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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★ ロボゲイシャ (『片腕マシンガール』の「過剰」さは後退)。   ★★★★ 私の中のあなた (白血病の娘を演じるアビゲイル・ブレスリン、完全イメージチェンジのキャメロン・ディアスに目を見張る)。   ★★★ 引き出しの中のラブレター (何らかの距離なしには人を愛せない「リモート・ラブ」の時代をスケッチした作品。ラジオの描き方は少し古い )   ★★ カイジ (人生はゲーム競争だという映画。が、格差社会批判的な面を強調しただけ、映画のゲーム性が弱くなった )。   ★★★ さまよう刃 (役者も演出もしっかりしているが、ひっかかるのは、犯罪と懲罰へのさらなる固定観念)。   ★★★ ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ (太宰治が自己演出した「太宰治」を短時間で知りたい人には便利。が、太宰のしたたかさや狡猾さはわからないだろう )。   ★★ パンドラの匣 (太宰治の原作とは無関係だと思えば、それなりの面白さがあるが、ちゃんと時代設定をしているからそれは無理。かくしてわたしは評価しない)。   ★★★★ アニエスの浜辺 (アニエス・ヴァルダが好きなら、必見)。   ★★★ あなたは私の婿になる (ハリウッド的ロマンティックコメディの定番だが、ジャンクだと知りながら、たまにはマックを食わないと落ち着かないといった気分のアメリカ映画ファンは楽しめるだろう)。   ★★★★ パイレーツ・ロック (権力の規制を逆手に取るということ自体が過去のものとはいえ、その爽快感は消して失われないし、失ってはならない)。   ★★★ きみがぼくを見つけた日 (「ひとりの個人は、すでにさまざまな異質的構成要素からなる"集合体"にほかならない」というガタリの言葉を思い出させると言うと、ホメ過ぎか)。   ★★ サイドウェイズ (日本の俳優が海外でそれなりの場をあたえられると、けっこういい仕事をする例としては面白い)。   ★★ わたし出すわ (小雪が出るからといって、タイトルで誤解しないこと。けっこうつまらない)。   ★★★★ 母なる証明 (ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』的な親子関係が、韓国映画で鋭く描かれるのは暗示的である)。  


ゼロの焦点   Dr.パルナサスの鏡   理想の彼氏   インフォーマント!   (500)日のサマー   かいじゅうたちのいるところ   2012  


2009-10-30
●2012 (2012/2009/Roland Emmerich)(ローランド・エメリッヒ)  
2012/2009/Roland Emmerich ◆今日、新宿ミラノ1 でこの映画の、世界でもかなり早い時期の試写があったのだが、わたしは行かなかった。いや、行けなかった。昨日の仕事が朝まで続いて、起きるのが困難だったのである。まあ、無理すれば間に合ったのだが、若干の抑制要因が働いた。それは、すでにいくつかのトレイラー・ビデオを見てしまったことにもよる。2012年12月21日、地球を巨大な津波が襲い、世界が全滅してしまうというわけだが、映画のメインは、トレイラーで見ることの出来る津波や地すべりや落石や隕石などなどの波状攻撃と、それを逃げ切るらしいジョン・キューザックの一家の話であることがわかる。その映像を大きなスクリーンで見ればそれなりのスリルはあるであろうが、所詮はサスペンスにすぎないという思いがしたのだ。映画では、こうした危機に瀕したとき、キューザックたちがどう生き延びたかも面白いのかもしれない。しかし、地球の破滅があり、必ず一握りの人間が生き延びるというパターンには、新鮮味がない。
◆だから、食料を確保しておけとか、遺書を書いておけとかいう話にもなるかもしれないが、せかされるのは好みではない。東京の場合、関東大震災以来、まだ大地震は来ていない。理論値では、もうとっくに来てもおかしくないというのだから、いずれは来るのだろう。そのときは、あなたもわたしも、生き延びられるという確証はない。まあ、核シェルターのようなものを用意するのも一案かもしれないが、わたしなどはいつも街をほっつき歩いているから、一瞬にしてビルの下敷きになる公算が高い。
