粉川哲夫の【シネマノート】
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★今月公開超私的ベスト5 (公開順): コーヒー&シガレッツ   コンスタンティン   海を飛ぶ夢   PTU   ベルリン、僕らの革命  

■遅ればせながら以下の三作をアップしました: 樹の海   やさしくキスをして   大いなる休暇  

最後の恋のはじめ方   ヒトラー~最期の12日間~   ザ・インタープリター   メリンダとメリンダ   皇帝ペンギン   モディリアーニ   ミリオンダラー・ベイビー   フォーガットン   戦国自衛隊1549   キングダム・オブ・ヘブン   デンジャラス・ビューティ2   空中庭園   ザ・リング2   サハラ   ワン・ナイト・イン・モンコック  

2005-04-27

●ワン・ナイト・イン・モンコック (One NIght in Mongkok/Wong gok hak yau/2004/Tung-Shing Yee)(イー・トンシン)  ★★★★4/5

One NIght in Mongkok
◆渋谷を歩くと、役者になった気になる。どこかから見られているという感じだからだ。実際、駅前のスターバックスの席から交差点を見下ろしている客の姿が多数見えるし、ほかのビルからも見えるから、「わたし」は誰かから見られているにちがいない。自分が見られているのと、他人をこっそり見るのとどちらが好きかと言われれば、わたしは、見られるほうが好きだ。映画は、それ自体としては、「覗き見する」対象だが、それについて書くことによって、「わたし」は、映画に「見られる」「見返される」対象に逆転する。恥ずかしがり屋だったら、こんなウエブサイトなんか開けない。
◆ハンサムな殺し屋と娼婦という定型的なラブロマンスの要素を一方におきながら、同時にヤクザ映画でもあり警察ドラマでもあり、最後まであきさせない。本土の湖南省のある村(「五月溝」とかいった)から香港にやってきて、あやしい人寄せ屋をやっている夫婦。東映のヤクザ映画で見たかのような暴力団の抗争。このへんのタッチはなかなかいい。息子を殺された親分は、その人寄せ屋に殺し屋を手配させる。故郷とのコネクションですべてやっている彼は、村出身のフー(ダニエル・ウー)を香港に呼ぶ。彼は、香港入りして、すぐにヒモか手配師気取りの男に暴力をふるわれている娼婦・タンタン(セシリア・チョン)を助け、彼女が同郷人だと知り、親しくなる。彼女フーのことは、抗争相手の方も察知し、彼を追いはじめる。その一方、香港警察のミウ警部(長塚京三にちょっと似ている)(アレックス・フォン)は、タレコミ屋(これが実にいい顔をしている)からこの一件を知る。時は12月24日。彼も、その部下たちも、それぞれに悩みをかかえている。警察ドラマとヤクザとボーイ・ミーツ・ガールのストーリーを組み合わせる手際は見事。
◆フーは、タンタンとレストランに行き、サラダをたべながら、「生じゃないか」といぶかしがる。野菜サラダを知らないという設定。しかし、その風貌は、メガネをかけた繊細なインテリの顔をしている。が、腕っぷしは、殺し屋だけあって、なかなか強い。そういう設定なのだ。彼は、タンタンを助けたとき、メガネを壊してしまい、タンタンに連れられて、メガネ屋に行く。コンタクトならすぐ出来るといわれ、それにする。これは、実は、アレクス・フォンをメガネなしで見せる映画的演出。それは、そうであっても、メガネをとったフォンは、なかなかいい顔をしている。
◆香港は、貧しい村からやってきて、成功を勝ち取る都会という設定。しかし、やってきた彼や彼女らは、故郷との関係をささえにしている。東京でも、飲み屋を見ると、どこか、秋田とか新潟とか特定の地域との関係を看板にしているところが多い。そうしたローカルカラーが経営者の故郷へのアイデンティティになっていることがよくある。わたしは、東京生まれの東京育ちで、東京もあちこち動いたので、「故郷」というものの実感がない。
◆タンタンは、しつこい生理痛になやんでいて、フーが彼女のために鎮痛剤「パナドール」を買いに薬局に行く。20香港ドルと店の人が言う。が、当然、彼が外へ出れば、「危険」が高まる。金額のついでに、二人の会話によると、タンタンのかせぎは3週間働いて3000香港ドルだという。むろん、そこからピンハネされる。1日何人の客を取るのか知らないが、3000香港ドルは、日本円で4万円程度。それを21(日)で割ると、1日1000円以下の稼ぎということになる。フーの村では、牛一頭が180香港ドルだという話も出てきた。
(シネカノン試写室/ファイヤークラッカー+真空間)



2005-04-26_2

●ザ・リング2 (The Ring Two/2005/hideo Nakata)(中田秀夫)  ★★2/5

The Ring Two
◆アスミック・エースの試写室を出たら、外は猛烈な雨だった。見たばかりの『空中庭園』に小泉今日子が雨に濡れるシーンがあり、妙な符合を感じた。あおい書店をちょっと覗いて、またもとの試写室へ。最初からその予定だったのだが、ほかに行く予定だったら、びしょぬれになっただろう。
◆「怖い」映画として浸透してしまった「リング」だが、中田が本当にやりたかったのは、こういうことだったのか、あるいは、中田ぐらいの監督がハリウッドで仕事をすると、こんなにもハリウッド路線にふりまわされてしまうのか、という相反する思いが最後までふっきれなかった。本作は、「怖い」というようりも、シングル・ペアレント・ファミリーの母子の不安を描いた典型的なハリウッド物語になっている。
◆撮影中、プロダクションの事務所の水道管が破裂して床が水びたしになったり、飲料水の大きなボトル(アメリカにはよくある)が破裂して、またしても事務所の床に水が流れたとか、どこでだか知らないが撮影中に蜂の大群が襲ってきたとか、不可解な出来事が起こり、中田監督は、日本から神主を呼んでお祓いをしたとか。そうか、中田の井戸に出現する「あれ」は、神道のロジックに違犯したたたりなんだ。だとしたら、あまり怖がる必要はないのでは?
◆井戸とか髪の毛とか水に対する感覚がアメリカと日本とは違うから、日本版で気持ちが悪いと思った部分は、見事に、気を貫かれた感じで、全然気持ち悪くない。だから、「怖がらせる」装置の力点を井戸よりも浴槽のほうに移している。西洋の浴槽は、棺桶との共通性があり、どこか死とつながっている。日本でも、西洋式の浴槽を入れる家が増えているようだが、よく見ると、どこかちがう。もっとも、日本には、「座棺」というのがあったから、入浴はいずれにしても死と関係があるのかもしれない。
◆ナオミ・ワッツが、今回ほど「普通」に見えたことはなかった。プロモーション的な意味をのぞけば、別にナオミ・ワッツでなくてもよかったのではないか? まあ、その意味では、シシー・スペイセクがもっと気の毒。なんでこんな作品にでたのだろう?
◆周防正行が、『アメリカ人が作った「Shall We ダンス?」』(大田出版)で詳細に記述したようなリポートを中田秀夫にも期待したい。ちなみにこの本は、日米の映画制作の違いだけでなく、その文化の違いを活写している。また、ちょっと詳細に触れると、「ネタバレ」などとさわぐ、誰の利害に立ってものを言っているだかわからない族(やから)には必読の映画批評の創造的な方向を示唆してもいる。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2005-04-26_1

