粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-01-30

●マルホランド・ドライブ (Mulholland Drive/2001/David Lynch)(デイヴィッド・リンチ)

◆久しぶりに映像の知的な探険を楽しめる作品。が、この日の「一般試写」(J-WAVE主催)に集まった観客は、上映時間が2時間23分だというアナウンスがあると、「えぇ~」という声を上げた。3時間の映画もめずらしくないのに、2時間で根を上げる観客とは? というより、自分で本当に欲して来ているわけではないのだ。これは、もったいない。
◆一方にヒッチコック的な、観客の好奇心をあおるシーンとプロットを置き、部分部分は徹底してセンシュアルかつファッショナブルに仕上げるリンチ・スタイル。
◆[エピソード1]タイトル/クレジットが出るまえに、荒い布地のようなもの(死体をアップで映しているひょうにも見える)が映る。一体これは、何の暗示か? が、すぐにクライム・ストーリー風の展開になる。真夜中のひと気のない道路を1台の車が走る。「マルハランド・ドライブ」という表示。殺伐とした野原が拡がる。後部座席の女(ローナ・エレナ・ハリング)の表情が気を引く。どういう状況でこの車に乗っているのかという疑問。いきなり車が止まり、運転席の男が女にピストルをつきつける。が、暴走族のような車が2台走ってきて、激突。車は横転するが、女だけがはい出してくる。彼女は、茂みを走り、丘を越え、車道を渡って、サンセット通りまでやってくる。そして、一軒の家の植えこみに身を隠す。
◆[エピソード2]一方で別のストーリが展開している。田舎町から一人の若い女性が両親に見送られてロサンジェルスからこのハリウッドにやってくる。衣服や持ち物の感じが50年代風のこの女性ベティ(ナオミ・ワッツ)は、女優志願(ベティ・デイヴィスのようになりたがっているから、その名になっている?)で、叔母が旅行に出るので、そのあいだ家に住まわせてもらう手はずになっている。
◆[出会い1]朝、植え込みのなかから出た女は、その家から老婆がタクシーで出かけると入れ替わりにその家に忍び込む。やがて、この家にベティがやってきて、大家の老女ココ(アン・ミラー)に会う。部屋(壁にリタ・ヘイワーズのポスターがかかっている)に入って、荷物を解きはじめると、バスルームにひと気を感じる。行ってみると、そこにあの女がいる。「リタ」と名乗るので、ベティは、叔母の友達だと思ってしまう。これは、リタ自身の告白(記憶を失っている→自動車事故で?)でそうではないことをじきに理解する。
◆ベティは、オーディションで成功をおさめ、女優の道が開ける。オーディションのシーンの「監督」や相手役がみなうらぶれた感じなのがいい。たしかに彼女は、猛烈うまい演技を(このシーンの設定とは無関係に感動的なくらい)するのだが、はたして彼女をオーディションした連中は、本当に彼女を活かした映画が作れるのか、ひょっとしてスケベな魂胆しかないのではないか・・・といったところ。
◆実際、この席にいたエイジェントの女性は、その監督を出し抜いて別の売り込み方をしようとベティを売れっ子監督アダム(ジャスティン・セロウ)の撮影現場に連れて行く。その少しまえ、ハリウッドの楽屋落ちのようなエピソードが挿入され、アダムはすでに登場している。それは、映画制作の資金を出す2人組との打ち合わせのシーンなのだが、そこでエスプレッソにめちゃうすさい男が登場する。出すほうは、「今度こそアメリカ1のエスプレッソです」とばかりの大げささで持ってこさせるが、問題の男は、一口飲んで、テーブルの上にナプキンを敷いて吐き出す。
◆リタが車の事故で記憶喪失に陥ったらしいことを知って同情したベティは、彼女が誰であるかをいっしょに探しはじめる。(2人の関係にはちょっとレズっぽい雰囲気もただうよう)。このへんから、リンチらしい「韜晦」が入り乱れ、観客は翻弄される。いわゆる「夢」と「現実」との区別があいまいな映像が続き、たとえば、2人が見た「死体」が、あるいは、真夜中に開かれている劇場のパフォーマンスが、はたして(映画のなかの)「現実」なのか、それともベティの、あるいはリタの「夢」のなかの出来事として提出されているのかが混濁してくる。むろん、それは、見る側が決めなければならないことだし、また、別に決めなくてもよい。
(クロスタワーホール)



2002-01-28

●ビューティフル・マインド (A Beautiful Mind/2001/Ron Howard)(ロン・ハワード)

