粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-12-27

●化粧師(Kewaishi/2001/Tanaka Mitsutoshi)(田中光敏)

◆前半、一癖ある化粧師・小三馬(椎名桔平)の物語かと思っていたら、後半になって視点が分裂し、むしろ、彼と出会う女たち、とりわけ、被災地から出てきて呉服屋の「女中」をしている若い娘・時子(池脇千鶴)の人生に焦点が移っていく。まあ、椎名が「猪瀬直樹」風の、照れを気難しさで隠しているよう体の表情の男を演じるのを見るのはかなわないと思っていたわたしとしては、気が楽になったが、今回、椎名はいいキャラクターを出していたので、これではちょっと惜しい気がした。
◆非常にNHK連続ドラマ風の演出。ちょっぴり「社会派」的なにおいもただよわせるが、ポイントははっきりしない。時代は大正年間。モダニズムがはやり、『原始、女は太陽である』が話題になった時代。都会の男女は、競って「西欧」風俗を追った。他方、足尾銅山の鉱毒流出はすでに多くの知るところとなっていたが、江戸の役人根性を引き継いだ官憲の横暴さは変わっていなかった。小三馬は、幼いときに鉱毒の公害で耳の病気をわずらい、難聴になったという設定。時子の親戚は、いまでいう難民キャンプのようなところに住んでいるが、そのバラックを官憲が襲い、強制取り壊しをする。こういうエピソードが、歴史教科書風に描かれるわけだが、こういうやり方は、テレビの連続ものでは意味があるかもしれないが、映画では、主題を散漫にしてしまう。
◆小三馬の家、すぐそばに彼を慕う純江(菅野美穂)の親(田中邦衞と柴田理恵)が開いているてんぷら屋がある一角が、いかにもセットらしくて、うそっぽい。大杉漣の書店も、貼り紙などで時代臭いを出しているだけ。こういう時代考証の手抜きは、たとえば、柴咲コウが屈折した役で出てくる劇団の団員たちが、舞台がはけて解散するとき、一斉に「おつかれさ~ん」と言う点にもあらわれている。こういう言い方は、そもそも、昭和でもずっとあとの流行であり、まして大正時代にはしなかった。電話でも、いきなり「おつかれさんです」で話を始める人が少なくないが、こちらは疲れてなんかいないし、疲れていても、他人から「お疲れさん」なんて言ってほしくないと思っているわたしなどからすると、こういう台詞を安易に使うドラマはそれなりのものでしかないような気がする。
◆小三馬の腕で、女が別の自分を見出す過程は、やけに神秘的には描かれていなくて、嫌みがない。が、もう少し小三馬の腕を神秘化してもよかったのではないか? 彼が、山や畦にでかけて独自の化粧品を調達するシーンがたびたび出てくるが、そのエコロジー志向が、彼の幼い体験(公害)とつながっていることはわかるが、どこか一貫性が弱いのだ。
◆字を読めない時子=おときが、本屋で読み書きの本を立ち読みしながら(それを見た書店主が本をただでくれる)字の勉強をする。やがて奥さん(いしだあゆみ)からチェーホフの『かもめ』の訳を貸してもらい、それを「キャンプ」の子供たちに読んで聞かせる。こういうくだりは、それなりに「感度的」だし、演じる池脇がなかなかいいのだが、このことによって、化粧師の基本テーマはどこかへ行ってしまう。くり返すが、一つ一つのエピソードは悪くない。が、それなら、「化粧師」というタイトルではないほうがよかった。
◆小三馬のせりふ「心の化粧をするのはあなた自身だ」。女のせりふ「化粧をしてもらい、もう一人の自分がいるのがわかった」。この二つは矛盾する。個人とは「多数性」である。一人の個人のなかに多数の「特異性」(ガタリの言う「サンギュラリテ」、わたしの言う「イデオシンクラシー」)がある。
(東映試写室)



2001-12-26

●ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ(Hedwig and the Angry Inch/2001/John Cameron Michtchell)(ジョン・キャメロン・ミッチェル)

