粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-05-23

●マッチポイント (Match Point/2005/Woody Allen)(ウディ・アレン)

Match Point
◆これまでのアレンの映画の多くと決定的に違うのは、ユダヤ的要素が出て来ないこと。プロテスタントの教会での結婚式が2度出てくるように、登場人物たちは、みな非ユダヤ人である。が、だからといって、アレンは、全体を「ユダヤ人」の目から相対化し、冷ややかに見ていると言うわけでもない。ちなみにアレンは、ユダヤ人だが、ユダヤ主義者であったことは一度もない。だから、黒服にあご髭をたくわえた正統派ユダヤ教徒なら怒ることまちがいなしの「ユダヤ人」や「ユダヤ的」な要素を茶化すこともいとわなかった。
◆70年代から90年代までのウディ・アレンの作品には、しばしばフロイトの精神分析がパロディ化された形で登場した。それは、アンチ・フロイト学派やR・D・レイン流の反精神医学の観点に似た視点からのパロディ化であるが、もっと大きな文脈では、すべての現象に原因と結果を想定するユダヤ・キリスト教批判を内に秘めていた。その意味で、彼は、原因/結果関係なんて相対的なレベルでしか存在しないと考える者の一人であり、ユダヤ教やキリスト教の神よりも実存主義的な無や偶然を信じる者であった。
◆が、『マッチポイント』で面白いのは、ここには精神分析もユダヤ人も出て来ないが、その代わり、かつてはそれらを批判し、茶化す基本的な視点の一つになっていた(言うなれば)無神論的偶然主義そのものが、パロディ化されているのである。フロイト流の精神分析の根底にあるのは、「自分」(自我)を知りえるのは自分であり、自分を知ることは当然であるという論理である。アイデンティ(同一性)の論理だ。これも、原因があれば結果があるという「同一律」のロジックと一体をなしており、反フロイト的な立場からすれば、おまえのことをおまえが一番よく知っている/知るべきだなどという考えは、何の根拠もないよということになる。
◆「反精神医学」のイニシエイターの一人、R・D・レインは、『レインわが半生』(中村保男訳、岩波書店)のなかで、神学者ポール・ティーリッヒの言葉を引用しながら、「ことによるとイエスは、自分が誰であるのか自分にも見当がつかず、そこで弟子たちの意見を心から聞きたかったのかもしれないのである」と書いている。このことを認めれば、バチカンが「異端」と判定するキリスト教の宗派の考え方とつながり、『ダ・ヴィンチ・コード』とも接点を持ってくるのだが、『ダ・ヴィンチ・コード』(小説)がかくも世界的なベストセラーとなった背景には、「同一性」や「同一律」がいま形骸化しつつあることがないでもない。
◆アレンが、映画作りの拠点を今後ニューヨークからロンドンに移すつもりなのかどうかはわからない。しかし、今回、ロンドンとイギリスという環境を選んだのは、こういう「同一性」と「同一律」の形骸化を表現するのに、イギリスが最適であるというアレンの時代認識と土地勘がある。階級横断が普通になってきている時代に、ロワー・クラスとハイ・クラスの生活が見え易い形で存在するという通念が依然としてあてはまるイギリス。移民者がより「上流」の階級に鞍替的に横断することが出来るにもかかわらず、「最上階」へ昇りつめることは、血筋などの「超越論的」境界できっちり遮断されているイギリス(ダイアナも「殺されて」しまった?!)。
◆アイルランドから移民した青年クリス(ジョナサン・リース・メイヤーズ)がテニスのトレイニング・コーチとして富豪の息子トム(マシュー・グード)と知り合うという設定は、アメリカよりイギリスの方が様になる。親しくなって招かれたトムの実家は豪邸であるが、イギリスには、金持ちほど、上辺でよそ者を歓迎する素振りをする習慣がある。クリスは歓迎され、トムの妹クロエ(エミリー・モーティマー)は、彼に一目惚れしてしまう。こうして、彼は、彼女らの父親(ブライアン・コックス)の会社で働くようになり、クロエを妻にするところまで行く。「逆玉」である。
◆アレンは、成功物語を描くつもりはないから、当然、ここできしみを入れる。トムの許婚者ノラ(スカーレット・ヨハンソン)である。彼女は、最初から意味ありげな、フィルム・ノワールに登場する「悪女」的な存在感で姿をあらわし、クリスに色目を使い、彼もクラクラとしてしまう。彼女はアメリカ人で、俳優志願(まだCMに出ただけ)という設定だが、ヨハンセンは、かなりすれからしの面を隠し持っているこの人物を圧倒的な存在感で表現する。後半、クリスとのあいだに別れ話が持ち上がったときすさまじい怒りを表現するヨハンセンは、これまでに見せたことのない彼女の凄い演技力をみせつける。ちなみに、「ノラ」は、イプセンの『人形の家』の主人公と同じ名前だが、ヨハンセンのノラが、「人形」であったのは、ほんの短期間だった。
◆アレンは、この映画でイギリス社会を風刺するつもりはない。問題は、すべてが「運」次第のこの社会で、運のいい奴と悪い奴とがいる不条理であり、その喜悲劇である。その際、クリス=アイルランド人は、あきらかに運のいい人間に、ノラ=アメリカ人は運の悪い人間の方に分類される。その中間的存在として、ノラの殺害を追うバナー刑事(ジェイムズ・ネズビット)がおり、犯罪は「運」/「不運」なんかじゃかたずけられないと、捜査に精を出すが、その成果はあがらない。結局、彼も運が悪い。
◆この場合、「運」にいい者は、明らかに安手の論理(犯罪の言い訳やアリバイなどもその一つ)を主張しても、それが「根拠のある論理」(同一律)として通ってしまうが、「不運」な者は、しっかりした論理を提出しても、それが同一律(根拠律)としては認められない。 ◆見終わって、観客は、う~ん、人生って運/不運だとしても、それだけなのかね~という軽い疑問をいだきながら、劇場を出ることになるだろう。決して重くはないが、かつてのウディ・アレンの映画の軽快さは、ここにはない。それを、この映画の「深さ」ととるか、それとも、吹っ切れなさととるかは、観客の自由だろう。わたし自身は、そういう終わり方は、もうちょっと重くではあるが、60年代に実存主義小説や映画がやりつくしたことであり、それをリサイクルするのなら、もっとオシャレに出来なかったものかという思いがした。とはいえ、これまで、自作をただ反復していたにすぎない時期が長くつづいたウディ・アレンが、そのスランプを乗り越えたかに見える作品を発表したのは、喜ばしい。
(アスミック・エース試写室/アスミックk・エース)



