粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-07-31

●ウェイトレス ~おいしいい人生のつくりかた(Waitress/2007/Adrienne Shelly)(エイドリアン・シェリー)

Waitress
◆パイを作る腕前で人を幸せにする才能のある女性が主人公という宣伝にのせられて、今日は別のものを見るはずだったが、久しぶりに六本木のフォックスへ。隣にあるギャガはひっそりとしている。ミッドタウンに移ったからだが、以前だと、フォックスとハシゴができたので便利だった。ミッドタウンの新試写室は、到着するまでやっかいだ。ついつい敬遠してしまう。それはともかく、この映画、『厨房で逢いましょう』や『幸せのレセピ』や『レミーのおいしいレストラン』ほどには、料理はテーマではなかった。それよりも、アメリカ南部の田舎町にまだまだ残る男性至上主義や閉鎖的な息苦しさがなかなかリアルに描かれているところの方が面白く、料理や味覚の表現としては、見るべきものはなかった。
◆女が三人よって、言っていることは辛辣だが、一人が話し、次ぎが話すという舞台的なスタイルではじまる。せりふが「棒読み」なのだが、なんか気を引くと思っているうちに、全体のトーンが非常に意図的にデフォルメされていることがわから。パイばかり出すダイナー diner (簡易レストラン)で働く三人の女。それぞれに問題をかかえている。年長のベッキー(シェリル・ハインズ)は、寝たきりの老いた夫がいる。若いドーン(監督のエイドリアン・シェリーが出演)は、自分がブスだと思っており、ボーイフレンドが見つからないと悩む。主人公のジェンナ(ケリー・ラッセル)は、えらく利己的な夫(ジェレミー・シスト)がいて、アメリカでもこんなのがいるのかと思うくらい、夫の束縛下にいる。が、彼女のパイ料理は抜群で、このダイナーのオーナー(アンディ・グリフィス)にかわいがられている。
◆少し遅れて来たフェミニズム映画といった感じ。しかし、アメリカでは、依然として夫が家の財布を握り、妻には夫が小遣いを出すという習慣が残っている。また、アメリカ社会全般に、「愛している」かどうかを常に確認しあう習慣がある。そのへんを、この映画は、ちょっとばかり「異化効果」をくわえて、強調して見せる。シストが演じるジェンナの夫は、見事なまでにそういう嫌な夫だ。ジェンナがダイナーで働いて得た金をヤクザのヒモのように徴収し、びた一文彼女の手もとに置くことを許さない。彼女が妊娠すると、生むのはいいが、子供よりも自分を愛することを誓えと言う。このあたり、こういう風にヅケヅケと口にして言う男は少ないとしても、アメリカ的な夫婦の男がいつも心の底にいだいていることを露出させて、愉快である。
◆ジェンナが夫に苦しめられればられるほど、彼女は一体どのようにしてその束縛から逃れるのかという期待と想像が高まる。最後には、急激に不倫関係になってしまう産婦人科医のポマター先生(ネイサン・フィリオン)とどこかへ逃げるのか、それとも暴力もふるいはじめる夫を殺してしまうのか・・・。しかし、ポリマー先生は、優しい人間であり、彼女のことを愛しているが、どこか頼りなく、主役にはなれない感じだ。彼女が夫を殺すというのも、全体として流れているコミカルな調子からしてふさわしくない。彼女がどうするかは、映画を見てのお楽しみだが、それが、ほとんど一瞬で表現されるところが、なかなか見事だと思った。それにしても、はたで見ていても殴ってやりたくなるような夫を演じたジェレミー・シストはいい俳優だ。彼の出演作はあまり見ていないが、『サーティーン』 でちらりと見たことがあった。
◆アメリカには「アメリカン・パイ」の文化というのがある。パイは、大きな円形のパイを複数の人たちで平等に分けあうという「アメリカン・デモクラシー」の象徴的な食べ物とみなされる。しかし、この映画では、人々は、パイを最初から切り身か、円形のパイを丸ごと食べており、それを切り分けるということはシーンとしても映し出されない。これは、ある意味で、アメリカンパイには、そういう民主主義のメタファーがあるかもしれないが、そんなものが全く通用しない世界・地域もあるんだよ――と言わんばかりだ。実際、映画で描かれる「オールド・ジョーズ・ダイナー」でも人々はたがいに憎悪をむき出しにしており、客とウェイトレスとの関係も微妙である。唯一例外は、ブラインド・デートでドーンが知り合い、その「ストーカー」的ふるまいに閉口する相手のオージー(エディ・ジェミソン)かもしれない。だから、この映画では、ドーンが次第に彼に惚れ、結婚するにいたるように描く。他の女性たちは、結婚などもうごめんだと思い、ジェンナなどはその思いをさらにさらに強くするなかで、ドーンとオージーとは例外なのである。
◆ジェンナがパイを作るシーンが何度も出てくるが、あのどろりとしてクリームやチョコレートを盛大にかけるのを見ると、わたしなどは、盛大な肉料理の調理シーンを見るときのように、食欲が減退する。しかし、いまアメリカでもヘルシー・フード、スロー・フード、脱ジャンクフード、ヴェジタリアン指向、甘味料を控えることが進んでいるはずで、このへんも、南部の田舎は別ということなのだろうか? まあ、アメリカに住んでいると、ヘルシー指向が強まっても、デザートのケーキの切り身の大きさは、日本のレストランの比ではなく、そういう世界にはまってしまうと、それはそれで快適で、日本にもどると、すべての料理のサイズがケチケチしすぎていて、不満を感じてしまうようになる。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2007-07-26_3

●厨房で逢いましょう (Eden/2006/Michael Hofmann)(ミヒャエル・ホフマン)

Eden
◆シェフといううより肉屋という雰囲気のヨーゼフ・オステンドルフが演じるシェフが開くレストランは、グルメのあいだでは評判の店という設定。3席しかないので、いつも数カ月先まで予約が一杯。シェフのグレゴアは、いつも自宅の調理場で新しい料理の「実験」にはげんでいる。彼の息抜きは、近くのカフェでウェイトレスたちの姿を「覗く」こと。場所は南ドイツの保養地で、老人たちの姿が目立つ。そのウエイトレスの一人、エデン(シャルロト・ロッシュ)に好意をいだき、ちらちらと彼女の姿を覗き見していて、彼女にぴしゃりとやられる。エデンには夫のクサヴァー(デーヴィト・シュトリーゾフ)がおり、彼は、保養地の老人たちにダンスを教えたりしている。家庭は男上位で、エデンはダウン症の子供の世話と家事に追われ、夫は悪友たちと飲んで帰りが遅くなったりする。
◆そういうやや孤独な人妻と孤独なシェフとのある種の「ボーイ・ミーツ・ガール」物語ではあるのだが、見方のよってはこの映画世界はかなり屈折している。グレゴアは、料理の天才ではあるが、対人関係は「普通」ではない。エデンは、「普通」の主婦ではあるが、グレゴアの料理へのはまり方が尋常ではない。この映画は、ポーカーフェイスでけっこう「エクストリーム」な要素を入れている。そもそも、鹿を吊して解体するシーンを見せたり(ちなみに全部見せるわけではない)、主人公の肥満、エデンも、普通の女性のようにみえて、料理を鍋一杯食べてしまったり、胸から腹にひろがるクリームケーキを作って、夫になめさせるとか、子供も「ダウン症」、グレゴアのレストランのフロアマネージャーは「聾唖」を負った設定にされているとか、それまで平静にみえた夫もぶっ飛んだことをやってしまうとか・・・。ブラックユーモアにあふれている。
◆エデンが初めてグレゴアの味に魅了されるのは、公園でグレゴアから「娘さんに」とわたされた「プラリネ」だった。それがいかに魔術的な味であるかということなのだが、いくら凄い味でも、それがわからない者にはどうにもならない。しかし、この映画では、グレゴアの料理にまいらない者はいない。だから、足しげくグレゴアの調理場に通うエデンに嫉妬した夫が、策略を弄して(さもなければ取れないから)予約を取り、グレゴアのレストランにまぎれ込んで彼の料理を試食したときも、いっぺんでまいってしまう。そのシーンで、全員の客が、食後、グレゴアに対して、スタンディングオベイションをするが、これはなかなかいい。
◆この映画に出てくる料理は、わたしには、ちょっとグロい感じがしないでもなかったが、ドイツの名シェフ、フランク・エーラーを起用して、料理と料理シーンの指導をしてもらったらしい。その点では、『幸せのレセピ』よりも、料理の「魔術性」がより強く映像化されている。料理は、ある種の「魔術」で、うまいと信じさせればうまいのであり、まず、信じさせることが重要であり、そのための諸装置も無視できない。
◆こういう設定は、ドラマとして外化された世界のかたわらか背後に別のドラマがあるのではないかという思いを起こさせる。映画の潜在性を高めるのである。たとえば、映画のなかではグレゴアは、セックスに関しては幼児のような感じだし、エデン自身、夫の詰問に対し、自分は彼の「エロチック・キュイジーヌ」(性欲を高めるというより、人を幸せにする)料理のおかげで妊娠するようになったのだ、と語るが、実は、グレゴアとのあいだに性関係があったのではないか、ともとれるのである。
シャルロット・ロッシェは、どこかで見た顔だと思ったら、片山さつきに似ているのだった。 ちなみに、シャルロット・ロッシェは、片山さつきとはかなりちがうキャラクターの人間のようで、この映画のエデンがちらりと見せる「パンク」的なセンスを強烈に持った女性らしい。
(メディアボックス試写室/ビターズ・エンド)



2007-07-26_2

●ホステル2 (Hostel: Part II/2007/Eli Roth)(イーライ・ロス)

Hostel: Part II
◆今日は料理ものでまとめたかったので、間に一本、しかもB級の「グロい」ものが入るのは避けたかったが、見終わって、なるほどこれが「グラインドハウス・ムービー」のいいところかと思った。あまり身を入れて見る必要がないうえに、あとに残らないのである。さすが、クエンティン・タランティーノ先生が製作総指揮をしただけのことはある。こちらの方が、彼自身が「グラインドハウス・ムービー」だとして提出した『デス・プルーフ』と『プラネット・テラー』よりもずっと「グラインドハウス・ムービー」的なのである。
◆しかし、前作の『HOSTEL ホステル』にくらべると、ひねりがなくなった。前作自体があまり奥行きのある映画ではなかったから、今回は、相当安手だと言わざるをえない。
◆ストレッチの縛りつけられた生きた男の腿(もも)から一切れの肉をそぎ、悲鳴をかたわらにディナーテーブルでおもむろにその肉をたいらべる美食家風の男が登場する。しかし、これは、『ハンニバル』や『レッド・ドラゴン』でもっと効果的に描かれたことで、全く新しくない。
◆しかし、クエンティン・タランティーノが「製作総指揮」をやっていることを考えると、この作品は、まさしく「グラインドハウス・ムービー」であり、その点では彼の『デス・プルーフ』や『プラネット・テラー』よりも一層「グラインドハウス・ムービー」ではある。前作の『ホステル』と2本立てで「真正・グラインドハウス・ムービー」と銘打って上映するか。
◆アメリカ人がチェコスロヴァキアで「いじめ」られるというパターンは、いまのアメリカを思うと、なかなか意味深いが、それも今回は、形式だけ追っているだけ。
(メディアボックス試写室/デスペラード)