◆せつなさと小気味よさのいりまじった感触。ブロードウェイの舞台でさんざん試したエッセンスを映像化したかのような密度とテンポ。ドキュドラマ的(米軍放送を聴いてロックシンガーに憧れる少年時代の映像を荒れたモノクロで、手描きの絵からアニメへ等々)な進行も効果的。時代設定も皮肉でおしゃれ。1961年、ベルリンの壁が築かれた年に生まれたヘドヴィグは、1998年にベルリンの壁際で「少年愛」の黒人兵士と出会い、愛し合う(グミのキャンデーをもらい、口に入れてぐちゃぐちゃやるシーン、いいね)が、性転換手術までして(しかし、医者が下手で1インチだけもとのものが残ってしまった――タイトルはここに由来する)正式に結婚したのに、翌年、ベルリンの壁は崩壊。苦労は水の泡。というより、壁を越えるということに意味があったのに、壁がなくなってしまったのだから、彼の存在そのものが否定されたようなもの。実は、「壁」を失ったのはヘドヴィッグだけでなく、現代人のすべてだから、ヘドヴィグの物語は、現代人の物語であり、そのアクチャリティが、この映画を普遍的なものにしている。
◆この映画は、ボーダー=ゼロの物語である。ベルリンの壁が崩壊して初めて創造されたボーダー=ゼロの形象化。
◆歌えて、脚本も書き、監督もしてしまうジョン・キャメロン・ミッチエルはすばらしい。「彼女」の歌は、実にセクシーだ。
◆ばしっとした「哲学」(一貫性と言ってもいい)に抜かれたドラマ。こういうところがないと、映画も芝居もだめなのだ。
◆東独で少年時代を送っていたころ、母が聞かせてくれたというプラトンの「愛の起源」の挿話(そんなのあったっけ?)――人間はもともと両性具有だったが、神が恐れ、2つに切り裂いた、だから人間はいつもかたわれを求める。
◆後半、「わたしはコラージュ、つぎはぎだらけ・・・」というソングがあるが、コラージュの意味をばっちり押さえ、映像もそれに対応しているセンスの高さ。
(ギャガ試写室)



2001-12-25_2

●ヴィドック(Vidocq/2001/Pitof)(ピトフ)

◆映像は、なかなか手がかかっている。『ムーラン・ルージュ』に似ている絵柄もある。ダリ的な色とコンポジションを思わせたり、コンピュータによるウォークスルー的な映像や、地面すれすれを走る超ロウアングルのカメラとか、あきない。小道具も、『スリーピー・ホロウ』並に凝っている。
◆話は、『ジェヴォーダンの獣』に似ている。パリが蜂起寸前になっている時間のなかで生じる怪奇な物語であるという点を強調しているが、あまり意味があるとは思えない。後半の謎解きは、がっかりさせる。もっとシュールな世界にすっとんでいってしまった方がよかった。
◆ヴィドックは、凶悪な犯罪人から警察官、そしてその後は探偵になるという、『レ・ミゼラブル』にも一脈通じる(それもそのはず、『レ・ミゼラブル』はヴィドックの伝奇にもとづいているのだ)フランス人好みの話。映画化も何度もされている。だから、物語の進行や演技がどうでも、その物語とキャラクターだけを下敷きにして、この映画のように「めちゃめちゃな」ことをやっても、フランスでは受ける。実際、フランスではヒットしたらしい。
◆処女を誘拐して、その肉体からエキスを抽出して自分を不老不死にしている怪人が問題なのだが、それを探していた探偵ヴィドック(ジェラール・ドパルデュー)は、最初の方であっさり姿を消し、以後、ヴィドックの伝記を書いていると称する若い青年作家(ギヨーム・カネ)が現れ、ヴィドックの足跡をたどっていくという流れ。ところが、その作家が・・・最後に・・・という円環構造。このあたりも、ピトフにすれば、ゲーム性というところなのだろうが、それが、唐突な終わりという印象しか与えないのが、残念。
◆この映画は、ピトフの映像技術だけが突出した、通常の映画の演出としては失敗した作品という評価を受けるだろう。社内試写を見損なったので、今回、「一般試写」にもぐりこませてもらったが、終わって外に出るとき、まわりにいた女性(ほとんど女性ばかり)の一人が、「最後にがっくりね」と言っていた。しかし、監督も作家も、第1回目の作品には、自分のもっている可能性を一切合切詰め込んでみたくなるものだ。次回作に期待しよう。
(九段会館)



