粉川哲夫の本
電子人間の未来
メモラビリア
思えば、メディアやパフォーマンスヘの意識的な関わりは、わたしの場合、ひょんなことで大学の非常勤講師になったことから始まったようだ。自分がいま考えていることを勝手にしゃべるだけでよいという"甘言"に乗せられて講義とゼミナールを受け持ったのは、いまから十四年もまえになる。考えていることをしゃべるといっても、教室に行って、これから考えますから待ってくださいと言うわけにはいかないから、あらかじめ考えたことを話すわけだ。ところが、これが、慣れないとなかなかむずかしい。
四月の開講が近づくにつれてあせりはじめた。二、三十分なら一気にしゃべっておしまいにすることもできようが、九十分も大学生の関心をひきつけておくような話をすることなんかできるだろうか。学生時代には、退屈な授業に接するたびに、大学の先生にだけはなりたくないと思っていたことも手つだって、必要以上に意識してしまうのだった。が、結局、開講日の当日になっでちょっとしたイタズラを思いついた。
初めて入る教室のドアーを開けたとたん、数百名は入る教室にビッシリ学生がつまり、いっせいにわたしを凝視した。大学院を出たばかりの若い講師を一目見ておこうという好奇心が彼や彼女らの目にはあふれていたが、それが次第に失望に変わっていくようにも見えた。
そう思うと、急に血が頭に上がりそうになり、マイクを握った手が汗はんできたが、努めてもっともらしい顔をしてまずは自己紹介を済ませる。それから、「ぼくは、"教師"にはなりたくないので、一方的にここから情報を与えるというような授業にしたくないんです」と言い、「これから一年間、ぼくにしゃべらせたいことやぼくといっしょに考えてゆきたいことはありますか?」と質問した。
内心は、さほど平静ではないのだが、平静をよそおいながら教室内を見わたすと、学生たちはシンと静まりかえり、わたしと目が合うと顔をふせてしまう。そこで、わたしは、あらかじめ用意したテープレコーダーのスウィッチを入れ、そのスピーカー部分をマイクに近づけた。
「なにやるか!? え!? ねえだろうなあ」 そのべらんめえ口調の野太い声が教室内に響きわたった瞬間、とまどいと爆笑の声がその声を消した。それは、実は、わたしが前年に早稲田小劇場で録音した「染替再顔見世」のテープの一部で、問いかけても沈黙しか返ってこないだろう状況を予測して頭出ししておいたのだった。
このパフォーマンスがきっかけになり、学生とわたしの双方の緊張が解け、質問が出るとともに、わたしも思うことをしゃべれるようになった。しかし、この初日があまりに"劇的"だったために、次の週からわたしは、学生の過大な期待に応えなければならないというはめに陥った。
自業自得である。ロコミはサッと伝わり、次の週も教室は満員だったが、毎回パフォーマンスをやるほど芸のないわたしは、次第に、準備したノートにかじりついて、それをただ読み上げるだけの最もつまらない授業スタイルを実践する教師になり下がっていくしかなかった。当然、聴講の学生はみるみる減ってゆき、それに対応してこちらの話も観念的になっていった。唯一の救いはこの講義の次の時間にあるゼミで、ここでは十名たらずの学生とドイツ語の原書を読んでおり、なんとか相互の交流が保たれているように思われた。しかし、それも、あまりわたしに向いている仕事ではないという気持を起こさせることが多かった。
だから、翌年は、もうこんなやくざな仕事はやめるつもりでいたが、この世界にわたしを引きいれた人に説得されてもう一年とどまり、そのあげく、気づいてみたら十年以上の歳月がたっていた。その問、わたしは、その人の最初のアドバイスを忠実に守って、自分がいま関心のあるごとだけをしゃべってきたわけで、そのため学生からときどき、「哲学というのはそんなことまで含んでいるんですか?」と言われたが、わたし自身は、しゃべる内容よりも、それをどう伝えるかということがいつも気になっていた。
当時、わたしはまだメディア論や情報論を思考の中心にすえてはいなかったが、カフカにおける〈作品−作者−読者〉の関係、ブレヒト演劇における〈舞台−役者−観客〉の関係に触発されて、どうすれぱそうしたコミュニケイション関係のなかにある拘束性を越えることができるかということを考えたり、書いたりしていた。そのため、週一回、大学に来て教壇に立つとき、そうした日頃の思考とはうらはらに、旧態然とした教師−学生というコミュニケイション環境のなかでしゃべらなければならないことが苦痛だったし、この環境を何とか変えられないものかと思った。
