●眠れる美女(マルコ・ベロッキオ)

Bella addormentata/2012X/Marco Bellocchio       ★★★★

◆日本では、2010年の『マイ家の妹たち』(Sorelle Mai)が未公開なので、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女 Vincere』(Vincere/2009)に続くマルコ・ベロッキオの新作。

◆2009年にイタリアのマスメディアを挙げての議論をまきおこした「エルアーナ・エングラーロ」事件を問題にしているが、この映画の基本に、当時のマスメディアが問題にしたような意味での〝尊厳死〟を問題にしているのではないということを知る必要がある。

◆ベロッキオのとっては、〝尊厳死〟が是か非かは当事者の問題であるという認識がある。だから、延命装置をつけている妻と彼女を憐れみ早く死なせたいと望む夫・議員(トニ・セルヴィッロ)と娘(アルバ・ロルヴァケル)とのあいだの意見の相違を一方に加担することなく描こうとする。また、エルアーナと同じように〝植物状態〟にある娘を持つ母親・女優(イザベル・ユペール)と息子との意見の相違にも判定をもうけない。

◆エルアーナ事件に関するベロッキオの批判は、最高裁で認められエルアーナの父親ベッピーノ・エングラーロの意志を覆そうとするキリスト教勢力とそれを挑発するシルヴィオ・ベルルスコーニ首相とその一派に向けられている。1970年代のイタリアで吹き荒れたアウトノミア運動の共感者であるベロッキオにとって、ベルルスコーニの〝独裁〟とりわけマスメディアの統合は、許しがたいものがある。

◆ここを押えないと、なぜベロッキオが、〝ヒューマニズム〟の立場からエルアーナの延命を(無責任に)挑発し、それに乗ってデモをくりかえす教会勢力の動きを主に映し、エルアーナ自身、さらにはその家族すら映像にしないことの理由がわからなくなる。問題は、いつもイタリアに潜在する、憲法にもつづく決定の無視なのだ。

◆以上を前提としてはじめて、なぜこの映画が、教会に入り込んで寝ているホームレス的なドラッグ中毒者のロッサ(マヤ・サンサ)から始め、エピソード的に挿入される彼女の自殺願望的なふるまいののち、彼女を絶対に死なせないとする医師パッリド(ピエール・ジョルジュ・ベロッキオ)と彼女が自死をめぐって壮絶な議論をし、ある種の〝停戦〟状態で終わるのかがわかるだろう。

◆この映画から浮かび上がる死生観は、もし本人、家族や愛する人が望むなら、自死も〝自殺幇助〟も許されるだろうというものである。しかし、それでは、愛する者がいない孤独な人間は、死にたいときに死んでもよいのだろうか? これが、ロッサとパッリドとの議論の中心にある。議論のなかで、パリッドは、手首を切って入院させられたロッサを見張り、自分は医師としてきみを死なせることはできないと言う。だが、二人の関係は、単に患者と医師との関係ではない。

◆ロッサは、すべてに絶望し、薬中になり、ホームレス的な生活を送ってきた。この日も、教会から抜け出して、パッリド医師の病院にたまたまやってきだ。出会いは、病院のまえで彼から金を盗もうとしたことだった。それに失敗した彼女は、その後、病院内に忍び込み、麻薬を盗もうとして捕まる。が、パッリドのまえで彼女は好きを見て自分の手首を切り、出血する。パッリドは無理やり腕を抑え、治療させる。彼の金を盗もうとしたときにおとらず激しい身ぶりのシーンである。激しいシーンは、もう一度ある。ベッドに寝かされた彼女は、パッリドに対し、「あなたがいなくなったら、窓から飛び降りてやる」と言う。そして、実際にそれを試みるが、間一髪で彼に救われる。窓によじ登る彼女に飛びかかり、もつれあう二人の姿は、凡庸なセックスシーンよりもエロティックである。

◆つまり、ロッサとパッドリとのあいだには愛ががめばえている。彼は、「きみが死ぬのは自由だが、死なせないのもわたしの自由だ」と言う。あなたに関心を持つ人間、あなたを愛する人間がいるかぎり、あなたは勝手に死ぬことはできないのである。

◆ロッサを演じるマヤ・サンサは、ベロオキオの『夜や、こんにちは』(Buongiorno, notte/2003)でも重要な役を演じた。1970年代のアウトノミア運動の息を止めることになった赤い旅団によるアルド・モロ誘拐・処刑事件を描くこの映画のなかで、サンサは、アルド・モロがキリスト教民主党によって利用されていること、赤い旅団による彼の〝処刑〟はかえって権力が彼を〝殉教者〟に仕立てることを利するものであり、多数派政治を取ろうとしていたモロ首相を排除できること、自分がメンバーの一人でもある赤い旅団の本質が、実はきわめてキリスト教的であること、に気づいていく。彼女のような若者は多数いた。そしてその多くは、モロ事件を契機に始まる大弾圧を通じ、そしてさらにその後のネオ・リベラリズム(その核心にベルルスコーニがいる)の流れのなかで、〝武装解除〟され、骨抜きにされていく。まさに、マヤ・サンサが演じる「ロッソ」は、イタリアの70年代の「赤」つまり左翼の先鋭であり、そのなれの果てである。

