粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-08-30

●モンテ・クリスト伯 (The Count of Monte Cristo/2002/Kevin Reynolds)(ケヴィン・レイノルズ)


◆アレクサンドル・デュマ生誕200年を記念してと言いながら、フランスでなく、イギリス/アイルランドで共同製作されたところがくせもの。まるで、9.11以後のアメリカ+同盟国が当然のこととする「復讐」、「正義」、「家族」を全面に押し出し、原作のおもかげはない。役者たちはみないいが、原作ではすんなり入ってくるストーリーが、映画で見ると、ちょっと無理じゃないのと言いたくなる。
◆周知のように、原作は、陰謀によってマルセイユ沖の岩窟イフの城壁牢に囚われの身となったエドモン・ダンテスは、獄中で知り合ったファリア司祭から何年にもわたって万学の教育、さらには剣の極意をも教わる。司祭は、死ぬまえにイタリアの沖のモンテ・クリスト島に隠した財宝のことをもらす。彼が死んだとき、その死体にすりかわってからくも島を脱出する。14年間の獄中生活だった。以後、彼は、嫉妬と自己の欲望からダンテスを陰謀にかけた敵たちを着々と復讐していく。原作は、卑劣で狡猾な敵がおり、そのために計り知れない苦しみを味わわされたダンテスが彼らを破滅させていく小気味よさが面白かった。
◆映画でもこの部分に関しては:w 感じは出ているが、この物語には、裏切り、復讐といってテーマのほかに、自分に協力してくれる人物との出会い、忠実なる弟子の存在といった古いおとぎ話的なテーマがある。海賊に捕まったときに決闘を無理強いされて殺しそうになったが、命を助けてやったことから、ダンテス(ジム・ガヴィーゼル)の忠実な従者となったヤコポ(ルイス・ガスマン)が典型だが、こういう人間はもはやいない。が、だからこそ、人はそういうものにあこがれる。
◆この物語のハイライトに、巨額の富を手にしたダンテスが伯爵になりすましパリで社交界にドラマティックに登場するということがあるが、これは、いまの時代には、無理である。情報は世界を駆けめぐり、リポーターのリサーチ網と技術は格段に上がっている。素姓を隠したまま、大宮殿を買ったり、金を操作したりということは不可能である。原作の時代には、伯爵であるかどうかは意味があったが、いまの時代には、単に富豪であるかどうかでいい。そのへんが、英米の俳優たちで演じられていることもあり、原作をなぞった部分がひどくリアイティの欠けたものに感じられるのである。
◆ダンテスの友人のフェルナン・モテーゴ(ガイ・ピアース)は、階級の低いダンテスが仕事で評価されて船長に抜擢されたり、美しい女性メルセデス(ダグマーラ・ドミンクス)が恋人であったりすることを嫉妬するのだが、いまの時代には、モンテーゴがやったことは、卑劣だとはされないかもしれない。
◆ダンテスの牢獄生活も、秘宝を見つけるプロセスも、自分を陥れた敵の仮面を暴くところも、(この物語の核心はそういうプロセスのリアリティなのに)全然スリリングではない。
◆原作では、読者は、ダンテスの復讐を当然のこととして受け取るが、この映画は、ダンテスの復讐が正しいことか、キリスト教的信仰に反するのではないかということを問う。ダンテスは、「わたしは神を信じない」と言い、最後にそれをあらためる。そんなことをやけに気にするのは、なにか、アメリカ+同盟国のアフガン攻撃(9.11への復讐)の「正義」を無理矢理自分に言い聞かせているような感じ。
◆メルセデスは、ダンテスが獄中で死んだと知らされ、フェルナンと結婚するが、彼女が生んだ子は、実はダンテスの子であったことが最後にわかる。すべてが終わって、3人が手を取り合って歩いて行き、「神は愛をあたえたもう」という言葉が流れて終わるエンディングには、何か違うという印象を持った。
◆ファリア司祭を演じるリチャード・ハリスは、ヒッピーみたい。イフの城壁牢のマイケル・ウィンコットははまり役。
◆(東宝東和3番町試写室)



2002-08-29

●運命の女 (Unfaithful/2002/Adrian Lyne)(エイドリアン・ライン)


◆客はあまり多くない。上映まえの配給元の人の説明では、11月公開予定が、来年1月11日に延びたという。やな予感。そういう映画は、イワクありのことが多いからだ。
◆この映画は内容を書きにくい。映画のなかで起こるアキシデント(むろん演出的には仕掛けられたものだが)が核心をなしており、それを叙述してしまうと、映画を見る楽しみが半減するからである。私論では、書くと楽しみが半減するような映画は奥が浅いと思うが、そういう映画なのだから、仕方がない。
◆重要な2つのアキシデントがある。最初のアキシデントは、ニューヨークのアップステイトで夫(リチャード・ギア)と9歳の息子(エリック・ベア・サリヴァン)と平凡な生活を送っているアッパーミドルの主婦(ダイアン・レイン)が、息子の誕生日プレゼントを買いにマンハッタンへ行ったときに起こる。風がひどく強く(ほとんど歩けないくらい――こんなに風が強い日がマンハッタンであるだろうか?)、彼女は、転んでしまう。そのとき、手に本を10冊以上むき出しで抱えた男(オリヴィエ・マルティネス)が通りかかり、体が触れて、その男の本が地面に四散する。そこから2人が知り合うようになるのだが、いかにも見えすいた設定だ。男は、フランス人で、高価な古本を取り引きする商売をしているのだが、こんなに風の強い日に、本をむき出しで街頭を持ち歩くなんて、商売人として失格ではないか。
◆この種の偶然的設定は、映画や小説の常套だが、そういうことは現実にはあまりないのである。というより、そういうあやふやで月並みなリアリティをたよりにドラマを作っても面白くない。そういう月並みなアキシデンツを使うのなら、そのチャンスをどうつかもうとしたかを描かなければ、映画や小説で取り上げる意味がない。そういう瞬間に起動する意識をドラマにすることが必要であり、それが新鮮に描かれなければ意味がない。
◆すぐに思い浮かぶストリープとデニーロの『恋におちて』とはちがって、レインとマルティネスとの関係は、ほとんどセックスだけだ。転んだときの怪我の手当をしようと彼のアパート(それが現場のすぐそばなんだな――とすると、このフランス男は、いつもこういう手口で女をひっかけているのではないかとかんぐりたくなるが、この映画にはそういう屈折はない)に行った彼女に、男は、誘いの仕草をするが、女は自分を抑える。それからというもの、家に帰っても、レインは、彼のことが頭を離れない。夫が声をかけても、心そこにあらずのこともあるが、「善良」な夫は何も気づかない。
◆わたしには、レインがなぜかくもマルティネスに惹かれるのかがよくわからない。よほど男に飢えていたのか、生活に退屈していたのか、とにかく、彼女から見れば「自由人」の感じがするだろうが、自由人のわたしからみれば、彼のやることはどうということもない。突然電話してくるとか、彼女が女友達のおばさん連中と喫茶店にいるとき、彼女をトイレに誘い出して立ったままセックスしてしまうとか、それがどうしたのという感じ。まあ、結局、彼とのこうしたアバンチュールは、いっときのあやまちだったということなのだろう。魔がさしたというやつだ。夫婦がいた。あるとき、魔がさして、妻が浮気してしまった。彼女は、「善良」な夫と家庭のために悩む。やがて、秘密を知った夫も悩む。そしてどうなるか、という話。
◆この映画を楽しむには、最初のアキシデントから次のアキシデントの直前までのドラマを、夫が妻の浮気相手と「対決」し、重要なアキシデントが起こるのを効果づけるためのただのイントロと見なすことだ。男2人の出会いは、まず、おだやかに友好的に行なわれる。マルティネスが冷蔵庫からジンを出してきて、グラスにつぎ、2人で飲む。そのうち、ギアが、「ああ、気分がおかしい。頭も・・・」と言い出したとき、次に起こることは予想しがたい。このシーンは、たしかにギアの渾身の演技と言える。見どころはここぐらいかな。だから、このシーンについては叙述を控える。
(FOX試写室)