これは、普通の見方からすれば、教師としての芸のなさをタナあげにしたいい気な態度に映るかもしれないが、むしろ、そうした"芸"を至上のものとすることに問題があるというのが、わたしが理論的に(つまり頭だけで)理解していたことだった。教室と劇場とをアナロジカルに考えてしまうわたしの目からすると、大学の教室というものは、LL教室は別にしても、その形式の点で、寺小屋以来何の進歩もなく、"劇場"としても――すでにアングラ演劇を体験している目から見ると――新劇以前の段階にとどまっているように思われた。
大学に限らず、学校の授業がつまらないという意見は、この十数年間絶えたことがないが、それは、教師の"芸"不足の問題であるというよりも、教室という"劇場"空間が時代状況に合わなくなってきているからである。すでに、アングラの時代に、"額縁舞台"はとりはらわれた。
客席と舞台との区別のないオープン・スペースの芝居も日常茶飯になった。どこの家にもテレビがあり、しかも、それは次第に、家族で見るものから個々人で見るものに変わってきた。また、ヴィデオコーダーの普及は、受像機を単に一方的な情報受容の装置から、情報を組みかえ、選択できる装置に変えつつある。
こんな状況のなかで、依然として寄席や寺小屋のような空間で学生と教師が対応しているのでは、むしろ退屈でない方がおかしい。こんな空間のなかでは、学生は、はじめから「学校は時代遅れ」だというわけでその場にとどまるのを放棄するか、あるいは教師が芸達者になることを願うかしかなくなるし、教師の方も、早く"名人"になりたいと願うということになるだろう。
現代劇の劇場は(そして、まさにパフォ一マンスにおいては)、別に"名人"や"名優"だけが演技をしているわけではなく、それにもかかわらず、おもしろいときにはおもしろい。この"おもしろい"ということは、必ずしも笑いがこみあげてくるということではなくて、観客が新しいコミュニケイションの場に置かれたことを体験できるということである。
そもそも、教師や演技者が教壇や舞台に立っていて、観客がその話や演技を受動的に受けとるという形式は、メディア論からすると、支配のメディアないしは抑圧的なメディアになりがちだ。
講師や役者にめぐまれれば、たしかにその場は"おもしろい"ものになるだろうが、ふと気がつくと、あらかじめ十分に計算された演技に踊らされて楽しんでいることが少なくない。近代主義の発想では芸を楽しむということは、自分からそうした"罠"にはまることなのだということになるが、そういうことを毎日学校でやっていると、学生の方は人に積極的に働きかける能動性を失ってしまいかねないし、教師の方も知らず知らずのうちに、自分の言ったことは何でも受けいれられる――あるいは受けいれられるべきである――かのような錯覚に陥ってしまう。
コミュニケイションというものは、コム・ユニオン(com+union)つまり人と連帯して何かを共有するということであったのに、学校は、それを一方的な支配や指導に度めている。もし、学校が単に学生を一つの型にはめる管理や支配の場ではなく、コミュニケイションの場だとすれば、教師の特権性というものは捨てられなければならないだろう。学生と教師、学生と学生とが、そのつど新しい関係を創り出すことが問題なのであって、知識のつめこみは二の次である。
「タレント教師」とは、マス・コミで著名でかつ学校の教師をやっている者のことだが、タレント教師現象は、教師と学生の双方に見出すことができる。これは、テレビの普及と、そうした状況に対して学校がメディア的に全く対応できなくなった(テレビに対する代案を出せなかった)ということと関係がある。テレビの視聴者にとって、その画面で目立つ人物はタレントである。
この日常的な経験が、学生と教師の双方の意識に沈澱し、知らず知らずのうちに学生は自分をテレビの視聴者に、教師をタレントに見たて、教師の方も、自分がタレントで、学生が視聴者であるかのような錯覚ないしは願望をもってしまう。