◆「非協力ゲーム理論」の発明者で、経済学におけるゲーム理論の導入の基礎を築き、ノーベル科学賞を授与されたジョン・F・ナッシュの半生を描く。彼は、若くして独創的な仕事をしたが、やがて老年まで分裂症(この言葉は、今後使えなくなるらしい)に悩む天才的な数学者。
◆ナッシュ役のラッセル・クロウよりも、彼の妻アリシアを演じるジェニファー・コネリーのうまさに驚いた。彼女は、たぶんオスカーにノミネイトされるだろう。
◆二人とも20代から老年までを見事に演じるが、これには、メイキャップ・アーティストのグレッグ・キャノム(Greg Cannom) の絶大な力が働いているにちがいない。
◆ドイツ表現主義において、「かのように」の表現が、即物的(ザッハリッヒ)な表現に変わったということが言われたが、この映画は、ナッシュの外部意識と内部意識を切れ目なしにに見せる。彼は現実であるかのように幻想を見るというのではなく、すべてを同じ意識のなかで見るのである。そして、彼が分裂症を克服していく過程ではっとさせられるのは、分裂症患者にとって、「健常者」には「幻想」と見えることがリアリティの階層上で同質の現実性をもっているということである。ナッシュは、結局、そうした「幻想」との共存の技術を身につける。
◆映画の前半とりわけアリシアに出会うまでの映像は、ほぼナッシュの目から描かれる。そして、彼が秘密の諜報組織の建物として知覚している場所にアリシアが訪れるとき、そこが「廃墟」であるとして描かれる。「普通」の思考では、ナッシュは、「幻想」を見ていたのであり、アリシアが愕然とするその「廃墟」は、廃墟以外のなにものでもない。しかし、これは、知覚やコミュニケーションが、「構造的カップリング」だとするマトゥラーナ=ヴァレーラ理論によれば、決して「普通」ではないのである。犬にとって世界が人間とは同じには見えないように、分裂病者は別の知覚をしているのだから。
◆前半で、ナッシュが、「非協力ゲーム理論」の発明、その業績を認められてMITのウィラー研究所への就職、そこでの暗号研究、そして「国防省の諜報員」(エド・ハリス)との新たな関係、より機密度の高い暗号解読の仕事への深入り・・・と進むので、この映画は、すぐれた数学者が、冷戦が高まる状況のなかでいかに国家機密にまきこまれていくかが描かれるのかと思った。クロウはうまいが、これじゃ、評判ほどの映画ではないではないか、と。むろん、優れた学者たちがそうした代償を払わされたという事実はあるし、それも、この映画の副次的なテーマではある。しかし、話はそんなに単純ではないことが、大分たって明かされる。観客をハメることも映画の機能だが、これは見事。
◆ナッシュが1947年にプリンストン大学に入学したとき、寮のルームメイトとなるチャールズ(ポール・ベタニー)は、終始ナッシュの「天才」をたたえ、彼の理解者になる。だが、やがてわかるのは、彼の寮は一人部屋であったということだった。人は、孤独であればあるほど、自分ノヴァーチャルな友人を作る。それは、別に異常なことでもなんでもない。この映画は、「異常者」を「健常者」の側から見ていない点でもユニークだ。
◆ナッシュは、パター認識の天才で、数字やイメージ、物の動きをじっと見ているだけで、その反復性や法則をつかんでしまう。彼の畢生の「非協力ゲーム理論」も、彼がMITの学生バーで、3人の女性をめぐる男たちの反応を観察していて思いついたという。ウィラー研究所での暗号の解読の業績もそうして達成された。だが、彼は、その才能のために、新聞を見ていてもそこにパターンを見出してしまい、パラノイアに陥っていく。むろん、ここには、彼をとりまく研究環境の過剰な競争と冷戦時代の社会的パラノイアも影響していた。
◆明らかに、ナッシュは、ポスト冷戦とポスト競争主義の時代を先取りしていた。彼の病は、冷戦と競争の時代の代償だった。1960年代まで冷戦や経済を支配してきたのは、アダム・スミスの「競争理論」だった。競争以外に国家も個人も生きのびる原理がないのだった。しかし、ナッシュの「非協力ゲーム理論」は、そうした競争の原理を軽やかに越えてしまう。一人が際立ったブロンド美人の女3人組がいたとする。男たちは、その美人をめぐって他の男と競争する。その結果、男たちはブロンド美人を奪い合い、誰も女友達を得られない。他の2人からは、自分たちが本命ではないと思われるからである。しかし、「もし、男たちが自分の利益とグループ全体の利益を同時に追求して、ブロンドをあきらめてほかの2人の女性を口説いたならば、誰もがいずれかの女性を手に入れることができる」。70年代に流行ったレスター・サローの「ゼロ・サム社会」という概念は、ナッシュの理論の低次な「剽窃」にすぎない。
(東京国際フォーラム)



2002-01-25

●ソウル (Seoul/2001Nagasawa Masahiko)(長澤雅彦)

◆キムチを日本人が作っても「本場」で作ると違うというような作品。しかし、日本製であることにはかわりがない。日本的なものは、逆に「自然」になり、韓国的なものが絵に描いたような人工的なものになってしまった。韓国の実力俳優チェ・ミンスも、ここでは渡哲也みたいになってしまう。
◆「逃亡犯を韓国まで護送しに来ていた警視庁所属の新米刑事・早瀬祐太郎(長瀬智也)は、成田行きの飛行機に乗り遅れそうになり、全速力でソウルの街を走っていた」とプレスにはあるが、そういう前提を理解させる以前に、早瀬は、わけもかわらずソウルの街を右往左往しているうちに、現金輸送車強奪の現場に巻き込まれ、犯人の一人(プレスには名がないが、津野海太郎によく似た顔)を追いつめ、格闘している最中に犯人が自分の銃で死んでしまう。この間のテンポは速く、ほとんどリポビタンDのCM風で、わけがわからない感じだが、映画の出だしとしては悪くない。
◆いつのことからか始まったパターン。逃げる車が遊歩道などに乗り入れ、人が逃げ惑う。道端に出している露店などを車がなぎ倒し、それを追う車があとに続く。この映画の冒頭のシーンは、まさにこのパターンだ。そろそろこういうのはやめにした方がいいのでは?
◆犯人を死なせた張本人であり、逃げた犯人の顔を知っている早瀬はソウルの警察に連れていかれるが、そこにいきなり登場する田中裕子を若くしたような女性がそれまでのテンポをダウンさせる。通訳という設定だから、日本語がおかしくてもいいのだが、この役者の問題は、日本語ではなく、演技そのものが稚拙で、台詞が棒読みなことだ。
◆刑事部長のキム(チェ・ミンス)は、早瀬の顔を見るなりいきなりこぶしを固めて早瀬の頬を殴りつける。猛烈な音。早瀬は倒れるが、その後顔が腫れる気配はない。この刑事部長、何かというと早瀬を殴る。これは、『GO』の山崎努の真似ではないだろうか? 早瀬がキムより年下なのに面前でタバコを吸ったというので殴る場面もある。キムは、たかだか40代で、しかも日本にいた経験がある。そいつが、昔の韓国人のステレオタイプを披露する。リアリティがぐんと落ちる。
◆最近、韓国を紹介するばあい「礼儀」の国といった強調の仕方が目立つ。たしかに日本にくらべればそうかもしれない。が、それは、いずれ変わるはずだし、国民性のようなものとして固定するのはばかげている。むしろ、そういう点を日本で強調する場合、古い「礼儀」の復活を求めるような反動的な発想に根ざしていることが多い。反動したければ、他国を利用するな。
◆最後の、格納庫からKALのジャンボジェットが登場するシーンもそうだが、魂胆がミエミエのシーンというのは感興を呼ばない。早瀬がよく行く屋台の店の子供も、ここで出し、早瀬になつかせる以上、どこかでこの子が危機にさらされるシーンがあるな、と思うと、それがちゃんとある。これではダメだ。
◆頻発する銀行襲撃、「民族の夜明け」という過激派、警察のコンピュータに頻繁に侵入するハッカー、日本の外務大臣の誘拐、日韓関係を心配する大統領が登場するシーン等々、道具立てはおおげさでが、それらが結局、一人の悪役に収斂され、一つも活かされない。
(東宝試写室)



