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女の都

 この春、都市文化の調査研究でオーストラリアに行ったとき、なにかにつけて思い出されるのが、フェリーニの映画『女の都』(La citta della donna)だった。この映画のことが気になったのは、出発前にやり残した唯一の仕事が『女の都』論だったということもあるが、むしろ、フェミニズムに対しては皮肉な態度でしか臨まないだろうと思っていたフェリーニが、この映画ではフェミニズムに正面からとりくんでいるのをみて、わたしはすっかり彼を見直し、同時にこの映画のタイトルから都市を〈女たちの都市〉(ラ・チッタ・デラ・ドンナ)としてとらえることを考えはじめていたからである。
 フェリーニは、『ラ・スタンパ』(一九八〇年三月二十九日号)のインタヴューのなかで、「わたしは女性についての映画しかつくっていない気がする。わたしの存在は、完全に女性次第だと思うし、女性と一緒でないと心が安まらない。・・・女性はすべてだ。映画そのものが女性だ」と言っているが、彼がこれまでにつくってきた映画では、女性はたいていの場合、男性のフェティシズムの対象としての、あるいは男性を甘やかせる母親的な存在としての女性であった。これに対して、『女の都』では、女性は、男性とは別の世界に属する自律的な存在としてとらえられており、従来の彼の女性像は愛着をこめて回顧されるものの、新しい女性像の背後にしりぞけられているのである。しかもその際、この新しい女性像は、イタリアのフェミニズム運動との関連でとらえられているということが、実に興味深いのである。
 以前からわたしは、イタリアのフェミニズム運動の斬新さとラディカルさには、深い関心をいだいてきた。伝統的にマチズモ(男性至上主義)が強いといわれるイタリアで、たとえば家事・育児労働にしばられている主婦に対して国家や企業は〈賃金〉を支払うべきだと主張する運動が展開されたり、一九七七年には育児休暇や看護休暇を得る権利が女親にだけでなく男親にも与えられるなど、男女関係や家族関係が確実に変革されてきたことに、驚きと尊敬の念をいだいてきた。しかし、こうした社会変化に対してフェリーニが映像をもってまともな対決を試みようとは、わたしは全く予想しなかった。女性に関しては彼は、古い女性観にノスタルジックな愛着をいだき、フェティシズムとマザー・コンプレックスの対象としての女性だけを描き続けるだろうと思っていたのである。
 ただし、フェリーニは、彼の従来の女性観を捨てたわけでは全くない。彼は先のインタヴューのなかで、『女の都』は、昨日と今日の女性たちについてのお伽噺で、それをひとりの男が物語るのだが、この男には女がわからない。女性に包まれているからこそ女性を知ることができないわけで、ちょうど〈赤ずきんちゃん〉が森のなかをさ迷うように、彼は女の都をさ迷うのだ」と言っているが、「女がわからない」というよりも、女をわかろうとしないこの主人公こそ、まさにこれまでのフェリーニの姿であり、〈新しい女性〉をわかろうとせずに、過去——その最高のモデルが〈母親〉像である——をなつかしむことに女性像のアイデンティティをもとめてきた。この映画で主人公のスナポラツの役を演じたマルチェロ・マストロヤンニは、この映画の製作過程をドキュメントした映画『フェリーニの都』(フェルッキオ・カストロヌオーヴォ監督)のなかで次のように言っている。「確かに変化はあったよ。まず世の中が変わったね。フェリーニの描く女の世界も変わった。いまはウーマン・リブの時代だ。大変な革命だよ。だから、この『女の都』では、主人公の反応はこうした風潮に対するわれわれの世代の反応なんだ。・・・この風潮のもつもっと深い意味を、彼は把握できないと思う。いや、できるかもしれないけど——、やめとくよ、映画の結末を語っても仕方がない」(吉岡芳子・池田裕之採録「フェリーニの都」、『月刊イメージフォーラム』、一九八二年五月号)