その結果、学生の方は、ちょっと授業をのぞいてみてピンとこないと、まさにテレビのチャンネルを切替えるように、席を立ってしまい、また、教師の方は教師の方で、テレビタレントのようなギャグを言ったりして学生を喜ばせようとすることになる。学生のなかには、「おれたちは、授業料を払ってるんだから、もっと楽しませてよ」などと言う者も出てくる。しかし、教室は、テレビではない。学生も教師も生身の体をたずさえてあい対しており、にもかかわらず、その双方がテレビの画面のなかの人物と視聴者との関係であい対するというのは矛盾である。ところが、われわれの意識の方は、テレビの発達とともに大いに変わってしまっており、その際、わずかに演劇やパフォーマンスがテレビに対する代案になりえる可能性をもっているにもかかわらず、今の学校の教室は、劇場やパフォーマンス・スペースとして最低なのである。これでは学校がつまらなくてもしかたがないではないか。
そうしたことは、理論的には誰でも知っていることだが、いざ実践的にこの現状を変えるということは難しい。わたしの場合もいまから七、八年まえにカフカやブレヒトについて講義しながら、最後に自虐的に言うことはこのことだった。いま自分たちが受けいれている場が、コミュニケイションの関係からして、カフカやブレヒトが何十年もまえに暴いた抑圧的な性格を一歩も脱していないことを知りながら、われわれはそういう場にとどまっているわけだからこっけいである。が、イスと机が床にネジでしっかりと止めつけられている教室を使うかぎり、そこにいる自分だちの現状がせめてこっけいに見えてくるような自己批判的授業をするのが、当時のわたしとしてはせいいっぱいのことだった。
しかし、四、五年目から少しずつ状況が変わってきた。ゼミナールを聴講する学生の数が増えてきたのとは裏腹に、専門的な原書を輪読するというようなやり方を嫌う学生がめだってきたのである。そのためごく少数の参加者だけを尊重し、他を切捨てるのでもなければやり方を変えざるをえなくなった。
そこでゼミナールでは、そのときどきのテーマによるディスカッションの形式を重視し、なるべく全員が発言できるようにした。ゼミナールの部屋は、講義の大教室とはちがって、イスや机が床に固定されてはいないので、そのときどきの雰囲気で机の配置を変えることができた。原書講読のときも、学生も(当時は)わたしもタバコをよく喫ったが、ディスカッションになってからは、飲みものや食べものも自由に摂れるようにし、皆が酒やつまみをもちよってパーティ風のゼミをやることもよくあった。
しかし、講義のときに"理想"視していた状況が一挙に実現してしまうと、それが単に場所の変化でしかなく、まだわれわれの身体に刻みこまれた変化ではないため、ただの寄り合いに終わる危険が多い。そこでわたしは、急に学究的な態度になって、ディスカッションのための資料をコピーして配ったり、その日のテーマを一人でとうとうとしゃべってしまうということになり、そうなると、とたんにその――せっかくのフリー・スペースは、ギクシャクした"シンポジウム"の場になり下がってしまい、四年以上も大学に顔を出している年長の学生や口の立つ者だけがその場を独占し、他は、二時間ものあいだ押し黙って静観しているというふうになりがちだった。
こんな事態は、いまでも決して改善されてはいないし、わたしは、依然として会心の授業・ゼミをもったなどという自信はなく、毎年学年末になると、さて来年はどうしようかという思いに駆られるのだが、ゼミをこういう形式に変えてから幾分がは、自分でもおもしろいスペースになったなと思うことがあったのはたしかである。
天気の良い日、ゼミの学生をさそって外に出、輸になって芝生に座り、ディスカッションをしたこともある。この空間では誰かがいつも中心になるということはない。わたしは単なる媒介役であって、わたしがテーマを決めるとしても、それについて誰かが論評し、それを順番にまわして行くと、誰もが何かを発言することになり、その空間を統括する中心人物も受動的な傍観者もいなくなるのだった。
ゼミ室のイスやテーブルを動かすのは毎度のことだったが、あるとき、机とイスを大胆に配置して、その空間的な変化がコミュニケイションやディスカッションの状況をどう変えるかを実験しようということになった。そして、演劇をやっている一人の学生が、来週の"舞台装置"を受けもつことになった。その日、ゼミ室に行ってみると、イスとテーブルが無秩序にならべられ、そこに学生たちが落着かないおももちで腰を下ろしていた。そこでどんなことが話されたがは忘れたが、情報空間が変わるとふだんは口を開かない人がしゃべれるということがわかったことは最大の発見だったと思う。そのつど空間を変える実験は、そのあとも一しばらく続けられた。
