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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

シルビアのいる街で (必見・必聴!『ぴあ』と『キネマ旬報』にコメントを書いた)。   ● ヒックとドラゴン (←リンク参照)。   ● セラフィーヌの庭 (←リンク参照)。   ● 瞳の奥の秘密 (ドラマ自体には政治を出さずに、知っている者には1974年前後の状況――チリの軍事クーデターがアルゼンチンに飛び火し、多くの拉致者や死者が出る――のミクロな面を描いていることを直感させる力作)。   ● ヤギと男と男と壁と (←リンク参照)。   ● ベスト・キッド (←リンク参照)。   ● ようこそ、アムステルダム国立美術館へ (←リンク参照)。   ● 小さな村の小さなダンサー (←リンク参照)。   ● ペルシャ猫を誰も知らない (←リンク参照)。  


武士の家計簿   遠距離恋愛 彼女の決断   十三人の刺客   ナイト&デイ   アメリア 永遠の翼   裁判長! ここは懲役4年でどうすか   食べて、祈って、恋をして   義兄弟   ノーウェアボーイ   隠された日記  


2010-08-19_2
●隠された日記 (Mères et filles/Hidden Diary/2009/Julie Lopes-Curval)(ジュリー・ロペス=クルヴァル)  

◆かなりいい線で進むが、最後がつまらなかった。両親の反対を押し切ってカナダのトロントに移民した娘オドレイ(マリナ・ハンズ)が故郷アルカションに帰って来る。父(ミッシェル・デュショーソワ)は優しいが、医者の母(カトリーヌ・ドヌーヴ)はどこか素っ気ない。オドレイが一時帰国した理由の一つは妊娠があるらしいが、結婚や女性の自立といったテーマをにおわせながら、彼女の祖母への関心が中心になっていく。母を避け、一家がかつて住んでいた海辺の家に寝泊りするようになったオドレイは、ある日台所のタイルの隙間に隠されていた祖母の日記を発見する。映画は、それをオドレイが読むなかで、まだ若き祖母(マリ=ジョゼ・クローズ)の姿が画面にあらわれ、ときには架空の対話をかわすというスタイルで進行する。このへんは、非常に面白い。「つまらない」というのは、それが終盤で急に推理ドラマに変容してしまうところである。
◆50年代のフランスの女性の位置を批判的に描いているのはいいが、最後に明かされる事件は必要なかったのではないか? 別にそういう締めかたをしなくても、家族の日常の瑣末な部分の描写、親子の微妙なすれちがいが十分に描かれているのだから、明確な結論なしに終わってもよかった。これでは、妊娠しているオドレイがお腹の子をどうするのかという問題も中途半端ですっ飛んでしまう。それを放置するのなら、出血したり、相手の男がわざわざトロントから来て、子供のことを話すような、気を持たせるシーンはいらなかった。
◆祖母が夫を捨てて出て行ったというだけでよかったのだ。謎の失踪をしたというのでもいい。彼女は、家庭という閉鎖的な場所、夫に従う毎日の生活が耐えられなかった。だから、家を出ようとする。【以下は、画面をドラッグすれば読めるが、「ネタバレ」に文句を言う人は読まないこと】それを夫は止めようとして、殺してしまうというのはつまらない。これでは、まるでスリラーだ。
◆祖母がひそかにつけていた日記やレセピーが見つかるというのは、映画や小説ではけっこうありがちな設定であるが、それはそれで悪くない。それを孫のオドレイが読み、祖母のことを想像し、彼女が書き残したレセピーで料理を作ってみるというのもいい。彼女の想像が、シームレスに画面のなかで重なり、マリ=ジョゼ・クローズが優雅に演じるルウィーズとオドレイが話を交わしたりするのもいい。
◆女性監督のジュリー・ロペス=クルヴァルは、かつて女性の「拠点」だった台所という空間を軸に物語を展開させる。かつて3世代がいっしょに暮らしていた家の台所。ずっと空家になっていたところにオドレイが住む。そこに定住するわけでもないのに彼女は台所の改造に熱意を燃やし、自前で皿洗い機を取り付けようとする。発見した祖母の日記に書かれたレセピーで料理を再現して両親や兄(ジャン=フィリップ・エコフェ)に食べさせる。母だけが喜ばない。彼女の実母(オドレイの祖母)のことに触れてほしくはないかのように。映画のなかで、古い男性至上主義の時代にルイーズが娘マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)に過剰なほどの夢を託していたことが描かれる。実際、マルティーヌは、母の夢を実現し、医師になった。
◆この映画は、50年代に自立を果たせなかった女性の娘が自立し、さらにその娘が両親への依存をはねのけて移住してしまうが、それが子供の母になりそうな事態に陥ったとき、単なる「自立」というコンセプトではうまくいかないことを描く。これは、大きなテーマであり、描きがいのあるテーマだ。しかし、それが最後までは追及されない。
◆浜辺でオドレイが、近所でブティックを開いている女性サミラ (Meryem Serbah)と英語で話すシーンがある。子供を持つということについてだが、そこで、オドレイは、トロントをたつときに読んだという俳句を口ずさむ。台詞では、"Night is too short And what if I abandoned it..."となっていたが、その元は、明らかに竹下しづの女(たけしたしずのじょ)の俳句である。
短夜や乳ぜり泣く児を可捨焉乎(みじかよや ちちぜりなくこをすてちまおか)
ものの本によると、竹下しづの女はこの句を「ホトトギス」の大正九年八月号に発表したという。なお、この俳句は、他の作者の句とともに英訳されているらしく、ネットにも載っている
(アルシネテラン配給)


2010-08-19_1
●ノーウェアボーイ (Nowhere Boy/2009/Sam Taylor-Wood)(サム・テイラー=ウッド)  