2002-01-24

●シッピング・ニュース (The Shipping News/2001/Lasse Hallstr*?m)(ラッセ・ハルストレム)

◆映像のテンポが他のハリウッド映画とは全然ちがう。冒頭から、シュールレアリスム的な映像をときどき挿入するのは、予想しなかった。クォイルが子供のとき、暴力的な父親から水泳を教えられるとき、水に溺れるのを放置された水中の恐怖→その表情が連続的にディストートされ大人の顔(ケビン・スペーシー)になる。
◆フォークナーほどではないが、根の深い陰惨な過去を負った人間たちが描かれる。クオイル(ケヴィン・スペーシー)は、自分に自信のない男として描かれる。そんな彼のまえに、恋人と別れてやけっぱちになっている女ペタル(ケイト・ブランシェット)があらわれ、彼の車に乗り込んでくる。しゃべりまくったあげく、「これからファックして暖まらない?」と、クオイルにはそれまで経験も想像もしたことのない態度をとる。2人はやがて結婚し、 娘が生まれるが、すでにこのころには、ペタルは、別の男を作り、娘を夫にまかせ、堂々とデイトをする始末。ドラマではありがちのパターンだが、ブランシェットは、なかなかうまくそういうタイプの女を演じている。
◆クオイルの不幸は、さらにエスカレートする。両親が、自殺したのである。このへんふるっているのは、自殺するにあたって、父親は、クオイルの留守番電話に「もうすぐ死ぬことにした」という旨の電話を入れるくだり。こういうのって、ちょっとやってみたいではないか。が、まじめな息子は悲嘆にくれる。さらなる不幸は、さえないうえに、滅入っている(当然だが)夫を避け、夫と娘を残して男と出て行く。が、しばらくして警察から電話が入り、彼女が交通事故で死んだことを知る。さらに、彼は、妻が密かに自分の娘を養子として6000ドルで売り飛ばそうとしてもいたことを知る。
◆ここまで来ると、もう、それまで住んでいた土地を離れたくなるだろう。わたしの友人は、義理の息子がピストル自殺したとき、ニューヨークには金輪際住むまいと決心し、妻とともにテキサスに移った。クオイルは、故郷のニューファウンドランド島へ帰ることにする。折しも、叔母のアグニス(ジュディ・デンチ)が立ちより、故郷への帰還をすすめていた。
◆ニューファウンドランドの漁村クリッククロウでクオイルは、新たな人生を始める。地元の零細(しかし唯一の)新聞社で仕事を見つけるくだりは、小説や物語にありがちなパターンだが、心暖まる。会社を編集長(ピート・ポスルスウイト)にまかせっぱなしで海釣りばかりしている社長ジャック(スコット・グレン)に目をかけられ、それまで記事など書いたことのないクオイルが、連載(そのタイトルが映画の題)をはじめるようになるくだりも、人間の生きがいや、生きている意味がこういうこと(人に認められること、というより、他人からまなざしをむけられるかどうかというような些細なこと)に大きく依存していることを感じさせる。逆に、些細なことで他人の評価を受けなかったことが、その人物の人生を変えてしまうようなこともある。
◆この映画を見て思うのは、アメリカ的競争原理とは異なる生活感覚が支配する世界がまだここにあるということ。これは、スウェーデン出身のラッセ・ハルストレム監督の目の違いでもある。ジュリアン・ムーアは、その意味で「アメリカ女」だけでない要素を出せる女優なのだろう。
◆クオイルの両親、祖先、叔母にまつわるどろどろした歴史のしがらみのようなものは、フォークナーが描くアメリカ南部の世界にもあるが、ここでは、もっと時代のスパンが長いような気がする。
(丸の内プラゼール)



2002-01-23_2

●エネミー・ライン (Behaind Enemy lines/2001/John Moor)(ジョン・ムーア)

