メディアの牢獄
精神療法としてのテレビ

「電波にやられた!」——これは、一九八○年六月、東京の深川で起こった"通り魔殺人事件"の初公判を報道したある新聞の見出しだが、それによると、この事件の被告Kは、法廷で、「電波やテープで男と女の声が毎日毎夜、私を悩まし続けた……」とくりかえし陳述したという(『東京新聞』一九八一年十一月二十四日)。Kが、実際にそのような妄想に悩まされており、凶行時に"心神喪失"の状態にあっ たのか、それとも「凶悪犯行の責任をすりかえる」ためにこのような「支離滅裂」宣言いわけを考え出したのか、いまわたしの手もとにはそれを判断する資料はない。が、殺人にまでエスカレートした精神的抑圧が、マス・メディアや情報装置(電波やテープ)との関連で語られることのなかに、わたしは非常に今日的なものを感じないではいられない。
というのも、今日、マス・メディアや情報装置は、ときには具体的な人問以上に身近な存在であり、したがって周囲の具体的な人や物以上にわれわれに強力な影響を与えることもあるからである。手をのばせばその身体に触れることのできる他人がいる職場では、かえって具体的な人問に疎遠なものを 感じ、アパートの孤独な自室でみるテレビのなかのタレントの笑顔や声の方により"現実感"をいだくということもあまりめずらしくなくなってきた。そのあげくは、テレビの映像の"現実感"から現実を判断する傾向が生まれる。これは、かって"美しさ"や"かっこよさ"の規準が映画スターに求められたのとは全く事情を異にする。その場合、映画スターは特権的な存在だったのであり、それゆえ、自分の仲間のなかの誰かがたとえば小林旭に似ているといえば、その人物はその仲間のなかで "かっこいい"特権的な人物なのである。これに対して、今日では、「バンチDEデート」の出演者が、自分の好きな異性のタイプを「好きなタレントさん」でイメージしてみせるように、どんな人物もテレビ・タレントの誰かに関係づけることができるのだ。いわば今日のテレビは、あらゆる言葉とイメージを収録した百科事典のようなものになっており、しかもわれわれはこの事典なしには一語もしゃ べることも判断することもできない"記憶喪失症"と依存過多に陥りつつある。
現実と空想世界が倒錯してしまう有名な例として、セルバンテスの小説の主人公ドン・キホーテがいるが、彼は騎士物語を読みすぎてパラノイア(妄想)に陥ったことになっている。だが、本を読むということにくらべてテレビをみるということは、はるかに受動的であり、しかも、テレビは、本のように自分が開いた目の前にだけではなく、たまたま訪れたスナックや飲み屋にも、また友人の部屋 にもあり、向こうから一方的に情報やメッセージを放射している。テレビは、もはや環境に属しており、それは見るものであるよりも、むしろ浴びるものなのだ。とすれば、テレビ時代の"ドン.キホーテ"がいても何ら不思議ではないはずで、テレビを浴びすぎていわばテレビ.パラノイアに陥ることも考えられるだろう。"通り魔殺人事件"の被告Kがテレビ時代の"ドン.キホーテ"であるかどうかはわからないが、たとえばレソニァイトソの小説に基づく映画『イブクレス・ファイル』(邦題 『国際諜報局』)でみられたような、過剰な視覚的・聴覚的刺激を与えることによって被験者を殺人者に仕立てあげてしまう洗脳技術が、現に存在するらしい。
しかし、実際にテレビを怜かすぎた結果出来上がる人格は、暴力的であるよりも、むしろ温和すぎるものであるようだ。イェジー・コジソスキーの『ビーイング・ゼア』(邦訳『預一]一暑』角川書店)は、初老に達するまで自分の家と庭のほかはテレビを通じてしか現実世界を知らないという男を描いているが、この話はテレビを見すぎた者の精神医学的なデータをふまえて書かれていると著者は言っている。映画化され(邦題『チャンス』)、ピーター・セラースが見事にキャラクタライズしたこの作品の主人公は、およそ暴力というものを知らない、あらゆる点で受動的な人物だ。ほとんど何ごとにも抵抗しないし、批判するということを知らない。彼には、テレビの世界が"現実"で、現実とは自分が好きなときにチャンネルを回わせば自由に変えられるものだと思っている。自発性とはチャンネルを切替えることである。番組(テレビの世界)自身を創造することは彼にはできないから、彼にとって自由とは創りけ出すことの自由ではなくて、組み合わせることの自由にすぎない。