◆わたしは、普通の状態のなかでの人間の行動に興味がある。非常事態のときの人間の行動は、多くの場合、パターンがあるし、それが特殊だとしても、それは「普通人」には真似ができないから、何の参考にもならない。だから、むしろ、こういう危機的な状況がえがかれるのなら、誰も生き延びることができないという「悲劇」の方が面白い。が、この映画はそうではなさそうだ。
◆終末の日が来るという発想は、非常にユダヤ・キリスト教的なもので、この映画のプロットになっている「マヤ暦」でも、決して2012年に世界が終わるとは言っていないらしい。始まりと終わり――しかもそれが循環ではなく、「無」から「存在」へ、「存在」から「無」へという終わり――という観念は、ユダヤ・キリスト教的な「創造」と「破壊」の観念にもとづいている。「神」の「創造」などというものはなく、自然は「つねにすでにある」という発想からすれば、消滅するのは人間だけとも言えない。いまの人間は別の有機体に変わるだろうし、そのとき「意識」の方も変わるから、「人間」が消滅したとも「消滅」しないとも言えないのだ。いまますます、人間は、自然にとっては卑小なものにすぎないという考え方が流行っているが、そういう言い方自体が、人間中心主義である。
◆この映画には、近年流行の温暖化危機や自然破壊の観念が取り入れられていることは言うまでもない。エミリッヒは、終末論的なカタクリズム(cataclysm)が好きだが、時代の流行に合わせて微調整をする。『インデペンデンス・デイ』では、地球の外部から宇宙人によって地球への攻撃が仕掛けられたが、戦争が「冷戦から内戦へ」(エンツェンスベルガー)と移行する時代になり、「内部の敵」という発想が流行るようになると、「敵」が内部から生まれる『GODZILLA』や『デイ・アフター・トゥモロー』を作るわけである。
◆見ないで映画評を書くのは、マレだが、見る機会があれば(今後、試写はあまりやらず、11月21日に公開されるようだ)、続きを書こう。
◆【追記 2009-11-12】社内試写をみせてもらった。全米公開に先立つので、観客席を監視カメラで記録するという注意があらかじめあった。わたしの予感では、2012年は、自然破壊よりも監視技術のエスカレートの方が深刻なのではないかという気がする。
◆見せ場を公開前にあれだけ露出していたのは、やはり、あの見せ場が宣伝ほどのものではないからだった。期待が大きすぎたせいか、あるいは映写設備のせいか、地面がめくれあがり、津波が襲う「見せ場」はワンパターンで驚きに乏しかった。メインのテーマは、破壊や破滅よりも、家族であり、階級差の存在であり、国家の情報操作だった。
◆2012年に地球が破滅するという情報は、世界の一部の者(ソル・ユーリックは International Ruling Class「国際的支配階級」と呼んだ)は、一般にはその情報を隠したまま、地球脱出の「箱舟」の建造と、それに乗船できる者の選別を密かに進める。これは、「歴史の陰謀理論」で有名なパターンであるが、ある部分ではそうなのだろう。たとえば、NASAやペンタゴンは、すでに「宇宙人」を捕獲し、その予知能力を利用して、経済や政治を動かしている云々。そうすると、歴史の動きは一般人が知らないだけであって、「国際的支配階級」はわかっていて、先手の行動に出る。しかし、一般人は、それに手をこまねいているだけではなく、すっぱぬきやハッキング行為を行って、歴史の陰謀に対抗する。「国際的支配階級」がどの程度のものであれ、陰謀理論が存在するかぎり、「反体制」的行為も存在する。しかし、両方はセットなのであって、どちらかが「正義」であるわけではない。



2009-10-29_1
●(500)日のサマー ((500) Days of Summer/2009/Marc Webb)(マーク・ウェブ)  
(500) Days of Summer/2009/Marc Webb ◆500日全部ではないが、日ごとのシーンをばらばらにして、トム(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)とサマー(ズーイ・デシャネル)との「ボーイ・ミーツ・ガール」ストーリーをお洒落に描く。ミュージック・ビデオ出身の監督マーク・ウェブの長編第1作。テンポ、映画やスノッブ的「教養」からの引用も気がきいている。画面分割もかなり使うが、一体何のために使うのかわからないようなことが多いこの技法を使いながら、全く嫌味がないのも、この監督のセンスのよさ。挿入される音楽、なにげなく見えるポスター、ジャケット、絵なども、みな、細かく計算されていて、飽きない。