2006-05-17_2

●ダ・ヴィンチ・コード (The Da Vinci Code/2006/Ron Howard)(ロン・ハワード)

The Da Vinci Code
◆1時間ぐらいまえに行かないと入れないかと思ったら、そうでもなかった。この日、まえまえから先延ばしにしてきた『紙屋悦子の青春』を見るつもりだったので、賭けをした。もし、開場30分まえに行って入れなければ、あきらめようと。この映画、ちょっとお義理のような試写になった。公開が20日で、公的な第1回試写が今日。「マスコミ試写」といっても、全然「マスコミ」の反応を気にしていない。いまや、宣伝効果は、「マスコミ」にかぎらず、この「シネマノート」のようなマイナーメディアにちょっと書いたことが意外な反応を及ぼすことがあるんですぜぇ。そんなものも無視し、あとは、小説『ダ・ヴィンチ・コード』が作った蓄積を当てにして、宣伝費を削減するという戦術。はたしてうまくいくか?
◆朝日ホールのスクリーンは、マリオンの映画館のなかでも一番お粗末。一番前で見ても、画面が大きすぎることはないくらい、小さく、装置のレベルも一段下がる。上映まえから話題になっていた「大作」の試写にしては、場違いに感じがするが、映画を見て、少し納得した。全体にスケールがちいさいのである。話は、周知のように、キリスト教の歴史を塗り替えようという世界的規模のもの。しかし、広範な世界を感じさせるという点では、たとえば『ボーン・アイデンティティ』の方がはるかにスケールが大きい。が、こんな風に思ったのは、劇場のせいかもしれない。
◆人間のプロポーションを描いたダ・ヴィンチの有名なVitruvian Manのかっこうをして死んでいる「ルーブル美術館館長」ジャック・ソニエール(ジャン=ピエール・マリエル)の場面で、図版では子供用の百科事典でもそのままなのに、ペニスの部分が光の反射でハレーションを起こしたかのようになっていたので、またか、日本!と思ったが、アメリカの公式サイトの予告映像を見たら、上のスチルのように、ちゃんとボカされていた。予告映像を停めながら見て気づいたのだが、死体のそばにライトがあり、それがペニスの部分に強く当っている(それが「館長」の演出?)ので、ハレーションを起こすというのが理屈のようだ。が、実際には、露出させると確実に「R」指定になり、現在の「PG-13」より客の動員数が減ることが予想されるので、そうしたにちがいない。それにしても、ハリウッド映画としてはちゃちな処置である。
◆小説の翻訳を踏襲したのだろうが、字幕(戸田奈津子)にあるジャック・ソニエールの肩書きは、ルーブルの「館長」ではない。小説では、"renowned curator" (高名なキュレイター)と書かれ、映画でも、はっきりと「curator」と呼ばれていたから、「キュレイター」と訳すべきだろう。「館長」は誤訳である。とはいえ、翻訳の際にすんなりと「キュレイター」と訳せない理由もわからないではない。日本の美術館では、「学芸員」=キュレイターとみなされるが、英語の「キュレイター」にあたる実力と実権をもっている(もたされている)学芸員もキュレイターも日本の美術館にはほとんどいない。だから、(「芸能人」を英語にするとき「artist」とするのがまちがいであるのと同じように)「キュレイター」という語は屈折しているのである。日本では、美術館にせっかく学芸員がいるのに、わざわざ大枚の謝礼を払って美術界の「大先生」を招き、「顧問」にまつりあげないと展覧会が開けない。日本で「キュレイター」という言葉に実体がないのはそのためでもある。話が飛んだが、とにかく、「ルーブル」のジャック・ソニエールは「館長」ではなく、「キュレイター」である。欧米のキュレイターのなかには、「館長」以上の権限を持っている者もいるが、「館長」は「ディレクター」であり、仕事の領域がちがう。他方、ジャック・ソニエールは、「キュレイター」だったからこそ、ダ・ヴィンチに精通していたのであり、あのような手のこんだ(まるで自分の死体をインスタレイションにしてしまうような)ことを思いついたのだ。むろん、キュレイターから「館長」になる者もいるし、ルーブルの「館長」ともなれば、半端な人間ではないから、どうでもいいことではある。しかし、ディテールが重要なこの物語としては、逆に、ジャック・ソニエールがなぜ「キュレイター」であって、「館長」ではなかったのか、ということの方が重要かもしれない。