2002-08-28_2

●エンジェル・アイズ (Angel Eyes/2002/Luis Mandoki)(ルイス・マンドーキ)


◆これも家族ものだが、いまのアメリカで進んでいる映画のなかの家族反省キャンペーンは、色々な宗教バージョンがあるようだ。これは、そのカソリック版。
◆親父が母に暴力を加えるのを見て育った娘シャロン(ジェニファー・ロペス)は、長じて警官になり、母への暴力現場を目撃して父を逮捕するという辛い経験を持っている。そして、兄がまた父親と同じように妻に暴力をふるうのを知る。そのため父は、娘はいないものだと思うことにしており、シャロンは、警官としての業績と信頼とはうらはらに、ファミリーとうまくいっていない。
◆平行描写的にえがかれ、やがてシャロンとの接点が明らかになる男キャッチ(ジム・カヴィーゼル)にも、家族を壊してしまったという強い罪責感があり、彼は、その記憶を捨て去るために(半分捨て去りながら)夢遊病者のような生活をしている。彼は、最初、記憶喪失者のようにふるまっているが、やがて、記憶を意識的に捨てようとしていることがわかる。過去を消したいために記憶を失うということがあるのだろうか?
◆なぜキャッチがそうするのかは、ここでは書かない。冒頭のシーンは、シャロンが、大破した車の運転席で瀕死の重傷を負っている「らしい」人物を必死で励ましているシーンである。なぜそういうシーンが出てくるのかは、後半になってわかる。明らかに意図的に負傷者の姿を映さないことで、何かあるなということは、ピンと来る。
◆カソリックには、「誓いの更新」という儀式があるらしい。シャロンの両親は、(おそらく彼女の父が暴力をふるったことを悔い改め)この儀式をとりおこなう。これは、なかなかいい儀式ではないか。ながく結婚生活をしている者は、何回か「誓いの更新」の儀式をしたほうがいい。ただし、「誓い」という概念のない日本では、意味がないかも。
◆キャッチにとっては、彼がこの世の中で一人ぼっちではない(not alone)ということを認識することが課題となる。しかし、一人ぼっちではないということと、ファミリーが機能する、ファミリーを(危機から)救うということとは同じではない。にもかかわらず、最近のアメリカ映画は、両者の短絡がある。ただし、この映画では、シャロンとキャッチとが愛し合うことがメインだから、最近のファミリー至上主義ものよりはいい。
◆プロテスタントにくらべて、カソリックは、記憶を重視するのではないか? 記憶の保持、記憶を捨てないことが神への忠誠だという発想。それに対して、プロテスタントは、どんどん新しいものを生んで行くことが重要であり、記憶は捨ててもいい・・・? ちなみに、近代科学は、「神の記憶」の忘却として発展する。ハイデッガーの「存在忘却」という概念には、カソリック的記憶概念とプロテスタント的な忘却概念の中間形態が見出せもする。
◆あいかわらずタフな役をやるロペスだが、わたしは、『ウェディング・プランナー』がよかった。ジュム・カヴィーゼルは、屈折をかかえた人物をリアリティのある眼とともに巧みに演じている。
(松竹試写室)



2002-08-28_1

●バースデイ・ガール (Birthday Girl/2002/Jez Butterworth)(ジェズ・バタワース)


◆アメリカで受けなかったという情報が流れているのか、客が少ない。その代わり、英語をしゃべる客が5人ぐらいいる。来ている客層もちがう。ちょっと心配になってきた。
◆仕事一途できた銀行員の男ジョン(ベン・チャップリン)が、ウェブカム付きのインターネットの結婚紹介サイトでロシアから花嫁ナディア(ニコール・キッドマン)を迎える。が、その女性は、一言も英語が話せない。奇妙な無言のコミュニケーションが始まる。そして、ある日、彼が買い与えた露英辞典の一か所を指して、「バースデイ」「ハッピー」と彼女が言う。このシーンは、言葉を失った者が初めて言葉によるコミュニケーションを取り戻した瞬間に立ちあうかのような感動がある。これは、ポストーインターネット・コミュニケーションの話かという思いがふっと横切った。
◆ところが、それは、やがて仕掛けられたものであることがわかる。「兄」と名乗る男ユーリ(マチュー・カソヴィッツ)とその知りあいのアレクセイ(ヴァンサン・カッセル)がやってきて、ジョンの家に居座り、やがてジョンを脅す。あげくにジョンは、勤めている銀行から金を盗むことを強制される。こうなると、映画は一挙にサスペンス(それなりに面白いが、意図されているブラック・ユーモアは安い)になり、最初、言葉に依存しないコミュニケーションの面白さをテーマにした話かと思ったことを改めなければならない。それは、それでおもしろくもあるのだが、よくある話で新鮮味がない。
◆だました相手に詐欺グループのなかの女がだまされた男に段々惹かれていくというのは、全然新しくない。そういう女は、どこかお人よしなのだが、たしかに、ニコール・キッドマンは、そういうドジでかわいらし気のある女性を演じてはいる。
◆イギリスを舞台にした映画では、近年、孤独な女や男の話が多い。その点では、ベン・チャップリンは、ジョンという家でポルノビデオを見るぐらい(あるいはネットのポルノサイト?)しか異性との接点がない淋しい男をうまく演じている。そいう男の「夢」としてみれば、この映画は面白い。
◆ジョンが勤める銀行には、エクササイズがあり、そのトレイナーがいる。一人がうしろに倒れ込み、後ろでもう一人が受け止める。Trust and letting goと名付けられていて、相手を信用することを体験学習する。むろん、この映画では、Film Fourらしい皮肉を込めてこのエピソードが使われているのだが、このワークショップ自体は興味深い。大学でやってみるか。
◆キッドマンも、フランス俳優のカソヴィッツ、カッセルも、ロシア語はネイティヴではない。この映画をロシア人が見たらどう思うだろう? かなり変な印象を持つのではないか?
(ヘラルド試写室)



