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主体の転換/未来社/1978年

カフカを世俗的に読む??読者主体の復権


   カフカをそのスタイルや内容の新奇さから評価する傾向は依然おとろえていない。むろんこれはカフカにかぎったことではなく、芸術作品は、大抵の場合こうした方向から論じられてた。しかしこのやり方は、読者の姿勢を既存の文化の狭いわくのなかに不変にとじこめておいて、その対象(作品)だけをとっかえひっかえする消費文化の路線にぴったりみあったものであって、これでは〃読む〃ということが、既存文化の変革や新文化の創造とは全く無縁の単なる娯楽の一形式に陥ってしまうであろう。すでにグラムシは、パピーニやプレッツォリーニらによる〃ヴォーチェ〃誌の運動を「〃ヴォーチェ〃の運動は真の芸術家を生み出すことはできなかったが、それは新しい文化、新しい生き方のために闘うことによって間接的にそれまでになかった芸術的気質の形成をも推し進めた」(「芸術と新しい文化のためのたたかい」、『グラムシ選集』合同出版)として高く評価したが、グラムシの言うように、問題は「新しい文化」、「新しい道徳生活」、「生の新しい直観」、「現実の新しい感じ方、見方」であり、つまりは読者が文化に対する新しい姿勢を獲得することなのだ。
   ブレヒトやグラムシが探偵小説や推理小説に関心をもったのもこうした方法からであって決してそのスタイルや内容の新奇さからではなかった。つまり彼らはここに、新しい文化の可能性??探偵小説が読者の姿勢を〃純文学〃の読者のそれとはちがった方向へ変革する文化装置として機能し、新しい読者を組織しうる文化的可能性??をみていたのであろ。むろん現状では、探偵小説はますます〃純文学〃の読者姿勢で読まれるようになっているが、探偵小説本来、それまでの〃純文学〃にはない〃新しい〃形式や内容を求める要求からよりもむしろエルンスト・ブロッホも「探偵小説の哲学的考祭」(『異化』、現代思潮社)のなかで言っているに、社会の諸矛盾が深化し、疎外と物象化が日常生活を脅かす「普遍的な偽装時代」に固有な文化的欲求から生じたのであり、したがって探偵小説の本来の読者は、心理小説におけるような作中人物や語り手への感情移人に依存するのではなくて、出来事のディテールとプロセスを自分の眼で見、確かめ、綜合する姿勢の持主なのである。

   カフカの作品が求めているのも、まさにこのような〃探偵〃的読者姿勢である。実際、カフカの作品の核心にはつねに〃謎〃があり、しかもこの〃謎〃は、神話や怪奇といった形而上学的な謎ではたくて、むしろ虚偽や犯罪に関係のあるきわめて現世的な謎である。ところがこれまで、こうした〃謎〃はほとんど〃探偵〃的な眼の対象になったことはなく、〃不条理〃などという無責任な概念を導入して謎を謎のまま放置する〃探偵〃放棄的な姿勢であつかわれてきた。なぜ??たとえば??『籍判』を犯罪小説や推理小説として読まないのであろうか? 通常『審判』は??解説書のみたらず本格的なカフカ解釈においても??概ね次のような方向で読まれており、この物語は〃謎〃にはじまり、〃謎〃におわることになっている。

