2012年9月公開

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2012年9月公開ボブ・マーリー ルーツ・オブ・レジェンド ★★★★★最強のふたり ★★★★★モンサントの不自然な食べものコロンビアーナ ★★★★★カルロス ★★★★★デンジャラス・ラン ★★★★★ディクテーター 独裁者 身元不明でニューヨーク    ★★★★★ウェイバック 脱出6500km   ★★★★★リヴィッド ★★★★★白雪姫と鏡の女王 ★★★★★バイオハザード V   リトリビューション   ★★★★★天地明察 ★★★★★コッホ先生と僕らの革命  ★★★★★スリープレス・ナイト  ★★★★★ライク・サムワン・イン・ラブ   ★★★★★わたしたちの宣戦布告 ★★★★★ル・コルビュジエの家  ★★★★★イラン式料理本 ★★★★★そして友よ、静かに死ね  ★★★★★ロック・オブ・エイジズ  ★★★★★ソハの地下水道 ★★★★★壊された5つのカメラこれは映画ではない  ★★★★★ボーン・レガシー ★★★★★ハンガー ゲーム ★★★★★エージェント・マロリー   ★★★★★エレベーター ★★★★★アイアン・スカイ ★★★★★ロビイストの陰謀 ★★★★★HOME: 粉川哲夫のシネマノート
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2012年9月公開

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ボブ・マーリー ルーツ・オブ・レジェンド ★★★★

Marley/2012/Kevin Macdonald

◆ボブ・マーリーというひとは、結局、運がよかったのだと思う。生涯、好きなことをやった。むろん、苦労はあっただろう。むろん、努力はしただろうし、彼に献身的な人物が何人もいた。しかし、何が起こっても、創造的な方向に進んだのは、運ががよかったのだ。白人との混血という生まれによる生地での差別は、キングストンの都市的環境のなかでカルチャラル・ミックスという創造的な要素に展開する。時代も時代だが、ラスタファリズムへの帰依も、ほとんどすべてプラスに働いた。その信仰が彼をますますユニークにした。エチオイアのハイレ・セラシエI世を神の生まれ変わりと信じるラスタファリズムは、コンテキストを替えれば、うさんくさいしろものだが、彼にとっては、創造的な活動とユニークなライフスタイルの根源となった。ボブ・マリーのラスタファリズムへの帰依に関して、同時代のエチオピアの出来事をあつかったハイレ・ゲリマ『テザ    慟哭の大地』(Teza/2008/Haile Gerima)を見ながら考えれば、とてもハイレ・セラシエI世のジャマイカ訪問(1966年)をボブのように喜んで受け入れるわけにはいくまい。しかし、彼にはそんなことはどうでもよかった。彼は、好きなだけマリワナを吸い、7人の女性を事実上の妻にした。

◆ボブ・マリーを支えた苦労人たちのうち、音楽プロデューサーのクリス・ブラックウェルや、彼の(司式の)妻で、他の女性たちをまとめてめんどうをみたリタ・マーリー、みんなえらいと思う。

◆天才は好きにやればいい。誰かが尻拭いをしてくれる。

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最強のふたり ★★★★

Intouchables/2011/Olivier Nakache/Eric Toledano

◆面白く仕上がっている。出演者の演技もいい。だから、映画としての評価に★4を付けた。しかし、どこかひっかかる。それは、おそらくわたしの階級的なひがみから来るものだろう。とにかく、フィリップ(フランソワ・クリュゼ)は大金持ちである。趣味のパラグライダーの事故で首から下が麻痺してしまい、介護人をやとう。そこにあらわれるのが、オマール・シーが演じるドリスである。彼は、アフリカからの難民で、スラムに住んでいる。最初は、面接したという証拠があれば、失業手当がもらえるというので面接にパスすることなど期待せずにフィリップのところへやってきた。

◆階級を越えた物語というのはウケる。階級差はなくなりはしないのに、階級の低い者が超上流階級の者に言いたい放題を言ったりするとひとは感動する。そういうことは現実にはないからだ。フィリップとドリスの関係がまさにそうだ。フィリップにしてみれば、それまでそういう経験がなく、身の回りのこととすべて代行してくれるスタッフにかしずかれて暮らしてきたから、なんでも言いたい放題を言うような相手は新鮮に見える。

◆しかし、こういうドラマが<感動的>なのは、われわれの心のなかに、<階級を越えたい>という願望があり、このドラマがつかのまそういう疑似体験にさそうからである。誰だって、アンヌ・ル・ニが見事に演じるような聡明でチャーミングな円熟したアシスタントを持ちたいと思うだろう。介護ではなくても、応募してくる多数の候補のなかから使用人をやとえれば、それにこしたことはない。しかし、そんなことができるのは、人口のほんの一握りの人間しかいない。そんな余裕があったら、専用にリザーブした飛行機に乗って旅行したり、介護付でパラグライダーなんかしないで、もうちょっと、貧民や恵まれない人間にコントリビュートしろよと言いたい。その意味では、この映画は、「普通」の人間の弱みに付け込んで巧みに作られた映画である。

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ディクテーター 独裁者 身元不明でニューヨー    ★★★★

