粉川哲夫の本
電子人間の未来
情報として宇宙
一九九〇年にいたって、アンドロイドの種類の多様さは、あたかも六〇年代のアメリカ製自動車のそれのように、理解を絶するものと化した、とフィリップ・K・デッィックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(浅倉久志訳、早川書房)のなかで書いているが、一九六八年に発表されたこの小説のイメージは、今日ますます現実味をおびてきている。実際に、「モンロードール」のような精巧な人造人問サイホットの出現もそれを示唆しているが、それよりも、今日では、人問がアンドロイドに近づきはじめているのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、それまで有効だったアンドロイドの検出法がしばしは破綻をきたす。それは、テクノロジーが発達して、人問とは別個に人問そっくりの人造人間を造り出すことが可能となったからで、この小説の主人公リックは、レイチェルという魅力的な女性アンドロイドと情事をかわす。そしてリックは、彼が愛した女性アンドロイド、レイチェルを「平均寿命」四年のヒューマノイド・ロボットだとは思えなくなる。「きみを作り上げてるのは、人工動物みたいなトランジスター回路じゃない。きみは有機的な生きものなんだ」と彼はレイチェルにさざやく。つまり彼女はあと二年の寿命がないにしても、それは寿命が「切れる」のではなくて、死ぬのであるとリックは言うのである。
ここでは、もはや、人間がアンドロイドを造ると言うことはできない。それは、たかだか「子供をつくる」という程度の意味しかないのであって、むしろ、ここでは人問がアンドロイドになるのである。ある意味で、テクノロジーの歴史は、人間がアンドロイドになりたいという願望をみたそうとする歴史であり、それはまた、人間が人間であることをやめたいという秘かな欲求、人間がいなくても済む世界への秘かな欲求をはからずもあらわしている。
道具や機械は、それらが初歩的なレベルにとどまっているときには、人間の外的な存在者が人間にあとから付け加わったという印象を与える。が、それらが高度なレベルに達するにつれて、それら自体が独立した有機体であるかのような活動をしはじめる。それらは、ときには人間にあい対立し、人間をおそいさえするようになる。なぜ、金属の集合体や電子回路が、ある種の"精神"を獲得することができるのか? それは、"精神"が人問のなかだけに宿るのではないからだと言ってしまえばそれまでである。それは、たしかにその通りだろう。しかし、もう少し細かなレベルを問題にするならば、人間が道具や機械を造るとき、それは単なる対象物を自己に措定するのではなく、人間が自己をそういうものの方へ拡大するのだと言わなければならない。そういう形で、まず"精神"は人間の領域から"物"の領域に向かって溶け出してゆく。
そうだとすれば、アンドロイドは、必ずしも人間と同じ形をしている必要はない。人間の造ったものは、すべて何らかの意味でアンドロイド的なものであり、また、一時につくりあげたものではないものがたがいに組みあわさって一つのアンドロイドを形成していることもある。アンドロイドを造るということは、人間が自己の器官と能力を外化することであり、従ってアンドロイドが多様化し、その数がふえるということは、そうした外化作用の規模が大きくなるということである。
フォイエルバッハもヘーゲルもマルクスも、「疎外」(Entfremdung)という言葉が「外化」や「譲渡」(Entausserung)と深い関係にあることを知っていた。人間は、労働によって自己を外部に「譲渡」し「外化」することによって世界を構築するのだが、近代のテクノロジカルな労働は、それを加速させればさせるほど自己を「疎外」する。そうして出来上がるテクノロジー的世界がますます高度化する一方で、人間は、いわばその分だけ空気を抜かれ、自己を空虚にし、自分で構築した世界に対して「異和感」を感じるようになる。