◆小説を読んでしまっても、キリスト教におけるイエスの位置の問題をめぐってヴィジュアルに展開するドラマは、興味深い。この問題は、キリスト教の宗教会議でも歴史的に問題にされてきたことであり、ちゃんと議論すれば、現在のキリスト教の各派のなかでも意見が分かれるはずだからだ。ここでは、シオン修道会とそれが組織したテンプル騎士団、14世紀におけるその弾圧のくだりに、キリストを人間と見る流れの封殺の陰謀を見る。
◆キリスト教は、仏教などにくらべれば、すべてを意識化し、歴史を、「主体」が意識して行なった結果とみなす。意識しあやまった場合でも、それは、「神のみ心」の結果であるとみなし、とにかく、歴史を偶然とは考えない。したがって、表に出ない歴史は、陰謀の所産であり、歴史の半分は陰謀でできあがっていることになる。「陰謀理論」や「陰謀史観」という言葉があるが、ものごとを「主体」から見ることに慣れた(慣らされた)近代人間は、歴史を陰謀理論で説明されると、「そうだったのかぁ」と納得する。
◆歴史にすべての「主体」があるわけではないが、なんらかの「主体」を仮設したほうが、歴史への「責任」とか、生きることへの「モラル」とかいう点では、「健全」かもしれない。歴史がすべて偶然なら、「責任」も「道徳」もないからだ。西欧の「近代」という500年ぐらいの幅をもつ時代は、主体を仮設できる/仮設した方がよいという前提で機能してきた。だから、この映画のように、ローマ法王庁傘下のキリスト教の1000年ぐらいの歴史を一つの「陰謀」として描くことは、もはや「主体」の仮設では整合性がとれなくなってきた西欧文明のある種の弁解であり、「言い逃れ」かもしれない。すべてが脱近代化してしまうと、キリスト教は本当の危機に陥る。
◆ここで出てくるテンプル騎士団や聖杯の問題は、『キングダム・オブ・ヘブン』や『ナショナル・トレジャー』でも、まだ、古くは『インディージョーンズ』などでも出てくるが、『ダ・ヴィンチ・コード』は、映画の迫力は別として、キリスト教がかかえる問題をもう少し身近なものとして描いてくれはする。
◆人間が作ったもの、人間から生まれたドラマでも、カオス理論で物質のゆらぎがある極限で一つの均衡状態に達することが認められているように、極めて「人間的」、「偶然的」なものが、「物の秩序」を獲得し、それ自体として動きだすことがある。その時点では、その物の誕生時の条件を無視して何でも言える。アナグラムというのは、そういうレベルの解釈学だと思う。ダ・ヴィンチの絵のように、そのなかの「情報量」がある限界を越えている場合、「普通」でないアナグラム解釈の幅は無限に広がる。そういう広がりは、文字より映像や音においてより大きい。
◆アナグラムの問題点は、その根拠が極めて信仰的なことだ。映画では、宗教史学者リー・ディービング(イアン・マッケン)は、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のキリストのまえにワインを飲む「杯」がなく、彼の左に、やや不思議な距離をおいて位置する「女性」(マグラダのマリアとされる)とキリストとのあいだに出来たV字状の「図形」に注目する。そのプレゼンは、プロジェクターを使い、なかなか見事だ。が、Vとは「子宮」を意味し、実は、「聖杯」とは「子宮」のことであり、磔刑のキリストの血を満たした「聖杯」とは、マグラダのマリアがキリストの子をはらんだということなのだという推理は、ほとんど「信仰」に属する。そうだ、その通りだと思えばそうなるし、バカなと一蹴してしまえば、それまでである。
◆この映画のスケールが小さく見えるのは、陰謀の「主体」が、マヌエル・アリンガローサ(アルフレッド・モリーナ)とそのマインド・コントロール下にあるシラス(ポール・ベタニー)だけに集中して描かれ、結果的にキリスト教を「人間化」しようとするロバート・ラングドン(トム・ハンクス)やソフィ・ヌヴー(オドレイ・トトゥ)への圧力は、ベタニーの怪演(『ブレード・ランナー』のルトガー・ハウアー的な怪演)に頼っているからだ。両者の中間的存在のベズ・ファーシュを演じるジャン・レノは、活かされていない。
◆それにしても、これまで数々の大映画の主役を演じてきたトム・ハンクスだが、ちょっと出過ぎという感じがする。この映画で彼を起用する意味はどれだけあっただろか? 彼のことだから、卒なくこなしてはいる。決して悪くはない。しかし、そこにいるのは、トム・ハンクスであり、過去に彼が主役を演じた役柄の相貌とダブるのだ。まあ、映画とはそういうダブりの面白さで見るという点もあるにはあるが。
(有楽町朝日ホール/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)