◆初めに、これは、「ボーイ・ミーツ・ガール」のストーリーだが、「ラブストーリー」ではないというナレーション(リチャード・マッゴーネイグルの渋みの効いた声)が入る。このへんのこだわりが面白い。通常、「ボーイ・ミーツ・ガール」ストーリーは、ラブストーリーである。しかし、男と女が出会ったからといって「愛」が生まれるとはかぎらない。なるほど、グリーティングカードの会社でトムは、所長(クラーク・グレッグ)の新しいアシスタントとして入社したサマーに一目惚れする。しかし、彼女は、「愛」を信じない。というより、トムには「愛」を感じなかっただけかもしれない。映画は、そんなサマーが、そうはいいながら本気になったり、またもとにもどったりする「ボーイ・ミーツ・ガール」のプロセスをシーケンシャルではなく、いわばスクラッチ的に切り貼りして見せる。「ラブ」ではなく、「ミーツ」を見せるわけだ。
◆カラオケバーで、サマーが、仲間のマッケンジー(ジェフリー・エアンド)に「次は誰?」ときかれて、「若きウェルテルを指名するわ」と言いながらトムを指差すシーン(「(28)」日目)がある。「若きウェルテル」とは、言うまでもなく、既婚の女性に恋しながらピストル自殺してしまう、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公の名前である。その線で行くと、トムは、恋一筋の男という設定で、サマーはそれをからかっていることになる。が、映画を見るかぎり、トムはそれほど一途にサマーを愛しているようには見えない。ただ、ちらっと出てきただけの「若きウェルテル」を拡大解釈すると、意外に、この映画の断片的なスタイルは、ゲーテの原作に似ていなくもないのである。その原作自体、一般には、「純愛」ものと受け取られているが、ちゃんと本文を読んだことがある者ならすぐわかるように、そう単純ではない。わたしは、かつて、この小説は、「探偵小説」として読んだ方が面白いと書いたことがあるが、厳密に読むと、主人公が「本当に」ピストル自殺したかどうかはわからないのであり、自殺すると手紙で相手の女性を脅しているだけともとれるのだ。
◆コーヒーショップのシーン(「(290)」日目)で、サマーが、「わたしたちはこれまで何ヶ月もシドとナンシーみたいだったのよ」と言う。これに対して、トムは、「シドは、ナンシーをキッチンナイフで7回も刺したんだぜ」と言う。が、「ぼくはシドじゃないよ」と言うトムをさえぎって、サマーが言う、「いえ、あたしがシドなのよ」。最後は、あなたはあたしに殺られるのよと言うわけだが、ここでも、シドとナンシーとの関係は、これまで考えられてきた定説(つまり、1978年10月にニューヨークのチェルシーホテルでシド・ヴィシャスが恋人のナンシー・スパンゲンを殺した)をもとにしている。ただし、この事件も、アラン・G・パーカーの『フー・キルド・ナンシー』(Who Killed Nancy/2009/Alan G. Parker)によると、シドがドラッグで眠っているあいだに第3者がかたわらに寝ていたナンシーを殺害し、金銭を奪って行ったという説も成り立つのだという。そうだとすれば、シドはナンシーを殺してはいないのだ。しかし、いずれにしても、「シドとナンシーみたい」というのは、行き場のない(トムとサマーは、シドとナンシーとはちがってドラッグ漬けではないが)関係にあるという意味である。
◆このエピソードは、トムがサマーのことで荒れていて、友人たちが心配しているアパートへちびの女の子がバイクでかけつけるという冒頭のシーンで、伝聞体で描かれるのだが、いい大人のトムの助っ人としてかけつけるこのおませなレイチェルという女の子(実は彼女は、トムの妹という設定)の存在が面白いし、それを演じるクロエ・モレッツが実にうまい。一瞬、シュールな感じがして、一体この子は何なのだろうという思いにかられるが、いずれにしても、トムという男は、この8歳ぐらいの妹に説得されるほど「未熟」なのだなということがわかる。してみれば、この映画は、「サマーの500日」ではあるが、トムにとっては、500日かけて、男と女の出会い(ミーツ)なんて、「運命」や「奇跡」などではなく、単なる「偶然」なのだ(ナレーションがそう語る)ということを悟る「ビルドゥングスロマン」なのである。だから、「(500)日目」の最後のシーンでは、トムは、ロビーでたまたま出会った女性(ミンカ・ケリー)を一人の「大人」としてお茶の誘うことができるようになるのである。「大人」の「ラブストーリー」の始まりの定型である。つまり、この映画の冒頭のナレーションで「この映画は、ボーイ・ミーツ・ガールのストーリであるが、ラブストーリーではない」と言われた意味がはっきりする。それは、プレ「ラブストーリー」なのだと。
