普通」の女でないことをあらわにする。
◆エリカには、「普通」の女性とは違う嗜好があった。学院での教授(にこりともせず、厳しいピアノ教授――学生はよく泣く)のあと、脇目もふらぬ歩き方でポルノ屋に直行し、男しかいない店内のブースでポルノビデオを見、前の男性客が残した精液のついたティッシュペーパーを拾って深々と臭いをかぐのだ。なお、このシーンで、彼女が見るポルノ映像が完全にボカされていたが、これは、日本公開での処置なのか? エリカは、また、ドライブイン・シアターにももぐりこみ、車のなかでセックスしているカップルを発見すると、それを覗き見しながら、車のかたわらで放尿する。帰宅が遅くなるのは、彼女にこういう趣味があるからなのだ。
◆この映画がつまらないとすれが、ワルターがエリカの嗜好を全く理解しない「健康」な男性として設定されいることだろう。彼は、スポーツ(アイスホッケー)好きの「通常」のヘテロセックスの男だ。これではすれ違いや不幸があたりまえなのに、それをわかっていて組合わせて見せるのがこの映画(の犯罪)なのである。
◆エリカにとって、セックスは外化されている。彼女にとってセックスの情感は、視覚や痛みの「距離」を通してしか高まらない。彼女は、バスルームで自分の性器にカミソリの刃を当て、出血した陰部に生理綿を当てる。だから、ワルターに抱かれたとき、通常の性交を拒否し、勃起したワルターの性器を見たがる。自分で相手を楽しませる行為としては、フェラチオが限界で、これも(2度目のシーンでワルターがすっかり失望してしまうように)自分からしておいて嘔吐してしまう。吐いたものが床に流れるが、それは異物のない黄色の流体だった。設定――あるとすれば――は何だろうか? コーンスープ?
◆エリカの学院のオフィスだったか、映画『Frequency』(オーロラの彼方へ)のポスターがかかっている。これは、監督からの何らかの示唆か? この映画は、父と息子の切れ難い関係の映画だった。この映画はその女版なのか? 結局は母と娘との。しかし、最後の場面は、暴行された(顔面を殴られ負傷したはずなのにその傷も腫れも見えないから)少したったある日のシーン(映画ではほとんど暴行のすぐあとにつづく)で、ワルターを刺すためにバッグに入れたと観客には思える包丁を、以外にも自分の胸に向ける。が、慣れないと胸を突き刺すということは楽ではないらしく、少し胸を傷つけただけで、そのまま外にでて行く。胸に少し血を流しながら街頭を歩くエリカ。どこへかはわからないが、アンドロイドと化したような無表情で。
◆この映画の台詞はみなフランス語だが、感性は非常にドイツ/ウィーン的。イザベル・ユペールは、少しあごを上げ、終始遠くを見つめる表情で、「特殊」な女を熱演している。アニー・ジラルドを見るのは久しぶりだが、(この映画のためかもしれないが)ずいぶん老いさらばえた。
(ヤクルトホール)



2001-10-23_2

●アトランティス 失われた帝国(Atlantis/2001/Gary Trousdale)(ゲイリー・トゥルースデイル)

◆『シュレック』を見た直後だったので、映像の落差に時代を感じさせられた。こちらの方が「正統派」のアニメのスタイルなのだが、もともと、アニメが好きでないわたしには、その映像の立体感のなさと登場人物のパターン化されたしゃべり方(アニメのディスクールというものが出来ている)がひっかかった。ウォルト・ディズニー生誕100周年記念作品ということでは、そう大幅にディズニー色を変えることは難しいであろうが、これでは、「古典芸能」になってしまう。
◆プラトンが360BCに言及したというアトランティス帝国の所在地を調べていた祖父の遺志をついだ孫のマイロ(声:マイケル・J・フォックス)が、アトランティスを発見し、その王女と結ばれる話。
◆マイロは、古代語の専門家として考古学研究所につとめているが、所長は彼のアトランティス研究には関心がない。所内でも、マイロは、3枚目の役を負わされている。そんなある日、彼は、目つきはきついが、艶っぽい声の女ヘルガ(声:クローディア・クリスチャン)の訪問を受ける。彼女は、祖父の友人で大富豪のプレストン・ウィットモア(声:ジョン・マホーニ)の使いで、豪邸で会ったプレストンから、マイロは、探し求めていた伝説の古文書『羊使いの日誌』を受け取る。それは、亡き祖父が見つけ、時期が来たら孫に渡すようにたのまれていたのだという。プレストンは、マイロの祖父と、アトランティス発見の約束をしており、その準備を着々とととのえていたのだった。
◆ローク隊長(声:ジェームズ・ガーナー)をはじめとして、すでに探険隊のメンバーもあつめられており、マイロの役は、その道先案内であった。ヘルガは、ローク隊長の副官だが、ローク隊長も目つきがよくない。このへんの布石は、単純なドラマの常套で、いずれ、その目つきに見合った「本性」をあらわにするのである。
◆結局、山場は、最後の戦闘シーンであるのもつまらない。アトランティスへの入口でも、怪物レビヤタンとの攻防が見せ場として描かれる。ドラマの転換点で、マイロの祖父の「探究心は金以上の価値がある」という言葉が決め手になるシーンがある(隊員たちは、みな、金だけのために探険に参加した)が、オープン・ソースコードの時代にいまさら、こういうテーマを持ち出しても意味がない。それは、あたりまえだからだ。しかし、このことが決め手になり、もともとは金のために来たが、考えを改める隊員が出てくるといったシーンが描かれる――これは、古い。
◆ああ、アトランティスについても、これがアトランティスかという感動がない。アトランティス人がみな身につけているクリスタルの使い方も意味も、観念的すぎる。
(ブエナビスタ試写室)



