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アメリカ

 かつて、「カフカ・ブーム」というものがあった。それは、第二次大戦後のフランスで起こり、一九五〇年代から一九六〇年代の中頃までのあいだに、日本はむろんのこと、モスクワやプラハをもまきこみ、世界中を席巻した。
 カフカ自身は、すでに一九二四年にこの世を去っていたのだから、このブームは不思議な現象と言わねばなるまい。それは、メディア操作によって人々がまどわされたのではなく、カフカのテキスト自身がもっている〈魔力〉に世界が感染したように見えた。
 欧米や日本では、その影響は主として文学と芸術のレベルで顕著だったが、東欧ではカフカは〈自由化〉と脱スターリニズムの試金石になった。一九六八年のチェコ事件で〈反逆者〉の烙印を押されたチェコの思想家や芸術家(たとえばカレル・コシークやエドゥアルト・ゴールドシュトゥッカー)は、みなカフカの強い影響下にあり、一九六三年五月に社会主義圏では初のカフカ会議を開催していたのだった。
 今日では、カフカがかつてのように熱っぽく論じられることはなく、また「禁書」として危険視されることもなくなった。しかし、それはカフカに内包されていたすべての潜勢力が汲みつくされてしまったからではなくて、「彼について書かれたもののうち、価値あるものはわずかしかない」(『プリズム』とアドルノが言い切った主として実存主義的なカフカ現象が終焉したからにすぎない。
 カフカの潜勢力は依然として働きつづけているのであり、「カフカ・ブーム」以後に現われた新しい思想や芸術のうち、カフカに関係づけることのできないものはほとんどないといっても過言ではない。フェリックス・ガタリがくりかえし語るように、カフカは「二一世紀の作家」なのであり、この先もし、「ポスト・モダン」という言葉が、いま流行語としてもっているような「モダン」(近代)の単なる延長概念としてではなく、脱近代としての意味で用いられるようになるとすれば、カフカは、おそらくポスト・モダニズムを具体的に方向づけた最初の作家ということになるだろう。
 しかし、カフカのテキストは、カフカという一人の「天才」の作品にとどまるものではなく、一九世紀末から一九一〇年代にかけての数十年のあいだにミクロ・レベルでははっきりと現われた文明史的な激変を非常に凝集した形で経験した東ヨーロッパの小都市プラハが、みずから結晶させた言語的テクスチャーだと考えた方がよい。そのようなことが起こるときというものがあるのであり、そのようなことが起こる都市が存在するのだ(それがいまの東京だなどとは絶対に言わないでもらいたい)。
 よく知られているように、カフカの言語は、標準ドイツ語ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国におけるドイツ系ユダヤ人によるチェコ・ドイツ語である。それは、標準ドイツ語からするといささか空虚なひびきをもち、語法にも若干の相異がある。カフカは、その特異性に意識的に執着した。というよりも、そうした言語的な特異性がもたらされた歴史的・社会的、そして文明史的な構造と、その小説的イメージおよびその語りの構造とを接合することに成功した。その結果、カフカのテキストは、全体としてはミクロで極めて特殊な事態について語りながら、その部分部分においては極度にマクロな文明史的事態について語り(これをカフカのテキストの〈分子的〉性格と呼ぼう)、また同時に、その言語的テキストが一つのモジュールとして他のテキストや他のテクスチャーと生成的・連続的に連結作用(まさにドゥルーズとガタリの言う〈アジャンスマン〉)を起こすことになる。
「カフカ・ブーム」も、そのようなプロセスの一つであり、今日依然として続いているカフカの影響は、まさしくそのような連結作用にもとづいているのである。その作用は、おそらく、その語の本来の意味におけるポスト・モダンの時代が全般化するときまで効力をもちつづけるだろう。
 ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレによる『アメリカ(階級関係)』は、カフカのテキストのこうした〈分子的〉ならびに〈モジュール的〉性格を明確に意識しており、それがカフカの『アメリカ』ないしは『失踪者』(今日では後者の呼び方がカフカの意図に忠実だとされる)のイメージを継承しているという以上にカフカを継承することになっている。
 登場人物たちが語る抑揚を抑えた−−語っているということを強調した−−せりふは、スタニスラフスキー・メソッドの影響をまだ脱していない〈役になりきる〉せりふを聞き慣れた耳には、標準ドイツ語のなかに突如出現したチェコ・ドイツ語のようなひびきを与える。と同時に、ここでは、登場人物に〈同化〉したり、この映画的世界を〈現実世界〉の描写とみなしたりすることが無意味であることが最初から明確にされている。