2002-08-26

●至福のとき (Happy Times [Xingfu shiguang]/2000/Yimou Zhang)(チャン・イーモウ)


◆こういう映画は日本ではできないだろう。身障者の人権の尊重よりも、人権を損なったと批判されることへの過剰な、結果ばかりを気にする気配りのために、身障者をだます(理由はともあれ)という行為の表現が自粛されるからである。
◆もう50代に入っていると思われるチャオ(チャオ・ベンシャン)は、工場が閉鎖になって失業したにもかかわらず、こりずに再婚を願い、見合いを続けている。すでに18回も失敗したが、めげない。痩せた女は情が薄いと信じ、今度は太った女を好んで選び、ようやくウーという迫力のある女性(ドン・リウ)と交際をはじめる。彼女は、金にうるさく、結婚式のために5万元用意しろという。会いにいくときも、花束をかかせない。工場が閉鎖になって失業しているチャオには大変だ。頼りは友達の小フー(フー・ピアオ)や工場の仲間だけ。
◆小フーのアイデアで公園の廃バスを使ってあやしげなデートスペースにしたのもつかのま、市の改造計画であっけなく、撤去されてしまう。そんなとき、例によってクズのバラを買って自分でハサミをいれてととのえた花束を持って自転車を走らせ、訪ねた女の家でチャオは、意外なものを目にしてしまう。わたしは、一瞬、このうちにも引きこもりの子がいるのかと思ったが、そうではなく、この女の前の亭主が置き去りにした女の子イン(ドン・ジェ)で、目が見えないのだった。女は、自分の息子だけをかわいがり、この少女を小部屋に押し込んで、皿洗いや便所掃除もさせている。女はやがてチャオ(「ホテルを経営している」とはったりをかましている)に、「ホテルの社長なんだから、何か仕事をやってよ」と、盲目の子をおしつける。
◆社宅があるか言って自分のアパートに連れてきたものの、方策があるわけではない。フーのアイデアで「面接」をはじめたとき、彼女の悲しい生い立ちがわかる。少女は、安心してチャオの部屋に住むようになり、ほとんど下着一枚のすがたで部屋を歩きまわる。櫻井よし子に似たこの少女は、なかなかセクシーで、ひょっとすると、このチャオが彼女を愛するようになるのではないかという気がしたが、それは、アメリカ映画の見すぎのわたしの思い過ごしだった。
◆「マッサージルームでもつくってやってよ」という女の提言に、チャオが考え出したのは、使われていない工場のスペースにマッサージ・スペースをつくり、彼女を働かせることだった。仲間の協力で、たちまち出来上がるが、さて、お客をどうするかということになった。とにかく、義母のごきげんをとり、結婚にウンを言ってもらいたいチャオは、少女が自分の「ホテル」で働いているという体裁をつくればいいので、目が見えるものには一目瞭然の「舞台セット」を作ったにすぎない。(このへんが、日本なら、盲人をだますのはけしからんということになるだろう)。
◆仲間が客になり、チップはチャオがみんなにあらかじめ配っておくというやりかたで始めた「演技」も、やがてチップ代を工面できなくなり、仲間の一人のアイデアで、紙を紙幣のサイズに切ったものを少女に紙幣だと偽って渡すというところまでエスカレートする。その結果、どうなるか? 所詮は映画の型であり、それも、ひとむかし前の映画によくあったメロドラマではあるが、とはいえ、大詰めはなかなか感動的だし、少女の若さとたくましさを感じさせる。
◆チャオの部屋のテーブルの上に、クリネックス、マグカップ、小瓶のビール瓶などが見える。デブ女(失礼)の家の息子は、ハーゲンダッツのアイスクリームを食べている。中国も、アメリカ化している。
◆少女インが持っている父親の手紙(自分では読めない)、チャオがしょっちゅうかける街角の公衆電話、少女が残すウォークマンなど、メディア的論にも面白い。
◆中国や台湾の映画を見ながらいつも思うのだが、日本で言う「取り箸」という習慣向こうにはないらしいということ。いわゆる「食い箸」があたりまえで、自分の箸で家族や友人に取ってやったりするのが、むしろ親愛の情を示すことになる。日本でそれをやると、恋人同士でもなければ、顰蹙を買うかもしれない。お客に行って、やけに取り箸の多い食卓に出くわすこともある。日本では、身体は「けがれ」ているものであるという基底信仰があり、そこから距離を置くことが礼儀らしい。これは、日本人の「白々しさ」や自殺の増加の根にある要因だとわたしは思う
(FOX試写室)



2002-08-23

●サイン (Signs/2002/M. Night Shyamalan)(M・ナイト・シャマラン)


◆試写はすべて「予約制」だというので、期待したが、はずれた。『シックス・センス』と『アンブレイカブル』で達成した質を維持するのは難しく、まして越えるのはそう何度もできることではないのだろう。今回は、M・ナイト・シャマランにとっては、これまでの小規模な要約のような出来だった。が、こうなると、最初から登場するさまざまな謎も、こけおどしにすぎなかったのかということになってしまう。
◆ペンシルバニア州バックス郡という人家の少ない場所に、牧師だが妻の不条理な交通事故死をきっかけに牧師をやめてしまったグラハム・ヘス(メル・ギブソン)、弟(ホアキン・フェニックス)、息子(ローリー・カルキン)、娘(アビゲイル・ブレッソン)が住んでいる。ある日、不安のなかで目をさますと、子供たちがいない。弟と畑に飛んでいくと、そこで、子供たちが立ちすくんでいる。そして指さす方を見ると、そこに巨大な「ミステリー・サークル」がある。
◆それがどうしてできたか、それは、何の「合図」(サイン)だったのかが謎解きされるのだが、あまり意外性はない。シャマランにしては、凡庸な解答。ちなみに、「ミステリー・サークル」の原因として、人為的ないたずら、自然現象、宇宙人による等々の説があるという。
◆配られたプレスには、「グラハムと彼の家族に起こるいくつもの現象――《偶然》と思われたそのひとつひとつは、全て彼らに向けられた《サイン》であり、その意味を解読される瞬間を息を潜めて待っていたのだ」とあるが、それほどでもないんだな。まあ、自分で見て判断してください。
◆グラハムが目覚めたとき、窓の外を見ると、変哲のない風景がわずかに歪むように(わたしには見えた)。これは、たぶん、デジタル編集のときのミスではないか? それは、一向に後ろにつながっていかない。イヌが家のなかでおしっこをしてしまうのは、うやがて、外で狂ったように吠えかかるというようにエスカレートしていくが、プレスで言われているほどの謎解きがあるわけではない。
◆風鈴のようなものがかかっているが、その形がユダヤのダビデの星のような形をしているのはなぜか? グラハムはプロテスタントの牧師である。
◆水の話がたびたび出てくるのは、やがて理由がわかる。が、理由は単純。
◆グラハムは言う。「人間は2つに分かれる。起こったことを神のサイン、奇跡として受け取る者と、単なる偶然としか見ない者とに。」後者にとっては、世界には自分しかいないのであり、自分にふりかかったことから希望を引き出せるとは考えない。グラハムは、妻が居眠り運転の車(その運転手をシャマラン自身が演じている)にはねられ、死んで以来、すべては偶然だと考えるようになる。が、その変心が崩れるというのが、この映画のドラマ。が、そうすると、この映画は、キリスト教信仰の復活を願うプロパガンダ映画か?
◆この映画は、9・11事件の2日後に撮影が開始されたというが、9・11を必然と見る場合にも、色々な選択肢がある。ブッシュ政権は、それをアラブ=ビン・ラディンが加えた悪の結果と得事ることによってアフガン攻撃をした。アメリカ国家がこれまでしてきたことの必然と取り、それを悔い改めることも出来たが、それはなされなかった。多くの人は、ある種の「天災」と受け取り、あきらめようとした。さもなければ、愛する人の喪失を自分にあきらめさせることができないからである。
◆シャマランの主張では、人は身に降りかかった出来事の原因を自分に問うことはできないだろう。それを外的な要因に転嫁し、それと闘うことしかできないだろう。しかも、その闘いの原理は家族を守るということなのだ。外敵/家族/国家の3点セット。これは、結局、ブッシュ政権のやり方であり、インド人のシャマランがこういう思想をいだいていることを知ったのは、意外だった。
◆全体に集音の仕方が近い感じで、声が当人のすぐそばで聞いているかのように聞こえる。
◆最後にIn Memory of Bill Nisselsonという文字が見えた。この人は、Studio Operations at Sound Oneの副社長で、昨年50半ばで死んだ。彼は初期のジャームッシュなどニューヨークにおけるインディペンデント系のフィルム製作をささえてきた。シャラマンとの関係はどうだったのだろう?
◆【読者コメント】2002-08-17
(イマジカ)