   平凡な銀行貝のヨーゼフ・Kは何も悪いことをしないのに、ある朝突然逮捕される。どういう理由に基づく逮捕なのか、彼には皆目見当もつかない。もちろん彼はその理由をつきとめようとして懸命に努力するが、予審判事の前に出ても、弁護士と面談しても、教戒師と問答をかわしても、確かなことは何ひとつわからぬまま、とどのつまりは二人のフロツクコートを着た紳士に、彼は「犬のように」殺されてしまう。(『新潮世界文学辞典』、新潮社)
   むろんそこには解釈の振幅があって、〃不条理思想〃を大義名分としてその〃わからなさ〃を珍重するたぐいのものから、主人公の逮捕からその殺害に至るこの物語の背後に巨大な国家機構のようなものを想定するものまである。とりわけ、〃社会派〃的なカフカ・アプローチは主人公ヨーゼフ・Kをそうした組織の犠牲者にしたてあげ、カフカが現代社会の人間疎外の状況を先見の明をもって描いていることを強調する。だが、はたしてカフカは、こうした〃社会的メロドラマ〃の作家につきるのだろうか?
   テキストを注意深く読めばわかるように、この物語の多くの部分は??とりようによっては??主人公の夢ないしは妄想の記述と解せなくもたい。主人公自身その存在を疑っていないらしい〃不可解な組織〃にしても、テキストではその存在が作者によって断定されているわけではなく、主人公の妄想である可能作は十分ありえる。伝統的な心理小説のように何でもごていねいに解説してくれるのではないこの物語は、単にその表面的な??語られている??出来事がだけですべてを判断することはできないのであって、むしろ??シュールレアリスムの映画の本来の有効性がそこにあったように??一見〃非現実〃的にみえる出来事を通じて現実をより鮮明にみることが必要なのだ。
   試みに、この物語のすべての部分にわたって、主人公の夢ないしは妄想の可能性がいささかでもある部分をカッコに入れてみると、最後には、主人公が銀行に務めているという理実、しかもこの主人公とその上役(支店長代理)とのあいだには権力闘争的な険悪さがあるという現実だけが残る。そこで??通常の読み方とは趣向を変えて??こうした現実を唯一の地盤にして物語全体を再構戒してみると、主人公の身に起こる一件に彼の上役が大いにからんでいると考えざるをえない。少なくとも、この物語を現実にひきもどすにはそう考えざるをえない。もしこの上役が、ヨーゼフ・Kを失脚させるために一連の陰謀を仕組んだのだとしたらどうであろうか?
   Kの〃逮捕〃を支店長代理による〃ヨーゼフ・K追い落し劇〃の第一幕と考え、kの〃処刑〃をこの上役一味による暗殺と考えることは、いささか推理小説の読みすぎといものであろうか?
   むろん、物語のたかには偶然的な符合、陰謀の結果としての??神経がまいっている??Kの悪夢や妄想がいりまじってはいる。が、カモフラージュされた符合もあるのだ。たとえば第二章で、銀行にいるKに電話がかかってきて、今度の日曜日に審理を開くので出廷するようにと伝えられる。ところが、この電話の直後、支店長代理はKにむかって、この同じ日曜日にヨット・パーティをやるんだが来ないかと言う。「いままで一度もしっくりいったことのない」相手がこんなことを言い出す裏には何かあるはずだし、日曜日という符合は単なる偶然とは思えない。完全犯罪というものは、しばしば必然(犯罪)を偶然(事故)にみせかけることがあるが、カフカの作品でもしばしば必然が偶然であるかのようにさりげなく物語られるので注意を要するのだ。

   技法的に言ってカフカの物語の語り手は、すでにフリードリッヒ・バイスナーが『物語作者フランツ・カフカ』(粉川哲夫訳、せりか書房)で指摘したように、近代の心理小説のそれとは全く異っている。その身ぶりはいわば、詐欺師、ペテン師、手品師、道化、コメディアン、トリックスターといった全くゆだんのならぬものであって、この語り手は、読者を親切に物語のたかに案内してくれるどころか、〃夢と現実〃、〃意識と無意識〃、〃正常と異常〃といった近代的二分法の境界を責任もためらいもなく踏みこえ、読者を対立のさかまく矛盾の渦中につき落しさえする。この語り手はつねに、主人公の人格の仮面をかぶって姿をあらわすが、読者がこの人格によりかかって、すべてを主人公の眼で見、語り手と甘ったれた別れあいをつづけているつもりになると、まさに語り手の罠にまんまとひっかかってしまう。
   こうしたしたたかな語り手に対して旧文学の感情移入的な姿勢で臨むのでは、この語り手はなにくわぬ顔で??軽率な主人公や妄想過多の主人公になりきったふりをして??誤謬や錯覚、虚言や妄想を語りもするのだから、物語のディテールやプロセスを正しく読みとることなど問題外である。カフカの作品においては、読者は主人公や語り手よりもうわ手に立たなければならないのであって、読者こそが本当の〃主人公〃になるべきなのである。が、こうした読者の主体的復権というまさに二〇世紀文学のテロス(根本動向)を体現しているはずのカフカの作品"が、逆に世に言う〃魔術的リアリズム〃なるものをもって読者を呪縛し、その主体性を拘束しているのは皮肉た逆説というほかはない。