2001-12-25_1

●暗い日曜日(Gloomy Sunday -Ein Lied von Liebe und Tod/1999/Rolf Schuebel)(ロルフ・シューベル)

◆実話にもとづいているというが、作りはドラマティック。それだけ事実がドラマティックだったからという論法はあたらない。ドラマティックであるかどうかは、現実への姿勢の問題であって、ドラマティックである現実とそうでない現実とがあるわけではない。が、ドラマティックな方法でアプローチされることによって活きる現実もある。この映画の現実がそうだ。
◆「暗い日曜日」というシャンソンは、これを聴いた人のなかから次々と自殺者が出たという話をきいて、そのむかし、レコードを探して聴いてみたら、全然そんな感じでなかったという印象を持ったことをあざやかにおぼえている。その後、何度も、このシャンソンを耳にしたが、その印象は変わらなかった。今回映画を見ても、この曲が死を誘う曲とは全く思えなかったが、そのかわり、なぜという疑問があらたにわいてきた。問題は、曲のなかにではなく、場と時代にあったのだろう。
◆映画は、現代のブダペストから始まる。老紳士が、車を連ねてとある街のレストランにやってくる。彼が来ることは、まえまえから知らされてあったとみえ、支配人が出迎え、うやうやしく挨拶する。老紳士は、建物を懐かしそうに見上げ、支配人に何かを語る」。支配人は、「ああ、先代のサボーですね」と応え、自分が二代目であることを示唆する。客が肉料理を「同じ味だ」と懐かしみ、楽士に「例の曲を」注文する。ふと、壁を見ると、目の大きな女性の写真がかかっている。それをじっと見ていた老人は、急に胸の苦しみを訴えながら、床に倒れる。心臓麻痺のようだ。映画の場面は、ここから、1930年代の同じレストランの室内へ移る。
◆時代がバックした最初の方のシーンは、レストラン主のサボー(ヨアヒム・クロール)と恋人のイロナ(エリカ・マロジャーン)が同じ浴槽のなかでじゃれているセクシーなシーン。この女優は、まだハリウッドでは有名ではないが、実に魅力的なアウラのある女優。この役には適役だ。彼女に惚れてやってくる客がいっぱいいる。ドイツ人のハンスもその一人で、愛用のライカで彼女の写真を撮る。彼はブダペストに経済学(?)を学びにやってきたが、思うようにいかず、ある日、彼は、ドナウ川に飛び込み自殺しようとするが、サボーに助けられ、ドイツに帰る。
◆サボーとイロナは、店にピアノを置き、ピアノ弾きを募集する。すでに締め切ったあとでやってきた一人の孤独そうな男アンドラーシュ・アラディ(ステファノ・ディオニジ)。哀愁を秘めたピアノのタッチに何かを感じこの青年を凝視してしまうイロナ。その日から、アンドラーシュは、その店の評判ピアノ弾きになる。彼が、イロナの誕生プレゼントして作曲したのが、『暗い日曜日』。