2001-10-23_1

●シュレック (Shrek/2001/Andrew Adamson)(アンドリュー・アダムソン)

◆冒頭からアクの強いタッチ。古い大判の豪華本のイラスト入りのページがめくられ、Once Upon a Time...というナレーション。が、いきなりそのページがばりっと破られ、つぎの瞬間、トイレの水が流れる音。あの豪華本のページで糞のケツをふいてしまったのだ、という驚き。一瞬、これは、コンピュータを立て、本を否定する話かと思ったら、そうではなく、シュレックというメル・ブルックスをもっと醜悪・巨大にしたような怪物の傍若無人さをあらわす布石なのだった。続いて、シュレックが、沼のどろどろした水を口に含んで吐き出すと、地面に、ケーキの上のチョコレート文字のようなタッチの文字でクレジットを書いていく。この映画の技術的特性も見せてしまう見事なイントロ。
◆シュッレク(声:マイク・マイヤーズ)は、人里はなれた森の沼のほとりに一人で住んでいる。村人から怖がられ、ときには、怪物退治に集まった村人の急襲をうけたりもするが、村人には歯が立たない。言っていることからすると、シュレックは、自分の醜悪さにコンプレックスをいだき、人とつき合わないうちに、ひねくれ者になってしまったらしい。容貌に似合わず、優雅な暮しをしているが、本当は寂しくてしかたがない。
◆これは、アメリカ映画のパターンだが、こういうひねくれた孤独者に、「淋しい、淋しい」と騒ぎながら他人に近づいてくるおせっかいな道化役がからむ。ドンキー(らくだ)という名のおしゃべり屋。声を担当しているエディー・マーフィを最初から想定して作ったキャラクター。
◆非常にユダヤ的ユーモアの強い映画のような気がした。子供から大人までの広い観客相をねらったこの種の映画では、通常避けるような差別意識や性的暗示も少なくない。そもそも、主人公が醜悪な顔をしているということ自体、差別であるが、村を統合して王国を作ろうとしているファークアード卿(声:ジョン・ライトゴウ)はチビであり、彼が救出を命じるフィオナ姫(燃える溶岩に囲まれたドラゴンの城に幽閉されている)は、夜になるとシュレックとまさるともおとらない「ブス」に変身してしまう。こういう猛烈に毒のある設定はあまりない。種を明かしてしまったが、何度見ても吹き出してしまうだろう。その変身ぶりがお楽しみ。
◆ファークアード卿は、ファシスト的なキャラクターで、王国をつくるために、この村からおとぎ話のキャラクターを買い取り、追放しようとしている。村人たちは、ピノキオだとかのさまざまなおとぎ話のキャラクター人形を持って広場に集まる。ドンキーは、そんな売買会場から逃げ出してきて、シュレックと出会ったのだった。
◆難関を越えてフィオナ姫を助け出せるのはシュレックしかいなかったが、凶暴なドラゴンにドンキーがほれられてしまう(それもホモっぽい)とか、帰路、シュレックとフィオナ姫とのあいだにおこる屈折した愛・・・笑わせ、泣かせる。わたしの一人隣に座って試写を見ていたアメリカ人なんかは、終始笑い通しだった。わたしにはわからぬ滑稽な言いまわしが一杯あるだけでなく、この映画に続々出てくるおとぎ話の有名キャラを子供時代に愛用していて、キャラの身の動かし方ひとつにも敏感に反応しているらしかった。
◆『ジェヴォーダンの獣』でもカンフーがさかんに使われたが、フィオナ姫もカンフーの名人なのであった。
◆シュレックが、道端の蛙をぱっとつかみ、身体に空気を入れて、風船のようにしたり、蛇をつかんでくるくるとねじり、街頭の風船芸人のようなことをしたり、CGIのテクニックを自在に使い、ユーモアを盛り上げるスタイルも新しい。
(UIP試写室)