2006-05-17_1

●紙屋悦子の青春 (Kamiya Etsuko no Seishun/2006/Kuroki Kazuo)(黒木和雄)

Kamiya Etsuko no Seishun
◆ビルの屋上のベンチに「老夫婦」らしき男女が黙って座っている。女が言う、「寒かとでしょう?」。男が答える、「寒うなか」。言葉は、鹿児島弁か。長い沈黙の映像が続き、ふと、小津安二郎の映画のスタイルを下手に真似ているのかという思いがこみあげる。このシーンは、どうみても、買えない。男を演じている永瀬正敏、女役の原田知代の「地」が見えてしまう(いまの時代としては)「安い」メイクで、奇妙な感じに襲われる。老けが学芸会的なのだ。このまま最後までこの沈黙シーンが続くのかという不安もおぼえてくる。が、これは、ある種の「じらし」なのだった。
◆さんざんじらしたのち、映画は、2人の回想シーンにうつる。2人の「ミニマリズム」パフォーマンスは、2人の記憶を1945年の終戦直前の時代(黒木監督なら、「敗戦」という言葉を好むだろう。しかし、わたしは、ほかにも書いた理由で「敗戦」とは言わない――「敗戦」という言い方は、戦争を実行した人間の側の言い方であって、わたしはそんな責任はごめんこうむる)まで遡及させるために必要だったのだろう。好意的に言えば、そう言えないこともない。永瀬と原田のあのメイクと演技だったら、冒頭のシーンはない方がよかったと思うのが普通ではあるけれど。
◆「昭和20年代」のシーンになると、映画は、きびきびした展開になる。永瀬も原田も、そう無理をしないで演じられる年令の登場人物の設定だからだ。主要な舞台は、鹿児島の家。紙屋悦子(原田知代)、技術者の兄・安忠(小林薫)、その妻・ふさ(本上まなみ)の3人が住んでいる。悦子と安忠の両親は、1945年3月10日の東京大空襲で死んだ。故郷にもどっていれば死なないですんだかもしれない。しかし、この鹿児島にも戦争の影が忍び寄ってくる。兄の後輩で、悦子に好意をいだいていた明石(松岡俊介)は、特攻隊を志願する。海軍航空隊の少尉というポジションにいる者としては、当時としては「あたりまえ」のプロセスだといえるかもしれないが、むろん、だからといって、彼らは、心から喜んでそういう任務についたわけではない。黒木が描くのは、そういう当時の「若者」が置かれた苦渋の選択と若者をそういうところに追いつめた国家の罪を記録することだ。
◆死に行く者が、なんとか自分の何かを残そうとするという行為に出るのは「本能」のなせることなのだろうか? ジャック・デリダは、カトリーヌ・パオレッティのラジオインタヴュー(林好雄・他訳『言葉にのって』、ちくま学芸文庫)のなかで、(自分がいま感じている)「最大の危険、それは死です」と言い、「私が抵抗するのは死に対してです」と言う。あのデリダがあまりに率直に言っているのが意外だったが、この発言は、このやりとりよりも少しまえの方で彼が言っていることと関連して解釈するべきだろう。彼は、「一度たりとも私から離れたことがない夢があるとすれば、それは、日記の形式をとった何かを書くことなんですよ」と。しかし、それはあきらめたとも言う。というのも、彼が書きたいのは、「私の頭にひらめくすべてのものを保存する」ような「《完全な》日記」だからである。
◆日記、ブログ、デジカメでの撮影、録音等々、記録へのパラノイアは、世界中で昂進している。人は、自分の日常をパラノイアックに記録するが、それを見直したり、読み直したりする暇はない。ただ記録すること、そのパッション。いまの時代は、それがデジタルテクノロジーに依存して行なわれる。そういうものがないとき、戦時下のように、あるいはそういう技術的手段が失われたとき、人は、手持ちの「技術」に向う。身体的継続だ。明石少尉の内心の願いは、自分に代わって誰かが「生きて」くれることを願う。その願いを友人の永与少尉に託す。彼は、整備担当で、戦場には行かないからだ。