この種のパーソナリティは、小説や映画のなかでは奇妙でユーモラスにみえるが、実は、今日非常に日常化しつつあるものなのである。テレビ時代の子供たちは、もはや、木材をけずって何かを作るというような創造(変形)の遊びよりも、プラモデルやコンピューターゲームが端的にあらわしているように、物や情報を組み合わせる遊びに慣れている。ここでは遊びの自由さは、変形の自由さでは、 なくて、組み合わせることの豊かさになっている。こうした子供たちが大人になれば、彼や彼女らにとって現実は、自分の体をはって自分の身体との相互関係、相互変革のなかで変形され、創り出されるものであるよりも、プラモデルやプレハブのように単に組みあわされただけのものになるだろう。すでにそうした傾向ははっきりとあらわれつつあり、かつては"いかに生きるか"といった深刻な問いの対象であった"人生"も、いまでは"ライフ・スタイル"という軽やかなものとなり、それは、 どれでも好きに選べぱよいものとしてカタログに分類されている。"役割"と言ったときには日本語 としてはまだまだ永続的に責任をもって何かに関わるというひびきをもっていたことも、全くの"ち ょい役"になり、父親や母親の"役割"までもきわめて演技的な仕事になりつつある。女性週刊誌に は必ず載っている占星術は、一見、生まれ月という組み合わせの自由のきかないものであるかのよう にみえながら、その実、本来なら選択不可能なはずの"運勢"までもが、雑誌をかえるだけで組みか え可能なのである。A誌の占娘術とB誌のそれとは、同じ西洋占星術でも全くちがう運勢を占うので あり、それらのちがいは真偽の問題ではなく、情報的な差異の問題にすぎない。  すべての重心が実質からイメージヘ、使用価値から交換価値へ移ってゆくにつれて、すべての物は 情報になってゆく。情報とは、かつてそれ自身とはちがった何かの行為をうながす媒介であったが、 それはいまや、イメージの世界で何かが何かに移行したということ、あるイメージが他のイメージと のあいだに差異をっくったということにすぎなくなる。たとえば「スバル座でフェリー二の『女の都』 をやっていみ」という、 "情報"は、本来は、この情報の受け手を"スバル座"に赴かせるか、ある いは逆に、この映画を上映している場所が、自分の家からは不便な所だからまたの機会にしようなど という判断に向かわせるための媒介であった。だが、『ぴあ』のような情報誌が一般化した段階では 事情は大分ちがってくる。たしかに情報誌に載っている情報はそうした古典的な"情報"としても使 うことができる。その意味では情報誌は便利だし、それによって映画や演劇は以前よりも多くの観客 を動員できるようになったはずだ。が、他面で、情報誌はそうした観客行動を動機づける媒介とはち がった読まれ方をしているし、情報誌の読者の半数以上は、それを媒介としてではなく、単なる情報 として消費しているのである。すなわち、ページをめぐって関心をひく映画や演劇をチェックする。 念入りに色エンピツで印をつける者もいるだろうし、ただタイトルを目で追うだけの者もいるだろう。
いずれにしても、情報の単なる羅列でしかなかったところへ、読者が自分の好みなり関心なりの差異 をはめこんでゆく。そしてそれが終われば、この"情報遊び"はそれで完了するのである。その意味 では、情報誌は、決して情報の正確さや質を売りものにする必要はない。さまざまな情報、他との差 異、目新しさをより多くもった情報が集積されており、それでいっとき、情報整理の遊びができれぱ よいのである。このことは、『ぴあ』や『シティロード』だけではなく、『月刊アルバイトニュース』 や『とらば一ゆ』のようなもっと"実質的"なよそおいをもった情報誌でもかわりがない。
データーを調べてみたわけではないが、情報誌が氾溝する以前と以後とで劇場や美術館の観客動員 数が、情報誌の賊買部数の増加に比例してのびたとはとうてい考えられない。商莱映画の場合は、以 前でも新聞や専門誌でいまも実質的に変わらぬ情報を得られたのだから、情報誌の商業映画情報が観 容動員にそれほど決定的な影響を与えたとは思えない。もし、多少の変化があるとすれば、自主上映 の数とその観客がふえたことだろう。そのかわり、ことによったら、情報誌のために商業映画の観客 はのびなやんでいるということもあるかもしれない。情報誌が前述のような新しい"遊び"を生み出 し、また情報を自分で集めなくて済むことから、ますます受動的な姿勢が強められ、劇場に出向くと いったひとっの飛躍から人を遠ざけているかもしれないからである。  テレビ時代の子供たちが"おふくろの味"よりもインスタント食品、しかもテレビでさかんに宣伝 されているインスタント食品を好むことはよく知られている。実際、今日の好みの多くは、味覚だけ でなく美的感覚から思考の好みにいたるまでテレビによって決定される傾向がある。