2001-10-19_2

●裏切り者(The Yards/2000/James Gray)9ジェイムズ・グレイ)

◆ニューヨークのクイーンズ区長と地下鉄工事会社がからんだ汚職をシリアスに描く。すべてのキャラクターが、いわゆる「善玉」対「悪玉」の構図では描かれておらず、登場人物に奥行きが出ているのは見事。「悪」を犯す各人物が、ただ賄賂をもらっているだけの区長(スティーヴ・ローレンス)ですら、そういう宿命のなかでそうしているように見える。
◆ドラマは、兄貴分のウィリー(ホアキン・フェニックス)をかばい、窃盗の罪で服役していたレオ(マーク・ウォーバーク)が出所し、母(エレン・バースティン)のもとに帰ってくるところからはじまる。地下鉄のさりげない描写も、生のニューヨークを感じさせる。母は、家のドアを開けたらパーティが開かれているように出所祝いのパーティの準備そしている。叔母(ファイ・ダナウェイ)とその娘エリカ(シャーリーズ・セロン)の姿もある。叔母は地下鉄関係の会社を経営するフランク(ジェームズ・カーン)と再婚している。ウィリーは、その会社で、「営業」の仕事をしている。
◆フランクを訪ねたレオは、学費は出すから2、3年技術の勉強をして、会社の技術部門で働くことを勧める。が、レオは、ウィリーといっしょに仕事をしたいと言い張る。なぜか、顔を曇らし、おまえはウィリーとは別の仕事をしてもらいたいと言うフランク。それにはわけがあった。ウィーリーの仕事は、地下鉄公団や区の人間に賄賂工作をして、入札を獲得することだった。ジェームズ・カーンは、一見しかたなく「悪」をやっている男ようでいて、けっこうワルであり、しかし、それだけではない屈折した人格をたくみに演じている。
◆そうした工作は、競合会社を押さえるために、競合会社が工事した車両を壊し、ハンデをつけようとする強引な工作にまでエスカレートしていく。だが、ある夜、そのために車両の操車場に行くと、いつもはそういう工作を黙認してくれた操車場主任が(すでに他社に買収されていて)言うことをきかない。ウィリーは、男ともみあい、殺してしまう。外で見張りをしていたレオは、来合わせた警官に誰何され、警官をなぐりつけ、逃げ去る。警官は重傷を負い、昏睡状態に陥る。が、やがて意識をとりもどした警官の証言で顔が割れる。
◆ウィリーは、自分の罪を隠すためにレオに入院中の警官を殺すように説得する。レオはそれに従うが、暗殺には成功しない。次第にことが深刻になり、フランクは、ウィリーにレオを殺すように示唆する。できないと言う彼に、フランクは、15歳のとき、エリカとレオは関係があったと(嘘か本当かはわからない)告げ、エリカを愛するウィリーに打撃を与える。ワルダチを誘って、涙ながらにレオ殺害を実行しようとするウェイリー。が、それは成功せず、レオは逃げる。フランクは、仕方なく、ピストルを隠し、自分でレオを殺る決意をする。このあたり、まさのこの映画の見事なところなのだが、こうしたプロセスが、悪党が追いつめられて、どんどん悪辣なことを考えていくというのとは全く違う。むしろ、宿命であるかのように進む。
◆病弱の母とレオの悲しい、やるせない関係がちょっとした場面で描かれる。大学に行って「立派」になってほしかったと言う母。そうしたかったが、できなかったことにすまなさを感じている息子。
◆大詰めは、すべてを暴露しようと決心したレオが対抗する会社の弁護士にすべてを打ち明け、区長や関係者がいならぶ聴聞会に姿をあらわす。証言したあと、自首すると。が、区長は、関係者を別室にまねき、警察、対抗する会社の幹部と弁護士ともども、金ですべてをうやむやにする「談合」をはかる。すべては、それで終わるかに見えたとき、ある事件が起こる。そして、レオは、もう一度決心する。
◆会社と家族。汚職や不正は、会社へ家族的ロジックを持ち込むことによって起こるのか? 家族と切れない会社。が、そういう会社は、家族内部のきしもや矛盾から崩壊する。
(松竹試写室)