◆イタリアではいまでも密談はスチームバスのなかでやるのか? ベッファルディ議員(トニ・セルヴィッロ)に老人の議員が言う。「テレビは緩衝処置であって(本当の)治療ではない。テレビのまえでひとは自分がグループの一部をなしていると感じる」――これは、まさにベルルスコーニのメディア観である。

◆数々の汚職疑惑のすえ引退したブルルスコーニは、最近になって議員資格を剥奪されるに至ったが、ベルルスコーニの発言はいつも低俗きわまりまいものだった。映画のなかでも、エルアーナがじきに意識を取りもどすと言い、いつでも子どもを生める状態にあるといったことを発言する。バカじゃなかろかと思う発言だが、メディアを独占した彼は、テレビと新聞をいいようにあつかった。1970年代にラジオ・アリチェで自由ラジオ運動の先端にいたビフォーことフランコ・ベラルディは、ベルルスコーニの時代に、テレストリート(
Telestreet)という(日本のミニFMに似た)マイクロテレビの運動を試みた。ベルルスコーニがメディアを独占しているので、そういうマイクロ単位のメディアが必要なんだと言っていた。

◆「尊厳死」という言い方は、"Death with Dignity"や"Dying with Dignity"から来ているが、この語はむかしは、"Euthanasie"と言っていた。"eu-"は、「容易に」、"thnasie"は、タナトスと同系で、「安楽死」という訳語があった。しかし、いつのまには、この語の代わりに"Dying with Dignity"が使われるようになった。ちなにみ、1935年以来の歴史を持つUKの"Dignity in Dying"は、2005年まで"The Voluntary Euthanasia Legalisation Society" (VELS)と名乗っていた。どこかで、"diginity"(尊厳)というが入ってくるのである。しかし、英語の"digunity"には、尊敬するの〝尊〟の意味はあるが、必ずしも〝厳〟の意味はない。日本語の〝尊厳〟には、武士の切腹のようなおごそかなイメージがつきまとう。"Death with Dignity"や"Dying with Dignity"の意味は、個々人が、物を使い捨てするような仕方で死なされるのではなく、人間らしく死ねることにつきる。

◆ところで、ただの"dying with dignity"ではなく、「尊厳死」などというおごそかな表現そしているにもかかわらず、日本では「尊厳死」は不可能である。なぜなら、日本には死刑制度があり、人間の一部は決して「尊厳死」できない現実があるからだ。尊厳死を合法化するには、死刑制度をやめなければならない。

◆ロッサ(マヤ・サンサ)が、パッリド医師に、「どうしてあなたはこの糞だらけの世界で生きることを強制するの?」と毒づくと、医師は、それは自分を買い被っている、傲慢だと言い、「きみにはディグニティ/ディグニタがない」と批判する。この「ディグニティ/ディグニタ」の意味は、自分をありのままに認めるという意味であって、切腹する武士のように、死に臨んでまで虚勢や見栄を張ることではない。しかし、ロッサは、「ふん、ディグニティ/ディグニタなんて香水みたいなもんよ」とせせら笑う。彼女にとって、それは、虚勢や見栄の産物なのだ。たしかに、dignityの語源には、貴族や上流階級のセンスがしみ込んでいる。

◆ロッサが、そのとき「ふん、Dignitasね」という台詞を吐き、「あなた、自由に死ねる施設の名前知っている?」と言う。これは、スイスの「ディグニタス」のことだ。ここは、合法的に〝自殺幇助〟をするネットワーク組織で、映画では、ステファヌ・プリゼ監督の『母の身終い』(Quelques heures de printemps/2012/Stéphane Brizé)がこの組織の援助で死ぬ老女を描いている。
ロッソにとって、死は死であって、「尊厳をもって」死ぬか生きるかなんてことは、特権階級にだけ許されたものであって、自分らは、そんなことには関係がないのだという思いがある。それは、その通りだとう。が、パッリド医師との〝論争〟の末に彼女がとりあえずまだ生きていてもいいと思うようになるのは、死ぬのは自分のためだとしても、生きるのは(愛する)他人のためであり、そういう人が一人でもいるのなら、生きているしかしかたがないということだった。

◆ロッサとパッリド医師とのもみあう身ぶりがエロティックであるとすれば、二人の〝論争〟は、喧嘩ではなく、愛の行為のひとつである。うっとりと心情的に同化する愛よりも、論争ともみあいのなかの愛とは、マルクス的な愛であり、「赤い」ロッソにとってはふさわしい。



リンク・転載・引用・剽窃自由です (コピーライトはもう古い)  
メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート