粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-11-30

●死者の書 (Shisha no sho/The Book of the Dead/2005/Kawamoto Kihachiro)(川本喜八郎)

Shisha no sho
◆折口信夫(しのぶ)の尋常ならざる「時代小説」のアニメ化。人形アニメなので、フィジカルなテクスチャーを感じる。ほとんど忠実に映像化している。声優も、宮沢りえ、観世銕之丞、榎木孝明、江守徹、黒柳徹子、三谷昇、新道及里子、観世葉子等々、早々たるメンツ。
◆ただ、これを制作した川本喜八郎の意図と、原作の意図とのずれが、気になる。黒柳徹子が声を担当している語り部の老婆は、明らかに「巫女」の系統を引くが、この物語のヒロインは、信仰の篤い仏教徒の藤原南家郎女(いつらめ)である。彼女は、身体が衰えるのも忘れ、「法華経」を1000部も写経する。当時は、写経するということが信仰の深さのあかしだったのだ。その結果、彼女は、霊感にうたれたかのように、陰謀に連座して非業の死をとげた大津皇子の祭られている万法蔵院に導かれる。そこには、語り部の老婆がいて、大津皇子の話を彼女に聴かせる。
◆折口が、1939(昭和14)年に発表したこの小説には、来るべき戦争で出るであろう多数の死者をとむらう方法論の整備といった意図が感じられる。この小説は、ある意味では、神道と仏教の併合ないしは共存の試みである。
◆川本喜八郎は、この「物語は、今、我々が立ち止まって日本人とは何か、何処へ行こうとしているのか、という問いかけに何らかの示唆を与えてくれるものと信じています」とプレスで書いている。ここから読み取れるのは、靖国問題である。靖国神社は、折口が主張した「祖霊信仰」を無視する。「霊」を「祖霊」の故郷に返すことをごう然と無視する。『死者の書』でも、大津皇子は、「祖霊」のもとから引き離されたことによって「迷って」いる。はたして、彼は、藤原南家郎女の仏教信仰によって救われるのだろうか?
◆原文の最終章は、面白いことに、この物語の神道的極であるところの語り部の老婆の嘆きからはじまる。「もう、世の人の心は賢くなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信をうちこんで聴く者のある筈はなかった」。彼女は、だから、彼女の話を聴く藤原南家郎女に「知る限りの物語りを、喋りつづけて死なう、言う腹をきめた」。こうしてみると、この物語のタイトルの「死者」とは、大津皇子であるよりも、あるいは、それと同時に、この「秋深くになるにつれて、衰への、目立って来た姥」のことなのではないか? ここで、神道は死に、仏教のなかで転生する。あるいは、仏教的なものをつかった神道の再生。
◆たしかに、折口「祖霊信仰」理論は、靖国神社を異化することはできる。しかし、それがフェイクであることを承知の靖国推進派にとっては、そういう異化効果は全く効果をなさない。いまここで詳述する余裕はないが、靖国を乗り越えることができるのは、「鎮める」という方法自身を止揚してしまうことだ。非業の死をとげた者が「崇り」(たたり)を起こすという信仰と、それを鎮めるという祈りの方法とをやめることだ。死は、無であり、死ねばそれっきりであると達観すること。祀(ま)ったり、鎮めたりする必要はないのは、そうすることが気休めでしかないからだ。祀るまえに、殺すのをやめることだ。
(松竹試写室/桜映画社)



2005-11-29_2

●美しき運命の傷跡 (L'Enfer/2005/Danis Tanovic)(ダニス・タノヴィッチ)

L'Enfer
◆ものごころがついて30年も世のなかを見てくると、男と女、男と男、女と女、とにかくそのあいだに愛情が生まれる関係というものは、運命的な要素をはらむということを否定することができなくなる。70年代のパンクとフェミニズムとゲイアクティヴィズムの昂進する環境(ニューヨーク)のなかで、わたしは、愛憎をこえた「理性的」な関係というものが可能な時代がくるのではないかという思いにまどわされたことがあった。衝動的な「愛」で結ばれるとしても、それが冷めたとき、「理性的」に別れ、それぞれの道を歩むということが可能なのではないか、そうすることによって、憎みあったり、拘束しあったりすることのない他者関係が可能ではないか、等々だ。すくなくとも、わたし自身は、そういう「高尚」な生き方ができないとしても、そういうことを当然のこととして実践する人々の層(階級)が生まれるのではないかと予感した。
◆しかし、実際には、そんなことはなく、人々は、憎みあい、罵りながら、かつては愛した人との関係を後悔したり、未練を残したまま泥沼に陥ったりしつづけている。そして映画も、非「理性的」な側面を強調するような描き方を好むようになり、「理性的」な別れなんかを描かなくなった。それは、あたりまえかもしれないが、これは、9・11以後の時代との関係もある。1970年代というのは、60年代に高まった社会変革や革命への「夢」がついえ、シニシズムがひろまった時代だった。しかし、その一方で、そうしたシニシズムをバネにして、怒りや憎しみをこえた人間関係を持とうとする方向を促進する側面もあった。それは、70年代のシニシズムで冷やされた60年代ロマン主義だったのかもしれない。が、いま、70年代のシニシズムにあふれた作品(たとえばロバート・アルトマンの作品)を見てみると、それが、いまではそれほど「シニカル」とは感じられないことに驚く。つまり、この30年間に、現実は、はるかにどぎつく、ななめにであれ、「夢」をいだくことを不可能にしたのである。
◆『美しき運命の傷痕』は、時代設定は1980年ということになっているが、そんなことを考えさせる映画だった。ちなみに、監督のダニス・タノヴィッチは、『ノーマンズランド』でボスニア戦争を実にシニカルな目で描いた。この映画は、女と男の愛憎の物語だが、その背景にはしっかりした政治(ミクロな政治――個々人の感性のなかに食い込む政治)認識がある。
◆ジャック・ペラン、ジャン・ロシュフォールといった60~70年代映画を象徴する俳優が登場しているのも、そういう思いを加速した。ペランといえば、コスタ=ガブラスの映画に欠かせない俳優で、ある種の「反体制」の象徴的キャラクター(というよりも、権力と反権力のベクトルを冷めた目で見ながら、権力に抗するキャラクター)を演じてきた。ロシュフォールは、時代がかわっても、身の回りの状況がかわっても、したたかな反抗精神は決して捨てないようなキャラクターを、大文字の演技ではなく演じながら、映画にさりげないパンクチュエイションを置くようなキャラクターを演じてきた。
◆この映画で、男たちは、女たちへの裏切り、背信、義務の不履行にさいなまれる。個別に描くなかで、次第に、彼女らが姉妹であることがわからせるアンサブル・プレイ。ドラマの軸には、夫(ミキ・マノイロヴィッチ)を決して許さない妻(キャロル・ブーケ)の存在がある。冒頭、なんの説明もなく映されるミキ・マノイロヴィッチの出獄風景。彼は、なんで刑を受けることになったのか? 長女ソフィ(エマニュエル・ベアール)は、写真家の夫(ジャック・ガンブラン)の浮気に悩んでいる。次女セリーヌ(カリン・ヴィアール)は、いまでは、すべてを呪うような目だけがぎらぎらしている母(キャロル・ブーケ)のめんどうをみている。愛する人はいない。父親へのショッキングな「失望」を母とともに経験してしまったことが、おそらく、彼女を恋や結婚から遠ざけているのかもしれない。三女のアンヌ(マリー・ジラン)は、大学の指導教授(ジャック・ペラン)を愛しているが、彼には家庭があり、彼の娘とアンヌは、友達関係にある。
◆この映画に登場する女たちは、父親へのある種の誤解から父親を憎み、生活が変わっていった。もし、その誤解がなかったら、そうはならなかったかもしれない。その誤解を解く鍵は、ある日、ストーカーのようにセリーヌに近づいて来る青年セバスチアン(ギヨーム・カネ)によってもたらせる。彼は、かつて教師をしていた、セリーヌの父親の教え子だった。
◆とりかえしのつかない誤解をしたのは、セリーヌの母親と彼女だったが、その誤解は、不可避的なものだった。ドアーを開け、裸の少年と父親がいるのを見たら、あなたはどうするだろう? その場で問い詰めず、ドアーを閉めて逃げ出したことがいけなかったか? 現実を直視しなかったことのつけが、誤解の大きな溝を深くしていった。
◆現実は、この映画のように、一点の誤解のようなものに収斂されたかたちで展開されるわけではない。さまざなな誤解があり、要因がある。この映画では、誤解は悪だが、人は、誤解のなかで「幸せ」になることもできる。だから、この映画の終末のように、誤解が解けたあとにわずかのやすらぎが生まれるというふうになるとはかぎらない。セバスチアンのような「天使」はあらわれない。「誤解」は誤解のままで終わる。が、それでは映画=ムーヴィ=動きにならない。むろん、そういう映画はあるし、そういう映画があっていいと思うが、この映画の感動は、映画の古典的な構造のなかで生まれる。主要な登場人物のかたわらで、ペランやロシュフォールやキャロル・ブーケの《ありよう》(目つき、さりげないせりふ、身ぶり、生きざま)が映画のあとまで緒を引き、何かを語りかけるような作品だ。
(スペースFS汐留/ビターズエンド)



2005-11-29_1

●ブロークバック・マウンテン (Brokeback Mountain/2005/Ang Le)(アン・リー)