パフォーマンスもやった。まだ、いまみたいに「パフォーマンス」という言葉がはやっていない頃で、とにかく毎週、個人なりグループなりで即興的なアクションをするというのを十回ぐらい続けた。わたしのアイデアで、カフカの『城』の冒頭部分(主人公Kが村にやってきて、居酒屋で一夜の宿を乞うくだり)をKと居酒屋の主人に扮したパフォーマーが、即興的に演じてみるというのもやった。これは、パフォーマーが異なると当然"再現"されるこの場面の感じがちがってくる。しかもそれが必ずしも頭で考えた解釈の相違ではないので、それをまわりで見ている者とパフォーマー自身とがあとで議論することによって明らかにしてゆくことができ、この小説の多義性を頭で理解するよりも、いっしょに空間を創りながら体で理解できておもしろかった。
ゼミのパフォーマンスがかなり成功したときでも、われわれの力不足というような問題とは別に、体を使った演劇的なアクションだけではどうしても抜け落ちてしまうレベルがあることをうすうす感じていた。
こうした"演劇的"コミュニケイションを越える新たなコミュニケイションとして自由ラジオがあるということを知ったのは、ニューヨークの友人から、イタリアで自由ラジオの運動が拡がっているという話をきいてからだったが、その実際的な可能性と特質を確かめることができたのは、このゼミにFM用の送信機をもちこんで、ゼミ自体を臨時のラジオ局にしてからだった。このラジオ局は、じきにゼミの有志たちによってひきつがれ、学内に"ラジオ・ポリバケツ"という局が誕生した(これはさらに下北沢の"ラジオ・ホームラン。へと発展した)。
"ラジオ.ポリバケツ"の人たちが放送しているのをみていてわかったことは、メディアは、単に「送り手」と「受け手」を媒介するだけではなくて、それに関わる者をそれぞれに活性化するということだった。実際に、このあまりに小さなラジオ局は、リスナーよりも"放送スタッフ"の数の方が多く、それは何かを伝えるというよりも、とにかく放送するというもので、それはリスナーの意識を直接変えるような力はもたなかったが、放送現場に、実際の放送やうわさをききつけて入れかわりたちかわり人がや、ってくるために、放送に関わっている人たちの関係を確実に変えていった。
これは、メディアや情報を考えるうえで、非常に重要なことだと思う。つまり、われわれは、メディアを声や表情を遠くに延長する道具として、そして情報をそうした道具によってパッケージされ、送り出される物として考えがちだが、コミュニケイションは、道具の操作とは本質的に異なり、メディアは道具ではなく、また情報は物ではないのである。
自由ラジオで確認されたことは、ゼミ室で机やイスの配置を変えたときにもすでに起こっていたことであり、われわれは、知らず知らずのうちにそれらを単なる道具からメディアに変えていたわけである。そして、そのときわれわれは、そのメディアを通じて、それぞれにちがう経験や他者への関係をつかんだのであり、その一回的な関係こそが情報なのである。
メディアや情報がこのようなものだとすると、地球的・宇宙的規模での通信手段としてのニューメディアが発達しても、それは、必ずしもコミュニケイション状況の進歩を意味しないということがわかるだろう。通常、ラジオや電子的なメディアは、情報を「送り手」から「受け手」に媒介する手段だと考えられている。だから、その媒介を長大な距離で、迅速に行なえることが"進んだ"、メディアだということになっている。しかし、情報を大量に所有することが現代人の条件だといった発想は、情報を依然として物のレベルでしか考えていないのである。メディアとは、個々人がそれを共有することによってそれぞれの経験の一回的な差異を確認しあうためのスペース場であり、ニューメディアにおいては、そのような場が極度に拡がっただけ経験の差異を確認しあう可能性も増大するが、同時に、それを誰と共有しているのかがわからなくなって、メディアで結ばれた相手と自分の経験の差異を確認するのではなく、両者の同一性(本当は同じ経験などというものはないにもかかわらず)を幻想しあう可能性も高まる。
われわれは、このようなメディアと情報の時代に、かつてない創造性に恵まれると同時に、これまでにない均質化の危険にさらされているのだろう。その分かれ目は、メディアを通信手段でスペースはなく場にできるかどうかにかかっている。
