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映画と色

 ニューヨークで『未来世紀ブラジル』を見たとき、わたしは、まずその色彩的な新しさに魅了されてしまった。どの色がどう使われていたからというわけではない。むしろ、これまでの映画で記憶された色彩とは異なるものがそこにあり、それがもう一つの〈音〉として伝わってきた。それは、いわば、肉体と一体化した電子世界のなかに限りなく入りこんでいくような感覚であり、『ブレードランナー』などよりもはるかに新しかった。しかし、それと同時にわたしは思った。これは、むしろヴィデオ−高画質の将来のヴィデオにこそふさわしい映像ではないかと。
 色彩映画は、最初の実用的なカラー・フィルム・システムであるテクニカラーから数えても四十五年たつが、映画における色彩の可能性はいまや一つのピークに達した。それは、映画が色彩の技術を自由にあやつるということではなく、むしろ、色と色との平面的な対比を自由にあやつることのできるヴィデオが登場することによって、カラー・フィルムは、それ自身がもっている本来の可能性を追求しなければならなくなったからだ。
 これは、無声映画がトーキーの出現によって直面した転機の比ではない。何を撮るかという問題とともに、映像と音そのものの問題があらためてはじめから問われる事態が訪れたのである。
 映画は、人間の目が直接ものを見るのと同じように世界を映し出すと信じている人はいまでは少数だが、依然としてそうした神話は映画のなかにも残っている。しかし、そうした神話はいまやヴィデオの方に移りつつあり、映画はそのおかげで人間の目とは関係のない世界を自由に構成することができるようになってきた。
 考えてみれば、目で直接見たのと同じ視像をいくら生み出しても、目にはかないっこないだろう。映像装置は、目で直接見るのとは異なる視像を生み出してこそその本領を発揮できるのだ。その点で、無声のモノクロ映画は、その技術的な制約から目や耳が直接知覚するものとは非常にちがう視聴像を構成するため、映画としてはすぐれた可能性をもっていた。しかし、そのことが自覚されるのは、カラー映画の爛熟期においてなのである。
 カラーで撮ることがあたりまえになりはじめていた時期にあえてモノクロで撮り、それが単なるレトロ趣味や自分のスタイルへの固執を超えた例としては、セルジュ・ブールギニョンの『シベールの日曜日』(一九六二)とゴダールの『恋人のいる時間』(一九六四)がわたしには強く印象に残っている。
 どちらも、光と音という映画の二次元性を超えた世界を感じさせる映画で、前者では自閉的な青年(ハーディ・クリューガー)と孤独な少女(パトリシア・ゴッジ)とが日曜ごとにつくりだす二人だけの世界を満たしている空気の音やにおいといったものが、そして後者ではマーシャル・メリルの体をベルナール・ノエルの手が愛撫するときに皮膚と皮膚とのあいだからたちのぼる高周波のようなもの(二人は肉感的に愛撫しあうのではなく、非常に様式的に動く)が感じられるのだった。
『シベールの日曜日』や『恋人のいる時間』のような映画のあとではカラー映画がひどく白じらしく見えてしかたがなかったが、ゴダールはカラー映画に対しても、意識的に対応していた。?嚮y蔑』i一九六三)や『気狂いピエロ』(一九六五)では、「自然色」に対する虚構性(たとえば、前者でブリジットが自動車事故を起こして流す〈血〉、後者でベルモンドが顔に塗りつける〈ペンキ〉)を強調する段階にとどまっているが、『中国女』(一九六七)になると、いささかポップアート的な色彩世界を生み出すにいたり、そこから物でも肉体でも植物でもないまさに記号たちのざわめきと無機的なにおいを発散させている。
 しかし、ゴダールの色や音に対する処置は、それによって色や音を越えた〈第六の知覚〉をよびさますよりも、むしろわれわれの既存の知覚様式を批判するという点に重心が置かれている。だから、『Eィークエンド』i一九六七)の血ぬりや『パッション』(一九八二)の映像とはずれた音に、それぞれわれわれが知らず識らずに身につけてきた神話の虚構性にハッとさせられるのだが、何か全く新しい世界に包みこまれたという気はしないのである。