 カフカは、この原作(ただし、生前に刊行されたのはその第一章「火夫」のみ)をアーサー・ホリッチャーのアメリカ・レポートなどを参考にして書いた。カフカは一度もアメリカを訪れてはいないにもかかわらず、その記述は、一九一〇年代から一九四〇年代に定着するアメリカの風物をも活写しているのは驚きだが、『失踪者』を現にあるアメリカに関する小説としてしか見ないのは『失踪者』のレクチュールとしては不十分極まりない。それは、現にあるアメリカを問題にしたというよりも、カフカ自身言っているように「最も近代的(現代的)な」アメリカを問題にしようとしているのだ。
 そのリアリスティックと思われるイメージとはうらはらに、カフカは、冒頭から自由の女神のイメージを「その剣をにぎりしめた腕がいまそうされたように高々と振りあげられ」(中井正文訳、傍点引用者)と語り手に語らせ、最初からそのリアリズム性を相対化している。ストローブとユイレは、明らかにこの点を継承し、ヘリコプターが飛んでいるニューヨーク港のショットを最初に入れる。連結作用の喚起という点を強調する点ではストローブとユイレの方が大胆であり、登場人物の服装、建造物、家具、乗物を特に一九一〇年代やアメリカのそれに合わせる努力は全くしていない。終わり近くに「オクラホマの野外劇場」のポスターをカール・ロスマンが見るシーンがあるが、そのポスターが貼られている壁には、今日のドイツの街でよく見かけるスプレーによる落書が見えるのである。
 カフカは、語りのフィルターを通してはいるが視覚的なレベルで「最も近代的(現代的)なニューヨーク」を描くという最も近代主義的な小説技法を継承していることは否めない(これがしばしば〈カフカの魔術的リアリズム〉などとして称揚されたわけだが、それは、むしろカフカの消極的側面だ)。それに対してストローブとユイレは、映画的レベルではリアリズムを拒否する。リアリズムとは、日常化した近代の制度であり、その極理念として知覚する人間主体が前提されている。そこでは、映像は、そうした主体があたかも見ているかのように、音はそれがあたかも聞いているかのように提示される。
 しかし、そのような主体は、われわれがあえて同化しようとするのでなければ決して存在しえないものであり、従ってわれわれを支配する操作理念としてしか存在しえないものである。主体は向こう側にあるのではなく、こちら側にあるのだ。ある映像や音が、すべての人に知覚されたかのように提示するのも一つの近代主義制度にすぎないと同時に、誰かによって知覚されたかのように提示するのも一つの制度的な規則にすぎない。ストローブとユイレは、その意味で、客観的な映像・音も主観的な映像・音も提示しようとはしない。
 カールと火夫が船室で話をしたあと、二人が船長室へ行くためにそこから出て行くと、その誰もいなくなった部屋をしばらくのあいだ映している映像は誰かのまなざしによって見られている映像ではない。川べりを歩いているカールと〈伯父〉がフレームから消え去ったのち、しばらくのあいだそのまま背景を映しつづけているショットは、二人を観察している人物の目によって見られたものではない。音の方も、リアリズム的な操作とは全くちがうやり方でわれわれに与えられるのであって、それは、誰かが聴いていると仮定した際に最も〈本当らしく〉響くであろうようなやり方で与えられるのでは決してない。もし誰かが知覚しているのだとしたら、ここでは映像も音も、カメラとマイクが知覚しているのである。
 時計がかなりひんぱんに現われるが、これも、逆に日常的な時間を否定するためでしかない。船長室の壁にかかっている時計は十一時五十分を示している。物語の流れからすると、明るいニューヨーク港が見え、下船しようとしたカールがカサを忘れたことに気づき、船内にもどり、さんざん迷ったあげく火夫の船室にたどり着くわけだから、船長室の一件は昼の時刻に起こったと考えることができる。しかし、そのシーンの内部には、それが昼の十一時五十分なのか、それとも夜の十一時五十分なのかを判断させるものは何もない。ただし、映画のなかで時刻のことが語られる際に、たいていの場合、夜中の〇時への移行が強調されていることを考えると、船長室の時計は夜の十一時五十分であったのかもしれない。グリーンという人物も夜中の〇時を強調していたし、ブルネルダという売春婦風の女の住むアパート・ビルでカールが知り合った、バルコニーで夜通し勉強している男は、「九時から十時のあいだに遊びに来てくれ」と言い、オクラホマの野外劇場のポスターには、「夜十二時に未来へのドアが開かれる」と書かれている。
 夜の十二時−−〇時−−とは、ある意味で日常的な時間が停止する時間であり、眠りの時間との境界である。目覚めと眠りとのはざまで起こることは、〈現実〉でも〈非現実〉でもない。映画は、まさにそのようなはざまに介入する。
 このようなはざまの時間をわれわれが経験するのは、映画を見ることによってか、眠りながら夢を見ることによってか、あるいは移動する車に乗って外を見るときである。そのとき、われわれは、走っていないにもかかわらず(映像とともに)走っており、(ベッドのなかで)静止しているにもかかわらず(夢のなかで)動いており、(景色とともに)走っているにもかかわらず、(体は)走ってはいないのである。
