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フランシス・F・コッポラ

『タッカー』を見終わって最初に感じたのは、コッポラは初めて、副作用のない一般向き「ドラッグ」を精製することに成功したのではないかということだった。これならば、子供から老人までが、安心して一一〇分間のオーディオ・ヴィジュアル・トリップにのめり込める。
 フランシス・フォード・コッポラは、〈ドラッグ・シネマトグラフィ〉の巨匠である。彼は、商業映画の形式をまもりながら、映画体験をドラッグにかぎりなく近づけた。
『ゴッドファーザー』は、いわば〈ドラッグ・マニア〉のための試飲パーティであって、酔わせるよりも、さまざまなドラッグの効能をちょっとずつ試飲させて楽しませてくれた。
『地獄の黙示録』は、アヘンアルカロイド系、コカアルカロイド系、合成アシド系、大麻系……を無制限に併用して自家中毒を起こさせるきらいがあったが、ヴェトナム戦争というそれ自体ドラッグ的な出来事を盾にして、商業映画をドラッグにぎりぎりのところまで近づけた。
『ペギー・スーの結婚』では、せっかく大麻系の洗練されたドラッグを用いて、上品な酔いを生み出すことに成功しながら、後半で「薬切れ」を起こしてしまった。
 一体に、これまでの大作ではコッポラは、質や効果の違うさまざまな「ドラッグ」を併用するために、「素人」には使い方が難しく、コッポラ映画はドラッグだと思って「素人」が、売薬を飲むような安易な気持で服用すると、全然酔うことが出来なかったり、途中でシラけたりすることが多かった。これは、「玄人」にとっては、むしろ楽しみであり、その意味では、『タッカー』は、〈ドラッグ・シネマトグラフィ〉としては一歩後退であると言える。
 コッポラの〈ドラッグ・シネマトグラフィ〉において、そのドラッグ効果を支えている最も大きな要素はサウンドと観客のレトロ意識であり、映像的には暴力と殺害のシーンである。セックスやカーチェイスのシーンは、コッポラではあまり重視されていない。
 ドラッグ効果を出すためのサウンドは、多くの場合、ジャズ(ただし、ニュージャズは除く)であり、『カンバセーション…盗聴…』、噬純刀Eフロム・ザ・ハート』、噬Rットンクラブ』では、それが最も顕著である。
 ジャズが前面に出てこない場合でも、サウンドの使い方は極めてジャズ的で、コッポラにとってジャズは彼のサウンドの最も重要な要素をなしているように思われる。たとえば、『ランブルフィッシュ』の導入部で、最初、流れる雲の映像のうしろで、かすかに鳴る風鈴のような音が続き、それからパトカーのサイレンのかすかな響きがして、ビリヤード兼スナックの建物にスーツをビシッと決めた黒人が入っていくと、ドラムとギターがジャズっぽいフレーズを流すが、それがすぐに止んで、彼とマット・ディロン、トム・ウエイツらがおしゃべりを始める。このしゃべりのテンポはほとんどブルースである。
 厳密に言えば、最初の風鈴のような音はジャズ的ではなく、むしろマインド・ミュージック的であり、コッポラは、映画の冒頭部分でこうした瞑想効果的なサウンドをよく入れる。『ワン・フロム・ザ・ハート』は、細いプラスティック・パイプが硬いもののうえに落ちてバウンドするようなかすかな音で始まり、『アウトサイダー』は、遠くでかすかに響くアムトラックの汽笛の音で始まる。
 しかし、コッポラにとってジャズが重要なのは、それがドラッグ効果を持つかぎりであり、その意味ではマインド・ミュージックの方が彼の映画にはふさわしいかもしれない。
 実際にはどうかわからないが、コッポラには、映画の方向をまずサウンドで決め、それからイメージやストーリーを構成するといった趣きがある。ジャズは、こうしたやり方にとって非常に便利な技法である。ジャズは、重層的なモンタージュと前進的・遡及的な引用の技術として、もはやわれわれの感性的記憶に書き込まれているため、ジャズを用いれば、たがいに関係のない音や映像でも、一つの持続した〈酔い〉の流れのなかに組み込むことが出来るからである。
こうした方法を考えるとき、忘れることが出来ないのは、『カンバセーション…盗聴…』のなかで、盗聴屋のハックマンが、サンフランシスコのユニオン・スクウェアで採集した音を自宅の作業場に持ち帰り、電子的な方法でその音を再構成していくと、そこから明瞭な話し声が浮かび上がってくるシーンである。ここではさまざまな音は消去され、〈酔い〉を生みだす音だけが取り出されるわけだが、コッポラは、映画製作においては、まさにこの操作を逆向きに行ない、音と映像を重ね合わせ、流れを構築するのである。
 コッポラの映画をささえているドラッグ志向は、「アメリカン・ドリーム」や「ファミリー」への喪失感と密接な関係をもつ。社会にもはや「夢」と「ファミリー」を見出すことが出来ないからこそ、映画製作(彼は、製作スタッフと「コミューン」を作るのが好きだ)と映画体験そのものを「ファミリアルな」「夢」体験にしてしまうこと——これがコッポラの「アメリカン・ドリーム」である。