The Dictator/2012/Larry Charles

◆政治へのアイロニーな皮肉や下ネタとドタバタの活用は、『ボラット』(→http://cinemanote.jp/2007-04.html#2007-04-03)や『ブルーノ』(→http://cinemanote.jp/2010-03.html#2010-03-03)と同じだが、今度の政治的アイロニーは、やや軽薄である。『ボラット』も『ブルーノ』も、ラリー・チャールズ監督とサシャ・バロン・コーエン(脚本/製作)とのコラボレイションだが、ラリーの線が強く出ると政治性が高まり、シャシャの路線が強くなるとドタバタと下ネタ性が強くなるようだ。今回は、いかにもユダヤ系の政治意識の強い女といった風情のゾーイ(ユダヤ系の名前)(アンナ・ファリス)とアラディーン(サシャ・バローン・コーエン)とのひねったラブストーリーになっていて、ほとんど<下品さを強めた>ウディ・アレン(ただし70年代の)という感じ。

◆最初、イラクのサダム・フセインや北朝鮮のキム・ジョンイルを安く皮肉った独裁者の愚行をカタログ的に見せるので、サダムもキムもいないいまの時代にこんなパロディーは安すぎるという思いがしたが、側近トップのタミール(サー・ベン・キングスレー)の陰謀で、ニューヨークの国連での演説直前に誘拐されてしまい、暗殺を恐れて用意したダブル(偽者)とすりかえられる。監禁をからくも逃れ、ニューヨークの街に逃げ込んだアラディーンは、翌日国連のまえに行ってみると、アラジーン体制の反動的姿勢に反対し、デモクラシーを叫ぶデモを目撃し、驚く。が、デモクラシーなど全く頭にない彼は、<俺が本物のアラジーンなんだ>と叫び、国連の塀をよじ登ろうとし、警官の阻止される。それを見ていたデモの活動家のゾーイが、彼に同情し、彼を助ける。まあ、このあとは予想通りの展開となる。

◆ウディ・アレンの『バナナ』(Bananas/1971) も、この映画と似たようなドタバタ的スタイルでキューバのカストロを嘲笑したが、1971年という時点で、チリのアジェンデによる社会主義政権が軍事クーデターで倒されることを予見した。プレスで類似性ありとされているチャールズ・チャプリンにいたっては、その『独裁者』(公開時にはこのタイトルだったのに、いまではしつこく『チャプリンの独裁者』と記す)(The Great Dictator/1940) で、ヒトラー自身が激怒したといわれるほど毒のあるアイロニーを込め、状況を先取りした。こういう鋭さは、ラリー/サシャ組の『独裁者』にはない。

◆しかし、こういうアイロニーが依然として<大衆芸能>のスタイルとして健在なのは喜ばしい。その基本の一つには、人種差別すれすれのパターン化されたエスニシティがある。アンナ・ファリスが見事に演じたエコロジストでラディカル・デモクラシーのアクティヴィストのゾーイは、アレンの『バナナ』のナンシー(ルイーズ・ラッサー)であり、『トゥー・ウィークス・ノーティス』のルーシー(サンドラ・ブロック)と「ありがちなパターン」を共有している。側近のタミールをベン・キングスレーが演じると、いかにもインド系という感じが出て、<インド人は油断がななない>というアメリカではありがちな偏見をそそる。

◆アメリカ人に対する嘲笑も随所に見られる。アラジーンによって粛清されたはずの物理学者ナダル(ジェイソン・マンツォーカス)とニューヨークで再会して手の平を返したように親しくなって、二人で「ゴーサム・ヘリコプター・ツアー」というバイト商売をやる。客の老夫婦を乗せて上空から市内の案内をするはずだったが、二人で911の話に熱中し、しきりにヘブライ語(客はアラブの言葉だと思う)で「オサマ・ビン・ラディン」をくりかえすと、客はおびえる。これは、いまのアメリカのイスラム恐怖を笑っている。

◆この映画からあえて能動的なものを引き出すとすれば、ラリー/サシャ組が冗談めかして問題にしているデモクラシーの問題だろう。アラディーは、ゾーイが経営しているオルガニック(有機栽培)の店(これもありがち)を手伝い、その経営が行き詰ると、彼が得意とする独裁者的強権マネージメントを実行し、成果を上げる。デモクラシーを優先するために上がらなかった効率がぐんと上がる。このへんは、いまの腕利きの経営者が暗黙に考え、密かに実行をていることを素朴な形でなぞっている。

◆ゾーイのようなアメリカの古典的な活動家は、デモクラシーを信じ、その活性化(ラディカル化)をはかろうとする。「直接民主主義」というのがその一つだが、これは、とうに終わっている。スクウォット・ウォールストリーが、もしそうした直接民主主義の具象化したものだとするならば、この運動の有効性は消えてしまうだろう。むしろ、この運動をポストデモクラシーの運動としてとらえなおすことこそ、いま必要なことだ。重要なのは、デモクラシーが反デモクラシーによって抑圧されているのではなく、企業やビジネス世界の先端ですでの越えられてしまっていることを理解することである。

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ウェイバック 脱出6500km   ★★★★★

The Way Back/2010/Peter Weir

◆最初、予告編や広告で刷り込まれたイメージが、エド・ハリスやコリン・ファレルらが演じる屈強な男たちがヒマラヤからインドまでの難所4000マイル(6500キロ)を越えるという『ヒマラヤ      運命の山』のようなものだったが、見てみると、いろいろとヒネリのある映画だった。まず、脱出の理由だが、ジム・スタージェス、エド・ハリス、コリン・ファレル、マーク・ストロングらが演じる男たちは、それぞれにわけがあってソ連統治下のシベリアの収容所に入れられ、そこから脱出を試みるのであった。ピーター・ウィアが監督するのだから、なんらかの政治性があるのだと思ったが、やはりそうだった。