Brokeback Mountain
◆ブロークバック・マウンテンの農牧場に季節労働者としてやってきた2人の出会いと愛。決別とそれぞれの結婚。が、同性愛を知ってしまったヒース・レジャーと、もともと同性愛者のジェイク・ギレンホールのその後の生活。そして、再会。異性愛者の妻との関係。時間の空白の日に知るギレンホールの突然の死。そのときレジャーが示す優しさ。相手が男であれ女であれ、人は、友人や恋人の死に対してはこうありたい。
◆1963年から1982年という時代設定は、ヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが演じる2人が、20代から中年までのプロセスを描くためであると同時に、同性愛に対する社会意識の変容を描くうえでも、必要だった。ゲイの物語としては、さほど新味はないが、その素朴さや環境が妙に忘れ難いような作品。同性愛と異性愛との中間にいる男を演じるヒース・レジャーがなかなかいい。ジェイク・ギレンホールは、うまいが、わりあいパターンを演じている。
◆それにしても、夫が同性愛だと知ったとき、妻は、この映画のミシェル・ウィリアムズのように、許せないものなのだろうか? この映画には、むろん、キリスト教的な環境へのさりげない批判がある。キリスト教的夫婦にとって、同性愛は許し難いものなのだ。独占的な愛こそが、基本原理としてある。だから、そういう夫婦の相対としての国家は、戦争をすることから逃れならない。
◆ジェイク・ギレンホールが演じる男は、そういう原理からすると「ひ弱」な男なのかもしれない。が、そのひ弱さを肯定することなしに、アメリカは、戦争と競争の原理から脱することはできない。すべてを肯定してしまえば、世の中はもっと気楽になる。夫が男を愛してもいいではないか。ちゃんと家では子供の父親として夫としてうまくやっているのだから。が、一夫一婦制の原理からすれば、それは許せない。
◆家庭内離婚のような状態になるギレンホールの場合と離婚してしまうヒース・レジャーの場合をくらべると、レジャーの方が経済的にロワーである点に注目する必要がある。アン・ハサウェイの父親は農機具の会社をやっている。つまり、経済的に豊かであれば、たとえ冷たい空気が流れるとしても、反キリスト教的倫理は許容されるということだ。その意味では、キリスト教の一夫一婦的な原理は、貧しい生活を維持させる実利的な原理なのだ。現に、ミシェル・ウィリアムズは、ヒース・レジャーのかせぎに満足してはいなかった。
◆わたしは、わかれた妻とのあいだの娘(ケイト・マーラ)が、初老のおもかげを見せる「現代」のヒース・レジャーに対して見せるくったくのないやりとりのシーンが好きだ。ここには、アンリ・エーという監督の「異教徒」的なさりげないメッセージがある。
(スペースFS汐留/ワイズポリシー)



2005-11-28_2

●THE有頂天ホテル (Uchoten hoteru/2005/Mitani Koki)(三谷幸喜)

Uchoten hoteru
◆むろん、趣味の問題だが、わたしは、三谷作品の芯になっている「醒めた」感じが好きになれない。これは、テレビのような小さな画面ではいいのかもしれないが、映画では、ただただ、画面の背後に観客を一定方向へ持っていこうとする意図がみえみえになり、味気ない。それは、うまくいけばブレヒト的「異化効果」なのかもしれないが、俳優座以来誤解されつづけてきた〈しらっとした感じ=ブレヒト的異化効果〉といった「新劇」流の域を出ないように思う。むろん、三谷は、「新劇」ではなく、「アングラ」の人だった。かつてわたしは、『ラチ"オの時間』を高く評価した。それは、彼の演劇的素養が実にうまく映画に活用されていたからだ。「異化効果」も、黒テントのレベルに達していた。が、それ以後は、彼の舞台演劇的素養が映画を抑え込んでしまうようになった。逆にいえば、映画を演劇の目でしか見れない限界が露呈したということだ。
◆おそらく、役所広司のつまらなさも、三谷のつまらなさと共通項をもっているかもしれない。彼は、気配りのキャラクターしか演じられない。その点では、この映画で、昔、演劇なんかをやっていたが、いまは、ホテルのマネージャーをしている役柄は彼にあっているかもしれない。が、彼はなんでそんなに気配りをするのかという点がひとつも異化されていない。こうなると、この映画は、ただただ日本の風土的習慣を惰性的に映像にしたにすぎなくなる。
◆ばらばらの出来事、登場人物を個別にえがきながら、一つの終結にもっていく「グランドホテル形式」への執着をこの映画で三谷は見せるが、それは、必ずしも、『大停電の夜に』よりも成功しているわけではなく、また、明らかにモデルにしたであろう『ラブ・アクチュアリー』の諧謔とたくみなリズムには手が届かない。
◆演劇では、舞台という物理的な制約から、構造の単純化をはかる。が、映画でそれをやると、底が浅いという印象をあたえかねない。この映画の場合、そうした単純さが目につく。この映画の基本構造は、《移動》と《迷い》である。この二つの要素は、心理的かつ物理的にさまざまな変容を見せる。役所広司は、ホテルのマネージャーをしながら、演劇の世界への《迷い》を残している。汚職政治家の佐藤浩市は、警察に出頭するかどうか《迷い》ながら、ホテルに籠っている。ミュージッシャン志望の香取慎吾は、《迷い》を絶とうとホテルのベルボーイをやめようと決心する。客室係の松たか子は、かつて国会議員の「ゴージャスな女」であった過去から抜けきれていない。ホテル専属の地味な筆耕係のオダギリジョーは、マネージャーらの要請で普段は書かない大きな文字を書かされるはめに陥り、《迷う》。総支配人の伊東四朗は、ひょんなことからホテルの従業員通路に文字通り《迷い》込む。有名演歌歌手の西田敏行は、いつも《迷い》ぱなしで、付き人の梶原善の「暴力」的な激励がないと何もできない。有名人学者の角野卓造は、スキャンダルを恐れて、ホテル内を逃げ惑う。あとでスチワーデスでもなんでもないことがわかる麻生久美子も、結局は、《迷い》のなかにいるのだろう。議員秘書の浅野和之も、最後には秘書をやめてしまうのだから、《迷って》いたのだろう。そして、榎木兵衛演じる腹話術師所有のアヒルのタブダブは、ホテル内を《迷い》、《移動》する。
◆《迷い》のキャラクターも《移動》するが、それは〈迷走〉というべき移動である。もっと明確な方向性をもって《移動》するのは、マネージャーの役所広司、サブマネージャーの戸田恵子、ホテル内を探偵している石井正則、コールガールの篠原涼子。彼や彼女らは、文字通り、総支配人を探すために《移動》したり、客のために足早に《移動》する。
◆こうした単純な構造の枠のなかに置かれたとき、俳優たちは、シナリオの線にそっては、大したユニークさを発揮できないが、逆に、その制約のなかで、実力が見えてしまう。愛人兼マネージャーの唐沢寿明にいいようにされている歌手のYOUは、やはりいい。唐沢も悪くない。西田はさすがだ。
(東宝試写室/東宝)



2005-11-28_1

●SAYURI (Memoirs of a Geisha/2005/Rob Marchall)(ロブ・マーシャル)

SAYURI
◆早く着きすぎてしまい、ちょうど前の回の人たちが出てきたところだった。警備員がたくさんいて、テーブルに札をつけたケータイやカメラがいっぱい並んでいる。一時預かりになったのだろう。入口にアマ用のDVカメラをかまえた中国人が、出てきた人にインタヴューしはじめた。バッグに何とか「電影」という文字。カメラはアマ用でも、一応マイクを別にしているのは、やっっぱりプロのやり方か。
◆そんなに混んでいないが、上映まで本を読んでいたら、背中をドンと突かれた。ふりむくと、短いスカートからむき出たなが~い脚が見えた。その膝がわたしの椅子の背にぴったり接触しているのだ。この会場の座席はいまとなっては最も狭い部類に属する。脚の長い女性が、膝を合わせたら、どうしても隙間がなくなるはずだ。わたしのような短足でも、股を開かないと、膝がついてしまう。この映画は、撮影まえから評判になっていたが、配給の姿勢は、少し引いているのではないか? もし、大掛かりな試写なら、ヤクルトホールはない。もっとも、明日、武道館で監督や主役たちを集めて大掛かりなお披露目をやるらしいのだが。
◆上映前の予感どおり、配給にちょっと難しさを感じさせる出来栄えだった。ここには、「京都」も「置屋」も「芸妓」も存在しない。これは、それらを全く知らない「外国人」が、ただただ想像と学習のなかで構築した「ファンタジー」にすぎない。むろん、映画であるから、それはそれでいい。しかし、それならが、なぜ、『ブレードランナー』のように、時代や場所をあいまいにしなかったのか? せめて、「京都」ではなく、渋谷の円山(むかしはここにも芸者がいたんですぜ――わたしはその近くに住んでいて、小学校の同級生にもそこの「置屋」の子がいた)でも、神楽坂でも赤坂でもいいのではなかったか? 京都というのは、特殊なところだし、外国人も入れ込んでいる人がたくさんいる場所だから、京都と特定するのなら、もうちょっとしないと話にならない。「外国人」が書いても、映画になった小説『いちげんさん』のように、かなり現実に接近した例もある。
◆別に現場に来なくても、リサーチできる部分はいくらでもある。川が流れていて、橋があると、それがどれも太鼓橋というのは何なのか? 京都の街は、碁盤の目になっているが、この映画では、路地がうねうねしていて、まるで中国か韓国か東京の裏町のよう。だいたい、京都の戦前の路地に、丸いアーチのようなゲイトなどなかった。これも、中国の街と混同している。踊りにしても、芸妓が踊る踊りはこんなに「多様」ではない。さゆり(チャン・ツィイー)が旦那連中を唸らせる舞台での踊りは、まるで舞踏パフォーマンスである。こんな破格なことをやらないのが芸妓ではないのか?
◆どハデといえば、そもそも、せりふがほとんど(ときどき日本語がアクセント的に入る)英語であることが、そもそも京都には無理だ。英語は、京都弁のゆったりしたリズムとスタティックな身ぶりとは相反的なものをもたらす。この映画を逆に日本語に吹き替えることを考えてみるがいい。当然、それは京都弁になるであろうが、コン・リーの髪を振り乱し、形相激しい演技にどんな京都弁が合うのだろうか? これは、コン・リーの責任ではない。わたしは、『きれいなおかあさん』のコン・リーも、『愛の神、エロス』のコン・リーも、この映画のコン・リーも好きだ。演技的にはみなすばらしい。彼女のこの映画の演技は、シナリオがそうなっているからであって、彼女はその流れのなかで最高の演技をしている。まあ、その点で、京都弁に吹き替えても、なんとか様になるのは、ミシェル・ヨーだろう。この人は、この映画では、「日本人」になりきった。この人に『極道の妻たち』を主演させたい。
◆桃井かおりは、英語でも、煮ても焼いても食えないしたたかなババアを演じられることを証明した。見事である。見事といえば、さゆりの少女時代を演じた大後寿々花がいい。わたしは、『北の零年』での演技を激賞したが、この女優は大物だ。映画は、さゆりの貧しい漁村から置家に売られてきた経緯をスケッチしたのち、1930年代末であることを暗示するヒトラーの台頭のニュースを流し、そこから大人のさゆりを演じるチャン・ツィイーの登場となるのだが、この間に大後寿々花のはつらつ(役柄は暗いのだが)とした演技を見てしまうので、あのチャン・ツィイーが見劣りしてしまう。ストーリーからすると、ここで大輪の花を咲かせることになるのだが、大後寿々花がせっかく暗示したその気配は、ふだんは負の要因にはならないチャン・ツィイーのあのヒネクレタ顔が、かえって強調され、卑屈なキャラクターになってしまうのだった。
◆これと似たようなことが、逆のベクトルで工藤夕貴に起こった。彼女は、英語が出来る日本人女優である。演技の実力もある。が、そのバイリンガル的な要素が、この映画では、彼女がおカボという芸妓のお手伝い役を演じる際に、負の要因になった。その代わり、時代が下って、戦後になり、彼女が、置家での経験を活かして、アメリカの軍人たちの心をくすぐるなかば娼婦的な「芸者」を演じるくだりでは、輝く。これは、工藤にとっては困ったことではないか?
◆貧しい漁村のショット、そこからのちの「さゆり」が京都に連れて来られるまでのスピードの早いシーンは、なかなかいい。しかし、京都の街に着き、路地のシーンになると、一面、ニューヨークで見るような湯気がたちこめ、なんだ!?なんだ!?という感じになってしまう。後半、火事のシーンがあるが、京都の町家の一軒であれほどの火が出たら、すくなくとも戦前のようないまとはくらべものにならないお粗末な消化システムのもとでは、京都は丸焼けになってしまうだろう。
(ヤクルトホール/ブエナビスタインターナショナル+松竹)



