粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-10-24_2

●ボーン・アルティメイタム (The Bourne Ultimatum/2007/Paul Greengrass)(ポール・グリーングラス)

The Bourne Ultimatum
◆『ボーン・アイデンティティ』のエンタテインメント性が、『ボーン・スプレマシー』で、意外と、911以後の政治的気分を微妙に取り込んでいることがはっきりしたが、本編は、まさにブッシュ政権が、イラク戦争の泥沼に落ち込んでいくのと全く同じロジックを、はっきりと批判的にえがいている。
◆CIAの内部に「悪」(わる)がいて、そいつがとんでもないことをするという話ではない。CIA対テロ極秘調査局長のノア・ヴォーゼン(デイヴィド・ストラザーン)は、ある意味では、組織のロジックに忠実なだけである。アメリカの組織は、誰が大統領であるか、また、誰がトップであるかによって、そのロジックを明確に変える。ブッシュがイラクに対して、そして次の候補としてイランをねらっているような時勢では、CIAに「対テロ極秘局」なるものが出来ても不思議ではないし、出来たとしたら、ブッシュに忠実なトップや官僚は、民間人を情け容赦なく犠牲にしても、目的を遂行するだろう。
◆そういうマシーンのような官僚的人物を演じる役者に、あの『グッドナイト&グッドラック』で反官僚主義的な人物を演じていたデイヴィド・ストラザーンを持って来たところがいい。彼の対照的な演技の切れ味を見ることができるというだけでなく、一見すると悪くはないように見える、組織のなかの人間の悪がより鮮烈に見えてくるという効果が出るからである。
◆死闘、追いかけ、カーチェイスと、ふんだんのサービスで目が疲れるが、無名の人物でもそのパーソナリティが浮き彫りになるような描き方が魅力。
◆ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)がねらわれる秘密をかぎつける『ガーディアン』紙の記者サイモン・ロスを演じるパディ・コシダインは、わたしには、『イン・アメリカ』でついていない男を演じていたイメージが刷り込まれていたので、このロスがあっさり殺されてしまったので、何か気の毒な感じがした。いつも殴られてばかにいる役の俳優を「気の毒」と思うのと同じ。
◆この映画、CIAやNSAを偽名に変えずに使い、新聞もロンドンの場面では『ガーディアン』(日本の映画やテレビなら、さしずめ『毎朝新聞』だろう)をそのまま使う。これは、フィクションとして呈示しながら、実は存在していても不思議ではないという印象をあたえ、へたな「実話」と銘打ったストーリーよりも、批判的機能が高まる。ニューヨークやパリにCIA支局をあげてジェイソン・ボーンの抹殺に奔走するわけだから、これは、CIAをまっこうから批判していることになる。
◆映画では、ニューヨークのCIA支局は、105East 40th Streetのビルのなかにあることになっている。街中にカメラを配置し、その信号がそこで取れるようになっており、ボーンはその監視カメラに追われる。ボーンを「洗脳」した「ブラックブライアー・プロジェクト」の「本部」は、415 East 71st Streetにある。ただし、マーク・ウェルボーンの猛烈面白い記事「The Truth About Real Estate in The Bourune Ultimatum」によると、415 East 71st Streetは、ファースト・アヴェニュー沿いのアパートメント・ビルディングであって、映画で使われた建物は、60 Lafayette Street (ラフィエット・ストリート)の「ファミリー・コート」ビルだという。これは、チャイナタウンの近くで、映画の住所とは南北が逆の場所にある。
◆かつて『マックス・ヘッドルーム』で、街のあらゆる場所の監視カメラをハックし、追跡映像をキャッチするというシーンが、新鮮に描かれたが、そのときは、あくまでも「未来」的なドラマのなかの話だった。が、いまでは、監視カメラがいたるところになり、そして、それらがネットワークにつながっていたりもするわけだから、その信号をハックしたり、連結したりすることは、理論的には難しくない。広場や駅の構内では、実際に行なわれていることでもある。
◆ストラザーンもジョン・アレンもジュリア・スタイルズも、こんなに「深刻」な顔をどうやって演技づくりしたのかと思わせるほど力がはいっている。だから、最後のシーンで、テレビのニュースを聞いて、スタイルズが、それまでの「真顔」をちょっと崩すところが何ともいい感じだ。
(東宝東和試写室/東宝東和)



2007-10-24_1

●牡牛座 レーニンの肖像 (Taurus/Telets/2001/Aleksandr Sokurov)(アレクサンドル・ソクーロフ)