◆うん、やはり今日はわたしの神経がおかしいのだろう。隣の男の動きが気になってしかたがない。というのも、その人(決して若くはない)が15分おきぐらいにわたしの腕にぶつかるのだ。わざととは思えない。上映待ちのあいだ新聞を読んでいたが、そのページのめくり方がすごくワイルドで、そのたびに大きな音をたて、腕を激しく動かしていた。要するに傍若無人な人なのだろう。が、今度も、わたしが好んでいる席で、移動するのは嫌だった。不運なわたし。
◆領海侵犯とか、国境侵犯とかいう言葉はもう死語になったらしい。U2機事件のころなどは、たった(?)1機のスパイ機がソ連の領空を侵犯しただけで、世界問題になった。いまは、国連による「平和維持」という名のもとに「合法的」に行なわれる。この映画では、ボスニア上空で偵察撮影をしていた特務曹長レイガート(デイビッド・キース)とパイロットのスタックハウス(ガブリエル・マクト)の偵察機が、セルビア人の地対空ミサイルの攻撃を受け、墜落する。セルビア人側は、それなりに見られてはまずいことをやっていたということになっている。が、この戦闘はどっちもどっちという感じがして、アメリカ側に同化することができない。セルビア側は、「悪辣」で「狡猾」な軍人を演じるウラジミール・マシュコフの名演技もあって、最初から、観客の同化を退けるのだが、そうかといって、その「敵」のやることに素直に賛成はできなし、レイガートらが助かっても、ほっとはしないのだ。
◆この映画はただの「サスペンス」にすぎないから、その政治的文脈のいいかげんさを問題にしても仕方がない――というような論説はおかしい。マシュコフの演技が浮いてしまったのも、その政治的な受け皿が単純すぎたからである。
◆『スパイ・ゲーム』でもそうだったが、アメリカは、こういう個人レベルでの判断が「公的」な事件の鍵をにぎっていることが多い。9・11事件の背景も、意外に「遺恨」的な要素があったかもしれない。その意味で、アメリカが国家的にやることを、国家のレベルで引き受けるのは馬鹿げてもいる。
(FOX試写室)



2002-01-23_1

●ノー・マンズ・ランド (No Man's Land/2001/Danis Tanovic)(ダニス・タノヴィッチ)

◆映画が始まるまでのあいだの出来事。老人がその頭部から発する臭が耐え難いというのを差別と言うだろうか? たしかにわたしは、この日神経が少しいらだっていた。臭いに敏感になっていたのかもしれない。が、あの臭いはどうしても好きになれない。ましてその老人が偉そうに「このごろの映画はカタカナのタイトルばかりでけしからん」とかいう話を大声で数席先の知りあいらしき人としゃべっているとなると、その不快さも倍加する。そして、こういう人にかぎって、映画の最中に紙をがさがさいわせてアメをなめたりするのだ。どうして席を変わらなかったかって? その席がわたしの視角に一番合っている場所だったからだ。もう一つ気になったのは、映画が始まっても、スクリーンのすぐそばのライトが左端だけ点灯したままだったこと。映写技師が消し忘れたのだろう。だが、映画は、そんな環境を忘れさせるパワーをもっていた。
◆こういう政治的サチールの濃厚な映画は、アメリカではできない。イタリア/ベルギー/イギリス/スロベニアの共同製作にして可能になった。問題の地雷に「EU製」のマークが付いているのも皮肉。
◆1980年代から1990年代の初めにかけて日本によく来ていたブレヒト学者のダルコ・スーヴィンとは、1993年に電話で話をしたのを最後に音信が途絶えている。彼は、たしかクロアチアの出身で、家族は、あちこちに散らばっていた。英語はむろんのこと、10カ国語ぐらいをあやつる彼の背景には、幼いことから家庭のなかで数か国語が飛びかっているという環境の影響でもあった。彼は、最後に話をしたとき、前年から始まったセルビア人、ムスリム人、クロアチア人のあいだで泥沼に落ち込もうとしている「紛争」を嘆いていた。たしか彼は、「愚かなセルビア人」という言葉を使ったと思うが、理知的な彼には、歴史の愚行を理解するすべがないようであった。彼は、いまどうしているだろう?
◆霧だろうか、青くかすんで視界がぼんやりしている空間でささやくようなしゃべり声が聞こえる。何かと思ったら、霧のなかでボスニア軍の兵士たちがひそひそ話をしているのだった。そのうちセルビア側から砲撃があり、チキ(ブランコ・ジュリッチ)は塹壕に逃げ込む。仲間のツェラ(フィリップ・ショヴァゴヴィッチ)は、倒れて動かない。チキも、そこでじっとしているしかない。やがて青っぽい映像が、カラーらしい映像になっていく。朝になり、霧も晴れたのだろう。その時間の経過を画面の色の変化で納得させる。太陽が美しく昇る。一見のんびりした、戦争などとは縁のなさそうな野原。カメラがセルビア側に移り、攻撃をかけた塹壕の確認のために2人の兵士を送り込む。
◆2人は、塹壕で倒れている兵士を見つけ、一方の老獪なセルビア兵(ムスタファ・ナダレヴィッチ)がツェラの体の下に「ジャンプ型地雷」を仕掛ける。が、そのとき、ものかげからチキが現れ、そのセルビア兵を撃ち殺し、もう一人(ニノ=レネ・ビトラヤツ)を負傷させる。そのとき、ツエラが意識をとりもどすが、2人はあわてて彼を静かにさせる。彼の体の下に地雷が仕掛けられているからだ。互いに敵どうしだが、話をしてみると、共通の女友達がいることがわかる。このへん、この戦争の不条理を示唆するに十分だ。
◆この塹壕は、ボスニア軍とセルビア軍との非干渉地帯(ノーマンズ・ランド)に位置していた。そのことを知った二人は、白旗を上げる。すると、セルビア軍は、国連防衛軍に救助のおはちを回す。このへんも、「国連防衛軍」の皮肉な存在が茶化されている。
(映画美学校第2試写室)



2002-01-21_2

●穴 (The Hole/2001/Nick Hamm)(ニック・ハム)