 ドラッグの「ドリーム」は、かの「アメリカン・ドリーム」とは方向が逆である。「アメリカン・ドリーム」は、未来へ向かっての夢であり、新しい何かが実現されていくだろうという期待の昂進である。そこでは、現実は、「まだ未完」であると考えられたから、現実はつねに非現実であった。それゆえ、「アメリカン・ドリーム」が失われていなかった時代とは、ドラッグなしに夢をもてた時代、日常の諸行為がドラッグにもなりえた時代であると言うこともできる。
 人々が神に祈りをささげ、食卓に向かうだけで、酒やマリワナなしにファミリーを持続させることのできた時代は、「アメリカン・ドリーム」の時代である。禁酒法の時代は、ある意味では、働くことがドラッグであるような時代だった。そのため、あえてドラッグ効果を再強化しなくても、映画やラジオは「ありのまま」で人を酔いに誘うことができた。未来が来たるべき「現実」であったからである。
 そのような現実はもはやないというのが、ポスト・アメリカン・ドリームの時代の通念である。しかし、人は夢なくしては生きることができない。とすれば、過去が帰るべき「現実」とならなければならない。いまここの現実は「すばらしい」過去のなれのはてであり、幻影にすぎない。いまや、レトロ意識が夢を作り出す。
『タッカー』では、『コットンクラブ』にまして、こうしたレトロ意識をドラッグ効果の主要な媒体として用いている。冒頭、四〇年代のニュース映画のアナウンスのトーンでプレストン・トーマス・タッカーの仕事が紹介され、観客はただちに四〇年代のアメリカに連れもどされる。画面の色調も、「テクニカラー」の色であり、わたしはふと「総天然色」という言葉を思い出した。
タッカーの生涯は、夢多い生涯だった。しかし、コッポラがタッカーを取り上げるのは、この夢が今日でも可能だからではなく、逆に、その夢は、もはや絶対に実現不可能であり、レトロ意識のなかで懐かしむしか「現実化」しえないものであるからである。
 仕事場と家庭とが同じ敷地内にあり、ファミリーは、親子関係や血のつながりだけで結ばれているのではなく、仕事を通じて結ばれており、ファミリーが一丸となって仕事にいそしんでいる。父親は自信に満ち、母親は美しく、子供たちに愛情をふりそそいでいる。仕事には未来があり、努力すれば無限の世界が開かれているかのようだ。『タッカー』が描くのは、まさにそんな世界だ。
 ひょっとして、この映画は、一見、オプティミズムと健康さにあふれているように見えるので、それが、今日のアメリカ社会への警告を含意しているかのような受け取られ方をするかもしれない。タッカーは、いまから四十年もまえに、安全で安い「国民車」を作ったが、大手の自動車産業の陰謀によって滅ぼされた。そして、その自動車産業の方は、三十年後に日本の自動車産業に敗北するのである。もし、アメリカの自動車産業が、タッカーの自動車理念とファミリアルな経営・製造理念を受け入れていたならば、日本に敗北することはなかったかもしれない……云々。
 しかし、そういうことは絶対に起こりえなかったのだ。というのも、アメリカの巨大自動車産業は、その創業時には、大なり小なりタッカー・コーポレイション的なファミリアルな経営・製造方式をとっており、その後の自動車産業の発達は、そうした手作り的なやり方との決別のなかで可能になったからである。言い換えれば、タッカー・コーポレイションは、つかの間の先祖返りだったのであり、そのようなやり方は、ファミリアルな集団性と安い労働力にめぐまれた「後進国」においてしか持続しえなかったからである。
 アメリカの「夢」の喪失は、アメリカが「夢」をもちすぎたことから帰結したのであり、いまのアメリカにとって必要なのは、「夢みること」それ自身を改めることなのである。しかし、裁判に勝ったタッカー(ジェフ・ブリジス)は、映画の終わりで、家族たちに向かってこう言う。「大切なのは、アイデアと夢なんだよ」と。
 コッポラの映画は、それが〈ドラッグ・シネマトグラフィ〉であるかぎりで、ポスト・アメリカン・ドリームの映画でありえた。それは、未来的な夢をもち、侵略と開発=搾取に邁進する帝国主義的な諸活動に対する代案を示唆するものであり、映像という世界のなかにアジールを見出す試みでもあった。
 コッポラは、『タッカー』とともに転向するのだろうか? そうではないだろう。ブッシュ時代のアメリカは、この映画の「健康さ」と「オプティミズム」があまりに病的に思えるくらい絶望的な状況を生み出すかもしれないからである。
●監督=フランシス・F・コッポラ[タッカー]脚本=アーノルド・シェルマン、デイヴィッド・セイドラー/出演=ジェフ・ブリッジス、ジョアン・アレン他/88年米[ゴッドファーザー]前出[地獄の黙示録]前出[ペギー・スーの結婚]前出[カンバセーション…盗聴…]脚本=フランシス・F・コッポラ/出演=ジーン・ハックマン、ロバート・デュヴァル他/74年米[ワン・フロム・ザ・ハート]前出[コットンクラブ]前出[ランブルフィッシュ]脚本=フランシス・F・コッポラ、スーザン・E・ヒントン/出演=マット・ディロン、ミッキー・ローク他/83年米[アウトサイダー]脚本=キャサリン・クヌートル・ラウトル/出演=マット・ディロン、ダイアン・レイン他/83年米◎88/11/10『月刊イメージフォーラム』




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