◆映画は、拷問されたらしい妻の証言でヤヌシュ(ジム・スタージェス)がソ連つまりはスターリンに体制批判の罪でシベリア行きを宣告されるシーンから始まる。ポーランドがソ連とナチスとの分割的支配下にあった1940年のことである。おそらく彼は、ポーランド独立運動に加わっていたのだろう。

◆ヤヌシュがシベリアについてみると(雪のなかを集団で連れてこられるシーンは、規模は違うがふと『網走番外地』のシーンを思い出した)、劣悪な環境のなかに一癖も二癖もある男たちがいた。一人は、病人らしい男に食物を分けてあげたヤヌシュに対し、「親切は死を招くぞ」とすげないことを言うミスター・スミス(エド・ハリス)。この男は、アメリカ人だが、大恐慌のあとソ連のモスクワの地下鉄工事のために息子と出稼ぎに来たが、そのために当時は、ソ連国籍を取らなければならなかった。しかし、1939年8月、ソ連がナチスドイツと不可侵条約を結ぶに至り、米ソの関係が悪化する。そのとき、スミスのようなアメリカ人は、米国大使館に保護願に行くと、お前はソ連人だからと追い払われ、ソ連の方は、結局彼のようなアメリカ人をシベリアに送り込み、一説では7000人が死亡したという。ミスター・ハリスはそんな過酷な条件を生き抜いてきた一人である。

◆刑務所の古いやり方として、ある種のヤクザ集団を優遇し、所内の「秩序」を維持する。ここでは、コリン・ファレルが演じるワルカーがそういう人物で、彼は、Urkiというヤクザ・暴力団の一人である。ウルキの連中は、所内を自由に歩きまわり、好きに売り買いが出来る。彼が、ヤヌシュやミスター・スミスと脱出をするに至った経緯、国境で急に気を変えるのは、本心からか、集団への忠誠心からか、あるいはもっと別の理由からかは、考えてみると面白い。コリン・ファレルは、この映画のあと『モンスター上司』(Horrible Bosses/2011/Seth Gordon)でもブットンだ単細胞人間を演じたが、このワルカという人物も単細胞の危険な人物である。

◆逃避行のなかで、ポーランド人の女性イリーナ(シアーシャ・ローナン)が加わるが、憐れな最後を見せるだけで、『ハンナ』で強烈な演技を見せたローナンをわざわざ起用するにはおよばなかった。

◆サバイバルの知恵のようなものが随所に見える。砂漠での蜃気楼の怖さも、説得力がある。

◆終わり近くで、モノクロのニューズリールを使って東欧の歴史が紹介される。1945年のヨーロッパ解放、ソ連の支配、ハンガリー動乱(1956年)、ベルリンの壁の建設(1961年)、ソ連のチェコ侵攻(1968年)、ワレサらの〝連帯〟の反抗(1980年)、共産圏の崩壊(1989年)。この映像にかぶってヤヌシュの足が映り、ベルリンの壁の崩壊の映像のあとになって、老いた彼が妻のもとを訪ねるというところへ行く。つまり、ヤヌシュは、収容所の仲間とインドまで脱出したものの、故郷に帰り着いたのは50年近くあとになってからだったということになる。夫を売ってしまったという深い傷を負いながら夫を待ちわびていた妻との再会でこの映画を終わらせるところが、いかにもピーター・ウィアーらしい。

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リヴィッド ★★★★

Livide/Lived/2011/Alexandre Bustillo/Julien Maury

◆母の死後、訪問介護ヘルパーとしてフランスの田舎にやってきたリュシー(クロエ・クールー)は、指導役のミセス・ウィルソン(カトリーヌ・ジェコブ)に案内されて、人里はなれた古い豪邸を訪ねる。そこには防毒マスクのような人工呼吸器を着けた高齢の老婆デボラ・ジェセル(マリ=クロード・ピエトラガラ)がベッドに寝ている。彼女は、もとバレーの教師で、この屋敷には多くの少女が彼女の訓練を受けていた。財宝が隠されているということをききつけたリュシーは、男友達2人とある夜、この屋敷に忍び込む。暗闇のなかにはあの老婆しかいないはずだったが、次々に怪奇なことが起こり始める。

◆ある意味でグロいシーンが多いが、そのグロさがちゃんとして美学に裏打ちされていて、引き込まれた。話としては単純でも、いろいろとシュールに思いつくことが多い。

◆バレーの訓練をほどこす若いときのデボラ・ジェセルの姿がフラッシュバック(誰の意識のという感じではなく、ある種の実体として登場する)的にあらわれるが、その訓令はサディスティックであり、それを演じるマリ=クロード・ピエトラガラの存在感はなかなかのもの。

◆怪奇な家のなかのさまざまな道具や胎児の入った標本など、エイジング技術と撮影(ローラン・バレ)が光る。

◆ネタバレ野郎がいるので書かないが、最初の海岸のシーンは死の気配が充満している。実際に、冒頭のシーンでは、砂と海藻に埋もれた死体の頭部が見える。廃車や廃船もある。ここは死の港町ではないのかという思いを持たせて、全然関係のないトーンのシーンに移る。しかし、最後は海岸のシーンになり、それは、夢のような世界なのだが、最初のシーンと最後のシーンとをどう結びつけるかが、この映画の鍵でもある。