2007-07-26_1

●幸せのレセピ (No Reservation/2007/Scott Hicks)(スコット・ヒックス)

No Reservation
◆今日は、料理ものを2本見てやろうと、早起きしてまず内幸町のワーナーへ。連続で2本というわけにはいかないので、中間の時間をどうするか(どこかの喫茶店やホテルのロビーで仕事をするか、それとも秋葉原にネタさがしにでも行くか、何でもいいからもう1本見るか)、あまり計画を立てずにまずここに来た。
◆ダンスはうまいが料理は、卵も焼いたことがないというキャサリン・ゼタ=ジョーンズが凄腕の女シェフになるというので、やや興味深々だった。さすが大物、ダンスの身のこなしで調理の身ぶりをマスターし、何とかこなしている。しかし、『レミーのおいしいレストラン』のように手もとの描写が本格的とは行かず、野菜を刻むぐらいのアップでごまかし、あとは、アーロン・エッカートとの「人間ドラマ」に重点を移す。それは、ハリウッドの「ロマンチック・コメディ」の基本パターンをおさえたエンターテインメントに仕上がっている。
◆キャサリンが演じるケイトが調理と盛りつけをしっかりと見せるのが、調理場でよりも、最初の方のセラピスト(ボブ・バラバン)のオフィスでセラピーを受けながらのシーンであるのは、彼女の料理の力量との関係もある。調理場では、他の調理人の動きやせりふのなかで調理の細かい過程の描写は省略し、忙しそうな雰囲気を流したあとで、出来上がった皿を映せばよいからだ。セラピストのオフィスでは、もともとそんなに凝った料理は作れない場所だから、キャサリンが少し調理の身ぶりを必要とする演技を要求されても、何とか持つからである。
◆味にうるさい客の描写も、焼きすぎたら台なしのフォアグラが「レア」すぎるといい、別の日には、ステーキが「レア」ではなかったと、もっぱら肉の焼き方の問題だけで、これでは味にうるさい客の描き方としては単純すぎる。しかも、その客に頭に来たケイトが、生肉を料理用のフォークに刺してその客の席に運び、「これがレアよ!」とテーブルに突き刺すというのでは、まあアクションとしては面白いが料理を活かした映画とは関係がない。
◆ケイトのレストランは、ブリーカー・ストリート22番地にあるという設定だが、実際にはこの場所には何も建物がないという。実は、わたしは、かつて88 Bleecker Streetに住んでいた。こちらは、ブロードウェイと接するところで、ブロードウェイを横切って少し歩くとCBGBがあった。もう一つ接する通りがMarcer Streetで、それを数分歩くとThe Bottom Lineがあった。映画では、実際のブリーカー・ストリートもちらりと出てくるが、あまり現場性を重視してはいない。
◆この映画で一番実際のレストランらしい雰囲気を出しているのは、パトリシア・クラークソンが演じるフロアマネージャーだろう。客の要求をさっと読み、厨房の仕事ぶりを的確に判断する。ケイトの2番で働いているリーア(ジェニー・ウエイド)が臨月間近であることを計算に入れ、臨時の2番にニック(アーロン・エッカート)を採用する。ニックは、イタリア人ではないが、イタリア料理のレストランのシェフをしていたが、ケイトを尊敬していて、この店で働けるのが夢だった。これが、ケイトを苛立たせ険悪な雰囲気がながれる。むろん、ロマンティック・コメディに常套のじらしであるが、わたしが、パトリシア・クラークソンが演じるマネージャーが面白いと思うのは、このあたりのやり取りと、単なるロマンティック・コメディに常套のじらし以上とものとして深読みすることも可能だからである。
◆この店はフランス料理のレストランとして成功しているという設定だ。マスター・シェフのケイトも高く評価されている。が、マネージャーの側としては、イタリアンの要素を入れることは捨て難い。いま、フランス料理一筋では行き詰まる。スローフードのようにヘルシーな要素をいれなければならない。素材の自然さを活かすイタリアンはいま売れ筋だ。ニックを引き抜いた背景には、こういう計算もある――と見てもよい。
◆この映画は、料理やレストランが主題ではない。この映画は、もっと一般的なテーマをねらっている。つまり、専門職の仕事場で働く独身の女、まだ家庭などに納まりたくない女が、突然子供を育てなければならなくなったとき、どうするかである。ケイトは、まさにそうした典型的な女性だが、その彼女の姉が、交通事故で死に、同乗していたが軽傷ですんだその娘ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)をあずからかなければならくなる。ここで、彼女は、ゾーイを施設にあづけることもできた。が、彼女は自分でめんどうをみようと決心する。この設定は、突然夫が死ぬという設定でも、また離婚で夫が家を出て行ったという設定でも同じだが、それを女性シェフ/姪の関係にしたところが新鮮である。
◆シングルマザーの話は、依然、受けるテーマであるが、この映画にはそういうテーマも流れている。結婚しないで子供を育てたい、育てているという女性にもこの映画は受ける。ニックは、「ステップファーザー」ではないが、この映画では、そういう設定とダブルように作ってある。ケイトにとって、ゾーイがなついてくれる男がいれば理想的だ。仕事とゾーイのめんどうをみることとのはざまで悩んだあげく、ゾーイを調理場に連れてくるが、ニックはゾーイに、こういう状況の女であれば、ぐっと来てしまうような心の優しさをゾーイに示す。この映画では、味にうるさい客と、けっこうセコいところをちらつかせるマネージャー以外には、「悪」は登場しない。
◆ニックはいいやつだで、料理の腕もいいことになっているが、アーロン・エッカートという役者は、全然シェフには向かない感じ。胸毛が多くて、汗臭い感じがする。ニックが、ゾーイの誕生日の作ってやる料理がピッツァというのは、エッカートにはふさわしいかもしれない。
◆ゼタ=ジョーンズが一番「生活のにおい」を発する役をやった映画。
◆ゾーイが行く小学校は、320West 21st Steetにある PS11 という公立校を使っているが、わたしは、この学校のすぐそばの348 West 20th Streetに住んでいたことがある。

(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2007-07-25_2

●サルバドールの朝 (Salvador/Puig Antich/2006/Manuel Huerga)(マヌエル・ウエルガ)

Salvador
◆スペインでは、スペイン内戦以後独裁政権を樹立したフランコがの圧政が続き、抑圧的状況は、1975年に彼が83歳で死ぬまで続いた。とりわけ、カタルーニャ州は、もともと自治意識が強く、反権力運動が激しい場所だった。この映画の主人公サルバドール・プッチ・アンティック(ダニエル・ブリュール)は、アナキストグループのMIL (Movimento Liberico de Liberacion)(イベリア解放運動)の活動家として、逮捕され、1974年に処刑された実在の人物である。
◆サルバドールの逮捕と処刑が不当であることはあたりまえだとしても、映画は、いささか凡庸に「歴史的事実」をなぞっているにすぎないところがある。もし、サルバドールの死をいまの時代に活かそうとするのならば、彼の生涯から何か積極的なこと(観客であるわたしたちが何かを起こしたいという気持ちにさせること)を描かなければならない。それは、フィクションを捏造することではなく、サルバドールのような人物なら必ず持っていたはずの要素を強調して描くということである。ここでは、彼の死への不条理さへの怒りは生まれても、それが、センチメンタルな同情のなかで鎮められてしまう。
◆首を固定して太いネジの圧力で首の骨を折って殺す「ガローテ」という処刑のシーンが詳細に映され、その残酷さと処刑人の非情さとが強調されるが、これは、この映画をある種の「ホラー」に近づける。彼の処刑の時間が刻々と迫り、弁護士たちは最後まで救援の努力をするが、この緊迫したシーンも、「サスペンス」として見られかねない。
◆一番の問題は、サルバドールが逮捕されるまでの彼の政治活動、MILの活動と理念、サルバドールが逮捕されてから彼の仲間たちが行なう抗議活動、弁護士たちの救済プロセス、弁護士がどういうネットワークで努力したのか等が全くわからない。
◆サルバドールたちMILの活動家たちのふるまいは、子供だましなものとして描かれるが。たとえばこの映画にも出てくる銀行強盗だが、その手際の悪さは、ユーモアというより、そうした活動が子供っぽいものだったというようにしか見えない。MILの運動と間接的に連動して(あるいはMILの影響で)イタリアでも銀行強盗や「愉快犯」的な活動が戦略的に行なわれた。映画では、ジョゼ・ジョヴァンニの『掘った奪った逃げた』(Les Égouts du paradis/1979/José Giovanni)で描かれたような事件が多数あったのだ。
◆1970年代後半のイタリアで行なわれた「ポリティカル・ショッピング」と言って、スーパー・マーケットなどで自分で値段を付けてものを「買う」アクション――これは警察の目から見れば「強奪」かもしれないが、政治活動としては、「笑いの戦略」でもある。しかし、この映画は、たとえば、サルバドールの処刑に反対して彼の仲間が領事館に無差別の銃撃をくわだてるシーンを見ても、彼らの活動を「子供だまし」なものとしてしか描いていない。これでは、MILは、自閉症的、ナルシシズム的な若者の集団にみえてしまう。彼らの活動のもっとポジティブな側面が全然あらわになっていない。マイケル・ムーアも彼の映画のなかで必ず「政治的いたずら」を試みるが、それらは、決して「子供だまし」とは見えない。
◆警察がサルヴァドールを逮捕したことが不当であるという面もはっきりしない。殺意がなくても、警官を殺したことは事実なのだとすれば、警察は格好の弾圧条件を得たことになる。この時代では、サルヴァドールに勝ち目はない。そうでなくても、警官が殺された仲間の復讐をするのは、あたりまえである。
◆この映画のクライマックスは、先述の「ガローテ」のシーンと、最初サルヴァドールを嫌悪していた看守が次第に友情をいだき、処刑のシーンでは、ついに「フランコは人殺しだ」と叫ぶシーンだろう。しかし、これだけではメロドラマである。
◆実在のサルヴァドールは、1968年のパリ5月革命に触発され、フランコ打倒の運動に挺身するようになるといわれているが、そうした彼の政治的背景や、彼が関わった運動の奥行きを見せてほしかった。MILの活動は、イタリアのアウトノミア運動とも連動する。このへんに関しては、この映画からはその痕跡も感じられない。
◆処刑が迫ったとき、サルヴァドールが3人の姉たちとかわす最後の別れで、4人が身体を寄せあうシーンがある。死刑囚に対してこのような別れは日本では許されないが、スペインでは、フランコの独裁下ですら、可能だったのだろうか? このへんは、日本の死刑制度について考えさせる。
(映画美学校第2試写室/CKエンタテインメント)



2007-07-25_1

●さらばベルリン (The Good German/2006/Steven Soderbergh)(スティーヴェン・ソダーバーグ)

The Good German
◆このタイトルは、クリストファー・イシャウッドの同名の小説を思い出させたが、原題は違っており、配給さんがつけた題名だった。イシャウッドの『Goodbye to Berlin』は、ブロードウェイの舞台でヒットしたし、ヘンリー・コルネリウスによって『I am a Camera』というタイトルで映画化され、その後ブロードウェイで再び舞台化されて大ヒットし、そこからボブ・フォッシーの名作『キャバレー』が生まれた。ちなみに、小説の方は、中野好夫によって『救いなき人々』という題で翻訳されている(文藝春秋新社 )が、とうの昔に絶版になっている。わたしは、フォッシーの映画を見てから早稲田の古本屋を歩きまわり、平野書店でその古本を見つけた。まあ、そんなことはどうでもいいが、この映画は、イシャウッドのベルリンとはあまり関係がない。むしろ、雰囲気的には、『カサブランカ』や、オーソン・ウェルズのウィーン(『第三の男』)のフィルターごしにベルリンを作図したような感じである。
◆ただし、見ていてふと思ったのだが、こいつはブレヒトじゃないかということだ。原題 "The Good German" 『(その)よきドイツ人/ドイツの善人』は、ブレヒトの戯曲 "Der gute Menschen von Sezuan" (『セチュアンの善人』)を思い出させる。ブレヒトのこの劇は、中国の四川省を舞台にしているが、寓意劇で、1943年にチューリッヒで初演された。タイトルは、劇中の「人間にふさわしい品位をそなえた生活を送っている善い人間たちが十分にたくさん見出されるなら、この世界はあるがままの世界でありつづけてくれるでしょう」というセリフが示唆するように、ナチズムがヨーロッパを蹂躙する状況のなかで、そこで実現できるポジティヴなものとネガティブなものとを描く。
◆舞台『セチュアンの善人』では、通常、女優が仮面をつけてシェン・テという女性とシュ・タイという男性とのダブルキャストで演じられる。その逆もある。この映画では、ジョージ・クルーニーが演じるジェイク・ガイズマーとケイト・ブランシェットが演じるレーナ・ブラントがそういう関係だと考えると面白い。映画の時代は、1945年7月のベルリンである。ブレヒトがその劇を書いた時代よりも少しあとに設定されている。まあ、ソダーバーグは、単にスタイルの人ではなくて、カフカなどへの関心からもわかるように、ドイツ文学に造詣がある。ブレヒトもむろん彼の「教養」の一部だろう。
◆ブレヒトは、1938年にドイツの物理学者オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーがウランの核分裂を発見したニュースに触発されて大作『ガリレイの生涯』を書き始める。この年、ナチスはユダヤ人の追放を開始する。ブレヒトは、1945年に広島と長崎に原爆が投下されたのを知り、この戯曲の大幅な改稿を行なった。この映画に出てくる核物理学者の話や、核分裂に関する人材や情報を米ソが争奪戦をする話も、まさにブレヒトの主要なテーマだった。だから、映画は、この点でもブレヒトを下敷きにしていると言えないこともないのだ。
◆40年代のレンズの使用やつなぎ方(左からないしは右からのワイプなど)、強いライト、俳優とカメラの関係、女にもてるが決して腕ぷしは強くない美男子(ジョージ・クルーニー)、男を裏切る女(ケイト・ブランシェット)等々、ソダーバーグらしい凝った遊びを駆使するが、これらも、『オーシャンズ』シリーズで軽く遊びでやっているのとは若干違い、ブレヒトの「異化効果」(Verfremdungseffektを略してV-effekt「V効果」とも言う)なのだと考えると、この映画の奥行きがぐっと深くなるし、また、一見スタイルの「遊び」でやっているように見える『オーシャンズ』シリーズも、実はブレヒトの「異化効果」をリラックスしながら実験しているのではないかという解釈も生まれる。
◆「異化効果」については、ブレヒトの演劇論集に詳しいし、わたしもあちこちに書いてきたが、彼自身言っているように、それは、「出来事を異様なものとして描く方法」であるが、これだけでは何のことかさっぱりわからない。日本の新劇では、ブレヒトの「異化」は、「理性的」な白けたパロディの方法として受け取られてきた感じもあるが、それは一面的だ。ブレヒトは、「異化」の詳細な方法と例を挙げているが、その基本は、「引用」、「身ぶり」、脱「感情移入」などがある。ソダーバーグは、この映画で、俳優たちに40年代の映画の「身ぶり」を要求したというが、それは、当時のカメラに「ふさわしい」身ぶりをさせるためではなくて、ブレヒト的な「異化」を実験してみようと思ったからかもしれない。実際、ブレヒトが考えていた「異化効果」を利用したのは、同時代の演劇であるよりも、フィルムノワールの映画だった。ブレヒトは、「異化効果」を使ったからといても、演劇は演劇であって、面白くなければダメなのだと言った。
◆この映画の結末は、ブレヒトの『セチュアンの善人』のシュイ・タイのせりふがほとんど説明してくれる。このシュイ・タイのせりふは、そのままレーナ(ケイト・ブランシェット)がジェイク(ジョージ・クルーニー)に言うせりふとだぶる。
他人にも自分にも同時に善人であることが/なぜわたしにはできなかったのか。/他人も自分も助けるのは、わたしうには荷が勝ちすぎた。/ああ、あなたがたの世界はむつかしい! 苦しみが多すぎ、絶望が多すぎる!/悲惨な人間に手をさしのべれば/相手はたちまちその手をもぎとってしまう! 破滅した人間を助けようとする者は/自分も破滅してしまう! どうしていつまでも/悪い人間になるまいとしていられれよう、/飢えた人たちが死んでいくというのに。/必要なものすべてを、どこかから取ってきたらいいの? 私から?/でもそれでは私は破滅してしまう! 善人になろうとする意志の重荷は/私を地面におしつぶしてしまった。/でも、悪いことをやりさえすれば、/我が物顔に歩き回り、腹いっぱいたべられたのに。あなたがたの世界はたしかにどこか間違っている。
◆冒頭の方のニュースのナレーションで、ドイツは降伏したが「日本だけが戦闘を続けていた」というのが聞こえる。これは、ベルリンに連合国軍が入り、すでに戦後処理がはじまっている時点で、日本はあいかわらず馬鹿なことを続けていたと言っているのと同じように聞こえる。日本は、外交ではいつも馬鹿なことをやるので、気をつける必要がある。
◆ソダーバーグの『オーシャンズ11』のときにも「字幕監修:アズビー・ブラウン」という名が出ていたが、この人って、昔は「メディアアート」なんかの世界でちょろちょろしていた人と同じ人だろうか? 監修者がついているわりには、40年代以前から「あやしい」地域だった「クロイツベルク」がちゃんとは表記されていなかった。

(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2007-07-24_2

●プラネット・テラー in グラインドハウス (Grindhouse/2007/Robert Rodriguez)(ロバート・ロドリゲス)

Grindhouse
◆タランティーノにとって二本立ての「俗悪」なB級映画を上映する「グラインドハウス・ムービー」館での経験が主要な映像体験であったとすれば、ロドリゲスの世代になると、ゾンビ映画とコミックとゲームがその位置に来る。この映画は、ロドリゲスが「グラインドハウス・ムービー」を学習することによって再生したものだが、「グラインドハウス・ムービー」とは似ても似つかぬものになっている。ただし、「お師匠」のタランティーノ先生にしてから、「グラインドハウス・ムービー」を真似た『デス・プルーフ』はかなりお上品で、「奥行き」がありすぎる。タランティーノが推奨する「グラインドハウス・ムービー」は、経費を節約したためにどこか筋に無理があったり、突っ込みが足りなかったりするものだが、今回の二部作には、そういう「欠陥」がない。
◆しかし、さすがは『レジェンド・オブ・メキシキシコ』と『シン・シティ』の天才ロドリゲス。ゾンビ映画もゲームも飛び越えた新しいぶっ飛んだテイストを生み出した。それは、タランティーノが『デス・プルーフ』でカーアクションの映画に新風を加えた度合いよりもはるかに高い。
◆古い光学録音のブチッ、ブツッという音、フィルムの傷、燃えたりするアキシデントは、タランティーノのときよりもよく出ているが、そのうち、そんなにくり返さなくてもいいよという感じになる。それにしても、あの音はなつかしい。
◆ゴーゴーダンサーのチェリー(ローズ・マッゴーワン)というキャラクターは、足を切り取られても、翌日には、恋人のエル・レイ(フレディ・ロドリゲス)に支えられて歩きですところを見ても、いかにもコミックのキャラクターなのだが、それが単にゲームとコミックのイメージを利用しただけにとどまらず、さらには、失われた脚の先にマシンガンを取りつけてゾンビをなぎ倒すという過激でシュールレアルなシーンにエスカレートするところが、ロドリゲスらしい。
(映画美学校第1試写室/ブロードメディア・スタジオ)



2007-07-24_1

●僕のピアノコンチェルト (Vitus/2006/Fredi M. Mure)(フレディ・M・ムーラー)