◆ビッグ・ネームの顔や形態をへたに真似した「伝記」だとつまらないと思ったが、「ジョン・レノン」の話だと考えなくても面白く見れる。おそらく、本当のジョンにはもっと「天才」の屈折や嫌味も強烈にあったのだろうが、この映画が描く「ジョン」は、どこにでもいそうな青年である。猛烈面白いが保育能力にムラがある実母、その姉で「賢母」の役割を果たす育ての親、ぼんやりとした記憶を残して消えた実父への思慕、バンドの結成、ポール・マッカートニーとの出会い・・・みな事実にもとづいているが、それとは無関係に惹き込んでいくドラマの魅力。
◆一応は形態模写をやり、1950年代の時代考証をしているにもかかわらず、「そうだったのか!」的なアプローチをしないのが、この映画の魅力だ。本当は、そういう路線を狙い、結果的にそうならなかったというにすぎないのかもしれないが、独立した「いま」の映画としてリアリティがある。それも、それだけジョン・レノンが時代の先を行っていたのだといった素振りをこれっぽっちも見せない。
◆家庭環境がどんどん複雑になる現代からすれば、複雑な家庭環境に育った人物はそれだけ今日的なリアリティがある。30年まえにくらべれば、血のつながりのある父母そろった家庭、離婚暦のない親、ドメスティック・バイオレンスの経験やトラウマのない子供といったものはマイノリティである。原題は、<「どこにもいない」少年>であるが、いまの時代、「ホーム」がない(ホームレス)があたりまえであり、「どこにも」所属できないのがあたりまえなのだ。その意味で、ジョンを演じるアーロン・ジョンソンは、そういうキャラクターを、「宇宙人」的とも、「オタク」的とも、また「ヒキコモリ」的ともちがう――が、他人や世間にたいしてある種の「距離」をつねにとらざるをえない――キャラクターとして演じている。ジョンは、別にアーロン・ジョンソンでなくてもよいように見えるが、まさにその「匿名」性を出すことが狙いだったはずで、その意味ではアーロン・ジョンソンはいい仕事をしているのである。
◆この映画でジョンはどちらかといえば幸せな環境で育つ。「母」と呼ぶべきひとが別にいることは意識していただろうが、青年ジョン(アーロン・ジョンソン)は、叔母のミミ・スミス(クリスティン・スコット・トーマス)とその夫の「ジョージ叔父さん」(デイヴィッド・スレルフォール)の夫婦に愛されている。ジョージ叔父さんは、ジョンにハーモニカをくれ、1階のラジオ(当時最高のメディア)の音を2階のスピーカーに延長し、ジョンの部屋でも聴けるようにしてくれる。ウィスキーを飲ませてくれたのもジョージ叔父さんだった。が、彼はいきなり亡くなる。映画が始まったまだ5、6分しかたっていないのだが、そのシーンの密度が高い。彼が亡くなったとき見せるクリスティン・スコット・トーマスの演技がすばらしい。夫の突然の死を気丈に耐えるその姿が涙を誘う。そしてそのシーンは、埋葬のシーンに移り、式を遠くから眺めているメガネの女性(アンヌ=マリー・ダフ)を映す。ジョンは、メガネがカッコ悪いと言ってふだんはかけないのを、叔母から危ぶないとしかられるシーンがあり、彼がド近眼であることがすでに暗示されているから、このメガネの女性がジョンの実母であることはぴんとくる。彼女は、親戚にも遠慮しなければならない事情があるわけだ。
◆ミミは、息子のジョンを捨てた「身持ちの悪い」妹のジュリア・レノン(アンヌ=マリー・ダフ)を許さない。ジョンは実母に会いたいのだが、ミミはそれを禁じる。そこには、育ての親の愛と独占欲、他方では、自分が実母の権利を無視していることとの葛藤がある。だから、結局は会うことを許す。その屈折をクリスティン・スコット・トーマスが見事に演じる。
◆ジョンは、この映画では、複数の愛のなかで育ったということになる。最後のシーンも泣かせる。バンドで成功し、ハンブルグに行くことになったジョンが、パスポートを取るために出生証明書が必要になる。ミミを訪ね、書類にサインをしてもらうとき、彼女は「どっちにサインするの?」と問う。書類には、「親」の欄と「保護者」の欄とがある。ジョンは答える、「両方にね」。実母のほうに傾斜して、ミミに距離を置きがちな描写が続いたあとなので、このシーンが効果を発揮する。場内にはすすり泣きが。ただし、この映画はお涙頂戴のメロドラマではない。父親に会いたいとミミに迫る切実さはあるが、そういう面に依存して映画を作っているわけではない。
◆ジョンの実母を演じるアンヌ=マリー・ダフもうまい。ジョンを愛していないわけではないが、母親にはなれない女。天才的なノリの感覚があり、惚れっぽく、飽きやすい。ジョンが彼女の家を訪ねたときのノリがその感じを生き生きと描く。ジョンを外に誘い出し、踊るように楽しげに歩く彼女の態度は、息子と一緒というより、恋人と一緒の感じ。このシーンでバックにディッキー・ヴァレンチーノ(Dickie Valentine)の 「Mister Sandman」ジャッキー・ブレンストンエルヴィス・プレスリーのヴォーカルなどさりげなく流れるが、絶妙のアレンジである。ロックンロールをジョンに教えるのも彼女である。母と息子の関係のなかにある近親相姦的な関係を最もセックスレスの美しい関係で描けば、こういう感じになるのかもしれない。
◆ジョンがバンドを結成するシーンが、やけに力んでいないのもいい。この種の映画では、しばしば、バンド結成のもっともらしい理由が描かれたりするが、この映画はごく自然にバンドが結成される。厳格なミミは最初許さないが、それが長く続くわけではない。このへんは、もうちょっとトラぶってもよかった。この映画は、よくも悪くも描き方が素直なのだ。
◆遅れてバンドに参加するポール・マッカートニーを演じるトーマス・ブローディ・サングスターが抜群にいい。別に「本物」を真似ているわけではない。若いくせにいつも冷静なそのクールさが、実体感を出しているのだ。彼は、『ブライト・スター』でも、ファニー・ブローンの弟役を演じ、きらりと輝く演技を見せていた。
◆ジョンが、バスの屋根に乗るシーンがある。いまの時代にはこれを「レノンらしい突拍子もないこと」と見る人が多いかもしれないが、こういうことは普通だった。いまこんなことをしたら、バスは停まるし、会社の人が出てきたりして大騒ぎになるだろう。しかし、日本でもこういうことはありえたのだ。わたしは渋谷の育ちだが、小学生のとき、渋谷駅から南平台のほうへ登っていくバス(そういう路線があった)の後ろにつかまって坂の上まで行った。運転手は何も言わなかったし、通行人もあわてなかった。バスのタイヤの下にカンシャク玉を入れて、パンクを「偽装」して驚かせたときは、さすが運転手に殴られそうになった。昔は、(おそらくは911以前までは)子供は腕白だったし、かなりのテンションの冗談がゆるされた。
◆そういう腕白を描く点では、この映画は少し「上品」すぎるかもしれない。不良っぽさが足りないのだ。ジョンはあまりに「善良」で「素直」すぎる。それは、あえてそうしているわけではないらしいことは、彼が「不良」っぽい同級生(?)からナイフで脅されるシーンでわかる。「現実」との対比はなしでこの映画を見ることを提唱しながら、こう言うのはナンだが、50年代の若者はもっと「ワル」だった。
◆ジョンが聴いて育ったであろう音楽がふんだんに聴けるが、ジュリアの家で彼女がジョンにScreamin' Jay Hawkinsの "I Put a Spell on You のレコードを聴かせるシーンがある。まあありきたりといえないこともないが、こういうシーンでホウキンスのこのヴォーカル・パフォーマンスは実によく生きる。
◆最初から、ジョンのフラッシュバックとして暗示される父親の謎――なぜ彼を「捨てた」のか――が明らかになるが、それが映画のクライマックスではない。が、この部分でジョンの父親が「無類の自由主義者」であったことがわかる。5歳の子に「パパとママとどちらと暮らすか?」と尋ねたというのだから。
◆リバプールという場所を意識した表現がいろいろあるのだろうが、「外人」のわたしにはわからない。たとえば、街の庶民的な喫茶店でジュリアが待っていて、そこにミミが入ってくる。二人の関係は少し険悪になっていた。ミミは、店の人に、「アールグレイ(紅茶)はある?」と聞くと、店のおばさん(?)は、すかさず「ここをバッキンガム宮殿とまちがえてるんじゃないの」と突っ込む。一瞬、喧嘩を売るのかと思ったが、リバプールという場所を意識した冗談のようだった。でも、ジュリアもミミもことき笑わなかったから、本当にただの冗談だったのかどうかはよくわかない。
◆冒頭のシーンがわたしには不可解だった。「A Hard Day's Night」のコードが鳴り、(あとでジョンとわかる)アーロン・ジョンソンがリバプールのセント・ジョージズ・ホールの階段を走りまわり、(その一部が陥没したかのように)どすんと落ち、次の瞬間、家のベッドで目が覚めるシーンだ。なぜこういうオープニングなのか、誰かわかったら教えてください。
◆【追記/2010-11-10】上記の問いに対し、「mizutami」という方から、面白いアドヴァイスをいただいた―<『ア・ハード・デイズ・ナイト』のファーストカットでジョージ・ハリスンが転ぶ場面の再現ではないでしょうか。まあ今更自分が言うほどのことではないと思うのですけれど、単純に、ビートルズがファンから逃げ回っていたように(あの映画でビートルズを追いかけてたファンの中には少年時代のフィル・コリンズもいたみたいですね)、若き日のジョン・レノンが不安や孤独から逃げ回っているようなイメージじゃないかと思ったのですが。あと、セント・ジョージズ・ホールはジョン・レノンの追悼式が行われているので、ちょっとうがった見方をすればその死を悼んだ場所からジョン・レノンの回想が蘇ってくるようなイメージかなあと思ってみたりしました。>
◆もう一点、「mizutami」さんは、<余談ですが、ジョンとピート・ショットンが万引きしたジャズのレコードを海に捨てていると地元の音楽通に叱られる場面がとても面白かったです。短い台詞のやり取りの中で、当時のリヴァプールにおける音楽の受け止め方とか、ずいぶん色々な情報が飛び交っていたように感じました。>と書いている。このシーンは、わたしも面白く見た。ジョンが、ジュリアの家で Screamin' Jay Hawkinsの "I Put a Spell on You" を聴いたあとのシーンだ。彼は、「盗むのをマズった」と言いながら、EPレコードをどんどん捨てる。それをとがめる男とのやりとりが面白い。この時点でジョンはジャズを評価していないが、ビリー・ホリデーの名も知らない。その名を言われて、「どこの?」と口走る。が、「俺がもらっておく」と言われると、捨てた残りのEPのなかに、母親の家で聴いたScreamin' Jay Hawkinsのがあるのに気づき、奪い返す。ここで、ふと思ったが、ビートルズが世界に波及しはじめた1960年代の前半期に、わたしがビートルズにノレなかった背景には、ジョン・レノン/ビートルズの根底になる「ジャズ無視」があったのではないかということだ。わたしは、台頭するニュージャズにどんどんのめり込んだが、ビートルズには魅了されなかった。ビートルズに関心をもったのは、ジョンが小野洋子(ヨーオ・オノ)と親しくなってからである。小野のやっていることには、フルクサスの関係で、50年代から関心を持っていた。フルクサスの「魔女」ヨーコ・オノとの出会いは、ジョン・レノンの政治/アート感覚をより鋭いものにしたとわたしは思う。
(ギャガ配給)


