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オーストラリア映画

 オーストラリアというと、その広大な土地や果てしなく広がる原野を表象する人が多いが、わたしはむしろその〈豊かな時間〉に魅惑される。ここには、何万年も前の時間からポスト・モダンの時間、いやサイバー・パンク的な未来の時間までのさまざまな時間が奇妙な仕方で共存しあっている。
 歴史は、決して水流を船で下るように流れるわけではないが、大抵の社会では、過去のものはすぐ失われ、未来は芒洋としている。ところが、オーストラリアでは、過去は必ずどこかで生き続けているし、未来は何らかの形をとってすでに現われている。
 オーストラリア映画に、しばしば時間と歴史への執着が見られるのはこのためだろう。それは、単なるノスタルジアやレトロ趣味ではなく、現実に対応するこの国の文化であり、ライフ・スタイルなのである。
 フィリップ・ノイス監督の『ニュースフロント』のおもしろさは、それが一見、ニュース映画という狭い、しかもいまはなき世界のことを回顧的にあつかっているだけのように見えながら、実は、ここで描かれ、言及されていることのすべてが、今日のオーストラリアと深い関係をもっており、そしておそらくオーストラリアの未来をも方向づけている点である。
 ビル・ハンターとジェラルド・ケネディが演じているレン/フランク・マグアイア兄弟は、明らかに、オーストラリア映画史では忘れることのできないロス/シド・ウッド兄弟をモデルにしている。
 ロス・ウッドは、シネサウンド社(映画ではシネトーン社)のカメラマンとしてすぐれた仕事を残しており、またシド・ウッドは、ニューヨーク・ベースのフォックス・ムーヴィ・トーン社(映画ではニュースコ・インターナショナル)で働いていた。
 時代順に挿入されているニューズリールは、すべて同時代のニュース映画から取られており、そこに映っている人や出来事は、今日のオーストラリアを考える際にどれも重要である。
 冒頭で、チコ・マルクスがピアノを弾いて周りの人々に歌わせる「ウォーチング・マチルダ」は、一九八四年に国民投票で「アドヴァンス・オーストラリア・フェア」が正式の国歌に制定されるまえには、英国統治時代から引き継がれた「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」に反撥する人々が好んで歌った団結の歌であり、これを国歌にすべきだという意見もあった。
 シドニー港に着いた船から降りたつ人々は、ヨーロッパからの移民者であるが、この時代の移民者の多くはほとんどが白人であり、これは、この映画が作られた三十年後(一九七八年)の現実を思うとき実に対照的である。というのも、かつて「白豪主義」と呼ばれたオーストラリアは、六○年代以降、世界の各地からやって来る移民者とともに多言語社会に変わりはじめるからである。
 一九四七年、アメリカで始まった「反共」旋風は、やがてオーストラリアをも巻き込んでいった。『jュースフロント?宸ナは、この問題が主要なテーマとなっている。
 反共の波は、レン・マグアイアらのシネトーンのスタジオにも押し寄せてくる。ストライキを「共産主義の陰謀」として弾圧しようとする政府を批判的に報道しようとするフィルム・エディターのジェフ・マクダーナルドは、結局オーストラリアを捨ててイギリスに行く。
 レン・マグアイアが妻と不和になっていく一因も、反共問題だった。当時、ニュース映画のカメラマンは、一人で取材から演出までをこなすのが普通であり、またクルー同士は家族以上に親密であり、家をあけることも多かった。次々に生まれるレンの子供の世話は、もっぱら妻の仕事になっているが、これは、今日のオーストラリアでは考えられない。
 夫婦の不和は、新しく生まれた子供にカソリックの洗礼を受けさせた直後に起こる。その教会の神父は反共活動に熱心であり、レンの妻の父親も反共主義者だった。レンは、共産主義者ではなかったが、「共産主義」の名のもとに人々が追放され、表現が圧殺される反デモクラシーの風潮にがまんがならなかった。しかし、彼の妻は、神父や父親の世界に属していた。