●空中庭園 (Kuchuteien/2005/Toyoda Toshiaki)(豊田利晃)  ★★2/5

Kuchuteien
◆昨日は、インターネット・カルチャーについての講義のあと、新宿に直行して、シュー・リーチェンと会った。彼女とは、ディーディー・ハレックの紹介でニューヨークで会い、以後20数年のつきあい。近年は海外で会うことが多かった。今回は、四方幸子が企画したICCの『オープン・ネイチャー』展の招待で来日した。彼女は、レズビアン・セックスやヴァーチャル・セックスをテーマにした『フレッシュ・キル』(Fresh Kill/1994/Shu Lea Chang)と『I.K.U.』(I.K.U./2000)という映画も撮っている。遅くまで話したので、ほどよく疲れ、その結果として今日は早起きした。さいわい、今日は試写をばっちり見ることができる日。
◆家庭や家族に関心がなければ、家庭や家族を呪うことも礼賛することもできない。おそらく、この映画の原作者・角田光代は、家庭や家族への関心が深く、できることならば、「平和な家庭や家族」の生活を送りたいと思っているのではないか? タイトルの『空中庭園』は、「家庭なんて所詮は空中庭園なのよ」とスネた表情で言い切ってしまう背伸びと未練が感じられる。そして、その原作にもとづくこの映画も、そういう背伸びと未練のなかを右往左往しているように見える。
◆小説も映画も、経験者がその経験にもとづいてつくるわけではないし、その必要もない。そして、面白い世界は、創作者の思いきり無理をした飛躍のなかで生まれることも少なくない。しかし、この映画で描かれる家庭・家族は、それ自体がマスコミが表象する「家庭」や「家族」であり、それ自体が「空中庭園」なのである。これは、マスコミで報じられた「実際」の出来事にもとづきながら、「現実」とは別の新しい現実を生み出した『誰も知らない』との大きな違いである。
◆おそらく、ここに登場する俳優たちは、小泉今日子も板尾創路も鈴木杏も、「人生経験」豊かな俳優たちである。しかし、そういう彼女や彼らが、この映画で演技するとき、うすっぺらな存在になりはてる。後半に、「家庭って、学芸会なんだ」という台詞が出てくる。それは、家庭では「なにごとも包み隠さず、タブーをつくらない」という京橋家のモットーが崩れてきたときの台詞であるが、そんなことは、あまりにあたりまえのことであり、そういうことを前提としたうえでなければ、家庭や家族を問題にしても仕方がないのではないか?
◆こういうモットーのもとに、京橋家では、娘(鈴木杏)や息子(広田雅裕)から、自分たちは、どこで種付けされたのといった質問を受けると、母親(小泉今日子)も父親(板尾創路)も、照れずに、あるいは「そんなこと!」などと怒ったりせずに、近所のラブホテルでとか、この団地の部屋でとか「率直」に答える。が、現実には、そのモットーは、「空中庭園」であって、父親には、愛人(永作博美)がおり、不動産会社の受付の女性ミーナ(ソニン)とも関係を持っている。娘や息子たちも親に言わないことがある。そして、ミーナが息子の家庭教師として京橋家にやってくることに至って、そのタテマエとホンネのギャップはさらに広がる。しかしねぇ、こういう話って、全然面白くないんだな。
◆小泉今日子の演技力で、自分が背負ってきた過去と、うすうすわかっている家庭の「空中庭園」化との圧迫に押しつぶされそうになりながら耐えている妻・母・女の存在がそれなりに表現されていはいるが、彼女の本領が発揮されてはいない。すべての設定があまりに紋切り型だからだ。それは、演技だけ「迫力」がありながら、登場人物としては薄っぺらな存在になってしまった、大楠道代が演じる京橋さとこという人物に関しても言える。さとこは、絵里子(小泉今日子)の母親であり、この母親は、娘に淋しくつらい思いをさせたらしいことが示唆される。まあ、ある意味で勝手な生き方をしてきた女性なのだが、そんなのあたりまえじゃないかと思うわたしのような目からすると、これも、ちょっと「変わり者」を描くときのありがちなパターンだよなと思うのである。
◆意図的にパターンを持ちだすのなら、それはそれで面白い。が、一方に「存在感」の希薄なキャラクターを置いておいて、他方に、病院やバスのなかでもスパスパ煙草を吸い、顰蹙を買う「ばばあ」を対置し、その月並みな対置法が、絵里子らが住むマンションのインテリアと、さとこの家の「和風」のインテリアとの対比にも適用される。いまどき、小さいながらも雨戸があり、井戸(?!)がある2階建の木造建築なんて、それがこぢんまりしているのだからなおさら、めったにありはしない。大楠道代が演じている「ばあさん」の歳と世代なら、もうこんな家には住んではいないはずだ。いや、住んでいる人もいるだろうが、いるかいないかが問題ではなく、その対比の月並みさが問題なのだ。
◆こうなると、最後にはこのばあさんがタンカを切って下の世代をさとすといったパターンになるのは目に見えている。娘の側からすると、わたしは、あんたの家庭を「反面教師」にして自分の家庭を作ろうとした、ということになり、バアさんの側からすると、お前は「母親失格」だよ、ということになる。そして、後者の方が「説得力」をもってしまうのだ。
◆では、大楠=小泉、小泉=鈴木という世代の異なる母=娘関係が対比されているかというと、そうでもない。世代論的な紋切り型の視点はあるにもかかわらず、そのへんはあいまいだ。こういう紋切り型の世界では、バアさんと孫とは、うまく連帯が進んでしまうものだが、そういうありがちのシーンもちゃんとある。
◆さとこ(大楠)は、家庭・家族を捨てた、あるいは家庭・家族に対してななめにかまえながら娘を育ててきた人間なのだから、「ちゃんとした家庭・家族」など問題にならないはずだ。そして、その娘が、そういう母親の生き方にもかかわらず、それとは反対の生き方を選んだとすれば、母親は、娘を育てまちがえたのであり、娘も、母親から何も学ばなかったのである。こうなると、両世代には、まったく接点が見つからないのだが、それは、最初からそういうように「世代」をわけて描いたことの当然の帰結であって、実際にそういう世代が存在し、そういう乖離が進行しているということでもない。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2005-04-26_3

●サハラ (Sahara/2005/Breck Eisner)(ブレック・アイズナー)  ★1/5

Sahara
◆今日は、全部六本木で試写を見ることになったのは、全くの偶然。ピックアップしたら、たまたまそうなったのだ。さいわい、さきほどの豪雨はなかったかのように終わり、ひんやりとした空気が街を包んでいる。
◆この映画には、期待しなかったが、見て見なければ何も言えないので、見る。が、結果は予想の域をこえなかった。だいたい、わたしは、ペネロペ・クルスが好きではない。あのどこがいいのか? 叫び声なんかはまるで子供。これが、WHOで働く医学博士を演じているのだから、映画のコンセプトの奥行きはたかが知れる。こういうお相手といっしょだと、もうちょっとマシなマシュー・マコノヒーも、若き日のポール・ニューマンから厳しさを取りはずした顔つきのただのバカ男になってしまう。
◆いまのアメリカにはぴったりなのかもしれないが、非常にステレオタイプの「アフリカ」と、いまどき「馬鹿で醜いアメリカ人」でも、こういうセンスは持たないだろうと思わせる「白人」の対「アフリカ」へのセンス。本人をよく知らないで言うのもナンだが、いかにもディズニーの会長(マイケル・アイズナー)の息子が道楽で撮ったという感じの作品。
◆そうじゃないよ、ステレオタイプで撮ることがねらいだったんだと言うかもしれないが、なら、どこかに新鮮味を出してもらいたい。『レイダース/失われたアーク』とか『ハムナプトラ』シリーズなんかがやったこととくらべて、どこに新しさがあるのか? 砂漠の地下水脈を通して毒物が海に流れ、西欧世界を危機に陥れるのを救えという「世界を救え」テーマ(ただし、その「世界」にはアジカは入っていない)、アフリカでは、部族同士が内戦をし、そのなかに極度に悪辣なやつがいるという定型、アメリカの南北戦争時代の戦車を使って近代兵器を装備した軍と闘うというどう考えても無理な設定・・・それもあっというほど面白ければいいが、面白そうな顔をしているのはマコノヒーだけ。
◆とはいえ、お子様づれの観客にはそこそこ楽しめる作りにはなっている。それは、撮影・編集サイドがしっかりしているのと、演出と脚本(原作はクライブ・カッスラーのベストセラー「ダーク・ピット」シリーズであるにもかかわらず)のおそまつさを俳優たちがカバーしているからだ。脇役は、みないい。マコノヒーの相棒をつとめるスティヴ・ザーン、冒険家ダーク・ピット(マシュー・マコノヒー)を支援する提督役のウィリアム・H・メイシー、いかにもという感じで「白人」悪徳企業家を演じさせられているランベール・ウィルソン、みんな職人芸に徹している。
◆多少面白いと思ったのは、1865年にアメリカのリッチモンドから出た戦艦が、海をこえてはるばるアフリカにたどりつき、西アフリカのニジェール川に入り、いまは砂漠になっている地帯に埋もれたという設定。しかし、映画では、いかにもとってつけた感じにしか描かれていない。ここがしっかり描かれないと、舞台をアフリカにした意味が完全になくなってしまう。
(GAGA試写室/ギャガコミュニケーションズ)



2005-04-20

●デンジャラスビューティ2 (Miss Congeniality 2: Armed and Fabulous/John Pasquin)(ジョン・パスキン)  ★★2/5