2002-08-22

●スパイキッズ2 (Spy Kids 2: Island of Lost Dreams/2002/Rpbert Rodriguez)(ロバート・ロドリゲス)


◆全体がいつも移動し、踊っているような独特のリズムと感覚。シュールであり、ファニー。メールヘェン的な要素に、スパニッシュの家族主義をブレンドし、アメリカ受けもねらう。
◆エンドクレジットで色々工夫している。アレク・ヴェガのダンスが妙に感動的。

◆ばあちゃん(ホランド・テイラー)は、娘イングリッド(カーラ・グギノ)の夫グレゴリオ(アントニオ・バンデラス)が十分ではないと思い、ちょっと意地悪をする。じいちゃん(リカルド・モンタルパン)が、グレゴリオをかばう。が、それも、息子ジュニ(ダリル・サバラ)と娘カルメン(アレク・ヴェガ)が笑って見ていられる程度のこと。基本的に「いい家庭」なのだ。このごろアメリカ映画には、家族の再建というテーマがよく出てくるが、この映画は、家族が助けあう話であり、それをワスプではなく、スペイン系のファミリーでやっているから、かえってアメリカでは受ける。子供と両親、その親の両親(スパイキッズから見るとおじいちゃんとおばあちゃん)が喧嘩せずに顔を合わせることができるなんて、アメリカではめずらしい。家族破綻を何とかせにゃと思っているワスプたちも、別のエスニックの話だから笑って見れる。
◆「よき」家族がいて、それを崩す「敵」がおり、直面した危機を「家族」が結束して倒すというのがハリウッドのパターンだが、この映画はそうではないところがいい。家族は、助け合うが、みなそれぞれに特殊技能をマスーターしている独立した個の集まりであり、結束するのは、家族のためではなくて、OSS(戦略事務局)の指令のためにすぎない。このへんが、普通の「家族」とちがう。
◆大統領のパーティに「敵」が侵入し、大統領の手からエネルギー万能装置「トランスムッカー」を奪ってしまうというある種の「テロ」にはじまり、それそ奪い返すためにスパイキッズの一家が活躍するというのは、いささか9・11以後のおアメリカ的であるかに見える。が、国家の危機と家族の危機が重ねあわされていて、それが、敵を倒すなかで回復されるというのではないところがこの映画の一味ちがうところ。
◆敵を追って異空間の島に行くと、そこに巨大な怪物がいる。それは、実は、マッド・ドクターのロメロ(スティーヴ・ブシェミ)が最初は、かわいいペットが欲しくてさまざまな動物を小さくする実験をやって、動物の「盆栽」をつくることに成功するが、ある日、その子動物を大きくする薬を実験していて、収拾がつかなくなる。島中にいる怪獣はその結果だった。しかし、怪獣とスパイキッズとの出会いと「交遊」が面白い。
(丸の内プラゼール)



2002-08-21

●OUT (OUT/2002/HIrayama Hideyuki)(平山秀幸)


◆原田美枝子、室井滋、西田尚美、倍賞美津子が演じる4人の女性の物語。登場する男性はすべて頼りなく、サエない。女たちは、相手を愛したり尊敬したりしているわけではなく、やっかいだと思っている。彼女らは、決して「翔んでる」女性たちではない。それぞれに悩みをかかえ、深夜、弁当工場で働いている。
◆いまやチャプリンが『モダンタイムズ』で描いたような非人間的な流れ作業のなかで「製作」される弁当工場では、倍賞が一番親分格だが、彼女は、夫に死なれ、寝たきり(しかし、「簡単には死んでやらないよ」と密かに舌を出すようなババア)の母(千石規子)をかかえ、このアルバイトだけでは足りない。
◆信用金庫に勤めていた経験をいかしてプライベートな金貸しをしている原田は、生活には困らないが、夫とは、ただの「同居人」関係、引きこもりの息子は、顔を会わせても口もきかない。
◆室井は、ブランドものの購買癖に陥っており、いくら金があってもたりない。ローン会社への借金は多額にのぼっている。サエないサラ金会社をやっている男(香川照之)とデキているが、2人でいると不毛さが二乗倍されるような感じ。
◆西田の夫(大森南朋)は、歌舞伎町のヤミ賭博場で金をすり、帰ってきては妻に暴力をふるう。その暴力はエスカレートする一方で、身重の体もかまわず蹴りまわす。さんざん暴力をふるわれた西田は、ふしだなく寝ている夫の姿を見て、発作的に首をしめる。彼女は、殺した死体の処理を原田に頼むが、ことがうまく運ぶと、あとは他人ごと。勝手なのである。
◆原田は、その点、ややお人よし。すべてを綿密にやろうとして、失敗するタイプ。夫や息子に愛想をつかされたのも、そういう擬製の綿密さではなかったか?
◆室井も勝手なパーソナリティだが、いいとしこいて甘えるんじゃないという甘え人格。危機に陥ると泣きわめくが、重要なポイントははずしてしまうドジ。
◆結局、3人が加担してしまうことになる死体処理の喜劇は見てのお楽しみ。
◆4人の女たちは、一人の男の殺人に関わるが、それは暴力とは異なるものである。それは、いわば防御の結果であり、攻撃的暴力ではない。それと対照的な存在として、歌舞伎町のトバク場を仕切っている男(間寛平)の暴力がある。「いかさまだ!」とわめいた西田の夫を、ビルの踊り場に連れ出し、落とぞと脅す。大森を殺した真犯人にされそうになった仕返しに、倍賞の家にやってきて、倍賞の母を殺し、家中を荒らす。これが、男の暴力であり、女には出来ない暴力である。
◆この女たちはどこへいくのだろう? 逮捕されて警察にいくのかどうかではない。彼女たちは、これからどこに自分の居場所を見出すのだろうかということだ。男はもうとっくに居場所を失った。女性たちは、そうした男たちの逃げ去った場所(家庭)に居座ることもできなくはない。そういう女たちもいる。が、この映画に登場する女たちの場所は、そういう家庭ではない。
(FOX試写室)