2010-08-17
●義兄弟 (Secret Reunion/2010/Hun Jang)(チャン・フン)  

◆韓国映画で「南北問題」がとりあげられるときには、それがどんなに「エンタテインメント」路線のものでも、そこから若干なりとも南北の政治が見えるような作りになるのが、これまでの「常識」だった。しかし、この映画は、そうではない。ここでは、「南北問題」が完全にサスペンスの素材だけになっている。それは、いまの韓国では「普通」のことなのか、それともチャン・フン監督の「新しさ」なのか? あるいは、時代を(映画のなかでテレビ映像が出るように)キム・テジュンが北を訪問し、キム・ジョンイルと握手をした時代に設定することによって、その時代の政治性がいわば「脱臼」してしまっていたということをからめ手から示唆しようとしているのだろうか?
◆この映画では、拉致や暗殺を仕掛ける「北のスパイ」は、北の指令によって動いているエイジェントであるよりも、「将軍様のため」ということをパラノイアックに信じこんでいる孤立した人間で、むしろ、組織よりもそういうパラノイアに毒された個人のほうが怖いと言いたげである。それは、権力の構図のある面を突いてはいる。そういうあたかも自発的にテロを行なう個人を生み出すのも、組織の仕事であるからだ。チョン・グクァンが演じる「影」は、北の暗殺のプロであり、グクァンが見せる映画的演技とアクションは見事である。しかし、映画は、彼がどのようにしてそういう人間になったのかは全く描かず、それは彼の個人的傾向の結果だあるかのように描くので、せっかくの彼の存在感のある演技がつまらないものになってしまう。
◆国家情報局のイ・ハンギも北から南に潜り込んで諜報と暗殺に関わるソン・ジウォンも、いずれも、最終的に組織を出る。しかし、それは月並みにしか描かれない。イ・ハンギは、探偵のような仕事に転業する。その仕事のあいだでどたばた的に事件が起こるのだが、国家情報局と完全に切れたわけではない。ソン・ジウォンと出会うなかで考え方が変わっていくイ・ハンギは、北に家族を残しているために身動きがとれないが、最終的に家族を脱国させて、ベトナムに住むための飛行機に乗っているところで映画は終わる。このエンディングは、ちょっとがっくりする。
◆見るべきところがあるとすれば、韓国がかかえるベトナムという係数に触れているところか。『息もできない』には、ベトナム戦争に参戦して帰国した父親がアル中になり、家庭内暴力をふるう話が出てきた。韓国におけるベトナムの後遺症は奥が深い。ベトナム戦争に参戦した兵士と現地女性とのあいだに生まれた子供を「ライタイハン」というそうだが、この映画にもその成長した「ライタイハン」とおぼしき男女の姿が見える。また、日本にフィリピンから妻を迎えるビジネスがあるように、韓国ではベトナム妻との国際結婚がさかんらしい。イ・ハンギョ(ソン・ガンホ)がまぎれ込む怪しげな場所にベトナム人がたくさんいるのは、こうした事情と関係がある。
◆しかし、それならば、なぜこの映画はもっとアクチュアルな方向をつきつめなかったのか? ソン・ガンホは、ここではまるでお笑い芸人であり、ニヒルで硬質な演技を見せるカン・ドウォンも、せっかくの演技がもったいない。
(エスピーオー配給)


2010-08-13
●食べて、祈って、恋をして (Eat Pray Love/2010/Ryan Murphy)(ライアン・マーフィー)  