Miss Congeniality 2
◆男の二人連れといってもゲイではなく、営業かなんかでいっしょに歩いている感じの男たち。手提げカバンを持って、地味な背広にネクタイという姿。きっと「仕事」で見ることを命令されたのか、あるいは、営業の空き時間に1人の方が他方を誘ったのか、とにかく、一方の男が、非常に多くの時間、ケータイメールをずっと眺めていて、すぐ後ろにいるわたしにその画面がまる見え。迷惑なのは、その内容ではなくて、スクリーンから漏れる光り。コートの袖なんかで隠して見ている可愛い御仁もいるが、こいつは堂々。
◆こういうやからがいると、まわりは、この映画、そんなにつまらないのかと思いそうになるが、わたしは、意外に面白いと思った。簡単に言うと、この映画は、「ホモイロティック」なオバカムービー。「ホモイロティック」というのは、ホモ的雰囲気のあるといった意味。基本的にはレズビアン映画なのだが、それをボカしている。だから、「ホモ」的ではなくて、「ホモイロティック」なのだ。
◆しかし、この前編にあたる『デンジャラス・ビューティ』(Miss Congeniality/2000/Donald Petrie)にくらべると、サンドラ・ブロックが演じるグレイシー・ハートは、そのレズ性をかなりはっきり出しているし、最後のシーンは、完全にグレイシーのレズ宣言になっている。日本では、こうした側面については、論じられなかったし、この続編に関しても同様だろうが、「ゲイ・プライド」のはっきりしているアメリカでは、最初から、この映画は、レズの観客を想定して作られたはずだ。
◆むろん、そんなことを意識しなくても、刑事ものなどでよくある、組みたくない相手と組まされ、最初は喧嘩ばかりしているが、最後には親密になるという「バディ・ムービー」(buddy movie)として見ることもできる。が、それだと、後半のアクションと大半をしめるオバカドラマとドタバタしか見えてこないだろう。最初から、グレイシーはレズであり、レジーナ・キングが演じるサム(男名のところも意味深)もレズなのだと思って見ると、なかなか面白い。
◆ストーリー自体は、単純でばかばかしい。前作での功績(「ミス・アメリカコンテスト爆破未遂事件」を解決し、さらにそのコンテストで「ミス・コンジニアリティ」を受賞し、いまでは超有名なFBI捜査官――という設定。が、行くところどころでサインを求められるような状態でFBIの捜査に関わるのは無理。というわけで、FBIのPRに貢献することになる。スタイリストのジョエル(ディードリッヒ・ベイダー)にくわえ、護衛として腕っ節だけは男に負けないサムが同行し、PRツアーをはじめる。サムは、捜査がしたいのに、こんなチャラチャラした「女」の護衛なんかごめんだと思い、グレイシーに対してより反抗的になる。その粗暴な感じとそういう彼女にした屈折をキングが実にうまく演じている。
◆この映画に出てくる男は、ジョエルがゲイ、グレイシーがPR活動で派遣された先のラスベガスのFBI本部主任捜査官コリンズは、頭の固いよくいる権威的な「男」、PR担当のジェフ(エイリケ・マルシアノ)は、優柔不断、ミスアメリカのシェリル(ヘザー・バーンズ)といっしょに誘拐されてしまうコンテストの司会者スタン(ウィリアム・シャトナー)は、マザコン、誘拐犯の2人は、絵に描いたような悪党・・・と、ニューヨーク本部でグレイシーを気づかう上司のマクドナルド(アーニー・ハドソン)をのぞけば、どいつもたよりにならない。が、コリンズのような「男」の悪い部分を代表しているような族(やから)は、最後まで批判的にえがかれるが、ジェフやスタンのような「ダメ男」は好意的にえがかれる。むろん、その血縁性で2の2乗倍されたかのような男くさい誘拐犯の兄弟は、全面的に否定される。
◆ドリー・パートンといえば、シンガーとしてはむろんのこと、映画に出ても別格のあつかいだったが、この映画では、ちょっとなさけない役で出てくる。なんかもったいない感じ。が、パートンがレズビアン・フェミニストであることを考えると、納得できなくもない。
◆グレイシーとサムが、ラスベガスの「ドラッグ・クイーン」のクラブで安いそっくりさんといっしょに演技するはめになり、サムがティナ・ターナーにふんするシーンがある。二人は、そこで結局、大喝采を浴びるが、「男」のなかの女二人が、もし、キャンピーでなかったら、あんなに受けることはなかったのだ。わしにはようわからんが、このシーンでのサムの変貌が、「ティナ」に似ていたというよりも、そういうキャンピーな波長に合っていたのだろう。
◆この映画のタイトルは、前作「デンジャラス・ビューティ」を引き継いだものだが、同じタイトル(英語)の作品 (Dangerous Beauty/1998/Marshall Herskovitz)があるので、まぎらわしい。原題の "Miss Congeniality" は、「ミスアメリカ」などの「美人賞」のジャンルの一つで、辞書的には、「感じのいいこと」といった意味。しかし、"congenial" は、もともと「相性がいい」とか「同性質の」といった意味で、同性愛の含みもある。このへんが映画タイトルとしてうまく訳せないところに、日本でこの映画が理解される限界が示唆されているかもしれない。
(ワーナー試写室/ワーナーブラザース映画)



2005-04-14

●フォーガットン (The Forgotten/2004/Joseph Ruben)(ジョセフ・ルーベン)  ★★★3/5

The Forgotten
◆試写は大分まえから回っていたが、なにか弱い感じがして後回しにしてきた。が、今日は、銀座に出たいということもあって、見に行くことを決心。折しも小雨。が、映画は、意外にいい出だし。主役は、最初ニコール・キッドマンが予定されていたらしいが、ジュリアン・ムーアは、適役。そもそも、ムーアは、「そんなはずじゃなかった」という境遇に陥った人間の当惑とやりきれない感じの表情を出すのがうまい。キッドマンにもそういう要素は少しあるが、彼女の場合は、その当惑度が弱く、自分をそういう状況に陥らせた相手を呪い、ムーアより攻撃的になる。それと、この映画のように「失った」息子への思いの深い母親の役だから、「母」的要素の希薄なキッドマンよりもムーアが適役。
◆観客をドキリとさせる映画術はなかなか見事。突然車がぶつかるシーン(『ジョー・ブラックをよろしく』でいきなりブラッド・ピットが車にぶつかって吹っ飛んでしまうときのショックにまさるとも劣らない)あたりから、非常に短いのにドッキっとさせるシーンが5回ぐらいあり、そのたびにわたしのすぐ隣の女性は身体を宙に浮かせるのだった。この人がもしわたしの知り合いだったら、とっさにわたしの腕をつかんだのではないか? そういえば、最近、こういう反応を起こさせる映画が少ない。
◆サマーキャンプに出かけた9才の息子を「飛行機事故で失った」テリー(ジュリアン・ムーア)は、14ケ月がたっても、そのショックからたちなおれない。息子の部屋をそのままにし、写真やホームムービーのビデオを見ては涙にくれている。マンス医師(ゲイリー・シニーズ)の定期的なセラピーも受けている。しかし、ある日、いつも見ている家族写真を見ると、そこに映っていたはずの息子の姿がない。子供部屋に置いてある息子のアルバムのページには1枚も写真がないではないか。彼女は、夫(ジュム・パレッタ)を疑い、詰問する。しかし、夫は、「そんなものはもともとなかったんだ」、「息子へのきみの思いが生んだ幻想だったんだ」と言う。マンズ医師も同じ意見。もし、テリーが正しいのなら、世界がよってたかって彼女をだましていることになる。はたして彼女は、「トゥルーマン」状態に置かれているのか、それとも幻想と妄想の世界に溺れているのか?
◆記憶の問題は、時間の問題とともに面白い。記憶ほどあいまいなものはなく、また、鶴見俊輔氏が、近年『図書』(岩波書店)で連載されているスリリングな1ページコラム「自分用の索引」のなかでも示唆しているように、歳を取れば記憶が薄れるが、それは、また記憶のもう一つのありかたでもある。それは、記憶「能力」が摩耗したというようなことではない。そもそもまるごとの記憶というものが、特殊なものであって、それは、実は、レコーダーのような機械がすることを人間がまねをしていうのにすぎないのかもしれない。
◆ミッシェル・ゴンドリーの『エターナル・サンシャイン』でも、またマイケル・ウインターボトムの『CODE 46』でも、記憶の削除技術が可能であるという設定で話が進む。それは、宇宙人の「陰謀」でも謎の組織の「操作」でもなく、人間が、近未来にそういう技術を開発するということを示唆し、批判している。オオム真理教も、記憶の「削除」と「再インストール」が可能であるかのような説を唱えた。しかし、記憶の削除・復元・再インストールという発想は、その用語が示唆するように、コンピュータの機能を脳に押し当てている。ある部分ではそういう面もあるだろうが、脳は、いまわたしらが使っているコンピュータとは全く違う機能で動いている。
◆テリーでなくても、ある日、知り合いだと思って声をかけた相手から、「あなたはどなた?!」と訊かれたら、ショックは隠せまい。わたしも、前年に大学のゲスト講座に来てもらい、その場でも、またそのあとの飲み会でも大いにもりあがり、しかも、以前から相互に面識のあったある人が、数か月後に電話をしたら、わたしの名前を全く認識できないのに当惑したことがある。その人は、その後も、ご自身の活動の案内を送ってくれ、直筆で添え書きがしてあるのだから、わたしを忘れてはいないはずだ。しかし、だとするとあの電話はなんだったのだろうと思う。つまり、テリーが経験したようなことは、この現実のなかで、別に「陰謀」などなくても、起こりえるということだ。その点では、結末は単純すぎる。『バタフライ・エフェクト』は、もってまわりすぎているが、『フォーガットン』にも多少そういうもってまわったところがあれば、フォゲッタブルな作品になっただろう。
(UIP試写室/UIP)



