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クレイマー、クレイマーの男とノーマ・レイの男

日本に入ってくるアメリカ映画の九九%は、ガルフ+ウエスタン、ワーナー、コロムビア、MGA、トランスアメリカ、二〇世紀フォックスのアメリカ六大映画企業の手になる商業映画であるが、これらの映画企業は、出版や放送のマス・メディア産業だけでなく、コカ・コーラから不動産業にいたる種々雑多な企業と資本を共有するコングロマリットであり、映画部門で大きな収益があればそれを他の部門にまわし、映画部門で赤字が出ればそれを他の部門の収益でうめあわせてしぶとく生きのびている。ちなみに一九七七年のワーナーの総収益のうち、四七%はレコード産業から、一三%はエレクトロニク・ゲーム産業から得、映画とテレビ部門からの収益は三十一%であった。
 こういうわけで、アメリカの六大〈映画〉企業はもはや映画産業ではなく、映画が企業の主力商品ではなくなりつつあるのだが、にもかかわらず、これらの企業が映画を製作し続けるのは、『スター・ウォーズ』、『未知との遭遇』、『グリース』、『スーパーマン』のような商業的大ヒットをまだ出せる見込みがあるからであると同時に、映画のもつ宣伝機能を依然重視しているからにほかならない。最近のアメリカ映画が〈社会的テーマ〉を好んでとりあげるのも主として後者のためであって、この傾向を、「アメリカというのはすばらしい国ですよ。だってあれだけの強力な支配体制のなかで堂々と体制批判の映画を作ることも許されているんですからね」などと言ってよろこんでいるわけにはゆかないのである。つまり、アメリカの商業映画が〈社会的テーマ〉をあつかうのは、それなりのたくらみがあるからであり、商業的成功もさることながら、六〇年代以降に生じた民衆の社会意識と社会的欲求の変化をひじょうに組織的・有機的なやり方でコントロールするためでもあるのだ。いまや巨大にコングロマリット化し、アメリカの支配的な経済機構に深くコミットしている〈映画〉企業の利害からしても、映画のような流通規模の大きなマス・メディアが観客の社会意識を現存する社会・経済システムの利害にみあう方向にコントロールする文化装置としての機能をいままで以上に強く意識することはむしろ当然のことであろう。その際、映画は〈社会的テーマ〉を積極的にあつかうことによって、観客の社会意識を一定のわくにはめこみ、観客が自分の眼で社会をみることをはじめからさまたげる機能を果たすわけであり、映画は、文化商品であるだけでなく、操作と宣伝の道具にもなる。
 アドルノは、一九五〇年代のアメリカのテレビの状況を論じた一文のなかで、「現代の大衆文化は、想像を絶する心理統制のメディアに変わっている。現代の大衆文化は、その反復性、同一性、遍在性のために、受け手の反応を自動的にしてしまい、個人の抵抗力を弱めるにいたっている」(平沢正夫訳「テレビと大衆文化の諸形態」、『現代人の思想』7、平凡社)と言っているが、今日のアメリカの商業映画であつかわれる〈社会的テーマ〉も、大抵の場合、ステレオタイプである。
 たとえば、最近、世界的にヒットし、アメリカ国内でも六億ドルの総収益がみこまれている『クレイマー、クレイマー』だが、ここでは、〈女の自律〉、離婚、離婚や別居後の親子関係、男親の子育てといったはやりの社会問題がとりあげられている。しかし、夫が仕事のために毎日帰りがおそく、家にとりのこされた妻が〈自立〉をこころざし、子供を残して家を出るという構図が、アメリカの夫婦や家庭の現実を全く一面的にステレオタイプ化したものだとすれば、子供をおいてゆかれた男親が子育てで苦労するというのは一層紋切型のドラマ設定だ。まず、この物語の舞台になっているニューヨークの一般的現実からすると、ダスティン・ホフマン扮するミスター・クレイマーのようにろくろく子供の食事もつくれぬ男というのはむしろ例外に属する。スーパーマーケットの買物客なども実に男性の客が多い。が、ミスター・クレイマーは、朝食のフレンチ・トーストをつくるのに台所でドタバタ喜劇を披露し、夜は、冷凍のハンバーグや、『アパートの鍵貸します』でジャック・レモンがまずそうに食べていた〈TVディナー〉を食卓にならべ親子ともども判でおしたようにうんざりした顔で食べるのである。これは、ミスター・クレイマーがマンハッタンのアッパー・イースト・サイドに住む高給取りのサラリーマンであることを考えると全く腑におちない。
