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バグダッド・カフェ

 マリアンネ・ゼーゲブレヒトは、『バグダッド・カフェ』の撮影のためにプロの手品師について手品を習ったが、彼女が見事に手品をマスターしてしまったので、手品師たちは、あとで彼女から手品のタネがもれることを恐れたという。が、これに対してゼーゲブレヒトはこう言う。
「バラしゃしないわよ。練習を続けるわ。たぶんいつか、あたしが街で生活するようになったら、それで食いつなげるものね」
 ゼーゲブレヒトはナミの女優ではない。彼女は、七〇年代には、ミュンヘンで空き家を改造し、パンクスや放浪アーティストたちのたまり場を作った。彼女はずっとそうしたフリー・スペースのオルガナイザーであり、そのため彼女には「アヴァンギャルドの肝っ玉おっかあ」という゜モ名がある。
 映画でやっていけなくなっても大道芸があるじゃないといったしたたかさが彼女にはあり、それが彼女の演技に迫力を与えている。
 しかし、彼女が『oグダッド・カフェ?宸ナ演ずるジャスミンは、必ずしもたくましい女ではない。冒頭シーンで、スーツを着、帽子をかぶって登場するジャスミンは、一見、したたかで恐そうだが、よく見ると彼女は、無理をして「中流の奥さん」風の格好をしているだけで、その目はひどく淋しげで、頼りない。彼女は、「奥さん」というより、少女がそのまま大人になったような雰囲気をもっている。
 そんな彼女が異境で夫と喧嘩別れして街道を当てもなく歩き始める。彼女の孤独な叫びをなぞらうようにジュヴェッタ・スティールが歌う「コーリング・ユー」がバックで流れる。
 やがて彼女は、街道沿いの停泊地にたどり着く。ガソリンと水の給油施設、モーテル、スナックがある。客はめったに来ず、そこを経営している黒人のブレンダはイライラして、ぐうたらな夫をたたき出す。インディオの風貌をしたウエイター兼バーテンが一人いるが、大した仕事はしていない。娘はつかのまの男友達と街に出かけ、金の無心にしか帰らない。十代なのに赤ん坊がいる息子はバッハ狂で毎日ピアノで「プレリュードとフーガ」ばかり弾いている。モーテルにはデビーという謎めいた雰囲気の女イレズミ師(クリスティーネ・カウフマン)が住んでおり、広場にパークしたバンのなかに画家のルーディが住んでいる。
 ジャスミンは「愛」に飢えている。彼女は、ミュンヘンの田舎からやって来た。そこには「親密」な世界があり、人々はみな知り合いである。だから、言葉のよく通じない世界でモーテルの部屋に一人で取り残されているのは、ジャスミンには耐えられない。彼女は人恋しさに、「カフェ」にやってくる。しかし、黒人の女主人は愛想がなく、ルーディを除くと、みな一様に冷たい(しかし、「ハリウッドから来た」と名乗るこの老人は、一見、うさんくさい)。バーテンのカフヘンガは比較的親切だが、彼と親しくすることをブレンダは好まない。
「カフェ」は一種のコミュニティだが、ここにいる者同士は、全体として「親密」な関係にあるわけでもない。夫が飛び出していったあと、やるせない気持になって涙ぐんでいるブレンダを見ても、ルーディは一歩距離を置いた気づかいしかしない。この「コミュニティ」の「住人」たちの関係はみなクールなのであり、非常に都市的なのである。
「愛があれば今日も生きられる」、言い換えれば「愛がなければ一日も生きられない」ジャスミンだが、この「愛」は、ビートルズやヒッピーが商標登録にした「愛」ではない。
『バグダッド・カフェ』で重要なのは、いわば〈場所の愛〉である。人はいかに隣人を愛せるかではなくて、人はどこで人を愛せるかなのだ。
 六〇年代のアメリカン・ニューシネマは、結局、「愛」を《いまここ》にない場所に求めようとした。家庭や学校や国家の制度的な空間のなかにはもはや「愛」の場所はどこにも見出せなかったからである。だから、ニューシネマの登場人物は、「愛」を求めて旅立たねばならなかったし、「愛」は都市のなかにではなく、「秘境」のなかにあるはずだった。これは、「自然」のなかにユートピア的なスペースを作ろうとするヒッピー主義に通じている。
 しかしながら、七〇年代には早くも、そのような「漂泊」のユートピアは、たかだかドラッグのなかにしかないことがわかる。八〇年代後半のアメリカ映画がますますファンタジックになるのもこのためで、「愛」は夢か荒唐無稽のアクションのなかでしかリアリティをもたなくなったのである。
 八〇年代を通じてはっきりしたことは、「愛」とか「親密さ」とか「連帯」とかを持続的に保証するスペースは、もはやドラッグのなかにすらないということであり、『再会の街』や『レス・ザン・ゼロ』への関心はこの味気ない認識のなかで高まった。
 バグダッド・カフェは、どこにもない場所である。この映画がラスヴェガスとロサンジェルスを結ぶモハーヴェ砂漠のなかの街道沿いの場所で撮影されたとしても、その場所は重要ではない。バグダッド・カフェは、どこにもない場所であり、「愛」のない場所である。「愛がなければ一日も生きられない」とすれば、この場所は、死人の場所でもある。が、最初はまさに死人の場所であった空間が、やがて「愛」に満ちた空間になっていく。
 通常のメロドラマであると、このような変貌は、人と人との新たな出会いから始まる。しかし、『oグダッド・カフェ?宸ノおいてはそうではない。たしかにジャスミンは、未知の人間たちと出会いはするが、「カフェ」に「愛」が生まれ始める発端は、ジャスミンが「カフェ」のガラクタを片付けることなのだ。つまり、「心」を変えるよりもスペースを変えることが決定的なのであり、「心」の方はむしろ変化したスペースによって変化させられるのである。
 ジャスミンが手品を自習して、それをみんなに披露し始めてから、バグダッド・カフェの人間関係がさらに変化し、それは、「カフェ」がキャバレー・シアターの様になる部分でピークに達するが、このとき、イレズミ師の女デビーは、「調和(ハーモニー)がありすぎるよ」というせりふを残してバグダッド・カフェを立ち去る。
 しかし、デビーは、重要なものを見失っていた。それは、ジャスミンが求めていた「愛」は、決して「ハーモニー」としての「愛」ではないということである。『バグダッド・カフェ』において、音はもう一人の登場人物だが、「カフェ」がキャバレー・シアターになるシーンの音楽が、決して「ハーモニアス」な音楽ではないことに注意する必要がある。その基調は、サル・Jr が弾くジャズ・ピアノであるが、それにジャスミンのラップが入ることによって、全体はジャズよりもむしろヒップ・ホップ風になっているのである。つまり、この音が作る場は、「調和」した場ではなく、さまざまな対立が対立したまま存在できるようなコラージュ的な場所なのだ。
 映画の最後は、ルーディがジャスミンに求婚し、彼女がそれを受け入れるシーンだったが、果たして二人は、それから「親密」な生活を続けるのだろうか? そうは思えない。旧作『シュガーベイビー』のようにすべてがもう一度回転するにちがいない。
監督=#ペルシーペルシー・アドロン/脚本=#ペルシー・アドロン、エレオノール・アドロン/出演=マリアンネ・ゼーゲブレヒト、ジャック・パランス他/87年西独◎89/ 1/31『キネマ旬報』




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