2002-08-20_1

●王様の漢方 (Great Wall, Great Medicine/2002/Niu Bo)(牛波)


◆この映画を作ったニュー・ポは、80年代末から90年代にかけて、日本でパフォーマンス・アーティストとして名をあげた。わたしのところににも、毎回奇妙な、ちょっと山師的なアイデアの出し物で、わたしは、見に行く気にはならなかった。そのうち、東京上空で絵を描くとかいう「大空絵画」なるものをぶち上げ、だんだん規模が大きくなっていった。まあ、クリストだって「山師」みたいなものだから、ニュー・ポのやり方がアートに値しないというわけではない。というより、アーティストは、何らかの意味で山師的でないと、「売れ」ないのである。
◆そんなニュー・ポが、今度は映画を作ってしまった。また大ざっぱの「パフォーマンス」かと思って見に行かなかったが、時間が空いたので行ってみた。意外にまともなので、かえって驚く。ニュー・ポらしくない。彼は、山師というより「商売上手」なのではないかと思ったくらいだ。
◆わずかにニュー・ポらしいのは、万里の長城を舞台にしてしまったこと。中国ビジネスに関しては草分けのはずだった男・市川(渡辺篤史)が、近年の中国ブームに先を越され、謝金が増えるばかり。そこで思いついたのが、希望者をつのって中国の漢方の名人・リ(チュウ・シェイ)を訪ねて、治療を受けるというツアーを思いつく。その先生の家と万里の長城が空間的にどうなっているのかわからないのだが、ドラマは、ほとんどそこで展開され、あたかも、万里の長城の壁の一郭に先生の仕事場があるかのように見えるシーンもある。
◆ツアーには、末期ガンを宣告さらた大山(沢本忠雄――久しぶり)、密かにインポを直したいヤクザの中村(中山一朗)、親の希望で性同一性障害を直す菊地(中村正志)、漢方を美容に役立てようというファッションモデルの和田(出川紗織)。みな、どこかで市川が借金をしている相手のよう。
◆環境破壊とか、身体に関する西欧近代主義的なアプローチなどが、教科書的に批判され、漢方や中国医学の面白さが啓蒙的に説明されるが、この映画で、一番評価できるのは、いっしょに何かをやるという意味、空間を共有するということの意味を実感させてくれることだろう。
◆リ先生はすごいということになっているが、映画が終わってみると、この人、一体漢方でどんな「奇跡」を起こしたのだろうと思わせるところが、いかにもニュー・ホ的。彼が、末期ガンの宣告をうけている大山が、「直りますか?」と尋ねると、「他の人はわかりませんが、あなたは直せます」と言う。この個別化は見事。山師の基本と言ったら、いかないか? この人の名言はいっぱいあるが、理想の医者は?と訊かれて、「早くて安くて痛くない」。
◆ワークショップ、体験授業、トゲザーネスの経験・・・そういう目で見ると、ひらめかされることが多々ある。
(メディアボックス)



2002-08-20_1

●宣戦布告 (Sensenfukoku/2001/Seiji Rdo)(石侍露堂)


◆扇子というものがある。小林よしのりは『わしズム』の表紙で扇子を使っているが、いまではあまりポピュラーではない。試写室でときどき隣の席の人が使っていたりする。扇子は使わなくてもプレスを扇子代わりに使って冷を取る人もいる。 大抵、そういう人は開映直前に来て、暑くてしかたがないのだ。が、隣に座っている者からすると、冷房がきついときなどは特に寒くてたまらない。それに、自分の意志を無視して顔や手を風でなれられるのは、痴漢に遭ったようで気分が悪い。しかし、こういう考えは、わたしのように極度にセルフィッシュ(自己中)な人間だけのもので、ほかのひとはもっと寛容なのだろう。わたし自身、昔は、電車の中で隣の人が使う扇子の風を快く思ったこともあったような気がする。いや、あの抹香臭い匂い(臭い)はいやだったかな?
◆この映画は、2001年にほぼ完成しながら、日本国憲法改正、集団自衛権、首相権力の増強などをプロパガンダするものだとして、反発を食らった。たしかに、自衛隊が現憲法のためにいかなる奇襲攻撃に対しても臨機応変の対応が出来ず、反撃できるのは、攻撃され味方に負傷者が出てからであり、使用する武器(バルカン砲の許可がなかなか下りなくて苦戦する)についてもいちいち許可を取らなければならない等々のことが批判的に描かれている。しかし、映画はどのみちプロパガンダ性を持っているが、それだけではない。映像の恣意性というものがあり、どんなにプロパガンダ性の強い映画でも別の見方が可能である。だからこそ、どんなに「反動的」と思われる映画でも、それを最初から検閲したり、上映禁止にはできなし、「反動的」ではない映画がこれまでこうむってきた圧力が不当であるのもそのためだ。
◆やや不明瞭なのだが、北の国の侵略→自衛隊の出動から中国とアメリカが動き、そこからアジア全域を巻き込んだ全面戦争へ発展しそうになるかのようなドラマ展開がある。それは、すべて、「危機管理センター」に詰める閣僚たちのまえのスクリーンと「実況中継」で報告されるのだが、これが、実は、内閣情報室長(夏八木勲)の「やらせ」/情報操作(ディスインフォメーション)であったらしいことが示唆される。というより、そういう見方が可能である。ということは、内閣情報調査室は、早くからこのような危機の可能性、その実行犯である大物活動家・スパイ(夏木マリ)の存在をおさえていたにもかかわらず、政府がていたらくで、予想された危機を招いてしまった――ともとれるが、同時に、それにもかかわらず、情報レベルがしっかりすれば、どんな政府でも、現行憲法のもとでも、平和は維持できるということを立証した、という風にも解釈できるのだある。
◆映像的には、パワーがある。冒頭は、いきなり水中の潜水艦。それから、そういう事態を知らずに「繁栄」をエンジョイしているかのような東京上空の俯瞰。バラバラに浮遊するハングル(とすぐわかる)オブジェが、合流し、煮詰まっていくような動きのなかで「宣戦布告」というタイトル文字になる。このシーンは、なかなか示唆的であり、「すべてがフィクション」だと断り書きをしても、北朝鮮を問題をしていることはすぐわかる。
◆ほかにも、したたかな作りをしていて、その最大のものは、首相の秘書官(杉本哲太)が在日朝鮮人らしいという暗示である。つまり。二つの民族にまたがるキャラクターを置いておいて、民族差別と避難されることを回避する技法である。
◆映画が始まるまえ、監督の挨拶があった。オールタナティヴな作品は別にして、小さな試写室に監督が来て挨拶するのはめずらしい。非常に丁重なのは、これまでの経緯があるのだろう。が、わたしは、急に、石侍監督の顔と雰囲気が、日本ハムの若い社長さんに似ているのではないかと思った。公開後、大社さんのようにならないように祈る。
(大映試写室)