◆ジュリア・ロバーツが出るのだから、「ロマンティック・コメディ」であることは覚悟していた。が、およそ説得力のないストーリー展開であきれてしまった。彼女が演じるリズは、典型的な(ステレオタイプとしての)ニューヨーカーで、欲望をむき出しにしながら、決して満足していない。むしろ、あらゆることに「罪責感」をいだいている。ひとを愛する場合も、どこかでさめている。美味しい食事も、それを食べると太るから辞める。ほとんど情緒不安定なまでにゆれている。そのへんの描き方は悪くない。しかし、8年もいっしょにいる夫スティーヴン(ビリー・クラダップ)が、学校に入って勉強しなおしたいというようなことをぽろっと言っただけなのに、すぐに離婚の決意をする。いろいろなストレスの加重のすえなのだろうが、もうちょっとちゃんと表現してくれなくては、リズが自分勝手すぎるように思えてしまう。実際、そういう女として理解してくれていいという表現なのかもしれないが、それでは、全体が、身勝手なニューヨーク女の勝手な遍歴物語になってしまう。しかし、全体として見れば、そう考えるしかないかもしれない。離婚しないでくれと言う夫を振り切り、離婚するのに、彼女は、自分の財産を投げ出してしまう。その間につきあう若い俳優のデイヴィッド(ジェームズ・フランコ)との別れ方も勝手すぎる。彼女は、ローマに行ってしまうからである。次のインドをへて、バリに行くのだが、そこで出会うブラジル人フェリペ(ハビエル・バルデム)との関係も、ロマンティク・コメディの終わり方としてはすわりが悪い。
◆はっきりしてほしいのは、リズの心の遍歴の物語にしたいのか、それとも、ひたすら揺れるニューヨークの中年ジャーナリスト女性の自嘲的な物語なのかである。エリザベス・ギルバートの体験を綴ったことになっている原作は、前者であり、「わたし」はひとつの発見と信念に到達する。その意味では、この映画は、原作の映画化としては、失敗作である。他方、後者の意味でこの映画を見た場合、ジュリア・ロバーツが主役をやっているので、その神経の揺れ具合が十分に出ない。もっと不安と自責の念が強く出せる俳優(たとえばアン・ハサウェイ)でなければならない。アハハと大口を開けて笑うジュリア・ロバーツではダメだ。わたしは、彼女の笑い方は好きではあるが。
◆この映画のイタリアのシーンで登場する料理はなかなかよく撮れている。食材やメニュー、食べるシーンも悪くない。リズが、ダイエットといういかにもアメリカ的(それがいまやグローバルに広がり、拒食症のようなパラノイアを生み出している)な罪責感を捨て、屈託なくうまいものを食べるくだりは、なかなかいい。(でも、ナポリで釜焼きのピッツアを食べるシーンで、ジュリアはなぜピッツァの食い方があんなに下手なのか?)いずれにしても、この映画で一番いいのは、イタリアのパートだろう。ここでは、リズは、男に手を出さず、もっぱら食べるだけなので、この映画を「観光案内」として見る場合にも、すんなり見ることができる。ステレオタイプながら、イタリア人から「何もしないことの悦び」を学ぶというのも悪くない(しかし、それなら、なぜイタリアにとどまらないのか?)インド篇もバリ篇も、「観光案内」的なシーンがたくさん登場するが、リズの人間関係が邪魔をする。
◆映画の冒頭で描かれるように、リズは、取材で行ったバリでクトゥーという薬療師の老人(ハディ・スビヤナト)に会い、彼女の未来を予言される。半分はいい加減な占い師流の予言なのだが、リズはそれを信じ、それが彼女の離婚や旅の要因になっているらしい。この老人の予言がなければ、離婚はしなかったかもしれないし、バリにもどることはなかっただろう。が、クトゥーとの出会いがそれほど強烈な影響をあたえたのなら、それが映像として表現されなければならない。イントロの映像だと、単なるエピソードという印象を受ける。もっとも、アメリカ人のパターンとして、ささいなことを真面目に取りすぎて、自分の運命を変えてしまうような例がないわけでもないから、この映画は、アメリカ人にはピンと来るのかもしれない。わたしも、アメリカ人の友人を浅草寺に案内し、おみくじを引かせたら、「凶」と出てしまい、その意味を説明したら、えらく深刻な顔をするので、困惑した。アメリカ人にはそういうところがある。
◆リズがインドに渡るのは、「異文化」にはまりやすい「アメリカ人」のパターンである。リズは、若い俳優のデイヴィッド(ジェイムズ・モナコ)が入信しているヒンズー教の礼拝所に連れて行かれ、そのあげく本山のインドに渡り、教団に入団し、修行とボランティア活動をする。どちらの礼拝所にも、教祖はおらず、その写真だけが祭壇に飾ってある。教祖は世界遊説に出ているという。ちなみに、ジュリア・ロバーツその人は、この映画の撮影でインドに来てからヒンズー教に入信したという。なお、ナタリー・ポートマンは、以前、ヒンズー教を馬鹿にするビデオに出たというのでヒンズー教徒から批判された。ポートマン自身はユダヤ教徒らしい。マイク・マイヤーズの『愛の伝道師 ラブ・グル』(The Love Guru/2008/Marco Schnabel) もヒンズー教徒の怒りを買った。
◆この映画はジュリア・ロバーツの休暇と趣味に便乗した映画ではないかというジョークがあるが、映画そのものはほジョークに乏しい。1点面白いのは、リチャード・ジェンキンスが演じる「テキサスのリチャード」のくだりである。教団の先輩格の彼は、最初、教訓めいたことをリズにしつこく言う。もてあましながらリズが言う台詞が面白い。「あんた、ジェイムズ・テイラーそっくりだって言われない?」→「毎日だよ」。そういえば、よく似ている。この男が涙ながらに語る身の上話――酒とドラッグにおぼれ、仕事も誇りも家族も失った云々――どこかジェイムズ・テイラー本人とダブルところがある。しかし、なんでここだけこういうジョークを入れたのかがよくわからない。
◆この映画の演出のまずさは、ジェームズ・フランコ、リチャード・ジェンキンス、ハビエル・バルデムといった大物を使いながら、出方や消え方があまりに杜撰なことである。リズは、旅先から別れた男たちを思い出し、メールを出したりもするのだが、それは出したというだけにすぎない。そのリスポンスは全然いかされていない。なかでも、ハビエル・バルデムは気の毒だ。息子を熱愛する型にはまった「ブラジル人」をスペイン人のバルデムにやらせるのもいいかげんである。ブラジル人ならポルトガル語をしゃべるはずで、それならばポルトガルの俳優にやらせるべきだ。彼らはみな、しっかりとした演技を提供しているが、全然いかされていない。リズのニューヨーク時代の親友デリアを演じるヴィオラ・デイヴィスは、『ナイト&デイ』でCIAのディレクターを好演していたが、この映画でも、ジュリアを食いそうないい演技をしていた。「子供を生むには、顔にタトゥーを入れるのと同じくらいの覚悟がいるのよ」とリズに言うシーンなど印象に残る。
(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給)


2010-08-12
●裁判長! ここは懲役4年でどうすか (Saibancho! Kokowa choeki 4nennde dosuka/2010/Toyoshima Keisuke)(豊島圭介)  