Taurus
◆2001年発表の「古典」的作品だが、わたしはまだ見ていなかったので、見た。「大作」ではないが、ロシアの官僚制の雰囲気を鋭くとらえている。
◆言わずもがな、『モレク神』(Molokh/1999)、『太陽』との三部作の一つ。プレス所収のインタヴューのなかで、ソクーロフ監督は、こう言っている――「この3部作は、20世紀を描いた映像です。これは、人間の苦悩、迷いの百科事典、数百万人の人生を破滅に追い込んだ権力の値段(代価?)です。主たる責任は指導者にはなく、"人民"の中にあることを私は確信します」。
◆しかし、三部作が描くように、その「指導者」たちの晩年は、指導者としては「なさけない」状態に陥る。こんな人間を「国民」は「指導者」とあおいできたのか、と思わせる描き方が三部作の基本だ。が、問題は、「人民」も「国民」も、そのことを知らされていなかった。知るすべがなかった。世間から隠蔽する力が働いたからであり、そういう操作をした人間たちや機関があったからである。
◆ブレヒトは、戯曲『ガリレイの生涯』のなかで、弟子のアンドレアの「英雄を持たない国は不幸です」というせりふに対して、「いや、英雄を必要とする国は不幸だよ」というガリレイのせりふを対置している。ソクーロフがインタヴューのなかで言っている「指導者」は、「英雄」と同義である。その意味では、レーニン、ヒトラー、ヒロヒトを「英雄」に持ちあげた責任の多くは、彼の言う「人民」にもある。
◆では、「人民」とは誰か? 個々人を一般化した抽象概念が「大衆」、「人民」、「国民」だ。その各論的表現として、「視聴者」や「読者」といった抽象概念がある。これらの語は、それが一般的抽象概念であるかぎりで、みな同じ「顔」をしており、個々人はすべて「他人ごと」(ひとごと)として責任回避できる。これは、組織やマスシステムのディレンマだ。統合をやめれば、つまり組織化(その最大の抽象概念として「国家」がある――いや、「地球」というもっと大きな抽象概念もあるか)をしなければ、「国民」も「大衆」も「視聴者」も存在しない。が、そこまですべてを個別化してしまう覚悟は誰にもないし、いま存在する組織を解体してやりなおすこともできない。
◆映画の冒頭は、重苦しい音楽と青緑がかった霧が立ち込めたような映像ですべてを予感させる。このトーンは最後まで続く。ロシア革命の「指導者」、「世界初の社会主義国家」ソ連建国の「父」ウラジミール・イリイチ・ウリヤーノフこと「レーニン」(レオナード・モズゴヴォイ)は、脳梗塞の何度目かの発作を起こし、別荘で療養している。妻クループスカヤ(マリーヤ・クズネツォーヴァ)と妹(ナターリヤ・ニクレンコ)がいっしょに住んでいるが、病人をもてあましている。ドイツ語が母語らしい主治医は役目上の仕事をするといった雰囲気。警護の兵士は、警護するというよりも、レーニンを監視し、新聞を読もうとすると取り上げる。ほぼ軟禁状態のレーニン。その日常が90分にわたって描かれる。ここには、『暗殺・リトビネンコ事件』でも感じられた、ロシアの組織全般に霧のようにたちこめている独特の官僚制の特質が感じられる。
◆認知症的な記憶喪失にくりかえし襲われているらしいレーニンは、「正気」にかえったとき、自分のまわりにある「贅沢」な環境に疑問をいだき、「人民が飢えているのに、こんな贅沢をしている」ことは許されないと思い、テーブルの上の食器をステッキでなぎ倒す。そのステッキは、少しまえ、スターリン(セルゲイ・ラジューク)が言い訳をしながら届けてきたもの。「本当は、中央委員会の公式的なプレゼントにしたかったのだが反対する者(トロツキー)がいて」とレーニンに、トロツキーへの反発を誘導する暗示的言い訳をする狡猾さを忘れない。
◆映画のなかのレーニンは、くりかえし、ポール・ラフォルグの名を挙げる。マルクスの娘ローラと結婚したフランス人の医学生であったラフォルグは、マルクスの思想から、「怠惰」の積極姓を引き出した。マルクスの周辺の人でフェミニズム的意識を持つ数少ない人間でもあった。レーニンは、妻のクループスカヤとともに、1910年にラフォルグ家を訪ねている。このとき、レーニンは、「マルクスの娘」を見て、「父親の面影を探した」と書いているらしい。このラフォルグ夫妻は、この翌年に心中する。ラフォルグが残した手紙には、以前から「70歳になる前に死のうと決めていた」という。このへんの話は、フランソワーズ・ジルー『イェニー・マルクス 「悪魔」を愛した女』(幸田礼雅訳、新評論)で読んだ。
◆ロシアの官僚組織のいやな側面をわたしは経験したことがある。それは、10年ほどまえのことだが、モスクワのアレクセイ・イサーエフとオルガ・シシュコらが、「ダダ・ネット」の主催で「トラッシュ・アート」の集まりを計画し、わたしを招待した。招待状が来て、ロシア大使館からビザ発給の書類のFAXが入るから、それを持って、大使館に行ってくれというメールが来た。しばらくしてFAXが入ったが、なぜか、1ページの半分しか、文字が印字されていない。そこで、大使館に電話すると、たらいまわしにされた末、担当者が出て、もう一度送ると約束した。が、2度目のものも同じように半分しか印字されていない。再度電話したが、その返事は、こちらのFAXが壊れているのだという強硬な態度。で、業を煮やしたわたしは、狸穴の大使館にそのFAXを持っておもむいた。が、誰もいない窓口でしばらく待たされたのちにあらわれた大柄の女性は、その紙を一目見るなり、「不完全な書類」だから受け取れないと言った。それは、そうである。そこで、事情を説明すると、しばらく奥に引き下がり、しばらくして出てきて、「あなたのFAXが壊れているから、直してから連絡しなさい」と言う。すったもんだしているとき、日本の旅行業者らしい人間がパスポートの束を持ってやってきて、窓口に出す場面が何度かあったが、彼らはすんなりと(係官も笑顔で)手続きを済ませている。詳細を省略し結果を書くと、要するに、業者を通せば簡単にビザが発給されるが、直接の申請(原則的に無料)は、その過程で色々な「陰謀的」障害(?)が生じ、結局、個人は、わけのわからない組織の壁のまえに立たされて、にっちもさっちも行かなくなってしまうのだ。結局、わたしは頭に来て、招待をキャンセルし、慌てたオルガがモスクワから電話して来て、「大使館にも連絡したから、問題ない」とのことだったが、いやな予感がしてとうとう行かなかった。
(松竹試写室/パンドラ)