 映画の結末で、フェリーニがこの映画の世界を、スナポラツが車中で見た束の間の夢として相対化していることがわかるのだが、彼が結局この世界を夢として提示したのは、彼が、ここで描かれている世界に対してある種の距離をおくためである。彼には、いまや時代が大きく変わろうとしていること、まさに巨根博士カッツォーネが言うように、「新しい法、新しい権力」が出現しつつあることがわかりすぎるほどわかるのだが、フェリーニ自身は、自分がそのような世界に住むことはできないということを知っているのである。その意味では、〈征服〉したおびただしい数の女性たちの写真と声の録音を収集し、さまざまな性具のインテリアにかこまれて暮している巨根博士カッツォーネこそ、フェリーニの女性観の代弁者であり、このカッツォーネが〈一万人切り〉を祝うパーティの席上でうたう「女よさらば」は、文字通り、過ぎ去りゆく時代へのフェリーニの惜別の念がこめられているのである。
 メルボルン空港で、次の調査地アデレイドに向かおうとアンセットのジャンボジェット機に乗りこんだとき、搭乗時間を過ぎてから三十歳ぐらいのチャーミングな白人女性が乗りこんできた。小型のスーツケースとフライトバッグをもったこの女性の座席は窓側で、フロアー側の座席にいたわたしは一旦フロアーに出、ついでに彼女の荷物を彼女の座席に移してやることになった。ところが、この女性は、その大して重くはないスーツケースとフライトバッグを自分では処理できず、床に落としたフライトバッグがどこかにひっかかっているのも気づかずに、それを足で椅子の下に入れようとやっきになり、そのあげく、わたしのほうを向いて両手で絶望的な身ぶりをするのである。結局、彼女の荷物の整理は全部わたしの仕事になってしまったのだが、この女性には、女は男に甘える当然の権利があるといったある種の女性的〈因習〉が強く残っているように感じられるのだった。話をしてみてわかったことだが、彼女はメルボルンの地方都市に住んでおり、およそフェミニズムなどとは関係のない〈のどかな〉生活をおくってきたらしかった。オーストラリアでは、都心でもこうしたタイプの女性に何人も出会ったが、アメリカとは違って、古いものと新しいものとが共存しているのがオーストラリアの一つの特徴なのである。アメリカでは、依然として映画のなかにはこの種の〈チャーミング〉なタイプの女性が出てくるとしても、現実には、そういうタイプは非常に少なくなっているように思われる。
 わたしは、一九七五年から一九八〇年までのあいだに、通算三年ほどニューヨークのマンハッタンですごした。その限られた経験を針小棒大に拡大するわけではないが、そこで出会った女性たちは、それが学者やジャーナリストであれ、学生であれ、生活保護を受けて安ホテルに暮している半分人生を下りたような女性であれ、みんな自分のことは自分でやることを当然と思っているような自立的な姿勢を感じさせた。むろん、そうでない〈甘えた〉女性もいるわけだが、オーストラリアよりは、はるかに数が少ないようにみえた。
 アメリカは〈レディ・ファースト〉の国だといわれてきたが、そうした習慣はあきらかにくずれつつあり、女性だけを——マナーとして——丁重にあつかいすぎる男は、いまでは不自然にうつるに違いない。もっとも、昔日を懐かしむ人々のあいだには、男性と女性との差別がなくなってきたために、生活にうるおいがなくなってしまったという声もないではない。二十年前なら、どんな安ホテルへ行っても、女性がエレベーターに乗りこんできたとき、帽子をかぶっている男性がそれをぬいだり、地下鉄で婦人に席をゆずることは、「最低の常識だった」と昔をしのぶ老人もいる。しかし、フェミニストの立場からすると、〈レディ・ファースト〉は女性差別をカモフラージュする男の偽善であり、実際に、男性から〈女性〉あつかいされるのを拒否する女性はふえているといえる。しかし、このことは、アメリカの女性が〈男性〉化したということでは必ずしもなく、むしろ、人間関係や性関係は男と女とのあいだだけに限られるものではないという認識が深まってきたことを意味すると考えるべきだろう。女性にやさしい男性、男性に対してチャーミングな女性はいなくなったわけではなく、彼も彼女も、男性としてあるいは女性として〈やさしく〉、〈チャーミング〉なのではなくて、一人の人間としてそうなのである。ホモセクシャリティがある限界内で復権しつつあることも、このことと無関係ではない。