◆「裁判・傍聴ブームに火をつけた北尾トロの同名のベストセラー・エッセイ、待望の映画化」というので、早速かけつけた。エピソード的に挿入される法廷シーンも、手抜きがない。映画の法廷シーンや留置場・刑務所・面会室などのシーンには、いいかげんなものが多いが、この映画はまあまあ事実通りに撮っている。設楽統(したらおさむ)を主役にしたのは、グッド・チョイスだった。彼は、笑えるけれどどこか淋しくなさけない男を天才的に演じる才能を持っているからだ。
◆『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』は、月刊誌『裏モノJAPAN』の連載をまとめたものだとのことだが、連載のきっかけは、同誌の編集長に「裁判の傍聴はどうだ」と北尾が薦められたからだという。映画は、この背景を、映画プロデューサー・須藤光子(鈴木砂羽)の依頼で脚本を書くためにライターの南波タモツ(設楽統)が裁判の傍聴取材をはじめるという設定に移し換えている。雑誌原稿から映画台本への転換であるが、映画なんか本当に作っているのだろうかと思わせる須藤光子のインチキくさい雰囲気は、設楽統のけっこう「真面目」(それが彼の自然体でもある)な雰囲気を損ねてしまっている面もあるが、この女は(電話のシーン以外は)最初と最後しか出てこないので、気にしないでいい。
◆しかし、北尾トロの原作にくらべると、映画は、かなり丸く収まっている。原作の新しさは、とんでもない被告、いいかげんな裁判官や弁護士を記述し、言葉では「許せねぇ」的なことを書いても、その根底は、覗き見趣味と野次馬根性で、北尾自身が言うように、「そんなことをする理由はひとつしかない。おもしろいからだ」であるからだ。むろん、そこには、もはや今日の裁判が「見世物」になってしまっている現状が活写されている。が、それを偉そうに批判できる起点などあるのだろうか? 「見世物」になっている!と批判することは、その見世物に加担することである。ならば、その見世物を見世物として見せてやることのほうが、見世物の次のステップに役立つだろう。北尾トロはそれをした。
◆設楽統が適役だと思うのは、彼は、ものごとを「正直」に思い込み、やがてそれが彼の思い込みであったり、だまされていたりするという人間を演じるのがうまいからである。この映画で南波は、最初、法廷には「愛と感動」のドラマがあると思い込んでいる。それは、傍聴マニアの西村(蛍雪次朗)のグループ「ウオッチメン」の面々と知り合うことによって加速する。野次馬的な意識で傍聴していた彼だったが、街頭でビラを配り、必死で息子の無実を訴える母親の姿を見るにつけ、彼は、ひょっとして、傍聴席からも被告を支援したりして、裁判に影響をあたえられるのではないかという考えに傾いていく。そしてついに、「ウオッチメン」とともに、「冤罪」説が浮上している殺人事件の犯人を無罪に持ち込むべく、知恵をしぼっることになる。
◆このへんのくだりは、むろん、原作にはない。このような設定は、むしろ原作の野次馬主義に反する。しかし、映画は、ちゃんとそのことをはずしてはいない。南波はウブだったのだ。「ウオッチメン」への南波の思い込みは裏切られる。彼らは、人を救おうなどという気はなく、まずは見物であり、その見物が面白くなるならば、結果的に人を救うのもいいかとぐらいにしか考えていない。このあたりの「非情さ」と「実利主義」と「ニヒルさ」とが入り混じった感じを蛍雪次朗がなかなかうまく出している。しかし、北尾の原作が持っている毒を蛍雪次朗演じる西村とその仲間にだけまかせてしまうのは、安直すぎるだろう。
◆北尾の原作『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』は、法廷が「神聖な場」などではないということを暴いて見せた。傍聴は「国民」一般(いや、特にチェックがないことよくあるから、別に「国民」ではなく、ただの行きすがりの「外人」にも)に開かれており、いきなり法廷のドアを開けて覗き、「つまらなければ」すぐ出ることも自由である。実際、傍聴人や「プレス」の腕章をはめた連中がは出たり入ったりし、最悪の大学教室よりもはるかにひどい。もし、劇場や映画館でこんな状態だったら、上演や上映が成り立たないだろう。しかし、この「自由奔放」さは、法廷の「公正さ」の尺度になっているらしい。「プライバシー」や「パブリック」といった西欧近代の輸入観念の矛盾がここでは見事に露呈している。
◆問題は、裁判が「見世物」になっているにもかかわらず、それが中途半端な形だけの「神聖さ」を装っている点である。見世物なら、テレビ放映すればよい。いまのテレビ環境ならば、すべての裁判をライブで公開し、多チャンネル放送(Ustreamでもよい)でライブ放映することは可能である。しかし、そういう完全な公開がなされず、ニセの「神聖さ」が維持されているのは、それによって利潤や権力を得る仕組みがあるからだ。ある意味では、北尾の本も、裁判が、北尾のように足を棒にして日参するのでないかぎり、開かれているわけではないという不完全性のおかげでベストセラーになりえたのである。
(ゼアリズエンタープライズ配給)


2010-08-11
●アメリア 永遠の翼 (Amelia/2009/Mira Nair)(ミーラー・ナーイル)  

◆映画の終わりのシーンがすばらしかった。「本物」のアメリア・イヤハートのモノクロ写真と短い動画が映し出されるのだが、それまでのシーンで見せられたヒラリー・スワンクの「アメリア」とシームレスにつながる。「本物」のアメリアが持っていたリズムや「磁力」を映画のなかに呼び込むような操作にある程度成功しているのである。ただし、この最後の部分のまえのほうがすべてそうだというわけではない。
◆墜落事故を起こす確立が高かった時代の飛行機操縦を描きながら、この映画はこれみよがしな「サスペンス」アクションのシーンが少ない。飛行機が飛び、スワンクが機外に振り落とされそうになるとか、胴体着陸などのシーンはあるが、気流の変動との闘いを手に汗握るシーンで見せるといったことはしない。しかし、映像は決して安っぽくはない。アンティックものの高価な飛行機を手間をかけて修理し、実際に飛ばして撮影している。そのつつましくも優雅な映像は楽しめる。
◆しかし、全体としては、教科書的な「伝記」映画の傾向が強い。出版社主のジョージ・パットナム(リチャード・ギア)との出会いと結婚、アメリカの民間航空業界の草分けとなるジーン・ヴィダル(ユアン・マクレガー)とのはっきりしない関係、もうちょっと内側から描くべきだったフライト・ナヴィゲイターのフレッド・ヌーナン(クリストファー・エクルストン)との関係、のちにフェミニズムにも影響をあたえたアメリアのジェンダーへのこだわりが、平板にしかえがかれていない。
◆メールショウヴィニズム(男性至上主義)があたりまえだった時代に男性に伍して一人の女性がパイロットとして名をあげていくというのは、大変なことだったはずだが、この映画では、いまのアメリカの女性の社会的位置を「基礎常識」としてすべてを描いている趣がある。アメリアには泣くようなことが日々あったと思うが、映画ではそういう「苦労」はあまり描かれない。
◆アメリアが、女性パイロットの進出に尽力したことは描かれるが、彼女のサポートで女性としてパイオニア的なテストパイロットになるエリノア・スミスを出しながら、中途半端な描き方しかしていない。ミア・ワシコウスカは、短い出演ながら、非常に印象深い演技を見せるので、それはもったいない感じがする。
◆教科書的に歴史的な有名人が奔出するなかで、ジーン・ヴィダルの息子ゴア・ヴィダール(ウィリアム・カディ)が登場し、アメリアとのやりとりを見せる。彼は、父と彼女との関係を知っていて「よかったらぼくのお父さんと結婚してくれませんか」と丁寧語で頼む。当時、ジーン・ヴィダルは、離婚し、ゴアは淋しかったという設定である。ちなみに、このゴア・ヴィダルは、言うまでもなく、小説家のゴア・ヴィダルであり、日本でも(いまでは大分忘れられているが)60~70年代にはよく知られていた知識人の一人である。
◆ただし、事実は、こんな単純ではなかったらしい。インタヴュー記事によると、ゴア・ヴィダールは、結婚云々を尋ねたのは、アメリアに対してではなく、父親に対してだったという。そして、彼の「どうして彼女と結婚しなかったの?」という質問に対して、彼の父親ジーン・ヴィダールは、「ほかの少年とは結婚したくなかったんだ」(I have never really wanted to marry another boy)と答えたという。「彼女は少年のようだった」とゴア・ヴィダールは結んでいる。ちなみに、ゴアは、父のもとを去った母親に確執をいだいており、そうした彼の家庭環境と彼のバイセクシャル/ゲイ的ジェンダーは無縁ではない。そして、父親も、アメリアのなかに「少年」的なものを感じていたとすると、この映画は、全然アメリアの本当の姿をとらえてはいないたということになる。
◆ジーン・ヴィダールとアメリアがクラブで会うシーンで、アフリカン・アメリカンの女性シンガーがコール・ポーターの"You do something to me"を歌う。ボイスはなかなかいいのに、なんか口付きと身ぶりが気楽すぎる気がしたので、調べたら、声は、Angela McCluskeynにクレジットされていた。吹き替えだとしたら、こういうことはしないほうがいい。このジャズバラードは、むかしからいろいろな歌手が歌っているが、近年では、シニード・オコナーのがなかなかよかった。
◆アメリア・エアハートとフレッド・ヌーナンを乗せた飛行機は、1937年7月2日に、カリフォルニアとハワイの中間の北太平洋上のハウランド島付近に墜落したといわれているが、その後さまざまな伝説が生まれ、彼女は日本軍に捕らえられ、第2次大戦後、名前を変えて生き延びたという話もあるらしい。
(ショウゲート配給)