SFが今日ますますリアリティをもってきているのは、こうした「異和感」の亢進する状況と 無関係ではない。一九九〇年にわれわれ人間そっくりのアンドロイドが出現するかどうかはわからないが、いわばアンドロイドの部分品は、確実に造り出され、分散した形で始動しはじめている。タイマーからハイブリッド・コンピューターまで、初歩的なAI(人工知能)から高度のA1まで、われわれの頭脳や神経組織は、外部にとめどもなく溶け出しているのである。
ニューヨークのダウンタウンにある映画館では、数年まえ、くりかえし『ブレードランナー』(『アドロイドは電気羊の夢を見るか?』の映画化)を上映していたが、その上映にはいつも若い観客がた53くさんつめかけた。日本でもこの映画は、比較的好評だった。映画では、アンドロイドはみな人間によって演じられたわけだが、実は、映像化された人間というものがそもそもアンドロイドである。その意味で映画がアンドロイドを登場人物にすることは、その本質的な機能に最も忠実なことである。
アンドロイドの歴史は、複製技術とともにはじまると言うことができる。その端緒はものまねや演技であり、それは文字、活字、写真を横断して今日の電子テクノロジーにまでおよんでいる。
つまり、最も初歩的なアンドロイドは、わたしが誰かのまねをするときに出現すると考えなければならないし、わたしの書く文字、わたしがタイプした印字、わたしの写真、わたしのテレビ映像――これらはすべてアンドロイドの一部とみなすべきである。
複製技術によって可能になるのは情報であり、そこでは情報が複製されるのであるが、これはまた、情報というエネルギーの移動・増殖・拡散といった方向からとらえなおすこともできる。
何かが複製されるとき、そこでは情報エネルギーが移動あるいは増殖するのである。従って、複製技術の発達つまりは情報テクノロジーの発達は、情報の移動・増殖・拡散の規模を拡大するはずだが、その拡大する度合は限りがないのだろうか? エネルギー保存の法則によると、エネルギーは形を変えるだけで、その総量は変わらない。情報もエネルギーだとすれば、複製術によって変化するのは、その集合度とその集合場であって、その総量ではない。しかし、相対性理論によると(所詮は、こういう言い方は単なるメタファーであるとしても)質量mの物質が何らかの過程で消滅すると、mc(cは光速度)のエネルギーが発生するわけだから、情報エネルギーを大規模に発生させるためには、原物質つまりここでは人間的身体を大規模に消滅させなければならないのである。情報テクノロジーに関与する人間的身体は一種の"核融合反応"装置なのであり、たかだか六〇〜七〇キログラムの"物質"が膨大な情報エネルギーを発生する。
フィリップ・K・ディックは、こうした考え方を単なるメタファーとしてではなく、まさに文字通りに受けとる。彼にとっては、情報はエネルギーの一種ではなく、情報こそがエネルギーである。『ヴァリス』(大湖啓裕訳、サンリオ)のなかで、彼は、「宇宙は情報から造られている」あるいは「宇宙の本質は情報である」と書いている。人間は、「コンピューターに似た思考システムにおけるメモリー・コイル」であり、宇宙=脳の一部である。ヴァリス(VALS)とは、Vast Active Living Intelligence System(能動的な生ける巨大情報システム)のことであり、この「不死なる」エネルギーは総体としては失われも増えもしない。
「生ける情報」としてのエネルギーは、また、「プラスマテ」と名づけられる。物語『ヴァリス』には巻末にこの物語に登場するホースラヴァー・ファットの日記の断片を整理した「秘密教典書」というアフォリズム集がついているが、それによると、プラスマテは人間と接合し「ホモプラスマテ」を創造する。が、「高みからの誕生」もしくは「聖霊からの誕生」としてのこのホモプラスマテは、「キリストによって開始されたが、〈帝国〉はホモプラスマテが複製されるまえにホモプラスマテのすべてを破壊した」。そのときが、キリストの処刑された紀元七〇年であり、それ以後一九七四年に至るまで「現実の時間が停止した」とディックは記している。
しかし、『ヴァリス』は、何らかの形而上学的なたわごとでも、神秘主義的な内容をもった空想物語でもない。むしろ、本書は、精神分析、宗教、哲学、神秘思想への徹底的に理性主義的な方向からの情報論的アプローチであるようにみえる。物語の順を追ってこのことを明らかにしてみよう。
『ヴァリス』の主人公は、SF作家である「わたし」で、物語は、この「わたし」が神経衰弱にかかったところからはじまる。が、「わたし」はこの物語を書いている「わたし」であるから、神経衰弱にかかった「わたし」は、「必要とされる客観性を得るために」ホースラヴァー・ファットという第三人称で記される。ファットは、いわば「わたし」の「反省的意識」に現われた――多分に「現象学的な想像変更」を加えられた――「わたし」であり、その意味ではこの物語は、「わたし」のモノローグ的な反省過程、あるいは「わたし」の現象学的な自我論的分析過程である。
ファットは、一九七一年から七六年にかけて妻を失い、恋人に自殺され、マリワナやハシシにおぼれた末、みずからも自殺を試み、カリフォルニア州オレンジ郡の精神病院に収容される。彼は、狂気について考えることによって次第に狂気に陥ってゆき、いまや彼は、「精神的にも死んでいた」。しかし、その間ファットは、マリワナにおぼれるだけでなく、たえず「神」への帰依を求めた。だが、「神」への彼の欲求は、宗教的な信心の形態をとるよりも、むしろ神学的な探求の形態をとった。それは、信仰の対象を求めて祈るのではなく、宇宙の存在根拠、第一原因としての「神」を求めて哲学的な思考にあけくれることへ彼を導いた。「ファットは、毎晩午前四時まで起きて、日誌に走り書きしていた」。それらを整理したものがこの物語の巻末に収められている「秘密教典書」である。ひょっとするとファットは、身近な人を失った孤独と絶望のために自殺未遂を試みたのではなく、存在論的な孤独と絶望のために「薬剤、剃刀の刃、車のエンジンを使ったはなばなしい自殺」を試みたのかもしれない。そして、そのような窮地に彼を追いやったのは、彼のそうした存在論的欲求に対し冷笑的な態度をとりつづけた彼のもう一人の自我(「わたし」一や彼の友人たちであったかもしれない。彼のもう一人の自我は次のように書いでいる。
神を見いだしたなら神をつかんで放さないという拘束条項をつくるべきだ。ファットにあっては、神を見つけること(彼が実際に神を見いだしたのなら)は、窮極的には不快な経験、 歓喜の絶えざる減少になった。覚醒剤の袋の内容物のように、次第に減っていった。誰が神を扱えるというのか。ファットはデイヴィッドの教会の司祭に相談をしたが、教会では助けにならないことを知った。
ファットが自己を発見する最初のチャンスを与えてくれたのは、オレンジ郡の精神病院の医師ストーン博士である。この博士は、ファットがいる病棟で患者以外では、一人前の人間として彼に話をしてくれるはじめての人物だった。彼は、真夜中のノートの思考のなかで結晶させた彼の宇宙論をまともにストーン博士にぶっつけることができた。彼はかつて日誌のなかに次のように記した。
実際の時間はキリスト紀元七〇年、イェルサレムの神殿の破壊とともに停止した。再度はじまったのは一九七四年である。両者に介在する期問は〈精神〉の創造を猿真似する完壁な見せかけの挿入であった。
ファットは、このことを「啓示」によって記したと思っており、その意味を十分には理解していなかった。だから、一九七四年になって時間が「再度はじまった」と記しているにもかかわらず、「ローマ人、〈帝国〉が、原初のホモプラスマナをすべて殺したんです」と言う。もし、一九七四年以降、「新しいホモプラスマテが創造されている」というのなら、これは矛盾である。そこでストーン博士は次のような異議をとなえる。
しかしきみは実際の時間が紀元七〇年、ローマ人が神殿を破壊したときに停止したと言ったじゃないか。だからまた、ローマ時代がつづいているわけだ。ローマ人はまだ存在する。
すると、いまはおおよそ紀元一〇〇年頃だ。