Vitus
◆先週末から台風や低気圧の停滞で調子が悪かった。日月に休養して、今日から試写活動開始。フレディ・M・ムーラーの作品は、寡作なうえに、日本では70年代以前のものが上映されず、新しいものもとびとびにしか公開されない。だから、本作は期待して見た。なかなかいい。が、隣の席の婆さんがほとんど最後まで鼾をかいて寝ていたのにはあきれた。
◆わたしは、『H・R・ギーガーのパッサーゲン』、『山の焚き火』と『最後通告』は見ている。『最後通告』については劇場パンフにけっこう入れ込んだ文章を書いた。「自然」指向が強いようにみえながら、他方で電子テクノロジーへの視線が鋭い。ギーガーへの関心を、明らかにワルター・ベンヤミンの「パサージュ」を意識したと思われる「パサーゲン」(ドイツ語)という題名をあたえるところにも、この監督の奥行の深さが感じられる。
◆今回の作品は、ムーラーのものとしては、比較的わかりやすい。幼少のころから天才的な才能を発揮する子供がいる。おもちゃのピアノをたちまちマスターし、両親が話している「パラドックス」という言葉に興味を持ち、辞書でその意味を調べる。この息子ヴィトス(6歳の彼をファブリツィオ・ボルサーニ、12歳の彼をテオ・ゲオルギューが演じる)の才能に驚いた母親(ヘレン・フォン・ホルツェン)は、息子の才能を磨きあげることに専念する。が、ある日、彼は、祖父(ブルーノ・ガンツ)といっしょに作った人力飛行の翼をつけてベランダから飛び、そのショックで「普通の子供」になる。それは、彼自身が望んだことだったが、むろん、ここには(ここでは明かさない方がよい――見てのお楽しみの)「秘密」がある。
◆天才と暮らすのはたまらないが、天才をながめるのは、解放感をおぼえる。この映画も、そんな解放感をあたえてくれる。実際、12歳のヴィトスを演じるテオ・ゲオルギューは、映画の外では天才ピアニストであり、映画のなかでがんがん弾いてしまう「ハンガリー狂詩曲」も「ゴールドベルク変奏曲」も、みな代役なしの演奏だ。そういうのを見るだけでも天才をながめる楽しみを味わえる。
◆この映画ではヴィトスが親をてこずらせる場面はそれほど強烈ではない。まあ、突然「普通の人」になってしまったことで十分だと言えるかもしれないが、彼には、「困った」天才にありがちな未熟さよりも、精神的にも早熟な面がある。だから、その悩みは、他者に向けられるよりも、自分に向けられる。「普通の人」になることは、一つの自己治療の方法だった。
◆天才の多くは、その栄光に喜びを覚えながらも、「普通の人」になりたいという欲求をいだいている。が、天才は、多くの場合、決して「普通の人」になることができない。だから、錯乱や発狂へと向うのかもしれないが、それではますます「普通」から遠ざかってしまう。アルチュール・ランボーは、自分を「普通の人」に変えることが出来た稀有な天才だ。
◆ところでムーラーは、この映画で必ずしも「天才」を礼賛しているわけではない。ヴィトスのような天才は、いまあちこちで生まれつつあるのかもしれない。その意味でムーラーは、「天才」を考え直すためのいくつかの示唆をあたえてくれる。
◆手と脳との関係は、すでの多くの人が語ってきた。わたしには、カント、ヴァレリー、メルロ=ポンティ、デリダ、ドゥルーズなどの言及が印象深い。先日、わたしの大学の「身体表現ワークシュップ」という講座でゲストに招いた「手の医学」の専門家、中田眞由美教授は、手を使うことが脳のマップを緻密にする作用があると言っていた。ヴィトスは、幼いときから祖父と遊んでいた。祖父は、別荘のような建物を自分の工作室にし、飛行機を自作しようとしている。ヴィトスは、祖父といっしょに板を削ったり、祖父が作ったブーメランで遊んだりしている。彼の父親は、補聴器の会社に勤めており、自分でも新しい形の補聴器を作り、商品化しようとしている。ヴィトスは、父が作った望遠式の「盗聴器」のようなもので遊んでいる。彼の周辺には、幼いときから手作業の豊かな環境があったのだ。
◆天才は、時代や環境に関わりなくあらわれる場合もあるだろうが、新しい才能が多数出現する時代があり、そういう時代は、何らかの意味で、手作業の再構成とでも呼ぶべき事態が起こっているように思う。音楽は、そもそも手作業とともにある。プログラミングもキーボードの作業がともなう。しかし、キーというかぎられた手作業以前に、脳のマッピングを豊かにするようなもっと複雑で多様な手作業が必要なのだろう。
◆この映画では、ヴィトスと父親との関係よりも祖父との関係にウエイトが置かれている。ヴィトスが本当に心を許しているのは祖父に対してであるように見える。そして、実際に二人のあいだには、単なる祖父/孫という血縁関係を越えた非常に創造的(クリエイティヴ)で楽しい、見ていても心が踊る連帯関係がある。ムーラーは、1940年生まれであるから、丁度ヴィトスのような孫のいる年令である。彼は、自分と孫との関係をこの映画に投影しているかもしれない。が、そういう血縁関係にかぎらず、連帯というものは、一世代こえたぐらいの年令関係のなかで極めて創造的なものになるような気がする。親の世代は「敵」になりやすい。息子や娘と「いっしょに」何かをやっているように見えるときでも、どこかに「親」としての意識がつきまとう。その点、祖父や祖母は、無責任でいられるし、自分の年令を忘れていっしょにたわむれることができる。ムーラーと同世代の1941年生まれのブルーノ・ガンツが演じる祖父がヴィトスといっしょに工作やその後に展開される一連の驚くべき「共同作業」をやるシーンには、そういう感じが実によく出ていた。
◆おそらく、ムーラーの考えのなかには、いまわれわれの手もとのあるコンピュータやインターネットのような技術は、年令差というものをこれまでの観念とは相当ちがうものにするだろうという認識がある。それは、あたりまえといえばあたりまえのことだが、特に日本のような年令のタテ社会のなかにいるとそれがわからない。もうそのへんでも、タテ社会や年令社会は意味をなさなくなっているのだが、日本では、「高齢社会」とか「団塊の世代の定年」とか年令にこだわる話題ばかりをとりあげる。年令が問題にならない現象がもっと問題にされなければならない。その意味で、この映画は、脱年令化の一つの物語でもある。
◆ヴィトスが6歳のとき、外で仕事をしていた母親は、7歳ぐらいしか歳がちがわないベビーシッターをやとう。おまけに、彼女は、「ベビーシッターなんて、ぼくはもう子供じゃない」と生意気なことを言うヴィトスに、「恋人だと思えばいいのよ」などと言ってしまう。ヴィストとイザベラがワインを飲み、ロックパーティをやってはしゃぎまくるシーン、12歳になってそのイザベル(タマラ・スカルペリーニ)に再会し、彼女に結婚をせまるシーンが面白い。
◆『最後通告』でも、電子メディアは、人を遠ざけるだけでなく、近づけもするものとして理解されていた。この映画では、もっと具体的にインターネットが、「大人/子供」「男/女」「ここ/あそこ」といった既存の場所性(トポス)を組み替えてしまうことが示される。祖父は、飛行機の趣味が高じてフライト・シュミレイターを購入し、さらには小型飛行機を手に入れるのだが、飛行機は、まさに、インターネットと車とのあいだに位置するものであり、飛行機というテクノロジーにおいて、すでに既存の「場所性」は終わっている。
◆これから、2、3歳でネットサーフィンをするような子供が出てくることはまちがいない。が、ネットのなかだけを旅しても、脳のマップは豊かにはならないし、暗記の天才のように一面的な能力が発達するにすぎないだろう。コンピュータの世界は、手を起点とするフィジカルな世界とともに作動するとき、飛躍的な機能を発揮する。その意味では、いま、テクノロジーの関心が、ロボット工学に向っているのは、有望だ。それは、頭のなかやモニター画面のなかだけでアイデアを紡ぎ出すというのではなく、つねにフィジカルな世界と密接な関係を持ちながら進まざるをえないからだ。10年先にあらわれる天才たちは、「子供のころロボット作りに夢中でした」という者がいるはずである。
(メディアボックス試写室/東京テアトル)



2007-07-18

●デス・プルーフ in グラインドハウス (Death Proof/2007/Quentin Tarantino)(クエンティン・タランティーノ)

Death Proof
◆タランティーノが子供のときに見た60~70年代のB級映画(「二本立て」で上映された)へのこだわりで作った一品。くり返し上映され、フィルムに傷がつき、何度も切れてつないだりしているので、つなぎがおかしい――といった感じを再現している。そういえば、日本の映画館にも、新着のフィルムを1コマづつ切り取ってコレクションにする趣味の映写技師がいて、そのコレクションなるものをその人の子息から見せてもらったことがある。
◆映り始めたときに見えるフィルムの傷もそうだが、カラーの色が何とも一時代前を思い出させる。その色を見て、わたしの記憶はいきなり60~70年代に飛ぶのではなくて、なぜか、ウディ・アレンの『どうしたの、タイガー・リリー?』(What's Up, Tiger Lily?/1966)をよみがえらせた。これは、ウッディが、東宝の『国際秘密警察』シリーズの何本かを再構成したうえ、台詞もめちゃくちゃに英語に吹き替えたりした(それをウディ・アレン自身と映画会社の人間とがときどき映画のなかで語る)ギャグ怪作だ。
◆この複雑なタイム・スリップは、あながち不当なものではないだろう。というのも、三橋達也や浜美枝が登場して「アメリカ映画」風なアクションを見せる『国際秘密警察』シリーズは、アメリカのB級映画の模倣であり、タランティーノは、その流れのなかの作品を見て育ったのだ。
◆この映画の邦題には、原題に「 in グラインドハウス」という言葉がプラスされ、プレスなどでもしきににこの「グラインドハウス」(grindhouse)が登場する。もともとは、"grind house" と書かれ、1920年代から使われていたらしい。"grind"とは、ストリッパーなどが腰をぐりぐり回す含意があり、ポルノやバイオレント・フィルムを連続上映する小便臭い映画館を意味した。が、今回、タランティーノがロバート・ロドリゲスを誘い、彼自身の本作と、ロドリゲスによる『プラネット・テラー in グラインドハウス』が作り(「二本立て」であることもそのこだわり)、話題を呼んだ結果、"grindhouse" という一続きの語になり、さらには、ある種の「アンチシネマ」(「ロマン」に対して「アンチロマン」という言葉が生まれたように)という新しいジャンルを生みかねない気配である。ちなみに、「アンチシネマ」(anticinema)という言葉は、わたしの思いつきであって、まだ一般に認知されているわけではない。
◆もともと、タランティーノ少年が見た「グライドハウス・ムービー」は、伝統的な映画の傾向に反逆し、あるいはそれを裏切るという形でそのスタイルを形成していった。つまり、「良質の」を頭につけた演技・登場人物・演出・・・を維持するのではなく、製作費を安くあげるためにそんかことはどんどん妥協し、その代わり、セックス、裸、暴力、どぎつさを強調した。しかし、1950年代の後半以後、ジャン= リュック・ゴダールらのヌーベルバーグの連中もそうしたアメリカのB級映画にインスパイアーされたのであり、彼らがやったことも、伝統的な「良質」な映画に反逆することだった。
◆では、この映画の新しさは何だろうか? やはり車かな。車の「デス・プルーフ」(死亡防御)をほどこし、それを凶器に使うという発想はユニークだ。クロネンバーグの『クラッシュ』にも、ここでカート・ラッセルが演じるようなカー・サイコが登場したが、こちらの方がそういうことをやる理由が単純明快だ。とにかく「ギャル」が嫌いなのだ。カート・ラッセルには、どこか「正義派」のイメージがあるので、何度もそういうきわどい犯罪をやってきて、交通事故を理由に「合法的」な殺人をやってきたスタントマン・マイクなる卑劣な人物を演じるには多少無理があるが、逆にそういうイメージがあるから、そういうオヤジがワルをがんばって演じているのを見るのは悪くない。この映画は、ドラマだけでなく、その演じ方や映画の背景を楽しむような映画だ。
◆カーチェイスやカークラッシュの映像としては、後半の方が面白い。『キル・ビル』や『キル・ビル Vol.2』でユマ・サーマンのスタントをやったゾーイ・ベル――といっても、プレスでそのことを初めて知ったのだが――がその役をやっているのだということを知ってから見ると、面白さが倍加する。60年代アメリカの管理化を冷笑したあの『バニシング・ポイント』のダッチ・チャレンジャーに乗るのを夢みるカーキチのゾーイ(役名も本名と同じ)が、ついに試乗することが出来たダッチ・チャレンジャーを仲間のキム(トレイシー・トムズ)に運転させて、自分はボンネットの上にあおむけに乗り、危険を楽しむのだが、彼女がスタントウーマンであれば、このシーンをスタントに代わってもらって撮ったはずはない――という意識が観客のなかに沸き起こる。そういう設定は、たとえそれが別のスタントによって撮られたとしても、なかなか効果的である。ニュージーランド出身のゾーイ・ベルが、「anayway」を「イニウェイ」とニュージーランド・アクセントでしゃべるのがほほえましい。
◆ゾーイ・ベルの身のこなしの軽さと彼女の身体のタフさは、映画を見ていてもわかる。シドニー・タミーア・ポワチュエやジョーダン・ラッドらのグループを見事みな殺しすることに成功したスタントマン・マイクは、次にゾーイらの「ギャル」グループをねらうが、今度は相手が悪かった。ゾーイがマゾヒスティックな軽業のスリルをダッチ・チャレンジャーのボンネットの上で楽しんでいる(?)のを邪魔されたゾイたちは、その運転技を駆使して、スタントマン・マイクを追いつめる。ゾイがパイプを持って追いかけるシーンでは、彼女のタフな運動神経がもろに出ていた。
◆生意気な若い女たちが惨殺され、その一方でタフな若い女たちが悪党をやっつける――という「俗悪」さとスリルが、クリームソーダにジンをぶっかけて飲むときのような味わいを生み、楽しませる。
◆ところで、『バニシング・ポイント』では、車は「ビッグ・イズ・ビューティフル」のアメリカ=権力の象徴であり、同時にそこから脱出する武器でもあった。タランティーノは、この映画で『バニシング・ポイント』へのオマージュをささげながらも、そうした政治性はすっぽりとはずしている。
◆タランティーノ自身がバーテンとして姿をあらわすシーンのバーの壁には、ラルフ・ネルソンの『ソルジャー・ブルー』(Soldier Blue/1970)のポスターが見える。ほかに、50~60年代のフランス、イタリア映画のポスターもたくさん出で来る。しかし、こういうやり方って、もう古いのではないか? そういえば、そもそも引用(自分の作品からも他の作品からも、キャラクターやシーンを引用する)という方法ももはや古いかもしれない。
(映画美学校第1試写室/ブロードメディア・スタジオ)



