粉川哲夫の本          電子人間の未来


フィルムと《女体》の終わり


 フィルムを使った写真と映画の時代は、確実に一つの山を越したようだ。アートとしての写真を撮ろうとする者は、もはや何かを見せるために撮るのではない。写真は、もはや見られるためにあるのではなく、見ないということを可能にするメディアとしてある。そしてさらに、写真家は写真を振らないために撮るようになった。
映画がそれ自身を否定しはじめたのは大分昔のことだが、最近では、それほど映画そのものの本質に意識的であるとは思えないような映画のなかにも、映画の否定を発見することができる。
最近見た映画では、ロジャー・スポッティスウッド監督の『アンダー・ファイア』がそのような側面をもっていておもしろかった この映画は、サンディニスタ民族解放戦線FSLNによってソモサ政権が倒される一九七九年のニカラグア革命の数ヶ月間をあつかっているが、ニック・ノルティ漬ずる写真家を主人公とするこの映画は、すべてを写真――スチール写真(ただし『フォーカス』的な意味での)――の角度から描いている。そのためわたしには、この映画はニカラグア革命の一端をアメリカ映画にしてはなかなかヴィヴイッドに描いている映画としてよりも、写真の陥っている今日的状況について考える素材として非常におもしろかった。
 最初のシーンは、一見してアフリカを思わせる草地のショットからはじまる。「アフリカ、チャド」というサブタイトル。ひと気のない草むらが動いて、自動小銃をもったゲリラ兵がゆっくりと警戒しながら頭をもたげる。兵士が手で合図すると、あちこちの草むらからゲリラ兵士が姿を現わす。象に乗ったゲリラが目を引く。が、その瞬間、どこからともなく戦闘用のヘリコプターが一機、轟音をたてて近づき、無差別に機銃掃射をあびせはじめる。象は、驚きのあまり、前足を上げ、ゲリラ部隊は大混乱に陥る。象にのった兵士が、背中から落ちそうになりながらも、銃をヘリコプターに向けたとき、映画の画面は、一瞬シャッターの音とともにストップし、カラーが白黒に変わる。
 こうした技法自体は、何らめずらしいものではないが、わたしは、このとき、映画やヴィデオ映像に対して写真がもっている特質というものが画像の静止――つまりは焦点の明示――にあることもあらためて直観したような気になった。
 むろん、映画におけるストップ・モーションとスチール写真における画像の静止とは決して同じではない。ストップ・モーションは、映画の動きのなかでは目立たないとしても、凝視してみれば、 ”静止"画像のなかで光の粒が踊っている。少し古いフィルムでは雨が降ったようになる。
ヴィデオのスチール画像では画面が少し動いたり、チラついたりする。
 しかし、それにもかかわらず、映画やヴィデオがそれらの画像を静止させる――つまりは動画としての自己を否定する――ことによって映画としての動作を発揮するということは、映画が写真の独自性を再発見していることでもある。その意味では、かつてアンディ・ウォーホルが『エンパイア』でエンパイア・ステイツ・ビルディングを延々と映し出してみせた試みも、映画による写真の発見の試みとして受けとることができるだろう。
 ストップ・モーションは、もともと映画の技術であって、写真を発見させる技術ではない。それは、映像のなかのあるアクションやムーブメントを印象づける技法として使われることが多い。
『アンダー・ファイア』の場合も、たびたび用いられるストップ・モーション・シーンは、ステール・カメラとカメラマンの存在を印象づけることを主要な目的にしている。しかし、この映画のおもしろさ(通常の映画的観点からするとそれは、逆に、この映画の欠点と映るかもしれないが)は、全体が写真の映画として見られる点だろう。この映画は、いわば静止的ショットの不連続性によって構成され。ている。
この点では、パトリック・ボカノウスキー監督のフランス映画『天使』という過激な例があり、これは、音響も含めて文字通り徹底的にスチール写真の技術で作られた映画であったが、『アンダー・ファイア』は、技術的には映画の技法を用いながら、そこに写真を感じさせてしまうのである。だから、動きやプロセスよりも或る映像の一こまがスチール写真のような印象を残しやす たとえば、若いゲリラが友人の野球の選手を説きふせて教会の構内に出かけて行くシーンがある。そこの塔にはソモサの政府軍の傭兵がひそんでおり、彼らはこの敵を追いつめようとする。
奇妙な静けさのなかで、ゲリラと傭兵のたがいに撃ちあう弾の音が風を切り、弾が鐘に当って乾いた音をたてる。が、その野球の選手は、手なれた様子で手榴弾を塔のなかに投げ込み、敵を倒す。このときに、この野球の選手の左手から手榴弾が離れ、塔に向かって飛んでゆくショットが、(このときはストップ・モーションは使われなかったにもかかわらず)、ある”決定的瞬間"を撮ったスチール写真のようにわたしの脳裏に焼き付いた。むろんそのシーンは動いているのだが、あたかも男の左手は止まり、ボールのような手榴弾も空中に静止しているように見えるのだった。
 動画と静止画像との本質的なちがいは、画像自体の内容的、質的ちがいである以前に、画像を撮る者と見る者――とりわけ後者――の姿勢のちがいである。動画は、向こう側が動き、こちら側は受動的になるというのは単純すぎる。たしかに、スピルバーグの『レイダース 失われたアーク』以後の監督・プロデュース作品は、観客を一方的にある種の”ドラッグ”トリップにつれこむ。が、スチール写真でも、こちら側がアルコールやドラッグを摂取しながら見ると、それは文字通り”動く"ことがある。つまり、映像が動くか静止しているかは、必ずしもハードウェアとしての画が動いているかどうかの問題ではなく、光に対する観客の姿勢の問題なのである。
 映画や写真のリアリティは、光に対するわれわれの日常的な関係との対比のなかでつくられる。
その”古典的"なリアリティは、太陽光線とレンズとの中央集権的な光学思想にもとづいている。
 ベルトラン・タヴェルニエ監督のフランス映画『田舎の日曜日』は、まさにそのようなリアリティを再現することによって、それがもはや失われてしまったことを痛感させる作品である。一九二一年のパリ郊外と仮定されている場にラドミラルという一人の老人が住んでいる。すべての物語やキャラクター以前に、この場所が"自然光"に満ちていることが想像される。そこでは、太陽光線の独占体制があり、それをありのまま受けいれる儀式として撮影がある。レンズとは、その際、この独占と中央集権のみを伝えるメディアである。この映画では、事件らしい事件は何一つ起こらない。ある日曜日に、パリから息子一家と、それから中年の娘が、父親であるこの老人を訪ねてくる。老人は画家であり、そのアトリエは、フェルメールの描く絵の世界を思わせる。
光はみずからたわむれ、もとあったように一点に集められる。ここでは、だから、すべてのディテールが絵ハガキのなかの出来事になる。
 この映画のなかで、ラドミラル氏は、息子にドガのジョークを話す。ドガは、あるとき、「カリエールの絵は少しボケている。モデルが動いたからだ」と言ったというのである。が、これは、ドガヘの写真の影響を示唆するエピソードとして受けとる必要はない。写真撮影の際、被写体が動いてはならぬというのは、感光時問が長かった時代の写真に必然的なことではなく、光への狭特の対応姿勢を語っているにすぎない。つまり光のたわむれを一点に集めやすくする一つの方法が動かないということだったからこそ、写真の被写体は静止に執着し、絵画は、静止を定着しようとしたのである。
 写真技術が"進歩"してフィルムの感光時問が凝縮され、シャッター・スピードがより速くなったとき、被写体はもはや長く静止する必要がなくなったが、それは、写真が静止という光学思想を放棄したからではなく、静止の技術が高度化したからである。レンズがあるかぎり、たとえ複数の光源を用いても、すべての光は太陽の"子"であり、それを一点に集約し、静止させるという発想が捨てられることはない。