 こうした観点からすると、オーストラリアの女性たちは、フェミニストですらみな一体にアメリカの女性よりも〈女らしく〉、通勤する女性も家にいる女性も、日本の女性と同じように、化粧を念入りにし、〈女〉らしい衣装を身につけることを好んでいるような印象を受けた。二、三人の幼児をつれた若い母親の姿もかなりみかけられ、育児はまだまだ女親の主要な仕事になっているようにみえた。この点、ニューヨークでは全く逆で、もし、夫婦が共稼ぎだとすると、家事や育児は事実上男の仕事になる傾向が——社会意識の強い人々のあいだでは特に——強い。これは、一種の反動であって、女性差別を反省した男性たちが、自分の社会意識を顕示するために無理をして、いままでやらなかったことに意識的に精を出しているきらいがないでもない。
 グリニッチ・ヴィレッジに住んでいたとき、近所にニューヨーク大学の教員住宅があった。そこにはいろいろ面白い人物が住んでいたが、そのうちの一人のL氏などは、ニューヨークではめずらしく三人も子供がおり、その面倒にあけくれていた。早朝、L氏は、一番年下の子を背負い、まんなかの子をバギーに乗せ、一番上の女の子(当時小学四年生)をスクールバスの停留所につれてゆく。その足でスーパーマーケットにより、食料品の買物をし、荷物を片手にかかえ、バギーを押して一旦アパートに帰る。しばらくして、L氏は再び二人をつれて外に出、一人を保育園へ、もう一人をベビーシッターのところへつれてゆく。彼は、この日課を週五日くりかえしているわけで、はじめわたしは、この人は奥さんに逃げられたやもめなのかと思った。ところが、この人にはちゃんと奥さんがいたのであり、路上でたびたび顔を合わせるうちに知合いになってからわかったところでは、彼の奥さんは、今年から大学で講義をもつことになり、準備に忙しいので、家事と育児は彼が全部ひきうけることにしたのだという。
 この例はいささか極端であり、L氏自身、「少しやりすぎだね」と言っていたが、男性が家事や育児に積極的にかかわることは、ニューヨークではごく普通である。しかし、オーストラリアでは、まだここまではいっておらず、一九七〇年代後半からフェミニズムの影響は、はっきりと社会の表面にも現われてきたが、フェミニズム運動にコミットしているラ・トローブ大学のある女子学生の話では、職場における女性の地位はフェミニズムの影響で大いに改善され、女権は拡張されたが、家庭のレベルで男性の意識を変えるところまではまだいっていないとのことだった。たしかに、わたしが招かれた何人かのオーストラリア人の家庭でも、家事をきりまわしているのは奥さんのほうで、夫は(さすが日本のように、「おい、お茶!」という感じはなかったが)彼女に理解ある手助けをするにとどまっていた。このことは、スーパーマーケットや個人商店で食料品を買っている客を観察してもわかることで、〈進歩的〉な人々が多く住んでいると思われる地域のスーパーマーケットや個人商店で観察してみても、主婦とおぼしき人々が非常に多いのである。これは、男性の客も女性の客も、圧倒的に一人者が多く、しかも男性客の数は決して女性客よりも少なくはないグリニッチ・ヴィレッジとは大いに異なるところだろう。シドニーは、オーストラリアの都市のなかで一番ニューヨーク的な要素をもった街である。一般の人々がフェミニズムに接する機会も他の都市より多く、フェミニズムのコーナーを設けている本屋の数も、シドニーのほうがメルボルンよりも多かった。メルボルンのコミュニティ放送局3CRのフェミニズム番組はなかなかラディカルなものが多かったが、シドニーの公共放送局2SERのフェミニズム番組のほうが、一般性という点では影響力をもっているように感じられ、放送出力もはるかに大きかった。