◆新橋から地下鉄で京橋へ。ちょっときついスケジュール。またしても15分まえになるだろうが、今度はそう混んではいないだろう――と思ったら、意外に80%席が埋まっていた。M氏の姿が見えたので丁重に挨拶したが、不機嫌な感じだった。ストリーミング放送のために電話すると言って、それっきりにしているので、怒っているのかもしれない。四方八方へ「ご無沙汰」で、わたしはそのうち亡命しなければならないかも。
◆バランスは悪いが、かつてイギリスのチャンネルフォーなどが作っていたブラック・アイロニーのただよう作品からユーモアを抜き去ったような作品。スティーブン・キングから勧善懲悪性のフィルターを排除したような作品とも言える。
◆作風は最初、「薮の中」風だが、多様な解釈を放置したまま終わらず、次々に転調し、「最終的な事実」に収斂する形をとるので、むしろ、リズという女子学生(ソーラ・バーチ)の悪魔性が強調された形になる。
◆イギリスのパブリック・スクール。もてる生徒ともてない生徒。スポーツに強くハンサムな男子生徒はヒーロになり、ファッション・モデルのような肢体の女子生徒はクインになる。自分をブスだと思っているもてない女子生徒は計画した。目的は、彼らに、とりわけ、自分が最もあこがれるマイク(デズモンド・ハリントン)に「アイ・ラブ・ユー」を言わせること。
(メディアボックス)



2002-01-21_1

●オーシャンズ11 (Ocean's Eleven/2001/Steven Soderberg)(スティーブン・ソダーバーグ)

◆雨天だったので少しあなどった。出発が遅れ、15分まえにワーナーに着くと、案の定、座席の空き点検中とのこと。入口で列を作ることになったが、日本で嫌なのは、列を作っても、必ず途中から割り込みがあり、正確な順番というものがわからないことだ。このときも、わたしが一番最初だと思っていたら、気づくと、3人わたしのまえにいた。どこから現れたのか? これでは、4席ないと入れない。結局、「4人だけ」ということで入場。ところが、入ってみると、席がない。どこからかまた何人か入ってきて、ささっと手品のように持ち物を席に置いたらしい。いっしょに入った3人もうろうろしている。最終的にワーナーの人が階段に椅子を出してくれたが、どさくさでプレス・キットをもらうのを忘れた。
◆ジョージ・クルーニーはある種の「職人」である。非常に頭のいい人だが、エンターテイナー的な決め方をこころえており、彼が出ると、その場が「洒落た」感じになる。その分ある種の絵空事になるのだが、ハリウッド映画がいくら力んでみても、映画の世界は所詮ヴァーチャルなものなのだから、それなら最初からそういう線で作った方がいい。クルーニーは、そのことをよく知っている。
◆冒頭、製作会社のロゴのバックで人声が聞こえ、クルーニの顔が映る。画面はブルーがかっているので、何らかの(時間的ないしは心理的)区別を示唆しているのだろう。それは、出所に際する確認の面接で、彼は、「ダニー・オーシャン」と名乗り、最後に「出所したら何をするつもりか」と訊かれる。それに対して答えたのか、黙して語らなかったのかわからない意味ありげなクルーニーの表情を映したまま次のシーンに飛ぶ。彼は街を歩いている。画面は黄色味を帯びる。この分でいくと、ソダーバーグは、いくつも色を変えた場面づくりをするのかなと思ったが、そうではなかった。
◆『60セカンズ』(2000-07-24)でも書いたが、何かのことを起こすときに人を集めるアメリカ独特のやり方あるいは独特の映画描写のスタイルがある。「コラボレイション」の方式と言っていいだろうが、それは、映画のなかだけの話ではなくて、実際に、論集を作るときもシンポジウムを組むときにも共通したスタイルだ。出所したダニー(クルーニ)が、まず、最も信頼する仲間のラスティ(ブラッド・ピット)に合い、相談しながら、計画するヤマのスタッフを決めていく。おそらく、この映画も同じようなやり方でキャスト/スタッフを決めて行ったのだろう。抜擢の仕方が適切だから、job offerされた当人の反応も自負心にみちている。
◆老齢の風格のあるキャラクターを演じているなと思ったら、つねにサングラスをかけているのでわからなかったが、役者はエリオット・グールドだった。ダニーの計画に資金を提供する黒幕のルービン役。ほかに、カール・ライナーがヨーロッパの武器商人と名乗ってカジノの「帝王」テリー(アンディ・ガルシア)をだます詐欺師を演じる。爆破のプロ・バシャーはドン・チードル、カジノのカード・ディーラーで仲間に加わるフランクはバーニー・マック。シカゴのスリ師をマット・ディモン、金庫にもぐりこむ中国系の軽業師を実際に北京雑技団のシャオボー・クイン(いつも笑いをたたえた表情が映画初出演とは思えない――彼が中国語でぺらぺらとしゃべると、すかさずブラッド・ピットが英語で受け答えするシーンがおかしい)。なんでという感じもあるが、ダニーから去り、テリーの恋人になっている女(ラスベガスの美術館長だという)テスをジュリア・ロバーツが演じる。
◆アメリカ映画のパターンとして、アメリカ人が嫌いそうなタイプを敵にし、そいつをやっつけるプロセスを描くというのがある。この映画はまさにそのパターンを追っており、ソダーバーグにしては、定式にのっとった娯楽大作をめざしたようにも見える。それは、成功しているが、もう少し魂胆がありそうである。
◆オーシャンのグループは、カジノのある建物のなかにあるホテルに拠点をおき、そこにカジノのセキュリティ・コントロール・ルームの監視システムをループする。ハッカーのリビングストーン(エディ・ジェイミソン)がに忍び込んで工作したのである。監視係は、そのために、操作された映像にいっぱいくわされるはめになる。このへんは、『スコア』や『スナッチ』の監視ビデオの使い方よりも手がこんでいて面白い。
◆台詞がばつぐんにしゃれているのは、1960年のバージョンのおかげか? わたしは、フランク・シナトラ一家が出ている『オーシャンと11人の仲間』を見ていないのでわからない。「何のときか忘れたが、昔の恩は忘れないよ」(ルービン)。(ピンチという電磁波発信装置を使えば、停電にして)「ヒロシマにせずに17世紀にする」(バシャー)、よりをもどしたテスにダニーが、テスの指に彼がかつて与えた結婚指輪を発見して、「指輪は売っぱらったって言ったじゃないか、嘘つき」と言うと、テスが「泥棒」と言う。「ライアー(嘘つき)」、「シーフ(泥棒)」という2語の台詞だし、他の台詞も凝っているわけではないが、とてもスタイリッシュで気がきいている。
(ワーナー試写室)