2005-11-21_2

●スタンドアップ (North Country/2005/Niki Caro)(ニキ・カーロ)

North Country
◆映画美学校のある高倉ビルのまえからタクシーに乗り、内幸町へ。右翼の外宣車が 軍歌をかけている。でも、自衛隊や防衛庁が、『男たちの大和』のような映画に協力する時代には、「軍歌」の機能は別のものに移っている。ワーナーは、毎回、本編の上映まえに、例の「海賊版撲滅キャンペーン」の映像を流すが、単に「モラル」に訴えるだけのチープな映像を見せられ、うんざりしてしまう。海賊行為は、モラルでは決して取り締まれない。海賊行為は、テクノロジーとその独占とのあいだで動いているのであって、それは、テクノロジーとそれに対するポリシーが変わらないかぎり、何も変わらないだろう。10年後には、このようなクリップが苦笑のなかで見られるにちがいない。
◆この映画は、1984年にミネソタ州のエヴェレス鉱山に対してルイス・ジェンソンが起こした訴え(当初は州の「人権課」への訴え)と、その前後のいきさつをクララ・ビングハムが描いたノンフィクション『North Country』にもとづいている。この訴訟(1998年になってやっと終審した)は、アメリカ合衆国において「セクシャル・ハラスメント法」の制定に寄与し、「セクシャル・ハラスメント」という意識を定着させ、その言葉を流行らせた意味でも、記念碑的な訴訟だった。もし、この訴訟が勝訴しなかったら、日本でも、「セクハラ」という言葉はまだ知られていなかったかもしれない。
◆原作とは異なり、映画のスタイルは、ハリウッドの「社会派」ドラマの典型である「勧善懲悪」的な方向で展開される。ハリウッドの「社会派」ドラマの典型とは、まず、さんざん悪辣な男たちを描き、そこでは親といえども味方にはならず、主人公はさんざんいじめられる。孤軍奮闘するなかで、一人の男が現われ、主人公を元気づける。そして、事を起こす。最初冷淡だった周囲が、次第に、あるいは段々態度を変え、最後には、主人公は万雷の拍手のなかで「英雄」になる・・・。この映画で、このパターンがどう使われているかは、見てのお楽しみ。
◆パターンを否定してはハリウッド映画を楽しむことはむろんのこと、そこから何も得ることが出来ない。ハリウッド映画は、ミュージカルとならぶ、アメリカの「歌舞伎」なのだ。その「型」を楽しむのでなければ、面白みがない。だから、批評は、その型の質をめぐってなされなければならない。その点では、力のある役者がせいぞろいし、それっぽい「型」を「見事」に演じている。フランシス・マクドーマンド、リチャード・ジェンキンズ、ショーン・ビーン、ウディ・ハレルソン、シシー・スペイセクは、みな「悪」も「善」も演じられる役者。
◆まず主人公ジョージー・エイムズ(シャーリズ・セロン)。夫の暴力を逃れ、幼い娘と息子を連れて、親の家に転がり込む。これは、ありがちなパターンであるが、セロンのように見るからに「美人」の女が、そんな惨めな暮らしをしているところに映画性がある。つまり、通常はありえないからだ。しかし、彼女には、過去がある。そういう形で映画は論理性をとりつくろうが、実は、そんなことはどうでもいい。それよりも、近年のセロンが、好んで労働者階級の女を演じていることに興味を引かれる。
◆初めて炭鉱に職をえたジョージーが、子供を連れて町の食堂で食事をするシーンが印象的。それまでこんな食事をできなかったこと、それが出来るようになったことを感謝しなければならないと子供たちに言うのだが、なかなかいいシーンである。
◆映画では、示唆される程度だが、このドラマの背後には、男女均等雇用が施行され、女性でも鉱山で働けるようになったことによる、男性労働者のあせりとその政治経済的背景があった。自分の仕事を奪う者として女性労働者を敵視する背景がもう少し描かれるべきだった。出て来る男は、文字通りのセクハラ行為にふける男たちばかりなので、この鉱山の男性労働者は、タチが悪いかのように思えてしまうが、事実は、鉱山という産業の後退、外国からの安い金属の流入による景気後退などが、労働者の意識をさいなんでもいた。このへんを描くには、ジョージーが働くまえの男性労働者たちの「楽しい」側面も描かなければならない。
◆ジョージーはいじめられたが、そうでない女性労働者もいた。その役をフランシス・マクドーマンドが力演している。彼女が演じるキャラクター、グローリーは、男性からは比較的好意的に認められ、女性ではただ一人組合の役員をしている。職のないジョージーを鉱山に誘ったのも彼女だ。
◆残念ながら、どこの世界にも、いじめられやすいタイプとそうでないタイプとが分かれる。いじめの原因は、性格や顔つきではなく、社会や経済やテクノロジーの本質に関わる部分だとわたしは思うが、そういうレベルで起こる矛盾を解消するためにある特定のタイプの性格や顔つきが選ばれる。「いもっぽい」女のあいだで唯一「美人」であることやまだロクに仕事が出来ないことも、いじめの選択肢になる。グローリーがいじめをまぬがれたのは、その「男っぽい」風貌と態度にある。
◆いま「セクハラ」は、日本では特に、形式主義になっている。こういう言動や身ぶりが「セクハラ」になるといったマニュアルさえある。だから、逆に、そういう形式からまぬがれたレベルでの本当の「性的いやがらせ」は「セクハラ」という言葉が流行って以後も、一向になくならない。
◆鉱山会社の顧問弁護士が女性というのは、あえてそうしたのだろう。彼女が、裁判の過程で、ちらりとジョージーに同情を見せるシーンがある。映画には、2度、アニタ・ヒルの裁判のことが出てくる。これは、この映画の時代設定になっている1980年代末から90年代にかけて、話題になったセクシャルハラスメント事件で、彼女は、最高裁の同僚をセクハラで訴えた。
◆セクハラは、セクシャリティが多元化され、「ポリセクシャリティ」ということが身につくようになるまで、なくならないだろう。セクシャリティは、文化論的には、80年代以後、ジェンダーのなかに解消されるようになった。理論的には、もう、陰茎があるから「男」、腟があるから「女」と断定することはできなくなった。「性同一性障害」が認知され、ある限界内で「セックス」の二元論はくずれた。しかし、ジェンダーとしての「男」と「女」では、不十分である。セクシャリティというものは、もっと多様であり、それは、欲望というものの多元性に対応している。
◆この映画では、犯罪的なレベルの性的暴力と、卑猥な文字を女性たちの控え室の壁に書きつけるといったセクハラとが描かれるが、性的暴力とセクハラを同じレベルで論じることはできない。セックスには、どこか、カニバリズム的な要素がある(「フェラチオ」はそれを示唆しもする)が、殺すということも、「食う」こととどこかでつながっている。食うといっても、さまざまだ。小食、過食、断食、暴飲暴食・・・。が、セクハラは、「食べる」というよりも、「見る」ことの方により近い関係を持つ。だが、見ることは、眼で「なめる」ことでもある。「ポリセクシャリティ」は、ガタリとドゥルーズのものだが、今日は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を読み直したくなった。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2005-11-21

●家の鍵 (Le Chiavi de casa/2004/Gianni Amelio)(ジアンニ・アメリオ)