◆家族に関するマーク・ウェブの考えがさりげなく示されているシーン(「(1)」)がある。会社で同僚が自分の考えたグリーティング・カードのプランをプレゼンしている。そこにつけられた写真は、「家族」写真ではあるが、レズのカップルのあいだに子供の姿がある。彼は、「核家族の時代は終わった」と言いながらこのカード案を提示するのだが、父母と子供から成る核家族が終わり、「単親家族」(ワン・ペアレント・ファミリー)の時代になった。それは、いまでも続いており、家族を描くアメリカ映画の大半は「単親家族」を前提にしている。が、トレンドとしては、いま、ゲイの家族で子供を持つことが新しい。子供は、養子の場合もあれば、人工授精の場合もある。そういう同性愛者の家族を合法化している国も増えつつあるが、これは、国家と家族との関係の変化、ひいては、資本が血縁の回路ではなく、情報の回路を通じて引き継がれるという「情報資本主義」の深化と関係がある。
◆【2009-12-16/追記】雑誌『ぴあ』の連載のために書いたが、削除したのでその部分を載せておく――かつて”I love you”は、一度言ってしまったらそう簡単には撤回できない言葉だった。が、いま、”I love it”を連発する奴がいる。これは、「大好き」ぐらいの意味だが、”love ”は、この程度の重さしかなくなった。『(500)日のサマー』は、”love”を信じない女性と、まだ執着している普通の男とのすれちがいドラマだ。
(20世紀フォックス試写室)



2009-10-22
●インフォーマント! (The Informant!/2009/Steven Soderbergh)(スティーヴン・ソダーバーグ)  
The Informant!/2009/Steven Soderbergh ◆宣伝では「ある企業内部告発者を描く本当にあった物語」とあるが、この映画は「双極性障害」(Bipolar Disorder) を持つ人物をストレートに描いた最初の映画作品である。英語のレビューには、このことをちゃんと書いているものが多いが、14ページもあるプレスには、「企業犯罪」という視点からの記述や解説ばかりで、「双極性障害」のことは書かれていない。試写会場でも、ずっと笑い一つ起こらなかったが、終わり近くになって、主人公のマーク・ウィテカー(マット・デイモン)のいささか「病気」的なふるまいに「変だな」と思った人が出てきららしく、場内からわずかに笑いがもれるようになった。が、彼を笑った観客の何人が「双極性障害」のことを知っていたかどうかはわからないし、笑ってはいられないと思った人はまれなのではなかろうか? 
◆とはいえ、それは無理もない。字幕には、「双極性障害」という訳がちゃんと出るが、これは「躁鬱病」(Manic Depression)と同じものと考えられてきたし、いまもそう考えている人が多いからである。が、「Bipolar Disorder」(以下「BPD」と記す)は、「躁」と「鬱」を循環的に繰り返す(と考えられている)「躁鬱病」とは違うし、アメリカでは、「Bipolar Disorder」という言葉(bipolar=2極・両極の→両極端の+disorder=混乱・不調・障害)の意味自体を越えた症状をこの語で呼ぶようにさえなっている。まだ原因(遺伝性であるらしい)はわからず、明確な療法もさだかではないという。
◆あんまり知ったかぶりをしてクレームをつけられてもナンなので、Amazonで検索してみたら、「双極性障害」というタイトルを冠した日本語の本はかなりの数出ていた。早速買って来て読んだ加藤忠史『双極性障害――躁うつ病への対処と治療』(ちくま新書)には、「アメリカでは、人口の四・七パーセントが双極性障害である、というようなデータすら報告されている」が、日本では、逆に「過小診断」されているという。そのため、日本では、「双極性障害と思える人でも、区別されずにうつ病と言われている場合がある」という。実際、そういう区別を押えているこの本自体が、副題で「躁うつ病への対処と治療」と表記せざるをえなかったように、まだ「双極性障害」は一般になじみがないのである。
◆さすがニューヨークは、事情がちがうようで、州の精神衛生局は、「双極性障害」の「躁」の兆候を以下のように示し、このうちの3つ以上の症状がときには毎日続くと記している。詳細→http://www.omh.state.ny.us/omhweb/booklets/Bipolar.htm および下段の【追記/2009-11-25】参照
  • 精力・活力・落ち着きなさの亢進。  
  • 極度に「ハイ」な、過度に気持ちのいい、幸福感。  