 映画と夢と乗車とのこうしたアナロジカルな関係は、映画がしばしば、車中の夢や会話という形式を好んで用いることのなかにも潜在的に現われている。フェリーニの『女の都』は、スナポラツ(マルチェロ・マストロヤンニ)の車中の夢として提示され、ウディ・アレンの『スターダスト・メモリー』も似たような形をとっていた。ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』の映像は車中でフェルディナンド・レイが語る話として提示される。むろん、こうした提示は、近代主義的な制度を踏襲したものにすぎない。
『アメリカ』の場合、最後のシーンは川ぞいを走る列車にカールが乗っている場面である。カフカの原作でも、またストローブとユイレの映画では特に、全体がモジュール状になっており、ある部分を強調し、全体を再構成しなおして解釈することも可能である(カフカの原作『失踪者』の章の順番は、それが遺稿から編者が組み立てたという点で、カフカが意図したものと必ずしも同じではないが、現行のものとは異なる章立てがまだいくつも出来るのは、そのテキスト自体のなかにあるモジュール性のためである。また、ストローブとユイレのバッハへの関心−−『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』−−も、かぎりなく連結可能なそのフーガの技法への関心であると言えなくもない)。しかし、問題はその連結のしかたである。
 たとえば『失踪者』の場合、物語の全体を、自由の女神の手に握られているタイマツを「剣」と見まちがえてしまうようなあわて者の主人公の妄想世界ないしは非常に〈主観化〉された世界と受けとることができる。また、ストローブとユイレの『アメリカ』の場合には、最後の場面を中心に全体を組みかえ、それまでの〈ドラマ〉を、カールの車中の夢として解釈することも可能である。
 しかし、そのような解釈をすると、ストローブとユイレの『アメリカ』の場合、たちまち映像と音に対して〈知覚する主観〉が措定されてしまい、脱近代へ向けて投げられている試みがふたたび近代主義のなかに投げかえされてしまうのである。重要なことは、映画自体が〈夢を見ること〉であり、〈乗車すること〉であるということだ。一方を他方に還元する必要はない。『アメリカ』では、〈夢〉〈虚構〉〈幻想〉といった−−いずれも〈現実〉を極理念としてもつ近代概念は全く不要である。
 この映画のモジュール状の諸部分をさまざまに連結しなおそうとするとき、最後のシーンは依然として重要である。なぜなら、このシーンは、それまでの他のシーンと基本的に異なっているからである。この点に関してストローブは、ヴォルフラム・シュッテのインタヴューに答えて、「川ぞいの走行は都市の石−世界からの解放なのであり、そのために急に水が現われるのだ」と言っている。これは非常に示唆的な発言だろう。都市=石的世界とそうでないものとの関係−−この関係のなかで『アメリカ』を見なおし、全体の各モジュールを連結しなおすならば、全体が都市的なものと非(あるいは脱)都市的なものとの階級関係によって貫かれていることがわかる。
「階級関係」という原題をもつこの映画には、その〈意味されるもの〉(内容)からして、〈現実〉社会とアナロジカルな〈階級関係〉を表現しているように見える個所がいくつもある。たとえばホテルのシーンでは、料理主任、ボーイ長、警備主任はそれぞれ官僚主義的なセクトを作っており、その機能の持続を保証している規則を守ることによってそれぞれのセクトのもとに階級的上下関係が形成され、それを維持するためには上層階級はデタラメな話もでっちあげる。こうした〈階級関係〉は、単に経済的な上層と下層とのあいだにだけあるのではなくて、浮浪者に近い下層の内部にもあり、たとえばデラマルシュはロビンソンに差をつけ、ロビンソンはうぶなカールに差をつけようとする。その際、階級差を決定するものは金や財産ではなく、むしろ物語をでっちあげる情報操作の能力であり、それがむしろ金を生むのである。そしてその点ではカールは〈無産階級〉に属する。というのも、彼は、操作すべき情報も、それを構築するための記憶もことごとく欠いており、言われたことを信ずるしかないからである。
 しかし、ストローブとユイレの『アメリカ』は、「最も近代的(現代的)」な社会においては情報こそが階級関係を決定することを鋭くとらえているカフカの原作の情報階級論を継承しているが、カフカにおいてもそうした階級関係の基本が、その物語の諸〈内容〉のなかにではなく、?枕?者〉q語り手〉?枕?中人物〉q読者〉とのあいだの関係、そしてさらには語り相互のあいだにある質的距離関係であったように、ストローブとユイレの『アメリカ』では、彼と彼女、映像、観客とのあいだの関係、そしてとりわけ映像=モジュール相互の関係が、第一の階級関係なのであり、まさにこの点が、この映画の表題を〈階級闘争〉や〈階級意識〉という際の〈階級関係〉から区別しているのである。
監督・脚本=ジャン・マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ/出演=クリスチャン・ハイニシュ、マリオ・アドルフ他/83年西独◎86/ 1/16『アメリカ』




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