まさにテレビが われわれの好みの基準になりっっあるわけだが、それではテレビの番組を選択する好みの基準ばとこ からやってくるのだろうか?むろん、テレビ時代の子供たちはそれをテレビから得る。ということ は、結局、ここには各自の"内面"から生じてきたような好みなどというものはなく、好みとは単に たまたまよくみていたテレビ番組によって慣らされた惰性の偶然的な結果でしかないわけだ。それめ え、最もひんぱんに、最も持続的に、最も刺激的に、そして最もさりげなく目に入る番組がこうしわ 基礎的な好みを定着させる効果をもつことになるが、そのような"番組"とは、いうまでもなくコマ ーシャルである。ながくても三分たらずのTVコマーシャルが、今日のわれわれの感覚から思考にい たるほとんどあらゆる好みを決定しているというのはもはやさほど誇張にはなるまい。TVコマーシ ヤルは、もはや単なる"宣伝手段"であるよりも、大衆文化となっているのである。むろん、これは 大衆の一人一人が体をはってつくり出した文化ではなく、企業の側から与えられるものであり、それ がどんなに大衆の一人一人に接近しようと努力しているとしても、それはしょせん、つくる文化では なく、完成品として与えられる-消費するしかない文化である。
テレビ時代の子供たちは、このような文化のなかで育ち、この文化を再生産することに専念するわ けだから、その基本的な姿勢は、物との体をはったかかわりであるよりも、次から次に与えられる情 報を組み合わせ、組み立て、整理するといった一種の流れ作業にも似た受動的なものとなる。その場 合、自分の欲しいもの、自分の好きなものとは、何か"本当"の自分があり、そこから自発的に求め られるといったものではなく、自分が知らぬ問に欲しい、好きなものになっていたというようなもの であるから、欲しくない、嫌いだと言うためには、自分が欲しい、好きだというふうに慣らされてい るものと差異をつくるものが向こうから与えられなければならない。要するに、テレビなりその他の 情報装置なりが欲望や好みの鎮となるのでなければ、欲望も好みもはじまらないというのがテレビ時 代の人問には普通のことになるのである。
かってダニエル.J.ブアースティンは、一九四〇年代以降のアメリカ合衆国で顕著となった社 会・文化的な傾向を『イメージ—または、アメリカの夢に何が起こったか』(一九六二年、邦訳『幻影の 時代』)のなかで鋭く包括的に分析し、情報化と大量消費が昂進する社会が行きつく一つのパターンを 提示した。今日この本を日本の社会・文化状況と対応させながら読んでみると、日本はプアーステイ ンがここで指摘しているパターンを約二十年遅れで踏襲したことがわかる。一九六〇年代から七〇年 和代にかけて日本で急激に変化したさまざまな現象のモデルはほとんどこの本であっかわれており、そ の意味では日本があまりにアメリカの轍を踏みすぎていることにいまさらながら驚かされる。たとえ 榊ば、欲望や好みが広告によって作られているという"ガジェット"性についても、ブアースティンは 精次のように言っている。 「大衆は本当に、新しい型の自動車に尾びれ[50年代のアメリカ車のニュー・デザイン]が付いてい ることを欲しているのであろうか? 尾びれがついていることが大衆の望みであるならば、尾びれは 機能的なものといえないであろうか? 製品がいつまでも根源的な欲求かれ遠ざかりつあるような 果てしなく拡大する経済のなかにあって、われわれはまずます自分の欲望がなんであるかわからなく なってきた。
そうなるとわれわれは、自分の欲望を発見し拡大するために広告を読むことになる。われわれは新 しい製品の広告から、長いこと欲していたにもかかわらず、自分ではそれが本当にはなんであるかを 知らなかったものを発見しようと待ちかまえている」(星野・後藤訳、東京創元社)。
今日の日本の大衆文化のうち最も一般的なものは、スポーツであり、また犯罪やセックスの強烈な イメージヘの志向であるが、これも、ブアーステインの鋭い解釈によれば、 「大衆の趣味が低下して、つまらない、不まじめなものを求めるようになったというような単純なこ とではない。これは、自然発生的書のに対する、疑似イベントでないものに対する、われわれの絶 望的な渇望の表現であるという点にもっと深い意義がある」。