◆その昔、画家の池田満寿夫(1997年、63歳で死去)が、テレビで「俺は歴史に残りたいんだよ」と(ちょっとみっともないくらいの調子――たぶん酔っ払っていた――で)言っていたのを見たことがある。有名人というのは、たいてい、そういう欲望があるのだろうし、さもなければ有名になれないのだろうと思うが、人は誰しも、自分が生きていることを誰も知らず、死んでも誰も覚えていないという孤独に耐えることは難しい。実際問題として、そういうことはないのであり、誰かが覚えていてくれるものだが、だが、有名人とて、では、何世紀にもわたって自分のことを誰かが覚えている(池田の言う「歴史に残る」)かとどうかは疑問だ。そういう欲望はあきらめた方がいい。
◆「淡々と死ぬ」とか、死を達観し、未練を残さないとかいう技術は、東洋ではかなり深くて高いレベルに達したが、電子テクノロジーの浸透とともに、そうした身体技術は、すっかり衰えてしまった。達観などしないで、せっせと記録を残し、生への執着をする。むろん、わたしも、そういう達観技術とは縁がないが、ジャック・デリダのような「巨匠」が、もろに「西欧近代」的な死生観(「記録」によって生き延びること)をあらわにするのを目撃すると、ちょっととまどう。
◆話をこの映画にもどそう。明石少尉は、好意をいだいていた(明確にはその愛を表明してはいなかったが)悦子を友人の永与(「永」遠に「与」えると読める)に紹介し、2人が夫婦になることをアレンジする。永与を悦子の家に連れて行き、紹介するシーンでの彼の緊張した態度は、当時の軍人(いや、あの時代の日本人)にありがちな遠慮と羞恥の身ぶりであった。自分がじきに死ぬから代わりに愛してやってくれ(散文的に翻訳すればこうなる)という明石の暗黙のメッセージは、「自発的」な愛を「自然」とする今の発想からすると、「え~、信じられない!」(と、この映画を見たある若い女性が言った)ということになるかもしれないが、いま書いたようなことを含めて考えれば、別に変ではない。
◆ちなみに、かつては「直す」という言葉があり、戦争や病気で死んだ兄おの未亡人を、その兄の弟と再婚させるときなどに使った。何を「直す」のか知らないが、同じ親族内ならば、財産が散逸しないという知恵からなのだろうか? まあ、結婚は(同棲とちがい)財産の継承システムである家族を形成するためのものであるという観点にたてば、それは、きわめてまっとうな発想である。ただし、資本主義の高度化は、逆に、家族が拡大し、多元化することをよしとするので、こういう発想は、「因習」としてしりぞけられる。
◆しかし、黒木監督にとって重要なのは、悦子と永与の結婚を「変」だと思わせることだったかもしれない。明石をこういう状態に追い込んだのは、あの戦争を行使した国家であり、永与と悦子の関係を生み出したからである。ここで、問題は、明石がもし、「淡々」とした死を選び、悦子への自分の愛を永与によって代理的に生き延びさせることなど考えなかったらどうか、である。永与は、悦子を好きだったが、明石がいささか強引に紹介し、「あとを頼む」的な態度をとらなければ、彼が悦子を妻にすることはなかっただろう。この映画は、悦子と永与がその後どのような人生を送ったかは描かない。冒頭のシーンは、まあまあ「幸せ」だったことをうかがわせる。そう理解させる台詞もある。しかし、そこをもっと照射してくれないと、この映画はメロドラマに終わってしまう。
◆「老年」の悦子と永与を演じる原田と永瀬の演技に重みと厚みが乏しいために、戦争が決定してしまったふたりの人生の重さが伝わってはこない。そのため、この映画の見せ場は、明石と永与との友情や明石の悦子への屈折した愛のドラマであり、戦争が明石と悦子とのあいだを引き裂いてしまったメロドラマ的な悲劇になってしまう。
◆悦子の家の台所や居間の美術設定は、巨匠木村威夫によるものだが、なかなか見事である。本上と原田がおはぎを作るシーンも小道具的にもしっかりしたいる。これは、永瀬がそれを食べ、感動するシーンを厚みのあるものにする。ものない時代におはぎという設定は、その時代を知っている者にはなかなか感動的。
(松竹試写室/パル企画)