 シドニーのポッツ・ポイントという地区に住んでいたときよく利用した郵便局には、窓口に黒人の女性事務員がいたが、彼女の応対の態度がひどく大きく、わたしはニューヨークを思い出した。むろん〈態度が大きい〉と感じるのは、こちらの意識がマチズモにそまっているからで、彼女は単に男と対等にふるまっているにすぎないのだ。もしそれがいささかぎくしゃくしたものにみえるとすれば、それは、なが年にわたる男性優位の伝統をくつがえしつつある者に特有の矜持がそうさせているにすぎないのだ。だから、わたし自身は、女性が〈女〉らしいコケットリーをもって対応してくれるよりも、モノ・セクシュアルな対等の態度で接してくれるほうが気楽だと、少なくとも頭では思っている。むろんわたしとて、マチズモの文化にながらく足をつっこんできた男性の一人であるから、〈女〉らしいコケットリーに愛着をおぼえないわけではない。しかし、自分が媚びているということを意識せずに行なわれるようなコケットリーにつきあって相手の無意識的な抑圧者の立場に身をおくのは、なんともつらいのである。相手もこちらも自覚しながら〈コケットリー〉の〈劇〉を共演するというのであればまだましなのだが、男性による女性の隷属の歴史のなかで形づくられた身ぶりや思考様式につきあうのは、ごめんこうむりたいのである。
『女の都』の主人公スナポラツも巨根博士カッツォーネも、女性からコケットリーを期待するのは、男性として当然の権利だと思っている。スナポラツはカッツォーネほど自信がないのだが、彼は、女性があやしげに、あるいはやさしげにほほえみ、体をすりよせてくれるとき、子供が大好物のお菓子にありつけたときのように、すっかり我を忘れてしまう。しかし、二人の喜悲劇とりわけスナポラツの喜悲劇は、彼がこの〈夢〉のなかで出会う女性たちのコケットリーやサービスの底には抑圧者(=男性)を冷やかにみている醒めた意識があり、彼は終始道化にされているということに彼が全く気づかないことである。
 まず、〈夢〉の最初の部分でスナポラツは、列車のコンパートメントの向かい側の座席にいた女(バーニス・ステガーズ)が意味ありげなまなざしを彼に向けてトイレに立つと、たちまちふらふらになってしまい、あわてて彼女を追いかける。彼女はしたたかにも、彼をトイレに誘い入れ、彼の願望をみたしてやるようなそぶりをする。しかし、彼女の強烈なキスに酔いしれる間もなく、列車はとまってしまい、女は列車を下りてゆく。めんくらった彼が彼女を追ってゆくと、彼女はひと気のない森に入ってゆき、もう一度さっきの続きをやってやるとみせかけ、彼をだましていずこへか消えてしまう。
 道に迷ったスナポラツがやっとたどりついたところは、〈グランド・ホテル〉という建物で、そこではなにやらフェミニストの集会が開かれているらしい。先程の女も、この集会にやってきたのである。会場にまぎれこんだスナポラツが目撃したものは、男性批判のどぎついポスターであり、鎖でがんじがらめにされた花嫁衣装のマネキン人形であり、続々とやってくるフェミニストやレズビアンの女性たちである。床の上で輪になり、亀のようなポーズをして集団瞑想にふけっているグループもある。部会がいくつもあるらしく、スライドで性器をうつし出し、「父権文化的抑圧」や「侵略的挿入」について論じている部会もある。
 一見フェミニズムを茶化しているようにみえながら、この大会の一連のシーンのなかには、イタリアのフェミニズム運動のすぐれた部分を正しく描いている部分がある。イタリアのフェミニズム運動は、演劇やパフォーマンスと結びついて成果をあげた面を見逃せないのだが、この大会のなかで「主婦の一日」という寸劇が演じられるシーンがまさにこの事実を的確に伝えている。実際、一九七〇年代後半のイタリアでは、「主婦の一日」のような社会風刺劇がいくつもつくられ、教室から路上にいたるさまざまな場所で上演され、大衆の社会意識に強い影響を与えた。