 日本では、家事やまかないを全面的に女性にまかせているという支配的現実があるので、このドラマ設定は説得力があるかもしれないが、ニューヨークの現実からすれば逆にこの部分が虚構的に見える。それに、ミスター・クレイマーのように料理がへたな男性がいるとしても、ニューヨークのマンハッタンでいやいやながらTVディナーやマクドナルドを食べる必然性はどこにもない。人がそういうものを食べるのは、ほかに食べるものがないからではなくて、安易で手間がかからないからにすぎない。もし、そういうものにうんざりするのなら、いくらでも方法はあるのであって、多くのレストランで料理の〈テイク・アウト〉をさせているし、電話一本で出前をする店も少なくない。惣菜を売る店も要所要所にあり、むしろマンハッタンでは自宅で料理をつくる方が趣味かぜいたくに属するのではないかといった気配すらある。食料品や日用品の買物にしても、ミスター・クレイマーのように出勤まえにスーパーマーケットで買いこんだ品物をかかえて出社し、上役のひんしゅくをかわなくても、大抵のスーパーが配達のサービスをやっており、老人や身体障害者でも、貧しくさえなければ、一人で生活できる〈便利〉さは確立されている。むしろその意味では、ニューヨークは、ミドル・クラス以上の人間にとって〈家庭〉ばなれをするさまざまな条件がととのいすぎており、〈家庭〉をもはや経済と管理の要所としない、後期資本主義の新たな延命策が軌道にのりつつあることの方がはるかに問題なのである。
 にもかかわらず、この映画でダスティン・ホフマンが当面、こうした現実にポーカー・フェイスで臨む男を演じなければならなかったのは、この映画にはもともと一つのたくらみがあったからである。一言にして言えば、この映画は、料理も子育ても買物もからっきしダメな男がだんだんそれらに習熟し、子供とも日常生活のチームワークのようなものが出来かかったところで、子供をとりもどしたくなった妻が現われて邪魔をし、観客をいらいらさせながらも結局は彼は、料理も子育ても買物も一人でできる現代のニューヨークの〈理想的男性〉の仲間入りを果たすというソープ・オペラなのである。それゆえここでは、ミスター・クレイマーは、当面、何が何でも子育てや料理で苦労しなければならないのであり、それらがうまくゆきそうなところで色々な邪魔が入って大詰めを印象深いものにしなければならないのである。すなわち、女は男から、男は女から〈自立〉することをよしとするミドル・クラス的〈自由〉を意味づけるために、この映画は種々のステレオタイプを駆使するのである。
 ところで、最近のアメリカ映画では、ジョン・ウェインやリー・マーヴィンに代表される〈マチョ〉(男尊女卑的男性)タイプの男よりも、ロバート・デ・ニーロやブルース・デイヴィドソンにみられるようなスウィートな要素をもった男のイメージが主流になりつつある。そのため、俳優のなかにはイメージ・チェインジをこころざす者もふえ、たとえばジェイムズ・カーンのようにいつも腕っぷしの強い〈マチョ〉タイプの男やスポーツマンを演じてきた俳優までも、最近の『第2章』では、死んだ妻のことがいつまでも忘れられなくて、事あるごとにメソメソする〈弱い〉男の役にチャレンジしている。こうした傾向は、一面で、六〇年代後半以降に活発になったラディカルなフェミニズム運動の影響で、〈マチズモ〉ないしは〈メール・ショーヴィニスム〉と呼ばれる家父長的・男尊女卑的姿勢が反省されつつあることとも無関係ではないが、そうした傾向に反応する商業映画の本当のねらいは、マチズモやメール・ショーヴィニスムを根底から止揚することではなくて、そうしたものに対する観客の関心にアッピールする文化商品をつくり、あわせてそのような(本来は潜勢力にあふれた)社会的関心を骨ぬきにしてしまうことである。
 容易に気づくことだが、映画であつかわれる脱マチョ的タイプの男性は、ことごとくミドル・クラスに属しており(さもなければ階級についての言及をさけて描かれる)、そこではマチョであるかそうでないかは、単なる意識の転換の問題とみなされている。だが、マチズモが社会問題として重要なのは、階級関係に安住したまま何にでも〈自由〉になれるミドル・クラス以上の人間にとってではなく、女は〈自立〉したくても家庭にしばりつけられるしか生存の道がなく、男は労働現場で日々に蓄積される肉体的・心理的抑圧を家庭でサド・マゾ的に発散・解消するしかないようなロワー・クラスの人々にとってである。そこでは、マチズモは、ミドル・クラスにとってのような〈ライフ・スタイル〉や趣味の問題ではなく、社会的な悪循環と化した一つの階級原理なのだ。この点を不問に付したまま、いくら男性の〈女性化〉や女性の〈自立〉を問題にしても、それは、社会変革はおろか社会批判とも無関係である。むろんこのことはミドル・クラスの階級原理からすれば当然のことであり、脱マチズモや〈女の自立〉キャンペーンはちゃんとその原理にみあっているのである。というのも、日常的に妻に依存していた男と経済的・心理的に夫に依存していた女がともに〈自立〉すれば、それだけ居住空間、車、日常生活用具、金銭的ロスといった消費関係の人口を倍増し、とりわけ広大な〈女性市場〉を開拓できるわけで、これは、生産の能率的拡大と大量消費を原理とするシステムにとってはまことに好都合なことだからである。ミドル・クラスの離婚、別居、独身生活をカッコよく描く最近のアメリカ映画は、こうした階級原理に整合した文化装置にほかならないのである。