  • 極度の短気さ。  
  • 飛び飛びになるペースの速い思考や早口。  
  • うまく集中できない散漫さ。  
  • あまり眠らなこと。  
  • 自分の能力や力への非現実的な信仰。  
  • 判断能力の弱さ。  
  • うかれて馬鹿騒ぎをする。  
  • 普通とは異なる行動が一定期間続く。  
  • 性欲の亢進。  
  • コカイン、アルコール、睡眠薬などの薬物の乱用。  
  • 挑発的、押しつけがましい、あるいは攻撃的な行動。  
  • 何かが間違っているということを否定する。
◆アメリカの「BPD」関係のブログを読んでいたら、この映画は、その「障害」を持つ人が、見るまえから、その筋書きを読んだだけでピンと来ると書いていた。実際、「BPD」のことを知らなくても、注意して見ていれば、ウィテカーの行動は、最初からどこか変だ。だから、ソダーバーグは、最初から、マット・デイモンの「とぼけた」(と言っては言いすぎか?)ナレーション(ある意味で、カフカの小説の「語り手」を思わせる)を入れ、「普通ではない」ことを暗示している。大企業の有能な幹部(実在のウィテカーは、1989年から1995年まで Archer Daniels Midland =ADM のバイオ生産部門の取締役だった)が会社のグローバルな「価格操作」をFBIに「内部告発」するところが最初の飛躍だが、その帰結はどうでもいい。それが、彼の誇大妄想狂的な、あるいは被害妄想的な「思い込み」であるかどうかもどうでもいい。問題は、そうした彼の行為の飛躍とその飛躍を飛躍としては意識しないあっけらかんとした「無反省」さである。結局、ウィテカーは「脱税」と「詐欺」の罪で逮捕され、10年半の実刑判決(8年以上囚役)を受けるが、おそらく最後まで「罪」の意識は持てなかったのではないかと思う。彼が、「双極性障害」であることがわかればと、彼の妻ジンジャー(メラニー・リンスキー)がいかに忍耐強く彼に対応したかに感動をおぼえるだろう。しかし、この映画では、経過は描かず、(時代が飛び)頭がすっかり禿げ上がって出獄するウィテカーをジンジャーが迎えるところで終わるのである。
◆おそらく、「双極性障害」の難しさは、その「鬱」(本当はこの言葉も不十分なのだろう)の部分よりも、その「躁」(同じく、この言葉も便宜的に使う)の部分の自覚せざる持続ではないか? 当然、「躁」があれば、その逆があるはずだが、「双極性障害」では、その「鬱」の部分は、「躁」の「出発段階」にすぎないように思える。問題は、それ以後の状態なのだ。先の加藤忠史氏の本を読んでも、「双極性障害」の患者が、「鬱」になったときの事例はたくさん出てくるのに対して、「躁」の事例が少ないのは、「躁」になった患者は、「鬱」の場合に比べて、自覚症状がない(というより、意識が舞い上がってしまってそういう自覚が失われる)ことが「双極性障害」の特徴であるからではないか? 実在のウィティカーは、詐欺罪に問われたあと、自宅のガレージを閉ざし、エンジンをかけて一酸化炭素中毒の自殺未遂を起こした。が、死には至らなかった。その意味で映画が、このへんには全く触れず、もっぱらウィテカーの「躁」状態に焦点を当てているのは適切なのだ。
◆「双極性障害」の人は、事実はそうではないのに、「自分に超能力がある」とか、「偉い人物である」とか思い込んだり、何かへの異常な集中、性的な放埓などが起こり、とんでもないことをしでかしたり、借金をしたり、家庭を捨ててしまったりするという。はたから見れば「大嘘つき」に見えるとしても、本人は大真面目であったりもする。だから、自分のやった行為に対して、「まちがったこと」をした、「悪いこと」をしたという意識はないのである。逮捕されたり、攻撃されたり、にっちもさっちも行かない困難に直面したときになってはじめて、そのことに気づく。ウィテカーの自殺未遂も、そういうことの結果だったのだろう。ただし、映画では、ウィテカーは、みじんも「鬱」の状態を見せない。そこがこの映画の面白さであり、怖さでもある。
◆この映画の主人公が「双極性障害」だとすると、監督のソダーバーグがとりあげる登場人物には、どこかしら「双極性障害」の気がある者たちが多いように思えてくる。「双極性障害」は、「誇大妄想狂」とは違うという意味でも、チェ・ゲバラには「双極性障害」の要素があったと言える。『オーシャンズ』シリーズの人物たちは、まるでそういう人間ばかりではないか。また、ソダーバーグが好きなカフカも、「双極性障害」の要素があった。