「主婦の一日」のあらすじは次のようなものだ。流し、アイロン台、ミシンといった伝統的な家事用具のあいだで、黒い服を着たイタリアの〈古典的〉なタイプの女性が料理、洗濯、アイロンかけなどに追われている。胸には赤ん坊(人形)をしばりつけ、家事のあいまにミルクをやる。ミシンをバタバタ踏んだと思ったら次は食事のしたくだ。テーブルに皿をセットし、夫をむかえなければならない。やがて、彼女の周囲の観客(すべて女性)をかきわけて、フランケンシュタインの仮面をかぶった〈男〉が偉そうな身ぶりで登場し、テーブルにつく。〈男〉が食事をしているあいだも、彼女は休まず立ち働いている。このあたり、全体の動作をスラプスティック調に行ない、身ぶりのテンポも映画の早撮りシーンのようになってくるのだが、最後のほうになると、彼女は皿を洗いながらうしろ向きでフランケンシュタイン氏のために〈夜のおつとめ〉をするといったぐあいで、主婦が家事労働や男の身勝手な要求にしばられることの不条理が徹底的に笑殺されるのである。会場は終始わきかえり、芝居がおわると観客たちは、いっせいに「結婚——精神病院!!」というシュプレヒコールをくりかえす。スナポラツは、色を失ってその場からこそこそ立ち去るしかなすすべがないというわけである。
『女の都』でフェリーニがつくりあげた〈フェミニスト大会〉は、それほど空想的なものではない。少なくともアメリカでは、もっと過激な大会がいくつも開かれてきたし、イタリアでももっと想像力にみちあふれたフェミニスト集会がいくつも開かれたはずだ。フェリーニは、この映画を製作するにあたって、周到なリサーチを行なったと言っている。
「『去勢された女性』の著者ジャーメイン・グリアを含めて、大勢のフェミニストの作家に会った。彼女は引退した法王のように寛大で、控え目な口ぶりで何度もこう言った。『フェデリコ、あなたは女についていったい何がわかっているの?』わたしのために何ページか書いてくれた作家もいる。わたしは熱心なフェミニストたちの証言や、歌や、議論に耳を傾けた。好奇心に駆られてゴルヴェノ・ヴェッキョ街にあるローマのフェミニズム運動家たちの本拠を訪れ、閉め出しをくったが、大勢のフェミニストが出演依頼をうけいれてくれた」(前掲紙)
 一九七〇年代の後半から、イタリアではさまざまな文化運動がさかんになり、フェミニズムの立場に立つ政治演劇も数多くつくられた。そのうち、ダリオ・フォーとフランカ・ラーメが主宰する〈ラ・コムーネ〉は最も活溌な演劇グループであったが、フェミニズム運動の活動家でもあるフランカ・ラーメの協力のもとにダリオ・フォーは、イタリアの女性が保守的な社会のなかでおかれている状況を風刺的に描き出す作品を書き、上演した。
 わたしは、たまたまシドニーで、フォーとラーメのフェミニスト劇にもとづく『フィーマル・パーツ』という——〈女性の役割〉と〈女性性器〉という意味をかけた——題名の芝居をみる機会を得たが、これは『女の都』の〈フェミニスト大会〉のなかで上演された「主婦の一日」と非常によく似た内容の芝居であった。『フィーマル・パーツ』が上演されていることを知ったのは全くの偶然で、ある日、わたしが泊っていたホテルの入口においてあった『ブライト・ライツ』という——黒のタイツをはき、胸部を誇張した衣装の〈美女〉たちを表紙にあしらった——およそ反フェミニズム的な情報誌(無料)をめくっていたら、〈アングラ〉系の作品をよく上演するニムロッド・シアターで、ダリオ・フォーとフランカ・ラーメの原作にもとづく作品をやっているという小さな記事が目にとまったのである。
 ニムロッド・シアターは、シドニーの中央駅に近いサリーヒルズという地域にある。このあたりには、近年、芸術家や知識人がたくさん移り住んできて、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに似たボヘミアン・コミュニティが出来つつある。ザ・シドニー・トレイド・ユニオン・クラブという——本来は労働組合の社交場なのだが——市内で最も意欲的にロック・コンサートを主催しているクラブもこの近くにある。