2007-07-20

●再会の街で (Reign Over Me/2007/Mike Binder)(マイク・ビンダー)

Reign Over Me
◆アダム・サンドラーがまじにシーリアスな役を演じるは見ていないので、新鮮だった。かなりいいと思う。サンドラーは、『ウェディング・シンガー』で見せた三枚目の優しさがなかなかよかったが、その後は、『ウォーターボーイ』でも、『リトル・ニッキー』でも、若干「真顔」もある『パンチドランク・ラブ』でも、基本は、お人よしのフールといった型にはまった役だった。今回は、911で「愛する家族」をすべて失ってしまった男チャーリー・ファインマンという役を演じる。
◆別に911を使わなくても、「愛する家族」を失う者はいるし、また、「愛する家族」を失ったからといってチャーリーのようになるわけではないが、このへんは、アメリカ映画の儀式的なパターンだとして受け入れておけばいい。そういう男がニューヨークのマンハッタンで暮らしているというところにも、「孤独な街=ニューヨーク」というパターンを感じないでもないが、これは、ニューヨークにしてよかった。この街では、偶然に人と人が遭いやすいのである。東京で会ったことのない知り合いにばったり遭うということがよくある街だし、新宿に住んでいるよりは、マンハッタンに住んでいる方が友人や知り合いにばったり遭う度合いが高い。
◆医師が数人いる歯科医を経営するアラン(ドン・チードル)が、大学時代にルームメートだったチャーリーを街で見かけ、声をかける。彼はiPodのヘッドフォンをつけ、エンジン付きのスケーター(プレスでは「スクーター」となっていたが、警視庁交通課の規定では、スケーターは2輪、スクーターは3輪ということになっている)に乗っており、アランの気づかないかのように去る。アランは、チャーリーの家族の災難を知っているので、気になる。だから、別の日の夜、ふたたび彼を街で見つけたときには、必至で追いかける。が、チャーリーはまるでアランのことを忘れてしまったような放心したまなざし(この演技が実にうまい)でアランを見るだけだ。すべてを忘れたいと思うあまりそういう態度になるのか、本当に忘れてしまったのか、すっかり精神をやられてしまったのか、はわからない。アランを、普通はかつて友人だった会計士とい大家のお婆さんぐらいしか部屋には入れないチャーリーがその夜、自分のアパートに入れたのだから、すべてを忘れてしまったわけではないだろう。
◆愛用のiPodも、一つのシールド装置になっているが、アパートに入るなり、プロジェクターの大画面でプレステのゲームをやるところがチャーリーの状況をずばりあらわしている。大量のヴィニール盤のレコードも彼のオタク的な生活を示している。部屋にあがるとき靴を脱ぎ、アランにも要求するのも、彼の潔癖症的現状を示唆する(ただし、これは、亡くなった妻がそうしていたのでそれを続けているらしい)。欧米では、靴を脱ぐということは、非常に個人的な領域の問題で、靴を脱ぐ関係というのは、非常に親密な関係を意味する。だから、日本の習慣で部屋のなかで靴を脱ぐことに慣れている者と欧米の一般的な感覚とのあいだにはギャップがある。この点について、最近、パリ在住の浅野素女が『すばる』 7月号で「パルドン! 靴を脱いでいただけますか?」という秀逸なエッセイーを書いていた。
◆911がなくても、またニューヨークではなくても、チャーリーのような「ローナー」は増えている。それは、外から見ると非常に「孤立」し、「孤独」に見えるが、本人はさほどでもないとも言える。しかし、アランは、常識的な「善人」としてチャーリーに対応しようとする。そして、彼は、少しづつ昔の彼をとりもどしていくように見える。が、それは、果たして必要なことだったのか? 映画は、むろん、「常識」の路線で進む。しかし、映画の面白さは、映画の製作意図やプロットを越えて別の解釈が出来るところであり、そういう可能性をたくさんはらんでいる作品が「開かれた」豊かな作品だと思う。
◆アランは、「善良」なニューヨーカーらしく、チャーリーをセラピストのところに行かせようとする。彼の歯科の階下に知り合いのセラピスト、アンジェラ(リブ・タイラー)がいる。彼女に遠回しに相談するシーンが面白い。彼女は、仕事ならオフィースに来てくれと言う。金を払ってセラピーを受けろというわけだ。もし、チャーリーに問題があるとすれば、アメリカ生活のこういうところだろう。仕事と私生活の厳密な区別、精神の分野でも分業が徹底し、ちょっと話を聞いてやれば済むようなことをセラピストにまかせようとする。映画では、このへんが、かなりぐちゃぐちゃになって行くのだが、そこが面白い。
◆アランがチャーリーを何気なく会ったという設定で年配のセラピスト、ナイジェル(ジョン・デ・ランシー)をチャーリーが行きつけの中古レコード店に呼び、紹介しようとする。しかし、これは見事に見抜かれ、失敗する。そのとき、ナイジェルが、70年代にチャーリーが好きだったボブ・シーガーのLPについてトンチンカンなことを言わなければ、事態は逆だったかもしれない。チャーリーは、70年代の音楽に執着しており、そこを共有できない者とは口をきかない。タイトルの"Rein Over Me"も、ピート・タウンゼントの「Love, Reign O'er Me」からとられている。ひと昔まえ、本の名前が出て、それを知らないとその人の「教養」を疑うという試練があった。いまそれは、音楽の移ってきていのかもしれない。そこでは「教養」といった権威主義的なものが問われるのではなく、「仲間」であるかいなかが問われるのだ。
◆チャーリーとアランは、70年代に学生時代を送ったのだろうか? そうすると、現在、50歳ぐらいということになる。アダム・サンドラーは1966年生まれ、ドン・チードルは1964年だから、役としては少し背伸びした役をしていることになる。どう見ても、二人は40代の後半にしか見えない。しかし、いま、70年代のニューヨークを美化してあこがれる傾向があるようだ。わたしなどでも、70年代にニューヨークに住んでいたと言うと、必ず、「ニューヨークの一番いい時だよね」と言われる。誰でも、自分が若いときに過ごした場所と時代が一番いいと思うもので、わたしは、70年代のニューヨークを思うと、色々と胸に迫るものがないでもないが、それは、必ずしも、その時代のニューヨークが最高だったという意味にはならない。上の世代から、「30年代のロワー・イーストサイドは最高だった」という話を聞いたこともある。まあ、いまのニューヨークより70年代のニューヨークの方が面白かったことは確かだ。いまのアメリカはどこも抑えつけられてひどいからね。だから、いまの70年代ブームは、「避難所」として70年代が観念的に再構成されている面もあるわけだ。
◆この映画のなかで、ある種の70年代を感じさせるのは、ドナルド・サザーランドが演じるレインズ判事である。チャーリーには精神欠陥があり、病院に収容すべきだと主張する役人に対して、判事は、それを退ける。いまの「標準」では、法廷で相当「情緒不安定」的な行為を見せてしまった以上、病院送りになっても不思議ではない。が、70年代には、「ディレギュレイション」(これを日本は「既成緩和」と訳したが、原意は、「脱規制」である)が進み、政府の民間への介入が弱くなり、民間レベルの競走を活性化しようという動きが強くなった。この動きは両義的で、一方で下側からの動きは活発になり、政府=体制への批判も高まったが、他方で弱肉強食の動きも激化していった。ネオコンは、そんな後者の流れの延長線上で力をつけた。だから、いまになって、当時このレインズ判事のような「甘やかせ」が横行したから、いまひどいことになっているのだとばかり、70年代の解放性を逆手に取って、新しい規制の必要を正当化する動きもある。その意味では、レインズ判事のような反応は、いまでは稀なことで、この部分が「信憑性に欠ける」と批判する映画評を読んだが、それも一理あるわけだ。法廷でチャーリーの病院拘束を主張した小役人のようなやつがいま大手を振っているからである。
◆アランの診察室にやってきて、「常人」の予想を越える行為におよぼうとする女性(サフロン・バロウズ)がいる。先述の批判でこのキャラクターについても「こんなのありえない、余分だ」といったことが書かれていたが、わたしなんかの目では、まさにこういうクレイジーな女性が70年代の生き残りで、実にいい感じなのである。
◆70年代のニューヨークの街には、明らかにヴェトナムの後遺症に心身ともに悩んでいるような人がたくさんいた。映画でも、『タクシードライバー』もそうだが、ヴェトナムの後遺症をひきづった人間たちの物語が作られた。街や文化に内在したクレイジーさも、ヴェトナムと呼応関係にあったことはたしかだ。その点で、いま、911がもたらした「不安」の文化と70年代の「錯乱」(レム・コールハウスは、『Delirious New York』(錯乱のニューヨーク)を出した)とクレイジーさの文化とがからみあって、何か面白いカルチャーが出る可能性はある。
◆アランたちがチャーリーに手を差しのべたことはとても「人道的」なことであり、それによってチャーリーが「普通」の「人間らしさ」をとりもどすところは、ハリウッド映画的には「感動」させる。しかし、この映画のプロットをこえて解釈学的飛躍を楽しむと、アランの「好意」は、たとえば70年代カルチャー風には、「介入」しすぎなのであり、もしここまで介入するのならば、2人は単なる友人の関係をこえてしまうはずなのである。実際、映画では、アランがチャーリーの面倒を見て、朝帰りをしたりして、妻(ジェイダ・ピンケット=スミスがいい演技を見せる)が次第に不信感をいだくシーンがある。しかし、2人のあだには、表面上ゲイ的関係はなく、アランと妻との関係はもとのさやにおさまる。おそらく、現実にはそういう形でゲイ関係になって行くカップルがいるとしても、それを映画にはしないところが、この映画のいま性なのである。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)



2007-07-17

●サッドヴァケイション (Sad Vacation/2007/Aoyama Shinji)(青山真治)

