html>粉川哲夫『シネマ・ポリティカ』 29


カサノバ


 大塚名画座で『女の都』をやっているというのでまたみたくなり、最終日にかけつけたら、時間をまちがえて同時上映の『カサノバ』からみることになった。『カサノバ』は、一九七七年にニューヨークでみて、ひどくがっかりし、もうフェリーニはみるのをよそうなどと思って、フェリーニの悪口をある新聞に書いた(前掲)こともあって、その後イタリア人の友人から、「あれは、フェリーニの軽いジョークなんだよ」と偏見をさとされたにもかかわらず、二度みるのをさけてきた。ただ、その後『女の都』をみて、フェリーニがまた好きになり、『カサノバ』以来少しパラノイアックになっていたフェリーニへの偏見が大分とれ、『カサノバ』も機会があればもう一度みてもよいとは思っていた。
 五年ぶりにみた『カサノバ』は、やはりどこかで波長が合わないところはあったが、以前はひどくムカついてしかたがなかったキャラクターのナルシシズムが気にならず、それよりも、『女の都』で示されたフェリーニのフェミニズム〈理解〉から逆照して、『カサノバ』では、フェリーニの未来のセックス観がよく出ているようにも思え、おもしろかった。この映画のカサノバにとって、セックスは義務かサービスになっているのだが、そのゆきつくところが、生身の人間相手のセックスではなくて人形相手のそれだというところが、ひじょうに暗示的ではないか。現に、ニューヨークのようなポスト・サービス社会では、性の〈前衛〉は、ホモセクシュアルですらなく、むしろメカニズム・セックスだという説がある。
 それにしても、『カサノバ』の日本版のボカシはちょっとひどすぎる。なぜ、人形の性器までボカす必要があるのだろう。が、さもなければ国家によって公開がさまたげられる確率が大きいのだ。今回この映画を楽しめたのは、ボカシのひどさに腹がたち、その反感のためにこの映画のスタイルやリズムへのわたしの偏見があまりのさばらずにすみ、その内容だけを楽しんだということなのかもしれないが、毎度のこととはいえ、日本国家によるこの間接的検閲には心底腹がたってしかたがない。アナーキーの唄のせりふをまねて、「なにが日本は民主主義、なんにもやらせねえでフザケルな」とわめいてみてもどうにもならないのだが、日本国家はあらゆることにつけてなぜこうもおせっかいなのか。たしかに日本の支配的な文化のなかにはひじょうにおせっかいなところがあり、子供と母親との関係にもそういうおせっかい文化が現われる。これは、ウルリッヒ・エデルの『クリスチーネ・F』に出てくる母親の娘に対するあまりに無関心な態度とは対照的である。しかし、わたしは、日本の民衆のあいだにおせっかい文化があるから国家もおせっかいなのだといった論法には断固として反対する。事実は逆で、国家があらゆることにおせっかいをやき、おせっかい文化をまきちらしているからこそ、われわれ民衆は日常生活のなかでひどくおせっかいにならざるをえないのである。
 問題は、映画の間接的な検閲に対して、たとえば、映画館でボカシが出たたびごとにスクリーンに卵や汚物をなげつけることによって異議を申したてたとしても、このような行為は、映画館や配給会社を困らせるだけで、元凶の国家の方は少しも困らないという点だ。国家は表現の自由など必要としてはいないのであり、表現は、事をあいまいにし、幻想を意のままにふくらませることのできる装置としてのみ役立つと、この国家は考えているのである。
前出◎82/ 8/11『月刊イメージフォーラム』



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