2007-10-23

●北辰斜めにさすところ (Hokushin nanameni sasutokoro/2007/Kouyama Seijirou)(神山征二郎)

Hokushin nanameni sasutokoro
◆力作ではあるし、スポーツサークルにコミットしたことのある者は、「良き時代」はかくありという感をいだくかもしれない。が、わたしのように、集団行動を嫌い、群れることを避けて生きてきた者には、全くの別世界に思える。それどころか、この映画で「美しきもの」として描かれているメイトシップ(映画ではこういう言葉は使っていないが、オーストラリアではかつて男同士の友情をmateshipと呼び、賛美した)こそが、子供時代からある一定の年齢まで(つまり俺は俺でやるからと居直ることができるようになる年齢まで)わたしにうざったさを覚えさせ、ときには脅しをさえ感じさせる元凶だったような気がする。
◆あくまでも映画であるから、こういう世界があったのだと受け取ればそれでいいのだが、プレスの解説にあるような、この映画の例を一般化して旧制高校という教育制度を礼賛するような姿勢に接すると、おいおいちょっと待てよと言いたくなる。どんなことでも過ぎ去ったことは美しい。が、実は、この映画が描いているような「旧制高校的」な集団性(かつてわたしは、それを「banzai-collectivity 万歳集団性」と名づけた)が日本を戦争へ動員したのではなかったか?
◆この映画が描く九州の旧制第七高等学校の野球部のメンバーたちが見せるメイトシップは、たがいに信じ合い、助け合い、いささか干渉しすぎでも「うるわしい」関係であるかもしれない。しかし、この結束、一丸となって行動を起こすことをよしとするエートスと情念とは、日本の軍隊とシームレスにつながっているものだと思う。かつて高度経済成長期の会社が、運動部出身の者を好んで採用し、実際に彼らが「猛烈社員」として社運を広げた一面があったように、旧制高校的なメイトシップは、体制にも役立つのである。
◆一言で言えば、この映画が称揚する「集団性」はもう古いのだ。プレスの「解説」は、書く「旧制高校には、豊かな自由があった。純真な理念と、偽善や虚飾を排する誇り高き精神があった・それは、『学歴』という功利性でしか教育を計ろうとしない現代社会において、もっとも見つめ直すべき必要があるものではないだろうか」、と。じょうだんではない。もし「旧制高校」的制度のなかに「自由」があったとしたら、それは、にもかかわらずあったのであって、それ自体は、きわめて権威主義的なものだった。それは、いまでも、運動部やサークルや古い体質の組織に残っていて、害をなしているものだ。
◆誤解を避けるために言っておくと、わたしは、いまの教育制度がいいと言っているわけではない。こういう古い集団性をノスタルジックに持ち出せば、いまの仲間意識はずたずたで、そこには「信頼」も「友情」もないかのように見えるだろう。が、一見ばらばらの個(理論的には、自律した自由な個になりえる個)を不自由さのなかに閉じ込めているのが、「万歳集団性」にしがみつく老人やその(若いくせに)同調する族(やから)たちが作り、施行する制度や規則なのだ。
◆この映画のおおまかな構造(必ずしもよくある回想形式で作られてはいないので)は、かつて九州熊本の旧制第七高等学校の野球部でエースをつとめた上田勝弥(三國連太郎)が、その高校時代から学徒動員で仲間を失う戦争の時代を回想するという形式をとっている。上田には、いまでは、息子(林隆三)夫婦と孫(林征生)がいる。三國は、かなりの部分、『釣り馬鹿』シリーズの鈴木社長・会長とあまり変わらない演技(他の仲間を演じるのは、北村和夫、神山繁、滝田祐介、坂上二郎、織本順吉など、鎗々たる出演者)をしているが、さすがは三國、戦地で死んだ級友を思うときに言葉をつまらせるような演技では他の追従を許さない。
◆映画のオープニングは、七高のリーダー役的な草野正吾(緒方直人)が、松明を大きな輪を作って取り囲んむ生徒たちの中心に立ち、大太鼓を叩き、昂じては太鼓の上に乗って扇動し、みんなが雄叫びをあげながら踊るシーンである。一体、このどこが「美しい」のか? わたしには、何とも、日本の悪しき集団性の小モデルを目の当たりにした気しかしなかった。
◆草野がいい例だが、彼は、いつも木刀のようなものを持ち歩いている。剣のつもりなのだろうか? 「俺らは武士だ」というつもりなのだろうか? これも気に入らない。ふと見ると、生徒の全員が棒を持っているので、何じゃこりゃと思ったら、それは、みんなで山登りをしているときのシーンなのだった。
◆黒澤明の『まあだだよ』(1993年)は、旧制高校ではなくて、大学のメイトシップではあるが、旧制高校から続いたメイトシップを描いている。こちらは、東京の学生たちのせいか、この映画のなかでくりかえし出てくる「蛮カラ」臭は薄い。しかし、男でかたまる点では同じであり、それが歴史的にも「傾向的事実」(個々に見れば色々だが、傾向としてそうだということ)だったからだが、黒澤も、そういう集団性をなつかしんでいるように見える。ただし、ここでは、そうした集団性が、師をうやまうという方向でとらえられている点がちがう。
◆『北辰斜めのさすところ』の場合、緒方が演じる人物が突出するが、といって、彼が仲間を統括しているわけでもない。いじめや「可愛がり」をするわけでもない。ある意味では、自然発生的に仲間同士が信じ合っているようなところはある。そういうものは、たしかにいま希薄になった。しかし、それは、そういう「つましい」信頼が場を移したということであって、ファイス・トゥ・ファイスのフィジカルな関係のなかでは作られにくくなったということだ。逆にいえば、いまそういうものは、リモートな、「トランスローカル」な関係のなかでは可能だし、むしろ、そいういう場のなかでこそそういうエートスや情念が重要になっているということでもあるかもしれない。その点で、上田勝弥の孫(林征生)が、進学する大学を熊本大学(旧七高)にするというくだりは、あまり新味がない。熊本にだって、もうそんなものは存在しえないのだから。
◆大詰めの「七高野球部 創立百周年記念試合」のために、スペインのアンダルシアからに里帰りするかつての仲間(滝田裕介)がいるが、そういう人物がスペインでどういう生き方をしているかである。かつてのメイトシップをどういかしたかだ。そういえば、先日ウィーンからの帰りの飛行機のなかでいっしょになった30代のスペイン人は、アンダルシアの出身で、小児科の医者だとのことだったが、彼は、浅草に東京滞在のホテルを取った理由として、(ネットで調べた勘で)浅草が一番東京でアンダルシアと気風が似ているような直感をいだいたからだという。本当かね?
(シネカノン試写室/東京テアトル)