 フェイ・モコトフが演出した『フィーマル・パーツ』は「起床」「女一人」「あいも変わらぬ古いお話」「メディア」という四つのパートから出来ている。これらをジュド・クーリングとリネット・クーランという二人の女優が交替で演ずるのだが、一人の俳優が全部のパートを、あるいは四人の俳優が一つずつのパートを演じてもよいように出来ている。第一場の「起床」は、共働きの女性が、目覚しのベルでとび起き、食事のしたくをして、(舞台では暗示されるだけだが、夫を起こして)、赤ん坊の世話をし、いざあわただしく出勤の用意をしてみたら、その日は日曜だったというスラプスティックである。第二場の「女一人」は、家庭にとじこめられているセックス・アッピールにあふれた中年女性が、退屈しのぎにアイロンをかけながら、男へのうらみつらみをぐちるモノローグ劇である。第三場の「あいも変わらぬ古いお話」では、黒いタイツをはいたジュド・クーリングが、ベッドの上で〈夜のおつとめ〉の身ぶりを口ぎたない言葉と大げさな嬌声とともにこっけいに演じる。最後の「メディア」では、男性至上主義社会での老婆の孤独を——ギリシア神話の「メディア」にひっかけながら——リネット・クーランがモノローグする。芝居は、舞台裏からイタリアのポピュラー音楽が流れるところからはじまり、舞台がイタリアについての物語であることが暗示される。エスニシティを強調したこの演出は、逆に、ここで演じられる物語が単にイタリアの女性たちだけの問題をあつかっているのではないということを強く感じさせる効果をあげていた。
 数日後、わたしは、この芝居を演出したフェイ・モコトフに会うチャンスを得、この劇のことやオーストラリアのフェミニズム運動の状況について話をきくことができた。モコトフによると、オーストラリアにはすでにいくつかのフェミニスト演劇集団があり、毎年かなりの数のフェミニスト劇が上演されているという。それと、一九八一年の国際婦人年に際し、ニュー・サウス・ウェルズ州ではウイメン・エンド・アーツ・プロジェクトという基金が設立され、これによってあらゆる分野における女性の芸術活動に助成金が交付されることになり、フェミニストの芸術活動がますます地歩をかためてきた。一九八二年十月には、アボリジニ(オーストラリア原住民)、移民者、地域住民たちの芸術、ダンス、映画、テレビ、文学、音楽、演劇、視覚芸術、工芸など、さまざまなジャンルの芸術にコミットしている女性芸術家が一堂に会する〈女性と芸術の祭典〉が開かれる。
 モコトフは、すでにスーザン・グリフィンの『声』というフェミニズム劇をオーストラリアン・パーフォーミング・グループの俳優を使ってメルボルンの有名な〈アングラ〉劇場プラム・ファクトリーで舞台化しているのだが、オーストラリアでフェミニズムが受けている平均的な反応についてたずねると、彼女は、「保守的な人々も、男性至上主義が支配的な現在の状態がまちがっているということに気がついているのですが、それを変える勇気がないだけなのです」と言い、いずれにしてもフェミニズムがオーストラリアの社会に浸透しはじめており、フェミニズム演劇はますますそれを加速させる一助になるだろうと語った。
 オーストラリアでは、最近、成人学校へ入る女性がふえてきているが、これは、金と時間の余裕のできた中流家庭の夫人が向学心や好奇心に燃えて学校に通いはじめたからではなく、むしろ、離婚、家庭の不和、失恋といった〈生活の危機〉を経験した女性たちが、経済的自立の必要性を痛感し、手職を身につけるというケースが急増してきたからだという(『シドニー・モーニング・ヘラルド』一九八二年三月二十三日号)。たしかに、オーストラリアでも、離婚率はアメリカなみになってきたし、シングル・ウーマンの数も確実にふえてきている。
 こうした変化は、たしかに、人々の意識の変化とりわけ女性自身の社会意識の変化と無関係ではないが、単に意識が変化するだけでは大きな社会的変化は生じない。変化が起きるためには、産業システムの利害や論理にもとづく必然性がなければならないのであり、いまあげたような変化が起こっているからには、現在の産業システムが女性たちの〈自立〉をなんらかの意味で必要としているのである。