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コッホ先生と僕らの革命  ★★★★★

Der Ganz Grosse Traum/2011/ebastian Grobler  セバスチアン・グロブラー

◆1874年の帝政ドイツの北都市ブラウンシュヴァイクの保守的な小学校に赴任した英語教師が、とてつもなく凝り固まった規律主義の生徒たちをサッカーで改造する。この時代、(なんと1927年まで)サッカーは、禁止されていた。

◆この時代のドイツは、北と南では国風がちがった。厳しい環境では、国家統合が急務であった。すべてが戦争に勝つということを至上のものとする価値観。そこに、イギリスの「自由」の気風に染まった若い教師が赴任し、環境の堅苦しさにうんざりする。

◆日本は、プロシャつまりは北ドイツの最も国家主義的な教育・政治・軍事文化を輸入したが、コッホのような「異分子」はいなかった(少なくとも歴史の表街道には)ので、学校は、この映画で描かれる権威主義や画一主義よりもはるかに権威主義的かつ画一主義的な教育が貫徹され、それがいまだに尾を引いている。

◆わたしも教育現場にいたとき、なにかの加減で学生が全体として変わる瞬間を経験した。それは、一見、ちょっとしたアイデアの導入なのだが、<いっしょにやる>ということが服従ではなく、<協同>だという意識で個々人のわがままがわがままではなく、相互に能動的な影響をあたえあうものに変換する。この映画でも、そういう瞬間の描写に何度か出会う。

◆組織というものは、どれもそうなのかもしれないが、日本では、昔から、なにか新しいことや現状を打破することを試みようとすれば、反対や規制がかかる。理由はと訊けば、<やはり・・>と来る。誰が反対しているんですかと訊けば、<誰がというわけではないですが・・・>とわけのわからない話になっていく。規制の空気というものが所与としてあり、それを信仰のように守っている。だから、新しいことや現状を打破することをやろうとしたら、違法や不法を敢行するしかない。ちなみに、<違法>とは、知らずに法を犯すことを含み、<不法>は最初から法を犯すことを知っていて犯すことだという。

◆この映画は、先生(ダニュエル・ブリュール)、金持ちの野心家(ユストゥス・フォン・ドーンマニー)、その息子で鼻持ちならないエリート学生(テオ・トレーブス)、自由びいきだがベルリンの教育庁とのあいだで苦労する校長(ブルクハルト・クラウスナー)、母子家庭の貧しいユダヤ人生徒(アロリアン・モーレ)などの典型的なキャラクターで構成された<わかりやすい>作品である。このような世界には、その後の国家主義ドイツの地方的予兆も見えるが、そういう面の示唆は意図的にはしていない。

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スリープレス・ナイト  ★★★★★

Nuit blanche/Sleepless night/2011/Frédéric Jardin

◆銃を乱射してドラッグディーラーの車を襲い、ヘロインを強奪する最初のシーンのスピード感と緊迫感は、これがまだ4作目の監督フレデリック・ジャルダンの可能性を示唆してはいる。

◆最後まで息つく暇もあたえずに引っ張っていくので、終わってから思うのだが、では、いったいなぜ二人の刑事がドラッグの強奪などをしなければならなかったのかである。それは、ドラッグディーラー側が、強奪者を割出し、早速この主犯刑事ヴァンサンの息子を誘拐する(そして誘拐されたからヴァンサンは必死で息子を取り戻そうとする)という事態を惹起させるための論理的な駒にすぎなかったのではないか?   クラブのシーンの計算が行き届きすぎているのも気になるが、映画は映画なのだからと思えば、そのスタイリッシュなよさを評価せざるをえない。

◆この映画には、ゲーム作りの趣味のようなところがある。ドラッグディーラー対ヴァンサン、ヴァンサンを追う刑事のカップル。抗争を三つ巴にしているところ。それでアクションは多彩になるが、それはあくまで映画のためという感じ。しかし、ヴァンサンを狙う組織の人間を逮捕した刑事が手錠をかけて護送する際に起る格闘と撃ちあい、このシーンに平行してヴァンサン親子が車で逃走するというくだりなど、なかなかスリリングだ。

◆息子の側から考えれば、ヴァンサンは、<困った父親>である。演じるのは、『ラルゴ・ウィンチ ‐裏切りと陰謀‐』のトメル・シスレー。どこか、ヴァンサン・カッセルとジェイソン・ステイサムに似ている。

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■Like Someone in Love/2012/Abbas Kiarostami

レヴューはシネマノートの単独評を参照http://cinemanote.jp/MM/like_some_one_in_love_2012.html

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わたしたちの宣戦布告  ★★★★★

La guerre est déclarée/2011/Valérie Donzelli

◆ノリのいい展開の作品である。それもそのはず、映画のなかで夫婦を演じるヴァレレイー・ドンゼッリとジェレミー・エルカイムはかつての夫婦であり、二人の実体験(子供が難病にかかる)を映画にしたのだから。夫婦のやりとりだけでなく、近親者や友人たちとの親密な関係の描写が生き生きしている。