2002-01-17

●ロード・オブ・ザ・リング (The Lord of the Rings/2001/Peter Jackson)(ピーター・ジャクソン)

◆大学にパフォーマーが10人ちかく来て、熱のこもったパフォーマンスをやってくれたのだが、十分な慰労もせずに、わかれ、有楽町に「飛ぶ」。ヘリを使ったわけではなく、飛ぶように駅まで歩いたのだ。が、予想に反して、時間まえに開場が始まったらしく、待たずになかに入れてしまった。いい席は埋まっているが、前の列は空いている。この劇場は、一番前でも、左右の端でも、なんとか見れるように出来ている。新しい設計なのだ。むろん、上映中、非常灯は消される。しかし、こういうスペースで、映画の途中にケータイ・メールを確認している女性がいたから驚いた。わたしの隣の女性なのだが、スクリーンの燐光が気になって(人間の目というのは、横も見えるのです)しかたがないので、ついに、「やめてくれませんか」と言ってしまった。
◆こういう客がいるということは、それだけ、この映画が、引きつけるものに欠けるということかもしれない。実際、この人がメールを見ていたのは、後半になって、展開がダレてきてからだった。
◆マイケル・ライアンがメールで、近々息子とこの映画を見にいくのが楽しみだと言っていたので、もう少し面白いのかと思ったら、全然だめだった。原作はトルーキンの『指輪物語』だが、あれってこんなにキリスト教的だったかなと思わせるほど、異教徒には辟易するようなトーンである。
◆基本的に、非常にアメリカ的パターンだと思う。だいたい、「全世界を支配するリング」なんて発想自体がアメリカしか考えないし、アメリカでしか受けない発想だ。
◆どこかに世界を滅ぼそうとする者がいる。しかし、なぜそうなったかは問わない――ちょうど、オサマ・ビン・ラディンがなぜアメリカに反抗するかを問わないように――とにかく、「悪いやつ」がいて、それがわけもわからず襲ってくる。これも「ゾンビ」で描きつくされたこと。そこで、その「悪」と闘う者が出て来る。度重なる「犠牲」。そして、そのなかから選ばれた「勇者」がその「悪」に勝つ。とにかく、最初(歴史)を問わないから、はじまりがあやまっているかどうかを反省する機会は永遠にない。
◆この映画のアメリカでの評判は抜群にいいのだが、これは、歴史のなぜを問わないというアメリカの基本的風潮とぴったりであるというだけでなく、原作を巨大な「ビデオゲーム」にすることに成功したからだろう。ピーター・ジャクソンは、原作の3部作のすべてを取り終えているそうだが、とうとつな終わり方をする最終シーンも、ゲーム好きからすれば、慣れたことなのかもしれない。
◆絵柄の非都会的な田舎くささががまんならない。「平和」な村。そこには「清らかな小川」が流れる。その「平和」が侵されるという構図。もうたくさん。
◆「世界が第2に暗黒時代に入った」という台詞は、あたっているね。しかし、それは、外部の「敵」が襲ってくるからではなくて、内部から腐食しているからだというところを言わないのがアメリカ式。
◆ピーター・ジャクソンの名は、「モキュメンタリー」の傑作『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(Forgotten Silver/1995) で知っていた。が、ニュージーランドの「コリン・マッケンジー」なる「巨匠」がいて、すごいことをやっていたのだというファイクのニュージーランド映画史をでっちあげてしまったピーター・ジャクソンと、くそまじめに映画を作っている(ようにしか見えない)『ロード・オブ・ザ・リング』のジャクソンとがなかなか一致しなかった。そして、わたしには、どうしても、この映画に『コリン・マッケンジー』の視点を見出すことはできなかった。ジャクソンは、『コリン・マッケンジー』で見せたフェイクの腕前だけをあざとく事業化したように見える。
◆ほとんど「アメリカ映画」のトーンなのだが、ジャクソンがニュージーランドの人であるということは、この作品を別様に見る手がかりになるかもしれない。
(丸の内ピカデリー1)



2002-01-15_2

●ミモラ (Hum dil de Chuke Sanam/Straight from the Heart/1999/Sanjay Leela Bhansali)(サンジャイ・リーラ・バンサーリ)