2007-10-17_2

●その名にちなんで (The Namesake/2006/Mira Nair)(ミラ・ナイール)

The Namesake
◆一人の若者アショケ・ガングリー(イルファン・カーン)が、外国に行くことをすすめる老人と列車のなかで出会うが、その直後、列車は転覆。からくも助かった彼が、ニューヨークに行き、工学を学び、職を得て、故郷のコルカタに見合いのために帰ってくる。それだけでも1本の映画ができるほどのドラマを手際よく見せ、結婚相手のアシマ(タブー)とのニューヨークでの生活シーンに移る。以後、彼と彼女が二人の子供を得、そして長男ゴーゴリ(カル・ペン)と妹のソニア(ノール・ラヒリ・ヴールヴリア)が生長する。親にとっては異文化、子にとっては生まれつきの文化のなかでの微妙な親子関係の描写が胸を打つ。そして、子供たちの巣立ちと夫の突然の死のなかでアシマが選ぶ「余生」。まるで大河ドラマがあつかうような長い時間と、普通なら一人にしぼるはずの登場人物を描きながら、全く破綻を見せない。
◆時間のあつかい方が、実にユニークだ。加速したかと思うと、ゆったりとした時間のなかに登場人物を置く。視点も複数だが、アンサンブルプレイやグランドホテル方式とはちがう。アショケ→アシマ→ゴーゴリに移って行くように見えながら、単純に視点が移動していくのとはちがう。全体を展望するのではなく、登場する人物たちを共通に結んでいる流動的な場にカメラを置いているかのようなフレキシブルな視点。ここでは、「視点」という概念自体が意味をなさない。
◆観客は、だから、アショカの父親としての立場に身を置いて見ることもできるし、見合い結婚ののち、初めての土地ニューヨークで生活をはじめ、子供の生長に立ちあう女・母親としてのアシマの観点からも、故郷や同郷のベンガル系コミュニティとの関係をうざったく思っている「アメリカン・ボーイ」のゴーゴリの観点からも、この映画を見ることができる。もしあなたが、その誰かと似たような経験の持ち主であれば、少なからず身につまされるだろう。
◆視点は複数でシームレスなのだが、一番のウエイトはアシマに置かれている。見合い結婚をして、インドからいきなり(必ずしも自分の意思ではなく)ニューヨークで生活をはじめる彼女は、心細い。その感じがさりげないショットにあらわれている。ちなみに、経費の関係で、ニューヨークの室内シーンの多くはインドで撮られたという。出産で夢中の毎日がすぎたのち、子供たちが育っていくと、親は、突然、自分の子供が「異星人」であるかのようなショックを受ける毎日になる。まず、言語がちがう。ライフスタイルも、アメリカンだ。次第に、家庭のなかで対立が生まれる。
◆親たちは、故郷との関係をわずかに保つ同郷コミュニティの人々との関係を深めるが、子供たちは、それを避けようとする。この映画で、家にあがるとき、靴を脱ぐ習慣がある親たちと、すでに巣立ちしてしまったが、親の家を訪ねるときはそれに合わせる子供たちの微妙なズレがえがかれ、息子のゴーゴリに恋人ができ、親に会わせるという段になって、そのズレがあらわになる。むろん、インド系の男を恋人に選んだアメリカ女のマクシーン(ジャシンダ・バレット)は、インドの習慣に合わせようとするが、どこかで無理が出てくる。このへんの描写も説得力がある。
◆マクシーンとの破局ののち、ゴーゴリは、母親のはからいもあって、かつて親のすすめに従って一度だけ見合いをしたことがある幼なじみのモウシュミ(ズレイカ・ロビンソン)と再会する。そして、長いパリ生活ですっかりイメージの変わった彼女にすぐさま惹かれ、結婚する。しかし、同郷の男と結婚した彼女は、逆に、「西欧的」なものへの「郷愁」を深め、パリ時代の恋人とよりをもどしてしまう。
◆夫の急死のあと、アシマは、故郷に帰り、もともとやっていた伝統楽器の演奏に専念するというところでこの映画は終わるが、「もとにもどる」という生き方を選んだアシマにだけ、監督のナーイルは、力点を置いているわけではない。まして、それがベストだなどと言おうとしているわけでもない。それぞれの生き方がこの映画では描かれている。
◆アシマのような、成人までの期間をインドで過ごした人間は、故郷を忘れることはできないかもしれない。が、そういう親にとっての「新世界」で生まれた第2世代にとっては、むしろ、「故郷喪失」(ホームレスネス)こそが、いちばん自然なことかもしれない。ナーイルがこの点を強調しているわけではないが、少なくとも、原作者のジュンパ・ライヒはそう考えているようだ。
◆アショケが自分の息子に「ゴーゴリ」という名をつけたのは、彼がゴーゴリの『外套』を愛読していたからであり、それを列車のなかで読んでいるときに事故に巻き込まれ、おびただしい死者のあいだで倒れていたとき、手に握りしめていたその本のページが目印になって、救出されたからだった。しかし、ゴーゴリというインドともアメリカとも無関係な名前のために、息子は学校でからわわれたりする。が、この名前は、ゴーゴリ自身がロシアとの関係でそうであったように、「故郷」を喪失した名前なのだ。アショケは、表面上、故郷との関係を維持しはしたが、自分自身としては、「故郷喪失」の道を選び、そして、暗黙に、自分の息子に、「故郷喪失」こそこれからの時代を生きるよりどころなのだということを示した。
◆さて、こういう風に考えてくると、果たして、ミーラ・ナーイルは、ジュン・ラヒリの「故郷喪失」性を原作に見合った強度で映画化しているかどうかが、若干疑わしくもなってくる。というのは、終盤でアショカとアシマの子供たちは、故郷と自分たちとの関係の深さを実感したかのような表情をするからだ。このあたりは、この映画をもう一度見、さらにジュン・ラヒリの原作を読んでからでないと、明言はできない。あなたの意見が聞きたい。
(20世紀フォックス試写室/20世紀フォックス)