◆作品のなかでの夫婦は、ワーキングクラスに設定されている。子供の病気で相当の出費をして大変だと思うが、そのへんの描写は弱い。アパルトマンを売るとかいう話は出るが、なんとかなってしまう。いや、このへんが日本の事情とは違うのかもしれない。アメリカでも、生活保護を受けている人でもけっこう広いアパートに住んでいたりする。

◆この二人、最初から最後までシガレットを吸い通しで、いまどき、これほど喫煙シーンが登場する作品は、珍しい。ひところまで<禁煙なんかできるかい>という姿勢だったヨーロッパも近年は急速に禁煙志向になっている。これは、登場人物の階級を強調するためなのか、あるいは、いまの(アメリカ主導の)禁煙「ファシズム」に異を唱えているのか、ひっとしてたばこ会社がスポンサーになっているのか?     単純には、二人がヘビー・スモーカーなだけなのかもしれないが、映画の主題とは別のテーマを投げかける。アキ・カウリスマキのように批判と悪意をこめて喫煙シーンを入れる監督もいるから。

◆マルセイユの病院の脳神経科の医者ドクター・フィトスッシの役で、『最強のふたり』にも出ているアンヌ・ル・ニが出てきたので、これで決まり(つまりマルセイユで入院する)かと思ったら、チョイ役にすぎなかった。こういう裏切りはなかなかいい。

◆二人の出会いから、結婚、そして生まれた子どもの養育、難病の発見、それと闘うさまが描かれるわけだが、この夫婦、実際には別れてしまう。そのあたりが実は一番修羅場だったと思うが、そのへんのことは、モノローグ的な台詞で暗示されるだけ。結局、難病との闘いの終焉は、二人の愛の終わりでもあったわけだ。

◆音楽の選択がいい。ノイズやエレクトロニカもあるし、ローリー・アンダーソンの「オー・スーパーマン」(DIY系のパフォーマーのローリーが、割合単純な装置をうまくつかうなと思った80年代の作品)が出てきたときは、オ!と思った。オルゴールの音楽も、インターナショルだった。

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ル・コルビュジエの家  ★★★★★

El hombre de al lado/The Man Next Door/2009/Mariano Cohn+Gastón Duprat  ガストン・ドゥブラット+マリアノ・コーン

◆ウジェーヌ・イオネスコの「不条理劇」のような作り。接近する隣家でいままで壁だったところに窓を作るという出来事がル・コルビュジエの設計した家に住むデザイナー、レオナルド(ラファエル・スプレゲルブルド)の生活をほぼ存在論的に脅かすことになる。ひとはなぜ窓を作るのか、窓がなぜそんなに重要かといった哲学的なことをも考えさせるところが「不条理劇」風なのである。

◆わたしは、たまたま、書評を頼まれたアン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ  アルベルティからマイクロソフトまで』(井原慶一郎・宗洋訳、産業図書)を読んでいたので、「窓」の哲学的な意味に思いをはせた。ル・コルビュジェの建物においては、窓は<存在しない>。なぜなら、そこでは壁が<窓化>されているからだ。これが、全面ガラスの建物にいたり、完璧化する。これに対し、隣家で作られた窓は、古典的な窓(外部と公的なものに向かって開かれた空間)である。両者は敵対せざるをえない。

◆単純には、その窓がこちらのプライバシーを侵害するというよくある話ではある。また、社会論的には、ル・コルビュジエのヴィンテージ建築に住むのは、売れっ子デザイナーというわけだから、その階級論的な問題もある。窓を作ったといって文句を言うが、あんた何様?という批判である。しかし、そういう「常識」的なことは括弧に入れてポーカーフェイスを決め込むのが「不条理演劇」のスタイルで、この映画もその方式を踏襲している。そして、不条理がエスカレートする過程で、文句を言う男の実存論的矛盾もあらわになるという次第。最初から、おまえはそんなリッチな暮らしをしているのに、窓の1つやふたつでうるさいことを言うなという風には持っていかないのである。

◆最初攻撃者のように見える隣家の男ビクトル(ダニエル・アラオス)は、実は、きわめて社会的な存在で、当のデザイナーのほうが自己中心的でエリートなのだということがあらわになる。

◆非常によく出来ているが、不条理劇や不条理小説がブームだった時代を知っているわたしとしては、もろ手を挙げて傑作とは言えない。だから、★は3つ。

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イラン式料理本 ★★★★★

Dastoor-e ashpazi/Iranian Cookbook/2010/Mahammad Shirvani モハマド・シルワーニ

◆非常にアマチュアっぽい撮り方がいい。義母、母の友人、叔母、妹、義母、友達の母親、そして妻に、イランの料理についてインタヴューをするというスタイル。

◆映画で見ていて圧倒的にうまそうなのは、妻の母親が作る、ラマダンの断食後に食べる料理。料理は女が作るものという慣習のなかでつちかわれたしたたかさは、立派な料理プレゼンの迫力にあらわれている。

◆対象的なのが、監督の妻が見せる<料理が女の務めだなんて許せない>という現代女性の典型のような姿勢。作って見せるのは、缶詰のシチューだった。監督はこの人と別れてしまったとのことだが、このシーンはいかにもやらせっぽい。

◆イランの料理文化の奥行きの深さがよく描かれていて、興味深々。監督の妻のように、女が料理なんかやっちゃいられないよというのは今様かもしれないが、これは、女が(苦痛と屈従と共にではあれ)継承してきた文化を捨てることを意味する。料理文化は、プロの料理人によっても継承せれるが、それは、家庭料理とは違うものだ。だから、家庭料理の文化を大切にしようとするならば、いまは男に期待するしかない。しかし、女の料理離れを揶揄している監督自身は、料理を自分で作るのだろうか?

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そして友よ、静かに死ね  ★★★★

Les Lyonnais/A Gang Story/2011/Olivier Marchal

◆フレンチ・フィルムノワールの定式を押さえた秀作。

◆ジェラール・ランバンのニコリともしないシャイなところがこの映画の魅力。ランバンなしにはこの映画はなりたたない。

◆原題は、<リヨンの人たち>という意味で、リヨンの地方性が基本にある。出てくるのはギャング・コミュニティだから、どこかマフィアと共通性がある。暗さをたたえたマフィアという感じ。

◆くりかえし過去が引用される。リヨンで育ち、ともにギャングになったモモンことエドモンとセルジュ。ランバンが演じる現在のモモンは髭が白くなっている。ふとしたことが過去を思い出させる。ディミトリ・ストロージュが演じる若き日のモモン。彼は、セルジュ(チェッキー・カリョがいまを、オリヴィエ・シャントローが若き日を)らと現金強奪を犯し、刑を受ける。それらの日々のことがフラッシュバックする。ギャング内のリンチ、警察でのこと、強奪の現場・・・。いかなるときも、モモンにとってセルジュは友だった。だから、10年の刑期を終えて足を洗ったモモンとはうらはらに、5年の刑期で出てふたたびギャングの世界に舞い戻り、以後逃亡生活を続けてきたセルジュが逮捕されことを知ると、彼の奪還計画に加担せざるをえなかった。

◆セルジュを病気にさせ、警察病院に入院したところを奪還するシーンの現在の銃撃シーンに加えて、過去に起った銃撃の数々がリアルに描かれる。といって、銃撃の空想的な派手さばかりが突出するのではなく、鋭くも抑制された映像で、銃撃の処理(ガン・エッフェクト)も、非常にまっとうなやりかたをしている。ガンのファンにはオススメ。

◆フラッシュバックのシーンが少し多いが、抑制された映像、ギャングものには不可欠の暴力シーンも工夫されている。

◆しかし、この映画をただのギャング映画にしていないのは、モモンとセルジュとのあいだに介在した司法や組織の複雑な力学であり、若き日に直裁に信じていたことの未熟さを老年になってあらためて知るむなしさが、ジェラール・ランバンの寡黙な表情によって見事に描きだされている点だろう。

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ロック・オブ・エイジズ  ★★★★★

■Rock of Ages/2012/Adam Shankman

◆ある種の下品さとあざとさが個性となっている。これを普通の意味で<下品>だ、<あざとい>と感じる人はうんざりするかもしれない。たしかに、ここには、形だけ部分的に真似ているミュージカル(もともとミュージカルとしてヒットした)特有のロマンティシズムはない。

◆<下品>で<あざとい>というのは、内容よりもスタイルである。ある意味ではサービス精神にもなるかもしれないが、映画の空間と時間をめいっぱいムダにしないで役立てようという<あざとさ>である。80年代のロックの世界を描くのなら、ドラッグは避けられないが、それをすべて酒でごまかしているのも<あざとい>テクニックだ。

◆トム・クルーズという俳優は、基本的に<下品>で<あざとい>。自分がやりたいと思ったことは、それがどんなにエゲツナイ手段と手続きを経ようとも実現する。この映画で彼自身が歌うシーンは、すべて彼自身が4か月半のトレーニングの末に体得した歌唱力の成果である。それは、なかなか見事である。ステージで見せるショウをして申し分ない。

◆トム・クルーズとマリン・アッカーマンが楽屋で絡むシーンは、まさに<下品>さと<えげつなさ>の結晶であり、トムならではのものである。

◆トム・クルーズは、サイエントロジーの信者であることやそのエゲツナサが非難の的になるが、わたしは、全然気にならない。この映画で彼が演じる「伝説のロックスター」も、決していいとこ取りではなく、むしろ汚れ役であり、その「かっこよさ」は、アンチヒーロのそれにすぎない。トム・クルーズは、自分のスター性に寝そべった演技はしないのであり、この映画のキャラクターのスター性も、マイケル・マンの『ヒート』の殺し屋のそれに通じる。

◆設定は、1987年のウエスト・ハリウッド。そこに「バーボンルーム」という名のロックのライブハウスがあるが、すでに盛りは過ぎており、マネージャー(アレック・ボールドウィン)は経営に苦慮している。ここに田舎からグレイハウンド・バスに乗って飛び込んでくるのがジュリアン・ハフ演じるシェリー。ロックシンガー志願で無理やりウエイターになり、ロックシンガーの卵のドリュー(ディエゴ・ボネータ)に出会う。ボーイ・ミーツ・ガールのはじまりである。そこに、ロックの大スター(トム・クルーズ)、そのマネージャー(ポール・ジアマッティ)、彼にインタヴューするためにやってきた「ローリングストーン」誌の記者コンスタンス(マリン・アッカーマン)、それから、ロック・ミュージックに大反対する(実は裏がある)キャサリン・ゼタ=ジョーンズ演じる市長の妻とキリスト教会などがからみ、ドタバタを展開する。おっと、アレック・ボールドウィンを支えるラッセル・ブランドの存在も見逃せない。

◆この映画の監督アダム・シャンクマンは、ジョン・ウォーターズ作品のリマイク『ヘアスプレー00』(2007)を監督して、ミュージカル映画としてなかなか巧みなコレオグラフィーと演出を見せたが、今回は、あのときの冴えや艶が感じられない。

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これは映画ではない  ★★★★

In film nist/This Is Not a Film/2011/Jafar Panahi + Mojtaba Mirtahmasb(ジャファル・パナヒ+モジタバ・ミルタマスブ)

◆素人向きのDVカメラを使ってビデオノート風に語り、パナヒのある(囚われの)日常を描いているように見えるし、そう見せようとしているが、ちゃんとカメラマンがおり、しっかりとしたプロ機器で撮っている。ケータイや通常の電話の声と音もちゃんとした音で採られている。これは、<映画>ではなく<デジタルビデオ>であるが、ただのプレイヴェート・ビデオではない。

◆イランの映画監督パナヒは、不当なプロパガンダ活動をしたという嫌疑で2009年に逮捕されえ、2010年12月に6年の刑(自宅軟禁)と20年間の撮影禁止の刑を受けた。

◆ドキュメンタリーとは、<ありのまま>を映すわけではない。演出がちゃんとある。何がフィクションと違うかといえば、被写体が映像に割り当てられた<地平>を越えていることである。つまり、<現実>と映像世界とを仕切る<地平>がシームレスであるということ。そもそも、ここでは、撮るということ自体が危険な行為である。

◆しかし、彼の生活環境はすばらしい。大きな家。トカゲがペットとして飼われていたりする。大きなスクリーンのテレビから2011年の日本の震災の津波のニュースなどが映る。ただし、これがリアルタイムで撮られたという保証はない。それは、ドキュメンタリーにとってどうでもいいことなのだが。

◆ここで一番刺激的なのは、スマホやコンピュータ(Mac)や電話等の戦略的な使い方だ。といって、肩を怒らせて使うのではなく、しなやかにさりげなく使いこなしてしまう。

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ボーン・レガシー ★★★★★

■The Bourne Legacy/2012/Tony Gilroy(トニー・ギルロイ)

◆『ボーン・アイデンティティ』(2002)のダグ・リーマンも、『ボーン・スプレマシー』(2004)と『ボーン・アルティメイタム』(2007)のポール・グリーングラスも、4作目を作ることには慎重だった。しかし、3作の成功に気をよくしたスタジオは、第4作を作ることに急いだ。一説によると、この『ボーン・レガシー』の計画は、グリーン・グラスにもマット・デイモンにも具体的な相談なしに進められたという。今回の主役を演じるジェレミー・レナーのギャラは、デイモンの3分の一(500万ドル)で、スタジオとしては、経費節減になる。が、アメリカでのこれまでの興業収益は『ボーン・アルティメイタム』の半分以下になりそうだという。

◆テクノロジカルな操作で〝不死身〟の肉体に変容された兵士が、その改造計画の非人間性への社会的批判を懸念する組織(CIAなど)によって命を狙われるサスペンスという型は、ボーンシリーズ以前からあったが、このシリーズの新しさは、映画があたかも、今現在進行中の戦争テクノロジーを垣間見させるというアクチャリティと、綿密に練られたアクションの精緻さとスピードにあった。今回も、その路線は守られている。

◆今回、マット・デイモンが降りたことで、ジェイソン・ボーンをそのまま使うことはしなかった。これは、007シリーズほどジェイソン・ボーンのキャラクターが普遍化していないからでもあるが、マット・デイモンに劣らず強烈なキャラクターのジェレミー・レナーを使う以上、最初から人物を変えてしまったほうがいいという判断だろう。そこで、ジェイソン・ボーンと同じように、テクノロジーで不死身にされた別の一連の兵士がいるという設定で、アーロン・クロスという人物を構築した。それを抹殺しようと追うのは、エドワート・ノートンが演じる元空軍大佐である。

◆しかし、エンターテインメントとしては楽しめるとしても、それだけに終わっている。過去の3作には、ジェイソン・ボーンを追う監視と攻撃の技術が、いま現在進行中ないしは近い将来増殖するであろう技術を思わせ、エンターテインメントの意識のなかで、現実への批判的な意識が養われるというような面があった。

◆この『ボーン・レガシー』でアーロンを追い爆撃をする無人飛行機は現実のもので、すでに『シリアナ』にも出てきた。だから、映画の素材としても特に新しくはない。また、彼を不死身にする薬剤にしても、新しいテクノロジーでスポーツ選手が飛躍的な記録を生み出していることを思えば、そういうのはけっこうあるんじゃないのという印象をわれわれはすでに持っており、話題としては新しくはない。つまり、ボーン・シリーズで売りだったテクノロジーの扱い方はここでは後退しているのである。

◆そのため、見せ場はバイクでのチェイスぐらいで、これは、やたらとバイクと車を競争させているだけで、新鮮味はない。アーロンを追うアジア人の殺し屋は、最初凄そうだが、意外と大したことがない。マニラの製薬会社に忍び込む手口にも無理がある。こういう安易さは前作にはなかった。