Sad Vacation
◆いまの日本の問題に焦点を置こうとしていることは、最初のシーンからよくわかる。中国から劣悪な環境の船倉に詰め込まれてやって来た中国人たち。その一人はなぜか血を流して死んでおり、そのかたわらに男の子アチュン(畔上真次)がうずくまっている。健次(浅野忠信)は、そのあやしい取り引きに関わっているらしい。が、確信犯ではない彼は、父親を失い、どこかに売られていくはずの子供を自分のアパートに連れてくる。こうしてこのアチュンと健次の友人の妹・ユリ(辻香織里)との三人の生活が始まる。健次は、転々と仕事を換えているらしく、ハイヤーの運転手の仕事を始める。
◆通りを一人でキャリアバッグを引いている女・田村梢(宮崎あおい)がいる。彼女はバスジャック事件で「殺されそうになった」。これは、明らかに、『EUREKA ユリイカ』に出てくる事件――宮崎あおいが演じる娘は事件のショックで失語症になった――との関係を示唆している。キャリアバッグを引いて彼女が行き着いた先は、誰かの紹介で知った運送会社である。その主人・間宮繁輝を演じるのが、中村嘉葎雄だ。
◆ちょっともたもたしたグランドホテル形式ですべてが行き着くのが、間宮運送の家。まあ、その間に浅野の、なぜか高倉健に感じが似て来た存在感のあるしぐさを見ることができるし、やがて彼の恋人になる女を演じる板谷由夏のなかなかチャーミングな演技があって、飽きることはない。が、光石研と斉藤陽一郎のシーンは下手なお笑いコントみたいでつまらないし、梢が間宮運送に到着するまでのシーンをもってまわる必要はないような気がする。茂雄(光石)は、彼女の親代わり的なことをやっていたらしい。秋彦(斉藤)は、健次の同級だったという設定。ここで、「北九州」式とかいってやたら茂雄が秋彦の頭をどついてづけづけものを言う。わたしのような東京者には余分に見えるこのシーンも、北九州出身の青山真治としては、絶対に入れたかったシーンなのだろう。
◆間宮運送の家は、ある種の「アジール」で、ぱっと見て、全体の予想がついてしまうようなところがある。どこから来たのか、それぞれに叩けば埃の出る過去や傷を隠している人々。間宮の妻・千代子(石田えり)も、夫と子供を捨てて間宮と結婚し、高校生の息子・勇介(高良健吾)がいる。
◆映画のストーリを追うと、見た気になってネタバレだぁと文句を言うヤカラがいるので、これ以上はやめておく。ここまで書けば、健次が「間宮家」の舞台にいずれは登場することが予想できるだろう。予告編でも、健次の母が千代子であることは明かしているから、書いてもいいか。いずれにしても、母を捜しているということが、あとで重要な臥布石になる。
◆間宮運送の家にいる人々のなかに、サラ金地獄を逃れてここにいるらしい男をオダギリジョーが演じているのが興味を引く。彼と浅野という二大スターが対決したらどうなるのかという期待を掻き立てられる。さすが、オダギリは、一歩引くことによってダメでかなり「卑劣」な人間を演じることに徹し、浅野を立てている(るいは、そういう形で、浅野が小技で勝負できないようにしているとも言える)。その分浅野は荷が重くなり、高倉健を思わせる「存在感」のある演技をせざるをえなくなったという感じもする。それは、良い結果を生み、この映画に緊張感を生んでいる。
◆間宮運送の家は、青山真治のねらいとしては、いまの日本社会の「下流」の現実であり、それをどこまで肯定的にとらえられるかを試す象徴的な存在として呈示されている。むろん、そこには、どのみちマスメディアティックな枠を越えられない日本のメインストリームメディアが、ときに「社会派」の顔をするときに使う視点があることは否めない。何かで免許を剥奪されたらしい過去を持つ木島(川津祐介)は、いつも穏やかそうな笑いをたやさない。こういうのにかぎって、ヤバイ橋を渡ってきたというのが、この手のドラマの前提だ。ただし、この映画では、そういうキャラの男がいきなり仮面を脱ぐというような安い場面はない。若干そういうところが出るのは、間宮家の息子勇介が手のつけられない悪態をついたとき、ふだんはウドの大木のようなボーっとした存在だった曽根(嶋田久作)がいきなり勇介に背負い投げを食らわせてねじ伏せてしまうシーンか。なるほど嶋田を持ってきた意味がわかるわけである。
◆これらの人々は、間宮の寛容さによってここに居続ける。『クリエイティヴ・クラスの台頭』の著者リチャード・フロリダによると、今後の社会の「発展」の鍵を握るのは、「クリエイティヴィティ」であり、それを可能にする場が、3T つまり「テクノロジー」、「才能」(タレント)、「寛容さ」(トレランス)を豊かに持つ都市だという。フロリダの関心は、一応底辺への目配り(格差社会の亢進等)をしはするが、結局は産業的生き残りであり、ここで引用するのはふさわしくないかもしれないが、彼の説を拡大解釈すれば、言い得て妙なところがある。話がもってまわったが、「寛容」という概念が、いま支配者側からも出てきている点が面白いと思うのだ。
◆しかし、寛容という点に関しては、この映画の青山真治の方がもっと先に行っている。それは、少しでも天皇制国家=日本ということを考えたことのある者ならば、誰でも「寛容」というやつには警戒するはずだ。ただし、ハーバート・マルクーゼはかつて「抑圧的寛容」という概念を立て、進んだ支配システムの手口をあざやかに解明してくれた。
◆間宮繁雄の「寛容さ」は、その妻・千代子のもう一回り「大きい」「寛容さ」によって可能になっている。それは、日本の「母」によく見られる「包むような愛」であるとも言えるし、また、「おせっかい」文化――それによって「男」は父親も子供も「甘え」を維持する――の元凶ともなっている(こういう見方もジャーナリスティックな視点であるという半畳はいまは入れないでおく)。
◆彼女は、酒乱で浮気な夫と幼い息子・健次を捨て、家を出た。息子の側からすると、彼女は自分を捨てた母親である。なぜそんなことができるのか? 映画は、逆境に強い彼女を描く。が、なぜ「母親」としての女たちは、強いのか? 青山がこの映画で出す問いかけは、それは、「母親」が家の継承の核心を握っており、組織にしても国家にしても(という言い方はどこでもしてはいないが)「母親」的なものによって維持され、たとえ明確にし、批判的に廃絶・再創造されなければならないようなこともうやむやなままだらだらと存続させられるのではないか、ということだ。
◆この映画は、ある意味で天皇制国家=日本の超ミクロな核心が問われている。それに対する代案は出されないまま映画は終わる。この映画の音楽は、口琴(こうきん)に始まり、最後はアルバート・アイラーの「ゴースト」をアレンジした曲で終わる。そういえば、「ゴースト」は、『EUREKA ユリイカ』でも使われていた。ただし、今回は、色々悲劇的なこともあったが、「母」なる千代子によってとりあえず「うやむや」なまま形だけ「丸く」おさまった――ように見える間宮運送の家の「現在」を象徴するかのようにこの曲が鳴り、祝祭的であると同時に「亡霊」(ゴースト)の泣き声のようにも聞こえるこの曲の余韻を残しながら終わるのである。
(ショウゲート試写室/スタイルジャム)



2007-07-13_2

●伝染歌 (Densenuta/2007/Harada Masato)(原田眞人)

Densenuta
◆けっこう空いている会場だったが、開映少しまえに隣に女性が来た。映画が始まったのに、バッグを開けて何かを探している。そのうちぽりぽりと固い食べものを食べる音。閉口して席を一つ移る。
◆台詞を棒読みするシーンが多いということは、脚本(羽原大介)がよくないのだろう。たとえば、昔、ハンガリーで自殺を誘発したというので有名になった曲「暗い日曜日」の話を、一人の役者がとうとうと解説的な台詞を吐いたり、とにかく、映像描写を省略して台詞で済ませる個所が多すぎるので、松田龍平や伊勢谷友介のような有能な役者をそろえても、棒読みをせざるをえなかったのだ。
◆最初の方の女子校の古典の授業シーンで、教員が「受験と関係ないから『近松』は飛ばす」と言うと、大島優子らが演じる生徒たちが、次々に「それっておかしいんじゃないですか」というような抗議をする。しかし、現実には、こういうことを言う子はいまはほとんどいない。映画でそういう設定になっているのは、教師の矛盾を突き、「いまの教師は・・」といったありがちな通念を描くためにすぎない。要するに、この映画は、どの場面をとっても、底がわれてしまう。
◆秋葉原あたりに本拠を置き、月刊誌『MASACA』を発行しているという設定の雑誌者の面々などほとんど爆笑もの。なにせ、そのメインスタッフである太一(伊勢谷友介)なぞは、自衛隊に勤めたあとフランスの外人部隊に入り、ボスニアには傭兵として行ったというのだ。それが、ホラならいいが、映画のなかではどうやらホントのことに設定されているらしいので失笑を禁じえない。いくら芸達者の伊勢谷でも(いや、むしろ彼だからこそ)そういう経歴の人物を演じるのは無理でしょう。それに、(昨年、イラクで首を切られて殺された日本人の「傭兵」がいるにはいたが)この程度の雑誌のスタッフがそんな経歴を騙(かた)っては困る。彼らは、近隣の山林地帯に行き、戦争ごっこをするのだが、前提が安いから、せっかくの納富貴久男さんのガンフェクトも活かされなかった。
◆この映画で「暗い日曜日」の話が出て来るが、この曲を直接のテーマにした映画『暗い日曜日』によると、自殺者たちは、この曲に歌詞がつくまえのピアノ曲を聴いてすでに自死に誘われる。今回の映画では、影響直を持つのは歌詞の方である。しかし、秋元康も、今回は全然サエてない。世界第2位の自殺率、いじめや教育の問題、サラ金地獄から家庭の崩壊まで、いくらでもマスコミのインデクスを並べたてられる「社会現象」が、とりあげられるのだが、おいおいそういう話はもう聞き飽きたぜぃと言いたくなるような月並みさである。
(松竹試写室)



2007-07-13_1

●サイボーグでも大丈夫 (Saibogujiman kwenchana/I'm a Cyborg, But That's OK/2006/Chan-wook Park)(パク・チャヌク)