2001-10-19_1

●ロードキラー(Joy Ride/2001/John Dahl)(ジョン・ダール)

◆世の中には、あまり深い考えもなくとんでもないことをやってしまう無責任人間がいる。ある意味では定見がないわけだが、それでいて、起こったことの重大さにあわてふためくのだから、始末が悪い。この映画でそういう人物フラーを見事に演じているのが、スティーブ・ザーン。『ユー・ガット・メール』や『ハムレット』のときとは目つきからして全く違ったキャラクターになっているところが彼の実力。
◆そういうトンチキな兄をもってしまい、そのおかげでとんでもない恐怖を味わうことになるのが、ルイス(ポール・ウォーカー)とその友人ヴェナ(リリー・ソビエスキー)である。ルイスは、最初、幼友達のヴェナのさそいをうけて、コロラドにいる彼女をピックアップし、二人でデートかたがた、帰省しようと思っただけだった。が、故郷の母に電話すると、つまらぬことで逮捕された兄がソルトレイクシティで釈放されるから、先に拾ってやってくれないかと頼まれる。
◆兄貴らしくない兄のフラーは、ルイスの車に乗ると、途中で中古のCB無線機(Cherokeeというブランド)を買い、勝手にルイスの車に取り付けさせてしまう。そして、車中、ルイスに女の声で誰かをだまそうと誘う。最初いやがっていたルイスも、相手があっさりひっかかってしまうと、このいたずらにのめり込んでいく。
◆最初のモーテルの事務所で、マネージャーにからんでいるえらく感じの悪いおやじがいた。フラーは、CBでひっかかかってきた男(テッド・レヴィンが太めの特徴ある声だけで出演している)をモテルに呼び出し、このおやじの部屋に行かせて、からかってやろうとルイスをたきつける。「あいたいわ・・・」とか女声で悪乗りするルイス。が、しばらくして、男の部屋から争う声と物音がきこえてきた。そして、翌朝、そのおやじが、高速道路に、顎から下を切り取られたすさまじい状態で倒れていたということを警官に知らされる。
◆やがて、二人にあの声が迫る。すべてを知っているその声。以後は、スピルバーグの『激突!』と『ブレーキ・ダウン』を混ぜ合わせたようなスリラー風の展開。リリー・ソビエスキーは、良家のお嬢さんといった顔だちで登場するが、これは、このスリラーの怖さを盛り上げる布石だった。
◆3人が立ち寄ったバーで、ヴェナがカウンターに酒を注文しに来ると、男が寄ってきて脅すシーンの描写はなかなかリアルだった。男上位の田舎町ではありがちな雰囲気が、月並みでなく描かれる。
(FOX試写室)



2001-10-16

●千年の恋 ひかる源氏物語(Sennennno-koi/2001/Horikawa Tonkou)(堀川とんこう)