◆ある意味で、「双極性障害」は、20世紀の代償(ツケ)、後遺症である。20世紀は、「双極性障害」の典型的な症状(たとえば「ハイ」であること、「盛り上がること」)をよしとしたが、いまは、それが終わりつつある。逆に「ハイ」であることが「障害」になってしまうのだ。日本の場合、これはアメリカなどと1周期遅れていて、いまだにテレビのバラエティ番組は、「ハイ」志向が強い。しかし、時代はすでにそれが無理になっており、それを無理に維持しようとするところから覚醒剤問題も起きる。人工的な手を借りて「ハイ」になろうとすれば、無理が出てくる。しかし、そういう時代は終わりつつあるのだ。民主党がいいわけではないが、その雰囲気は、明らかに「ハイ」ではなく、「キマジメ」である。経済状況も、もはや浮かれてはいられない。「ハイ」は価値ではなく、「障害」になった。が、その解決方法ははっきりしない。
◆こう書いてくると、おまえの書き方自体が「双極性障害」的だと言われかねないので、少しバランスを取っておく。この映画から、「双極性障害」のことを除外して見ることもできるのだ。つまり、ウィテカーが狂った意識でそうしたのであれ、どうであれ、彼のような企業の上層部にいる人間が「内部告発」をしたこと、また、一転して、そのような人物が巨額の「脱税」と「詐欺」行為していたことが明らかになったことによってあたえた社会的インパクトを中心に見るという見方である。実際、彼の「内部告発」は、その後(1990年代後半のアメリカで、「確信犯的」な内部告発をしやすくしたし、また、企業側も、ウィティカーがやったような「犯罪」に対する対策を講じることにもなるからである。つまり、企業の体質を変えたという意味では、この人物の意味は大きいのである。とはいえ、それだけでこの映画を見ると、あまり面白くはない。
◆エンディングで「Trust Me」というマーヴィン・ハムリッシュのジャズソングが流れる。Steve Tyrellが歌うこのソングの歌詞がすべてを要約しているが、「信じてください」と言うこと自体を本人が信じているかどうかわからないのだから、困ったものである。
◆ソダーバーグが、音楽をマーヴィン・ハムリッシュにまかせたとき、ハムリッシュがかつて担当したウディ・アレンの『バナナ』(Bananas/1971)が念頭にあったという。そういえば、失恋のあげく南米のとある独裁政権の国に行き、そのつもりが全くないのに、現地の革命軍に拉致されたのをきっかけに、やがてそのトップに祭り上げられてしまう傑作喜劇で、アレン自身が演じるフィールディング・メリッシュは、「双極性障害」の典型的な症状を示していたともいえる。また、この映画でアレンは、1971年という時点で、チリの軍事クーデターを予見しただけでなく、このフィールディングという人物をチェ・ゲバラにも重ねているのである。
◆【追記/2009-11-25】双曲性障害の人が頼りにしている、デイヴィッド・オリヴァーによって創立されたウェブサイト「Bipolar Central」に双曲性障害の「定義」があったので、訳してみた。簡単な「自己診断」に役立つかもしれない。 (ワーナー試写室)



2009-10-14
●Dr.パルナサスの鏡 (The Imaginarium of Doctor Parnassus/2009/Terry Gilliam)(テリー・ギリアム)  
The Imaginarium of Doctor Parnassus/2009 ◆今月はまだあまり試写を見ていない。連休明け初の試写。ちょうどまえの方から一列に誰も座っていない列があったので、後ろの方に座る。が、開映まえにわたしのすぐまえに背の高い女性が飛び込んできた。そして、席に落ち着くやいなや、いきなり両手を頭にもって行き、長い髪を束ねはじめた。ヤな予感。彼女は手馴れた手つきで髪を片手で押さえ、別の手で大きなクリップを出し、髪をとめた。あらぬことか、頭が5センチぐらい持ち上がったのだ。なんでいまさらアップにするんだよぅ!と言いたいところだったが、124分間、スクリーンを切る影をじっと耐えた。
◆監督としてテリー・ギリアムを意識したのは、1985年の『未来世紀ブラジル』からだったが、以後、『バロン』(1988)、『フィッシャー・キング』(1991)、『12モンキーズ』(1996)と見てきて、その後開始したこの「シネマノート」でも、『ラスベガスをやっつけろ』、『ブラザー・グリム』、『ローズ・イン・タイドランド』を取り上げた。『未来世紀ブラジル』の衝撃を新たにすることはなかったが、今回の『Dr.パルナサスの鏡』の前作にあたる『ローズ・イン・タイドランド』はなかなか奥行きのある作品だと思った。だから、この新作には期待したが、しかし、それは、裏切られた。「モンティ・パイソン」もので見せた諧謔精神、『フィッシャー・キング』にはすでによく出ていたスラム志向、底辺の社会への視線、胡散臭いもののリアリティの強度への執着、『ブラザー・グリム』でうまく使われたドリームランド的世界、『ローズ・イン・タイドランド』のファンタジックでかつ悪夢的な要素がすべて発見できることは確かだが、『ローズ・イン・タイドランド』よりは後退しているし、その面白さはなかったのだ。