◆ただし、アーロンを改造した薬物を開発する研究所の博士を演じるレイチェル・ワイズは、全然博士らしくないのだが、ジェレミーとの相性がよく、そのトレードマークの甘えた目が、いざとなると(そのあつかいがたとえ不当でも)素直に男についてくるタイプの女性を演じていて、見ていて心がなごむのだ。

◆わたしは、楽しんだが、硬く見て批判するのなら、以下のサイトのこの映画についての肯定/否定の一覧が参考になるだろう→http://www.imdb.com/title/tt1194173/board/thread/202838699

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The Hunger Games/2012/Gary Ross (ゲイリー・ロス)

シネマノートの単独レヴューを参照→http://cinemanote.jp/MM/HungerGames_2012.html

◆劇場パンフレットに<テクノロジーが映し出す“リアリティ”の現在>というエッセーを書いた。

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エージェント・マロリー   ★★★

Haywire/2011/Steven Soderbergh

◆ソダーバーグという監督は、カフカ(『KAFKA/迷宮の悪夢 』)やゲバラについての作品を撮ったりするので、<思想>志向の強い監督だと思われがちだが、彼自身は、むしろ、ドン・シーゲルのような監督になりたいのではなかろうか?    この映画では、全米女子格闘技のスター、ジーナ・カラーノを起用し、アクション映画を撮ったが、俳優としては経験の浅い彼女を、ユアン・マクレガー、アントニオ・バンデラス、マイケル・ダグラス、マイケル・ファスベンダーらのベテランに伍して、一歩も引かない演技をさせているのはさすがである。ソダーバーグが「職人」と言われるゆえんだ。

◆オープニングで、雪の残るニューヨークのアップステイトのドライブイン・カフェーで、人と待ち合わせをする風情のジーナ・カラーノの姿が映るが、そのアップの表情は決してアマっぽくはない。そこにチャニング・テイタム がやって来て、彼女と話を始める。となると、これはラブストーリーだと思うが、驚くべきことに、テイタムは、彼女が飲みかけていたコーヒーを彼女にひっかけ、髪をつかんで床に引き倒すのだ。しかし、彼女はそれで屈してしまうわけではない。ムエタイと数々の格闘技ショウで鍛えたジーナの本領が展開するのはこれからだ。

◆スタントの谷垣健治さんに実演してもらったことがあるが、実戦で強いからといって映画の格闘シーンでサマになるとはかぎらない。むしろ、格闘技の選手は映画では成功しないことが多いという。しかし、ジーナ・カラーノは、この映画では最後まで一流のスタントにも全く引けを取らないアクションで圧倒する。ちなみに、彼女の演技に対してテクノロジカルな操作を加えたのは、声だけだという。ダークボイスにしたというのだ。

◆いまの時代、諜報活動は、官系のと民系のとがいりみだれ、官が民間の会社に下請けに出したり、諜報と情報の会社が官から情報をもらったりと、境界線が引けなくなっている。日本でも、本年10月1日から施行される<違法ダウンロード刑罰化>なども、民間(レコード会社など)を官が慮って立法化したようなもので、情報やデータの世界では、官と民はシームレスになっている。ジーナ・カラーノが演じる諜報員マロリーは、そういう官民いりみだれた諜報の世界で邪魔になった存在で、次々に命を狙われる。それを、『ボーン・レガシー』よりはもっとプリミティブなやりかたで生き延びるのだが、この映画の基本は、そうしたストーリの現実性ではなく、むしろ、ジーナ・カラーノという<女優>の存在そのものである。まさにその<演技>を見ること――これは、彼女が俳優であったら、全然ちがった見方をされるだろう。ソダーバーグは、こういう<演技>のニッチな側面に気づかせた。

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アイアン・スカイ ★★★★★

Iron Sky/2012/Timo Vuorensola(ティモ・ヴオレンソラ)

◆→Wikiの解説

◆ナチスが密かに月に脱出して秘密基地を作り、地球の支配を画策していたという設定は面白いが、作りがへたに真似たマーヴェルコミック風なのだ。出演者もキャラクターも魅力がない。とわたしが言うのだから、全く逆の評価も成り立つだろう。ご自分の目で判断されたい。映画は見て見なければわからない。

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ロビイストの陰謀 ★★★★

Casino Jack/2010/George Hickenlooper(ジョージ・ヒッケンルーパー)

iMDbの情報

Wikiの解説

◆レーガン政権のもとでスキャンダル化したロビーイスト、ジャック・エイブラモフをケヴィン・スペイシーが演じる。ユダヤ人臭さを強調しているが、 www.youtube.com/results?search_query=+Jack+Abramoff&oq=+Jack+Abramoff&gs_l=youtube.12..0l10.1452.4524.0.6902.2.2.0.0.0.0.77.152.2.2.0...0.0...1ac.1.Wa1Cx6k1y_M">YouTubeで確認できる本物のJack Abramoffと比べると、ケビン特有の醒めた演技が演技臭さを浮きだたせているとも言えるし、また、それだけ本物をパロティ化しているとも言える。逮捕され、収監されたとき、同僚のマイケル・スキャンロン(バリー・ペッパー)から裏切られたとき、相当の苦渋と理不尽さ(システムのなかでは当然のことをやっていたのだから)を感じたはずだが、その表現は弱い。なお、マイケルを演じるバリー・ペッパーは、その顔付からもよくこの手の役を演るが、ここでも秀逸の演技をしている。