◆子供を持つということは、つねに「罪」の意識がつきまとうのか? この映画の父親ジャンニ(キム・ロッシ・スチアート)は、15年まえに息子パオロを捨てた。難産で生まれた息子とひきかえに妻は死んだ。鉗子分娩で生まれた息子は、身体障害を負い、妻の弟(兄?)アルベルト(ピエルフランチェスコ・ファビーノ)が引き取った。すでに再婚し、子供もいるジャンニが、なぜこれまで1度も会ったことのない息子に会うことになったのかは、よくわからない。映画は、ミュンヘンのカフェでアルベルトにジャンニが会っているところからはじまるが、まず映るのは、アルベルトの顔で、それからカメラが動いてジャンニが映るという順序になっている。別に意図的に謎をかませた映画ではないが、あちこちに、深く考えすぎると「謎」に見える個所の多い作品だ。
◆ベルリンのリハリビ施設にジャンニが15歳のパオロ(アンドレア・ロッシ)を連れて行くくだり。病院で、より重いハンディキャップの娘を持つ女性ニコル(シャルロット・ランプリング)との出会い、パオロとの親子としての関係の回復・・・。ストーリーはそんな風に流れる。が、見どころは、15年間身障者として生きてきたパオロの独特の個性、とまどいながら自分を変えて行くジャンニ、泰然と娘を介護しているように見えるニコルがふとあらわにする深い苦しみと悲しみの瞬間、ベルリンのリハビリ施設のいかにも「ドイツ」的なプログラムへの自信(決まったプログラムを敢然と実行する女医)、・・・・。
◆『マイ・アーキテクト』が、息子が父親を見る映画だとすれば、これは、父親が息子を見る映画である。息子から父親への関係と、父親から息子への関係は、同じ父子同士でも、決して同じではない。そこには、不可避的なすれちがいがある。「親の心子知らず」ということわざがあるが、事実は、「子の心親知らず」でもある。子が親の「心」を知るのは、親が死んだあとだったりすることが多いが、親が子の「心」を知るのも、子がもうかぎりなく遠くに行ってしまったとでであったりする。人生は皮肉なもの。が、この映画の父と子は、そういう人生の皮肉を越える幸運にめぐまれたようだ。
◆映画のなかでわたしが一番感動したのは、ニコルが、ジャンニと電車を待つあいだベンチで話をしていて、急に思いが込みあげて来て、それまでのたくましさを失う瞬間だ。これは、「ニコルが」というよりも、シャルロット・ランプリングの圧倒的な演技に立ち会う瞬間だ。
(映画美学校第1試写室/ザジフィルムズ)



2005-11-17

●マイ・アーキテクト (My Architect/2003/Nathaniel Kahn)(ナサニエル・カーン)

My Architect
◆建築家ルイス・カーンの息子ナサニエル・カーンが、実父の足跡をたどり、自分でドキュメンタリーの演出とナレーションまでしたしまった作品だが、出来上がったものは、「素人ばなれ」している。ナサニエル・カーンは、『M・ナイト・シャマランの埋もれた秘密』(The Buried Secret of M. Night Shyamalan/2004)というテレビ作品を撮っているが、映画の人ではない。おそらく、本作が最初の映画デヴューだと思う。普通とはちがう父子関係を、ジョゼフ・ヴィタレリのやや哀愁(過去をなつかしませる効果)のこもった音楽とともに描く。かならずしもよくは思っていなかったところもある父親に対して、こういう姿勢を持てるようになるには、30年以上の月日が必要だった。
◆足跡をたどるといっても、単なる「伝記」ではない。本妻がおり、ナサニエルの母(ハリエット・パティソン)のもとへときどき通ってきてはその日のうちに帰るという生活をしていたカーン。ナサニエルが6歳のとき、ニューヨークのペン・ステイションで倒れ、帰らぬ人となった。が、「パスポートの住所を消してあった」ために、3日間、死体安置所に置かれた。なぜ、住所を消したのか? 自分の母を捨てたという思いがある一方で、ナサニエルには、それが、本妻と別れ、自分の母と再婚するためだったのではないかという思いもある。 本妻のほかにもう一人愛人(アン・ティン)がおり、それぞれに子供がいたが、息子はルイス一人だけで、彼は、息子として愛された記憶を持っていた。
◆ルイス・カーンは、有名人だったから、多くのヴィジュアル・ドキュメントが残っている。この映画は、そういう資料をうまく使い、さらに、ルイスの仕事仲間、クライアント、ナサニエルの異母姉妹、さらにはもう一人の愛人アンへのインタヴューにも成功している。本妻は、すでに亡くなっており、生前のフィルムが使われる。
◆4歳のときにルイスの一家は、エストニアからフィラデルフィアに移民した。彼が50代になるまで社会的に不遇であった背景には、子供のときに負った顔の火傷があたえる印象、ユダヤ人という出自、建築家というよりも空間の思索家・アーティストとしてのとっつきにくさと頑固さ、「家庭」への無関心・・・があったかもしれない。
◆映画で見ると、ルイスが設計したカリフォルニアのソーク生物学研究所の建物(というよりもギリシャ神殿風の建物とスペース)が最も彼の思想を体現しているように見える。「集まること」、「住むこと」、「政ること」が具現化されているというバングラデッシュ国会議事堂は、映画では、そのよさはわからない。
◆ルイス・カーンは、わたしには、思索家マルチン・ハイデッガーを思いだせる。両者にあいだには直接関係はなかったはずだが、ハイデッガーの「住まう」、「建てる」、「言語の家」といった発想は、カーンの建築への発言だけでなく、「家が基本」になっている建築作品と接点を持つように思えるのだ。
◆有名建築家が設計した家に住んでいる知り合いがかなりいるが、本当に住み心地がよいかどうかはわからない。むしろ、そういう建築は、「住む」ことを新たに始めることを要求されるようにみえる。それまでの「住み方」を新たにするのでなければ、そういう家には住めないのが普通のように思う。
◆建築や都市は、個々人をある一定の「住み方」のなかに導くある種「教育」的な機能を持つ。むろん、教育は、「馴化」にもなり、さらには個々人をある一定の固定した枠のなかに閉じ込める管理装置にもなりえる。ルイス・カーンには、空間を通じての「教育」という発想がつねにあったような気がする。設計とは、彼にとって、一つの「教育」であり、個々人を「啓発」すること、そのポテンシャルを解放させることだった。
◆本妻は、医師であり、ルイスの不遇時代を経済的にもささえ、2人の愛人は、ルイスと仕事をともにした(あるいはアシストした)関係にある。ナサニエルの質問に対し、2人は、自分の「妾」的な立場を恨んでも、後悔してもいない。まだ社会的に「シングル・マザー」という観念が薄かった時代である。弟子であったシャムール・ウォレスは、言う――「大勢を愛するために家族を犠牲にすることもある」。しかし、本当は、ルイスには、一夫一婦制とか、核家族とかいうような観念がなかったのだとわたしは思う。彼にとって「家」とは、ハキム・ベイの「T.A.Z.」(一時的自律地帯)のようなものであり、「住まう」とは、一か所に根づくことではなく、「ノマド」としてそうした「T.A.Z.」を訪ね歩く動的なプロセスだった。
◆その意味で、前述のハイデッガーとの類似点は、同時に、ハイデッガーの再解釈にも役立つだろう。というのも、ハイデッガーの「住まう」という概念は、「大地に根を張る」といったスタティックな方向でばかり解釈されているからだ。彼は、南ドイツのフライブルに住み、夏を近くのトウトナウベルクの山のなかですごした。しかし、フライブルクに行ってみるとわかるが、そこは、小さいながらもきわめて都市的な街であり、またトウトナウベルクの山荘にハイデッガーは、電気式のレコードプレイヤーやタイプライターを所持していた。ただの「田舎暮らし」をしていたわけではない。「故郷喪失」は彼の主要タームだが、それは、人力で取り戻せる「喪失」ではなくて、現代のテクノロジーの本質であり、人はその「喪失」のなかで生きるしかないというような「喪失」だった。だから、その点では、マーシャル・マクルーハンが、『グーテンベルクの銀河系』のなかで「ハイデッガーは、デカルトが機械の波に乗ったように、電子の波のうえを意気揚々とサーフィンする」と言っていたことは、本気では受け取られなければならない。
(ギャガ試写室/レントラックジャパン)



2005-11-11

●男たちの大和 (Otokotachino Yamato/2005/Sato Junya)(佐藤純彌)

Otokotachino Yamato
◆大きなスクリーンで東映の映画を見るのはめずらしい。いつもは、東映試写室のいまとなってはわびしい小スクリーンで見る。が、映画の冒頭、画面がスクリーンの中央に小さなフレームが映ったので、あたかも東映試写室のスクリーンがそのまま持ち込まれたかのような錯覚に陥った。事実は、原作者の辺見じゅんが委員長、製作の角川春樹が事務局長をつとめる「海の墓標委員会」による海底探索によって撮影された、沖縄付近に沈む「大和」の遺影写真なのであった。
◆戦艦大和の建造と就航は、戦前・戦中の日本の政府と軍の陥っていたパラノイアと自閉症の象徴だとわたしは思うが、権力は、いつもこういう愚挙をくりかえし、そのあとで、そのことを韜晦したり、言い訳したり、おごそかにとむらったりするものだ。それが、権力の「責任」の取り方の一つのスタイルである。しかし、そこでは、すでに「責任」という観念が破綻しているのであり、それならば、最初から「責任」などを設定しなければよかったのだ。ここで言う「責任」とは、ある行為を意図的に行なった結果に対してその行為者が「責任」を持つという意味である。
◆イヴェン・イリイチによると、「責任」という概念には、「自分が責任を負っていることに対して、自分が何かをなしうるという信念」がつきまとっているという。イリイチは、ここに人間的な過信を見るが、彼によると、たとえばドイツで「責任」という語(Verantwortung)が辞書に載るようになるのは、1920年代からだという。つまり、「責任ある行動」や「責任追求」は、「責任」を取れるという「信念」から生まれるのであり、その信念は、絶対的なものではなくて、歴史的なものである。しかし、イリイチは、ならば、「無責任」がいいというわけではない。「責任」に立脚しない発想の必要を言おうとしている。それは、彼によれば、「いまを生き生きと生きる」「享楽主義」である。
◆戦争をする者は、それによって相手国や世界を支配できるという「信念」がある。だから、支配できなかったあかつきには、その「責任」を問われることになる。しかし、戦争は破滅的なものであり、始めれば、そのコントロールは不可能になる。だから、その「責任」もいいかげんになり、妥協の産物か、形だけのものになる。「戦争責任」とは人間の能力の過信をさらけださずにはおかない。
◆しかし、このことは、「戦争責任」などというものは、負わされるのが不当なものだなどということを言っているわけではない。そうではなく、「責任」問題になるようなことはやるなということであり、そういう問題を起こした場合でも、「責任」などを問うことによって解決されることはないということなのだ。イリイチの言う意味での「享楽主義」に徹するならば、戦争はできない。もし、戦争を起こしても、これに徹するならば、その結果を「いまを生き生きと生きる」という方法で解決することになるだろう。日本の「戦後」は、そういう「責任」をこえた「いまを生き生きと生きる」しかないつかのまの時代であり、「戦後民主主義」の本質もそこにあったはずだった。
◆日米戦争は、日本政府と軍部による過信につぐ過信の戦争だった。その結果としてのおびただしい数の民間人と軍人と兵士の死は、戦争遂行者に「責任」があるが、その「責任」は、いかなる形でもつぐなわれることはない。それゆえ、敗北戦争は、忘却か、マゾヒスティックな「批判」的「享楽」で解消されることになる。『男たちの大和』は、まさに後者に属する。戦艦大和の破滅には、「享楽」の要素はどこにもない。それを物語やドラマにするときのみ、ある種の「享楽」の対象になりかわる。しかし、その「享楽」は、「いまを生き生きと生きる」ポジティブな「享楽」とはならず、複雑に自虐的な「享楽」――事実は悲惨だが、そこにはそれぞれの真摯な生きざまがあった云々――とならざるをえない。
◆「大和」で「死に方用意」を若い艦員(事実上の特攻隊員)たちに教える役目を負った臼淵大尉(長嶋一茂)は言う。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるのか。今日目覚ずしていつ救われるのか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか」。苦しい理屈である。なぜ「敗れ」ようとするのなら、白旗を挙げずに「玉砕」なのか? それは、今回は「敗れる」が次には「勝つ」と言っているに過ぎず、戦争そのものへの反省にはなっていない。
◆この映画は、防衛庁と自衛隊の協力によって作られたが、若い艦員の肉親や家族や恋人たちは、口をそろえたように、「死なないで帰ってほしい」と言う。ここに登場する女たち(白石加代子、高畑淳子、余貴美子、寺島しのぶ、蒼井優)は、「銃後の女たち」ではない。ここでは、「帝国憲法」ではなく、戦争放棄をうたった現行憲法が肯定されているようにみえる。しかし、「散る」ことに意味があったかのような描き方と美学は、基本的に戦争映画の古典路線の域を出ない。桜は、あいかわらず、「散る」ことを美化する記号になっている。しかし、花見の頃によく見る路上に散った桜の花びらを見れば、散るということがいかに虚しく、はかないものであるかがわかるだろう。桜の「散る」のが美しいなどと言っているのは、家のなかから外を眺めている有閑階級か、花見酒に酔いしれて、一過的に桜を眺める花見客だけであって、道路掃除をしなければならない者の目からは、そんな印象は出て来ない。
◆プレスによると、司令部の食事は、「大和ホテル」と呼ばれるほど「豪華」なものだったというので、そのようなシーンが登場するのを楽しみにしていたが、それは最後までなかった。命令を守らなかった者への厳しい罰としごきを描くシーンはあるが、一体に、上の者は下の者に「やさしい」。ひどいのは、連合艦隊参謀長(林隆三)をはじめとする陸上の安全地帯に鎮座する連中であって、大和の内部には、意外な「連帯」と「信頼」があったかのような展開である。むろん、そんなはずはないし、それでは3000人もの若者が無意味な死を死ぬはずがない。「菊の紋」と上官の威圧がなければ、「水上特攻作戦」は不可能だった。そして、戦艦の内部にも、ミニ「連合艦隊参謀長」がおり、上部の決定の遂行を強制していたはずだ。そういう戦艦内部の政治力学は、ここでは、ほどんど描かれない。作戦の生き残りの神尾(仲代達矢)は、上官の内田(中村獅童)の養女(鈴木京香)に、「大和の仲間ことが本当の戦友だった」と言う。しかし、いっしょに命をかけたことがあたかもかけがいのないことであるかのように思うのは、ただの「信仰」ないしは思い込みにすぎない。
◆ここまで読んだ方は、映画としてダメであるかのような印象を持たれるかもしれないが、映画は映画。自分で見てみなければ、わからない。映画としては、『ローレライ』や『亡国のイージス』よりも凝った戦闘シーンがあるし、役者たちのリキも入っている。
(スペースFS汐留/東映)



2005-11-10

●フライトプラン (Flightplan/2005/Robert Schwentke)(ロベルト・シュベンケ)

Flightplan
◆そんな大作という感じがしないので、ぎりぎりに行けばいいかと思っていたが、開場の30分まえには着いてしまった。が、「丸の内ピカデリー1」でやるためか、けっこうの人。たまたまいっしょになった山口正介さんとおしゃべり。『Always 三丁目の夕日』にお祭りのシーンがないのは残念と山口さんが言う。なるほど、そういえばそうだ。試写会には、会場のランクというものがあるらしく、ここでの試写は一応ランクが高いよう。そして、そういう洋画の字幕は、「戸田奈津子」と決まっている。
◆ジョディ・フォスターは、『ロング・エンゲージメント』で抜群の演技をしていたが、短い出演だったので、今回は、『パニック・ルーム』以来の主役。ちょっとふけて、6歳の娘(マーリン・ローストン)の母親役としては、更年期出産の母といった雰囲気。が、その分、顔に年輪の風格のようなものができた。しかし、この映画では、そういう「年輪」の方ではなく、あと10歳ぐらい若かった方がそれっぽい「肉体的強さ」の演技を示す。
◆カイル(ジョディ・フォスター)の夫が事故死し、彼女がその棺とともに娘を連れてベルリンからアメリカに帰る飛行機のなかの出来事。しかも、その飛行機は、彼女が設計士として関わった最新鋭機で、その日は、アメリカへの初就航の日だという。普通、そういう場合、設計士は(しかも夫の死などという特別の事情もあるのだから)特別のあつかいを受けるはずだが、映画で見るかぎり、彼女は別に特別のあつかいを受けていないし、乗務員も彼女が何者であるかを知らない感じ。これは、「プライバシー」を尊重する「欧米」の慣習的な「あたりまえ」なのだろうか? それとも、まずどういう映画にするかというねらいがあって、それに要請されて動員された条件なのだろうか?
◆カイルがうとうとと(といっても、ファースト・クラスのリクライニング・シートを倒して寝るのではなく、空いている横の席に横たわって眠っている――きわめて「庶民的」な眠り方)していて、目が覚めると、そばで眠っていたはずの娘がいない。どこを探しても見つからないので、彼女はパニックに陥るが、奇妙なことに、乗務員は、娘さんは最初から乗っていなかったと言い、彼女の精神状態を疑う。「不条理」ドラマのような事態に直面させられた彼女は、自分が設計に関わって知っている知識をしぼり出してその飛行機の内部を独力で調べはじめる。
◆こういう設定は、非常にイマジナブルで、さまざまな想像を呼び起こす。ひょっとしてこの飛行機にとんでもない仕掛けがあって、そこに迷路のような世界があって、『コンタクト』のような異次元に行ってしまうとか、あるいは、彼女が狂っていて、彼女の言っていることは妄想で、映画は、なぜ彼女がそういう妄想をいだくにいたったかを描くとか、あるいは、ここには奥深い陰謀が仕掛けられていて、『トゥルーマン・ショウ』のように、彼女以外の全員が「グル」である・・・等々。しかし、この映画は、意外と常識的な方向で展開し、終わる。
◆「最新鋭」の飛行機とか、それを設計した技師とかいう設定にもかかわらず、それらがあまり活かされているとは思えないのは、好意的に見れば、理由があるのかもしれない。彼女は、「設計技師」というが、決してセレブではなく、末端の仕事をしていたにすぎないのかもしれない。そう見ると、彼女がファースト・クラスの乗客(席の感じからそうとしか見えない)でないのも納得がいく。また、彼女がけっこう腕っぷしが強い(前作の『パニック・ルーム』のときよりも「たくましい」感じのキャラクターだ)のも、そのためかもしれない。大学教授の妻からワーキング・クラスのシングル・マザーへ?
◆わたしは、全員陰謀説に惹かれ、そのためか、登場する機長(ショーン・ビーン)、スチワーデスのエリカ・クリステンセン、ケイト・ビーハン、そして乗客のピーター・サースガードの目が、「異星人」のそれのように見えてならなかったが、そういう展開にはならなかった。
◆最近、TKさんから、「7000もアクセスのあるサイトで、いちいち読み手を気にしていては何も書けなくなります。書き方に迷われているな、と思うことはときどきあります。特に『ネタバレ』でしょうか。粉川さんの映画評はわりとネタバレぎみだと思うのですが、たぶん抗議のメールとかも来るんでしょうね。ネタバレして価値が下がるような映画はだめだとわたしも思いますが、そうはいってもやっぱり頭真っ白状態で見にいく方が感動は大きいので、ネタバレありのときはその旨注記して頂ければありがたいと思いました」というメールをもらったが、この映画の予告編を見ると、ほとんど「ネタ」を明かしているのに驚く。このクリップをプレイヤーで止めたり、戻したりして見れば、この映画の主要プロットがわかってしまう。
◆明らかに、9・11後の社会的気分をつかっていることは確かだが、それは、単に「雰囲気」にとどまっている。だから、アップに耐ええる「年輪」のきざまれたジョディを見るのと、そこそこのサスペンスを楽しむことで、満足しなければならない。
(丸の内ピカデリー1/ブエナ・ビスタ・インターネショナル)



2005-11-09

●ハリー・ポッターと炎のゴブレット (Harry Potter and the Goblet of Fire/2005/Mike Newell)(マイク・ニューウェル)

Harry Potter and the Goblet of Fire
◆劇場試写を逃し、社内試写へ。が、ワーナーの試写室は、新しくなってから、5指に入るほどのもの。セキュリティが厳しいのは、配給会社では1番か。あまり寝ていないので、眠くなるとやばいので、ロビーのコーヒー店でエスプレッソを飲む。が、映画は、決して観客を眠らせないダイナミズムにあふれていた。このシリーズでは、わたしは一番面白く見た。
◆この映画は、「ネタバレ」と言われるような「禁」を犯させない映画的ダイナミズムにあふれており、「ふざけんな、ネタバレ恐怖症!」が持論のわたしでも、映画自体がそもそもそういうレベルをこえていて、やろうとしてもできない。要するに、何を書いてもむなしいのだ。書くことが、単なる注釈にすぎず、映画と対等のレベルで書くには、相当の天才的文才がないと不可能である。こういうと、すごい作品に見えるが、一応、そう言っておく。
◆これまでのシリーズと違うのは、内容がいくぶん「暗い」(冒頭から不気味な蛇が出現する)にもかかわらず、大げさに言えば、1分ごとの映像的祝祭(カーニバル)にあふれていることだ。フェリーニに共通するところもあるが、あちらがアナログ的にそれを実現したとすれば、こちらはデジタル的に実現した。ただし、これは比喩であって、実際には、火を吐くドラゴンは、実物が作られたという。デジタル的なものは、アナログ・フィジカルなものとの融合のなかでしか活きない。いずれにしても、スペース・オペラとアメリカン・ミュージカルとフェリーニ的祝祭とヴィスコンティ的豪華さの綜合。どうも、今回はほめすぎになりそう。
◆魔法の実力をめぐって誰が「炎のゴブレット(杯)」を勝ち取るかを競うのだが、競争のスリルを見せる「スポーツ」映画にはなっていない。魔法の「ワールド・カップ」だから色々な国の魔法使いがいて当然だが、バルカン/東欧系の衣装と風貌の人物たちが目だった。「チョウ・チャン」という中国系の生徒を演じるケイティ・ラングは、3000人のなかから抜擢された中国系イギリス人。
◆ヴォルフガング・ペーターゼンの『トロイ』で手におえない悪役を演じていたブレンダン・グリーソンが、今度は、「マッド・アイ・ムーディ」という新任教授を演じている。「教授」といっても、ただの教授ではないが、クサ~い演技が迫力。
◆あえて文句を言えば、リポータ役で出て来るミランダ・リチャードソンのせりふを、「・・・ざんしょ」といった字幕で表現されていたことぐらい。「ざんしょ」という言い方は、50年代にトニー谷が言いだして、広まり、その後、あいだをしばらく置いて、コミックで使われるようになったが、近年はあまり使われなかったように思う(そうでもなかったりして――もしそうなら教えてください)。そういう背景を知らないで聞けば、新鮮なのかもしれないが、わたしには、なんだ?!という印象しかあたえない。ちなみに、字幕は戸田奈津子。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース)



2005-11-07

●プライドと偏見 (Pride & Prejudice/2005/Joe Write)(ジョー・ライト)

Pride & Prejudice
◆通常、見た映画についてはまずここに書くのを優先するが、来年から始めるウエブ雑誌のようなもの(それがどんなものかを知らないで受けた)に映画コラムを持ってほしいといわれ、受け、この作品を第1回のために指定してきたので、深夜、仕事場にもどり、急いで書いた。来年から始めるというのに、締め切りが雑誌なみなのだ。このへんで、気づくべきだったが、その路線は、ウェブというよりも、「雑誌」志向だったようだ。翌日、担当者から、メールが来た。内容の出来不出来については何も書いていなくて、「ネタバレ」があるので、訂正してほしいという。「ネタバレ」については、持論があり、くりかえし書いてきたので、それを言うならわたしに原稿など依頼しないでほしいという思いがまず浮かんだが、それは傲慢だなと思いなおし、今回に関しては、どこが「ネタバレ」なのかがわたしには不明で、この程度で「ネタバレ」と言われるのなら、これから大変で、(それを言っているのは「上司」らしい)担当者がかえって難しい立場に立つのではないかと思い、この企画を降りることにした。
◆ちなみに、原題は、"and"の代わりに"&"を使っているが、言わずと知れたジェーン・オースティンの"Pride and Prejudice" 。すでに何度か映画化されており、今回なんで"and"を"&"にしたのか不明だが、"and"が"&"になったところが、この映画化の「新しさ」でもあり、また「ダメさ」でもあるような気がする。ただ、"&"にすると、「プライド」と「偏見」がセットになっているという点がはっきりすることはたしかだ。それは、原作の基本でもあるから。
◆日本では、『高慢と偏見』という邦題が定着しているが、中野好夫は『自負と偏見』と訳している。"pride"を「高慢」と訳してしまうと、かなり一方的な解釈となるし、「自負」というのも、解釈的にはベターだとしても、いまいちだ。だから、映画が、そのまま「プライド」としたのは賢明だ。しかし、日本語で「プライド」というのは、またちょっと"pride"と距離がある。これらの概念は、18世紀末のイギリスの階級社会の予備知識を要求するからだ。
◆しかし、映画は、いまの観客を相手にしており、きわめてイマっぽいキーラ・ナイトレイがばーんとアップで登場するとたんに、18、9世紀がどうのこうのという問題はどこかに吹き飛んでしまう。手続きは、「時代」のよそおいをまとっているが、むしろ、いまの時代の話として受け取ったほうが、面白く見れるだろう。イギリスの男(たとえ移民の息子でああっても)、マシュー・マクディンが演じるダーシー(これは一応「生粋」のイギリス人という設定)のように、シャイなため、なかなか本音を出さず、無口でちょっと陰険にも見えてしまい、誤解をうけるようなタイプがいまでもいる。わたしの友人のキースなどは、スペイン人の血を引いているにもかかわらず、まさにダーシーの感じだ。
◆しかし、いまの話として見るといっても、この映画化でも、原作の骨子は無視できなかった。ここでは、5人の娘をかかえるベネット氏(ドナルド・サザーランド)とベネット夫人(ブレンダ・ブレッシン)が、娘たちをいかにして「良家」にとつがせるかがドタバタ喜劇風のスパイスをまぜあわせながら描かれる。いまだから、笑って見られるが、原作が発表された当時は、それは、確実に社会風刺であり、強烈な批判と受け取られた。それは、さまざまな旧制度が過激に変わりつつあった時代に書かれた「過激」な小説だった。
◆映画では、原作の「過激」さはわからない。それよりも、女と男が知りあって、プロポーズにいたるいくつかのパターンを見せることに重心が移動している。自分の歳を考えて、ドジではあるが生活の安定した牧師(トム・ホランダー)のプロポーズを受けるシャーロット(クローディ・ブレイクリー)、衝動的でハンサムな軍人(ルパート・フレンド)と駆け落ちしてしまう若いリディア(ジェナ・マローン)、シャイでなかなか自分の気持ちを打ち明けられないジェーン(ロザムンド・パイク)、そして、何でも思ったことを言う、いまの時代なら「普通」の女エリザベス(キーラ・ナイトレイ)など、それぞれ性格の違う女性たちの男への対応を描きわける。
◆豪邸に住む貴族、キャサリン夫人を演じるジュディ・デンチは、その役を古典的に演じ、いまのコンテキストで見ても、観客が一応の「反発」を感じるであろうような、家柄や財産を誇りにする、傲慢、権威主義的かつ抑圧的な感じを出していた。しかし、マスコミの「虚像」にすぎないにしても、野村沙知代とか泉元元彌の母・泉節子の「グレートマザー」的存在感 にくらべれば、「古風」すぎるのではなかろうか。
◆この映画の欧米での評価は高いのだが、それは、おそらく、いま広まっている「セックスレス」の傾向と無関係ではないだろう。エリザベスが、ダーシーのプロポーズをやっと受け入れるシーンでは、ダーシーがそっと手にキスし、そのとき二人の額が少しづつ接近し、最後にやっと軽く触れあったところを映すだけなのである。
(よみうりホール/UIP)



2005-11-04

●クラッシュ (Crash/2004/Paul Haggis)(ポール・ハギス)