2006-05-12

●マスター・オブ・サンダー(Master of Thunder/2005/Kenji Tanigaki)(谷垣健治)

Master of Thunder
◆久しぶりに「早朝」の地下鉄に乗ったので、緊張する。まわりは早朝出勤のプロばかり。乗り方がちがう。釣革のつかみ方、その際の身体の傾け方、微妙に片足をはすに出しておいて、席が空くとさっとその席を取るテクニック・・・。わたしは、居場所を失い、うろうろし、降りる駅でないのに、ホームに吐き出される。今日の試写室には、以前、ハネケの『隠された記憶』のときに来た。
◆早く着いたので、試写室内にはまだ人影がまばらだったが、最前列に何と谷垣監督の姿。実は、谷垣氏には、今日の午後からわたしの講座にゲストで来たいただくことになっている。ちょっとあいさつをして、座席(最近は少し後方に座る)でプレスを読む。「『ジャッキー・チェンのようなアクション俳優になりたい!』多くの子供が抱いた夢を真剣に追い続け、大学卒業と共に倉田アクションクラブでアクションを学び、1993年に単身で香港に渡航。エキストラやスタントマンで多くの作品を経験し、後に香港映画界のスター、ドニー・イェンに認められる活躍をした香港ドリームを体現した男・谷垣健治」。的確な紹介だ。わたしの講座の紹介でもこれを使わせてもらおう。
◆映画は、結論を先にいえば、なかなか感動的だった。それは、決して、この作品を見る以前に谷垣健治を間近に見、話をするチャンスを得てしまったからではない。本当に面白かったのだ。むろん、潤沢な予算があればもっと奥行きが出ただろうと思わせる個所とか、若干メイクが安いかなと思わせるようなパートはあった。しかし、そんな部分を気にさせない活力と勢いがこの映画にはある。
◆悪鬼・怨霊がはびこり、世を混乱に陥れるというテーマ、それを封じ込めるための術とか要所という発想、これらは、最近の映画では、『陰陽師』、『陰陽師 II』、『姑護鳥の夏』などで描かれていたのを記憶するが、非常に今様のテーマだと思う。国家や体制は、悪鬼が出入りする「鬼門」を封じるのが役目(ちなみに、江戸幕府は、鬼門封じとして日光東照宮を建てた)だが、それに失敗するのが乱世である。そこで、自衛的な鬼退治ということになるわけだが、それを超能力の個人がやるドラマと、集団でやるのとがある。この映画は、倉田保昭と千葉真一が演じる2人の超能力者と、かつて彼らが組んでいた「青龍の七人衆」の孫たちを含む縁者7人である。
◆彼や彼女らも、ある種の「超能力」を持っているが、それほどビックリのものでもない。だから、彼や彼女らが、三徳和尚(倉田保昭)の指導のもとに、力をつけていくこと、祖父歳の世代と孫歳の世代とのコラボレイションが面白い。時代にもよるが、特に日本では、親子(父子)の連帯というのはうまくいかないことが多い。その点では、5、60年の年令の開きのあるジジ・孫関係の方がうまくいくようだ。いまたとえば、60年代への関心が高まるのなども、そういうことと無関係ではない。だから、この映画で「父」の存在を抜いたのは、卓見なのだ。
◆「青龍の七人衆」は、1970年に悪鬼に襲われ、三徳和尚と源流和尚(千葉真一)の2名を残して、壊滅させられた。関係ないかもしれないが、1970年というのは、谷垣健治が生まれた年であり、また、よろ号ハイジャックの年、三島由紀夫が自決した年でもある。源流和尚は、絶望し、一人隠遁生活を送っているが、三徳和尚は、桔梗院で鬼封じの修行を続けている。30数年後、アユミがなぜ三徳和尚の弟子になったのかは不明だが、師匠の心意気に惹かれたからこそ、師匠の1番弟子のイサム(杉原勇武)が悪鬼にやられてしまったとき、新七人衆の結成を決意する。