2002-08-09

●ジャスティス (Hart's War/2001/Gregory Hoblit)(グレゴリー・ホブリット)


◆猛烈暑い六本木裏のアスファルトを歩いて試写室へ。ここは、毛布を用意していて、冷房が寒い人には貸す。わたしは、いつもシャツを持ってくる。ピンクの毛布かぶって映画見るなんてヤダな。
◆めずらしく「ハッピーエンド」ではない結末。それだけハリウッド映画も「現実」から遊離してはいられなくなったということ。だから、その対極で『オースティン・パワーズ』のようなナンセンスムービーが流行る。
◆上院議員のおぼっちゃんで、イェール大学で法律を学び、明らかに政治的配慮が働いて危険な戦場には回されなかったトーマス・ハート(コリン・ファーレル)にとって、自分が捕虜になることは予想しなかった。厳しい尋問ののちに送られた捕虜収容所には、ナチ側からも一目置かれている捕虜のリーダー、マクナマラ大佐(ブルース・ウィリス)がいる。彼は、トーマスに、「誰に尋問されたか」と訊き、その答を聞いて、トーマスを一般兵士のバラックに配属させる。その理由は、映画を見ているとやがてわかる。一般兵士の宿舎は、ベッドフォード(コール・ハウザー)という2等軍曹が仕切っている。彼は、収容所内の調達屋をやっており、さまざまな物資を(ナチから?)調達し、捕虜と物々交換している。
◆臨検があり、マクナマラ大佐のバラックで壁に隠した手製のラジオが発見される。それは、ベッドフォードから調達した部品で作ったもので、マクナマラたちはそれでBBCのニュースを傍受していた。
◆トーマスは、中尉なのでいじめられることはないが、空軍の2人の黒人少尉は、とりわけベッドフォードのいじめに遭う。彼は、アーチャー(ヴィセラス・シャノン)のベットに鉄棒を隠し、ナチに垂れ込み、そのためにアーチャーはナチに処刑される。
◆ある日、ベッドフォードが死体で発見されたとき、ナチ側はその犯人をアーチャーの親友であるスコット(テレンス・ハワード)とみなす。が、マクナマラ大佐は、この事件に関し、収容所所長ビッサー(マーセル・ユーセル)に裁判の開催を要求する。そしてスコットの弁護をトーマスに命じる。
◆ビッサーは、昔、イェール大学に留学し、法律を学んだ。トーマスの先輩ということからか、彼は、弁護人になったトーマスに、アメリカ合衆国軍法会議マニュアルを渡し、「がんばれ」と励ます。
◆最近の戦争映画は、「敵」を憎しみの対象としてよりも、戦争というロジックのなかで攻撃し、(味方の側からすると)殱滅せざるをえなかった存在として描く傾向がある。それだけ戦争はどっちもどっちだということ、正義の戦争というものはないということ、戦争の無意味さの意識が高まったということでもあるが、この映画でも、ナチは、残虐さだけが売り物の存在としては描かれていない。残酷な事実は描くが、カメラに感情は込めない。たとえば、トーマスが、捕まるまえ、ジープを猛進させ、逃げ回って溝に落ちるが、まわりを見まわすと死体だらけ。そこは、虐殺者の廃棄場だった。収容所に送られる列車の隣の線路には、明らかに強制収容所に送られるユダヤ人で満杯の貨車が見える。
◆ビッサーは、マクナマラやトーマスを自室に入れ、ジャズのレコードを聴かせたりする。BBCのニュースを聴き、ナチの戦況が思わしくないことも知っている。『ピースメーカー』で注目を集めたマーセル・ユーレスが、屈折したキャラクターを見事に演じている。
◆この映画の邦題は、「ジャスティス」つまり「正義」となっているが、この映画は、実は、戦争には(第2次大戦の時代においてすら)正義はなかったという話である。あるのは、ロジックであり、決まりを守るということだけだった。最後のシーンで、そうしたロジックを厳守することがクライマックスに達するのだが、それは、ドラマとしては、悲劇のクライマックスのように様式美のすぐれた表現であるとしても、現実的には、虚しく、ばかばかしいのである。三島由紀夫が切腹し、介錯されたことが、観念的なドラマとしては「美しい」としても、床に転がった彼の首が少しも美しくはなかったのと同じように。
◆最後のシーンは、軍人が仲間を助けるために自己を犠牲にするように見える。しかし、同時に、決まったロジック以外には動かない戦争機械の非情さ、ばかばかしさが表現されてもいる。軍人は、
ロジックを厳守し、それを守り通すしかない。では、なぜ軍隊は、ロジックの外へ出ることができないのか? そういう問いを残しながら終わる映画は、ハリウッドでは少ない。
◆【読者コメント】2002-08-17
(ギャガ試写室)



2002-08-07

●なごり雪 (Nagoriyuki/2002/Oobayashi Nobuhiko)(大林宣彦)