◆車に舞台装置を積んで街から街へ移動する劇団というか見世物集団があり、その見世物の主要装置となっている「鏡」のカーテンのこちら側と向こう側との話であるが、「こちら」と「あちら」の位相が平板なのである。向こう側は、もっぱらVFXに頼り、ドリームランド的な世界と出来事が展開するが、「こちら」の世界との差異がそれほど強烈ではない。「こちら」側の世界で起こる、粗野な酔っ払い、金持ち婦人の俗っぽさ、父親パルナサス博士(クリストファー・プラマー)と娘ヴァレンティナ(リリー・コール)との確執とすれちがい、最初はヒース・レジャーが演じるトニーという男とヴァレンティナとの恋、彼女に想いをよせる団員のアントン(アンドリュー・ガーフィールド)・・・も、どうということもない。せりふのなかで、パルナサス博士が1000年も生きながらえており、彼を脅しにしばしばあらわれるMr.ニック(トム・ウェイツ)が「悪魔」だと言われ、VFXでその「威力」が映像的に示されても、なんか実感がわかないのはなぜだろう? むろん、「こちら」と「あちら」とがシームレスにつながっていることが前提なのだが、ならば、VFXへの依存が強すぎる。同じ依存が強くても、ターセムの『落下の王国』ぐらいやってくれれば、面白いのだが、意外と平板なVFXなのである。
◆現代では、もう「モンティ・パイソン」的パロディはほとんど効き目がないのだが、ギリアムは、死の川をみな若死にしたルドルフ・ヴァレンチノ、ジェイムズ・ディーン、ダイアナを乗せた3隻の船が行くというシーンや、ダライラマの写真を意味ありげに(批判的に)ちらりと見せたり、ロシアマフィアと彼らの母親コンプレックスをステレオタイプ的に出すなどして「この世」をドタバタ的に茶化す。しかし、それは、茶化したことになっていない。
◆テーマ的には、「慈善」(チャリティ)といった観念への批判と揶揄がある。ギリアムは、現代社会には、一方で金儲けに奔走する世界があり、他方に「チャリティ」の世界があるかに見えるが、その実、「チャリティ」などというものは、金儲けと権力闘争のカモフラージュか、たかだか「罪ほろぼし」にすぎないのだ――と考えているかのようである。「生前」慈善事業家として有名だったトニー(ヒース・レジャー)が、橋に吊るされているのをヴァレンティナらに助けられて息を吹き返すのだが、そのあげくに彼の「慈善事業家」の仮面がはがれてくる。しかし、そんなことはあたりまえではないか。チャリティをシステムが取り込むのは、すでに19世紀からである。そのことは、わたしはとうの昔、『エレファント・マン』に関して書いたことがある。
◆トニー役のヒース・レジャーが、ヴァンクーヴァーでの撮影の寸前に死亡して、この映画の継続が危ぶまれたが、トニーが鏡のなかで変貌するという代案をテリー・ギリアムが思いつき、それをジョニー・デップ、コリン・ファレル、ジュード・ロウの3人の俳優にふりわける――ということは、この映画を見るまえに多くの人が知っている。三人の大物俳優があとを継ぐくらいだからという期待がいやがうえにもかきたてられるが、わたしには、ヒースの演技があまりに平凡なのに驚いた。『ダークナイト』は鬼気迫る特別の演技だとしても、『ブロークバック・マウンテン』や『ブラザー・グリム』の演技にも及ばない。まだ、本格的な段階に至るまえに死んでしまったということなのかもしれないが、それなら、あっさり別の俳優で一本化した方がよかったような気がする。批評者の気楽な立場から、映画作りの苦労を知らないで言っているわけではあるが。
◆プレスでは、パルナサス博士の妻と娘を演じるリリー・コールは、演技がさまになるまで大変だったというが、わたしには、この映画で一番印象に残ったのがリリー・コールなのである。すでにファッション雑誌などでスーパーモデルとしてのキャリアがあるコールは、その少女から中年女までの境目のない容姿(プレスによると「ハート型のドール顔」というのだそう)で知られているのだが、この映画のなかでは、すでに何度も映画に出ている大物女優の風格を見せている。わたしは、まだ彼女が映画出演している『Rage』(2009)も『St. Trinian's 』 (2007)も見ていないのだが、すでに何度も映画で見たかのようなデジャヴューを感じさせる。