Crash
◆いわゆる「アンサンブル・プレイ」のスタイルを駆使している。複数のドラマを同時並行的に描きながら、その各モジュールを接近遭遇させたり、離したりしながら、大詰めにもっていく。その手口は、見事だ。監督は、ずっとテレビの仕事をしてきて、本作が映画の初仕事である。原案・脚本・監督・製作をこなしている。本作は、カナダで2004年9月10日にリリースされたが、アメリカでは2005年4月21日にリリースされたこともあって、日本では、本作よりあとの仕事である『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本(アカデミー脚本賞ノミネート)の仕事の方が先に知られることになった。
◆舞台はロス。初めの方で、車中の刑事グラハム(ドン・チードル)が、ロスの人間はコンクリートとガラスで仕切られた生活をしているから、「タッチ」がなく、そのために「クラッシュ」が必要なんだとシニカルなことを言う。これが、この映画の基本テーマを語り尽くしている。この「クラッシュ」は、ここでは、多くの場合車の衝突で、いくつかの衝突パターンが物語の核になっているが、それだけでなく、人と人との衝突・闘争、さらには9・11の「クラッシュ」をも含意している。最初、わたしは、クロネンバーグに同名の作品があるのに、失礼だと思ったが、ここまで「crash」の概念を深めてくれれば、クロネンバーグも異存はないだろう、と思った。
◆グラハムと同僚のリア(ジェニファー・エスポジト)の車が追突事故を起こすと、相手の車を運転していたアジア人は、リアの顔を見て、「メキシコ人かい、どうせ不法入国なんだろう」となじる。彼女は、実は、メキシコ人ではなく、父がプエルト・リコ人、母がエル・サルバドル人なのだが、このエピソードは、メキシコ人=不法入国者という、アメリカ社会に流布している差別と偏見を揶揄している。
◆警察のキャリアのリック(ブレンダン・フレイザー)とその妻ジーン(サンドラ・ブロック)が歩いていて、ジーンが、通りがかりの黒人2人組、ビータ(ラレンツ・テイト)とアンソニー(クリス”リュダクリス”ブリッジス)と目が合い、無意識に目をそらしたことから、アンソニーにからまれ、そのあげく車を奪われる。このくだりは、非常に微妙で、ジーンが本当に目をそらしたのかははっきりしない。また、黒人の側も、半分以上はパラノイア的な反応で、このシーンも、白人の黒人恐怖・拒否と黒人の差別・被害妄想との不幸な接近遭遇(クラッシュ)を描く。
◆巡査ライアン(マット・ディロン)と若い巡査ハッセン(ライアン・フィリップ)は、車でパトロール中、テレビ・デレクターのキャメロン(レレンス・ハワード)とその妻クリスティン(サンディ・ニュートン)が乗った車のなかで、2人がいちゃついているのを見とがめ、停車を命じる。過剰な誰何(すいか)に、ハッセンは躊躇するが、ライアン(警察官や消防士が多いアイルランド系の名)は、執拗に2人を誰何し、クリスティンにセクハラまがいの身体検査をする。これは、彼女に深い屈辱とそれを見過ごした夫への失望を生む。また、夫の方も、無抵抗であったことへの後悔と罪の意識にさいなまれるようになる。これも、アメリカではありがちなクラッシュである。
◆この人種差別的な巡査ライアンにも、そういう行動を起こさせる理由があった。長年まじめに勤めあげた父親が病気なので、医療補償を受けようとするが、窓口の女性は形式的な反応しかしない。このアフリカ系の相手をライアンは人種差別的な言葉でののしる。ただし、彼女にしてみれば、彼女の権限ではそういう対応しかできないのである。この社会の根に、人をぎくしゃくさせ、追い詰めてしまう病質が潜んでいるのだ。
◆身一つでアメリカに来て、雑貨屋を開くまでになったイスラム系のファハド(ショーン・トーブ)は、店を襲われる危険を感じて、銃砲店へ娘ドリ(バハー・スーメク)にピストルを買いに行かせる。が、店の主人は、「アラブ人」には売らないと言い、また9・11をやらかそうとするのかと、偏見をあらわにする。ここで、外で待っていた父親が飛び込んできて、険悪な雰囲気になる。自分はアメリカ市民であり、銃を買う正当な権利があると主張し、店の主人も折れる。これも、いまのアメリカでありがちなトラブルであり、見ている方は、普通の口論よりやばいという気がする。家に帰って、ドリが、「アラブ人て言われたけど、ペルシャ人なのにねぇ」という台詞が意味深い。日本では特に、「アラブ人」と「ペルシャ人」はいっしょくたにされている。わたしも、ときにはそのわだちを踏んでいるかもしれない。
◆差別と搾取は、固定した上の階級が下の階級を差別・搾取するだけでなく、同じ階級の内部でも差別と搾取が起きる。差別社会というのは、入れ子状になって差別と搾取が増殖する。貧しい人間が泥棒にあったり、憎む相手でない者を憎んでしまったりする。白人には遠慮する黒人が、同じ黒人には差別的な態度をとる。同じ移民者で、裸一貫でやっとアメリカで生活している者同士なのに、本当は別のところから来た不幸の憎悪を同じ仲間に向ける。こういう中間的なレベルで起きるドラマが、この映画にはいくつも描かれる。単純に、差別を上と下に分けないところが、この映画のすぐれたところだ。
◆こうした出来事が並行してえがかれるなかで、この映画は、対極のクライマッス的出来事を描く。それは、「ネタバレ」だと騒ぐ連中を軽蔑するわたしでも、ここでは書くのをひかえる。それは、「ネタ」が「バレ」るからではなくて、文字などで書いて映像表現を矮小化するのを避けたいからである。いずれも、こうした差別と偏見の逆説としての出来事である。一方は、まだこの差別社会にも救いがあるのだなという深い感動を呼び起こし、他方は、その悲劇性にうちひしがれる。アメリカ社会への批判的な目と、それにもかかわらず、この社会への愛を捨てていない目が感じられる秀作だ。ちなみに、監督は、カナダ生まれだという。
(スペースFS汐留/ムービーアイ)



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●リトル・ランナー (Saint Ralph/2004/Michael McGowan)(マイケル・マゴーワン)
Saint Ralph
◆原題は「聖ラルフ」で、明らかにキリスト教的。このタイトルだったら、わたしは見るのを敬遠したかもしれない。各チャプターが、「1953年9月『大天使ミカエルの祝日 誘惑と戦う人の守護者』」から「1954年5月『聖ハルヴァーの祝日 純真の守護者』」まで、ドラマのテーマに「聖人の事跡」がセットになってしめされる。カナダのカトリックの私立学校の14歳の生徒ラルフ・ウォーカー(アダム・ブッチャー)が、病気で昏睡状態をつづけている母親に「奇跡」が起きるようにボストンマラソンで「優勝」することに励むという話だが、ガキっぽいコミカルな内容にかこつけながらも、「奇跡」の発想は、べったりキリスト教の「常識」を前提にして描かれており、わたしにはちょっとついていけないという気がしてしまった。おそらくカトリックの人が見れば、「べったり」ではなく、笑えたりするのだろうが、わたしのような不信心者には、しっくりこなかった。最後は、ラルフの走る姿が教会のステンドグラスに凝固する(ラルフは、こうして「聖人」になったわけだ)シーンで終わるのだが、わたしは、冗談かと思ったが、現地とその時代を知っている人はどうとるのだろう?
◆ある意味では、1950年代のカナダのハミルトンを舞台にしたAlways 三丁目の夕日なのかもしれない。ノスタルジカの係数で見るべきなのかもしれないが、わたしは、そういう環境にノスタルジアを感じないから、手におえない。神父なのに、ニーチェを愛読している教師のヒバート神父(キャンベル・スコット)が、ときどき(ワル昔だったような)色っぽい目をするので、ニーチェで暴走するのかと思ったら、そんなことにはならなかった。このスコットも、また、母が入院している病院の、どこかレニー・ゼルウィガーに似ている看護婦(ジェニファー・ティリー)も、なにかやりそうで、どうということはない。みんな「健全」すぎるのだ。もう少し、頭を冷やして見直そう。いまは、この程度のメモしか書けない。
(スペースFS汐留/ギャガ・コミュニケーションズ)



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●博士の愛した数式 (Hakushino aishita sushiki/2005/Koizumi Takashi)(小泉尭史)

Hakushino aishita sushiki/
◆小泉尭史監督は、『雨あがる』でも『阿弥陀堂だより』でも、「手堅い」という言葉がぴったりの味を出していたが、その「渋さ」は、必ずしも「一般受け」はしなかった。渋くていいのだが、「華」に欠けるというか、「まじめ」で頭が下がるが、もう一味遊びやケレン味がほしいという気がした。しかし、今回の作品は、これまである面では「マイナス」に思えた要素がすべてプラスに転化し、小泉の全可能性が開花した感がある。
◆ちょっとほめすぎだが、何を演っても親父(宇野重吉)に似て、巧いけれども「同じ」といった感じだった寺尾聡、こちらはもっと「低次」のワンパターンだった吉岡秀隆、がんばっているだけが取り得みたいなところがある深津絵里――この3人の個性をこの映画では「ありのまま」に活かすことに成功している。
◆自動車事故で記憶が80分間しか続かない数学者の「博士」(寺尾聡)は、その境遇にある種のあきらめを感じている。当然、年令的にも気難しさが昂進している。これに、数学者「らしい」内向性が加わり、世捨て人的な雰囲気をつくる。寺尾のややぼーっとした感じの演技は、このキャラクターによく合っている。
◆これは、脚本と演出がいいからなのだが、この映画で吉岡秀隆は「新境地」を出している。彼が、ここで見せる小学校の新任の先生としての「プレゼン」は抜群である。それは、吉岡が抜群になったからではなくて、脚本に書かれたそのやり方がユニークだったからなのだが、そのおかげで吉岡はずいぶん得をした。役者は監督次第である。彼が自己紹介をしながら「博士」との出会いを数学の基礎の紹介とともに進めて行くプレゼンは、なかなか魅力的だ。こういう先生がいれば、学校もよほど面白くなるだろう。彼は、幼いときに「博士」のところで家政婦として働いた母に連れられて「博士」に会い、「ルート」と名づけられた。
◆この「ルート」は、ルートとは、「どんな数字でも嫌がらずに自分のなかにかくまってやる、実に寛大な記号」だからということで名づけられたのだが、このような話法で、この映画では、「素数」、「完全数」、「オイラーの公式」等々がとりあげられる。むろん、これは、小川洋子の原作を踏襲しているわけだが、それにしても、数学の基礎概念を文学のイマージネイションに転換した小川の着想はユニークである。
◆映画は、吉岡が小学校で自分の生い立ちを話すというところから始まり、すぐに時間が10数年バックする。家政婦紹介所から派遣された杏子(深津絵里)は、「博士」の義姉(浅岡ルリ子)に会い、「博士」専用の家政婦を依頼される。彼女は、シングル・マザーで、小学生の息子(斎藤隆成)がいる。のちの「先生」である。彼女がどうしてシングル・マザーになったのかは、口にしない。家政婦をやっていれば、つらいこともあるはずだが、そういう苦労を顔に出さないタイプの女性。気難しいというよりも、普通とは勝手の違う「博士」とコミュニケーションをかわせるようになるのも、そういう彼女の性格のためだと思う。
◆彼女は、「博士」に対して、「まえに言ったじゃないですか」というような発言をしないようにする。これは、おそらく、アルツハイマーや「ボケ老人」とのつき合い方としても、非常に有効だろう。わたしの知り合いに、歳とともに生じてきた健忘症を隠すために、話の合間にくりかえし、「まえに言ったかもしれないけど・・・」というフレーズを入れる人がいる。ずいぶん気を使っているんだなと思うが、わたしなんかも、くりかえし同じことを言って人を閉口させているのかもしれない。
◆わたしは、この映画を見ながら、そうか、80分単位の人生というのもいいものだなと思った。人生が80分間しか続かないとしたら、しかも、その人生がそれで終わってしまうのではなくて、1万回以上も新たな人生を試せるとしたら、これほどよいことはないではないか。10年生きられるなら、1年=525,600分 とすれば、80分単位の人生を6,570回生きることができるわけだ。まあ、80分はつらいから、1日単位でもいい。この映画の力は、そういう「哲学」で裏打ちされているところからも来る。これは、記憶障害を単にサスペンスと映画的技法の関数に使ったにすぎない(というと、抜群のノベライゼイション[ソニー・マガジンズ]を書いている今野雄二さんにしかられてしまうかもしれないが)『メメント』などとはちがうところである。
◆記憶が一生続くものだという脅迫観念から、人は、迷い、将来に不安をいだく。人生80分なら、「その日ぐらし」よりも小単位だから、まったく異なる人生観が生まれる。しかし、どうだろう? 「博士」は、その関係があいまいにされている「未亡人」(浅岡ルリ子)がいつも遠くから母のように見守る(ときには監視する)なかでその「80分の人生」を送っている。「博士」は、彼女の家賃収入や資産運用で生活できているはずだ。つまり、彼の「80分人生」は、貴族的な人生なのである。しかし、新しい文化は、上から下へ降りてくる。貴族的でない「80分人生」はあるはずだし、いま、その必要が強まっている。「ボケ老人」でなくても、これまで身体(脳)に刻みつけてきた記憶がかぎりなくコンピュータに「アウトソーシング」され、それに頼りきる傾向が昂進する状況のなかで、誰しもが人生を80分ぐらいに限定して、その分5千倍生きるというようなことでもしなければ、生きていることを実感できないのである。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース・エンタテインメント)