◆アンドラーシュは、ありがちなパターンでイロナに惚れ、イロナの方も彼に惹かれて行く。「(アンドラーシュは)君を愛しているらしいよ」とサボーが言うと、「どうやらあたしもよ」とイロナが言う台詞のやりとりがいい。そのとき、サボーは、この時代のリベラリストらしく、「愛の共有」を選ぶ。ある種のボヘミアン・カルチャーの一つでもある、2人の男と1人の美しい女との(三角でない)関係は、わたしの説では、ネオ・ボヘミアン・カルチャー復活のきざしのあるいま、流行ってくるのではないだろうか?
◆この曲を聴きに来たレコード会社のプロデューサの手でレコードになり、評判になるが、店に来たヘンデル財団の娘が、そのあと、レコードを聴きながら自殺したのを皮切りに、この音楽を聴いてから自殺するという事件が頻発する。
◆3年後、ドイツではナチが実権を握り、ハンガリアもナチの掌中に入る。久しぶりにサボーの前に姿をあらわしたハンスは、ナチの軍服を着ていた。サボーはユダヤ人である。「ぼくの国(ハンガリー)は、狭いからといって他国を侵略なんかしない」と冗談を言うサボーだが、昔の命の恩人に、(同僚の手前とか言って)敬意を表することを求めるハンス。やがて、彼の態度は命令調になっていく。次第に複雑になる彼の身辺。そういう状況のなかで、金でユダヤ人を脱出させる新商売を密かに始めるハンス。彼は、そのために、戦後、「1000人のユダヤ人を助けた」としてナチとしての過去を免除され、実業家になる。『シンドラーのリスト』もこういう目で見た方がいいのではないかと思わせる話。
◆アンドラーシュは、ハンスから「暗い日曜日」を演奏することを求められ、断り、自殺してしまう。「人は尊厳があれば生きられるが、なくなれば生きられない」という言葉を残して。
◆ドイツ人のナチス批判だが、ナチの高官になったハンスが、事務所で秘書に口述筆記をさせるとき、しばしば語法をまちがえる。すると秘書が、「ドゥーデン(辞典)によれば」と異議をとなえる。このような場面が何度かくりかえされ、その間にナチスの暴虐とハンスの悪辣な賄賂行為(ユダヤ人に金品を請求して代償にビザを与える)がエスカレートし、そのあげく、ハンスは、秘書に「ドイツ人はドゥーデンを忘れるべきだ!」と叫び、秘書を追放する。その秘書が、車に引き立てられながら、ハンスの台詞をオウム返しに叫ぶシーンがシニカル。
◆ハンスの悪辣さは、夫サボーの危機を感じたイロナが、助けを求めてハンスのところへ行くシーンで現わされる。ある意味でありがちなシーンなのだが、イロナとサボーとのいつくしみあう愛のシーンのあとなので、彼女がはらんだ子は果たしてどちらの子なのかという疑問が残る。最後の方に、戦争が終わり、彼女が大きなおなかをかかえてサボーの墓(彼は彼女が身体を賭けたにも関わらず収容所へ送られた)をまいるシーンがある。
◆場面が一番最初の時間にもどり、ハンスの死体が運び去られ、すべての客が去ったレストランで、息子がシャンパンを抜く。2つのグラスにつぎ、奥の部屋にもっていく。「ママ」という彼の声に女性の後ろ姿が映る。彼女は後ろを向いたままハミングする。曲は、いわずもがな「暗い日曜日」。
(ギャガ試写室)