 しかし、電子的な光学装置の出現は、こうした光学思想を根底から変えつつある。とりわけ光センサーの発達は、光を一点に集約するレンズとは全くちがう、光への対応を可能にする。光センサーは、レンズとは異なり、いわば眼のような点的な集約作用ではなく、皮膚のようなトポロジカルな作用をすることが可能であり、また新しいヴィデオ・ディスプレイは、映画のスクリーン(たとえ3D方式でも結局は一点に集約される中心をもつ)とはちがって、多数のモジュール的な――それぞれが自律した――光場によってなりたっており、その一つ一つを分離して機能させることができる。つまり、電子的な光学世界では、光はもはや太陽を中心モデルとはしていないだけでなく、光を一点に集めるということも、もはや絶対的なことではなくなっているのである。ここでは、眼の特権は皮膚の特権に移行し、ちょうど光に反応する草や花と同じように、光への皮膚的な対応が可能になろうとしている。
 おそらく、映画や写真が、撮影の側においても、見る側においてもこれまでの姿勢を相対化する方向に急速に向かっているのは、こうした光の状況の変化のためであろう。とりわけ写真において、撮影者が撮ること自体をパフォーマンス化したり、ヴィデオやスライドヘの関心を深めているのも、このことと関係がある。映画は写真の技術を借用し、また、その見方は、ヴィデオを用いたショットの詳細な分析にみられるように、非常に写真の見方に近づいている これらは、ある意味で、レンズと太陽光線へのシニシズムであって、その集約主義そのものを越えることはできない。かつてヴェルナー・ヘルツォークは、『闇と沈黙の国』で極めて外面的ながらも盲人の世界に近づこうとした。そのなかで、一人の盲人が、盲人にとって闇だけが支配しているのではなく、・色々な光が見えるのだと語っているシーンがあった。われわれは、眼=レンズによって集約され、色彩が明確に分節された世界をこれまで"普通"とみなしてきたが、もし、エレクトロニックスのテクノロジーが可能にする極めて皮膚的、場所的な光学世界が今後もっと発展されるならば、盲人の世界の方が、より"自然の光"に近いということになるかもしれない。


 ヌードが写真のジャンルのなかで有力な位置を占めていた時代が終わりつつあるのも、前章で述べたのと同じような根底的な理由による。それは、写真自体が終わろうとしているからだけではなく、肉体とりわけ女性の肉体の特権的な機能が失われつつあるからだ。
 すでにその徴候は、マン・レイの写真のなかに見出せるが、それでも彼のヌード写真の肉体は、それが画面の前面に大きくせり出した機械の即物的なイメージのかたわらにつつましく存在する場合でも、依然として他のオブジェを異化する"肉体"としての機能を発揮していた。そこでは、裸体の各部に配されたいくつもの"局所"が、周囲世界をとり集め、一つのモナドロジー的世界を形成していた。その裸体は、他の事物や他の肉体とは質的に異なる"何か"としてあり、事物や他の人物像もこの裸体の特権性を基礎にしてはじめて自己を語るのだった。
 このような世界は、新しいヌード写真のなかにはもはや存在しない。たとえば、ディーター・シュミツツやクリスチャン・フォクトの写真では、しばしば頭部が覆われ、"まなざし"はもはや何も語らない。むき出しにされた胴体や四肢も、とりわけフォクトにおいては、女の肉体のそれを思わせない。それは、マヌカンや電子的に合成された映像が肉体に対してもつある種の距離をはらみ、男性−女性といった一次元的なセクシャリティを消し去っている。
 セクシャリティは、これまで権力の最も重要な基地だった。肉体に"局所"を設け、そこに男と女、支配と被支配の力学を導入すること――最も日常的な権力、ミクロな権力――の原型であった。この局所化に直接関わるポルノグラフィーにくらべて、ヌード写真は、むしろこの局所をあいまいにし、拡散し、そういう形で性=権力をなだめる機能をもってきたが、ポルノグラフィーが禁を解かれてもう一つの裸体表現となるにつれて、ヌード写真は、準・ポルノグラフィーとなるか、肉体をオブジェ化する非肉体表現の方向に向かうかを選択せざるをえなくなった。
 しかし、ここで問題にしようと思うのは、そうしたヌード写真の危機についてではなく、ポルノグラフィーをも含む裸体写真全体の終焉という事態についてである。