◆歩いてすぐなので試写のハシゴをする。普通、3時間以上の作品をハシゴで見る機会を作るのは難しい。社内試写は、通常、13時、15時半、18時というパターンだから、その長さだと、18時以外はどこかで時間をはみ出してしまうからだ。この会場も、今日はがらがら。
◆インド映画特有のシュールレアルでユーモラスなとっぴょうしもなさは随所にある。イタリアからやってくることになっているインド系イタリア人(父はもはやなく、イタリア人の母がイタリアにいる)サミル(サルマーン・カーン)は、砂漠を歩いてやってくる。これは笑える。一体その砂漠はどこ? むろんどこでもいい。サミルが故郷へ帰り、「イタリア」のシーンになるが、それは、どうもイタリアの雰囲気ではない。レストランでは、ハンガリーの踊りをやっている。はたせるかな、クロージング・クレジットによると、ハンガリーで撮影したという。だが、これもこの映画ではユーモアのつもりで見るといい。
◆サミルは、インド音楽の巨匠(ヴィクラム・ゴーカレー)の弟子になるために来る。家に来た日の異文化体験のどたばたは、インド社会の近年の動向を示唆するのか? やがて師の娘ナンディニア(アイシュワリヤー・ラーイ)に恋し、次第にナンディニアの方もサミルを愛するようになるが、この「自由恋愛」は、インドの標準からはずれる(として描かれる)。母親は、彼女の嫁ぎ先を決めている。サミルはイタリアに帰り、ナンディニアは絶望して自殺未遂を起こす。やがて彼女は、すべてをあきらめたかのように母のすすめる相手ヴァンラジ(アジャイ・デーウガン)と結婚する。
◆インド映画に典型のすぐ歌うシーンになるパターンがあまり面白くないが、後半から「現代的」な展開になり、ひきこまれる。ヴァンラジは、有能な父親とは裏腹に、いつも負けてばかりいる弁護士だが、家父長主義やマチズモ、世間体や見栄に価値を見出さない「新しい」インド人だ。だから、結婚したのに、いつも憂鬱で自分に引きこもっているナンディニアに真意をただす。告白をきいて一度は怒った彼だが、彼が選んだ選択は、彼女をイタリアに連れて行き、愛する人に会わせること。
◆しかし、2人の関係は、イタリアでサミルを探すうちに、変わってくる。「愛を育てることを教えてくれた」夫の価値を再発見する。ありがちなパターンだが、インド映画は所詮こうしたメロが大好きなのだ。最後のシーンは華麗な踊りと天空に花火がきらめく。
◆「得るだけではなく、与えるのも愛」、献身の愛を説くこの映画は、「現代的」な男性を登場させながら、その「現代性」をアメリカ的なレベルを越えさせる。アメリカ映画は、依然、奪う愛を描きる続ける。だが、他方で、この映画は、結局において、現状維持のエートスを植えつけるのにも役立つ。
(ギャガ試写室)



2002-01-15_1

●サウンド・オブ・サイレンス (Don't say a word/Gary Fleder)(ゲイリー・フレダー)

◆作品の出来はよく、全国上映なのだが、なぜか、今日は客が少ない。連休明けで忙しいのか?
◆最初ブルーの映像なのは、時代の係数がかかっているため。編集はなかなか「秀才的」(天才的とは違う)。
◆周到に計算して奪った宝石を仲間にだまし取られ、逮捕されてしまった首領コスター(ジョーン・ビーン)が、10年後に出所し、その仲間を追い、宝石の隠し場所を明かさない彼を殺し、その情報を託されているらしい彼の娘エリザベス(ブリタニー・マーフィー)を追う。エリザベスは、精神病院に患者として逃げ込む。スリラーとしても面白いが、速く短いショットで示される父娘の逃避行のなかのワンペアレントな親子関係と、やがてこの過程にまきこまれる精神科の医師ネイサン・コンラッド(マイケル・ダグラス)の親子関係とが対比的に描かれ、ファミリードラマとしての側面も持つ。
◆マーフィーは、すでに『17歳のカルテ』で精神病の患者の役を見事に演じているが、今回は自分を守るために患者を演じているという屈折した役をコンヴィンシングに演じている。この映画では、役者の演技はみな手堅い。
◆ネイサンは、同僚サックス(オリバー・フラット)から、手を持てあましている患者エリザベスの治療を頼まれる。だが、患者に接してすぐ、彼のもとに脅迫の電話が入る。娘ジェシー(スカイ・マッコール・バーツシアク)を誘拐した、妻アギー(ファムケ・ヤンセン)(スキーで足の骨を折り、家で寝ている)を監視しているという。どこかに監視カメラが設置されているらしく、その一部始終を手に取るように知っている。窓のカーテンを閉じることも禁じられる。ここからネイサンの探究と闘いが始まる。
◆この映画は、同時に進行するいくつかの線がある。犯人の線、ネイサンの線、逃避行の親子、そしてニューヨーク市警の女性刑事サンドラ(ジェニファー・エスポジート)の捜査の線である。彼女は、ハドソン河に浮いた女の死体の捜査を通じてネイサンと出会うことになる。彼女が鑑識の男とやりとりするシーンにはニューヨークっぽいユーモアがあり、ディテールが生き生きしている。
◆ここでも、ハリウッドのファミリー・スリラーものを構成する典型思想――家族を脅かす者は殺してでも家族を守るべしという――がストレートに出ている。マイケル・ダグラスの顔は、ふだんでも「復讐」に燃えるような目つきをしており、こういう作品にはうってつけ。映画が終わってみると、登場人物の多くが、何らかの形で殺人をしていることに気づく。
(FOX試写室)



2002-01-11

●ラットレース (Rat Race/2001/Jerry Zucker)(ジェリー・ザッカー)