   カフカの作品では一切ゆだんは禁物だ。一見平凡な物語のなかにも必ず〃罠〃がしかけられているのであって、たとえば一般にカフカの作品中、最も〃わかりやすい〃物語の一つに数えられている『アメリカ』にしても、これは決して、〃純真な主人公が異郷の大都会の荒波に翻弄されながら成長してゆく様をディケンズの筆致で描いた〃などという単純なものではないのてある。カフカ自身がなぜこの作品を『失踪者』と名づけたのか??誰が失踪するのか??ということからしてすでに〃謎〃ではないか? また、カフカがそれを意識して書いたと言っているディケンズの『デイヴィッド・コッパーフィールド』にしても、教養小説というよりもむしろピカレスクではないか?
   もし『アメリカ』が一見平明で単純な作品にみえるとしたら、それは〃語り手〃が主人公の単純さや未熟さをいわばその役になりきって物語っているため、主人公が迂闘に見過ごしてしまった事柄はそのまま物語られずに終ってしまい、また、軽率な思いこみもその単純さのまま物語られるからである。
   パーヴェル・アイスナーは、『カフカとプラハ』(審美社)のなかで、「カフカの作中人物たちは、ほぼ完全に愛を欠落させている。『アメリカ』の若いカール・ロスマンは、両親の女中との間に子供をもうける。だが、彼はめったに彼女のことを考えない。カール・ロスマンが彼女を完企に忘れてしまうのは不自然なことであるし、ほとんど奇怪ですらある。彼は、自分の子供でもある女中の子供のことを一瞬たりとも考えない」と、素朴な疑問を提起したのち、この原因をカフカの特殊な環境世界に関係づけている。しかし、そんなことをするまえに、ロスマンが女中や子供のことを思い出さないのはなぜなのかを物語のディテールに即して考えてみてはどうであろうか?
   物語の冒頭で、「十六歳のカール・ロスマンが、貧しい両親からアメリカヘやられたのは、女中が彼を誘惑して彼の子を生んだからだった」ともっともらしく報告している〃語り手〃の言葉は、はたして〃事実〃であろうか? 〃語り手〃がカール少年になりきっているとすればこの報告をそのまま真にうけることはできない。そもそも、カールが女中に誘惑されて子供をつくった云々という話が、物語の出来事のたかで最初に出てくるのはどこからであったか?それは、カール自身からではなくて、彼の伯父と自称するエドワード・ヤーコブ上院議員からである。
   ヤーコブとの出会いは、船内事務室での一件に端を発する。カールの乗った船がニューヨーク港につき、まだ船をおりないうちにひょんなことからカールは、ドイツ人の火夫(ボイラーマン)と知りあいになる。この火夫は、ルーマニア人の上級船員から不当なあつかいを受けている。彼に深く同情したカールは、彼が船内事務室に直訴しに行くのに同行する。が、それは当然のごとく問題にされず、火夫は激昂し、事務室は混乱状態におちいった。事務机のうえには、電気の制御盤があり、これは、「手でそれを押しさえすれば、船内のどの通路も敵意をいだいた人々でみちみちているこの船全体を暴動化することができる」ことをカールたちは知っていた。