2010-08-06
●ナイト&デイ (Knight and Day/2010/James Mangold)(ジェイムズ・マンゴールド)  

◆ジェイムズ・マンゴールドの作品は、大体見ているが、今回ほど登場人物がコミックブックや劇画のなかのそれのように、ある意味「抽象的」な例はなかった。それは、この作品に対する批判ではない。先に言っておけば、わたしはこの作品をエンタテインメント作として高く評価する。トム・クルーズとキャメロン・ディアスの選択は、的確だったと思う。クルーズの「人間味を欠いた」キャラクターと、ディアスのミーハー的風貌と挙動がうまく生かされていると思う。
◆これまでの作品では、主人公や登場人物は、悩みや個人的葛藤を見せた。最初の長編『君に逢いたくて』(Heavy/1995)は、文字通り、プルイット・テイラー・ヴィンス演じる孤独な肥満男の話であったし、基本的にはサスペンスである『コップランド』でもシルベスタ・スタローン演じる保安官は片耳が難聴であるというハンデを負っている。『17歳のカルテ』は、ウィノナ・ライダーやアンジェリーナ・ジョリーが個性的に演じる「精神病」患者たちの物語であった。この路線をもう少しエスカレートさせ、その分現実から離れたかなと思わせるたのが、『アイデンティティ』だったが、『ウォーク・ザ・ライン』では、実在の人物を取り上げ、また現実への距離を縮めた。前作の『3時10分、決断のとき』(3:10 to Yuma/2007)は西部劇だが、クリスチャン・ベール、ラッセル・クロウ、とりわけローガン・ラーマンが演じるキャラクターが「人間味」を帯びていた。その点で、これまでのマンゴールドの作品で登場人物が一番フィクショナルな要素を帯びていたのは、『ニューヨークの恋人』であり、今回の『ナイト&デイ』に通じるものを持っている。
◆エンタテインメントだとすれば、クリシェを多用するのが一つの型(パターン)であり、批判の対象にはならないし、今回わたしはそれを楽しんだが、かくして、クリシェ的なシーンはひんぱんに出て来る。クルーズとディアスの出会いもそうだが、そういうクリシェ的なパターンを意識的に使い、これから展開するドラマがエンターテインメントなんだよと印象づけているのだとすれば、意味は違う。クルーズはCIAのエイジェントだが、内部に混乱があり、敵と味方の区別が難しいままドラマが進んでいくというパターンは、『ソルト』もそうだった。今回は、それが、ピーター・サースガードとのあいだで展開する。こういう場合、サースガードは、『17歳の肖像』で「裏切り男」を演じたから、この映画では、当然そうした映画記憶を利用して、そういう方向の人間なのかなと想像することはまちがっていない。
◆この映画に関しては、アメリカでは、なぜか批判が多く、そのなかには、トム・クルーズがカルト宗教のサイエントロジー(Scientology)の信者だからという点だけでこの映画をクソミソに言うものまである。そう言われてみれば、この映画は、もう一人のサイエントロジストの映画人ジョン・トラボルタの『パリより愛をこめて』と似ているところがある。ばったばった敵を倒すところもそうだ。しかし、この映画でジェイムズ・マンゴールドがなかなか微妙な表現法を使っていることは指摘されない。たとえば、同じ飛行機に乗り込んだディアスの視覚に入らないところで、(観客には見える)敵をクルーズが倒していくというシーンがある。これは、すべてが、ディアスの夢や妄想であるという設定にしても受け入れられる仕掛けで、「はたで殺人が起こっているのにそんなことはありえない」というような現実主義的批判をあらかじめ封殺している。しかし、実際にはそういう批判が多いのだが。
◆妹の結婚祝いで飛行機に乗ったディアスが、スパイのクルーズと同じ飛行機に乗るという設定は、出来過ぎだと思うかもしれないが、それが、実は、CIAがそうなるように画策したのだとすれば、無理ではない。そういうことをそもそもCIAが出来るのかどうかはどうでもよい。「CIA」といういうものは何でも可能だというのがハリウッド映画のクリシェであり、それを利用して悪いわけがないからだ。それを示唆するかのように、CIAのロゴは、「ホンモノ」とはちがっている
◆ロケ地は多いが、これもパターンとして使っている。それは決して悪くない。オーストリアのザルツブルグが美しく撮られ、そこに「スペイン」の武器商人のエイジェントの女性ナオミが登場するが、その濃艶な風貌の女性を演じるのは、2004年ミスイスラエルのガル・ガドット(Gal Gadot)である。マルチ化しているスペインでは実際にはありえることだが、映画では「スペイン系」と思わせるそれっぽいパターン(スペイン女)を見せる操作である。こういうことがどこまで意図的になされているかどうかは不明だが、わたしは、それを安っぽいとかあざといとかは思わず、逆に買うのである。クルーズの「オヤジギャグ」に関しても同様。そもそもこのタイトルが安いギャグである。だから、この映画を見て、ディアスが終始クルーズに引きづりまわされていることを持って、「遅れてきた男性至上主義」などという批判はしないほうがいい。別の意味では、この映画は、CGIのテクニカルなアクションに生身の俳優のアクションをどこまでシンクロできるかを試した作品でもある。
(20世紀フォックス映画配給)


2010-08-05_2
●十三人の刺客 (Jusannin no shikaku/2010/Thirteen Assassins/Miike Takashi)(三池崇史)  