◆いやはや、吉永小百合の紫式部、森光子の清少納言という設定から、あるいは、早坂暁の脚本ということからすでに想像できたことであるが、まさか、そのうえ、松田聖子が顔まで出して歌を歌うとは思わなかった。そうとうグロな映画である。(そのうえ、岸田今日子が光源氏にせまるという恐ろしげなシーンまである)。唯一、光源氏に天海祐希を起用したのは、悪くなかった。ラブシーンでも、レズっぽい感じを出し、通常のラブシーンとは違う感じを出して、新鮮だったが、そういうことを思想的にも根底から押さえて起用しているわけではないので、この設定もたかだか宝塚のアイデアをいただいた程度に終わっている。その証拠に、昔の恋文を焼いている老いた光源氏なんかをまともに登場させたりしている。
◆基本的にダメなのは、現代の観点で源氏を見ていること。それは、オープニングが、吉田直哉のNHK大河ドラマの遅すぎたマネのごとく、現在の京都市の俯瞰からはじまることでもわかる。吉永が劇中で「源氏物語は女の歯ぎしり」だと述懐するように、女が抑圧され、宮中はあたかも帝の専用淫売窟であったかのような設定(といって、それほど批判的・アイロニカルに描いているわけでもないし、「もののあわれ」として描いていいるわけでもない)がある。『源氏物語』をいまの、とくに女性優位の目で見ては何も出てこないだろう。この物語をいまに活かせるのは、その政治性である。
◆映画で、娘を持つ公家や坊主の権謀術数や、帝の子を宿したい女同士の張り合い、紫式部と清少納言の確執は、型通りに描かれるが、『源氏物語』が、政治操作のメディアでもあったことは明確には意識されていない。
◆藤原道長(渡辺謙)の娘・彰子(水橋貴己)の家庭教師をつとめる紫式部は、この物語を書きながら、その内容を彰子に語ってきかせる。また、公家たちが彼女の作品を読んだ反応もさりげなく描かれる。清少納言とも同席する。つまり歴史的な「現実」も描かれる。そのなかに、紫式部が紡ぎだす物語の主人公たちが姿をあらわし、「現実」の人物たちとも交錯した関係を持つ。この手法はいいのだが、かならずしもうまくいっていない。このような設定は、ある種(特に、彰子と紫式部との関係においては)催眠術的・操作的な機能に注目すると、非常に面白くなる。
◆実際に、『源氏物語』は、紫式部にとって、彼女の思い描く皇室世界を具体化するためのミクロポリティカルなミクロメディアだったのではないか? 彼女は、彼女が関わっていた皇室世界からモデルを引き出す一方、それをモディファイした世界を宮中に還流させることによって、宮中をある程度操作しさえした。その効果は、「批評家」清少納言の『枕草子』の批判的機能にくらべるとはるかに大きなものだったと考えられる。
◆文化人類学的考証も、あまり徹底していないような気がする。たとえば、最初の方、紫式部が福井にいたとき、夫が海賊に襲われて死ぬ。その亡き骸にとりすがろうとする式部を父(神山繁)が止め、「触れることが出来るのは本妻のみ」と言う。だが、そのときの雰囲気は、アメリカ映画で死んでしまった人間にとりすがろうとする恋人や肉親に対して、触るなというのと同じ感じなのだった。
(東映第1試写室)



2001-10-15

●ジェヴォーダンの獣(Le Pacte des Loups/2001/Christophe Gans)(クリストフ・ガンス)

◆ちょっと『スリーピー・ホロウ』に似たタッチ。バックで「革命万歳!」の声がこだまするなかで、啓蒙主義者の老貴族マルキ・トマ・ダプシェ(ジェレミー・レニエ)がこの物語を執筆しているシーンから始まり、いきなりカメラが高速でウォークスルーし、人里離れた岩肌の村に飛ぶ。空間移動によって時代をバックさせているわけだが、こういう手法は、通常、時代を未来に進める場合に使われる。カメラが止まると、そこでは、若い女性が何者かに追われて必死で逃げ回っている。が、彼女はあえなく、犠牲になり、血にまみれる。
◆1764年、フランス革命(1789)に向かって時代が進みはじめ、啓蒙主義思想が浸透しあ時代、経済が破綻し、戦乱と政治の混乱のなかにあったフランスでも、古いロマン主義/神秘主義的な発想がエアポケットのように凝縮する場所があった。市民意識の遅れたドイツでは、啓蒙思想への反動としてのロマン主義/神秘思想がはやるが、フランスでも、南部中央山塊のジェヴォダンのような辺境地帯ではそういう現象が見られた。それが「ジェボーダンの人食い狼」である。
◆体制は、そういう反動を適度に温存利用して体制の存続をはかる(ドイツはある意味ではそうだったのかもしれない)こともあるが、末期症状に陥った体制にはその余裕もない。ブッシュ2世政権がIT時代の原理主義に手を焼き、戦争という逆行の手段に出てしまったように、ルイ15世もまた、「ジェボーダンの人食い狼」を撲滅するために討伐隊を派遣した。映画は、実在の話を存分に想像変更して作られているが、物語の本番は、若い自然科学者フロンサック(サミュエル・ル・ビアン)が、モホーク族の血を引く従者マニ(マーク・ダカスコス)を連れて現地におもむくろころから始まる。フロンサックは、知性だけの人ではなく、格闘技にもたけている。ジェヴォーダンに着いたとたん、「魔女」を殺そうとしていた自警の一団と闘うことになるが、たちまちのうちに一人で一団を追い払ってしまう。フランス映画でカンフーを見るのは初めてだが、新鮮な印象。
◆フロンサックは、新思想好きの若い貴族、マルキ・トマ・ダプシュに迎えられ、彼の屋敷に滞在する。ここで催された晩餐会で、フロンサックは、ダプシェ地元の貴族たちと会う。アフリカでの冒険で片腕をなくしたという、シニカルなジャン=フランソワ・ド・モランジアス(ヴァンサン・カッセル)、その美しく、ものおじしない妹マリアンヌ(エミリエ・デュケンヌ)。晩餐会の席上、フロンサックが、叫ぶようにしゃべるのが面白かった。当時、広い部屋で長い巨大なテーブルに多数の客がいる空間では、叫ぶようにしゃべらなければ、声が通らなかったはずだ。映画は、それを再現している。
◆フォロンサックの肩書 "naturaliste" は、字幕では「自然科学者」と訳されるが、これは、「自然主義者」という意味でもある。啓蒙主義とナチュラリズムは切っても切れない関係にあり、また、この時代に青年時代をおくるゲーテがのちに関心をいだく「自然科学」も、この流れのなかにあった。
◆「獣」は、やがれ、村の隠れ家で、発禁本なども作っている一団によって飼われており、一連の恐怖事件が、この一団の背後にある貴族と教会勢力によって仕組まれていたことがわかる。が、鉄砲にもひるまない「獣」の謎が、身につけている鉄の甲冑だったという謎解きはいただけない。物語は、若き日のマルキ・トマ・ダプシェが、その思い出を記すという形式になっているため、理性的な啓蒙主義者にとっては、ミスティフィケイションというのは、反動以外の何ものでもないわけだから、事実は事実として提示するということになるのだろう。
(ギャガ試写室)