◆まいった。大林がこういう映画を作ると見ていてつらくなる。「二十一世紀の映画活動をこの臼杵から始める」というので、尾道に代わって大分県の小町を舞台にしているが、少年少女時代の「純真さ」への執着、それを裏切っていく時間の虚しさとなつかしさのようなものの強調はあいかわらず。しかし、場所がちがうのだから、なんか自分の好みにあう(合わしてくれる)場所を求めて広島から大分までたどり着いた哀れさがある。
◆映画が「絵空事」であることを映画のなかで大林は強調するが、そいうだとすると、大林作品における「純真さ」のようなものも「絵空事」にすぎないわけで、それをいかに情念的に形にするかが彼の映画の仕事になる。しかし、それにしては、役者の演技がダメ。わたしは、『M/OTHER』の三浦友和を高く評価しており、今回の出演を大いに期待したが、これは、三浦に失礼な映画だった。せっかく彼を出しておきながら、彼が十分演技する暇をあたえず、彼の少年時代のシーンに時間をさく。が、若手の役者たちもみな出来が悪い。これは、台本がダメだからだ。役者の身ぶりや表情やカメラの存在を考慮していない台本で、とにかく、説明がくどい。新幹線が映しておいて、すぐに三浦に「翌朝わたしは新幹線に乗った」と解説的な台詞を言わせる必要があるのか? 何のための映像?
◆わたしは、この映画を批評する資格がなさそうだ。というのも、この映画は、伊勢正三の同名のフォークソングをモチーフにしており、映画はまず、30年前の自作をギターとともに歌う伊勢の全身像なのだが、わたしは、基本的にフォークが嫌いだからである。フォークのささやくような「やさしさ」や「ヒューマン」で「ナイーブ」なコンテンツとテンポには偽善を感じる。60ー70年代の政治運動とフォークとの関係は密接だが、わたしの独断によれば、60年代のラディカリズムは、フォークとともにダメになったと思う。
◆フォークにわたしが感じる「偽善」は、大林の映画に感じるある種の違和感とも結びついている。彼の「優しさ」は、わたしには、なじめない。気持ち悪さすら感じる。
◆物語は、50を過ぎた梶村(三浦友和)が、28年連れ添った妻に逃げられ、それを悲観したわけでもなさそうな退屈な雰囲気のなかで遺書をしたためるが、すぐに自殺しようというのでもない(この感じをなかなかよく出している)でいると、故郷の旧友水田(ベンガル)から電話が入る。彼の妻が交通事故に遭い、もう先が長くななさそうなので会ってやってくれという。そこから28年まえに画面がフラッシュバックし、以後、三浦はあまり決定的な演技をする場がなくなる。焦点は若い時代の彼らであり、大人の二人のなかではむしろベンガルの方に多くの台詞(ただしへた)と大げさな身ぶりが割り当てられる。
◆28年まえ、梶村(細山田隆人)は、雪子(須藤温子)に好意を持っており、学友の水田(反田孝幸)も彼女が好きだったが、梶村を立て、3枚目を演じていた。やがて、梶村が東京の大学に入り、故郷を離れる。そしてある日、ゼミの同級生(室生舞)を連れて夏休みを過ごしに帰省する。ここで、よくあるパターンのやりとり(東京の女の無神経、雪子のショック、周囲の動揺・・・)があり、結局、梶村は雪子にとって遠い人になり、何年かのち、家業を継いで臼杵を離れなかった水田と結婚し、20数年が経った。
◆わたしには、全く納得がいかないのだが、水田によると、その間、雪子が本当に愛していたのは、梶村であり、決して水田ではなかったという。そんなことがわかっているのなら、もっと早く別れてしまえばいいのに、と思うが、そうしないでぐじぐじやるのが人生だみたいな一連のドラマや小説がある。この映画はまさにその系列。断っておくが、わたしは、実人生がそれほど単純だとは思っていない。思っていないからこそ、それをあたかもなぞったかのような「ぐじゅぐじゅ」を「再現」するふりをしないでほしいと思うのだ。
◆大林宣彦がつまらなくなったのは、尾道という「非場所」で「現実」には「ありえない」「純」な世界を構築していたところから、コミュニティとか文明とかさらには町起こしのようなことを映画に持ち込むようになってからである。
◆この映画でも、そういうかつての大林のよさを懐かしく思わせる個所がないではない。それは、梶村がガールフレンドを連れて帰省していたある夜、寂しげな様子で家に帰った雪子を追って水田が彼女の家に行くと、彼女がカッターナイフで自殺しようとしているかのような場面に出あう。水田は必死にナイフをつかみ、負傷するが、その様を遅れて飛び込んできた梶村も目撃する。しかし、20数年まえのこの事件の記憶のなかで、梶村には、彼女がしきりに叫んでいた「違う」という声が残っている。何が「違う」のか?
◆この謎については、これ以上言及するのを避けよう。この映画でわたしが唯一感動したのは、その謎が解けるところであり、それが映像的に表現されるシーンだった。なぜ、大林は、このシーンをクライマックスにしなかったのだろう。したつもりかもしれないが、最後のシーンが余分だった。東京に帰る三浦をベンガルが駅のホームに見送り、走り去る列車を見ながら泣き崩れるシーンは最悪である。ベンガルの大げさな泣き声と身ぶりにもかかわらず、目には一滴の涙も映ってはいないのだから。
◆何度も書いているが、いまの20代の特に女性のしゃべる日本語は、それ以前の世代の発音と決定的に違う。「どっち?」は「どっツィ?」となる。「おいくらですか?」は「おいくらデュシュか?」、「わたし」は「わたスィ」・・・等々。だから、28年まえと現代とを対照的に描くということが核心のこの映画のような場合、そうした発音の違いに気を配って演出しなければ、非常に雑なドラマしかできない。
◆山本有三の『心に太陽を持て』が大真面目で評価されたのには、まいった。30年まえには、わたしのような悪ガキには特に、このタイトル自体が冷笑を発動する冗談の材料だった。
(メディアボックス)



2002-08-07

●オースティン・パワーズ ゴールデンメンバー (Autin Powers in Goldmember/2002/Jay Roach)(ジェイ・ローチ)