しかし、電子メディアヘのコミットメントが、他者に対する自分自身の姿勢のコミュニケイション関係の変革や、自分が属する集団の集団性のコミュニケイション的質の変革を新鮮に進めるためには、つねに"外気"が必要である。これは、日本のような閉鎖的な文化・情報環境では不可避的な条件であるように思う。
この点でわたしは、イタリアのアウトノミア運動後に現われた新しい運動試案である「ボロ・ボロ」に関心をもっている。
「ボロ・ボロ」というのは、同名の本のなかでスイスのP・Mが素描している一種の未来コミュニティであり、六〇年代のコミューン運動から七〇年代のスクウォッタリング(空家占拠)や自由ラジオ(西ドイツでは、自由ラジオを"周波数占拠。と呼ぶ)の運動にいたる一連のスペース解放運動のなかで出てきた最良部分を豊かなイマージネイションで結晶化させたものである。
『ボロ・ボロ』は、すでに、ドイツ語とフランス語版で出ており、つい最近、ニューヨークのセミオテクスト社から英語版が出版され、目下ロシア語、スペイン語、ポルトガル語、日本語の翻訳が進行中である。(なお、この運動の周囲状況については、『インパクション』第四三号所収の「アウトノミアから『ポロ・ポロ』へ」を参照) 著者によると、現在われわれがもっている能力や条件を駆使すれば、明日にでもボロ・ボロ・コミュニティが世界中に出現するだろうという。ボロ・ボロを作るということは世界中に「ディスコとトリコのネットワーク」を作ることである。これは、世界中にディスコ・クラブを作るということではない。
「ディスコ」(dysco)には、「A―ディスインフォメイション(脱情報化)」、「B―ディスプロダクション(脱生産)」、「C―ディスラプジョン(脱組織)」の三つの脱・打破・解体(ディス)が含まれており、総称的に「ABC−ディスコ」ともいう。具体的には、「ディスコ」とは、支配と力の生産の「労働・マシーン」を解体する諸活動であり、「A―ディスコ」は、たとえばコンピューター労働においてサボタージュをする、権力の情報を内部から漏らす、誤情報をシステムにインプットするといったカウンター・インフォメイション的な活動、「B―ディスコ」とは、ストライキのように生産点で生産能率を低下させてゆく活動、「C―ディスコ」とは、暴動、ゲリラ活動、スクウォッタリング、建物封鎖のような"暴力的"な活動である。
ABC―ディスコは、それだけでは「労働・マシーン」を解体して、労働から解放された個人を創り出す事はできない。このディスコの一つひとつの現場――全体としては三つの活動を相互に結びつけるのが「トリコミュニケイション」であり、それを短縮して「トリコ」と言う。ディスコのネットワークは、地域的であるが、「トリコ」のネットワークはインターナショナルであり、グローバルである。
簡単に言えば、ディスコのネットワークは、食、住、創造活動の地域的・国内的ネットワークであり、トリコは、それらを都市とその外部、さらには国の外に相互的に接続する情報と人の回路なのである。
こうしたネットワークが広がってゆくと、"国家"というような既存の権力学校(スペースを権力に都合のよいように分割した空間学校)は次第に弱体化し、世界の各地に自律した「ボロ・ボロ」が出現しはじめる。その結果、世界の二"超大国"であるUSAとUSSRは、たがいに生きのびるために、むなしいパワー競争をやめ、USSAR(United Stable States and Republics)を作らざるをえなくなる、と『ボロ・ボロ』の著者は言う。これは、両者がやがて最終的に滅び去る末期形態である。
「ポロ・ボロ」とは、われわれが労働から解放されるようなスペースであるが、それは、決して"社会主義"によって実現されるわけではない。「社会主義もまた、労働・マシーンのもう一つの罠でしかないことがわかった」。
「労働・マシーン」は、資本主義のものも社会主義のものも、あらゆる活動を中心に集約し、支配する。権力とは、中心=求心の力である。この求心システムが存在するかぎり、人は自律的に生きることはできないし、何かのために働かされ、何かのために活動させられるという労働の従属的な基本形式が生き残る。