 こうした心理的なレベルから社会・政治的なレベルにまたがる微妙な関係を、この映画は実にうまく描いている。一九五一年、国民投票は、共産党を非合法とする憲法修正の案を否決した。そのニュースがラジオから流れてきたとき、レンは聞き耳を立て、ラジオに近づく。すると、彼の妻は、そのスウィッチを切ってしまうのである。このときレンは、すべてを悟ったかのように荷物をまとめ始める。
 一方で歴史をパノラマのように描きながら、この映画は、他方でレン・マグアイアを中心とする映画人/ジャーナリストの心のなかに観客を引き込んでいく。ウエンディ・ヒューズが演じるエイミー・マッケンジーという女性の使い方もうまい。
 一九五六年、メルボルンで開かれたオリンピックに合わせてテレビ放送が開始される。すでにこの映画の最初の方でテレビの実験放送風景のニューズリールが出てくるが、この映画は、テレビの出現によって終焉した映画の一つの歴史をあつかってもいる。
 山火事を撮影したレンが、ラッシュ・フィルムを見てみると、煙ばかりが強調されていて、唖然とするシーンがある。エディターが言うには、「テレビが、ニュース映画の封切られる六日もまえに報道してしまうので、スペクタクルな効果を出さないとテレビに太刀打ちできない」というのである。明らかに映像による報道は、テレビに移行しつつあった。
 しかし、『ニュースフロント』は、ニュース映画がテレビに敗北するところで終わるのではなく、オーストラリアのジャーナリズムがこの時代に勝ち取ったものが何であったかを強烈に印象づけるところで終わる。
 一九五六年秋に開かれたメルボルンのオリンピックは、その直前に起こったハンガリー動乱の対立をそのまま競技場にもち込むことになり、ソ連とハンガリーの選手同士が競技場で乱闘騒ぎを起こした。最終シーンのエピソードは、この出来事をあつかっている。
 授賞式の撮影をまかされたレンは、ソ連とハンガリーの水上ポロ試合を撮影中、たまたま両国選手の乱闘をフィルムに収めた。すると、その場に居合わせた弟のフランクは、そのフィルムは、反共宣伝にうってつけなので五万ドルで買取りたいとレンに迫った。
 しかし、レンはそれを突っぱね、競技場の長い回廊の奥に去っていく。唖然として彼を見送るフランクに、かたわらのエイミー・マッケンジーが言う。
「あの人はちょっと古風なだけなのよ」
 たしかに、レン・マグアイアは「古風な」のだろう。が、この「古風な」反骨精神が、十年後にはオーストラリアにカウンター・カルチャー革命をもたらすのであり、そしてそれは今日でも、たえず再生しながらオーストラリアのデモクラシーをささえているのである。
 ジム・シャーマン監督の『フェリシティーの告白』とカール・シュルツ監督の『少年の瞳』は、『ニュースフロント』がデモクラシーを圧殺するものに対する反抗を描いているのと同程度に、イギリスからもちこまれた貴族主義的な伝統と階級制に対する反発を描いている。『フェリシティーの告白』の女主人公フェリシティー(ケリー・ウォーカー)は、ミドル・クラスの家庭で何不自由なく育ち、母親がぞっこんほれこんでいるヤッピー・タイプの男と婚約させられているが、それがいつのまにか皮ジャンを着たパンクになっていく。きっかけは、自室で寝ているところを痴漢に襲われた事件からだということで話が始まるが、そうではないことが次第に明らかになる。
 フェリシティーは、真夜中になると部屋を抜け出し、パンクの格好で外に出かけていく。森でホームレスたちと冗談を言い、街ではパンクの連中がたむろする場所をうろつき、豪華な住宅に忍び込んで家具を破壊する。ここでは、体裁と虚偽の中流文化がカルト・ムーヴィのタッチで異化されると同時に、一九七○年代のオーストラリア・パンク・カルチャーの基底にあったパンクとホームレスの交流という側面が印象的に映像化されている。
『少年の瞳』は、一九三○年代を舞台にしているが、主人公PSは、いわば〈パンクの天使〉である。おもしろいのは、この映画が、金の採掘に熱をあげて蒸発した父親のために二人の叔母ライラ(ロビン・ネビン)とヴァネッサ(ウエンティー・ヒューズ)とのあいだをパスされる少年の物語以上の射程と含意をもっていることだ。