2005-04-19

●キングダム・オブ・ヘブン (Kingdom of Heaven/2005/Ridley Scott)(リドリー・スコット)  ★★★★4/5

Kingdom of Heaven
◆大学が忙しくなり、試写を見る機会が少なくなったので、作品の選択に神経質になる。評判の高い『Dear フランキー』と本作とが同時間の試写なので、迷い、ハガキの試写状を空に投げ、表が出た方に行こうと試みるが、3度やっても両方とも裏になる。さらにもう一度試みたら、今度はそろって2枚とも表になった。自分で判断しろということらしい。結局、地下鉄1本で行けるFOXの試写を選ぶ。30分まえに着いたが、すでにかなりの入りで、作品の方も、アメリカの現状へのハリウッドの「良心」が感じられるかのような、なかなかの力作だった。
◆ブッシュのアメリカになってから、ブッシュを「時代もの」で暗に批判する作品が目立つ。『アレキサンダー』は「確信犯」(そのわりには成功していない)だが、『ワイルド・レンジ』、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』などには、あきらかにブッシュ政権批判とシンクロする要素が見いだせる。現代ものでも、『ナショナル・トレジャー』には、テンプル騎士団の話も出てきて、エンタメながら、批判精神を感じる。が、『キングダム・オブ・ヘブン』は、メインの舞台をずばり「エルサレム」に設定し、かつては「ユダヤ教徒、キリスト教、イスラム教徒が共存する」混成の都市だった場所が、戦乱の枢軸となっていくさまを描き、今日のパレスチナやイラクの現実を想起させる。
◆時代は、第1回十字軍(1096~99年)から100年ほどたった時代。百科辞書的な知識によると、紀元前以来諸国家・諸民族勢力の抗争にあけくれたエルサレムは、10~11世紀のイスラム支配下では、ユダヤ教徒、東方教会のキリスト教徒、イスラム教徒の三者が「平和裡に共存」していた。「聖地をイスラム教徒から奪還する」という主旨でエルサレムに侵攻した十字軍は、そうした共存を無視し、「新世界秩序」のイデオロギーを貫徹しようとした。まさにアメリカである。
◆寒々しい風景のなか十字架が見える。オーランド・ブルーム演じる鍛冶屋(といっても、時代が時代だから刀剣を作っている)バリアンは、子供を失った妻が自殺し、彼女を埋葬しようとしている。自殺した者は、埋葬に際して司祭によって首をはねられる。家に帰った彼は、真っ赤に焼けた鉄を打つ。すべてを忘れようとしているかのように。そこへ、十字軍の騎士数人が馬に乗ってやってきて、一夜の宿を求める。その長ゴッドフリーをリーアム・ニーソンが演じている。とくれば、何かあるとわかるが、案の定、彼は、たまたまここを通りがかったのではなく、バリアンに会いに来たのだった。彼は、十字軍でこの村を通過したとき、一人の女性を愛した。「乱暴したのではない、愛したのだ」というが、そのへんの真偽はわからない。とにかく、彼女が一人の息子を生んだことを知ったという。
◆バリアンは、オーランド・ブルームの風貌とは少しちがうように思えるが、信念の人で、十字軍に入ることをゴッドフリーが誘っても受け入れない。が、結局折れたとき、ゴッドフリーがやる儀式は、まず自分の指から指輪を抜き、それを与え、それから、剣、そしていきなりバリアンの頬を打つ。「この痛みを忘れるな」というのだが、それは、打たれる者の身になって考えろということらしい。バリアンは、彼から、「良き世を作るのが人のつとめ」という思想を受け継ぎ、エルサレムの「平和」を維持する使命を託される。ゴッドフリーは、当然、ボードワン4世の治下にあるエルサレムの現状を承知しているはずだから、この使命は、エルサレムの侵攻ということではない。
◆海を越え、船が難破して浜に打ち上げられたバリアンは、イスラムのサラディン王の配下の者とのつばぜりあいをへて(それが縁でサラディンに一目おかれるようになる)、エルサレムに入る。そこは、豊かな品々と多様な民族文化に活気づく街であり、混成都市である。市場を歩いていると、いきなり彼は、数人の男につけられ、ゴッドフリーを知っているかと尋ねられる。ちょっと『007』の雰囲気だなと思っていると、相手を確認した彼らは、急に恭順の態度を見せる。
◆混成都市を維持しているボードワン4世を演じるのは、エドワード・ノートンだが、ハンセン病にかかっている王は、つねに銀の仮面をかぶっており、誰が演じているかはすぐにはわからない。余生の短いことを知っている彼は、バリアンにこの都市の平和を守ることを託す。ボードワン4世の妹シビラ(エヴァ・グリーン)は、テンプル騎士団を組織するギー(マートン・ソーカス)の妻であるが、彼を愛していない。とくると、あとは、想像ができる。
◆シビラがバリアンのところに来て言うせりふが面白い。「東洋では人と人とをさえぎるものは光りしかない」というのだ。部屋にはローソクが燃えている。こうなるとそれを吹き消すしかないだろう。
◆ここではテンプル騎士団は、ネオコンみたいな描き方で、ギーは、戦争大好きのルノー(ブレンダン・グリーン)と組んで、砂漠を通過するイスラムの隊商の一団を虐殺したりする。これがきっかけで、サラディン王は数十万の兵をルノーのたてこもる砦を包囲する。こうなるとエルサレムもあぶない。ボードワン4世は、すでにテンプル騎士団の暴虐行為には断固とした態度をとってきた。映画では、テンプル騎士団の犯罪者が処刑されるシーンが映る。が、今回は、容易なことではすまない。それまでは、ボードワンとサラディンとのあいだには、ある種の合意がなりたっていた。
◆重病の身体をおしてボードワン4世は、みずから馬に乗り、砦に向かう。その態度にサラディンは折れ、兵を引き、ルノーはエルサレムに収監される。しかし、隊商襲撃の黒幕であるギーはとがめを受けず、ボードワ4世の死後、王女になった妻シビラの夫という地位を利用して王位を獲得する。それまでずっとボードワーンのもとでギーに批判的だった軍事顧問テイベリアス(ジェレミー・アイアンズ)が、そのやりかたに異をとなえないシーンは、組織の流れが一つの権力者のもとに落ちたとき、だれもさからえなくなるなさけない状況がよく出ている。アイアンズがその屈折をよく出している。
◆主戦論者が王になり、挑発的なことをくりかえせば、サラディンの方も黙ってはいない。結局、エルサレムは、サラディンの軍兵の猛攻撃を受けることになる。石を投射する巨大なやぐらが組まれ、そこからエルサレム城にバンバン石が飛んでくるのだが、その石が、爆発する。その音は、まさに爆弾みたいなのだが、火薬の発明はすでに中国でなされていたとしても、12世紀のイスラム圏でこれほどの威力のある火薬があったかどうかはあやしい。
◆孤軍奮闘し、最後はボードワン4世のやったような瀬戸際の「平和外交」にもって行くのは、バリアンだが、サラディンが攻撃の意志を変えるきっかけになるのは、バリアンの戦術的な知恵をまのあたりにしたことだった。彼は、鍛冶屋だったわけだが、この時代の鍛冶屋とは、いまのITか遺伝子生物学の専門家のようなもの。先端テクノロジーに精通しているわけだ。その工夫のさまを見ることができる。彼が、その「偉大な功績」を尋ねられると、「わたしは『ロード』ではない、鍛冶屋 blacksmithです」というくだりが、なかなかいい。「ブラックスミス」という音が印象に残る。この姿勢は、シビラとの関係においても貫徹される。ようするに、階級をぶらさげた関係は一切否定するというわけだ。12世紀という時代にそんな発想が可能であったかどうかはわからないが、意外と歴史というものは、1000年まえの方が未来的であったりするから、そういうことがあってもおかしくはない。が、時代ものというのは、その時代を「あるがまま」に描くのではなく、所詮は、今を描く方法の一つにすぎない。
◆死体が塁々とならぶシーン、残酷な戦い(まるで剣を持ったアメフトのよう)のシーンは、『アレキサンダー』などと似ているが、この映画のほうが、そういうシーンを見せる意味がはっきりしている。「戦争は大義のためではなく、土地と富を得るために起こされる」という映画中のせりふが一貫しているからだ。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2005-04-18

●戦国自衛隊1549 (Sengoku Jieitai 1549/2005/Tezuka Masaaki)(手塚昌明)  ★★★3/5

Sengoku Jieitai 1549
◆新装なった東宝の試写室。キャパは小さくなったが、ゆったりした椅子と最新の映写装置。かつての割れる音はなくなった。
◆半村良のファンとしては、「原案/半村良」となっているのが、ちょっぴり悲しい。たしかにタイトルは(ちょっぴりだが)違うし、原作は福井晴敏だが、この程度の「違い」だと、ハリウッドなどの常識では、半村が「原作」ということになるのではないだろうか? その昔、わたしを半村良ファンにさせた服部滋さんなんかは、どう見るかな?
◆自衛隊の秘密実験のミスで1549年にタイムスリップしてしまった実験プロジェクトの指揮官・的場毅(鹿賀丈史)と彼の率いる第3特別実験中隊が、1549年の世界で日本の歴史を塗り替える陰謀をたくらむ。それとは知らずに、的場らを助けようと、実験の失敗を再現して決死のタイムスリップを試みる実験責任者の神崎怜(鈴木京香)のロメオ隊。彼女を助けるのは、昔、的場のグループにいたが、いまは飲み屋をやっている鹿島勇祐(江口洋介)。1549年の世界には、斎藤道三(伊武雅刀)がおり、その娘・濃姫(綾瀬はるか)がいる。北村一輝が演じる飯沼七兵衛は、斎藤に使える武士で濃姫の幼なじみ。
◆下剋上の時代だから、実在の「信長」も、生まれたときのままの信長とはかぎらず、誰かが「本物」を殺して、すりかわったのかもしれない。歴史は、表街道しか描かないが、裏には何があるかわからない。歴史は、「物語」でもある。このへんの微妙さをうまく使っているのがこのストーリー。
◆タイムスリップものは、時間性の問題を考えさせるので、わたしは好きだ。過去は、過ぎ去ったものなのか、それとも、つねに再編成・再構成されることを待っている、現在のための未来的「素材」なのか? 後者にたてば、歴史「解釈」は、単なる余分な知的道楽仕事ではなくて、現在の変革であるということになる。事実がどうであったかではなく、「過去」をどう「解釈」するかによって「現在」が決まる。これは、1年とか100年の「過去」ではなく、1秒以下の時間について、いやナノセコンドについて考えれば、現実に、あなたやわたしが、瞬間瞬間に実行していることであり、だからこそ、どう生きるかが問題なのだ。
◆人は、一回寝て明日になると、自分が同じ人間、世界も「昨日」の延長と考えるが、その保証はない。人も世界も、秒単位で変化(というより飛躍)しており、そこに無理矢理「一貫性」や「連続性」や「同一性」をつけている(それが、物語るということ)のが人間なのかもしれない。そう考えると、次の瞬間に、別の次元や空間に飛び去ってしまうということもある。死とはそういうことの非常に見えやすい瞬間かもしれない。
◆人は、生まれたときは赤ん坊で、それが徐々に成長し、大人になり、老人になり、そして死人になると考えられている。しかし、生まれたときの「自分」と大人の「自分」とを同一化しているのは、観念であって、その存在そのものではない。この時間論にもとづけば、鏡のなかの自分を見て、あるいはむかしの写真を見て、「歳をとったなぁ」と思うのは間違いで、むしろ、「あれ、これ、誰だろう?」あるいは「ああ、こういう知り合いもいたな」と思うのが「普通」だ。
◆この映画は、時間についての色々な想念を触発するが、この映画のもっと明確なねらいは、かなりしっかりしている。それは、憲法改正とか、「中国侵略はなかった」とか、歴史の書き換えの動きに対する批判である。「新しい教科書をつくる会」だっけ? 日本の歴史を改悪しようとしている族(やから)は、現在を変えるために過去を改変することから始める。天皇は、高天ケ原からやってきたという「歴史」をつくれば、あるいはつくれれば、現在は確実に戦前・戦中のようになる。映画のなかで、いまや「信長」に「変身した的場は、「俺はこの時代からやりなおし、この国を一から作りなおす」とのたまう。
(東宝試写室/東宝)



2005-04-11

●ミリオンダラー・ベイビー(Million Dollar Baby/2004/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)  ★★★★4/5

Million Dollar Baby
◆この試写を見て、神田駅で中央線に飛び乗れば講義にまにあうと思い、会場に向かう。「内覧」以後最初の試写なので、早く行く。あせっていたのか、知り尽くしているはずの地下鉄京橋駅で、「映画美学校」に近い方の出口に出てしまう。外は雨。そのせいか、車内でも花粉症のマスクの人の数が少なかった。会場はすでに半分以上埋まっていたが、いつも座る席が空いていたのでさっと座る。プレスを読んでいたら、いきなり隣のクッションにドーンと重いものが落ちたので顔をあげると、そこに座る人がバッグを投げたのだった。アメリカンだなぁと思っていたら、案の定、映画を見ながら、アメリカ人のようによく笑うのだった。英語が得意なのかもしれない。でも、Y氏のように映画的知識をひけらかすために「不必要」なところで意図的に高笑いをする御仁もいるから、この人が本当に楽しんでいたのかどうかは不明。ただし、後半は、その笑いも絶えた。とても笑いながら見れる映画ではないからね。
◆クリント・イーストウッドが演じる主人公は、アメリカ人にしては、たいてい、シャイだ。これは、アメリカのフェミニストや「左翼」の人が彼の映画の主人公たちを「マッチョ」(この表記が定着しているから使うが、発音的には「マチョ」の方が正しい)と批判するが、それは当たっていない。彼らは、まず「シャイ」であり、その結果として、あるいはその関係で「横柄」であったり、「強引」であったりする。『ミリオンダラー・ベイビー』のフランキー・ダンも、彼のジムに来たマギー(ヒラリー・スワンク)を敬遠する。ボクシングは女がやるものではないというのだ。が、映画を見ていれば、フランキーが心底から女を嫌っているわけではないことがわかる。本当はやさしく、女も好きなのだが、妻や恋人や友人や神(!)の手前、素直に優しいふるまいができないシャイな男。
◆クリント・イーストウッドがゲイを自作自演(初期の作品で彼がゲイ的なキャラクターを演じたのがあったような気がする)することはない。しかし、それは、彼がゲイ恐怖(ホモフォビア)であることを意味しない。この映画でフランキーのジムで雑用係をやっているエディ・"スクラップ・アイアン"・デュプリス(モーガン・フリーマン)と彼との関係は、「ゲイ」的と言えないこともない。しかし、そうではないのは、前述の「シャイ」と関係がある。イーストウッドの「男」たちは、「シャイ」であることによって互いの一線を引くのだ。逆に言えば、一線を引くということが「シャイ」であり、性差(ジェンダー)を確定するのだ。そういう意味では、映画スタイル的にも、人間関係的にも、クリント・イーストウッドは、「古典的」だ。
◆この映画の本質を端的に言えば、それは、「距離の美学とエシック」ということになろうか。映画のなかで、「ボクシングは、リスペクトのスポーツ」だというくだりがあるが、「リスペクト」(尊敬)とは、相手に対する距離の取り方であり、距離を取りすぎれば、「敬遠」になり、近すぎれば、「不敬」になる。この映画は、「距離のスポーツ」であるボクシングを軸に「距離」の現象学を展開ししている奥行きが見事。
◆「義理がたい」とか、「友情にあつい」とかいう「古典的」なエシックは、人間同士の距離のとりかたのちがいにすぎないとも言える。時代と文化によって、人間同士の心的・物的距離の取り方が異なる。が、この「距離」をなくせると思いがちないまの傾向に対して、古典的なエシックは、「距離」の取り方を固定することが、「敬意」というものだと考える。肉体的にも、これこれの手続きを踏まなければセックスをしないとか、ハグをするにしても微妙な距離を置くとか、無造作ではないのである。フランキーは、まさにそういう「古風」な人間だ。だから、昔、ボクシングの「カット・マン」(傷の手当てをするプロ)をしていたとき、当時有名なボクサーだったエディの試合で、危険(彼はその結果、片目を失明する)を察知しながら、タオルを投げ入れることができなかった(「カット・マン」にはその資格もない)ことに罪の意識をいだいている。また、去って行き、連絡を拒んでいるらしい実娘との関係にも深い責任を感じている。いわば、自分が取った、あるいは取ってしまった「距離」に対する負い目に悩んでいる。
◆その意味では、この映画の後半以降は、こうした負い目(「距離の負い目」)をみずからつぐなう物語でもある。ミズリー州の貧しい家庭から飛び出し、ウェイトレスをしながら、ボクシングに生き甲斐を感じているマギーに、最初はすげないが、次第に、その「距離」を縮めて行くフランキー。その関係は、プレスでは「娘」と「父親」に模しているが、そう言うのなら、「恋人」関係と言えなくもない。しかし、そう言ってしまうと、この映画のユニークさは半減する。だから、わたしは、「距離」という抽象的な言葉を使いたい。マギーは、彼のトレーニングで連戦連勝のプロボクサーになるが、その絶頂で二度とリングに立てない身となる。「距離」の人フランキーが、その責任を感じないわけはない。
◆この映画には、『海を飛ぶ夢』に通じる「尊厳死」のテーマもある。奇しくも、フランキーはアイルランド系のカソリックであり、詳しくは語られないが、おそらくは、エディのことと、娘とのこと(どうして彼女が彼と絶縁しているのかはわからない――映画では、彼が娘に手紙を書くが、みな戻ってきてしまい、それが箱一杯になっていることしかわからない)でカソリックの教会に毎週通っている。カソリックは、自死や尊厳死に対して厳しい。
◆フランキーは、暇があるとウィリアム・バトラー・イエイツのゲール語の本を愛読している。イエイツは、アイルランドの古代文化に深い関心を持ち、古代ケルトの口承民話を採集し(『ケルトの薄命』)、「ケルト文芸復興」の代表的な詩人。彼は、カソリックには距離を取っていたから、フランキーがイエイツの本を読み、かつ教会に通うのは、彼の屈折した姿勢を示唆する。が、細かなことを言うと、彼が映画のなかでマギーに「翻訳」して聴かせる「イニスフリーの湖島」(The lake Isle of Innisfree)は、たしか、イエイツが英語で書いたものだと思う。それが、「ケルト文芸復興」でゲール語に訳されたのかもしれないが、映画を見ていると、もともとがゲール語であるかのような印象をあたえる。
◆イーストウッドの映画が「古典的」である点は、マギーという人物にもあらわれている。彼女は、貧しさからの脱出という夢を持ち、その夢の実現のためには、バイト先で客が残した食べ物を持ち帰って食べるような倹約をし、「あこがれの人」にはこりずにアプローチし、自分を認めてもらうけなげな努力をする。そして、その人物が認めてくれると、その人をいつまでも尊敬し、忠実にその指示にしたがい、そして、見事に成長していく。現実には、むろん、もうこういう人物が登場する環境は細っている。しかし、だからこそ、そういう物語が「絵」になるのであり、ドラマ的感動をあたえる。この映画が「古典」であるゆえんである。
◆しかし、ひるがえって、いまの現実にこの映画を思いっきり投げつけてみると、結局、いまの現実は、モラル的には、こういうところへ帰るしかないかもしれないということを考えさせる。60年代に顕在化したモラル的な「自由主義」はもう先がない。個々人の人権を尊重し、個々人の「特異性」(サンギュラリテ/サンギュイラリティ)をかぎりなく解放するはずだった「自由主義」が行き着いたのは、イラク戦争の「野獣」のモラルだった。本当は、そうではない方向があったはずだし、この帰結は、そういう方向を嫌う勢力が力を行使した結果にすぎないともいえるが、本当の「革命」への道が完全に遠ざかってしまったいま、可能なのは、いま力をふるっている「野獣」のモラルをそのまま突き進むか、あるいは、一歩「古典」に後退して、「中庸」にとどまるかのいずれかだ。
◆ボクシングのプロモータとボクサーとの関係は、こちらはグループだとしても、軍隊の上官と兵士の関係に似ている。イラクで負傷したり、死んだりした兵士に対して上官はどんな責任を感じるのか? もし兵士が、人工呼吸器にすがる半身不随の後半生を送らなければならないとしたら、彼ないしは彼女を戦場に送りだした上官は、彼ないしは彼女に何をしてやれるだろうか? この映画は、いまのアメリカのそんな屈折と悲劇をふと思い出させもする。
(メディアボックス試写室/ムービーアイ+松竹)