「労働・マシーン」は、個々人、集団、コミュニティがすべて自律した単位として独立し、あらゆる活動が、こうして自律した単位(これを"モジュール"と呼ぶのがよいだろう)同士の自発的な、自由な連帯によって結びつくときにだけ"組織化"し、横断的なつながりをもつのでなければ、決してのりこえることができない。どこかに"中心"ができれば、個人と個人、個人と集団、集団と集団……は、「労働・マシーン」となってしまうのだ。
だから、"集団"や"コミュニティ"は、個々人の自発的な連帯のなかでのみ時間的に存在するものであって、いつでもどこでも同じ身振りで活動できるような"集団"は、もはや"マシーン"以外の何ものでもないのである。「ボロ・ボロ」を創り出せるような集団やコミュニティは、 自由な個人を前提にしているのであり、もし自由な個人が可能ならば「ボロ・ボロ」は可能であり、また「ボロ・ボロ」が可能なら自由な個人も可能なわけだ。
「ボロ・ボロ」を、単に未来のユートピア的な目標にしないためには、手近なところにある「ボ口・ボロ」の可能性を発見する必要があるだろう。それは、いつどこで――たとえつかのまであれ――われわれは自由な個人でいられたか、を発見することである。もし、そのような場や時が、いまここに、全くないとすれば、これからそういうものが生まれる可能性もないだろう。いや、あるかもしれないが、われわれは、そこへ向かって動くことができないだろう。
われわれは、ロック・コンサートで自分が自由な個人であることを直観したことはなかったろうか? われわれは、集会で、自由ラジオ局のスペースで、未知の人々が集まったパーティで、そして雑踏のなかで、自分がいかなる強制からも自由であると感じたことはなかったろうか? もし、なかったとしても、そのような経験の可能性をためすことはできる。が、それにはスペースがいる。スペースがあり、そこにわれわれ一人ひとりが勝手にやってきてたむろできること――これがすべての出発点である。そレて、このスペースは必ずしも住宅スペースに限らない。
新聞や雑誌もスペースである。P・Mは、最近『ボロ・ボロ』というニュースレターを発行した。
これは、世界中の人が、自分の「ボロ・ボロ」についての夢や構想を自由に書くための活動スペースである。
「ボロ・ボロ」は決してかつてのコミューン運動のような幻想をもたない。P・Mは、それゆえ、次のように書いている。
トリコは、ニューヨークのイースト・ヴィレッジのセント・マークス・プレイス、ポーランドのグダニスクのノース・イースト7、ナイジェリアのムンタム・ビヤ、あるいはおそらくチューリッヒ・シュタウファツファーのノヴォジヒルスク地区A23、フィジィ島のプーマなどのあいだにも存在するかもしれない。こうしたトリコのきずなは、最初は、個々人の偶然的な出会い(観光旅行など)をもとにしてはじまるだろう。それから、それはすでに存在するトリコの活動によって多様化されるだろう。トリコのきずなの実際の使われ方は、はじめは非常にありふれたものだろう(し、ありふれたものであらざるをえない)。たとえば無料であるいはできるだけ安く行なわれる必需品(薬品、レコード、香料、衣類、道具)の交換である。
これまでの運動は、まず大きな目標を立て、それに向かってバラバラの個々人が"連帯"して進むために、個々人を信仰やイデオロギーや思想体系という一色の酒に酔わせることから出発した。酒の酔い方は、一人ひとりみなちがうし、悪酔いしたり、酔い足りない者もいるのだが、ここでは乾杯の音頭にそそのかされて、みなが一体になったかのような幻想をいだくのだった。いま、このような運動が全く不必要になったとは言えない。このやり方で個人や集団を抑圧してくる権力の"運動"に対しては、暫定的・戦略的にあえてこのような"幻想"に陥って闘わなければならないこともあるだろう。
しかし、より長期的な自己解放運動の形態としては、最初から幻想の"連帯"に入って事を起こすよりも、まず何よりも、個々人を自発的に――しかも相互関係のなかで――《動かす》フリーなコミュニケイション・又ペースを作ることが重要である。出来上がったスペースで全体として何が起こるかはわからないにしても、個々人が、さまざまな時と場所を移動し、組みかえながら新たな出会いを期待して出かけて行くことのできるコミュニケイション・スペースが無数に作られたとき、その一つひとつのスペース、そして相互に結びあったスペースからこれまで存在した"集団活動"とは全く別の共生的な活動が生まれないはずはないだろう。
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