三池崇史の演出だから、役所広司、伊原剛志、松本幸四郎、平幹二朗、松方弘樹という時代劇のディスクールも発声法も違う役者をいっしょにし、そこに山田孝之のような「時代劇」とは異質の役者を加え、さらにそこに伊勢谷友介が必ずしも適役というわけでもない猿飛佐助か孫悟空のような宇宙人的役柄が加わるのを見ても、少しも驚かない。だが、「狂った」殿様を演じる稲垣吾郎がけっこうまじめに役を演じ、最後のほうになるにつれて、彼の「狂った」考えや行動も「わからなくなくもない」という風になってくると、三池崇史的演出が成功しているのかどうか、わからなくなる。
◆役所広司、伊原剛志、松本幸四郎、平幹二朗、松方弘樹の5人のうちで、松方弘樹の台詞が、決して拙いわけではないにもかかわらず、違う映画から借りてきたような感じに響くのは面白い。ある種のべらんめえ口調なのだが、えらく「古い」感じがしてしまうのだ。殺陣もうまいし、役自体が浮くわけではないが、彼がしゃべりだすと、いきなり江戸の浅草の長屋にでも行ったような気になるのだ。それは、時代劇を演じながら、基本的に「現代劇」を演じている役所広司と伊原剛志のせいかもしれない。その点、松本幸四郎と平幹二朗は、手抜かりがない。
◆基本は、復讐劇のはずである。明石藩の馬鹿殿・松平斉韶(なりつぐ)(稲垣吾郎)が、参勤交代の際立ち寄った尾張藩内の木曾上松の陣屋で、いわば藩を代表して斉韶を歓待する役目の牧野靭負(ゆきえ)(松本幸四郎)の嫁(谷村美月)をもてあそんで惨殺し、発見した息子(斎藤工)も殺してしまう。江戸屋敷では幼女を弓で射って遊ぶなど、サディスティックなビザール・アクションの毎日。藩内でも、何とかせねばという意見が出るが、御用人の鬼頭半兵衛(市村正親)は、主君への「忠義」に篤く、斉韶の乱行と暴挙を黙認する。このへんは、映画的にも周知の侍的ロジックだから、それを演じる市村正親は得をした。この映画のなかで一番すっきりした演技を見せる。
◆事態の深刻さを認識した江戸幕府の老中(平幹二朗)は、かねがねつきあいのあった島田新左衛門(役所広司)に斉韶の暗殺指令を出す。島田は、志士を組織し、12人が集まり、実行にかかる。島田ら12人は、参勤交代の帰国に向かう斉韶の一行を密かに追い、途中で山をすみかにして漂流生活を送っている山窩(さんか)の青年・木賀小弥太(伊勢谷友介)に会い、その「超能力」を買って仲間に加える。こうして13人の刺客が斉韶の暗殺のために結束するのだが、先方もその情報を早く察知し、したたかな戦略で対抗する。まあ、このへんは面白い。
◆問題は、斉韶の意識変化である。彼は、終盤で激戦が始り、家来がばたばたと切られて行くのを見ながら、平然と、「戦国の世とはかくなるものであったのか」と感動し、自分は、戦争にあけくれる政治を行い、いまの「太平」の世を終わらせるとのたまう。女子供に残忍な暴力を振るうだけならば、まだ、斉韶は、否定されるべき対象にとどまる。こいつは死ななきゃわからない奴なのだと言えるからである。十三人の志士たちの暗殺も正当化される。また、その暴政にもかかわらず主君に忠義を尽くす家来たちのロジックも納得がいく。しかし、家来が死に、自分も死ぬかもしれない状況を論理的にも肯定するということになると、こいつは、感覚が狂っているだけではなくて、全然ちがう「世界観」を持った人間なのだと思わざるをえなくなる。そして、自分が斬られて、やっと「痛み」というものを理解するように演出されているシーンで、斬った相手に感謝の念を表わしたりすると、「お前がそういうことなら、それでもいいじゃないか」という気持ちにもなってきて、13人の努力が空転させられてしまうのだ。この映画が、こういう相手には「復讐」が通用しないということを描こうとしているのならば、それでもよい。が、そうではなかったはずだ。
◆アレックス・コックスの『ウォーカー』(Walker/1987/Alex Cox)でエド・ハリスが演じたウィリアム・ウォーカーやルキノ・ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』の狂えるババリア王は、ともに実在の人物をモデルとしていても、映画のなかでは徹底したニヒリズムの持ち主にまで過激化され、それを負の原理で否定しうようとしても空無化されてしまうような存在になっている。徳川斉韶という人物は、原作(池宮彰一郎)とシナリオ(天願大介)のレベルでは、そうした人物と重なり合う要素を持っている。しかし、それが徹底されていないのと、稲垣吾郎の力量との関係で、映画のなかで形になった斉韶は、中途半端なものになってしまった。斉韶の暴力や虐待が、「普通人」の狂気や異常を越えた何かであるのなら、彼は、それを「普通人」が自分の不明さに気づくような身ぶりや表情で「反省」してはならない。その残酷さや恐ろしさが、最後までわからないのでなければならない。ある種の「モンスター」として描かれるべきなのだ。それに対して、稲垣は、最後には「あたりまえ」の人間の相貌を見せる。これでは、志士たちも家来も死ぬに死に切れない。
◆斉韶を、ニヒリスティックなデカダンスの残忍な美学に生きる人間としてとらえなおしたとき、それは、本作よりもより三池崇史的な作品になっただろう。だが、そのとき、必然的に、13人の志士たちの「努力」は虚しいものになるから、殺し合いや戦い自体が「無化」され、殺しあうことや戦うこと自体に根底から疑問をつきつけることにもなる。三池には、その覚悟があっただろうか? 少なくとも、この映画では、それはあいまいなままになっている。
◆伊勢谷が演じる山窩の民・木賀小弥太は、殴られても全然痛がらないし、クライマックスの13人対300人という決戦のなかで奮闘しながらも、首に刀を突き刺されて一旦は倒れながら、生き返る。この登場人物をめぐっては、賛否両論あるようだが、わたしは、彼を12人の志士たちの願望的な存在(ある種の「堕天使」)と見る。というのも、島田新左衛門(役所広司)の息子・新六郎(山田孝之)が最後の契りを結ぶ芸妓・お艶を演じる吹石一恵は、ダブルキャストで、この木賀小弥太を愛する山の女・ウパシを演じているからである。
◆このごろの時代劇ではいいかげんに描く傾向がある既婚女性の鉄漿(おはぐろ)と引眉(ひきまゆ)は、この映画ではしっかりと描かれている。谷村美月がそのいでたちで登場すると、その「異様」さのエロティシズムが、いかにも三池崇史世界にふさわしく感じられた。拷問され、手足を切断された女性のグロテスクな姿へのリアルな、そしてそれだけエロティックにも見える表現への執着も、三池崇史ならではのものだった。
◆【追記/2010-09-28】本欄のレヴューに対して、以下のような意見をいただいたので、そのまま掲載する。なお、わたしは、<「十三人の刺客」の基本が復讐劇だ>とは言っていない。<基本は、復讐劇のはずである>とあえて傍線付きで書いた。が、原作と映画を等距離で読み込んでいる意見はとても参考になる。
<「十三人の刺客」の基本が復讐劇だという点に疑問を感じます。松平斉韶(なりつぐ)(稲垣吾郎)は、老中になってしまっては困る奸物であるので、それを殺害して取り除く作戦であることは一貫していて、復讐を考えているのは牧野靭負(ゆきえ)(松本幸四郎)ぐらいだと思います。島田新左衛門(役所広司)も確か斉韶を刺すとき、復讐めいたことを言いますが、もっともらしい口上で、作劇上、復讐を匂わせているのだと思います。斉韶は無表情で女子供さえ惨殺し、人が見ていないときは犬食いをし、追い詰められた時の「戦はいいものだ。」という一連の台詞や殺されるのに感謝するような動作は、確かに私たちとは考え方が違う「異常」な人で、今回三池監督が最も「愛情」を込めて演出した人物だと思います。ただ「異常」であるから殺されなければならない悲しい人でもあるのでしょう。ただ、それだけでは面白くないので、復讐の論理をお話上、組み入れたのだと思います。斉韶の非道で両手両足を失った少女が書いた「みなごろし」の文字を新左衛門が追い詰めた時に出して見せるところに、特に強く現れていると思います。実際は「異常」な人物の権力による抹殺であっても、「復讐」が成し遂げられて私たちはさわやかな気分で映画館を出ることが出来ます。ただ、先生がおっしゃるように、オリジナル(原作映画)を見ても今回のものを見てもこの二つの論理が上手くかみあっているかは疑問ですが。(よしぼう)>
(東宝配給)