つまり、時間の停止とは、時間の抹殺ではなく、時間の凍結=保存でもあるのだ。さもなければそれはふたたびよみがえることもできないだろう。ストーン博士の言葉をきいてファットは、 突如として、「自分のあの体験――古代ローマと一九七四年のカリフォルニアを重ねて見た現象」の意味を理解した。彼は、一九七四年二月に奇妙な体験をした。彼はその日歯科医で抜歯をし、帰宅してからも激痛に悩まされ、薬局から鎮痛剤を取りよせた。薬をもってきたのは、黒い髪をしたきれいな娘で、そのときファットは、彼女が下げている魚型のネックレスの中央に刻まれている模様にひどく興味をおぼえた。それは何のシンボルかと彼がたずね、娘が「これは昔のキリスト教徒が使っていた徴しなんです」と答えたとき、ファットは、突如、フラッシュバック的な体験におそわれた。
ファットは思いだした――わずか二分の一秒のあいだに。古代ローマと自分自身のことを 思いだした。昔のキリスト教徒としての自分自身を。古代世界の全貌とローマ官憲に追われる秘密のキリスト教徒としてのおびえきった自分自身の逃亡生活とが、ファットの頭に押し寄せた…… それから一ヶ月後、ファットは、寝室で眠れないままラジオをきいて横たわっていると、「漂い浮かぶ色が見えてきた」。そして、ラジオからは「忌わしい醜悪宣言葉」がガンガンひびいてきた。さらに二日後、「ぼんやりした光が突然に焦点を結び、現代の抽象画、すさまじい勢いで替わりつづける文字通り何千万枚もの抽象画の形態をとった」イメージに連続的におそわれる。
しかもさらにその「数日後、ファットは目を覚ましたとき、古代ローマを一九七四年のカリフォルニアに重ねあわせて見るとともに、自分が目にしたローマ帝国の近東地域で使用される混成語、コイネ語で考えていた。ファットはコイネ語がその地域で使用された言葉であることも知らなかった。ラテン語が使用されたと思っていた」。
このように自我のなかに別の人格が入りこむ現象は、精神病理学や心理学ではパラノイアや離人症として処理される。深川通り魔殺人事件のKも、ある時期からたえず自分にささやきかけ、瑚笑する声を知覚するようになり、終いにはその"批判的"な人格の意志に従って殺人を犯すことになる。ファットの体験も、精神分裂症の症例からさほどへだたってはいない。しかし、『ヴァリス』は、決しでそのようなレベルにはとどまらない。精神病理学的にはこれも"精神病患者"特有の自己説明だということにされかねないが、ファットは、「われわれは個人ではない。
われわれは単一の〈精神〉の中継局なのだ」と考える。「秘密教典書」も次のように定義し。ている。
精神はわれわれに話しかけているのではなく、われわれという手段によって語っているのである。
だから、「精神病」は、ディックによれば、われわれが十分に「精神の中継局」になることができないとき、つまりは情報エネルギーの適切な通過点になることができないときの状況にほかならない。こうした考えは、たとえばマルチン・ハイデッガーの後期の思考のなかに共通のものをもっている。彼は、一九五七年に行なわれた講演論文のなかで次のように言っている。
……人間を特質づけるものは、彼が思考する本質として、存在に対して明潤に(offen) 存在の現前におかれ、存在に関与せしめられ、かくして存在に応答する(entspricht)ことにもとづいている。(大江精志郎訳『同一性と差異性』、理想社) ハイデッガーにとって、人間は「存在のただなかの開け」である。そしてこの「開け」をありのままに解放することが自由であることである。が、さしあたりたいていは、われわれはこのことを「忘却」している。ハイデッガーが「存在忘却」と名づけている事態は、ディックにおいて は「精神病」や「狂気」という形をとる。「北部カリフォルニアに正気の人間など一人もいなかった」とディックは書いている。それは、必ずしもカリフォルニアがリチャード・ニクソンを生み、人民寺院のジム・ジョーンズを生んだからではない。それは、ゴールドラッシュからハリウッドをへてシリコンバレーにいたるまで、「存在」への「応答」、VALISの適切な「中継局」となることを「忘却」させ、事業と冒険に人をかりたてる場としてカリフォルニアが機能してきたからでもある。
そうした「忘却」の標準的な形態が「同一性」である。現代人は、「アイデンティティ(同一性)の喪失」ということを極度におそれるが、実は、これこそが「忘却」の標準形態なのだ。自我の同一性への欲求は、自我の分裂の度合を反映している。『ヴァリス』においては、自我が「ファット」と「わたし」、つまり「VALISの一部」としての自我とそれを「客観的」にみている自我とに分裂しており、そしてこの分裂(アイデンティティの喪失)がファットの「精神病」の要因になっている。わたしがわたしであるということを「客観的」に見られることが「アイデンティティ」であるが、そうであればあるほどわたしは分裂せざるをえない。『ヴァリス』において、ファットが「精神病」から解放されるためには、「わたし」がその「客観的」な姿勢を捨てて、ファットに合体しなければならない。事実、この物語は、「わたしに再合体したホースラヴァー・ファットだったものの推論は、わたし自身の考えだった」ということをわたしが認めるプロセスである。
それは、「ファットとわたしと(友人の)ケヴィン」がダスティン街の小さな映画館で『VALIS』というSF映画をみることによって一つの山をこえる。この映画には、ニコラス・ブレーイディというエレクトロニックスの天才とニクソンをモデルにしたと思われるフェリクス・F・フレマウントという圧制者が登場する。が、両者がたがいに争っていることは明らかなものの、その全体は難解で、「わたし」も「ファット」も「さっぱりわからない」。しかし、ケヴィンはあることに気づく。それは、小さな陶製の壼で、これがニコラス・フレディの机の上にもフレマウソト大統領の机の上にもロック・スターののエリック・クラプトンの家のなかにもある。ケヴィンによると、すでに映画の最初の場面に、昔風の長いドレスを身につけた裸足の女が壷あるいは水差のようなもので水をくんでいるシーンがあった。そして、それらの壼には、ことごとくある一つの模様がえがかれている。
ここで、その模様が「キリスト教徒の魚の徴し」であり、しかもそれはクリックとワトスンの「ニ重螺旋」であることがわかる。つまり、これらの壼は、「遺伝的な記憶が蓄えられるDNA分子」と関係があるのである。そして、考えてみるとファットは、自分でもこれと同じ模様のついた壼をもっているのだった。それは、一九七一年ごろ、彼の妻が子供をつれて出ていってしまったあと、マリワナにおぼれていたとき、マリワナの売人のステフアニー自身が轆轤で作ってくれた陶製の壷だった。ファット自身は、この壼のなかには神が眠っていて一九七四年三月にそこから現われたのだという「啓示」を受けついだ。しかし、いまや、そこから現われたものは神ではなく、遺伝的な情報分子であることがわかるのである。
イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスは、『生物=生存機械論』(日高敏隆他訳、紀伊國屋書店)のなかで、遺伝子を「複製子」(replicator)と呼んでいる。まさに遺伝子とは最も原初的な情報であるから、これを「複製子」と呼ぶことは、その情報的本質にかなったことである。情報の本質とは、もともと複製可能性である。情報は、伝達機能以前に、まず自己を複製するのであり、そうして複製されたものの連鎖がはじめて伝達のネットワークとして機能するのである。
分子生物学者の柴谷篤弘は、「近頃では、地球上の生命の起源を、地球外に求めようという試みが、まじめに討議されるようにさえなってきているくらいである」(『バイオテクノロジー批判』、社会評論社)と言っているが、「宇宙が情報から造られて」おり、遺伝子もまた情報エネルギーであるとすれば、生命の起源を地球上に限る必要は全くない。むしろこの宇宙のなかでは情報のエネルギーがたえず移動し、変化しているわけだから、原情報エネルギーとしての近伝子は、地球とその外部とのあいだをたえず移動していると考えられる。それは、地球上の生命が「誕生」したときや、あなたがその生命を開始したときだけではなく、「神体示現」的なある特定の出来事のなかでも情報エネルギーの移動と変換が、行なわれるのである。