 たとえば、日本企業において一般的な性差別は、男性従業員を主体とする終身雇用制とセットになった非常に巧妙な雇用制度であり、これは、結婚して母となることが女性のつとめであって、〈適齢期〉になったら女性は結婚して会社をやめるべきだという〈性差別〉的文化と補完しあって、うまく機能してきた。しかし、この——これまでうまくいっていた——メカニズムにひずみが生じはじめている。即ち、結婚までの〈腰掛け〉として会社に勤める女子社員は、企業の将来にとって好ましいことではないということを企業自身が自覚しはじめているという事態である。その場合、面白いことは、女子社員たちがなにかフェミニズム的な社会意識にめざめて、もはやそんな屈辱的な地位に甘んずることはできないと言い出したために、この事態が生じたのではないことだ。そうではなくて、これは、日本の産業システムそのものが変化してきたために生じたことなのであり、もはや日本の産業システム自体が、そういう〈腰掛け〉的な従業員を必要としなくなりはじめたということなのである。
 これは、エネルギー危機や生産性の低下のために起こったというよりも、むしろ産業そのものの重心が知識産業や情報産業に移行したために起こった。むろん、コンピュータやエレクトロニクスの急速な発展によって、これまで〈女の子〉にやらせてきた単純なルーティン・ワークが機械によって代替されるようになってきた面も見逃せない。いずれにしても、今後の労働市場では、産業自身が女性たちにある程度の〈自立〉を要求するのであり、言われたことをただ受動的にやる労働者ではなくて、自発的に〈創造的〉な仕事を行なうプロフェッショナルが期待されるのである。これは、ある意味で、産業システム自身がその内部に〈フェミニズム〉を内蔵せざるを得なくなったということである。
 しかし、この種の産業システムが発達した場合、非常に少数の人間が〈創造的〉に働き、大多数の人間が怠惰に働く、あるいはほとんど働かないといった状態が出現することは避けられない。フェリーニの『女の都』で主人公スナポラツが〈フェミニスト大会〉からほうほうの態で逃げ出したあと、パンク・ルックに身をかためた一群の少女たちに出会うシーンがある。彼女たちは、みなまだ十二、三歳にしかみえないが、車のなかで酒、麻薬、音楽に酔いしれながら時を過ごすことにしか関心がなく、そのくせ飛行場近くを低空で飛ぶ飛行機めがけてピストルをぶっぱなすというような行動に出ようともする。こうした少女の一群は、スナポラツが全く意志を疎通させることができなかった唯一の女性たちであったが、いまヨーロッパでもアメリカでも、そしてオーストラリアでも、こうしたホームレス・ユースがふえ続けている。
 ニューヨークに多いショッピング・バッグ・レディ、つまり必ずしも失業のためではないのに働くことを放棄し、〈家財道具〉を手付きの紙袋につめて駅の構内や街を放浪する女性たちも、似たような意味でホームレスだが、こうした一群のホームレス・ピープルは、従来の意味での〈失業者〉や〈ルンペン・プロレタリアート〉ではなく、むしろ働かないことによって今日の産業システム——百人の平凡人よりも一人の〈創造的〉な才能を歓迎する知識・情報志向の産業システム——をささえているのであり、その意味では、彼女らは、働かないというサーヴィスを提供している〈サービス労働者〉なのである。
 それゆえ、あらゆるサービスが賃金に換算される今日のサービス社会(脱工業化社会)では、無償のサービスというものはありえない以上、彼女らの生活は、国家や企業によって保証されなければならないわけだが、にもかかわらずそうした「福祉」対策だけでは、彼女らがその無言の身ぶりのなかで示唆していることは、いささかも解決されないだろう。というのも、ホームレス・ピープルは、まさに男性文化をささえてきた〈生産〉や〈労働〉という観念そのものに無言の異議を申し立てているからである。
監督・脚本=フェデリコ・フェリーニ/主演=マルチェロ・マストロヤンニ、エットーレ・マンニ他/80年伊・仏◎82/ 9/ 6『SPAZIO』




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