   するとこのとき、カールの過激なそぶりを察知したかのように、先程から事態をかたわらで見まもっていたエドワード・ヤーコブがカールに話しかけてくる。ところがこの男、カールの名をきくと、とても信じられないといった笑顔をつくって、「それなら、わしはおまえの伯父ヤーコブで、おまえはわしの甥だ」、と言い出したのである。これは、メロドラマによくある〃劇的な邂逅〃なのであろうか? もしこれが、カールたちを懐柔するたこめにとったヤーコブの権力者らしい手口だとしたらどうであろうか? この男がカールの伯父ではないと推理できる証拠はいくつかある。
   第一に、力?ルの実際の伯父は、たしかにヤーコブと言うが、それは洗礼名がそうなのであって、ファミリー・ネ?ムはベンデルマイヤーである。第二に、この男は、カールがアメリカに来た理由と称して、ここではカールしか知らないはずの、例の女中との一件を公開におよび、自分とカールとの親戚関係を信用させようとするのだが、この話は、たとえカールの過去をほとんど知らなくても、家出人をみて〃君は親とけんかをしたね〃と言うたぐいの、世情に通じた者なら簡単に思いつくフィクションの疑いがある。
   歴史的事実をもち出すまでもたく、カールのような良家の子弟が自宅の女中と性的関係をもっということはよくある話で、カールもその例外でなく、伯父から言われてはじめて子供のころのそうした出来事を思い出す。しかし、カールにとってそれは、おぼろげた記憶のなかにうかぶたあいもない山来事にすぎなかった。だからカールは、〃伯父〃なる男の話と自分の記憶とを頭のなかで照合して、「〔女中との一件は〕それだけのことであったのに、伯父はそれを大げさな話にしてしまった」と考えるのである。
   にもかかわらず、疑うことを知らないカールは、エドワード・ヤーコブヤーコブ・ベンデルマイヤーとの名前のちがいを一度は気にしながらも、これも「きっと名前を変えたんだろう」と勝手につじつまをあわせて、エドワード・ヤーコブ上院議員の策略にまんまとひっかかってしまう??とみた方が、この物語のディテールとプロセスは化きてくる。
   ワルター・ベンヤミンは、ゲルショム・ショーレム宛の手紙(『書簡 II  1929?1940』晶文社)のなかで、この物語を「一大道化芝居」と呼んだことがあるが、まさにこの物語は、たえずだまされつづける主人公の無知さかげんと、にもかかわらずその〃苦難の道〃に決して屈しない主人公の楽天性とが生み出すスラップスティック・コメディであって、その笑いは??ブロートはチャップリンを想起している(『カフカ全集』の「あとがさ」参照)が、むしろバスター・キートンの映画やナサニエル・ウェストの『クール・ミリオン』(角川文庫)などのスラップスティック・コメディに共通する地盤から発しているのである。
   ブロートによると、カフカ自身の計画では、現在最終章に置かれている「オクラホマの野外劇場」が、もっと発展された形でこの物語の「和解的」な最終章になるはずだったという。それは十分考えられることであり、この物語の性格にかなっている。というのも、この「オクラホマの野外劇場」では、主人公の姿勢に飛躍への萌芽がみられるからである。すなわち、彼はこの章ではじめて〃うその効用〃を体験するのである。たとえそれが、偶然がしからしめた他愛のない出来事であったにせよ、彼は自分がうそをついているというはっきりした意識をもって自己を偽る。ここには、他者にあざむかれ、世間に翻弄されっづけるかわりに、他者意識をもち、世間に対して批判的・演技的な姿勢で臨もうとする萌芽がみられる。彼がうそをつくことによって得た新しい職場が劇場であるというのも、決して単なる偶然の符号ではないのである。