(スペースFS汐留)



2009-10-01
●ゼロの焦点 (Zero no shoten/2009/Inudo Isshin)(犬童一心)  
Zero no shoten/2009/Inudo Isshin ◆松本清張生誕100周年記念の大作をめざしていることがわかるが、松本清張のアクチュアルな社会意識とはかなりずれている。ならばただのサスペンスに徹すれば、もっと面白くなったと思われるが、そのへんの踏ん切りがついていない。北陸の寒そうな景色とクラッシック調の音楽、日本でもはやったザ・プラターズの1955年のヒットソング「オンリー・ユー」、それに、主題歌を団塊の世代が依然愛する中島みゆきの「愛だけを残せ」という組み合わせがよくわからない。「オンリー・ユー」が2度出てくるが、最初は、ただ時代背景が1950年代なんだということを示唆するためのサインとして使われているだけだが、最後にいきなり出てくるときには、ヨヨヨという感じ。エンドクレジッツのバックで中島みゆきがやけに「力強く」「愛だけを残せ・・・」と歌いはじめると、もう一度ヨヨヨという感じになる。
◆最初から古いニュース映画のクリップを映し、映画の途中でも時代色を印象づけようとするが、ドラマの雰囲気が(衣装や美術はそれなりに手をかけてはいるが)全然50年代からズレている。そもそも、この映画の核になっている「パンパン」の過去を持った女たちがその過去をなぜかくも消したいと思うのかという痛々しいまでの思い(それが松本清張の力点の一つだった)が、ほとんど伝わってこない。というのも、この映画のなかで、「パンパン」という言葉の意味(在日米軍の兵士を相手にする売春婦――ちなみに、この映画では出てこなかったが、そういう出会いを通じて「独占契約」的な関係を持つ特権的な売春婦を「オンリーさん」と言った)を解説的に説明するシーンがあるが、問題は、いまこの言葉がほとんど死語になっているというだけでなく、体を売るという行為がこの時代の重みを持っていないからでもある。1956年、「売春禁止法」が施行され、経済企画庁が「もはや戦後でない」と唱えたりもしたが、この時代の日本には、まだ戦争の傷跡が残っていた。世の中は貧しく、暗かった。そういう雰囲気は、この映画からはあまり感じられない。
◆基本的な難しさは、「売春」意識が変わってしまったということだけではなく、松本清張の原作にある米軍への怒り・批判のようなものが、いまではなかなか伝わりにくいということにもある。松本清張は、占領時における諸事件(「帝銀事件」、「下山事件」、「三鷹事件」、「松川事件」など)を米国の秘密工作と推理した(『日本の黒い霧』など)。ある種の「陰謀史観」だが、その根っこには、戦後、米軍とその(国内の)共謀者との横暴に対する怒りがあった。また、同時に、松本には、最近、原武史が『松本清張の「遺言」』(文春新書)で明らかにしたような天皇制への批判があった。だから、米軍の進駐と天皇制の転換とが混在した終戦直後という転形期への期待も少なからずあった。この映画でも不十分ながら出てくる「日本で初の女性市長」のくだりのように、旧・天皇制下では不可能だった女性の政治参加に期待と支援を送り、しかもその市長候補(黒田福美)を陰で支援しているのが元「パンパン」だった室田佐知子(中谷美紀)であるという皮肉な想定になっている。
◆いまでは社長夫人におさまっている室田佐知子(中谷美紀)、その会社の受付で働く田沼久子(木村多江)にとって、その過去は、人を殺してでも隠したいものであるという重みが、ほとんど伝わらないのは、この映画の演出や俳優の演技だけの問題ではない。みんな暗い過去を負っているのだが、その過去の奥行きが、ドアーを開けたらその奥はセットだったというような薄っぺらさなのだ。ベテランの中谷美紀も、今回はダメだった。彼女の今回の(さしずめ黒木 瞳なんかにおあつらえ向きの)宝塚的「華麗」すぎる立ち居振る舞いでは、室田佐知子という女性が、過去の重みをどれだけ深刻に背負っているかがわからない。その点、木村多江は、戦争をくぐりぬけてきた(たぶん地方出の)「悲しい過去」を持つ女の哀れさのようなものを巧みに表現するシーンがある。なお、いつもわたしがくさしてばかりいる広末涼子だが、今回は、あの「アリガトゴザイマフ」言葉も大分矯正され、何も知らずに、重い過去と秘密を持つ男(西島秀俊)と結婚してしまった「純な」娘の役にうまくシンクロしている。
(東宝試写室)



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