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天国の半分

 女性は天の半分を担うと言ったのは毛沢東だったと思うが、それは、まだ男性が大半の権力を握っている時代に女性をなだめるためのキャッチフレーズだった。いまでは、「女性が天のすべてを担う」と言い直さなければならない。
 しかし、女性たちは気をつけた方がよいだろう。「女性が天のすべてを担う」ということは、男性は、「ヒモ」になって女性に寄生するということだからである。わたしのようななまけ好きには、むしろ、この方が楽なことこのうえない。
 マヌエル・グティエレス・アラゴン監督の『天国の半分』(La mitad del Cielo)の物語は、一九五九年から始まるので、ここに登場する男性たちは、まだそういう「進歩的」な意識をもってはいない。スペインは、アメリカなどにくらべれば、今日でも男がいばっている国だが、三十年まえ、しかも、僻地の山村ともなれば、男が「腹がへった」とどなれば、女はあわてて食事をつくらなければならなかった。映画のなかにも、そういうシーンが何度も現われる。マドリッドのような大都市でも、男は、夜遅く酔っ払って帰宅して、「何か食うものはないのか」と女に向かって言う。
 しかし、この時代には、女たちは、そんな男たちの子供じみたわがままを簡単に操縦する武器をもっていた。料理である。
 この映画では、アンヘラ・モリーナが演じるロサが、夫の死後、山村をあとにしてマドリッドに行き、そこでレストランを開業する「細腕繁盛記」的なプロセスが主要な物語になっているが、「天の半分」(La mitad del Cielo)いや「天のすべて」を支える大樹のような雰囲気でいつもそこにいる祖母(マルガリータ・ロサーノ)が、ごくあたりまえに、家で飼っている牛のミルクでチーズを作り、それを無造作にパンに付けて食べさせる最初の方のシーンからして、食べる/食べさせるということが暗黙のテーマになっている。
 むろん、男だって、女を料理でまいらせることは出来るし、うまいレストランのシェフの大半は男が独占している。しかし、日常生活のなかで蓄積された食文化は、圧倒的に女性に属している。要するに、男は、まだ女のまねをしているにすぎないのである。
 とはいえ、一九五九年という日付をもっているこの映画は、そういう女性たちの伝統がもはや終わりつつあることを示唆しているようにも見える。
 ロサの娘は、男のために料理を作るだろうか? 彼女が母親のレストランを引き継ぐとしても、経営者としてではないか?
 が、経営者であれ、何であれ、男の世界に進出した女たちは、最初は、男の流儀にまきこまれるとしても、いずれは、彼女らのやり方でその世界を支配してしまうだろう。
 そんなわけで、未来の男たちは、「主夫」になるかヒモになるかを迫られる。この映画のなかで男がサエないのはそのためだ。
監督=マヌエル・グティエレス・アラゴン/脚本=マヌエル・グティエレス・アラゴン、ルイス・メヒーノ/出演=アンヘラ・モリーナ、マルガリータ・ロサーノ他/86年スペイン◎90/12/ 2『エスクァイア』




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