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ガンジー

 リチャード・アッテンボローの三時間八分におよぶ大作『ガンジー』が完成された。アッテンボローがガンジーの伝記映画にとりくんでいるというニュースは、もうずいぶん以前から伝えられており、最初に計画されてからではほぼ二十年ぶりに実現されたわけである。
 二十年ぶり、と言っても、たとえば最近の『炎のランナー』でも姿をみせているジョン・ギールガッドやイアン・チャールスンのふけ具合から判断して、この映画のシーンの大半がごく近年に撮影されたものであることがわかるが、以前に撮影され、現像されずに捨てられたフィルムも相当あるらしい。ちなみに、この映画のシーンのなかで一つの圧巻となっているガンジーの葬儀シーンは、一九八一年一月三十日つまりガンジー没後三十三周年の日に、三十万人以上の人々を動員してニューデリーで撮影されたという。
 この映画が、一九八〇年代に完成され、公開されたことは、むろん色々な偶然が作用しているとしても、時代の趨勢と無関係ではないだろう。そもそも、この映画の製作を難航させた最大の要因は、最終的に四千万ドルにもふくれあがった製作費の調達であったが、ガンジーのような人物を主人公とする映画の製作のために資金を集める条件は、この十年間に急速に改善された。つまり、一九六〇年代にはまだヒッピーや一部の急進的なコミューン主義者たちのものでしかなかったガンジー主義やそれに近い発想が、たとえば自然食やエコロジーへの関心という形で一般化し、ガンジー主義的なものを受けいれる地盤がヨーロッパやアメリカでととのってきたからである。
 アッテンボローがガンジーの伝記映画を作ろうと思いたったのは、ルイス・フィッシャーの『マハトマ・ガンジーの生涯』i古賀勝郎訳『ガンジー』A紀伊國屋書店)を読んでからだという。ガンジーを崇拝し、彼の伝記作者となったフィッシャーは、映画では、ボーア戦争を取材したビア・ステント、ガンジーの自主管理製塩所にイギリスが加えた暴虐を報道したウェブ・ミラーなどの人物像とミックスされた形で、マーティン・シーンが演ずるアメリカの新聞記者ウォーカーとして姿を現わす。この映画をガンジーの伝記映画としてみるならば、ロンドン大学出身で、自分をインド人であるよりもイギリス人であると思いたがっていた若きガンジーが、弁護士として赴任した南アフリカで彼としては信じがたい人種差別を体験し、次第にインド人移民の差別反対闘争に加担するようになり、やがてはインドに帰り、インドの独立運動の指導者、さらにはインド民衆の精神的支柱となってゆく過程が、しっかりした歴史考証とガンジー役のベン・キングズレーの熱演とがあいまってなかなかよく描かれている。
 しかし、この映画をもっと現代的な観点からみることもできるのであり、むしろそうしてこそこの映画が一九八〇年代にガンジーを扱う意味が生きてくるのではないか。
 ガンジーの一般的なイメージは、カダールという手製の木綿着を着て瓢々と杖をついて歩く東洋の〈聖者〉というイメージで、そこには西洋的なものは感じられない。しかし、ガンジーのこうした〈東洋的〉なスタイルは、純粋に東洋的な伝統のなかから出てきたものではなく、むしろ、ソローやトルストイを読むことを通じてだんだんに発見されたものなのである。映画の最初の方で、ガンジー青年が南アフリカへ向かう列車に乗っているシーンが出てくるが、ここにはモダンなインテリの姿があり、カダールを着た後年のガンジー像はない。映画でも語られているように、彼が南アフリカのインド人移民の反差別闘争の闘士としてインドに帰国したとき、彼はインドについてあまり多くのことを知ってはいなかった。つまり、青年時代のガンジーは、西洋かぶれのインテリだったのであり、その彼が次第に菜食、禁酒、禁煙、禁欲といった〈東洋的〉な方向を見出してゆくのである。
 アッテンボローは、ガンジーのこうした意識的な自己発展の過程をそれほどヴィヴィッドには描いてはいないが、ガンジー主義の現代的な意義は、まさに一人の理性的な人間が、自分が生きている非西欧的な環境のなかで、西欧文明にはない、しかもそれを越えるような生き方や権力への反抗の仕方、そして新しい社会のつくり方を発見していったことのなかにある。これは、一九六〇年代ごろからアメリカやヨーロッパでガンジー主義に新たな関心が向けられるようになったことと無関係ではなく、マーティン・ルーサー・キングのような平和運動家や六〇年代のコミューン主義者は、ガンジーに共鳴しながら、同じようなやり方で自分たちの地盤を見出すのである。