◆立ち見が出るほどの盛況。最近の渋谷東急はぱっとしない試写会が多かったので、盛況にこしたことはない。
◆ギャガのジングルが終わると、広大な砂漠と岩のあいだのハイウェイをバイクで猛進する女性の姿が空中から映される。それを追うヘリが現れると、別の場所で「オースティン・パワーズ」がスポーツカーに乗り、発進する。たちまちバイクに追いつき、ヘリと交戦。スリリングな戦闘があって、ヘリが爆発し、女性と男性が笑顔でマスクを脱ぐ。意外だが適役の有名人をそこに発見して、観客は満足。これ以外にも、ハリウッドの有名人が登場する(全8人)が、「一般観客の楽しみを損なわないために」「カメオ出演者」の名前の公開は控えてほしいという通達が配給会社から回されているので、ここではそれに従う。
◆オースティン・パワース・シリーズは、通常の映画の基準で批判することも楽しむこともできない。一体、「カメオ出演」のシーンと本筋とどういう関係があるのかと問うても意味がない。10分ごとに面白ければいいじゃないかという発想。だから、一時代前のハリウッド映画がやった差別的な日本表現とみまちがいそうなシーンやせりふも登場する(しかし、にもかかわずそうではないのは、そいこで出てくる日本語がちゃんとしていることからもわかるだろう)。
◆マイク・マイヤーズは、前回よりも少し太った感じ。もっとも、この人、何役もこなすから、太って見えるのも、そういう設定かもしれない。「カメオ出演者」の多くは、「オースティン・パワーズ」のメイクで登場し、なかには従来のマイク・マイヤーズよりも太めの役者もいるから、それに合わせて「本物」の方を太めにしておかなければならなかった、という推測も成り立つ。
◆「フクミ」(Fukumi)という日本人の女がAPに写真を撮らせてくれと言ってくるが、APは、彼女の名を初め「ファック・ミー」(Fuck me)だと聞き違える。これも、差別スレスレのところがあるが、そうでないところが面白い。
◆オランダ人(マイク・マイヤーズ演じる「ゴールド。・メンバー」)をことごとくコケにするシーンがあるが、これも、同じ人間が役をやっているということも含めて、許されてしまう。このへんは、ニューヨークの街頭で見かける(見かけた)スタンダップ・コメディに似ている。いならぶ観客のさまざまな人種的相違をネタにして皮肉な話芸を披露するが、1つの人種だけをターゲットにしないことによって、差別性はうすれてしまう。
◆ギャグも、みな子供じみた下半身に関するものばかり。小便小僧が置いてあるロビーに潜入し、その像のかげに隠れたAP (マイク・マイヤーズ)が、うっかり電気のコードを抜いてしまい、小便小僧の「水」が止まる。すると、APは、自分の小便を出し、受付の目をごまかそうとする。出なくなるとミネラル(ひょとして「ポカリスウェット」だったりして)を飲み、出し続ける。このナンセンスへの執着は何か?
◆セックスのネタもたくさん出てくるが、みな子供じみている。「ファット・バスターズ」(ゴムのメーキャップを見せつけているような、マイク・マイヤーズが演る何役かの登場人物の1人)が、最後に痩せた姿で出てきて、首のまわりの皺を触り、「ヴァギナみたいだろう」と言う。この人物は、こういう身体感覚に関しては徹底していて、いつも、体からカサブタのようなものをはがし、食べたり、コレクションの箱にしまったりしている。
◆はっきりしているのは、父親と息子の相克と和解のテーマ。ドクター・イーブル(マイク・マイヤーズ)が81センチの身長の「ミニ・ミー」(ヴァーン・トロイアー)を寵愛すれば、スコット・イーブル(セス・グリーン)はひがみ、その逆も起こる。今回は、ミニ・ミーがドクター・イーブルを捨て、APのところに来る。また、今回、APの父親ナイジェル・パワーズ(マイケル・ケイン)が登場し、出生と成長の秘密を明かす。
◆APもドクター・イーブルも、子供時代に幸せではなかったという前提。父親は、自分を認めてくれななった。最近の映画には、父親の問題がしばしば登場する。父親との和解、息子が父親を認めるかどうか・・・『海辺の家』もまさにそんなテーマだった。
◆この世界では、APは、007のように世界をまたにかけるのではなくて、時間をまたにかけ、世界というより時代の典型的場所(1975年の「スタジオ69」には笑った)をまたにかける。
◆この作品は、今年の4月に若くして死んだカーラ・フライ(Carla Fry)に捧げられている。フライは、『ロスト・イン・スペース』や『マスク』などのプロデュースのほか、『マグノリア』、『デトロイト・ロック・シティ』、『アメリカン・ヒストリーX』、『ブレイド』そして前々作の『オースティン・パワーズ』など多数の作品の製作に関わってきた。
(渋谷東急)



2002-08-05

●イノセント・ボーイズ (The Dangerous Lives of Altar Boys/2002/Peter Care)(ピーター・ケア)


◆ジョージア州のカソリック系のジュニア・ハイスクール。処女的意識を残した厳しく信心深く弱みを見せないシスター・アサンプタ(ジョディ・フォスター)にことごとく反抗する2人の生徒、フランシス(エイミール・ハーシュ)とティム(キーラン・カルキン)。ファーザー・ケイシー(ヴィンセント・ドノフリオ)は、アサンプタに好意を持っているが、彼女はとりつく島がない。それだけ、彼は、世俗的な「人間らしさ」がある。が、ワルガキたちにとっては、どちらも「敵」。彼らの反抗は、アサンプタが厳格すぎるからというよりも、年齢的な反抗精神の奔出。いくところまでいかないと治まらない。
◆冒頭、人影のない通りで、電線のない電柱(トランスがついている)に電気ノコで切れめを入れ、倒れてくる場所に立つ2人。電柱は、すれすれに倒れ、2人は死ねない。「やつらは何をするんだ!?」という感じは効果的に出ている。
◆フランシスとティムは、対照的に描かれる。フランシスはスウィートだが、ややシャイなところがある。彼は、学校のウサを「アトミック・トリオ」というコミック劇画に描き続けている。ティムは、マセていて、ウィルアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』を愛読している。バスのなかでそれを読んでいて、シスターに禁じられる。フランシスが、気のあるマージ(ジェナ・マローン)に声をかけられないのを、ティムは、フランシスの名でブレイクの詩を書いた手紙をそっと渡し、橋渡しする。
◆新聞スタンドの青年が唯一この町で怪しげな媒介役をしているらしいが、基本的に誘惑材料のとぼしいこの町で、彼らは、あれこれ工夫して「悪さ」をする。父親のアルコールを何種類も少しづつくすねて混ぜ合わせるとか、クレーン装置を使って、学校の建物の上方に据えつけれれている聖アガタ像を盗み出すとか。エスカレートした末のアイデアは、動物園からクーガ(アメリカライオン)を盗み出し、シスターの部屋へ放つこと。
◆所詮は子供ぽいのだが、描き方が、少年たちをちゃらかしてはいないので、いたずらのエスカレートするたびに見ている方ははらはらさせられる。実際、動物園に忍び込み、自作の合成麻酔剤を矢に塗ってクーガに打ち込み、成功成功とばかり、それを運び出そうと、大胆なティムが柵のなかに飛び込むと、暗闇から別のクーガが突進してくるくだりは、怖い。
◆スタイルが斬新。画面のなかに、たびたび、フランシスが描いていることになっているコミック劇画「アトミック・トリオ」のページが挿入され、それが動画として動き出す。この映画はアニメの要素ももっている。
◆それぞれに問題をかかえている少年たち。家では、親父はあたりまえのことしか言わない。外から帰ってくると、両親が猛烈な口論をしており、弟はそしらぬ顔でテレビを見ている。マージの家も色々ありそう。彼女は、兄にセックスを強要されてきたという傷を負っている。
◆マージを演じるジェナ・マローンは、『コンタクト』でジョディの子供時代を演じた。今回、この映画のプロデュースもやっているジョディの強力な推薦で役を獲得。
とにかく反抗することが生きがいの若者が現実にぶちあたる。教訓的でなく、現実に語らせる。
◆動物園の猛獣は、檻に人間が入ってくれば、攻撃するだろう。それが「現実」だ。こういう明確なロジックを認めたくないし、知らないのが若さ。彼らは、シスターを「ゴッジラ=ゴジラ」にひっかけて「ヌンジラ」(Nunzilla)と呼ぶが、見ているかぎりでは、あるいは他の映画のこの手の厳格なシスターに比べて特に意地悪とも厳格すぎるとも思えない。とにかく、スポーツとか犯罪とかに奔走するのとは一味違った「若きあやまち」「若気のいたり」が生き生きと描かれている。
(ギャガ試写室)



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