◆興行的には、当然、プレスに、「倉田保昭、千葉真一 日本アクション映画史の巨頭、最初で最後の本格的対決!」とあるように、この2人が売りにならざるをえないのだが、映画を見てみると、けっこう7人の、映画では新人にちかい役者たちが、せりふもしっかりしているし、それぞれの役を破綻なく演じている。これは、おそらく、全体を本当の意味でのコラボレイションに持って行った谷垣健治の監督力の成果だろう。彼は、協同で作業することを楽しくさせる才能がある。
◆悪鬼の跳梁跋扈を懸念する三徳和尚の懸念を受け継いだアユミ(木下あゆ美)が、単身、旧「七人衆」の縁者を訪ね、「ガリ勉メガネっ子」ミカ(芳賀優里亜)、「ナンパ師」トオル(椿隆之)、「レディース暴走族」カオリ(永田杏奈)、「コスプレ美少女」カオリ(小松彩夏)、「ギャンブル好きアフリカ人」アポロ(アドゴニー・ロロ)、「ガンタク・アキバ系」コースケ(平中巧治)から成る新「七人衆」を組織していくプロセスは、ある意味ではアメリカ的だ。アメリカ映画では、銀行強盗をやるのに、昔のメンバーを再組織したり、それぞれの分野の有能者を集め、その差異を差異として認めたままグループを組みあげていく独特のやり方がある。「コラボレイション」とは、こういうことだ。単身香港に乗り込み、自力でキャリアを築いてきた谷垣にとっては、こういうコラボレイションは、あたりまえのものとなっているはずだ。
◆鬼門が開いてしまったといっても、この映画では、1人の悪鬼とそれをあやつる首領ぐらいしか出て来ない。あとは、CGで粉飾している。予算の関係もあっただろう。しかし、ツボはちゃんと押さえてあり、たとえば、映画の初めの方で猛烈な香港アクションを披露する「悪鬼」役の中村浩二は、すごくいい。その点、首領の「小野篁」(おののたかむら)を演じる松村雄基は、ちょっとアウラが乏しい。しかし、あえて、好意的に見れば、その「アウラのなさ」は、「小野篁」という人物の特殊性からするとこれでいいのかもしれない。小野篁は、単なる悪者や怪物ではないからだ。小野は、平安時代の実在の人物であり、時の遣唐使のやり方を詩で風刺して嵯峨上皇の怒りにふれ、隠岐ノ島に流されたことがある。その後復権し、左大弁にまで上りつめたが、その博識、「野狂」と反骨の精神は、数々の物語にアレンジされ、語り継がれてきた。つまり、小野篁は、どちらかというと、青白いインテリ風の(一見「アウラ」の乏しい)「変人」なのである。
◆何度か書いたように、悪霊を封じ込めるという発想は、「悪霊」が単に悪いからというようよりも、「御霊信仰」に典型的なように、怨みを飲んで死んだ者などの怨念を鎮めるという発想といりくみあっている。この映画が、そのへんをどこまで意識しているかは別として、この映画の小野篁には、何か「怨み」があるようだ。いまの時代、反骨精神や「野狂」が目立つと、すぐに「テロリスト」の仲間に分類されかねない。その意味では、小野篁は、世を憂えるがゆえに世を騒がせる『Vフォー・ヴェンデッタ』風の「テロリスト」なのかもしれない。実在のガイ・フォークスにひっかけたこちらの映画では、彼の「テロリズム」は肯定され、その相手がそれなりに悪辣なだけ、彼の破壊行為は、観客をスカっとさせるのだが、政治論的に考えると、しかし、いまの時代には、こういう「あれか、これか」の選択では解決にならない。
◆この映画に話をもどせば、小野篁がどんなに「悪」くても、それを三徳和尚や新「七人衆」が倒したというだけでは、ただの勧善懲悪ドラマになるだけだ。その点で、最後の方でしぶしぶ腰を上げる源流和尚、三徳和尚、新七人衆の連合と小野篁「悪鬼」軍団との戦いの《結末》が奥深い。ここには、敵対味方、攻撃には復讐をといった近代の(にもかかわらず911以後強まりさえしている)観念をこえる発想が表わされているからだ。
(シネマート銀座試写室/日活)