2007-10-17_1

●夜顔 (Belle toujours/2006/Manoel de Oliveira)(マノエル・ド・オリヴェイラ)

Belle toujours
◆ルイス・ブニュエルの『昼顔』 (Belle de jour/1967) のこれほどまでの「補注」を意図した作品とは予想しなかった。面白い。その意味で邦題の『夜顔』はなかなかいい。が、原題にはもっと含蓄がある。「昼顔」という言い方は、「主婦売春」にはまったセブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が、昼間しか「出勤」できないので、同僚の女が皮肉っぽく、「夜の女」 (belle-de-nuit) と植物の「昼顔」 (belle-de-jour) にひっかけてそう名づけたのだった。今年98歳になる「現役映画監督として世界最高年齢」というマノエル・ド・オリヴェイラは、このもじりをさらにもじり、夜 (nuit) →昼 (jour) →全日 (toujours)にしている。「全日勤務の娼婦」とは何か? それは、おそらく「想像」のなかにしかいない。
◆監督の年齢もさることながら、1967年のブニュエルの『昼顔』で中年男を演じていたミッシェル・ピコリ(1925年生まれ)を引き出し、「38年後」のアンリ・ユッソンを演じさせている。さすがのオリヴィエラも、カトリーヌ・ドヌーヴは引き出せなかったらしく、彼女が演じたセブリーヌ役には、ビュル・オジェを起用し、ドヌーヴと似ていなくもない風貌に仕立て上げている。
◆もし、あなたが『昼顔』を見ていないとすると、この映画は、全編が70分ということもあり、これかが何かが起こるのかという期待をいだかせたまま終わってしまうかもしれない。が、『昼顔』を見ている者には、この終わり方はなかなか意味深なのだ。
◆「続編」は、当然、「本編」への一つの解釈を前提とせざるをえない。ブニュエルの「本編」は、どこまでがセブリーヌの幻想で、どこまでが「現実」なのかがわからないようなシームレスな仕上げがほどこされている。基本には、『悲しみのトリスターナ』 (Tristana/1970) と同様に、ブニュエルが一貫して批判・揶揄してきた「ブルジョワ」の有閑階級の婦人が、退屈な日常のなかで夢みる幻想と見ることのできる仕掛けがあった。これは、最初と最後のシーンに出てくる馬車の鈴の音で暗示されていた。だから、セブリーヌが、夫の友人のユッソン(ミッシェル・ピコリ)にそそのかされて昼間だけの高級娼婦になるというシーンは、必ずしも「現実」ではない。だが、この『夜顔』では、それが「現実」で、ユッソンのためにセブリーヌが、必ずしも本意ではなかったことをしてしまったというような解釈を前提している。(ここでは一応そう言っておくが、そう簡単ではないことは後段で書く)。
◆そういう道に誘った男と38年後に再会するわけだが、コンサート会場でセブリーヌを見つけて、追って来るのはユッソンの方だった。彼女は逃げるが、別の日に、ばったり骨董店のまえで会ってしまう。映画の大詰めは、その二人が黙々と食事をするシーンであり、そのあとには表面上、何も起こらない。
◆ユッソンが、彼女を見失って入ったバーで、シングル・モルトのウィスキーをストレートで注文するが、ダブルで3杯も4杯も飲むので、よく飲むなと思ったら、アル中になっているという設定なのだった。バーテンとのやりとりも面白い。彼に彼女が宿泊しているホテルを聞き出し、ホテルで部屋番号をフロントで聞き出すさりげないやりとりもうまく描かれている。
◆個室のあるレストランに彼女を招いたユッソンが用意したのは、まずシャンパン。少しのんだところで前菜が運ばれて来るが、ワインをつごうとするウエイターをセブリーヌはおさえ、「このままシャンペンをいただくわ」と言う。食事は、老齢の2人らしく軽めで、その次にメインが運ばれ、そのあとはデザートとなる。2人のナイフとフォークの使い方が、それぞれにちがっていて面白い。
◆38年まえに愛し会った者同士が再会して、食事をするというのとは、いささか違った前提がある二人。彼と彼女との会話は、一言一言「本編」への参照をうながす。
◆この映画が、先述のような「現実」を前提としているとしても、全体としては相対化されている。レストランでの食事のあと、セブリーヌが機嫌をそこねて立ち去ったドアにいきなり鶏が現われる。つまり、この映画自体が、ユッソンの「幻想」であったかもしれないことが示唆されているのである。その「幻想」をつむぐ場所は、音楽会場でもいいし、バーで酒を飲み、近くの席にいた二人の娼婦とおしゃべりしているときでもいい。
◆ブニュエルにおいて「幻想」は、ブルジョワジーの特権であり、それによって民衆支配をうながす元凶でもあった。では、オリヴィエラは、この点に関しては、どうブニュエルを継承しているのだろうか? それは、セブリーヌが、夫の死後のいまでもリッチで、ブルジョア生活を享受しているらしいこと、他方のユッソンは、生活には困ってはいないが、孤独な「アルコール依存症」の老人であること、のなかで示唆されているかもしれない。しかし、その意味では、彼は、老いた人間のみが享受できる空想を楽しんだとも言える。
◆ブルジョワも自由ではなく、とりわけ女性はその「牢獄」のなかで「空想」によって仮の自由を得る。それが、『昼顔』のテーマでもあった。しかし、その「空想」は、最後まで空想にとどまり、ブルジョワジーの「幻想」のなかに取り込まれていく。ユッソンの空想も、行き場がないことにおいては同じように見える。
(メディアボックス試写室/アルシネテラン)