 ソル・ユーリックは、『地獄の黙示録』を批判した一文のなかで、「この国での映画作りは、一つの資本主義的事業であり、大抵は、ソフトな宣伝事業なのだ」と言っているが、このことは、政治や労働運動を一見ストレートにあつかった映画でもかわりがない。たとえば『赤旗』などでも高く評価されていた『ノーマ・レイ』だが、これは、マッカーシーの赤狩りでブラック・リストにのせられ、その後『寒い国から帰ったスパイ』一九六五、『ザ・モリー・マクガイヤーズ』(一九六八、『ボクサー』一九七〇、『ザ・フロント』(一九七六)などの社会派的作品を監督したマーティン・リットが、アメリカの南部で実際に起こった紡績工場のストライキの話を映画化したもので、アメリカの商業映画としてはめずらしく社会批判の意識のみなぎる作品であるかにみえる。が、リットが監督のサラリーの半分の二十五万ドルを辞退して作られたというこの映画も、製作会社の二〇世紀フォックスにとっては所詮商業・宣伝映画であって、リットの意図にかかわらずこの映画を商品と文化装置として利用できる目算があったからこそ配給網にのせられたのである。フォックスはアメリカの六大〈映画〉企業のうちでは一番資本の多角化が少ない会社であるが、それでも、『スター・ウォーズ』でもうけた金で、中西部のコカ・コーラ・ボトリング社とアスペン・スキー会社の株を取得し、ますますコングロマリットとしての性格を強めている。
 この映画は、アメリカではかなりあたり、ノーマ・レイを演じたサリー・フィールズはアカデミー女優賞をとることになったが、これらは、同時に、この映画が文化装置として労働運動への観客の関心を骨抜きにした度合を表わしてもいる。おそらく、二〇世紀フォックスにとってこの映画は、ストライキ闘争の映画であるまえに、都会の男と田舎の女とのある種のラブ・ストーリーか、〈結婚しない女〉の労働者版でしかなかったにちがいない。が、そのような〈すりかえ〉を可能にする要素はすでに登場人物たちの描き方のなかにあった。『思想運動』の映画時評(一九七九年九月一日号)で木下昌明も言っているように、ノーマ・レイの行動はときとしてカッコよすぎる。
「しかし、じっさいに、いまだ組合が工場側と対等にわたりあえる段階でないときに、そのような行為は工場側をいたずらに刺激させるだけで組合活動としてはぶちこわしになりかねない。少なくとも彼女はそのことのためにあっさりと首になり、その工場では大切な活動家を失う羽目となるのではないか」
 カッコよすぎる点では、ルーベンという活動家もそうであり、彼の〈沈着〉で〈寡黙〉な行動は、生身の人間のそれであるよりも、映画のなかのスパイの身ぶりに一脈通ずるものがある。実際、ルーベンが七つ道具をつんだライトバンでどこからともなく現われ、モーテルを〈基地〉にして活動を開始し、首尾よく事をすませて町を去る構図の雰囲気は、ちょっと『ジャッカルの日』か『スパイ大作戦』の雰囲気に似たところがある。そこでは、要するに、状況を変える者と変えられる者との関係がステレオタイプ的に決まっており、その関係は最後まで変わることがないのである。
 この点に関して、アメリカの左翼系映画雑誌『シネアステ』の時評(一九七九年春期号)のなかで、パット・アウフダーハイデが次のように言っている。
「ノーマとルーべンとの関係は平等ではない。彼女は変わるが、彼は変わらないのである。ルーベンは、ノーマをさまざまな困難から脱出させ、彼女の成長を承認するためにそこにいるにすぎない。二人の相互関係はそっけなく、彼が彼女に細々と注意を与えて後援し、(組合のためではあるが)彼女を無情に利用するといった域を越えてはおらず、そのやり方は彼女がすでに知っていた助平な男たちと大してちがってはいないのである。[略]彼にとって彼女は、あきらかに、彼の与える本を読みさえすればただちに社会的存在になれるような動物なのである」
 ノーマ・レイのモデルは、ノース・カロライナの紡績工場労働者クリスタル・リー・サットンであり、ルーベンのモデルは、エリ・ズィヴコヴィッチである。二人は、三年間におよぶ闘争の同志であり、夫婦でもあった。マーティン・リットは、この映画を作るにあたって、シナリオのモデル権のサインを二人に求めたが、事実をゆがめる個所に対して二人が要求した訂正を受けいれず、契約はものわかれになった。が、リットがそのまま映画化をすすめようとしたため、サットンとズィヴコヴィッチは法的手段によってこれに対抗するかまえを示し、リットは、ストーリーの場所と日付を変更して映画製作の合法化をはかった。
 こうした、およそ左翼的連帯とはほど遠いリットのやり方に対して、サットンは、オスカー賞をとった独立プロ製作のストライキ闘争映画『ハーラン・カウンティ、USA』の監督バーバラ・コップルと契約を結び、映画は目下、資金集めの具体的段階に入っている。
[クレイマー、クレイマー]監督・脚本=ロバート・ベントン/出演=ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ他/79年米[ノーマ・レイ]監督=マーティン・リット/脚本=アービング・ラベッチ、ハリエット・フランクJr/出演=サリー・フィールズ、ロン・リーブマン他/79年米◎80/ 7/29『社会評論』




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