 ヨーロッパやアメリカでガンジー主義(たとえば断食)やヨーガに対する関心が高まったことは、しばしば、西欧の東洋回帰とかオリエンタリズムとしてとらえられるが、わたしは、こういう見方はひじょうに表面的だと思う。少なくとも六〇年代以降に先進産業国ではやりはじめた菜食主義、自然療法、断食、セリバシー(性欲のコントロールや独身主義)は、東洋思想に関係づけられる以前に、第一次的な「生活世界」としての身体に対するきわめて自然なかかわり方を西欧人自身が求めはじめたことのなかから生じてきたと考えた方がよい。
 その意味では、ガンジーはヒンズー教や東洋の神秘主義の哲人であるよりも、むしろ、われわれ各自にそなわっている身体に精通している〈名医〉である。ガンジーは、複雑な機械への従属に反対し、西洋医学よりも自然療法を、肉食ではなく菜食を、結婚よりも独身を、そして飽食よりも折にふれての断食を、そしてまた暴力的抵抗よりも非暴力的抵抗を説いたが、これらはすべて自分自身の身体を解放するための方法であって、われわれが自分の身体を本当に、最大限生かすということがガンジー主義の基本なのである。映画でも何度か出てくるガンジーの断食(彼は生涯に十八回、日数にして百六十日以上断食している)は、相手をおどすような暴力的な手段を一切用いずに、イギリスの権力者たちをふるえあがらせ、また、エスカレイトした民衆の暴動を鎮めるといった驚くべき力を発揮したのである。
 西洋の近代科学は、医学も心理学も、人間の身体を一個の物としてみてきた。そこでは、身体はそれがかかわっている具体的なさまざまなものとの関係においてはみられず、それだけで切りはなされた物としてみられてしまう。映画のなかでわたしは、あるシーンに感動した。それは、まだ髪を西洋流に分けているインテリ青年ガンジーが南アフリカでインド人差別反対のデモに加わっていると、その隊列に向かってイギリス人の警官が馬で突進してくるシーンなのだが、そのとき経験豊かな活動家の一人が、「馬は決して人を踏みつけないから伏せろ」と叫び、ガンジーたちがとっさに地面に伏せると、突進してきた馬は、彼の言葉どおり前足をあげて急停止してしまい、警官たちは馬からころがり落ちてしまうのである。このシーンは、ガンジーが人間の身体のもつ本来の威力をはじめて悟る象徴的な事件として受けとれないこともない。実際、ガンジーは、以後、自分の身体がもつ力を正しくつかみ、それを政治運動と彼の日常生活に最大限に活用していった。
 ところで、西ヨーロッパやアメリカではすでに恒常化したとも言える不況は、それなりの文化を生み出しつつある。六〇年代には、〈豊かな社会〉の矛盾に対して敏感に反応したごく一部の人々の関心事であったエコロジー、ソフト・エネルギー・パス、自然食等々が、いまでは大なり小なり社会制度のなかにとり入れられ、パンク・ファッションや乞食ファッションのような〈省エネ〉型の文化が台頭するまでになってきた。
 こうした傾向は、これまで成長主義一本槍で進んできた先進産業国の経済と社会が、このままではドラスティックな自己破壊に陥ることに気づき、いわば一種の〈エネルギー備蓄〉に心がけ、細くながく生きのびてゆこうという方向を求めはじめたことを意味するが、それとともに、これまでの社会体制、経済体制そして文化が、このままではどうしようもないところまで進んでしまい、その根本的な出なおしがいまヨーロッパやアメリカでははじまっているということでもある。
 その場合、どうしても出なおしの出発点はこの〈わたしの身体〉ということになるわけだが、自動車に乗ることよりも歩くことを、刺激的な情報環境によって捏造された欲望ではなく「生活世界」に根ざした欲求を、ジャンク・フードではなく自然食品を、個人主義ではなく連帯を……といった新しい傾向は、驚くべきことに、ガンジーがその後半生を通じてすべて実践したことなのである。
監督=リチャード・アッテンボロー/脚本=ジョン・ブライリー/出演=ベン・キングズレー、キャンディス・バーゲン他/82年英・インド◎82/12/26『キネマ旬報』




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