 ライラは、労働者階級であり、ヴァネッサはイギリスのハイソサエティに属している。PS=ポスト・スクリプトとは、「五分間結婚」によって生まれたこの子供の〈つけたり〉的性格を示唆しているが、それは、オーストラリアという国の性格を象徴してもいる。
 ヴァネッサよりも育ての親であるライラに情愛を感じているはずのPSが、最後のシーンで見せる屈折のなかに、わたしは、今日のオーストラリアの苦悩をかいま見るような気がする一方で、一度だけPSのまえに姿を現わしただけでふたたび消えてしまった父親のアナーキーさにオーストラリアの未来を夢見た。
 WHO AM I ? オーストラリアとは誰か? それは、オーストラリア映画を見るわたしたちひとり一人だ。
       *
 オーストラリアには、今日でもある種の「ヒッピー文化」が生き残っている。それは、直接には六〇年代にアメリカの西海岸から流入したものだが、もともとオーストラリアには原住民の文化やブッシュ地帯で素朴な生活を楽しむ習慣があったために、アメリカのような一過的なものに終わらず、エコロジー、ナチュラル・フード、新宗教などの運動と結びついて存続している。
『ブリス』の主人公ハリーは、そのいささかシュールリアリスム的な遍歴の最後に、若いハニー・バーバラを追って山に行き、そこで一生を終わる。バーバラは、もともとは、シドニーの壁画だらけのスクウォッターの家に住み、生活のために売春婦をやっていた。山で隠遁生活を送る父親はアナーキストであり、彼女は、蜂を育て、瞑想とエコロジーに心酔している。この映画では、随所に、生命を蝕む都市文明への懐疑が皮肉なタッチで描かれており、それに対するオールタナティヴな選択として、ブッシュ地帯での「ヒッピー生活」がある。
 しかしながら、この映画のタッチ自体は、「牧歌的」ではなく、徹底して都市的であり、監督のレイ・ローレンスは、「ヒッピー生活」をただノーテンキに信じ込んでいるわけではないことが最後に示される。
 頭上から落ちてきた木に当たって死ぬハリーの皮肉は、カール・シュルツ監督の『グッド・バイ・パラダイス』においては、オーストラリアの政治シーンに拡大される。
 最初フィリップ・マーローかマイク・ハマーばりの雰囲気で登場するこの映画の主人公マイク・ステイシーが住んでいるのは、「フロリダ」的な都市ゴールド・コーストだが、この映画には、本格的な「ヒッピー・コミューン」も登場し、その教祖は、「人類破滅から生き残るためにふさわしい未来」をつくるために電気なしの生活やナチュラル・フードの必要性を説く。
 しかし、実際にはこの男は、エコロジーの教祖であるどころか、観光化に毒された州を自治州にしようとする政治家を暗殺し、アメリカとマレーシアの軍部と組んでクーデターを起こして、クイーンズランド沖の石油を独占しようという陰謀を企てている。
 後半、急にハデな戦闘シーンが登場するために、全体がただのサスペンスに見えてしまうきらいがないでもないが、非鉄金属やウラニュームの最大の産出地であり、また米ソの軍事戦略上の要所に位置してもいるオーストラリアには、この映画で描かれているような危険がつねにつきまとっていることは、日本ではあまり知られていない。
[ニュースフロント]監督=フィリップ・ノイス/脚本=フィリップ・ノイス、ボブ・エリス/出演=ビル・ハンター、ウェンディ・ヒューズ他/78年豪[フェリシティーの告白]監督=ジム・シャーマン/脚本=パトリック・ホワイト/出演=ケリー・ウォーカー、ジョン・フローリー他/78年豪[少年の瞳]監督=カール・シュルツ/脚本=マイケル・ジェンキンス/出演=ニコラス・グレッドビル、ウェンディ・ヒューズ他/84年豪[ブリス]監督=レイ・ローレンス/出演=バリー・オットー、リネット・カラン他/85年豪[グッド・バイ・パラダイス]監督=カール・シュルツ/出演=レイ・バレット、ロビン・ネビン他/82年豪◎88/10/22『第二回オーストラリアン・シネマ・ウィーク シドニー・スペシャル』




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