2007-10-16_2

●ALWAYS 続・三丁目の夕日 (ALWAYS Zoku Sanchome no yuuhi/2007/Yamazaki Takashi)(山崎貴)

ALWAYS   Zoku Sanchome no yuuhi
◆前作『ALWAYS 三丁目の夕日』は、その時代を知らない者に「なつかしい」と思わせることによってヒットした。その続編である本作は、そういうノスタルジー効果をさらに充実させることに成功している。だから、ここでは、前のように、映画が描いているかのように思わせる「時代」との誤差や差異についての指摘はしない。が、いずれにしても、この作品の時代的「ヴァーチャル度」はなかなかのものであり、今後かなりの回数の続編を作ることも可能な「型」を作り上げることに成功している。
◆前作では、複数の登場人物に視点を投げかけたが、今回は、吉岡秀隆が演じる茶川竜之介を中心に据える。彼が芥川賞に再挑戦することがドラマの核となり、それとの関連で、彼のところに居候(いそうろう)する少年・古行淳之介(須賀健太)と、竜之介を愛するが、それゆねに場末のストリッパーに身を隠している石崎ヒロミ(小雪)は、当然、ドラマのかなめとなる。竜之介を慕(した)う淳之介を事業家の実父・川渕康成(小日向文世)が引き離そうとするファクターも、効果的に使われている。
◆映画が描く時代が、「なつかしさ」をかもし出す大部分の要因は、その時代のマスメディアが意識的・無意識的に作りだしてきた「時代の気分」や時代の雰囲気と関係がある。それらは、基本的に、パターンの発明という方法によってなされる。たとえば、「60年代」というと街頭で学生と機動隊がもみあっている映像や写真を出し、「70年代」というと、自動車会社の工場で次々に車が組み立てられ、コンテナーに積み上げられて輸出されていくシーンを出す・・・といったパターンである。われわれは、それぞれの時代を生きており、同じパターンを共有しているとはかぎらないのだが、ニュースは、日々、そういう統合的なやりかたでドラマを作る。「時代」というほど大きな枠ではなくても、「最近」という枠組みが作られる。幼児殺害とか、相撲界のスキャンダルが「最近」の風潮だということになってしまう。そういうドラマ志向・物語志向のマスメディアが見失うのは、個々人の微妙な部分を知らぬ間に変えつつあるテクノロジーの浸透とか、言語感覚の変化とかだ。が、「当たる」映画は、そういうことはあまり描かないし、そういう部分を照射しても、なかなか「当たる映画」は出来ない。せいぜい、大分時代がたってから、当時は目立たなかった作品が、そういう部分を照射していたことがわかるという程度である。
◆しかし、典型ばかりを描いているこの映画にも、確実にこの時代(昭和34年が中心)にはあったが、いまはないものが描かれてはいる。それは、まずヒロミ(小雪)が見せる(いまの感覚ではわけのわからない)遠慮的な感覚である。何で好きなら好きと言っていっしょになってしまわないんだ、と思わせる「君の名は」的感覚。これは、たしかにあり、いまは消えつつある。ただし、日本人とアメリカ人といったような大ざっぱの枠組みで見ると、日本人はアメリカ人よりは依然としてそういう感覚を持っているとは言える。
◆「遠慮が美徳」という時代はあった。思っていることをストレートに言うものではないという認識が一般的である時代はあった。しかし、そういう時代のなかでも、遠慮をしない人はいたし、歴史はそういう「例外」と「例外」とのぶつかりあいのなかで進んだ。自分もそういう「例外」を実践しているにもかかわらず、あたかもNHKや朝日新聞がえがく「時代」の子だと思っていただけなのだ。