   ある意味で、カフカ解釈の歴史は、カフカのトリックスター的な〃語り手〃による翻弄の歴史だと言えなくもない。もっとも、『アメリカ』の場合はいまだ、この〃語り手〃のしたたかな姿勢をとらえそこなっても、作品解釈の決定的な致命傷にはならないかもしれない。なぜなら、『アメリカ』の場合は、ちゃんと作品の冒頭に、語り手の特貫、を暗示する鍵が与えられているからである。

十六歳のカール・ロスマンは、女中が彼を誘惑して子供を生んだので、途方にくれた両親の言いつけでアメリカヘやってきたのだが、その船がすでに船脚をゆるめてニューヨークの港に入ったとき、もう大分まえからみていた自由の女神像に射している日射しが、急に強くなったようにみえた。剣をもった女神の腕は、たったいまふりあげられたかのようにそびえ立ち、女神像のまわりをゆるやかな微風がまっていた。
   ここで、自由の女神がたいまつでなくて剣をふりあげていると語られているのに注意されたい。これは、カフカによる事実誤認によるものではなく、この物語の語り手の軽率さ??あるいは軽率を装っているしたたかさ??をさりげなく示唆する鍵と解きるべきである。これに対して、最晩年の作品『城』になると、この〃語り手〃に対して読者がどのような姿勢をとるかによって、この作品の解釈は正反対のものになってくる。次に引用するのは、先の文学辞典による『城』の梗概であるが、それは、今日依然として支配的な『城』解釈を要約している。

測量技師Kはある伯爵家の城から仕事を依来されて、その麓の村に着く。ところが、彼は奇怪にも、村から城に連絡することができない。およそ思量にあまるほどの忍耐強さをもって、彼はなんとか城にはいる道を見出そうと努力する。しかし、膨大な神秘的な官僚機構に包まれた城は、外来者Kに対して永遠にその門を開かない。

   これではまるでKが村で歓迎されないことが何か不当なことのような口ぶりだが、村に闖入したKなる人物を、「城から仕事を依械されて」やってきた「測量技師」だと断定する根拠は一体どこにあるのか? この作品をゆだんのない眼をもって読んでみればわかるように、テキスト自身には、Kが「城から仕事を依来されて」やってきた「測量技師」だなどというこはどこにも書かれていないのである。たしかにKは、ころがりこんだ居酒屋で城の役人の不審尋問を受けたとき、そのようたことを言いはする。しかし、この男がうそをつかない保証はどこにもないではないか。プロセスを追ってみよう。
居酒屋で二仮の宿にありついたと思う間もなく役人に寝込みをおそわれたKが、あわてて口走った言葉は次のようなものだった。

どこの村にあたしゃ迷いこんじまったのかね?
ここに城があろんですかい?

   この言いぐさはあらかに、Kがこの村のことを全く承知していたいということを自白したようなものだから、役人はKを「浮浪者」とみなし、村から即刻退去せよと言う。するとKは急にに態度を変え、ドスをきかせた声で問題の〃せりふ〃を語る。

「茶番はたくさんだよ」、とKは仰し殺した声で一、Hい、ころりと枇にたってふとんをかけた。「お若いの、あなたは少しやりすぎじゃあないですかい。ま、あたたさんがしてくださったことはあしたもう一皮訂をつけましょう。ここのこ亭主とだんた方が証人だ、まあ、証人なんてものがいるとすればね。しかし、それはそうと、言わしてもらいますが、わたしゃあ、伯爵のお招きでやってきた測量的なんですからね。」

   すでにアドルノは、「『城』のはじめで、Kが〃どこの村にあたしゃあ迷いこんじまったのかね? ここに城があるんですかい?〃とたずねているのを聞きながしてはならない。つまり、Kが招聘されるはずはありえないのである」(「カフカ覚え書」、『プリズム』、法政大学出版局)と言っているが、そのあとのKの啖呵(たんか)が権威主義的な小役人や村人を恫喝しようとするしたたかなはったりであることは、〃俗世〃にしっかりと眼を向けている読者ならば容易に理解できよう。おそらく、村から村へわたり歩いてきたこの男には、こんなやりかたで警察や官僚の権威主義をかわすことは造作もないことなのだろう。
   しかし??と、『城」を〃不条理文学〃として解釈したい読者は言うかもしれたい??Kの〃供述〃は、役人が電話で城に確認し、最終的に確かめられたのではないか、と。たしかに結果からみればその通りである。が、ここでもディテールとプロセスを看過してはならたいのだ。役人が、Kの〃供述〃を確認するために城に電話をし、Kが供述通りの「測量技師」だと認められるまでには若干の経緯があった。最初の電話の答えでは、そのような人物を城は招聘していないということだった。役人は、「ほら、言ったとおりじゃないか! 測量技師だなんてうそっぱちだ。きたない、うそつきの浮浪者なんだ、いや、もっと悪いやつなんだろう」と叫ぶ。「電話で問いあわせてみよう」と役人が言ったときもKはギクリとするのだが、この瞬間Kは、役人も農夫たちも居酒屋の亭主も、みんながKめがけておしよせてくるのではないかと思う。何もうしろめたいことがないとしたら、こんな恐怖感におそわれることもあるまい。ところが、追いかけかかってきた電話で、役人の前言が訂正される。しかし、次のくだりに注意されたい。この部分は、『城』解釈の誤解のかくも厖大な歴史さえなければ、何の説明も必要ないくらい明瞭にKの素性を物語っている。

