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〈カオス〉への志向

 十一月二十九日から十二月九日まで渋谷のシードホールで開かれた「アジアン・アメリカン映画祭一九九〇」で上映されたトリン・T・ミンハ監督の『姓はヴェト、名はナム』は、ドキュメンタリー映画につきまとう「真実」の問題を鋭く異化していた。
 ミンハは、すでに三本の映画を作っているが、彼女は、むしろ文化人類学者として有名である。実際、この映画は、彼女の文化人類学者としての自己意識と密接な関連をもっており、この映画は同時に文化人類学批判でもある。
 文化人類学や民俗学は、生きた他者を扱うにもかかわらず、えてして、あらかじめ構築した理論的な枠組みや観念を裏づけるために具体的な他者を「要請」してくるようなところがある。つまり、文化人類学や民族学とは、本来、異文化とのコミュニケイションの考察であり、フィールドワークとは、そのようなコミュニケイションを求める旅でしかないはずなのに、実際には、それらは、事例をさがしもとめ、ときには捏造することさえいとわない。
『姓はヴェト、名はナム』は、まさに文化人類学のフィールドワークで行なうインタヴューの形式で始まる。登場するのはみな女たちで、彼女らは、ヴェトナム戦争後、北から南へやってきたころの苦しみやその後の生活をとつとつと語る。いかにもかつて「党員」であったことを感じさせるものごし、孔子的道徳が生き残っている家庭の主婦として夫と息子につかえる妻の屈折した表情、どれをとってみても「本当」らしい。
 しかし、映画の後半で、これらが、すべてヤラセであることが暴露され、登場した女性たちの「素顔」が映し出される。彼女らは、みなアメリカのヴェトナム人コミュニティに住み、職業を持つ「自立」した女性たちだったのだ。
 ところで、この映画の性格からすれば、最初の映像を相対化した後半の部分も、それがどこまで「本当」であるかは保証のかぎりではない。すべてが俳優の「演技」であってもよいわけであり、その点で、この映画は問いを決して完結させることがない。
 問われているのは、彼女らが「演技」し、語ったことであるよりも、むしろ、彼女らの「演技」を期待し、それに同化していた観客の先入見の方であることは言うまでもない。
 わたしたちは、他者(それが具体的な人間であれ、作品であれ)と対するとき、何らかの先入見をもって対応する。「白紙で対応する」などということは不可能である。が、問題は、この先入見を固定してしまうことである。
 そうであるかもしれないし、そうでないかもしれないというあいまいさ(これこそが、相手が生きているという事実)を残したままにすることこそが必要なのに、これまで、映画も学問も政治も批評も、型にはめ、構築することに熱中してきた。そして、その構築物が「真実」となる。
 こうした構築物の最たるものの一つが国家である。国家といえば、いま東西ヨーロッパで国家の「脱構築」が始まっている。ソ連は、「脱構築」にとどまらず、「カオス」に向かうかもしれない。いずれにしても、硬い枠組みの国家はもはや時代遅れである。
 だが、法制度としての国家が崩れても、「型にはめ、構築する」ことそのものが崩れなければ、いずれ国家に代わるものが生まれるだろう。
『ミュージック・ボックス』のコスタ・ガブラスは、一九六八年の『Z』以来、一貫して国家を主要なテーマにしてきた監督である。が、アメリカ資本で製作した『ミッシング』(一九八二年)以前は、国家権力に対して個人や集団が直接対峙することによって国家を倒すという「新左翼」的な発想に支配されており、また、その面が「反体制」志向の観客にウケたのだった。
 だから、旧ガブラス・ファンのなかには、『~ッシング』以降の作品を「転向」だとみなす者もいる。むろん、事実は、そうではない。ガブラスは、むしろ、国家を克服するためには、家族・家庭関係を変えなければどうにもならないことを痛感したのである。
『ミッシング』が発表された一九八二年は、レーガン政権の時代であり、「反権力」とか「反体制」といった言葉が効力を失った時代であった。そういう状況のなかで国家に直接対峙する反体制政治は、孤立し、「テロリズム」の名のもとに「始末」されてしまう。ガブラス映画の変化は、彼の思想的変節ではなくて、むしろ彼の戦略の深化なのである。
『ミュージック・ボックス』では、半世紀もたってから、第二次大戦中にハンガリーでユダヤ人虐殺に荷担したという嫌疑をかけられた老父の弁護を引き受けることになった娘アン(ジェシカ・ラング)が、最初はとんでもないデマだと信じて疑わなかった事件の真相を知るにつれて、弁護士として、いや、娘として、祖父をしたっている孫の母親として、父を尊敬している弟の姉としての決断を迫られる。「家族の絆」を破壊しても、「真実」を守るべきか、それとも……。しかし、いまの時代に「家族の絆」などというものが存在するのだろうか?