◆試写状やプレスのデザインの雰囲気など、伝わってくる宣伝情報の雰囲気は、えらく軽薄で、一瞬敬遠したくなるのだが、アメリカでの評判が気になって、足を運んだ。決して悪くない。古典的な(ハリウッドの「良心派」が70年代にかならず注入したような)「社会批判」のフレイバーもちりばめ、観客の意識を「現状」について考えることを示唆する。
◆ふと『ブルース・ブラザース』を思い出したのは、偶然ではない。スタイルが似ている。むろん、時代がちがうから、インパクトはちがう。
◆ラスベガスの資本家(ジョン・クリース)が、金と遊び目当てで仕掛けたレース――ホテルの泊まり客をランダムに選択して、700マイル先のニューメキシコのシルバーシティに先に着いた者に賞金200万ドルをあたえるというもの。選ばれた者たちは、みな訳ありの人間ばかり。泊まり客ではないが、途中からまきこまれたり、話を知って加わったりするドタバタ。そういう彼や彼女を演じるのは、ローワン・アトキンソン、ウ-ビー・ゴールドバーグ、キューバ・グディング・Jr.、ジョン・ロビッツ、キャシー・ナジミーのようなのような喜劇的なパーソナリティもいれば、ブレッキン・メイヤーとエイミー・スマートが演じるインスタント・カップルもいる。一番ファニーなのは、セス・グリーンとヴィンス・ヴィーラフが演じる兄弟。とりわけ舌にピアスをつけていて、言っていることがわからないヴィーラフがおかしい。車を乗り継いで移動中、向こうから来た女満載の車に舌を出して挨拶をすると、向こうの女もピアスだらけで、瞬間的なコミュニケーションが成り立つ。こういうのいいね。
◆じょうだんだらけだが、ネオナチの集団とか、その車(ヒトラーの愛用者という設定)を奪ってジョン・ロビッツ/キャシー・ナジミー一家が移動中、その姿を見つけたフェミニスト・レズビアンのバイク軍団がいっせいに襲ってくるとか、大笑い。
◆最後は、シルバーシティに到着した一団が、偶然、FEED THE EARTHというグループがやっているカンパ集会に飛び込み、二転三転して転がり込んだ金をこの集まりのために全額カンパしてしまう。そして、それを追って来たジョン・グリースも、その場のなりゆきでしぶしぶその金(もとは彼のもの)のカンパを認めざるをえなくなり、骨までしゃぶる金の亡者が、一挙、偉大な献金家と見なされてしまう。
◆じょうだんを言いながら社会批判と社会的メッセージをこめるというやりかたは、もう古いのだろうが、この映画は、見てすがすがしさを感じさせた。わたしが古いのか? いは、テンポのよさもある。
(松竹試写室)



2002-01-08

●アザーズ (The Others/2001/Alejandro Amenabar)(アレハンドロ・アメナーバル)

◆わたしにとって2002年最初の試写となった本作。実は、ゴダールの『愛の世紀』と時間がバッティングし、選択を迫られた。話題作を優先し、この映画にしたのだった。結果は、まあまあと言うところ。アメナーバルの独自の世界であることはたしか。
◆ニコール・キッドマンの演技が『ムーラン・ルージュ』あたりから確実によくなった。本作でもかなりいい演技をしている。ただし、重要な脇役のフィオヌラ・フラナガンにはおよばない。彼女の演技はすばらしい。
◆1945年のイギリス・ジャージー島という設定。自分をキリスト教の教えで律しているかのような表情の女性(ニコール・キッドマン)が、夢にうなされたかのように悲鳴をあげてあたりをみまわす。やや人工的な身ぶり。そこは、人里はなれ、1日一回は霧に包まれるような邸宅。カメラは外の移り、老人(エリック・サイクス)と老婆(フィオヌラ・フラナガン)、それから年令不詳の娘(エレーン・キャシディ)の3人がいわくありげにその邸宅のドアのまえで躊躇し、しばらくして決心をしたようにドアをたたく。キッドマンは、一瞬おびえたような顔を3人を迎え、次の瞬間「オブ・コース」と言って、予期していたように3人を中へ迎え入れる。3人は新聞に彼女が出した使用人募集の広告を見てやってきたのだった(実はそうではないのだが)。キッドマンは、部屋をひとつひとつ案内するが、3人は、すでに家のなかをすべて知り尽くしている気配。キッドマンは、娘(アラキナ・マン)と息子(ジェームズ・ベントレー)は、光アレルギーなので、2人のまえでは絶対にカーテンを開けないように命じ、2人に引き合わせる。彼女は、ドアを開けるたびに鍵を使い、開くと必ず鍵をする。どんな怪物的な子供が登場するのかと思うと、2人はおとなしい風貌の子供たちだった。
◆表面的な設定は、第2次世界大戦に出征したまま帰ってこない夫の帰りを半分あきらめながら待ち望んでいる母子3人が新しく雇った使用人と新しい生活を始めるが、階上で不思議な物音がし、次第に不可解な出来事にまきこまれるとももの。そのクライマックスは、光アレルギーにかかっている子供のために家中に取りつけたカーテンが、一瞬にしてすべてなくなるシーン。しかし、こういう筋書きはこの映画の表面にすぎない。驚愕すべき事実が隠されている。
◆『シャイニング』のように、人里はなれ、1日一回は霧に包まれるようなこの古い家には、さまざまな時代の魂が宿っていて、それが姿をあらわし、女主人を狂わせる話としてもとれるが、時間操作をしてもうひとひねりしているところが面白い。
◆「死者と生者の世界の共存」という台詞が出てくるが、この映画は、そうしたグレイゾーンをあつかっている。大半のシーンが、「他者たち」(ジ・アザーズ)の側から描かれていることに段々気付く。しかし、単純に視点を逆転させるだけではなく、他者たちの世界をもう一回裏返しているところが知的センス。
◆生者の世界と死者の世界との境界線だけでなく、死者の世界のなかにもある時間的位相。
◆キッドマンが実に神経質にドアの鍵を開け閉めするのと、外部の光を遮断していること、キリスト教の偏狭な教えにこだわっていること、これらは、すべて、自閉症の症状にほかならないが、エスニック・ピープルとの共存があたりまえになる以前のアングロサクソン社会は、おおむねこんなエートスのなかでこりかたまっていた。
◆不可解の物音を探して狂ったように古い、使われていない部屋をくまなく点検してみると、みな眠ったような表情の人々が映っている写真が出てくる。使用人のミセズ・ミルズに尋ねると、昔は、人が死ぬと、その魂が逃げないように、死者の写真を撮ったものだという。だが、ある日、キッドマンは、3人の使用人がいまと同じ姿で目を閉じて映っている古い写真を発見する。驚愕のシーン。
◆潜在的にキリスト教的な道徳への反発があちこちに出ているのは、アメナーバルのこだわり。
(ギャガ試写室)



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