2005-04-06

●モディリアーニ (Modigliani/2004/Mick Davis)(ミック・ディヴィス)  ★★2/5

Modigliani
◆座席を指定するというやり方は、配給・宣伝の発想であるよりも、有楽座の「決まり」であるらしい。今回も、窓口で試写状を座席指定券と交換するように言われた。座席図を見せて、選ばせてくれるのがいい。が、この日は、そういうことをする必要がないくらい、入りが悪く、席はがらがらだった。後半で、わたしの横のおじさんは、10分あまりケータイとにらめっこ。同じ時間帯に出て行った女性がいたから、退屈なシーンだったのかもしれない。
◆画面のコントラストや彩度を変えた撮影、モディリアーニの妻ジャンヌを演じたエルザ・ジルベルスタインの抜群の演技と雰囲気など、いいところはある。しかし、最初からわかっている無理がわざわいして、そういうよさが活かされていない。まず、モディリアーニの定着した「像」があるなかで、モディリアーニをアンディ・ガルシアが演じるのは、無理。ガルシアには、モディリアーニの「狂気」がない。これは、彼が詩人ロルカを演じた『ロルカ、暗殺の丘』でも感じられた。ガルシアは、「殺気」のようなものを秘めたキャラクターを演じるのはうまい。が、モディリアーニは、暴力や殺気とは無縁のタイプとしてその「像」が定着している。もし、そうではないというのなら、つまりアンディ・ガルシアのほうがモディリアーニらしいというのなら、それなりの演出をしなければならない。が、そうはなっていない。
◆いま定着しているモディリアーニ像は、ジャック・ベッケルの『モンパルナスの灯』でジェラール・フィリップが演じたモディリアーニから多くを負っている。表現というのは、いつもそうだが、「実物」にぴったりであるかどうかではなく、それ自体として存在感を出すかどうかがリアリティを決定する。ジェラール・フィリップは、本物のモディリアーニと同化したか、シンクロしたかどうかは別として、モディリアーニにまつわる逸話の糸をたぐりよせてもなるほどと思わせるモディリアーニを作りあげた。このことは、今回の『モディリアーニ』での、エルザ・ジルベルスタインについても言える。彼女は、たしかに、モディリアーニがジャンヌをモデルにして描いた絵のなかの顔に近い系統の顔をしている。その点では、彼女は、『モンパルナスの灯』でジャンヌを演じたアヌーク・エーメよりも絵のなかの顔に似ている。しかし、エルザ・ジルベルスタインは、そうした「合致」や類似をこえたところですぐれた演技をしており、アヌーク・エーメにまさるともおとらない。
◆『モンパルナスの灯』では、情動的、発作的に生きるモディリーニに対して、彼の才能を確信しながらも、彼に距離を取りながら収集しつづける画商モレル(リノ・ヴァンチェラ)を対置したが、今回の作品では、金や生活に執着せず、酒と麻薬を友にパフォーマティヴに生きるモディーリアニに対して、すでに功成りとげた画家としてのピカソが対置されている。それを演じているのは、オミッド・ジャリリだが、はたしてピカソは、あんなに愚鈍だったろうか? むろん、彼はしたたかだった。それは、モディリアーニにはない要素だ。が、当時のピカソの妻だったオルガ(エヴァ・ヘルツィゴヴァ)は、あんなに無味乾燥だったろうか?
◆最初からわかっていた無理の最大のものは、映画で使用される言語である。パリを舞台にしながら、街の人間も英語を話しているというのでは、味気ない。街の看板や落書はみなフランス語で、言葉だけが英語。イタリア移民のモディリアーニを意識して、ところどころにイタリア語がまぜられるが、基本は英語だ。これは、最初から映画の評価を半分捨てているのと同じである。なお、言語にうるさいある批評家は、わたしなんかには気にならなかったエルザ・ジルベルスタインのフレンチなまりの英語が「聴くにたえなかった」と言っている。
◆1910年代のキャフェやサロンが描かれ、そこにジャン・コクトーやガルトルード・スタインが登場するが、この映画のスタインは、脂ぎったただのデブババアにすぎない。コクトーも、気弱なキザ男だ。モディリアーニの親友だったユトリロなんかは、無声映画のキャラクターに近い。
◆結局、この映画は、モディリアーニとジャンヌが出会い、路上でダンスする、メロドラマとしては非常によくできているシーンのレベルで見られるべきなのだろう。バックでエディット・ピアフの「ラヴィアン・ローズ」(愛の賛歌)が流れ、知りあったばかりの2人がパリの裏通りで踊る。画面は、緑っぽくコントラストを落とし、2人の姿がシルエットのように見える。この「甘さ」は、ガルシアではそのままとろけた感じには持続しない。
(有楽座/アルバトロス・フィルム)



2005-04-05_2

●皇帝ペンギン (La Marche de L'Empereur/2005/Luc Jacquet)(リュック・ジャケ)  ★★★3/5

La Marche de L'Empereur
◆南極の氷原に棲息する皇帝ペンギンの子づくりの驚くべきドラマを4年間の準備ののち「8880時間」の撮影から生まれたドキュメンタリー。氷の穴から次々と飛びだしてきたペンギンが、立ち上がり、よちよち歩きをしながら何百頭という列をなしてどこかに進む。先頭にいるのが指導者にはみえない。何か自然の合図に導かれるように進む。その先は、自分たちが生まれた営巣地。そこで彼らは、自分の相手を見つけ、子を作る。数カ月後メスが卵を生むと、それを(なにせ足が短いので)「不器用」にころがしてオスの足のあいだに移動する。オスがそれを暖め、そのあいだにメスは海へ魚を食いに行く。海といっても、20日間も行進してきたあたりまで行かなければならない。そのあいだ、オスは何も食べず、卵を暖める。そして、オスの足の間でヒナが生まれる。うまくいけば、メスはその時期にもどり、体内にたくわえた餌を口から反芻してヒナに食べさせる。が、タイミングよく帰ってくるわけでないので、オスは、体内から最期の食物を反芻してヒナに食わせることもある。
◆ブッシュ政権の誕生以来、わたしは、人間と動物のあいだにはさほどの差はないという思いにかられることが多い。海中の魚と水中動物の生態を追った『ディープ・ブルー』を見ると、その生存競争のすさまじさに、人間の「競争」なんかは気楽なものだと思う。その反対に、こう『皇帝ペンギン』を見ると、人間も、真夏の炎天下に子供を車のなかにおいてきぼりにしてパチンコやってて子供を死なせてしまう親とか、子供を虐待して餓死させてしまう親にくらべると、皇帝ペンギンはなんて「高尚」な動物なのだろうと思ったりする。それが習性とはいえ、120日間、氷をすくって口にする以外は何も食べずにひたすら卵を暖めて立ちすくし、猛吹雪になると、無数のペンギンが亀甲型にかたまり、定期的に移動して外側に立つ番を入れ換え、平等に吹雪の盾になって、全体をまもるなんて、人間にはそう簡単にはできない。
◆皇帝ペンギンは、500メートルの深さの海のなかを20分間無呼吸で泳げるという。そのあいだに魚を食べるが、そのペンギンをねらうのがシャチやヒョウアザラシ。ヒナは、空から飛来するカモメの種族にねらわれる。考えてみれば、海中の小魚にしてみれば、ペンギンも攻撃者であり、魚はプランクトンを食べ、プランクトンにとっては攻撃者だ。
◆ヒナがオオフルマカモメにねらわれるとき、親と4、5羽のペンギン(加勢するのはどういう関係のペンギンなのだろう?)が、ヒナを囲んだりして天敵から守ろうとする。が、攻撃を加えようとはしない。それは、エネルギーの消耗を防ぐためだとも言われる。考えてみれば、非暴力というのは、エネルギーを安全に備蓄する賢い知恵かもしれない。
◆ペンギンが攻撃的になるときがある。それは、営巣地でメスがオスを奪いあうときだ。最初の子育てをしたあと、海に魚を求めて旅立つオスは、疲労のあまり、海に達することができない者もおり、メスよりもオスの数のほうが少ないという。また、ブリザードでヒナを死なせてしまった親鳥が、他のヒナを奪って自分の子にしようとして、争いが起きることもある。
◆整然と隊列を組んで行進するペンギンのなかには、隊列に遅れて孤立し、そのまま果ててしまうのもいる。ヒナを襲う天敵に対して、ブリザードに対するスクラムを見ると、助け合いというものもあるらしい。泣き声は、分節化されており、卵を置いて海に出かけたメスは、卵をあたため、孵(かえ)したオス(夫)を何千羽のなかから見分ける。
◆映画は、一組のファミリーを設定し、オス(シャルル・ベルリング)、メス(ロマーヌ・ボーラネンジェ)、ヒナ(ジュール・シトリック)のナレーションを入れている。これは、ペンギンを擬人化しすぎる印象をあたえる。また、はたして一連のファミリー・ドラマが、同じペンギンを使って撮られているかどうかは不明。音楽も、ノイズっぽいところもあるが、好き嫌いがわかれるだろう。
(スペース汐留FS/ギャガGシネマ)