 サルヴァトーレ・トルナトーレ監督の『みんな元気』は、イタリア全土に散らばって住んでいる娘や息子たちを訪ねる老父マッテオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の物語だが、ここで描き出される家族には、もはや固い絆で結ばれた「イタリアン・ファミリー」はない。タイトルは、とりつくろいのなかでしかもはや父子関係が成立しない孤独な旅から戻ったマッテオが、亡妻の墓をなでながら言う次のせりふから取られている。
「とてもいい旅だった。たくさん歩いて、たくさんのことを発見した。子供たちは、みんな元気だったよ」
 マヌエル・グティエレス・アラゴン監督の『天国の半分』でも、もはや古典的な「家族の絆」は壊れている。ただし、この映画では、アンヘラ・モリーナが演じるロサ、その祖母(マルガリータ・ロサーノ)そしてその曾孫のマルガリータの三人の女性(なぜかロサの母親は影が薄い)がそれぞれに持っている直感的な力のようなものが、家族といったものをはるかに越えたつながり(ネットワーク)を生み出す。
 しかしながら、これは、女が男に支配されながら長年やってきたことであり、いまの時代にそうした力を能動化するのは極めて困難である。
『ニキータ』でリュック・ベッソンが生み出したアンドロイドライクな女ニキータ(アンヌ・パリロー)が、とりわけ女性のあいだで人気があるのもこのためだろう。彼女は、強く、かっこいいというよりも、むしろ、家庭や家族の要素を一切排除した地平に残る「女」を表現しているのである。
 デイヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』は、セイラー(ニコラス・ケイジ)とルーラ(ローラ・ダーン)のトレンディなカップルが演じるちょっとオフビートなラブ・ストーリーの体裁を取っているが、「家庭」を作る気など全くなかった二人が、最後の方で家庭の問題に直面するところがおもしろい。最後のシークエンスは、強盗をやったセイラーの出所を、五、六歳の男の子を連れたルーラが迎えに行くところから始まる。しかし、セイラーは、自分には二人を幸せにする力がないと言って、二人に別れを告げる。そして街を歩いていると、ゲイの一団に囲まれ、彼らを侮辱して殴られ気を失う。おもしろいのは、それから意識を取り戻してからのセイラーの行動とせりふである。
 彼は、あっさりとゲイたちにわびを入れ、ルーラと子供を追いかける。この辺が何ともオフビートでおかしい。
 おそらく、彼らが作る家庭は、国家を下から支えるような家族・家庭ではないだろう。しかし、最近は、けっこうこういう家族がふえており、それが国連主導の新国家主義を支えることになるのかもしれない。
[姓はヴェト、名はナム]監督=トリン・T・ミンハ/                             [ミュージック・ボックス]監督=コンスタンチン・コスタ・ガブラス/脚本=ジョー・エスターハス/出演=ジェシカ・ラング、フレデリック・フォレスト他/89年米[みんな元気]監督=ジュゼッペ・トルナトーレ/脚本=ジュゼッペ・トルナトーレ、トニーノ・グエッラ/出演=マルチェロ・マストロヤンニ、サルバトーレ・カシオ他/90年伊・仏[天国の半分]前出[ニキータ]監督・脚本=リュック・ベッソン/出演=アンヌ・パリロー、ジャンヌ・モロー他/90年仏[ワイルド・アット・ハート]監督・脚本=デイヴィッド・リンチ/出演=ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン他/90年米◎90/12/17『流行通信OM』




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