「それじゃあ、まちがいだったんですか? 全くいやになりますなあ。局長ご自身が電話されたんですか? おかしい、おかしいですなあ。測量技師さんにどう説明申し上げたらいいんです?」
   Kは耳をすましてきいていた。とすると城は彼を測量技師に任命したのだ。これは一面彼にとってはまずいことだった。というのは、城では彼について必要なことをすべて知っており、力関係をはかりにかけたうえでにこやかに闘いをむかえいれたことが明らかだからである。が、このことは他面では好都合であった。というのは、Kの思うに、彼は過小評価されており、あらかじめ覚悟していた以上の自由が与えられるということがはっきりしたからである。また、確実に精神的な優位に立って彼を土地測量技師として認めたからといって、それで彼をいつまでも威嚇しつづけることができると思うのは、とんだ思いちがいである。彼は少しギクリとしはしたが、所詮それだけのことだった。(強調は引用者)

   おそらくKは、役所が簡単に彼を土地測量技師として承認してしまうとは予想だにしなかった。彼が相当な困雌を覚悟でこの村に闖入したことは、物語の冒頭にある次の部分がきわめて効果的に示唆されている。

Kはしばらく、国道から村に村に通ずる木橋のうえにたたずみ、ぼんやりした虚空を見上げていた。
それから、宿をさがしに歩いていった。(強調は引用者)

   この部分には、Kのたくらみと決意と躊躇とが最初の行動へ綜合されてゆくプロセスが舞台の役者の身ぶりをおもわせる鮮明さで描かれているが、それから (dann) という一語には、この村に居すわろうとするKの固い決意が終に実践に向かって一歩ふみ出す瞬間が凝集されている。おそらく彼は、最初の〃侵入〃に失敗して放逐されたとしても、何度でも〃侵入〃を試みるであろう。むしろ彼は、こうした侵入の闘いそのものに生きがいを感じたかったのかもしれない。カフカが明らかにこの作品との関連で一九二〇年ころに書いた断片(『田舎婚礼準備』所収)にはKのこうした姿勢がより明瞭に物語られている。

よその家庭と近づきになりたいのなら、共通の知人をさがして、その好意にすがることだ。知人が話もみつからなければ、しんぼうして適当な機会を待つことだ。〔中略〕。
これはみなあたりまえのことだが、Kだけにはこれが理解できない。彼は最近近、われわれの地主の家庭に入りこもうとたくらんだ。が、それを社交的な手順をふまずに、単刀直入にやろうというのである。

