●ジャックと天空の巨人(ブライアン・シンガー)

Jack the Giant Slayer/2013/Bryan Singer ★★★★★

◆一方に農民の息子・ジャック(ニコラス・ホルト)、他方に王家の姫・イザベル(エレノア・トムリンソン)がいる。ジャックは母親と父親から、イザベルは母親つまり女王から『ジャックと豆の木』の物語を寝しなのベッドで読んでもらい、空想にふけるという形式で始まる。

◆青年に達したジャックが、市場に馬と馬車を売りにいくころ、王室では修道士が王家の秘宝の冠と豆を盗見出して逃げるという騒動がおこっている。その結果、追手に追われた修道士が広場でジャックから馬を買い(ただし、金がなく、強引に秘宝の豆を託す)、逃げる。

◆イザベルは、父に反抗して、ひとり馬に乗り、旅に出るが、嵐に遭い、灯りをたよりにたどりついた小屋でジャックに会う。単純なおとぎ話の典型的なパターンである。ジャックの風貌は全然田舎臭くなく、イザベルはすこやかに成長したアメリカン・ガールのような感じだから、ふたりの出会いは、現代風のロマンスの誕生を想像させる。

◆ここで起こることは、意外性がある。おそらく、この映画は、こういう映像的な意外性と大がかりなアクションとを楽しむことにつきるだろう。

◆ジャックが修道士から受け取った豆の一つが床に落ち、床板の隙間から地面に落ち、そこに大雨の水が流れ込んで、急激に豆が成長する。枝が化け物のように伸び、小屋の屋根をつきぬけて、たちまち天のそびえる大木となる。ジャックは、樹の下のほうに振り落とされたが、イザベルは小屋もろとも樹のてっぺんに吹き上げられたらしい。こうして、姫を救出するジャックの冒険が始まる。

◆『ジャックと豆の木』の童話を読んだ記憶があるが、大木の上に住んでいる巨人が、こんなにグロテスクで粗暴であるという印象は持っていなかった。映画は、ほぼ、封印を解かれた邪悪なエイリアンが人間を襲うという物語になっており、体が巨大であることのユーモアは全くない。王室内の権力闘争と陰謀の話にもなっていて、スタンリー・トゥッチが起用されているが、基本は、アクションとサスペンス。トゥッチのしたたかな演技の見せ場はない。ジャックを助ける騎士エルモント役のユアン・マクレガーも、彼でなくてはならない役ではない。

◆わたしが知っている童話『ジャックと豆の木』は、考えてみると、勝手は話だった。ジャックは、自分の家のまえに急に生えた巨大な豆の樹に登って巨人の城に忍び込み、あげくのはてに金の卵を産む鶏を盗んでもどり、巨人に追いかけれらると、樹を切り倒す。追ってきた巨人は地面に落ちて死ぬ。これは、窃盗殺人ではないのか? 

◆映画では、そうでない印象をあたえるために、巨人はアグリーで攻撃的なイメージにつくりかえられている。そして、実際に、人間の国に降りてきて、城を破壊する。流布している童話に忠実な―つまり巨人が気の毒になる―ヴァージョンの映画化を見てみたい。この相違に接して、あの童話はいったいどんな社会と権力のコンテキストのなかではやったのかを考えてみたくなった。ある意味、大英帝国は、ジャックのように、忍び込み、盗み、追われれば、〝正当な〟理由を捏造して征伐するというやりかたで完成された。こういう物語を300年も読まされていれば、そういうワークエシックができあがるだろう。

(2013/03/02)
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