2005-04-05_1

●メリンダとメリンダ (Melinda and Melinda/2004/Woody Allen)(ウッディ・アレン)  ★★2/5

Melinda and Melinda
◆二番煎じがつづいているウッディ・アレンだが、今回は、『ブロードウェイのダニー・ローズ』をちょっとひねり、一人のキャラクター「メリンダ」(ラダ・ミッチェル)を軸にダブルドラマを展開させるという「複雑」化でからくも「二番煎じ」よばわりされるのをふせいでいる。本人が役者としては出ない分だけ、『さよなら、さよならハリウッド』よりはまし。しかし、往年の軽快なリズムとアイロニカルなユーモアは感じられない。
ウディ・アレンには多くページをさいているように、わたしはウディ・アレンの映画が一番好きだと思っていた時期がある。しかし、近年、がっかりさせられることが多い。すでに使ったネタの再組み合わせばかりで、新しいものがないからだ。ニューヨークへのわたしの愛がもう終わってしまったことも一因かもしれない。でも、いかにもアレン的なディスクールや言葉・場所の選択に出会うと、昔の愛しき日々を思い出す。W. 12Stはコジーな通り。Brandeis Universityはボストンにあるが、ユダヤ系の大学。"Park Avenue Princess"(古田由紀子の字幕では「お嬢様」と訳していた)という言い方をほかでしたかどうかは忘れたが、こういう造語法をアレンは好む。金持ちの歯科医への軽蔑的こだわり。ウラジミール・ナヴォコフの本を並べる。Lenox Hill Hospitalは、100 East 77th Streetにある病院。What do you want? (なにがしたいの?)と訊かれて、I want to want to live.(生きたいと欲することを欲したい)という言い方。ローレル(クロエ・セヴィニー)が夫のリー(ジョニー・ミラー)としか寝たことがないのを評してエリス(キウェテル・イジョフォー)が "postmodern in the bed"(ベッドのなかではポストモダンなんだね)と言う。
◆こういうしかないのだが、このような作品でも、ウディ・アレンの映画をあまり見たことのない人には、イントロダクションにはなるだろう。「斬る!」に笑える感覚なら、ボビー(ウィル・フェレル)がドアにバスローブをはさんで右往左往する(無声映画では常套だった)ドタバタもかえって新鮮に見えるかもしれない。さんざん使ったTake the 'A' Trainの音楽も、「おお!」と思わせるかもしれない。
◆ウディ・アレンは、いわば「批判理論」の映画作家だ。批判すべきものがあるうちは、活気づく。いまは、「左翼」も「ユダヤ人」もヤッピーも批判されるだけのパワーを失ってしまった。ならば、いまこそ「ネオコン」とかを皮肉ればいいのだが、それほど政治的になれない(ならない)のがアレンの面白さでもあるから、そうはいかない。批判しても誰も痛まない程度のアイロニー、自分もそのなかにいるからストレートな批判などありはしないというシニシズムがアレン映画の前提だから、いまの時代はなかなかその相手を見つけにくいのだ。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2005-04-04

●ザ・インタープリター (The Interpreter/2005/Sydney Pollack)(シドニー・ポラック)  ★★★★4/5

The Interpreter/
◆【試写状】今回は、試写状を有楽座の切符窓口に出し、午前11時から座席指定券を受け取れるというシステムをとった。座席指定という方法は、これが初めてではないが、開場の6時間以上もまえに指定券を受け取れ、しかも窓口で、空いていれば、好きな座席が取れるという方式は、わたしは経験していない。そのうち、メールで試写状が来て、航空券のようにネットで座席の指定ができるようになるのではないか?
◆【ビール】隣の女性が、映画の始まるまえから大きな紙コップでビールを飲んでいたが、ガブっと飲まないらしく、映画の中盤ぐらいまで飲むというより、すすり続けている。自分が食べていないときに他人の焼き肉の口臭が気になるように、自分で飲んでいないときに間近の距離からアルコールの臭いがただよってくるのはいただけない。ビールは嫌いではないが、このビールはやけに甘ったるく芳香し、映画から喚起される思念や情念にバイアスをかける。でも、その女性、大事なものでもかかえるように、ずっと胸のあたりで紙コップを握りしめ、ときどき唇をうるおしている。そしてそのたびに(本来ならば)「芳香」と呼ぶべきものがわたしの鼻のまえにだたよう。ああ!
◆【寸評】この作品は、シドニー・ポラックの作品のなかでも、また2005年度のハリウッド映画のなかでも、確実に3指に入るだろう。シネマトロジー的にも、ニコール・キッドマン、ショーン・ペンそれぞれの演技と二人の見事なアンサンブル・プレイにも牽きつけられるが、ブッシュとともにあらわになった「復讐」というアメリカ的「伝統」がどのようにして生まれ、またそれはどうしたらのり越えられるのかを問うている点で、きわめてアクチュアルな映画に仕上がっている。
◆【背景】この映画のために仮構された「マトボ共和国」は、アフリカにありがちな国を集約している。かつては世界中から尊敬の念をかちえた革命家エドモンド・ズワーニ(アール・キャメロン)は、いまでは独裁者として君臨している。かつての同志でやがて敵対関係になったクマン・クマン(ジョージ・ハリス)は、いまはアメリカに亡命している。このマトボで生まれ、育ち、かつてはズワーニを敬愛し、その著書に信服していたシルヴィア(ニコール・キッドマン)は、いまでは、夢果て、ニューヨークの国連事務所でマトボ共和国の言語「クー語」(これも架空の言語)の通訳として働いている。その彼女が、たまたま通訳ブースのヘッドフォンでズワーニ暗殺の密談の声を聴いてしまった。ズワーニは、近く、自分の強権政治を正当化するための演説をしに国連本部にやってくることになっている。ただちにFBIの捜査が開始される。その担当者が、ショーン・ペン演じるトビン。その同僚ドットをクールに演じているのは、『マルコヴィッチの穴』や『アダプテーション』のキャサリン・キーナー。トップの上司を演じるのは、監督のポラック自身。
◆【国連とアメリカ】トビンとドットが国連にやってきて、構内に入ろうとしてガードマンに阻止される。「ここはアメリカ合衆国ではなくて、インターナショナル・テリトリーです」。これは、国連を無視し、どこでもが「アメリカ」でありえると過信しているいまのアメリカにはなかなか味わいのある皮肉。
◆【非暴力】アメリカとしても国連としても、マトボ共和国の現状を認めるわけではないが、テロ対策で世界に汚名をはせているアメリカとしては、アメリカ国内でズワーニが暗殺されるのを黙認するわけにはいかない。そこでFBIの登場となったわけだが、最初、アメリカ的論理を代表する者として、トビンは、攻撃には反撃・復讐という考えを当然のこととしている。そうした考えに対し、シルヴィアは、マトボ共和国の民衆的伝統だとする「非暴力」の文化をたたえ、トビン=アメリカ人を軽蔑する。マトボには、やられたらやりかえすのではなく、やられたら、その分、誰かを救うという伝統があると言う。しかし、予測できるように、シルヴィアには、アメリカ的な「血」も流れており、やがて彼女の「非暴力」主義がゆすぶられる。
◆【コンドル】かつてCIAの陰謀を批判的に描いたポラックの名作『コンドル』(Three Days of the Condor/1975) で出て来たのと似たようなショットがいくつかある。シルヴィアに夜、何者かに追われるシーンは、ロバート・レッドフォードがマックス・フォン・シドーに追われるグリニッジ・ヴィレッジのシーンを思い出させる。シルヴィアはクマン・クマンに会いにブルックリンに行くが、『コンドル』でもブルックリンが出て来た。
◆【60年代の夢】60年代の解放の時代に思い入れのあるポラックらしく、60年代的なものを、マトボ共和国の「革命」のときに若者だったシルヴィアとその兄の活動にダブらせる。その意味では、シルヴィアは、この映画では、60年代的夢を屈折した形で継承している。シルヴィアが国連で「通訳」をしているのは、60年代的な「運動」の継続であると考えてよい。「インタープリター」とは、対立の「仲介者」であり、異なる文化の「媒介者」である。映画のなかで、彼女は、「誤訳は国際紛争の元になる」とも言っている。
◆【映画の逆説】パレスチナやイラクでの自爆テロに脅威をいだいているアメリカ人にこれでもかと見せつけるかのように、バス爆発のシーンはリアルに撮られている。このぐらい悲惨に描かなければ、アメリカ人はその本当の悲惨さがわからない。が、実は、映画が殺人やテロや戦争を「悲惨」に描けば描くほど、実際のそうした暴力が、映画を真似、その暴力度がさらに激化するのが現実でもある。
◆【難点】この作品については、『コラテラル』に劣らぬ評価をあたえたいが、唯一難点だと思えるのは、『影なき狙撃者』(The Manchurian Candidate) 以来くりかえされている大詰めのあの構図がここでも使われている点だろう。
(有楽座/UIP)