2010-08-05_1
●遠距離恋愛 彼女の決断 (Going the Distance/2010/Nanette Burstein)(ナネット・バーンスタイン)  

まえにも書いたが、いまの時代、離れて暮らしながら恋愛・夫婦関係をつづけるという「リモート・カップル」は増えているはずだ。だから、ずばりその問題をテーマにしているようにみえたこの作品に期待した。が、この映画は、「リモート・カップル」を描いているのではなく、ごく普通の事情で「離れて」暮らすことになってしまった「制約」をどう解消するかに終始するカップルの月並みなロマンティック・コメディだった。いまの時代に「リモート・カップル」であることの新しさや工夫はどこにも描かれていない。カップルは「離れては」暮らせないという古いテーゼをくりかえしたにすぎない。だから、偶然と一緒に暮らそうという「決断」が最後にあって、ハッピーなエンディングになる。つまらない。
◆映画としての構成も安い。ゲイではないのにいつもいっしょにいる(あくまでドラマの演出上の都合で)ジェイソン・サダイキスとチャーリー・デイの「お笑いコンビ」が道化まわしで登場するのもわずらわしい。なぜ、ドリュー・バリモアとジャスティン・ロングだけでやれないのか? この映画、ジャスティン・ロングとの「内部事情」で作られたような作品なのだから、二人でどーんと行った方がよかったのでは?
◆映画のなかではバリモアは「31歳」という設定であるが、ドキュメンタリー出身のナネット・バーンスタインの「うっかり」か、設定よりもはるかに老けた感じに映っている。ジャスティン・ロングも、すでに32歳(1978年6月2日生まれ)だから、ボーイッシュな感じを売り物にするわけにはいかないが、この映画では、その「ボーイ」と「中年」とのあいだの決断を決めかねているイモ臭い感じが出ていて、うんざりだ。わたしはジャスティン・ロングが好きではないから、これは偏見にすぎないが。
◆「遠距離恋愛」の話としてではなく見れば、見るべきところはある。姉(クリスティナ・アップルゲイト)との関係やバリモアをはじめとする登場人物たちの俗語表現だ。しかし、字幕でその感じを出すのはむずかしいので、字幕だけでは楽しめない。
◆バリモア演じるエリンは、新聞記者をめざしているが、アップライト式のゲームで最高点を挙げるゲーマでもある。が、31歳という設定でゲーセンに通ったとすると、20年前ということになるのだろうか? たしかに、この時代は、スーパーファミコン全盛であり、やがてフルポリゴンのゲームソフトが普及し、ソニーのプレイステーションが登場する。そういう時代を謳歌した世代にとって、「距離」はむしろあたりまえだ。いまのケータイも、そういう世代が支えている。が、エリンは、にもかかわらず新聞にこだわっている。紙メディアという電子メディア以前の旧メディアだ。ならば、彼女が「リモート・カップル」にはなれないのはいたしかたない。
◆ロング演じるギャレットは、メイジャーレーベルのディレクターである。バンドを見つけてCDを作り、売る。が、彼自身はいまの会社での仕事に満足していない。もっと「心に通う」バンドをもりたてたい。これは、どちらかというとひと時代まえのパターンである。音楽産業では、もはや、興味を持てないディレクターがいやいやプロデュースするイヴェントなどが生き残る余地はないからである。映画では、ギャレットは、会社を辞め、ローカルなバンドのマネージャーになる。結末は、えらく「古典的」である。
(ワーナー・ブラザース映画配給)


2010-08-04
●武士の家計簿 (Bushino Kakeibo/2010/Morita Yoshimitsu)(森田芳光)  
Bushino Kakeibo/2010/Morita Yoshimitsu
◆日本の現在と家族に関心のある森田芳光の作品としてはバランスのとれた佳作だ。「秀作」と言わないのは、そのまとまりがよすぎて、わかりやすすぎるテレビ的要素だ。律儀さ、つつましさ、礼儀正しさの薦めが押し付けがましくなく描かれている。仲間由紀恵がひと皮向けている。いつも顔から笑いが消えない堺雅人も、最晩年の猪山直之を演じるときにはちょっと無理という感じだったが、それも許容できる。
◆瞬間しか映らないが、日々の食事、猪山直之が持参する弁当の内容が手抜きでなくちゃんと按配されている。経費節減のために仲間由紀恵が、鱈のような(当時は)安い魚を買い、昆布じめにして供するシーンなど、納得がいく。食い物をちゃんと描く映画に駄作はない。もう1秒ながく映せば、そこからさまざまなメッセージが読み取れるが、それをしないで瞬間描写なのが奥ゆかしい。
◆磯田道史の研究的エッセイ『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 』(新潮新書)を映画にしたのは、非常にアップ・ツー・デイトであり、慧眼である。コミックや小説からではなく、研究論文のようなものから映画に翻案できるものはいくらでもあるだろう。本作は、そういう先駆けを作った。
◆代々下積みの「御算用者」としての身分に甘んじていた者が、藩の政治改革に貢献し、明治になっては、エリートサラリーマンになるというストーリーは、一つの成功物語である。刀によってではなく、ソロバンによって世の中を変えたという意味では「平和主義」でもある。しかし、いつの時代にも、職業の階級的シフトが起こり、いま下積みでも明日には期待される働き手になるという変換が起こる。腕っ節の強さがメリットだった時代から、いまや、情報の操作やアレンジの能力が買われる時代になった。「工業化」から「脱工業化」や「サービス化」や「情報化」へのシフトという構図は人口に膾炙している。しかし、この映画の面白さは、それを「ソロバン侍」に焦点を当てて描いている点である。
◆こういう映画を見ると、いま世の中には、親子間でのけじめ、礼儀、継承への関心が暗黙に高まっているのかという想いにかられる。映画で、猪山直之(堺雅人)の母(松坂慶子)は、彼と父親(中村雅俊)が城へ出勤するとき、門口で、必ず「行っておいで遊ばせ」と言って送る。そして、猪山直之が娶る妻(仲間由紀恵)は、それを継承する。襖(ふすま)の開け立て、息子が親に手をついて挨拶する仕方、映画のなかで描かれるそうした身ぶりや挙措が、伝統的に正しいのかどうかはわからないが、この映画のなかで、ある種の美学を形づくっていることはたしかである。
◆いまの10代から20台のいわゆる「若者」の書く文章を見ていると、若いのに敬語がしっかりしている少数者と、ほとんど敬語と丁寧語の表現力が破綻してしまっている者、ほとんど完全に脱敬語になっている者とがいる。敬語とは、相手と自分との差異を読み取る感性にもとづく表現だが、そういう感性が喪失することはないから、敬語は生き残ると思う。が、同時に、既存の階級差や慣習的な差異はドラスチックに変容しているから、言語表現の表層から「敬語」が消えていくことはありえるだろう。が、そのときには、逆に、会釈とか目の動かし方とかの身ぶりのレベルでの微妙な身体表現が要求されるようになるだろう。わたしの経験では、そういう身ぶりのレベルで繊細さを獲得している者は、若くても、敬語や丁寧語の表現が出来るようなのである。結局、同じことなのだ。
(アスミック・エース+松竹配給)

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