I'm a Cyborg, But That's OK
◆哲学を学んだパク・チャヌクの作品には、いつもしっかりした思想的基盤が感じられる。『オールド・ボーイ』も『親切なクムジャさん』も、ただの「復讐」ドラマではなかった。今回は、精神疾患の臨床の根本的な問題、さらには、他者とのコミュニケーションはどこで可能になるのかへのチャヌクの姿勢がはっきりと出ている。
◆ラジオのオートメーション工場で働く少女ヨングン(イム・スジョンが抜群の演技を見せる)は、祖母に育てられるが、祖母の認知症がひどくなって病院に収容されたころから、自分がサイボウグだと妄想する統合失調症がひどくなり、病院に入ったらしい。「らしい」というのは、映画は、時間を交錯しながら展開されるからである。
◆最初の方で、彼女は、流れ作業の台でラジオを組み立てている。が、そのラジオが、一時代まえの型で、長いロッドアンテナがついていて、部品や基盤の形もやけに大きい。ということは、時代設定は、いまにいくら近くても1980年代以前だろう。あるいは、韓国では、いまだにこういう古いタイプのラジオを作っているところがあるのだろうか? 彼女は、その一台を祖母にあげた。病院に入ったときも自分用のを持っていて、それを点けて、電波と瞑想をする。その工場で彼女は、映像的にいかにもパク・チャヌクらしい「リストカット」をした。
◆「リストカット」は、身体に対する「通常」とは異なる認識(たとえ無意識であれ)にもとづいている。「わたしの身体」から、「他人の身体」、さらには「物としての身体」への認識論的移行がなければ、自分の腕をスパッとは切れない。ヨングンの場合は、自分はサイボーグだと思っているから、自分の手を切って、そこに電流を流すのは、論理的に一貫性がある。病院で彼女は、出された食事をせず、電池をなめている。
◆映画は、自分をサイボーグだと思い込んでいる統合失調症の患者に「失調」という観点からアプローチするのではなく、むしろ、パク・チャヌクの「現象学的還元」ないしは「想像変更」の結果としてヨングンのキャラクターが生まれた。人間は、誰しも「狂人」である。微細に見れば、それぞれが違っており、双方から観点を変えて見れば、一方は他方にとって「狂って」いる。その一方を「異常」とみなし、どちらかに矯正しようとするのが伝統的な治療であるが、チャヌクは、そうした姿勢に反抗する。それぞれが異なる人間同士が、その違いを認めあうことはできるのか? これが、この映画の基本的な問いである。
◆自分が犬だと思っている者は、いくらそうではないということを説得されたり、さまざまな技術的誘導を受けても、「人間」にはもどらない。むしろ、「犬」としてあつかわれることによって、「犬」として生きることができ、そこではじめて自分をとりもどす。
◆ヨングンの場合もそうだ。彼女は、ごはんを食べることができない。が、それが電気を発生し、「サイボーグ」としての彼女の身体を動かす動力となるというロジックのなかに入るならば、彼女はごはんを食べることができる。
◆ここでは、明らかにヨングンの方はそのままであり続ける。彼女にその豊かな想像力によって近づいてくるのが、イルスン(チョン・ジフン)だ。彼は、「盗癖」の「治療」でこの病院に入れられている。ここには、記憶の代わりにつぎつぎに話をでっちあげる作話症の女や、遠慮しすぎて後向きにしか歩けない男など、それぞれのユニークさを「普通」より鮮明に表出している人々がいる。この映画が、ラブストーリーでもあるのは、結局、愛とは、違いを認めあうことであり、最後まで同じ状態を続けるヨングンも、自分がサイボーグであるということを複数の他人に言うことができることによって、相手を自分とは違う存在として認める。
(メディアボックス試写室/東京テアトル株式会社)



2007-07-11

●レミーのおいしいレストラン (Ratatouille/2007/Brad Bird)(ブラッド・バード)

Ratatouille
◆メールや電話や気まぐれなどに影響されて出遅れることがある。今日は、予定ではまず1pmから新橋のワーナーで『さらばベルリン』を見て、そのあとタクシーで六本木のブエナビスタに駆け込む予定だった。が、その場合、3:15pmぐらいになってしまうので、もしそうしていたら、この映画は見れなかったかもしれない。前の予定を飛ばしたために、30分まえに会場に到着してみると、すでに座席は90%以上埋まっており、3:15pmには満席になってしまった。お客がたくさん来るからといって、その作品がいいとはかぎらないが、本作はディズニー/ピクサー・アニメの可能性を十分に出し切った秀作であった。
◆食料は「燃料」だと考える父親と大ざっぱな感覚の兄弟のいる家族のなかで味覚が「異常」に優れたネズミのレミーと、天才シェフ、グストーの遺児という秘密を持ちながらさぱり料理の腕がないリングイニとの出会い。古巣を追われたレミーのネズミ一家が大移動をし、その間にレミーが下水に飲み込まれるシーンの迫力。そして、下水道をはい上がったその建物が、テレビや看板や『誰でも名シェフ』の著書で敬愛していたグストーのレストラン。出来すぎていると感じるよりは、計算しつくされたプロットの見事さに感動する。
◆グストーは、辛辣な料理評論家のイーゴーに酷評され、5つ星から4星に降格させられたことが原因で死んだらしい。彼の亡きあと、レストラン「グストー」は、彼のレセピーを忠実に守る、アジア系の顔をしたコレットやそれぞれに癖のある厨房の人たちによって維持されているが、料理長のスキナーの頭には現状維持しかないらしい。そんなところへ、故グストーの女友達の息子と称するリングイニが来たのだから、あまりいいことはない。レミーは、その意味で、レストラン「グストー」の救世主だった。
◆厨房で紅一点のコレットは、(フランスの)料理界には女性差別があるとうらみつらみをリングイニにぶちまけるが、フランスでもイタリアでも女性の料理人は少なくない。むろん、男上位であることはたしかだが、女性シェフがけっこういるのである。そういえば、『バベットの晩餐会』でおいしいものを食べることの至福を味わわせるシェフは、フランス革命でパリを追われた天才的な女性シェフという設定だった。
◆レミーが、リングイニの手足(のコントロール中枢)になって「グストー」のスランプを救ったので、店の新しい評判はイーゴのところにも届く。彼は、早速店に行き、近々来ることを予告する。料理人に言わせると、口の肥えた客がいきなり来るよりも、予告して来る方が緊張するという。そのうるさい客が、神話的な噂だけ伝わっていても、まだ姿を見たことがない場合には、知り合いに電話して情報を集めたりもするらしい。他方、うるさい客の方も、店に来てから、シェフのおまかせ料理を注文して、お手並み拝見という場合もあれば、逆に、たいていはそうだろうというシェフ側の予想を裏切って、メニューにある品をあえて注文したりする。誰でもが食べている品を自分のためにどうアレンジしたかを見ようというわけだ。
◆イーゴは、店に姿をあらわして注文したときの言葉が、"prospective"。要するに、ある種の「おまかせ」だが、将来を見計らって作れというわけだ。その場合、その「将来」は、店の将来であるとともに、料理としての将来でもある。そのとき、レミーが作ったのは、「ラタトゥイユ」(英語の発音ではラタトゥーイ)(ratatouille) だった。「リングイニ」(Linguini)がパスタのリングイネ(linguine)のもじりであるように、ラタトゥイユを持ちだしたのは、rat(ネズミ)+touille(かきまぜたもの)を暗示するためでもある。ちなみに、「グストー」(Gusteau)も、gustatif(味覚の)やgustation(味感)を暗示し、gastronome(美食家)とも関係がある。
◆ラタトゥイユは、野菜の炒め煮だが、イタリア料理のカポナータ(caponata)を「ラタトゥイユ」という名で出しているイタリア料理店も多い。フランス語では、「まずいシチュー」という意味もあり、基本的に家庭料理である。それをグストーのようなレストランで、しかもイゴーのようなうるさい食通に「メイン」として出すのには、相当の勇気がいる。が、「なんだ、ラタトゥイユか」と馬鹿にしたイーゴがそれを口に入れたとき、頭のなかに、かつて母親が作ってくれたラタトゥーユの記憶がよみがえり、至福な気持ちになる。
◆映画で見るラタトゥイユは、通常の「煮込み」風のものではなく、「クイーン・アリス」の石鍋裕氏(この映画の字幕の監修者でもある)が「ラタトゥイユのガトー仕立て」と呼んでいるものに似ている。つまり、鍋にトマトソースを入れ、その上に、セルクル型で抜き、薄く切った野菜(ズッキーニやナスや玉ねぎなど)をならべて火を通し(ここが簡単ではないが)、皿に盛るときは、通常のようにごってり盛るのではなく、皿の真ん中にさまざまな野菜を重ね、ちょこんと、ヌーヴェル・クイジンヌ風に置き、そのまわりにぐるっとソースを垂らすのだった。
◆野菜のうま味を出すという意味では、ラタトゥイユは、料理人の腕の見せどころではあるが、実際にこういう出し方をして(前菜ならともかく)「メイン」としてもつかどうかはうたがわしい。しかし、映画では、前述したように、ratにかける必要と、いまのアメリカでは(その味がわかるかどうかは別として)ベジタブル志向が強いので、ラタトゥイユを選んだことは、なかなかうまいのである。
◆料理の全体的な感じが、フレンチやイタリアンというよりも、カリフォルニアのフレンチという感じがするのは、偶然ではない。北カリフォルニアのフランス三つ星レストラン「フレンチ・ランドリー」のオーナーシェフ、トマス・ケラーの手さばきを映像に撮り、その動きをアニメのモデリングに使ったという。実際、コレットが野菜を切る手さばきや、「パンは音(そのクリスピーさ)で判断する」と言いながらバゲットの一切れをしごく手付などは、半端ではない。見ていてほれぼれする。
◆料理人に言わせると、子供のときから家でおいしい料理を食べていたからといって、味覚が肥えるというわけではないらしい。凄腕の料理人になるわけでもないらしい。家の食事がまずいので、外で食べた食事がこんなにおいしいのかという驚きが料理への関心をかきたて、料理人になったという人もいる。しかし、それは、もともと味覚が敏感であったからこそ、そう感じたのであって、鈍感であったら、わからないことだと思う。味覚は、クリエイティヴィティの源泉の一つだと思うが、先日、わたしのゼミの子に、「好きな食べものは何?」ときいたら、全員が焼き肉だったのには、がっかりした。焼き肉も色々だと思うが、彼らが言った焼き肉は、どれも味の濃い、繊細な味覚など糞食らえのパワフルな焼き肉のようだった。
◆料理は単に味わうだけではない。この映画はそのことを忘れてはいない。料理は、人をハッピーにするということだ。料理人は、そのために努力する。料理人は、ワイン通と称する人がしばしば見せる味覚の上だけの判断基準を高めるためだけに努力するのではない。盛りつけやサーブの仕方、周囲の雰囲気を含めてのトータル・コーディネイトが料理人に求められる。だから、学生くんも、たまには無理しても、「グレイト」な料理を出すレストランに行くべきだ。それは、美術館などへ行くよりもはるかに得るものが大きいだろう。
(ブエナビスタ試写室/ブエナビスタインターナショナル・ジャパン)



2007-07-10

●オーシャンズ 13 (サーティーン)(Ocean's Thirteen/2007/Steven Soderbergh)(スティーヴン・ソダーバーグ)

