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ゴッドファーザーPARTⅡ/狼よさらば

 このごろ、映画をみることにおいてやや欲求不満に陥っている。それは、ニューヨーク、とりわけマンハッタンを舞台にした映画にめぐまれないからであるが、こういう態度は映画をリアリスティックな再現手段としかみていないといったそしりを受けるだろうか? むろん、映画は再現手段ではない。テレビにくらべれば、映画の映像変換は単純だが、それでも対象の光学的変換を化学的に変換し、それをさらに光学的に変換する過程にはさまざまな操作が介入している。映画をみるということは、むしろそうした変換のなかで起こる操作をみることであり、操作の共犯的ないしは批判的体験なのである。
 その意味で、どこで撮られたかを暗黙に、あるいは意図的に示唆している映画は、そうした操作過程を映画体験の中心におきやすい。『ゴッドファーザーPARTIIⅡ』の冒頭シーンは、幼いコルレオーネがシシリーからニューヨークへ移民してくる映像として観客に与えられる。しかし、よくみると、ニューヨーク港のエリス島に向かって進んでいることになっている船はそれとは逆に動いている。つまり、ここにはニューヨーク港に古い客船を浮べて、あるいは出来合いのフェリー・ボートの甲板を利用してこの場面を撮ったものの、当時検疫所のあったエリス島に船が向かっていようがそこから離れていようが大したことではないというディテール無視の操作があったわけで、それはさらに、この映画がディテールを無視するという操作の体験を要求しているということを意味しているのである。この操作にあなたが共犯意識をもつならばこの映画はあなたを楽しませるだろうし、あなたがもしこの操作に批判意識をいだくならばこの映画は大部分の商業映画がもっている文化装置としての機能をみずからあばき出してくれるだろう。
 こんなことは、映画がニューヨークを舞台にしているかどうかということとは直接関係はないわけだが、わたしにとっては、そうである場合が一番操作過程を発見しやすいように思われるということなのだ。それは、わたしがニューヨークに何度か滞在したことがあって、そこの都市的ディテールを少しばかり知っているからであるよりも、むしろニューヨークという都市が操作のメディアになるということにとりわけ関心をもつからである。
 ニューヨークを生ま生ましく描いたかのような操作を内蔵する映画は、一九七三年ぐらいから七〇年代のおわりまで数多く現われ、〈ニューヨーク映画〉という言葉すら生まれた。それ以前にも『質屋』、『真夜中のカーボーイ』、『フレンチコネクション』などがあったが、『セルピコ』、『セブンアップス』、『ミーン・ストリート』、『レニー・ブルース』、『サブウェイ・パニック』、『ハリーとトント』、『狼よさらば』、『コンドル』、『ネットワーク』、『グニッジ・ヴィレッジの青春』、『クシー・ドライバー』、『アニー・ホール』、『マンハッタン』、『グロリア』、『フェーム』、『摩天楼ブルースv『レイジング・ブル』、『プリンス・オブ・シティ』、『ナイトホークス』といった作品はニューヨークの都市を活写したものとして観客に与えられた。
 この二月にニューヨークへ行ったとき、ニューヨークを舞台にした新作をみようとしたが、スコセッシの『キング・オブ・コメディ』ぐらいしか、みるべきものはなかった。〈ニューヨーク映画〉は確実に少なくなっている。
 これは、ニューヨークという都市が映画における操作のメディアとしての機能を以前よりももたなくなったということかもしれない。ニューヨークは一九七〇年代に大きな変貌をとげた。六〇年代にはそこに住むのを恐れた人々が、七〇年代には、そこにふたたび住みたいと思うようになった。〈アイ・ラブ・ニューヨーク〉キャンペーンの成果がみえてきた。一九六八年に、ジョン・レノンがマリワナ所持の理由で国外退去を命じられたとき、〈アイ・ラブ・ニューヨーク〉キャンペーンの主導者リンゼイ市長とコッチ議員(現市長)は、彼を擁護し、レノンがニューヨークに定住する道を開いた。それは効を奏し、彼のまねをして文化人がマンハッタンに住みつきはじめた。
 この、いわゆる〈ニューヨーク再生〉に関しておもしろいのが、映画『狼よさらば』の原作Death Wish(佐和誠訳、早川書房)である。映画は、ニューヨークをステレオタイプ的になぞっただけだったが、最近翻訳の出た「ロマノフ家の金塊」(後藤安彦訳、早川書房)の著者でもあるブライアン・ガーフィールドの原作は、荒廃したニューヨークにうんざりしているミドル・クラスの平均的な意識をよく描いており、この物語をそれが発表された一九七四年という時点で読むと、その主人公のようにピストルで邪魔者を一掃するようなことこそしなかったとはいえ、専門職のミドル・クラスや著名文化人たちが、経済的・文化的な高級化という手段によって貧民やボヘミアンたちをマンハッタンから追い出してゆく−−一九七四年ごろから顕在化する−−ジェントリフィケイションのプロセスとミドル・クラスのエゴイズムとを実にうまくとらえているのである。
 ニューヨークを舞台にした映画や小説は、こうしたジェントリフィケイションの操作にとって重要な役割を果たした。マンハッタンは変貌し、民衆的な都市のうさんくささはなくなってきた。マンハッタンは、もうこれ以上そうした操作を映画や小説の文化装置を使って進めなくても自動的にプロフェッショナル・アッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの人々だけの街になるだろう。かくして、〈ニューヨーク映画〉は下火になり、代わって、他の都市にジェントリフィケイションを波及させようとするような映画が作られるのである。たとえば『フラッシュダンス』は、工業都市ピッツバークをジェントリフィケイション化された都市として問題にしようとしている。
[ゴッドファーザーPARTⅡ]前出[狼よさらば]監督=マイケル・ウィナー/脚本=ウェンデル・メイズ/出演=チャールズ・ブロンソン、ホープ・ラング他/74年米◎83/ 7/14『月刊イメージフォーラム』




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