 ポルノグラフィーが、肉体を性器において単一的に局所化してきたとすれば、ヌード写真は、一般に、肉体を多面的に――まさにモナドロジー的に――局所化してきた。ポルノグラフィーには、性器という限られた数の局所しかなく、それに向かって肉体の全体が吸飲されている。それに対して、ヌード写真には、そのような単一的な局所はなく、肉体のあらゆる部分に性の局所が見出せる。だが、これは性=権力の「昇華」ではなく、むしろ、ポルノグラフィーが行なう局所化の全般化であり、性=権力が性器の局所から、あらゆる器官の全体へ、さらには都市やメディアにまで浸透する媒介となる。
 こうして性=権力は、権力としての効力を発揮するわけだが、このような性=権力の虜になった人物が、自分や他人の肉体だけでなく、都市やメディアをも性器と準・性器の集合体とみなすようになる典型的な症例が、佐川一政の『霧の中』(話の特集)に見出せる。この物語の主人公にとって、パリは売春婦の街つまりは性器=都市である。
 中央の噴水の青白い光に、ほお一つと浮かぶ女の顔があちらこちらに浮いています。そのと 一つに近寄っていくと、濃い化粧をした仮面の様な顔があらわれます。目をそらし、そ知らぬふりでまた別の影に近づきます。若々しい髪の陰から、やはりどす暗い化粧をした面が、ふいにこちらに向き直ります。
 これは、ブラッサイの写真でもおなじみの光景だが、主人公にとっては、これは都市全般の光景にまでパラノイアックに増幅されている。この小説の主人公が女の肉体を食いたいと思うことこれは、性=権力を止揚(消化)したいという暗黙の意志を表わしていると同時に、この権力のなかにより深く埋没したいという意志を表わしている。だから、殺した女の肉体に対して、彼は次のような感想をいだく。
 その、すらりと伸びた指をみている内に、急に激しい衝動を感じて、その冷やかな先を、自分の股の下にあてがって、セックスをしました。これが意外に刺激的で、一辺に昇天しました。青白い、血の気の失せた指の先に、白い液体が消えていきます。その後、その指を噛もうとしましたが、かたく噛み切れません。そのまま足と同じ様に、ごみ袋に入れました。
 性=権力は、肉体から都市にいたるすべての世界がその局所であることを願う。ということは、世界を決して全面的には露出させないということであり、たえずそこに"陰部"を作り出すということである。性=権力にとって、性器は決して露出されてはならないのであり、この禁止がこの権力の一形態になる。かつてハロルド・グラマンは、初めて訪れた東京の印象を、「セクシーな都市」という言葉で表現したことがあるが、これは、セックス産業がいたるところにあるこの都市の性格を指摘した言葉ではない。彼は、むしろこの都市に"性器"の遍在を見たのだと思う。
私自身、数年間日本を離れていてふたたび東京を見たとき、同じように感じた。単に男や女たちの身ぶりのなかにではなく、街のたたずまいそのものが"陰部"の雰囲気をもっているようだった。
 性器は、隠され、"陰部"となるからこそセクシーなのであって、性器そのものがセクシーなわけではない。大島渚の『官能の帝国』(『愛のコリーダ』のノー・カット版)では、性器がありのままに映され、ペニスをくわえた女の口から精液があふれ出る様もリアルに映されるが、セクシーだと感じるのはそういうシーンではなく、むしろ、俳優としての藤竜也と松田咲子が無意識に見せるとまどいやためらいのシーンである。そうした身ぶりのなかには、彼や彼女が日本社会で蓄積した性意識(性=権力についての意識)がはからずも現われるのであり、性器を隠すことを強制されている社会の身体的記憶がよみがえるのである。
 すべてを露出しないということ、たえずどこかに空虚な中心、空洞を残すこと――これが性=権力のポリティクスである。それ自体は、いかなる力ももたないにもかかわらず、そこに何かがあるかのように演出することが"陰部"を作り出す。その意味では、荒木経惟が雑誌『写真時代』で撮り続けているものは、まさにこの"空虚"さであり、権力の局所化そのものである。そこには何もないということを、規制を受けない国々のポルノグラフィーが行なうのとは別のやり方で――まさに権力の逆手をとることによって――荒木は露呈させるのであり、ポルノグラフィーそのものを異化してしまうのである。
 しかし、ポルノグラフィーが禁じられているところにおいてすらそれが異化されるということは、その政治的機能がすでに失われているということであり、ポルノグラフィーの一つの終焉を示唆している。と同時に、すでにポルノグラフィーと相補的な関係をもってきたヌード写真も一つの終焉に達することが暗示される。これは、性器から無数の準・性器を結ぶ性=権力のネットワークが失われることにほかならないが、だからといって、このことは、権力の存在が失われるということではない。むしろ、これは、権力が肉体の局所化に基づく性=権力としてではなく、別の権力として機能しはじめたことを意味する。すなわち、電子=権力である。性=権力にとって、肉体は不可欠であったし、それを無数の性器とすることが権力の増殖形態であった。だが、電子=権力にとっては、もはやそのような肉体も性器も必要ではない。
 "ポルノの解禁"は、これまで世界を支配してきた性=権力が、電子=権力に転換する有力なメルクマールであり、すべての性現象が電子的に再編成される事態の徴候である。アメリカでは、一九六〇年代以降、"ポルノの解禁"が進んだが、ポルノは、単に「性革命のパイオニア」たちによって解放されたのではなく、むしろ、ポルノが権力装置としての機能を失ったからであった。
 一般に、アメリカにおける"ポルノ解禁"の発端は、サミュエル・ロスと合衆国とのあいだで争われた「ロス対合衆国」判決(一九五七年)だと言われている(ジャック・C・フラノ、ミルトン・グリーンバーク『アメリカ政治事典』)。この裁判で、猥褻文書を頒布した罪を間われた出版社主サミュエル・口スは、上級審でも敗訴したが、ロスが頒布した書物や文書が憲法修正第一条に照らして合法的であるか否かの点で、九名の判事のあいだで意見が分かれた。これは、司法当局の内部に微妙な変化が現われた結果であり、ポルノの機能がすでに変わりはじめたことを裏書きする。事実、こののち、最高裁に上告された猥褻事件が次々と無罪の判決を受けるのである。
 性表現の規制が本格的にはずされるまでには、「ギンズバーグ対合衆国」判決(一九六六年)や、「ミラー対カリフォルニア州」判決(一九七三年)などを経なければならないが、「信教上の自由な行為」、「言論および出版の自由」、「平穏な集会」、「苦痛事の救済に関して政府に請願する」等々の権利を人民に保証する「修正第一条」を楯にとった被告側の努力が功を奏した背景には、権力構造自身の変化があったのである。このことは、一九六八年にジョンソン大統領のもとで一八名の委員から成る「猥褻およびポルノグラフィーに関する大統領諮問委員会」が設けられ、猥褻概念の再定義への動きが現われていたこと、また、こうした動きをジョンソンとは逆に社会の浄化のために利用しようとしたニクソン大統領(この委員会はニクソン時代にまでもちこされた)の策動にもかかわらず、その報告書は性表現の自由化に役立ってしまったことのなかに現われている 一九七〇年に、この報告書は、まずランダム・ハウス社からハードカバー版が、次いでニューヨーク・タイムズ社からペイパー・バック版が発行されたが、この年の十一月には、報告文にイラストと、とニクソンが委員会に送りこんだチャールズ・H・キーティングの反対意見とを加えた海賊版が出まわり、これだけでも初版十万部のベストセラーになったのだった。その海賊版についてゲイ・タリーズは次のように書いている。
 ……写真や絵による説明がふるっていた。性交中の男女、乱交にふけっているグループ、男性にマスターべーションをしてやる女性、女性にヴァイブレーダーを使う男性、アナル・セックスをするホモセクシャル、クンニリングスに夢中になるレズビアン、蝋燭を用いて慰める中世の尼僧、巧妙な性技を披露する古代東洋の絵、人気のある漫画本の登場人物をみだらに戯画化したもの、ピカソの淫狼な版画、革の服を着た女が手錠をかけられた男を鞭打つ図、人種混合の乱痴気騒ぎ、ワギナの拡大写真、馬のペニスを舌で愛撫する赤毛の女……。
ありとあらゆる想像しうるかぎりのタイプが五百四十六枚におよびイラストに表現されていた。(山根和郎訳『汝の隣人の妻』下、二見書房)「狽嚢に対抗する国民の十字軍」を提唱してはばからなかったニクソンの路線が功を奏しなかったのは、すでに産業構造が変化し、マス・メディア自身を一つの現われとする権力の機能のしかたが、ニクソン流の中央集権的なものではなくなっていたからである。ウォーターゲート事件は、まさにニクソンのそうした政策が権力そのものによって否定され、排除された象徴的な事件であったが、こうした脱中央集権化の動きは、情報やサービスの産業が主流となり、社会がそれらを中心に再編される変化にぴったり対応している。
 性表現の自由化が体制自身の利害から是非とも必要だったことを端的に示した部門として映画 がある。第二次大戦後、アメリカの映画産業は、次第にかつての栄光を失いはじめた。これは、 一つには、テレビの普及のためであり、テレビの普及台数は、一九五〇年から一九六〇年のあい だに四倍に増し、逆に映画の収益は半減した。また、第二次大戦後の社会意識の変化に映画が対応できず、観客はヨーロッパ映画にひかれるようになり、またこの時期にポルノ映画も激増した。
 すでに一九二〇年代に性表現を自主規制するシステムが作られていたが、一九三四年に「プロダクション・コード・アドミニストレイション」(PCA)が作られ、メイジャー系の映画会社が 支配する映画館で上映したい映画には、PCAのコード・シールが必要になった。しかし、ヨー ロッパから入ってくる"芸術映画"のなかには、PCAの規準からはずれる性表現を行なってい るフィルムが多数あり、PCAはすでに映画産業自身の障害になりはじめていた(このあたりは、まさに今日の日本の映画状況にあてはまる。興業をも含めた日本の映画産業が活性化するために の は、「映倫」規制が廃止されなければならないだろう)。その結果、一九六八年十一月までに、PCAをひき継いだ"コードとレイティングひアドミニストレイション"(CRA)による四段階のレイティング.システム(G――年齢を問わず一般、GR――年齢を問わないが、親の指導が好ましい、R――年齢制限あり、十七歳以下は親または大人の同伴を要す、X十七歳以下は不可)が設けられ、映画における性表現の自由は、上映する側の規制から観客側の自主的判断にまかされるようになる。
 この"規制緩和"が権力構造全体のなかでもつ意味は、権力そのものの構造変化であり、あらかじめ制度として肉体を局所化するのではなく、個々人が自らの判断で自己の身体を局所化することによって自己支配するというような新たな支配…権力形態の出現である。
 これは、金銭経済や中央集権的な権力の観点から見ると後退であったとしても、情報経済の観点からは前進であった。新しい権力は、すでに単なる金銭経済によってではなく、情報経済によって動いている以上、これは、決して権力の弱体化ではない。だから、この時代に台頭する"アメリカン・ニュー・シネマ。は、金銭経済的には大した成果を残さなかったとしても、その情報経済的成果は、画期的なものであったと言わなければならない。黒い肌と白い肌とが接しあう映像(『アメリカの影』)、スラムの少年たちの性交シーン(『バワリー25時』)。それまでは、ハリウッド映画に全身を弾丸で蜂の巣のように撃ち抜かれるシーン(『俺たちに明日はない』)が現われることはなかったし、この規制緩和のなかでしか、インディアンの村を襲撃した白人の男たちがズボンを下ろして村の女たちを強姦するようなシーン(『ソールジャー・ブル』)が映されることも不可能だった。
 映像自体はもはや肉体に関して"性器"と"非性器"、"陰部"と"非陰部"、"うさんくさいもの"とそうでないものとをあらかじめ(制度として)差別せず、それは観客にまかされることこれは肉体の全く新たな処理方法である。しかし、これは、肉体が権力から解放されたことを意味するのではなくて、全く新たな肉体支配が始まったことを告げている。
 一九六〇〜七〇年代を通じて、映画や写真の映像世界で肉体からいわばあらゆる"陰部"が撤廃され、"プライベート"な世界がもはや肉体のなかというよりも、何か抽象的な"頭脳"や"無意識層"のなかにしか存在しなくなったということは、つまりは、権力は、そのような部分をいまや最も重要な場としはじめたということである。権力とは、隠されたものについての権力であり、そのようなものをいかに支配し、独占するかが権力の政治学なのである。
 このような重心移動は、映像自身が、フィルムや写真のようなメディアからテレビ画像やヴィテオのようなメディアにその重心を移してきたことと密接な関係がある。というのも、前者は、後者にくらべると、そのテクノロジカルな特性からしてより多くの"陰部"をもたざるをえないからである。その点で、電子的な映像は、何ものも隠さないということを特性にしている。
電子映像は、隠蔽と暴露の弁証法をポリティクスとはしないのであり、肉体を映す電子映像は、リアルタイムで肉体を現前させる。それゆえ、ここで展開される政治は、隠蔽か暴露かではなくて、それは肉体であるのか否か、なぜ肉体であって、無ではないのかという存在論的な場面を問題にすることになる。
 テクノロジーの発展には、旧テクノロジーを新テクノロジーで再編することがともなうが、フイルムや写真もまた、ヴィデオの発展のかたわらで、ヴィデオニァクノロジーの論理によって再編される。それは、カメラ淋電子化され、ヴィデオコーダー的になるというだけでなく、写真や一映画の撮り方自体がヴィデオ的になるのである。その意味では依然として写真時代のなかにある。
なぜなら、いまやヴィデオ時代であるにもかかわらず、写真時代であることを強制されているのがこの日本であり、時代の趨勢は、ヴィデオによる権力と支配に向かっているのに、依然として写真による権力と支配にとどまっているのがこの日本という国家の動向だからである。
 荒木経惟がイニシエイトした方法は、その点で、日本とこの時代を痛烈に批判している。彼は、カメラを"ヴィデオ・カメラ"として使いながら、しかも、そうすることが最終的に禁じられていることを(性器をカモフラージュした映像処理によって)写真として提示する。が、カメラがカメラではなく、写真が写真ではないことをカメラと写真を使って示すということは、カメラと 写真の終末の地平が示されたということでもある。
写真の終末の時代に臨んで、写真は、肉体のなかに"陰部"の最後の残淳を見つけ出そうとするが、それは、もはやセクシャリティの外側にしか見出すことができない。近年、ふたたびアメリカで、性表現に対して新たな規制を設けようとする動きがあるが、セックスがプライベートな領域に属するとか、それが猥褻であるといった理由だけでは性表現の規制を正当化することはもはやできないのである。
 一九八四年、インデアナポリスで、フェミニストらが中心となり、ポルノが女性を単なる性的対象としてしか扱っていないという、女性の人権保護を主眼としたポルノ規制条例を制定させたが、この条例は、米国出版協会(AAP)、米国書店連合(ABA)、自由読書財団、雑誌流通協会評議会などが連邦地裁に対して起こした条例差止め請求が最終的に通り、この条例は、憲法修正第一条に違反するという理由で無効の判決を受けた。また、一九七九年に、ニューヨーク市大の学生新聞『オブザーヴェイション・ポスト』に、修道女が性器に十字架を挿入してマスターベイションをしている写真が掲載されたとき、大学当局は、この新聞を発行停止にし、編集責任者を猥褻罪で訴えることも辞さないという強硬な態度を表明したが、最終的に残った議論は、この写真が"聖なるもの"を冒漬するか否かであって、性器を映像として露出させたことではなかった。
 ミクロ・レベルの政治が、肉体=性器から脳のレベルに移るにつれて、脳自身のなかに"陰部。
が作られるというのも、この時代の末期現象である。脳を右脳と左脳とに分ける「分割脳理論」のミクロ・ポリティクス的意味は、まさにここにある。角田忠信、市川亀久弥、品川嘉也らの意見を総合すると、左脳はデジタル・コンピューターで代替することもできるが、音楽を聴き、絵画的なパターン認識をする右脳はアナログ型であって、現在のコンピューターがその代理をすることはできない。従って、右脳は左脳よりもつねに不明瞭な地平を残すのであり、権力というものが、不明瞭なものを管理しようとする意志だとすれば、今日の権力の最大問題は右脳の管理であり、また権力と反権力のミクロ・ポリティクスは、右脳においてせめぎあう。
 右脳が、いわば"陰部"となり、人々は、今後は、ペニスやヴァギナを露出することよりも、右脳を露出すること――たとえばランダムな感情表現をすること――に差恥心をおぼえるといった事態を経験するわけだ。あたかも左脳だけによって構成されたかのような世界――そういう形で右脳を特権化する映像――が、過渡期の権力とその支配の力学にふさわしいものとなる。それは、すでにコンピューター・グラフィックスやヴィデオ・アートの世界でより鮮明に現われている。フラクタル幾何学は、世界をどこまでもデジタル的に再構成できるという信仰を基礎づける。
が、それは、世界を単にデジタル信号の束にすりかえるためではなくて、むしろそういうやり方で非デジタル的なものを特権化するためであり、近代数学的な合理性を操作可能な"空白"として管理することが、デジタル化の極理念になっている。
 だから、今後は、猥褻なものは性器ではなく右脳であり、裸体においては右脳を包む頭部が"陰部"になる。ディーター・シュミッツの写真に、女のバストやパブリック・ペアーが露出されている代わりに、頭部が髪やクロスで包み隠されているヌードがあり(『カメラ毎日』一九八四年十月号、一七〜二一ページ)、また、クリスチャン・フォクトの写真には女の裸体の頭部が箱のなかに入ったり、ベールですっぼり覆われている写真がある(『カメラ毎日』別冊『NEWNUDE』、一七六〜七九ページ)が、これらは、まさに脳が"陰部"になり、権力と反権力の狽嚢な闘争がくりひろげられる場が脳である今日の時代においては、最も"品位"ある写真であるかもしれない しかし、脳は、その存在を特権化するためにセックスに対する性器のような特定の器官を必要としないため、頭部を覆うことは、新たな猥褻を覆い隠すことにも、逆にそれを暴くことにもならないだろう。むしろ、それは、今日の権力のありかがもはやセックスと性器にはないことを象徴的に示唆するにすぎないだろう。
 その意味で、ミロン・ツォブニールの写真(『カメラ毎日』、一九八四年八月号、七一〜八九ページ)ほど、性=権力からも電子=権力からも放螂された肉体をリアルに見せてくれるものはない。もはや、 性器=身体としては全く機能しない肥満の尻や浮浪者の男女がはだけて見せる胸。便器にまたがった女の下腹部は、便器に溶け出しているかのようだ。ウエスト・ヴィレッジのセブンス・アヴェニューにあるタバコ屋のまえの公衆電話の屋根にのぼって半裸の姿を誇示しているゲイの肉体は、そのむき出しのペニスにもかかわらず、鳥の肉体を思わせる。クリストファー・ストリートで、たくましい男にささえられて逆立ちをし、性器を見せている女は、文字通り性器=身体のはずだが、それは、もともとそういう風に生息してきた生きものか植物のように見える。そして、手錠をはめられたままパトカーのかたわらに転がされ、あたかも霜田誠二の街頭パフォーマンスのようなかっこうで横たわる露出狂の男の肉体は、文字通り、権力が機能している世界から放螂された廃物である。
 おそらく、電子=権力は、これまでのすべての権力やそれに相関する肉体を、電子的なやり方で再編するだろう。しかし、ツォブニールが撮影して見せる肉体が、そうした再編を受け、新たなシステムのなかに連れもどされることはないだろう。が、そうだとすれば、彼の写真は、性=権力からも電子H権力からもわずかに自由な肉体を確保することに成功しだということになる。

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