Ocean's Thirteens
◆「オーシャンズ」シリーズというのは、スティーヴン・ソダーバーグの「パーティ」だと思うが、今回は、パーティとしての盛り上がりが欠けている。前作『オーシャンズ12』をわたしは、「ハリウッドのセレブ俳優たちの(海外)旅行付プライベートパーティ」と形容した。それは、『オーシャンズ11』の方がよいこと前提にしながら、かつそのスタイルに可能性を見たための表現だったが、今回は、「パーティ」としても安手(「海外旅行」もないし)であり、「参加者」の態度もおざなりだ。
◆たとえばシャオボー・クィンだが、今回、どこで彼の特技が活かされているだろうか? 一応狭い穴をくぐり、エレベータ・ピットのなかに入り、高速エレベータがいくつもつっ走るピットのなかを移動するしぐさを見せはする。まあ、今回、中国の不動産業界の大物に化けるシーンでは、わたしは笑った(試写会場はシーンとしていた)が、これは、彼の本領ではないだろう。
◆むろん、『オーシャンズ12』から、このシリーズは、役者の「本領を発揮させる」なぞというノリでは作っていない。毎度同じだが、3年に1回開かれるパーティやお祭りに行くつもりで見れば、それなりに面白い。が、それにしては、今回はかなりダレている。122分の必要はない。
◆ルーブン・ティシュコフ(エリオット・グールド)をコケにしたラスベガスのホテル/カジノのオーナー、ウィリー・バンク(アル・パチーノ)をやっつける話だが、パチーノを起用しながら、その「復讐」を説得力のあるものにするだけの悪辣さが見えない。パチーノは、学芸会的な「悪(わる)」え演じるにとどまっている。バンクの片腕の凄腕マネージャー、アビゲイル・スポンダー(abigailには「腰元・侍女」に意味があり、sponderは、spender[浪費家]を思い起こさせる)を演じるのはエレン・バーキンだが、マット・デイモンが演じるライナスに媚薬で翻弄されるシーンでは、バーキンとしてはあまりに無残な役を演じさせられている。
◆とにかく、「復讐」劇を見終わっても、すかっとしないのだ。仕掛けとしては、詐欺ものの名作『スティング』の規模をはるかに上回る(なにせパリ=ロンドン間の地下鉄工事で使ったという設定の円形掘削装置まで使って地震まで起こしてしまうのだから)が、大山鳴動してネズミ一匹である。
◆ソダーバーグも衰えたと思うのは、ちらりと出て来る社会性だ。ケイシー・アフレック演じるバージルは、バンクのカジノで使われるダイスに仕掛けをするためにメキシコの工場にもぐり込む。が、そこでストライキが起きる。バージルは、低賃金の劣悪な環境で働くメキシコの工場労働者とつきあううちにメキシコ革命の英雄エミリアノ・サパタに心酔し、デモの積極的に関わって火炎瓶を投げたりする。ちらりと出て来るこのくだりには、メキシコ南部チアパス州で1994年のNAFTA(北米自由貿易協定)が発足した日に蜂起し、(この時点でだ!)インターネットをたくみに使って政府に反抗しつづけたサパティスタ民族解放軍EZLN(のちのサパティスタ民族解放戦線FZLN)(そういえば、あのころ、わたしが開始したanarchyサイトの"My Favorite Sites"には、EZLNへのリンクがある)とデモとの関係が暗黙に示唆されているようなフシもないではない(まあ、無理か)。が、それならば、なおさら、ストライキでダイスの製造がストップしてしまったのに困ったダニー(ジョージ・クルーニー)らが、労働者の給料を丸ごと払ってもたったの3万ドルかぁとばかりに金をメキシコに送り、ストを解決してしまい、しかもそうすることをダニーが決心するきっかけになるのが、テレビで見るメキシコ人たちの「貧しさ」だというのは、メキシコ人を馬鹿にしているのではないか? むろん、この映画はそんな今テキストで作られているわけではないが、こういう差別的なディテールを作ってしまうところに、ソダーバーグの「転向」を感じる。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2007-07-03

●エディット・ピアフ 愛の讚歌 (La Môme/2007/Olivier Dahan)(オリヴィエ・ダアン)

La Môme
◆いろいろなことを思い出させる映画だ。映画自体が、エディット・ピアフの幼い日々と彼女の晩年とのあいだを行き来する。それにうながされたかのように、わたしの意識は、わたしがシャンソンに入れ込んでいた日々といまとのいあいだをゆれうごく。
◆かつてシャンソンは、トレンディな音楽だった。そもそも、第二次世界大戦後の新思想となった実存主義は、パリでは、ジュリエット・グレコとともに広まった。日本では、グレコのことは大分あとになって伝わってくるのだが、1950年代のフランス映画はシャンソンを使っていたし、ラジオではシャンソンの番組があり、シャンソン研究家・コレクターの芦原英了が活躍していた。石井好子や芦野宏がテレビに姿をあらわし、越路吹雪がもう少しポピュラーな味を加えたシャンソンを披露していた。イヴェット・ジローがたびたび来日し、お茶の水の「ジロー」は、たしか彼女の名から取ったのではなかろうか。イヴ・モンタンも来たし、「パパと踊ろうよ」でヒットしたアンドレ・クラボーも来た。そして「大器」の雰囲気をただよわせる岸洋子がデヴューしてきた。銀座にはシャンソン喫茶「銀パリ」があり、まだラジオやテレビでは無名の丸山明宏(現・美輪明宏)が歌いはじめていた。知的世界は、フランス指向が強く、カミューやサルトルはむろんのこと、映画もフランス映画がトレンディだった。わたしも、大学で語学はドイツ語を取っていたが、アテネフランセまで行ってフランス語をかじり、そのノリで、フランスから新技術を学んで来たという床屋(吉田四郎さんの「シロー」)に通った。「あなたの頭はフランス風じゃないんですよ、フランスと同じなんです」と言う吉田さんの言葉を思い出す。とにかく、フランスというと特別だったのだ。
◆それが変わったのは、1964年ぐらいだったろうか。銀パリに「フライデイ・ジャズコーナー」というのが出来、相倉久人の司会で冨樫雅彦、金井英人(この人の演奏は凄かった)、日野晧正、山下洋輔などがジャズの実験をはじめた。このコーナーが夕方の6時ごろに終わると、シャンソンの夜の部が始まり、そこにたまたま丸山明宏が登場したこともあった。わたしの関心は、すでにシャンソンからジャズ、ニュージャズへ移っていたが、それは、映画もそうだった。フランス映画は、ヌーベルバーグになり、音楽は、ジャズがメインになった。ルイ・マルの『死刑台のエレベータ』ではマイルス・ディビスが起用され、ゴダールの音楽を一手に引き受けたミッシェル・ルグランは、明らかにジャズの影響を受けていた。世界の焦点は、ベトナム戦争にのめり込むアメリカ、ヒッピー・ムーブメントとカウンター・カルチャー、ニューレフト運動のアメリカに移っていった。まさに、実存主義/シャンソンは、終わり、ニューレフト/ニュージャズが始まるのであった。
◆日本でシャンソンが全盛だったとき、東芝音楽工業を中心にシャンソンのレコードがたくさん出たが、そういうLPのなかでエディット・ピアフを聴くと、最初は「古い」という感じがした。「愛の讚歌」も「バラ色の人生」も有名だったが、彼女自身の歌よりも、その後の歌手が歌う新録音のバージョンを聴く機会が多かったからだ。早い話、ピアフのオリジナル録音を聴く以前に、多くの人は、越路吹雪の日本語の「愛の讚歌」を聴いていた。いま出ているCDではわからないが、当時出ていたLP(ビニール盤)では、古いSPの録音から起こした盤特有の厚みのない音がし、針のスクラッチ音から逃れることはできなかった。しかし、エディット・ピアフのシャンソンは、比較的新しい録音のジローやリーヌ・ルノーやコラ・ヴォケールなどの艶(つや)のある(あくまで録音のレベルで)音を圧倒してしまうのだった。これは、ほぼ同時代のシャンソン歌手であるリュッシェヌ・ドリールにも見出せる。ちなみに、彼女も、不遇な幼少時代を送り、やがて街のミュージックホールでデヴュー。そして数々の絶唱を残して、ピアフの死の前年の1962年に白血病で42歳の生涯を終えた。
◆ピアフがいまの歌手とちがう理由は、この映画を見ればわかる。映画のなかで、足芸のサーカス芸人だった彼女の父親(ジャン=ポール・ルーヴ)が、食いつめて大道芸人になり、路上で足芸を披露して金をせがむが、全く受けず、追いつめられた彼は、かたわらの幼い娘エディット(ポリーヌ・ビュルレ)に歌わせる。ポリーヌ・ビュルレ自身が歌っているのかどうかはわからないが、このシーンで彼女が歌う声がなかなかすごい。声量があるのだ。歌の才能は、路上で歌を歌って小銭をかせいでいた母親(クロチルド・クロー)から引き継いだものかもしれないが、歌い方は全くちがっている。以後、エディットは、路上で歌い、金を稼ぎ、マリオン・コティヤールが演じる娘時代のエディットに生長して行く。
◆映画で聴くことができるエディット・ピアフの代表的な歌は、ほとんどピアフ自身の声の録音をデジタル技術で調整し、ダビングしているのだと思うが、会話のシーンでも、コティヤールは、ピアフ自身の声質を実にうまく模倣している。エディットは、幼いころ、父親が働くサーカスの野営のなかで暮らす。晩年のエディットが、その化粧の仕方も風貌も、サーカスのピエロのような感じになっていくのは、このことを意識した演出だろうか? マリオン・コティヤールは、たしかに、エディット・ピアフ自身よりも目が大きいので、そういう感じになりやすいかもしれない。しかし、天才に特有のたえざる迷いと孤独のなかで、交通事故、モルヒネ依存、衰弱といった悪循環をくり返すなかで、追いつめられた自分に「ピエロ」を見たとしても不思議ではない。コティヤールは、47歳にして老婆のようになってしまうピアフの晩年を熱演している。
◆一応実話をあつかっているはずのこの映画で一つだけすっぽりと抜けてしまっているエピソードがある。それは、イヴ・モンタンとの関係だ。彼は、ピアフがいなければシャンソン歌手にはなれなかったかもしれないほど、ピアフの薫陶とバックアップのなかでシャンソン歌手になり、「枯れ葉」のヒットをとばすのだが、彼とピアフとの仲は、すでに有名である。ただし、この映画でそれを入れてしまうと、この映画の山場であるボクシング・チャンピオン、マルセル・セルダン(ジャン=ピエール・マルタンス)との恋のエピソードが弱くなってしまっただろう。ドラマのすわりとしては、割愛せざるをえまい。
◆アメリカに滞在していて、マルセルに会いたくなったピアフが、飛行機で呼び寄せるが、その飛行機が墜落した知らせを聞くシーンが映画的に印象深い。マルセルが来たこと(幻想であれ、亡霊であれ)を見せておいて、次に墜落の知らせを彼女が知る。ショックのあまり彼女がよろめくように家のなかを歩いていくと、その先がステージになる。ワン・カットで撮っていたかどうかはわからないが、ひと続きに見せるこのシーンは、すばらしい。
◆エディット・ピアフは、第一次世界大戦後の不況にあえぐパリの貧民街で生まれ、兵役で父親がいない家で、生活に窮した母親は娘を放置し、兵役から帰った父親は、仕方なく、娼館の女主事に彼女を預け、そこで幼年時代を送った。しかし、やがて、勝手な父親によって、それまで面倒を見てくれた娼婦のティティーヌ(エマニュエル・セニエ)から強引に引き離される。これは、エディットの人生にくりかえしくりかえしつきまとう別離の端緒だった。ピアフは、ナチのパリ陥落、第二次大戦、そしてアルジェリア戦争を経験しているが、彼女の「愛」への執着と別離への強迫観念は、そうした時代的係数と深い関係がある。
◆ピアフの歌は、それが単に男と女の愛を歌っているだけにみえても、極めて政治的であり、またその語の本来の意味で「ミクロポリティクス」的なのだ。イヴ・モンタンとの出会いも、彼が共産党員であったことと無関係ではない。この映画が、イヴ・モンタンのエピソードを括弧に入れてマルセル・セルダンを前面に出したことは、それだけ、ピアフから引き出せるはずの政治性を括弧に入れたということでもある。ピアフにおける政治性は、イデオロギーや党派のものではなく、まさに「分子的」なミクロポリティクスであるが、このへんへの意識が希薄なので、ピアフの生涯は、彼女の特異な才能と性格の物語におさまってしまう。まあ、多くの観客を想定する映画にそこまで期待するのは無理で、それは、ピアフのシャンソンを聴き込むときに残される楽しみでもある。
(シネマート銀座試写室/ムービーアイ)


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