2001-10-12

●スパイキッズ(Spy Kids/2001/Robert Rodriguez)(ロバート・ロドリゲス)

◆安いタイトルにいやな予感がしたが、さほどひどい作品ではなかった。小学生ぐらいの子供のいる一家が家族ぐるみで見るのに向いている。
◆ときどきはっと思わせるセクシーさを示すのが、いまは「専業主婦」をしているが、昔は翔んでる女スパイだったイングリッド(カーラ・グギノ)。 彼女は、冷戦時代に、敵側のかっこいいスパイ、グレゴリオ(アントニオ・バンデラス)と恋に陥り、スパイをやめて家庭をつくった。いまは、人里離れた海を見渡す高地の家で「コンサルタント」業をいとなんでいるという設定。
◆話は、母親が子供のベットサイド物語として、Once Upon a time...ときかせるところから始まる。だから、話の飛躍は、物語の飛躍であり、子供の目から見た想像の世界であってもいい。つまり、両親にあこがれる子供たちが、想像の世界に遊んでみた話・・・として。
◆夢であれ、物語であれ、親と子は、強力して敵をやっつけるのだから、ファミリーにとっては、親と子が共通の目的のために経験を共有し、助け合ったことにはかわりない。
◆最初の結婚式のシーンで、二人の結婚を邪魔しようとする戦闘機が空から爆撃し、みながいっせいに逃げるのだが、走るカーラ・グギノの脚がすばらしくセクシー。
◆娘のカルメン(アレクサ・ヴェガ)と息子のジェニー(ダリル・サバラ)がテレビで見ている連続ファンタジー・シリーズの世界には、番組の天才的なホスト、フェーガン・フループ(アラン・カミングス)と、そのなかでフグリーズという顔だけ動物の顔に変えられた人間が登場する。実は、この容姿を変えられた人間たちというのが、スパイであって、そこに閉じこめられているのだった。
◆出演者は豪華(最後にちらりとジョージ・クルーニーまで出ている)。全体として、大型ドラマなのだが、宣伝がちょっと引いているのはなぜ? 宣伝すれば、一般受けする要素がたっぷりある作品。アメリカでは、「3週連続No.1ヒット」だそうじゃないか。
(松竹試写室)



2001-10-09_2

●トレーニングデイ(Training Day/2001/Antonie Fuqua)(アントニー・フュークワー)