2001-12-12

●バニラ・スカイ(Vanilla Sky/2001/Camereron Crowe)(キャメロン・クロウ)

◆東京国際フォーラムは、本来、事務イベントホールなので、映画上映には最低。緑の非常灯がコウコウと照り、見ずらいことおびただしい。いまどき緑の非常灯をつけているなんて、映画を上映する環境ではない。そのうえ、暖房が途中で切れるので、寒い。あちこちで咳。
◆まずニューヨークの俯瞰シーンと風の音。ぱっぱっと替わるショット。時称を頻繁に変える手法で、とまどう人もいたようだ。が、映像はなかなかいい。何といっても、トム・クルーズがいつものようにタイムズ・スクウェアに車でやってくると、それ以前から人気のないのが気になっていたのだが、全く人気がないのに愕然とするシーンはすばらしい。『ターン』でもそっくりのシーンがあったので、それ自体は新味がないとしても、こういう映像をロケで作ってしまう映画的なはったりがいい。
◆「夢はたくさんだ」という叫びがトム・クルーズからもれるが、9・11のあとでは、こういう叫びは、だれでも意識するところとなり、それほどのドラマ性はもたなくなった。マンハッタンが見渡せる映像で、WTCの2本の塔がはっきり見えるのは、皮肉。
◆ペネロス・クロスは、天使か小悪魔のような象徴的な存在として登場する(その意味では、この舌たらずの英語をしゃべる――なぜそんなに人気があるのかわからない女優も悪くない)パーティシーンに、ジョン・コルトレーンのモノクロのホログラム的立体がジャズを演奏しているのがある。これは、今後の映像世界を示唆している。空間に自由に動く立体を登場させる技術があたりまえになるだろう。
◆トム・クルーズが演じるデイヴィッド・エイムスのは、肩で風を切っている(親から引きついたのだが)出版社の若き経営者。この映画は、トムが女にもてもての人生が続かないという不安と同じに、出版が続くかどうかという不安とがないまぜになっている。だから、彼は、パーティーで、酔っ払い、「活字は復活するぞ」とどなったりする。自分に直面するのが怖いデイヴィッド。彼は、「グレゴリー・ペックの映画を見て育ち、それで父の像を自分のなかに作った」と」いう。そのツケとしてであるかのように、彼は、めくるめくシュールな映像のヴァーチャルな入れ子状の迷路に迷い込む。「目覚めさせてくれ」、「夢はもういい、リアル・ライフを」といっても、簡単には出られない。
◆「バニラ・スカイ」というタイトルは、出版社内にあるデイヴィッドの個室にジョニ・ミッチェルとともにモネの絵があり、彼が、「キャンバスからひろがるバニラ・スカイ」と口走るところから出ている。しかし、この色は、同じにある種のシラケの色でもあるのだろう。精神の空白。
◆ペネロスのロフトに日本の絵馬があり、そこに下手な文字が見える。彼女かトムが日本に来たときのみやげを流用したか? 彼女が、訪れたトムに、「ジェフ・バーガーとヴィッキー・カーとどっちが好き?」ときかれ、「両方いっしょにかけてくれ」と答える。ここで、「じゃあ」とか言って、2台のプレーヤーを使ってミックスしたりしたら面白かったのに。ここでの2人の会話は、どこか「現実館」がなく、サメている。しかし、これは、「現実」とヴァーチャルとの中間的リアリティをあえて表現しているためにそういう感じになっているらしい。その意味でペネロスは、やはり「現実」とは別の現実を代表しているのだ。他方、キャメロン・ディアスは肉体的「現実」を代表している。
◆タイムズ・スクウェアのシーンあたりから、この映画が、どういう結末をつけるのかが気になってくる。
◆9・11以後、アメリカではデイヴィッドの不安が全般化したが、はたしてアメリカ人は、ダイヴィッドのような夢から逃れることができるのだろうか? こした夢自体がこれまでのアメリカのツケであり、そう簡単には、それを逃れることはできない。むしろ、いま、アメリカでは、そういう夢を隠すためのもう1つの巨大な夢づくりが進行しているように見える。
(東京国際フォーラム C棟)



2001-12-06

●仄暗い水の底から(Honogurai mizu no sokokara/2002/Nkada Hideo)(中田秀夫)

◆スリラーとしてよりも、離婚した両親のもとで幼い子供がどのような意識を持つかという社会病理的な事例として見れる。
◆子供がいなくなるのではないかという親の不安、迷子になってしまうのではないか、親に捨てられてしまうのではないかという子供の不安を利用。
◆徳井優が演じるいいかげんな不動産屋が、わたしの同僚の桜井哲夫に似ていて笑った。
◆黒木瞳が離婚し、夫がすげなく、生活費を切り詰めるために入ったアパート(いまどきめずらしい「うさんくさい」アパート――時代は昔だから当然)の1階にある管理人室には、エレベータホールを監視できるテレビカメラがある。これが、やがて重要な機能を果たすのだが、最初実写の画面(カメラとモニターが結線されている)が出てきたのに、途中からハメコミ映像になるのは、映像の強度からして、残念。
◆最初から雨ばかりのシーンで、水が特殊な意味を持つことを強調する作り。雨が降るが、母親が迎えに来ないので、幼稚園で待ちつづける娘。それが2代続くという設定。娘時代のイメージが、魂が乗り移る、あるいはなにかが憑(つ)くときのようにだぶる。黒木にとっては、自分の過去と自分の娘とがだぶる。
◆多義的な解釈ができる構成は悪くない。黒木瞳とその娘が(離婚のため)入居したアパートの上階には、かつて行方不明になってしまった子供の一家が住んでいたという。その子がなぜいなくなったのかはわからない。屋上の給水塔に一人で登り、そのなかに落ち、いまだにその死体がそこにあるらしいという暗示もあるが、確実ではない。そのへんが、この映画のスリラーの要になっている。
◆最終的に、映画の大半を占めるドラマで登場する娘が成長し、高校生になった時代になり、そこから回想していたということがわかる。
◆松原郁子を演じる菅野莉央がいい目の表情をしている。
◆親子のしがらみと同時に親子関係の空虚さ、過去への郷愁と、すべてが去ってしまった虚しさの感じがよく出ている。
(東宝試写室)