◆前作にあって本作にないものは、時代の「貧しさ」の空気である。映画として完成度が高くなっただけ、それが消えた。給食費を払えない子供、親が倒産して、鈴木家に預けられる子供、典型的な「貧しさ」はあちこにに散りばめられ、それを示唆する小道具を念入りに用意しているが、この作品からは、時代の「貧しさ」そのものは伝わって来ない。食べるものがなく、人から奪うしかない状況が生む「貧しさ」は、ドラマや小道具としては呈示されるが、それは、所詮絵空事である。
◆鈴木オート(主人を演じる堤真一は、今回は、完全に原作のマンガのキャラに同化することに徹している)に集団就職で勤めた星野六子(堀北真希)と一緒に状況し、洋食屋に勤めた浅利陽介(中山武雄)は、今回初めて登場する人物だが、洋食屋の修業に耐えられなくなって、詐欺師的人物・松下中信(浅野和之)と「泣き蝿」に身を落とす。「泣き蝿」というのは、駅の通路などでしょんぼりと座り込んでいる男と、それに話しかけるさくらとによって構成される半詐欺的な商法である。わたしは、子供のころ、渋谷駅や原宿駅でよく目にした。
◆「泣き売い」(なきばい)で男が本当に泣いていることは少なく、大抵は、しょんぼりとうずくまっているのだが、そこへ別の年配の男が近づき、「どうしたんだ?」と声をかける。すると、しょんぼりしている男が、「実は昨晩、勤めていた工場が焼けて、裸一貫になってしまいました」というようなことを言う(あるいは、近づいた男が、代弁して大声で言う)。そして、話かけた方の男が、「気の毒だねぇ、兄さん、で、なんか売るものでもないのかね」と訊く。すると、男は、もじもじと焼けこげた万年筆を出す。すぐに別の男が、「え! これはパーカーじゃないか! 焼けてないのもあるな」というようなことを言い、焼けこげた万年筆といっしょになっった新品の万年筆を周囲の「客」に買わせるのである。
◆しかし、「工場が焼けた」と言っているのに、その製品が「パーカー」であったり、途中から集まった「客」も、落ち込んでいる男の身の上を最初から何となく知っているということからもわかるように、「泣き蝿」は詐欺というより大道芸であり、ストリート・パフォーマンスなのである。だから、この映画のように、ひそかに愛している六子が、武雄の「泣き売い」の現場を目撃して、あたかも彼が犯罪的な行為に走っているかのようなショックを受けるというようなことは、その時代の現実にはそぐわないのである。「泣き売い」は、合法的であるだけでなく、通行人を楽しませるショウであり、時代の貧しさからして、もっともっと悪質な商売があったのである。
◆そういうわけで、多くの人が「貧しかった」、「金がなかった」という雰囲気はほとんど伝わってこなかったが、小雪が演じる女の「悲しさ」は、ある程度「昭和30年代」とリンクしあうものを持っているように思える。いまも、別の意味で「悲しい」女はいっぱいいるわけだが、当時の女の「悲しさ」は、自分を殺すことによるせつなさであり、ヒロミがそれをよくあらわしている。だが、この映画のクライマックスで彼女が見せるアクションは、少なくとも時代の雰囲気としては、あまりに今的ないしはハリウッド映画的である。むろん、いまの時代の観客を相手にしているのだからそれしかないし、そのことが、時代は遠くなりにけりということをあらわしているのであるわけだが。
◆ふと気づいたが、この映画の時代になっている「昭和34」(1959年)というのは大変な年で、日米安保条約改定阻止の運動が起きはじめ、テレビではその問題をめぐる討論番組が放映(ライブ)されていた。そういう動きを相殺するためであるかのように、その一方で「ミッチィ・ブーム」が起こされ、この年の4月には「皇太子明仁」(現天皇)と正田美智子との結婚パレードが世をにぎわした。この映画には、こうした側面は、ほとんど全く描かれてはいない。「三丁目」は、東京タワーのそばだが、ある種の「真空地帯」なのだ。
(東宝第1試写室/東宝)



2007-10-16_1

●ハーフェズ ペルシャの詩 (Hafez/2007/Abolfazl Jalili)(アボルファズル・ジャリリ)