2005-11-01

●白バラの祈り ――ゾフィー・ショル、最後の日々 (Sophie Scholl - Die letzten Tage/2005/Marc Rothemund)(マルク・ローテムント)

Sophie Scholl - Die letzten Tage
◆欧米で評価の高い作品だが、そのわりには客が少ない。20数年まえならこのタイトルだけで満員になっただろう。配給の日名さん(キネティック)に会ったら、90年代になって発見されたゲシュタポの尋問記録を使っているなど、従来の「ゾフィー・ショル」像がとらえなおされているという。あいかわらず日名さんは、担当する作品への思いが熱い。
◆「ゾフィー・ショル」の名は、いまでは忘れられているかもしれないが、60~70年代、いや50年代にも「左翼」の人々のあいだでは特によく知られていた。「白バラ」とか「白バラ抵抗運動」の文字が雑誌や書評紙によく載った。未来社から出たインゲ・ショル『白バラは散らず ドイツの良心ショル兄妹』は、よく読まれた。ただ、わたしなんかから見ると、ゾフィーは、段々崇高化されすぎるような気がしないでもなかった。それは、たしかに「偉い人」だったのだろうが、誰かを崇高化し、その権威のもとに群がったり、そのもとで行動を起こすという姿勢が気になった。ゾフィーの姉インゲによって書かれた前述の書は、キリスト教的な観点が強く、ゾフィをある種の「殉教者」にしているところも気になった。その点で、ミカエル・ヴェルヘーベンの『白バラ』(Die Weisse Rose/1982/Michael Verhoeven) は、少しちがっていた。そこには、1970年代末から80年代初頭にかけてのドイツのアウトノーメやネオラディカリズムの空気が感じられ、元気づけられた。ここでは、ゾフィーという個人よりも、「白バラ」の活動家たちの連帯に焦点があてられていたからである。たった5、6人の少数グループが、ナチの連中を動揺させた点も小気味よかった。
◆映画の「リアリズム」というのは、模写の度合いとは関係がない。リアリズムとは、対象との共鳴(レゾナンス)の度合いの尺度であり、「リアル」に感じられるのは、映像が、その対象を模写することに成功しているからではなくて、時代とか場所とかの特定条件のなかで、観客たるわたしと、映像のなかの対象とがある特定の共鳴を起こすことができたからである。
◆ローテムント監督は、ゾフィを崇高化しない。むしろ、この映画のゾフィー(ユリア・イェンチ)は、政治意識があってナチに反発を感じる若者のなかではとりたてて勇敢というわけではない21歳の女性である。映画は、彼女が友達とラジオから流れるビリー・ホリデイの歌に合わせて体をゆすっているシーンからスタートし、彼女のアップになるが、それは、狂信的な活動家の顔ではない。ラディカルという意味では、彼女の兄ハンス(ファビアン・ヒンヌリフス)の方が上であり、活動家としては筋金が通っていた。しかし、映画として絵になり、また観客の共感をよびやすのは、ゾフィーである。というのも、筋金入りの活動家が捕まり、脅され、拷問されても圧力に屈せず、初心を貫いたというのは、いわば「偉い人」の話であって、「常人」には、尊敬こそすれ、等距離で「共鳴」するのはむずかしい。
◆秘密の「アジト」でのビラ作り、ゾフィとハンスが、それを大量にトランクに詰めて大学に持って行き、授業中でひと気のない廊下に置く。監視の目を逃れるために急がなくてはならないからだろうが、ビラを何十枚も床に配置していく。なるほど、こういう手もあるのかと思う。普通、ビラは、どこかの台の上に置こうとする。しかし、がらんとした(ナチの時代のドイツらしく埃ひとつないかのような)廊下に、普段は見慣れない印刷物があれば、目につき、人は拾うだろう。わたしもいつかやってみよう。
◆このとき、ゾフィは、一旦はロビーを見下ろす手すりのうえに置いたビラの山を、茶めっ気のある若い女性特有の身ぶりで、さっと突き、ロビーに落とす。ビラが空を舞い、ロビーの床一面に落ちる。これは、映画的にも美しい場面だ。ひょっとして、ゾフィがこの突発的に思いついたアクションをしなかったならば、彼女と彼の兄とは逮捕されなかったかもしれない。ビラが発見されるとすぐに、初老で小柄の守衛が飛び出して来る。これが、まるで警察官顔負けの勢いと身のこなしで、ロビーと階段にいる者たちの動きを止め、出入り口を封鎖してしまう。ゾフィとハンスは、まもなくやって来たゲシュタポに逮捕される。
◆興味深いのは、逮捕後、兄とは別々の部屋に入れられ尋問を受けたゾフィーと、ゲシュタポの尋問官ロベルト・モーア(アレクサンダー・ヘルト)とのやりとりである。長い尋問のなかで、モーアが彼女に同情的になるのが面白い。プレスに載っている監督のインタヴューによると、ここでモーアは、ゾフィが無実だと信じたと言っている。つまり、ゾフィは、彼をだますことに成功したというわけだ。しかし、映画で見るかぎり、必ずしもそうとる必要はない。ここが映画の面白さである。脚本や監督がどう考えようと、出来上がった作品が一つの有機体として機能し始めるのだ。
◆わたしには、モーアは、ゾフィーの政治活動への関与を確信していたと思もえる。ゾフィーが、「白バラ」は、決して大きな組織ではなく、その中心は兄と自分だとして、他の仲間(とりわけ、すでに学生結婚して子供もいたクリストフ[フロリアン・ステッター])をかばったにしても、モーアは、そんなことを単純に信じるほど鈍感な尋問官ではなかっただろう。が、尋問のなかで、彼は、次第にゾフィの抗議の真摯さに惹かれて行く。彼にはゾフィと同年代の息子がおり、まさにこの時点で東部戦線の勝ち目のない闘いに動員されていた。すでに、この尋問が行なわれた1943年2月には、ナチは敗退しはじめており、3月にはスターリングラードで敗退を帰す。ゲシュタポがそれを知らないはずはなく、ナチの内部もヒトラーに対して一枚岩ではなくなっていた。だから、モーアは、スターリングラードでの悲惨な状況をリポートし、ナチの戦争遂行をやめさせようとしたゾフィらの活動が全然わからないわけではなかった。その複雑な思いを、アレクサンダー・ヘルトはなかなか意味深長に表現していると思った。
◆いつの時代にも、戦争を悲惨なものにするのは、現場を知らずに机上で命令を発する上層部である。彼らにとっては、戦争は「ゲーム」にすぎない。「白バラ」を奥の深い組織だと恐怖したナチは、ゾフィらを即決の人民裁判にかける。その裁判官は、ベルリンから派遣されたローラント・フライスラー(アンドレ・ヘンニック)で、これこそ、ナチの最もエキセントリックな要素を凝集したキャラクターであり、ヒトラーがナチズムの各部分に分泌させたナチのエキスを体現している。この映画の最もスリリングなシーンの一つがその法廷シーンである。ナチズムの「熱烈」さとか、「過激さ」というのは、観念を原理主義的に循環させる空転のなかで生ずる効果なのだが、フライスラーの弁論は、まさにその典型である。彼には、現実に起こりつつあるナチの敗北も、戦地の悲惨さも目に入らない。こうした観念野郎に対しては、その熱が冷め来るまで待つしかなく、何を言っても、死もって対決しても勝つことができない。というのも、彼らの観念は、死の観念であり、その原理に合致しないものは、ただ死に神の大ナタでかっ斬ることしかできないからだ。しかし、時代がたてば、こうしたロジックに対して、ゾフィーやハンスのささやかな発言がいかに正しいものであったかがわかる。陸軍学生中隊として東部戦線でその悲惨さを見て来たハンス(クリストフは空軍学生部隊に所属していた)は、このとき言った。「ここにいる人たちは、あの悲惨さを知っている。あなた意外は」。
◆「造反」や「抵抗」という言葉が死語になるか、(「テロ」の名のもとに)過剰に危険視されるかという奇妙なことになっているいまの状況で、この映画は、本来の「造反」や「抵抗」の何であるかを思い出させる。原理を守るために命をかけたり、政治的イデオロギーを原理として信仰するのではなく、平凡な日常を許さない戦争と、原理と観念の体制を守るためだけの戦争のための戦争に反対すること。しかも、大量の人間を「動員」して(当然こうなると、「指導部」が出来、指導する者とその指令に従わされる者との「分業」的役割分担が生まれる)闘争を「組織」するのではなく、手を延ばせば触りあえる人数で闘うこと。ゾフィたちが行なったのは、そういうミクロな政治活動だった。
◆彼女と彼ら「白バラ」グループは、逮捕から1カ月ほどの短期間に裁判され、処刑される。その処刑は、ギロチンによる斬首・断頭の刑なのであった。知らなかったが、ヒトラーの時代には、ギロチンが生き残っていたのである。
(スペースFS汐留/キネティック)


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