2006-05-10_2

●花よりもなほ (Hana yori mo naho/2005/Koreeda Hirokazu)(是枝裕和)

Hana yori mo naho
◆大分まえから試写がまわっており、気になっていたが、来れない日にばかり試写日が重なった。やっと念願を果たし、もっと早く来るべきだったと後悔。そのぐらいいい出来だったということだ。いま日本の映画作家のなかで、是枝裕和は、日本/世界、現在/過去の境界を横断しながら、「いま」の時代への批判と、そこからの脱出への選択の提起が出来る数少ない人の一人である。
◆時代は、元禄15 (1702) 年、徳川綱吉の治世。前年に播州赤穂藩主・浅野内匠頭が、江戸城内で吉良上野介に切りつけ、切腹を処せられた。翌年、赤穂浪士の吉良邸襲撃がある。この映画のこうした時代的コンテキストは、現代と合わせ鏡になっている。この映画では、赤穂浪士が復讐をするかどうかが、社会的な期待となっており、とりわけそれは、「平和」が続き、武士道や戦いへの意欲が社会的に減退している時代状況を憂える武士階級(武士から戦闘能力を奪えば何の取り得もない)の期待でもあった。逆にいえば、赤穂浪士の討ち入りは、時代の舵を戦争指向の方へ切り替えようとする者にとっては、願ってもないことだったのだ。これは、いま、「平和ボケ」とか言って、いまの時代を「憂」え、戦争の出来る国家を「再建」しようとする路線とも一脈通じる。
◆そういう時代に、この映画は、江戸のある一画に一連の貧乏長屋を設定する。ここには、さまざまな人間が住んでいる。父の仇を追って信州松本から来た若侍・青木宗左衛門(岡田准一)、子連れの未亡人・おさえ(宮沢りえ)、したり顔でもったいぶるのが好きな貞二郎(古田新太)、学はあるが、武芸はかっこうだけの平野次郎左衛門(香川照之)、どの道屈折した過去を持つ身ながら、とりわけ屈折していて、見かけによらず腕の立つそで吉(加瀬亮)、祭に敵討ち芝居を演出する戯作者風の老人・重八(中村嘉葎雄)、おまけに翌年吉良邸を襲撃する四七士の一人となる小野寺十内(原田芳雄)が医者になりすました住んでいて、そこへ、討ち入りに行き、途中で脱落した実在の寺坂吉右衛門(寺島進)や鈴田重八郎(遠藤憲一)らがいる。彼や彼女らといっしょに、木村祐一、田畑智子、千原靖史、上島竜兵、平泉成、絵沢萌子らが演じる典型的な長屋の住人たちが、騒々しい日常を形づくる。そうそう、忘れないうちに言っておこう、この長屋の大家で、妻の死後、吉原の花魁・おりょう(夏川結衣)に入れ込んでいる吝嗇家の伊勢勘を演じるのは、國村隼だ。おっと、もう一人重要な人物がいた。青木宗左衛門が探し求めている仇金沢十兵衞(浅野忠信)も、実は、この長屋に引っ越してくる。
◆映画のタイトルは、切腹をした浅野内匠頭の辞世の句「風さそふ/花よりもなほ/我はまた/春の名残を/いかにとかせむ」から取ったという。これは、この映画が、使者の無念をはらす、仇討ち/復讐を主軸に置き、その位相と強度のちがいを変調させながら見せるには非常に示唆的なタイトルだ。長屋の内部では、青木宗左衛門が仇の執念にとりつかれつつも、その風化を感じている。重八と彼の祭芝居につきあっている長屋の住人たちにとって、敵討ちは、パフォーマンスにすぎない。戦乱の時代は終わり、剣を交えるということ自体が、形式化している。その分、武術の「理論」化や「精神」化が進むが、実戦の術としての意味は希薄化していく。そのなかで、わずかに、そういう側面に社会の関心をつかのま向わせたのが、赤穂浪士の討ち入りであり、以後、その物語が、「やられたら、やりかえせ」という復讐と報復のパトスを社会意識のレベルで記憶・反復させる機能を果たした。
●この映画で「生類憐れみの令」は、将軍綱吉の政治とその時代を風刺する小道具として使われている。犬を神輿に乗せ、街を「お犬様」が通過するシーンがちらりと出たり、長屋の連中が野犬を鍋にして食べるシーンもある。しかし、厳密に言うと、「生類憐れみの令」というのは、さまざまな規制を総合的に言う非常に大ざっぱな表現であって、そういう名の「法令」が発布されたことはないらしい。と同時に、「生類憐れみの令」の背後には、こうした嘲笑的エピソードでは抜け落ちてしまう重要な問題が多々あった。
◆塚本学(平凡社百科事典)によると、野良犬の「いたわり令」、「犬毛付帳」、「犬愛護令」といった、「生類憐れみの令」の実質的な目的は、実は、大名権力の増長を抑止することであったという。「犬愛護令」よりも早く出された「捨馬禁令」は、馬を大切にさせるというようよりも、荷を過重に積んだ馬を流入させない、つまり運搬技術のコントロールことが本務であり、「犬愛護令」からして、大名の猛犬飼育をコントロール下に置くこと、また生きた犬を餌にする習慣のあった大名の鷹の飼育を減らさせること、犬を捕獲して食う「歌舞伎者」(要するに世のスネ者)のコントロールであって、芝居などで茶化されているような「お犬様」を過剰に愛護することとはちがっていた。また鳥獣の愛護の強化も、鳥を撃つということの方から間接的に鉄砲の自由使用をコントロールするねらいがあったという。さらに、動物の食用をタブーとすることは、「けがれ」の観念を徹底させ、非差別民に対する差別を合法化し、貧富の差をあたりまえのものとして認めさせることにも役立った。
◆こうした背景を顧慮すれば、「敵討ち」というものも、政治的コントロールの一つであったことは明白だ。敵討ちという「文化」を持続させることで、「平和」時に武術を維持することを合法化し、また、武士階級の存在意味を合法化したわけである。
◆その点で、この映画で青木宗左衛門の父親を倒したことを深い胸の傷としていだきながら、荷揚げ人夫をして身を隠している金沢十兵衞(浅野忠信)と、仇であるはずの彼を知るにつれ考え方を変えることになる青木宗左衛門(岡田准一)とは、ともに意味深い屈折を表現している。
(松竹試写室/松竹)


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