ディックの考えでは、キリストの死までに地球上にはその後に複製されるほとんどすべての情報が蓄積された。その際、キリストとは「何千年も前にこの惑星に到来し、既に住んでいた土着の人間の脳の中に、生ける情報として入りこんだ地球外生命体」である。生ける情報はまた、写本や象形文字、言語や模様のなかに身を隠し、ふたたび生ける情報として機能する機会を待つ。
そうだとすれば、「救済」の問題は宗教の問題ではなく、情報テクノロジーの問題である。「キリストはぼくたちの識閾下に作用する情報を発するためあえて造りだされたものだ」。「何度も何度も、異なった時代、異なった場所、異なった名前であらわれるが、〈救済者〉とは人間の形をとったVALISのことだ」。「だからぼくたちは宗教にかかわっているんじゃなく、きわめて高度なテクノロジーにかかわっているんだ」、とディックは書く。
しかしディックにとって、救済はつねに向こう側からやってくる。それは、宗教における「神体示現」や神秘主義的な「開示」と似た趣きをもつ。が、ディックの場合、救済がつねに向こう 側からやってくるのは、人間が行なう情報テクノロジーはどんなに先進的なものでもたかだかエレクトロニックスのそれでしかないが、「純粋にテクノロジー的な現象」は「電気的な接続なしに人間の精神を変換機に使う」ようなテクノロジーであるからである。それは、現代科学の目からすると、いささかうさんくさいかもしれない。たとえばパワー・サイコロジーは、まだ映画のなかでしか市民権を得ていない。しかも、スピルバーグの『ホルターガイスト』やシドニー・J・フュリーの『エンティティ――電体』のような映画では、パワー・サイコロシストは、問題の「超科学的」な現象を大げさな電子機器を使って測定しようとする。しかし、「生ける情報としてのVALISは世界に浸透し、人間の脳の中で応答し、人間の脳を接合し、力をかし、識閾下のレヴェルで、つまり目には見えないレヴェルで、人間を導くことだろう」。「したがってわれわれの本当の生活と目的は識閾下で行なわれるのである」。「秘密教典書」のなかでははっきりと次のように言われている。
……情報としての宇宙を読みとり理解する能力は聖霊によってのみ、われわれの手に入る、われわれは自身でこれを見つけ出すことはできない。したがって、われわれは善行ではなく神の恩寵によって救済され、すべての救済は、わたしに言わせれば治療者であるキリストに属すと言える。
ここで言われている「神」や「キリスト」が、キリスト教的伝統のなかでもつ意味とは異なっていることはすでに指摘された。「神」とは、ここではVALIS、「巨大にして能動的な生ける情報システム」にほかならない。従って、「神の恩寵」もまた、VALISの自己開示、VALISとの意識されざる「共生が引火点に達する」瞬間である。プラトンが「アナムネーシス」と言った出来事は、単なる心理的な記憶の回復や想起ではなく、VALISがわれわれの頭脳に新たに「到来」することを意味する。ハイデッガーは、同じことをパルメニデスの断片を解釈しながら次のように言っている。
……会得とは一つの出来事であり、その出来事の中で、生起しながら、人間が初めて存在者ピして歴史の中へ踏み入り、現象する、つまり(文字どおりの意味で)みずから存在へと到来するのである。
会得は人間が自分の特性として持っている一つの態度ではなく、その逆である。すなわち、会得は出来事であり、この出来事が人間を所持しているのである。
(川原栄峰訳『形而上学入門』、理想社) ハイデッガーは、本書の別のところで「会得」とは心理過程ではなく、「無に逆らい、存在にくみする決定=区別」だと言い、これをヘラクレイトスにならって「仮象との相互抗争」、ロゴスと世界がそこから出現する「闘争」(ポレモス)とも言っているが、ディックもまた、世界の根源を「闘争」とみなす。すなわち能動的な生ける巨大な情報エネルギーとそれを帝国のなかに閉ざしてしまうものとの闘いである。