ブアースティンは・本書の最終章で、アメリカは、一九五〇年代から六〇年代にかけての「今日、 グラフィック革命時代において……自分の力の頂点に達したが、……新しい、アメリカ特有の危険 に脅かされている。それは、世界の多くの国にみられる吉な、階級闘争、イデオロギ、貧困、 疫病、文盲、扇動、あるいは専制政治の脅威ではない。それは、非現実の脅威なのである。無の脅威 とは、アメリカの夢をアメリカの幻影で置き誓えてしまう危険である。理想の代わりにイメージを 望みの代わりに鋳型をもってくる危険である」「個人としても国家としても、いまわれわれは社会 的な自己陶酔症にかかっている」と言い、この「病」の自覚とそこからの脱出を警告した。だが、六 〇年代から七〇年代にいたるアメリカの社会・文化状況を、プアーステインの前掲書に劣らず鋭利に そして包括的に分析したクリストファーニプーシの『ナルシシズムの文化』(一九七九年、邦訳『ナルシシ ズムの時代』)を読むと、プアースティンが指摘したこの「自己陶酔症」は、その警告にもかかわらず、 アメリカの社会と文化のなかでより全般化し、アメリカ人の無意識のレベルにまで巣くってしまった ようにみえる。
興味深いことに、こうした社会・文化的なナルシシズムは、日本でも七〇年代の終わりごろから次 第に顕著になりはじめた。それは、情報化と大量消費を志向する社会がとるほとんど必然的なパター ンであるかもしれぬが、そうだとすれば、ラージの『ナルシシズムの文化』は、プアースティンの 『イメージ』以上に日本の今日的・近未来的な状況についてより多くのことを示唆してくれるだろう。 たとえば、日本でも若者のセックスニワイフは急速に変わりつつあるが、その方向はおおむね、アメ リカの六〇年代に起こった"性革命"つまり「乱交があたりまえだということ、感情的なコミットメ ルントを用心深くさけるということ、嫉妬や独占欲は非難されることなど」の方向へ向かっているよう 仰にみえる。しかし、アメリカでは七〇年代以降、こうした方向を一歩進めた傾向が生じてきた。すな わち今日のアメリカでは、「男性の目から見ると、セックスのパートナーは得やすくはなったが、そ のパートナーたちは脅威ともなってきた。かつて男は、女が性的な反応を欠いていると不平をこぼし たものである。ところがいまでは、女を満足させてやるだけの能力があるかどうかビクビクせねぱな らないし、それが悩みの種ともなっている」(石川弘義訳、ナツメ社)。日本でもこのなことは、個人 的レベルでは起こりうるし、中年男の平均的心境は大なり小なりこんなものだと言えなくもないが、 これが社会化し、青年がそうした実体験以前に女性恐怖に陥り、性のパートナを女性でなく男性に 求めるようになるといった事態はまだ社会問題になるほど浮上してはいないだろう。  すでに述べたように、TVコマーシャルはわれわれの欲望や好みを決定するが、商品と情報の消費 を持続させるためには、欲望を拡大し、新しい好みを開掘してゆかなければならない。ラーシによれ ば、今日の広告テクニックは一方でそうした新しい欲望と好みの開発を行なうと同時に、他方で、さ もなければ気づかぬかもしれぬよう不満をたえず思い出させることによって、からめ手から、欲望 をかきたてる。「現代の産業文化がかもし出す不快な気分に悩んでいる人々に内かつて、広告は魅惑 的にお芝居してみせる。あなたの仕事は退屈で無意味ではありませんか?そのため、うつろな疲れ きった気分になりませんか?あなたの人生は空虚では膏ませんか?消費は、人々の痛むような 空虚感を必ず満たしてみせます、と約束してくれるのである」。まさに、「消費を呼びかける宣伝は、 疎外そのものまでひとつの商品にしてしまった」わけだが、これは日本でもすでに一般化してしる広 告テクニックだと言えるだろう。
アメリカでは、育児や子供の教育について親吉もカウンセラーや精神医学の専門家の方が篇を 握一でいるかのような傾向が一九三〇年代から四〇年代にかけて定着していったが、ラーシによれば、 これは精神医学と広告との一種の結託である。 「広告は"子供を正しくあっか一でやりたいという両親の願い"を利用するために精神医学を引込ん たのである。精神医学的な説明によって両親を慢性的な不安状態におとしいれておけぱ、そこには当 然欲求不満が生まれる。すると、そこで広告が、それを満足させてあげますよ、と声をかける。つま り、精神医学が感情の上に、広告産業の呼びかけを受け入れる基盤をつくるのである。そこへ広告産 業がつぎのようないろいろなうたい文句で呼びかけるわけだ。若者の健康と安全を守るために、彼ら に毎日必要なだけの栄養を十分に与えるために、感情面、知性面でみがきをかけるために、……を忘 れずにつかいましょう……」。
日本ではこの種の"結託"は、公教育と、民間の教育産業やストレス解消のためのさまざまなレジ ャー産業とのあいだの潜在的な"協力"関係のなかに見出すことができるだろう。つまり、公教育が "荒廃"し、子供の教育を公教育にまかせることができないという不満や不安が親たちのあいだにた かまればたかまるほど、民間の教育産業やレジャー産業は繁盛するというわけである。