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●ヒトラー~最期の12日間~ (Der Untergang/2004/Oliver Hirschbiegel)(オリヴァー・ヒルシュビーゲル)  ★★★3/5

Der Untergang
◆【蛇足】試写室のある聖路加タワーからタクシーを飛ばす。運転手はガスホールを知らなかった。松屋の裏、ライオンのそばと告げて、納得。かつての名画試写のメッカも、30年たつと。
◆【寸評】地下要塞にたてこもるヒッソニーの最期の12日間を、その当時秘書をつとめたトルドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)の目で「リアル」に描かれている。ブルーノ・ガンツのヒトラーは、説得力があり、ユリアーネ・ケーラーが演じるエヴァ・ブラウン、コリンナ・ハルフォースのゲッベルス夫人は、どちらもいいが、みなうますぎて全体が「時代劇」になってしまった感。ヒトラーが全然「国民」のことなど考えていなかったころはわかるが、見終ってなんらかの疑問が沸き起こるということはない。しかし、映画としては、力作と言わざるをえないだろう。それだけの力強さはある。
◆【ゲッベルス】わたしの考えでは、ヒトラー体制のなかで最も「確信犯」的だったのはヨーゼフ・ゲッベルスだったと思う。思想と情報、テクノロジーに精通しており、「悪」と「善」を相対的に使い分ける術も心得ていた。彼は、映画で見るように、最期までヒトラーと「運命」をともにするが、実は、運命をともにさせられたのはヒットラーの方だったかもしれないのだ。ゲッベルスは、ヒトラー以上に、デモーニッシュ(悪魔的)なものを持ち、かつ「理性的」でもあった。その意味で、ウルリッヒ・マテスが演じたゲッベルスは、このヒットラーよりも複雑怪奇なゲッベルスの人物像にはほど遠く、ただ狂信的にヒトラーに従っているフランケンシュタインのようにしか見えない。
◆【エヴァ】連合軍の爆撃がエスカレートし、先がほとんどない地下室の生活で、兵士たちが次第に退廃的になっていくさまは、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』を思い出させる。ナチズムと一体をなしていた退廃的ロマン主義は、この映画では、それほど強烈には描かれていない。エヴァが乱痴気パーティを開き、ごくあっさりと、ヒトラーと運命をともにすることを決意するといったシーンは、わずかにそうした要素が出ている。
◆【体制と独裁的人格】ヒトラーが、部下から、これ以上戦争を続けると、「国民」がみな死んでしまうという進言に対して、ヒトラーが、国民が自分を選んだのだから、それで滅んでも本望だろうといったことを言うシーンがある。実際に彼がそのようなことを言ったかもしれない。ガンツが演じるヒトラーの目はうつろであり、かなりキテいる。もう、全体を把握することができない。しかし、ヒットラー体制の誕生と「発展」は、ヒトラー一個人に集約させることはできない。狂っていたとすれば、体制そのものがそうだったのであり、そういう体制がむしろヒトラーのような独裁的人格を招聘するのだ。
◆【ミクロファシズム】その意味で、映画としては、個々のキャラクターを浮き彫りにして描くのが一番「説得力」をもたせられるのだが、ナチズムに本格的なメスを入れるためには、「人格」の単位への執着を越えなければならない。ガタリが、「ミクロファシズム」と言ったとき、そのファシズムの単位は、個人的人格よりもミクロであり、個々人のなかに巣食う無数の「人格」、もはや「人格」という言葉を使うことができない単位の、無意識の「巣穴」に住むビールスのようなものだ。
◆その点で、ナチを描き、批判する映画は、ナチをささえてきたミクロな単位を映像にしなければならない。そのような個所は、この映画にもある。それは、たとえば、ユンゲが、ヒトラーの口述をタイプしているときに、ふとヒトラーの表情や言葉の異変に気づくような瞬間の描写である。また、ゲッベルス夫人が、淡々と自分の子供たちを「始末」していくプロセスとそのしぐさ。
◆どんなに独裁的な組織のなかにも、その主流的な流れとは異なる流れや要素がある。この映画は、ナチの何人かの高官のなかにそういうものを見いだしている。軍需大臣のアルベルト・シュペーア(ハイノ・フェルヒ)はその最たる例だが、これを「善玉」と見ると、またしても、組織を人格の単までしかミクロ化できない限界に陥る。映画では、彼は、ヒットラーより「まし」の「善玉」に見える。が、ナチの組織は、こういう人物を必要としてきたのであり、ゲッベルスは、そういう人格の操作の術を知りつくしていた。
◆組織や体制の流動性という意味では、シュペーアのような人物がたくさんいるほうが「自由度」が高くなる。しかし、問題は、こういう人物を排除し、両刀使いにしてしまう組織や体制というものがあるということであり、なぜそういう組織や体制が生まれるかである。人がいなければ組織は生まれないというかもしれない。しかし、組織や体制は、人以前に、空気のように存在し、それに人が染まっていくのではないか? むろん、そうした空気を濃厚にするのは人であろうが、その空気自体は、自然環境や災害や、ある時点から「自然災害」のように抑えようがなくなる戦争や紛争からつくられる。
(銀座ガスホール)



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●最後の恋のはじめ方 (Hitch/2005/Andy Tennant)(アンディ・テナント)  ★★2/5

Hitch
◆【雑感】海外から帰ってくると、あえて時差ボケになり、それを利用していっとき「健康」生活を送る。そのため今日は1時の試写でもなんのそのだったが、やぼな事務仕事で2時すぎまで働く。新聞に中村敬治氏の訃報。以前、わたしがICCを敬遠していると思った氏は、何度か誘いをかけてくれた。別に敬遠したわけではなく、単に興味がなかっただけだったので、せっかくの好意にも報いることができなかった。が、近々知り合いのマルコ・ペリハン、アダム・ハイド、オナー・ハージャーらが来日し、展示をするので、ICCに顔を出すことになりそう。彼らはいまサンタ・モニカにおり、今週、ネットでわたしとちょっとしたコラボレイションをやる。
◆【寸評】最初、デート・コンサルタント(デイト・ドクター)のウィル・スミスの「講釈」がおしつけがましくて、ノレなかったが、デブでドジのケヴィン・ジェームズが、親の遺産を受け継いで財団の名誉職におさまっている「高嶺の花」のアレグラ(アンバー・ヴァレッタ)に恋をしてしまい、それをスミスが助け、2人が結ばれていくあたり、けっこう楽しんだ。ケヴィン・ジェームズは、ジョン・グッドマンを甘くした感じで、いい演技をしている。
◆アレグラがダンスが下手だという情報をつかんだアレックス(ウィル・スミス)が、めっぽうワイルドなダンスをするアルバート(ケヴィン・ジェームズ)にジミな踊りかたを教えるシーンが笑える。
◆この映画に出てくるニューヨークは、金持ちにとってのニューヨーク。フィッシュ・マーケットで料理を教わりながらうまい魚料理を食べさせる店とか、いまはやりの(といってもトレンディな連中のあいだで)ライス(米)料理のレストランとか、イノテカとか、ロワークラスには縁のないところばかり。登場人物たちも、みな高給取りであり、ドラマとしては笑えても、ふと気づくと、自分の階級意識との関係で、こいつら何考えてんやと思わないでもない。白人ではなく、ウィル・スミスをもってきたところで、「大衆性」を加味しているつもりでも、彼演じるアレックスは、マンハッタンの大きなアパートに住んでいる。決してロワーな黒人でなない。
◆この映画で出てくる検索サイトは、もっぱらGoogle。いまや、Yahooを引き離して独走中というが、アップルとかデルのように、映画にも金を出せるようになったということ。
◆アレックスは、メフィスト役で通すのかと思ったら、自分でも商売そっちのけで女を愛す。その相手が、新聞社でゴシップ担当の「ワークホリック」(仕事中毒)サラ(エヴァ・メンデス)。男には興味がないという鼻っぱしの強い女。
◆バーで、しつこい男に言い寄られて当惑している女を、アレックスが、知り合いのような顔で声をかけて救ってやるシーンがある。ドラマとしては面白いが、ありそうでない話。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)

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