〈帝国〉に対抗して、われわれが聖霊もしくはキリストという分身として知る生ける情報、もしくはプラスマテ、あるいは治療者が身構えている。これらは二原則、闇(帝国)と光(プラスマテ)である。
こうした「闘争」が「出来事」としてあらわになることがエポック.メイキングなことであり、真の革命であるが、ディックはニクソンが失墜した一九七四年を特別視する。この年の八月にニクソン政権が転覆されたのは、「〈帝国〉の現代における具体化である、帝国主義的アメリカの大統領」に対するプラスマテの復讐であるとディックは言う。くりかえし記されているように、「実際の時間はキリスト紀元七〇年にイェルサレムの神殿の破壊とともに停止した」。「鉄の時代」、「黒き牢獄」の時代がはじまり、それは一九七四年八月まで続く。
しかし、アメリカ帝国主義の趨勢は決してニクソン政権とともに終わったわけではなく、むしろレーガンによってより積極的におし進められたことを考えるとき、一九七四年八月以後「黄金の時代」がはじまったというディックの主張は、あまり根拠がないだけでなく、この一単なる空想物語にとどまらぬ――思索にあふれた作品をただの読みものに下落させかねない。たしかにアメリカの経済的・軍事的な影響力は、一九七四年ごろを転期として後退しはじめる。しかし、情報生産と情報支配の影響力は、それ以後、はるかに強くなっており、情報帝国としての様相をますます強く呈しはじめるのである。
その際、情報帝国とは、能動的な生ける情報従って電気的な接続を経過せずに「人間の精神を変換機に使う」ことができるような情報――のシステムつまりはVALISではなく、地球全体をエレクトロニックス・メディアでおおいつくし、そのネットワークの牢獄のなかにとざされたものだけを「情報」と呼ぶような帝国主義的なシステムなのである。ただし、ファットの「秘密教典書」には、「〈帝国〉は終減することがない」と書かれている。その意味では、ディックがニクソンにこだわる理由はあまり明解ではない。
いずれにしても、『ヴァリス』は、これを情報論的に読むとき、きわめてアクチュアルな問題を根源的なレベルで問題にさせてくれる。この本のなかでは単にその可能性と着想が示唆されているにすぎないが、すべての「形而上学」および「神秘主義的教説」の書を情報論の観点から読みなおすことができるだろう。すでにソル・ユーリックは、ダンテの『神曲』を情報論的に読むことを提起していたが、ヘーゲルの『精神現象学』も、同様に、情報論として読むことができるし、そう読んでこそ、それは今日的なアクチュアリティを得ることができるだろう。
VALISのIはintelligenceのIであるが、NTTが推進しているINS(高度情報システム)のIはinformationのIである。ガタリとドゥルーズは、『ミル・プラトー』のなかで「身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない身体は決して組織体ではない。組織体は身体の敵だ。」「器官なき身体が欲望である。人が欲望するのは器官なき身体であり、これによってこそ、人は欲望するのだ」。(宇野邦一訳、「現代思想』一九八二年十二月号)と言っているが、intelligenceとしての情報はまさに「器官なき身体」に属する。そしてinformationとしての「情報」は情報の「敵」である。ハイデッガーも、『根拠律』のなかでinformationの本質はintelligenceつまりは組織化にあると言っていた。ntelligenceとinformationとの闘いは続いており、川前者は後者にとりこまれがちである。それは、CIA(Central intelligence Agency)のIが象徴的に示している。ここでは、informationがintelligenceにすりかえられるのである。
【初出】「新たな"ホモプラスマデ" の創造」『あぶくの城 フィリップ・K・
ディック研究読本』(北宋社)[1983年12月15日執筆]
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