ナルシシズムという言葉は、"ナルゴティック"(麻薬)とルーツを同じくしており、けだるさ、眠気、 嗜眠性、非活動、受動性などと類縁関係にあるが、ラージによればナルシシズムとは、他に頼りきっ ているという特性の心理的なあらわれであり、マス・メディア、企業体、国家組織といったものに青 目的に依存しないでは何一つできないパーソナリティが今日的なナルシシズム的パーソナリティであ る。それは、情報と人問関係が個人を自分では通常それらを求めて行動する余地がないほどまで がんじがらめにし、まさに嗜眠的な受動性のなかに追いこむことによって生ずるが、八○年代に 榊なって日本でも顕在化してきたマス・メディアや情報機器の高度化は、ますます個人を情報に対して 精受動的で身動きできぬ場に追いこんでゆくようにみえる。たしかに、音声多重放送、ケーブル・テレ ビ・ビデオ・レコーダーやビデオ・デスク、ファクシミリ等、情報が個人に流れ込むネットワーク装 置は多様化しはした。しかし、これらを通じて流れる情報はみな向こう側から一方的にやってくるの であって、こちら側はただそれを受けとり、せいぜいそれを。みかえることしかできないのである。 情報がいつもこのように他から一方的にやってくると、情報は本来創造されるものであることカ忘却 されてしまい、われわれはそれを操作・整理することしかできなくなる。これはわたし自身、調べて みたことがあるのだが、呆のようにこれだけテープレコーダーが普及している所で、その録音機構 を自分の声の録音のために使用する者はひじように少なく、テープレコーダーは、語学の練習や職業 的言的で使われる場合をのぞけば通常、①再生、②エアチェック、③レコード録音、④催物の録音、 といった順番の頻度で使われ、マイクを使って話をするとか演技をするとかといったテープレコーダー の能動的な——つまり情報を単に受容するのではなく作って送り出す——使い方の頻度は最下位なの である。
この点で、カラオケほど今日の日本の社会・文化状況を象徴している装置はないのではあるまい か?それを使う者は、実際上あやつり人移として機能するわけだが、少なくとも心理的には、歌う という——つまり何かを能動的に表現するという——"疑似イベント"にひたることができるという 意味で、ここにはナルシシズムの積極的な利用がある。が、カラオケが爆発的に普及したのは、歌の へたな考でも何とか歌うという体裁を保ち、歌うということの自己満足を与えられるというだけから ではなく、かつては—たとえへたであれ——一人一人が肉声で歌をきかせあうことによって親密さ を増すことができたような集団性が崩壊しっっあるからである。カラオケのマイクを握る者は、肉声 の場合のように決して他人に向かって歌いかけるのではなく、むしろ自分に向かって、そしてテープ にセットされた音楽のレコードに向かって歌うのである。つまりカラオケで歌うということは、集団 への帰属や連帯よりもナルシシズム的な孤独の快感へ没入させるのであり、その意味において、カラ オケで維持される宴会や酒席とは、すでにナルシシズム的な個々人の偶然的な集合でしかなくなりつ つある日本的集団性の形骸だけを、エレクトロニクスによってシユミレート(人工的に模造)したも のなのである。言いかえれば、依然として"日本的経営"論などで"日本的集団性"が再評価された り、その逆に、買春観光"にみられるような"日本的集団性"が自潮的な日本人批判.日本社会批判 の指標にされたりするが、実際にはそのような集団性はすでに崩壊しはじめているのである。 むしろ、今日の日本社会に特徴的なことは、すでに実体を失ないかけている"日本的集団性"やそ の他の諾々の"日本的なもの"がエレクトロニクスの装置を通じて人工的に再構築される点である。 主体は、すでに"日本的なもの"の方にではなく、エレクトロニクスの方にあるのであって、エレク トロニクスが、社会を統合するために単なる操作上の型や規範として"日本的なもの"を利用してい るにすぎないのだ。ということはつまり、ここには、従来以上に"日本的なもの"、保守的なものが "強調される可能性がある反面、それと同時に、いままでの"日本的なもの"とは全くちがった新しい 服ものが生じてくる可能性もあるということでもある。その意味では、日本の社会と文化はいま、大き な転機にさしかかっている。



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