◆一見幼い子供のいる若い夫婦の「ホームドラマ」風に始まるが、そうではないことがすぐわかる。アメリカ映画としては、非常にシリアスな作りになっている。それにしても、劇場試写会に集まった人の数が少なかったのはなぜだろう? 大分まえから回しているからかな?
◆ジェイク(イーサン・ホーク)は、その日、麻薬捜査官としての新しい仕事につくことになった。いままでの警官とはちがう。街で伝説的なベテラン麻薬捜査官アロンゾ(デンゼル・ワシントン)に会い、特訓を受ける。それは、ジェイクにとっては予想外のことばかりだった。いたるところに情報屋をもっており、あぶない特殊地域にも平気で入っていく。一見ゆすりにも見える行為もする。結婚しているのに、エルサルバドルの女を囲い、子供もいるようだ。ジェイクがひるむと、アロンゾは、「かよわい子羊でいるのか、獰猛な狼になるのか、選ぶんだな、でなきゃ、交通課の警官にでもなるしかない」とすげなく言う。
◆麻薬界をひそかに仕切っている大物ロジャー(スコット・グレン)の家を訪ねると、アロンゾとロジャーは年来の親友のように抱き合い、酒をくみかわす。「あと一仕事したら、引退だ」としみじみ言う(この感じをグレンがうまく出している)ときなど、二人は本当に親友なのかと思うが、うしろの方で、アロンゾは簡単にロジャーを殺してしまう。それは、捜査のための演技だったのか?
◆最後まで見ないと、デンゼル・ワシントンが演じる麻薬捜査官アロンゾが、「悪玉」なのか、それとも「悪玉」を装っている「善玉」なのか、あるいは、現実のなかで何か思い切ったことをしようとすると、適度の「必要悪」を行使せざるをえないということを悟った男なのかはわからない。デンゼル・ワシントンは、こういう二重に屈折した人物を演じるとうまい。マルコムXも、本当は、ワルなのか「聖者」なのかわからないところが面白いのだが、映画では、「聖者」として描かれたので、彼は本領を発揮できなかった。
◆どれもひとくせある役者がちょい役を含めて出演している。アロンゾは、判事レベルともコネがあり、密談をするが、そのなかにちらりとトム・ベレンジャーが姿をあらわす。ちょい役なのだが、彼ならでのスゴミとこの世界の奥深さがあらわされる。
◆ジェイクが経験する1日の出来事を描いているのだが、最初は甘いファイスで出てくるジェイクが最後には10歳も歳をとったように見える。すべてを見てしまったように。彼は、自分の信念を抜くが、それが、はたして「正義」なのかどうかはわからない、というところがこの映画の奥行きの深さになっている。現在のロスの犯罪多発地帯を取り締まる刑事としては、アロンゾのようなマテリアリズムが必要である。彼を批判するなら、現実を批判しなければならない。しかし、そうだとすると、その現実そのものがまちがっていると言わなければならないのではないか? ジェイクは、明日からもう一人のアロンゾになるのか、それともそういう現実におさらばするのか、それとも、その現実と別の方法で対決するのか? そんなことを考えさせる表情を残してラストシーンが終わる。
(渋谷東急)



2001-10-09_1

●ハートブレーカー(Heartbreaksers/2001/David Mirkin)(デヴィッド・マーキン)

◆シバニー・ウィバーは、『ワーキング・ガール』でもそうだったが、喜劇を演じた方が個性を出せる。真面目な演技だと、やけに男っぽくなるのは、『エーリアン』のせいか?
◆ひねった母子モノでもある。男に捨てられてから男を信じなくなった(と自称する)母マックス(シガニー・ウィバー)は、その置き土産の娘ペイジ(ジェニファー・ラブ・ヒューイット)を助手にして結婚詐欺を職業にしている。映画は、盗難自動車のディーラーをやっているディーン(レイ・リオッタ)を結婚式の翌日、見事にはめ、30万ドルの賠償金を奪い取るところからはじまる。初夜のベットはたくみに居眠りして逃れ、翌朝、欲求不満になったディーンが会社の秘書(実はあらかじめ忍び込ませておいたペイジ)に手を出そうとした現場をマックスにおさえられたのだ。
◆あちこちに気を引くヒントをばらまいておいて、その場では軽く笑わせながら、あとでなるほどと思わせるエンターテイメント映画の定石を押さえている。たとえば、母子がレストランに入る。母はヴェジタリアンのメニュー。娘はステーキ。タバコもすぱすぱ。ところが、このふたりが、たがいに正反対の趣味の相手と出会い、だまそうとする。親からレストランを継いだ息子ジャック(ジェイソン・リー)は、星の観察が趣味のエコロジー派。が、ペイジは、最初の意図とはうらはらに、この男ひひかれていく。
◆ジーン・ハックマンが実にアグリーに演じるテンジーという人物は、タバコ会社の相続人で、いつもタバコや葉巻を吸い、咳ばかりしている。頭は薄く、臭ってくるような皮膚。タバコは、いまや、演劇や映画では、アグリーさや庶民性を表現する小道具になった。タバコを吸わないマックスはこの男にウクライナ系の貴婦人のふりをして近づく。
◆シガニー・ウィバーは、口元に少しシワを感じさせるようになった(この映画のためのメイキャップ?)が、ウエディングをぱっと脱ぐとか、身体の線が見えるような仕草をすると、プロポーションのよさが光るのはさすがか。
◆アン・バンクロフトが、おつきあいで出演している。遊びを演じられる貴重な役者。
(ギャガ試写室)