 ゴダールの新しさは、35ミリ映画に16ミリ映画の要素を導入したことだった。16ミリ映画の要素とは、文字通りのハンディ性のためであり、フィルムを身体の方にひきよせ、身体(とくに目や手)と一体化させる点だ。ここから、映像がすべて身体の要素をおびてくる。しかし、こうした要素は、16ミリよりもヴィデオにおいてもっと過激に進められる。
 最近、8ミリヴィデオをそれぞれにもって相手を〈写しっこ〉する遊びがはやっているが、これは、ヴィデオの身体的な要素をよくあらわしている。むろん、ヴィデオは身体ではない。が、フィルムにくらべるとヴィデオは目や手、そしてセックスにより近いのである。
 この結果、映画は、8ミリでさえも、身体との近さの神話を捨てなければならなくなった。映画は、いまや、物の世界に還るしかなくなったのである。
 従来の映画が、肉体や都市のもつ既存の〈うさんくささ〉やリアリティをフィルムに連結させようとしてきた傾向があるとすれば今日の映画は、肉体も都市に依拠しないリアリティを求めている。その間に、肉体も都市も〈うさんくささ〉を失ってきたわけでもあるが、映画は、人間の肉体をSFXによる怪物=肉体に、都市をコンピュータ・グラフィックスの電子スペースにすりかえようとしている。
 ただし、問題は、映画がそういう方向を求めるならば、それはむしろヴィデオにかわってもらった方がよいだろうということだ。コンピュータ・グラフィックスの場合は言うまでもなく、SFXを使った映像も、今後の技術が進めばヴィデオに向いている。
 今日、ジム・ジャームッシュ、ジャン=ジャック・ベネックス、リュック・ベッソンなどの映画がおもしろいのは、こうした映像状況のなかで映像のフィルム的可能性を追求している点だ。とりわけリュック・ベッソンは、依然既存の〈うさんくささ〉に未練を残している『ダウン・バイ・ロー』のジャームッシュや『溝の中の月』のベネックスにくらべると、今日の映像状況をよくつかんでいるようにみえる。
 ベッソンの『最後の戦い』の場所は、文字通り、核戦争で瓦礫と化したパリ−−終末の都市−−であり、そこには肉のではなく、物の〈うさんくささ〉だけがある。そこでは人々は声帯をそこなわれ、しゃべることができない。つまり、この映画では登場人物はほとんど誰も語りかけないのであり、語るのは言葉ではなく、物と物に近づいた肉体なのである。しかも、ベッソンは、そうした物たちに対しても、華麗に語りすぎることを禁じる。いわば、おしゃべりはヴィデオにまかせようとでも言うかのように彼は、この映画をモノクロで撮っているのである。
 映像は、その動きと色の差のなかでみずからを語る。しかし、その最も生動的な部分と色彩的な部分をヴィデオに奪われつつある映画は、いまや、その最も基礎的な部分に可能性を見出すしかない。つまり、動きのプロセスよりも動きの結果−−死と、黒/白という光学的な差の最も基礎的なレベルとである。
「最後の戦い」とは、映画にとっての最後の戦いでもあるわけだ。
[シベールの日曜日]監督=セルジュ・ブールギニョン/脚本=セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル/出演=パトリシア・ゴッジ、ハーディ・クリューガー他/62年仏[恋人のいる時間]                             [軽蔑]監督・脚本=ジャン=リュック・ゴダール/出演=ミシェル・ピコリ、ブリジッド・バルドー他/63年仏[気狂いピエロ]監督・脚本=ジャン=リュックジャン=リュック・ゴダール/出演=ジャン・ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ他/65年仏[ウィークエンド]監督・脚本=ジャン=リュックジャン=リュックジャン=リュック・ゴダール/出演=ミレーユ・ダルク、ジャン・イアンヌ他/67年仏・伊[パッショッン]前出[ダウン・バイ・ロー]前出[溝の中の月]監督=ジャン・ジャック・ベネックス/脚本=ジャン・ジャック・ベネックス、オリビエ・メルゴー/出演=ジェラール・ドパルデュー、ナスターシャ・キンスキー他/82年仏[最後の戦い]監督=リュック・ベッソン/脚本=リュック・ベッソン、ピエール・ジョリベ/出演=ジャン・ブイーズ、フリッツ・ウェッバー他/83年仏◎87/ 6/ 4『流行通信』




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