Hafez
グラーツとウィーンに行っていたので、今日から今月の試写に復帰である。試写状に「ゲーテにも影響を与えた伝説の詩人ハーフェズの詩に彩られた、美しくもせつない恋物語」と書いてあったので、大いに興味をそそられた。8月ごろから試写ははじまっていたが、見るのが今日になってしまった。見終わった印象は、いかにもジャリリの作品で、実にスタイリッシュ、寡黙に見えて、過剰に語っている。見ながら直に「感動」する作品ではないが、あとに尾を引く。麻生久美子が、宗教師モフティの娘で、母方がチベット人でペルシャ語も不自由という設定で出演しているが、日本の映画で彼女を見慣れている者からすると、奇妙な感じ。が、イランの観客にとっては、異国情緒があってよいのかもしれない。
◆思い出したが、「2007年」の製作となっているこの作品の撮影は2005年に終わっているはずだ。ジャリリは、2005年の「東京フィルメックス」に来日し、招待作品の『フル・オア・エンプティ』上映の舞台あいさつのなかで、この作品の撮影が終わったと述べていた。予算が足りないということも言っていたから、完成が今年になったのもうなずける。
◆「ハーフェズ Hafez」は、日本では、アラビア表記のHafisにしたがって「ハーフィス」ないしは「ハーフィズ」と表記されてきたが、「ハーフェズ」の方がペルシャ語の慣用に近いという。
◆「ハーフェズ」という語自体は、「コーランの暗記者・朗唱者」という意味で、この映画では、メヒディ・モラディが「ハーフェズ」という役名で登場する。実際に映画のなかで彼は、コーランの暗記者・朗唱者の「免許皆伝」となる。
◆「ハーフェズ」という名は、日本でも、14世紀のペルシャの詩人の名前としてよく知られている。ここでは、この詩人を指す場合、慣例に従って「ハーフィズ」を使おうと思うが、そのハーフィズの本名はシャムス・ウッディーン・ムハマドで、「ハーフィズ」は、ペンネームであった。だから、映画に登場する「ハーフェズ」も、本名が別にあると考えてよいだろう。
◆この映画を見る際、実在の詩人のハーフィズのことを知っていると、その面白さが倍加する。というより、それを知らないと、この映画のせっかくの含意がわからないかもしれない。明らかに、監督のジャリリは、ハーフィスが生きた 14世紀のイランと現代のイラン(およびアラブ・イスラム世界)とを重ね合わせており、裏技的なやり方で現代の状況を批判しもしているからである。
◆ハーフィズの詩は、黒柳恒男の訳(『ハーフィズ詩集』、平凡社、東洋文庫)で読むことができるが、その上面だけを読むと、彼は、酒と女を愛した14世紀のチャールズ・ブコウスキーといった印象をあたえるかもしらない。そのうえ、ハーフィズに触発され、「ハーフィズの巻」という章まで設けているゲーテの『西東詩集』(さいとうししゅう)を読んだりすると、ますますその印象を深くする。しかし、黒柳のすぐれた解説でも詳細に触れられているように、ハーフィズは、そんなレベルの詩人ではなかった。
◆イランのような混交性の激しい国に対して「もともと」という言い方はリアリティがないが、「もともと」は、アーリア系の民族から成っていた。そこでも数々の王朝が興亡し、多くの都市国家が現われては消えた。が、7世紀になってアラブ・イスラム軍が侵入し、イランにアラブ・イスラムの要素が混入しはじめる。その支配が2世紀間続いたのち、アーリア・ペルシャ系がもりかえすが、そののち、トルコの遊牧民の侵略・支配を受けるなど、「混乱」がつづくが、16世紀までは、、アーリア・ペルシャ系の王朝がイランのアイデンティティを保ったという。
◆詩人のハーフィズは、そういう動乱のなかで一生を送ったのであり、彼が賛美した「女」や「酒」は、アラブ・イスラム勢力の支配によって導入された極度の禁欲主義が戒律への反抗のシンボルであり、極めて政治的なコンセプトであった。イスラム支配下のイランでは、酒場は、マイノリティの拝火教徒(ゾロアスター教徒)が営んでいたという。ちなみに、ゲーテが『西東詩集』(1819年刊)を書いた時代も、フランス革命からヨーロッパの長い動乱の時代であり、ハーフィズの置かれた状況ほどではないとしても、メッテルニッヒに象徴されるような統合主義が次第に伸張していく時代だった。
◆ゲーテは、『西東詩集』の「ハーフィズの巻」のなかで、こう歌っているが、これは、情念的共鳴であると同時に、政治的・状況的共鳴でもあった。
ハフィスよ あなたと ただあなたとだけ
わたしは競い合おう わたしたち双生児(ふたご)には
楽しみも苦しみも 共通のものなのだ
あなたのように愛し そして飲むことこそ
わたしの誇り わたしの生にほかならぬ
(井上正蔵訳)

◆黒柳恒男によると、「サーフィズは酒を飲まなかった」という説があるというが、もしそうであれば、彼の詩で賛美される「酒」は一層毒を帯びる。以下の詩で彼が「断食の月は過ぎた」というのは、アラブ・イスラム支配を指しているのだろうか? ハーフィズ自身、イスラムへの冒涜と解され、10年間不遇な時代を送ったという。さらに、ファーフィズが生まれるまえ生きていたしかし、この映画のハーフェズほど厳しい状況には立たされなかったのは、まだアラブ・イスラム主義が一枚岩になってはいなかったからである。
酌人(サーキー)や、酒を持ち来たれ、断食の月は過ぎた
酒杯をくれ、名声を守るときは去った
貴重な時が過ぎ去った、さあつぐなおう
酒壷と祝杯なしで過ぎた人生を
(黒柳恒男訳)

◆この映画のサーフェズは、酒を飲まない。女を溺愛したりするシーンもない。そのために、彼が、コーランにちょっと自分の解釈を加えたというので軍警察に捕まってしまったり、「ハーフェズ」の免許皆伝になってから宗教師モフティに頼まれて、彼の娘ナバート(麻生久美子)にコーランの読み方を教えるとき、その素振りがおかしかったという嫌疑をかけられ、笞打ちの刑にかけられたりすることの不当さがかえって浮き彫りになる。
◆明らかに、この映画は、内部にイスラム原理主義や「テロ組織」との関係疑惑をかかえ、核兵器開発をターゲットにしてアメリカから武力攻撃を受けかねないいまのイランの状況を暗に問題にしている。その意味でも、詩人ハーフィズについて考えれば考えるほど、この映画の含意が深くなってくる。
◆「ハーフィズがその詩において執拗に神秘主義者[スーフィー]を嘲笑し、彼らの偽善や欺瞞を非難、攻撃しているのは、十四世紀後半におけるシーラーズ[ハーフィズの故郷]の腐敗、堕落した神秘主義者、隠者、説教師たちの実体を認識したためであり、さらに彼の詩は、彼らの実状を知らずに教えを受けている民衆への警告でもあった」(黒柳恒男、前掲書)。
(メディアボックス試写室/ビターズ・エンド)


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