2001-10-02

●リーベンクイズ[日本鬼子 RIBEN GUIZI ](Japanese Devils a.k.a. Riben Guizi/2000/Minoru Matsui)(松井稔)

◆まだ推定3万人は生きているという元「皇軍兵士」が黙して語らない戦中に彼らが中国大陸で行なったことを14人の元「皇軍兵士」が、後世のためにすべてを語った。それは、部分的に語られ、書かれてはきたが、このドキュメンタリーのように、まとまった形で語られたことはなかった。そのきっかけは、彼らが、シベリアに抑留されたのち、中国に返還され、裁判を受けたとき、当時の首相周恩来の、「戦犯とても人間である。その人格を尊重せよ」という命令で、禁固8~20年の刑を受けるにとどまったということがある。彼らが、帰国後、「中共帰りの洗脳組」という烙印を押され、なかなかまともな仕事にもつけなかったことが、かえって、彼らを奮起させた。
◆入隊してすぐ始まるビンタのイニシエイション。そして、中国の囚人などをつかった「試し切り」の訓練。試し切りといっても、すぱっとやるのではなく、さんざん銃剣で(慣れないので相手を苦しませながら)突いたあと、熟練した上官が日本刀ですぱっとやるのである。
◆731部隊のやったことは、ナチ以上だった。「丸太」と呼ばれる中国人にチフスなどの菌を植えつけ、その発病から死にいたる過程を観察する。そして、性能を確認した菌を缶に詰めて、発送。生きたままの生体実験も毎日のように行なわれたという。
◆地雷が埋まっている場所を通るときに、中国人を先に歩かせ、「地雷探知機」の代わりにするぐらいは「あたりまえ」だった。
◆最も残虐だったのが、「三光政策」だ。八路軍に押され、敗軍の気配がいよいよ強くなったとき、日本軍は、共産党の根拠地の周辺の民家・農家に対して、「三光」つまり「焼光」(焼き尽くす)・「殺光」(殺し尽くす)・「槍光」(奪い尽くす)を行なった。まず、民家の外側から火をつけ、飛び出してきた人間を銃剣で突き殺す。病気・高齢・恐怖等で外に出られない者がいたら、幼子であれ、引き出して殺す。映画のタイトルになっている「リーベンクイズ」とは、この子だけは助けてくれと懇願した親のまえで幼児を殺したとき、それを見た中国人が叫んだ言葉である。北京語で「おまえたちは鬼だ」という意味らしいが、わたしがそのニュアンスのことを中国人留学生にたずねると、もっと強いニュアンスを含んでいるらしいことを示唆した。
◆証言者のなかには、「三光」のなかで女性を強姦して殺すことが次第にあたりまえのように行なわれるようになったことを証言している者もいる。そして、その一人は、実際にそれを行ない、さらに、殺した女の肉を部隊に持ち帰って食べたという。当時、追いつめられた部隊は、肉にありつけなかったというが、証言者は、冷静な表情で、「その味は豚よりもあっさりしていました」と言っている。
◆「三光政策」については、すでに神吉晴夫『三光』や本多勝一『中国の旅』などで知られているが、これが極東国際軍事裁判で取り上げられなかったため(この政策が実行されたのが中国東北部の共産党支配地域だったことが関係しているらしい)、世界の公的な歴史記述から隠されてしまった。天皇の戦争責任の追求の中止とともにアメリカが行なった最大の歴史的誤謬である。
◆こういう証言をきくと、戦争というものが、ばかみたいに一次元的なロジックを追求していることがわかる。単純なことなど「普通の」世界にはないはずなのに、人間は、ときとして、単純さにあこがれ、単純な世界が可能であるかのような錯覚に陥る。生体は多様体であり、矛盾に満ちているが、それを単純な機械のようなものとして整理してしまおうという欲望の昂進。
◆度合いの違いにすぎないにせよ、なぜ、日本とドイツは、第二次世界大戦において、生命・人体に対して極限的なアクセス(カミカゼ、人体解剖、試し斬り、「三光」・・・)を行なえたのだろうか? ベトナム戦争時にもアメリカ軍兵士によるソンミ村の虐殺があった。しかし、その規模と残虐さは、「三光」やアウシュビッツの比ではない。「三光」の残虐さにくらべれば、アウシュビッツはまだ「人道的」であったかもしれない。
(映画美学校第2試写室)



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