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ウォー・ゲーム

 グレナダに米軍が侵入したニュースをきいたとき、まっ先に思い出したのが、映画『ウォー・ゲーム』のことだった。というと奇妙な印象を与えるかもしれない。この映画は、普通、米ソ核戦争の危険に警鐘を鳴らす反戦映画だと考えられているからである。しかし、『炎のランナー』を、フォークランドへのイギリスの軍事介入という事件のあとで見なおすならば、この映画が事実上、いかに英国のナショナリズムを発揚させるためのプロパガンダ映画の役割を果たしていたかがわかるように、『ウォー・ゲーム』にも、これまで言われてきたのとは別の機能が見えてくるのである。
 この映画の冒頭のエピソードは、戦争は依然として職業的に訓練された軍人や兵士によって行なわれるものだと主張する将軍(バリー・コービン)と、戦争は、もはや電子戦であり、戦術の指令と実行は人間よりもコンピュータにまかせる方が確実だととなえる軍事科学者(ダブニー・コールマン)との激しい議論である。が、一番最初のシーンで暗示されるように、NORAD(北米大陸防空軍)司令部では、コンピュータ化された監視装置が適切な指令を与えても、ミサイルのボタンを押す担当官がどたんばでビビってしまうという事故がすでに起きていたらしく(あるいは、そういう想定のシミュレイション・テストに反応できない軍人が多数いることが判明したため?)、NORADは、WOPR(War OperationResponse) というスーパー・コンピュータに、想定できる第三次世界大戦のすべての戦争操作を完全にまかせてしまう。
 ここから、このコンピュータ回線にたまたま介入してしまった十七歳のコンピューター狂(マシュー・ブロデリック)が、このWOPRの〈世界全面核戦争〉というプログラムを始動させてしまうことになるのだが、話の大詰で、もうおよそ解除不能と思われたWOPRが、この少年のちょっとした機智によってプログラムをみずから解除し、NORADからソ連の領土へ向けて核ミサイルが発射されずにすんだとき、あの将軍が小躍りするほど喜ぶ姿をよく注意して見る必要がある。
 全世界を破滅に導く核戦争が防げたのだから喜んで何が悪いというのが良識であろうが、軍人が人間的に描かれる映画などというものは大いに気をつけた方がよいと思うのである。たしかに、将軍の態度は、パーソナルなレベルにおいては、ただの〈人間らしい〉喜びを表現しているにすぎないだろう。しかし、そのあいだでも彼は決して将軍という機能と役割をやめたわけではないのだから、その喜びは、同時に、戦争の操作を軍事科学者から職業軍人の手にとりもどすことができたという権力闘争の勝利の喜びをも含蓄していることになる。
 今日の戦争が電子戦争であると考える者にとっては、グレナダ進攻のようなタイプの戦争は、相当〈遅れた〉戦争であり、そんなことをするより、アメリカ本土から局地ミサイルをうちこんだ方がよいと考えるだろう。それに対して、バリー・コービン演ずる−−いかにも古典的なタイプの戦争が好きそうな軍人は、むしろ、グレナダで行なわれたような地上戦こそ戦争らしい戦争であり、電子戦を行なうにしても、フォークランド沖の戦闘のように、相手のとどめをさすやり方で行なうべきだと考えるだろう。が、どちらも、殺戮と破壊の欲望をいささかも隠さない点においては同じだとしても、前者は、たとえ人間が存在しなくても戦争をやり続けるような極端さをもっている点で、多少の救いはある。「危険のあるところには、救いもまたある」という言葉があるように、極端は、別の極端に逆転することだってあるからだ。
 核兵器の現状凍結への動きが、いま世界的に進み、反核運動も高まっている状況下で、アメリカの保守派の政治家のなかにも、核凍結を支持する者がふえている。それは、決して彼らが戦争を放棄したからではなくて、核戦争がもうからないということを理解しはじめたからであり、目下、人工衛星から地中までとどまるところを知らぬ勢いで張りめぐらされつつあるコンピュータ・ネットワークにとっては、とりわけ、ごく局地的な小さな核爆発ですら致命的なダメージになりかねないということがわかってきたからである。
 にもかかわらず、十月三十一日の米上院本会議で、民主党のケネディが提出した「核凍結決議案」が賛成四十、反対五十八で否決されてしまったのは、アメリカの軍部では、『ウォー・ゲーム』に登場するような将軍が実権を握っており、世界戦争になっても、核をうまく使いこなして、何とか勝ち抜いてみせるという確信をいだいているからであろう。
前出◎83/12/21『流行通信』




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