2001-12-02

●ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(Godzilla, Mothra, and Kingchidorah/2001/Kaneko Shusuke)(金子修介)

◆社内試写を見る時間がなくて、ぎりぎりで「一般試写」に飛び込んだ。1枚の招待状で2名招待ということなので、さぞかし子供連れが多いかと覚悟したが、そうでもなかった。むしろ、老夫婦やオタクっぽい中年、ゴジラや怪獣にかなり入れ込んでいる若者が大半で、子供はぱらぱら。だから、CMと予告の上映中から、けっこう「わかっている」感じの反応が客席から反射するのだった。これは、入口で宣伝のマスコットを配っていた配給会社さんの思惑からはずれたのではないか?
◆エンド・クレジットに自衛隊の名は出てこなかった。「防衛軍」とは何か?
◆「平和ボケ」を批判するような口吻――「50年まえの恐怖」(ゴジラに東京が襲われた)を忘れている等々――もあるが、それほど右翼的ではない。
◆かつて「横浜銀蝿」を歌った宇崎竜童が「防衛軍」の上官で、ゴジラの侵入を横浜で食い止めるのだから、皮肉。が、彼は、ゴジラの襲来で両親を亡くした。妻はおらず(病死?)、娘と2人暮し。娘に朝飯を作るような今風の親。
◆ゴジラは、核実験の影響で生まれたので、密かに核実験をやっているような場所や放射能漏れが起きているような場所に出没する。その意味で、単に破壊的なだけの怪獣ではない。しかし、今回は、あアメリカの原子力船が事故をお越し、放射能漏れが生じたためにゴジラが来たにもかかわらず、一面で、「悪者」あつかいされているような感じがある。それに対抗する海の神・モスラ、地の神・バラゴン、天の神・キングギドラは、ゴジラ退治に協力しているようにも見える。ゴジラ・シリーズには、そのつど揺れ(保守の方向とラディカルな方向への)があるが、ラディカルな方向へ振った場合には、これらの怪獣は、神道や祖霊信仰や神秘主義な自然信仰、つまりは「右翼」思想・文化の象徴として、ゴジラによって駆逐されるべき存在だ。
◆これらの怪獣は、『護国聖獣伝記』に書かれているということになっているが、その場合その「護国」とは、どういう意味なのかが問題。右翼はいつも「護国」だからね。
◆「ゴジラには、太平洋戦争で死んだ人の魂が宿った」、つまりは英霊が宿った、という宇崎の台詞に会場から失笑が漏れたのは、観客の見識。なんでも、日本人が英霊の無念さを忘れたからゴジラが現れたとかで、この辺になると、もうゴジラも「転向」したのかいと言いたくなる。しかし、英霊がやどったそのゴジラを宇崎と防衛軍がやっつけるのだから、見方によっては、「英霊」を排除したことにもなる。このへん、問題をはっきりさせないから、わけがわからなくなるのだ。ずばり表現してしまえばよかったのに。
◆通常兵器は役に立たず(これは、ある意味では軍備批判とも受け止められる)、単身特攻隊のようにゴジラの口のなかに飛び込んでしまう宇崎。WTCへの旅客機突撃がひらめく。が、入口でくばられたマスコットは、ゴジラの口のなかに「ハム太郎」が入っているものだった。宇崎はハム太郎なのか?
◆キングギドラが空中でモスラをやっつけ、その粉が一面に散らばる華麗なシーンは、妙に感動的なのはなぜか?
◆バイクで暴れ放題の右翼少年がバラゴンによって土の下敷きになったり、コンビニで略奪をし、犬をいじめる少年たちが罰を受けるとか、月並みな勧善懲悪的シーンもある。月並みといえば、宇崎竜童の娘役(「BS DEGITAL Q」とかいう局で番組を作っている)の新山千春はいただけない。が、彼女がSONYのネットワークDVカメラで現場中継するマイクロTV的シーンは悪くなかった。
(東商ホール)



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