   ところが、『城』ではKのこうしたたくらみが??少なくとも形のうえでは??簡単に受けいれられてしまうのである。これはまさに、「一面で、彼にとってはまずいことだった」。これでは、彼の当初の望みだった永久抵抗者的な姿勢がすっかり骨抜きにされてしまう恐れがある。つまり、この村の権力機構は、一見その前近代的なよそおいにもかかわらず、Kがこの権力に対して投げつけた挑戦を寛容的に受けいれ、そうすることによって彼の挑戦を空無化してしまう「抑圧的寛容」の機能を十分そなえているのである。したがって、こうした抑圧機構に対するKの闘いは、一種の革命的行為に近い様相をもおびる。
   が、これは、フリードリッヒ・エムリッヒが「土地測量は・・・地所や所有の従来の状況を再検査することを意味する。それは、一つの革命的行為ということになろう。そして実際に村も、土地測量をそのように解している。〔・・・〕。それゆえ土地測量技師の招聘は、村における既存の社会秩序に不満の反対派によってまさに、要求されるのである」(『カフカ論』、冬樹祉)、と言っているのと同じ意味ではない。エムリッヒは、カフカがこの作品で描いている権力の「抑圧的寛容」の構造を全くつかみそこなっているため、せっかくのこの「革命的行為」のなかに何ら積極的なものを見い出せずに終っている。
   たとえばエムリッヒは、Kが役所に対してさんざん反抗的態皮をとり、あまつさえ権力者クラムの愛人を奪ったりしたにもかかわらず、このクラムから「・・・あなたがこれまで行なった測量の仕事は、小生の多とするところであります。助手たちの仕事も賞賛すべきものであり、あなたは彼らをよく仕事にとどめておくことを心得ておられる。・・・小生はつねに注意しているものです」という手紙が届いたとき、Kがこれを事実無根の「誤解」だとみなしたことを、Kの無知に帰している。「Kは、クラムに対する彼の闘いこそが、しかもクラムや城にせまろうとする彼の努力もまた、すでに彼の土地測量技師としての活動に属していることを少しも気づかない」、とエムリッヒは言う。
   しかし、問題はそんな〃哲学的〃なところにはないのであって、事実は、クラムの(名義で出された)この手紙ははっきりとKに対する役所の姿勢をあらわしており、その機能はあきらかにKを「寛容的に抑圧」しようとする方向ではたらいているということなのだ。この機構はきわめて構造化しており、そのためその機構をになっている役人自身、その機能に全く気づいていないことが多い。こうした官僚機構においては、当人の個人的な意図はどうあれ、この機構に属し、この機構のためにはたらくということが、自動的にその人間を立派な抑圧者に仕立てあげるのである。エムリッヒの論述は、こうした現実への洞察を欠いているため、一〇〇ページも費やして展開される『城』解釈も、残念ながら、不毛な観念の遊戯に終っている。
   むろん、Kのいささかヴォランタリスティックな闘争は、挫折につぐ挫折で、むしろこの物語はヴォランタリスティックな、永久抵抗者的なKの姿勢をパロディ化している一面もあるが、敗北の経験を通じてKが権力とその組織のしたたかな構造を会得してゆくプロセスのなかには、K自身の反省と新たな認識が記述されてもいるのである。物語の中頃ですでに、Kははっきりと次のような認識に到達している。

・・・Kは、何かきわめて活気をおぼえる身近なことのために、自分白身のために闘っていた。少なくともごくはじめのころは、彼は攻撃者だったのだから、たおさらそうだった。それに、彼だけが向分のために闘っているのではなくて、あきらかに他の勢力もそうしており、その勢力とは面識はなかったが、当局の措置からして察しがつくのだった。ところがいまや、当局は本質的でない事柄??これまで、これ以上のことが問題となったことはなかった??では最初からKを大目にみてくれ、そうすることによって彼のささやかで容易な可能性とこの可能性にともなう満足感をも奪いとり、この可能性の結果として今後のより大きな闘いのための十分な基礎となりうる自信をも奪いとったのである。そのかわり当局は、むろん村のなかだけであったが、Kが行きたいところはどこにでもゆかせ、そうすることによって彼を甘やかせて軟弱にし、あらゆる闘いをこの土地から排除してしまい、そのかわり彼の生活を職務外の、お先まっくらで憂うつな、異様なものにしたのである。このため、彼がいつも気をつけていないと、おそらく、当局がどんなに親切にしてくれても、また、彼が極度にやさしい職務上の義務をすべて完全にはたしても、彼に示される見せかけの好意にあざむかれて、いつの日か職務外の生活を無思慮に営むことになり、そのあげくここで挫折してしまい、当局は、あたかもその意志に逆らうかのようになおもおだやかに、友好的にではあるが、彼には未知の何らか公的な秩序を名目にして彼を片づけざるをえなくなる、ということにもなりかねないが、ここでは職務外の生活とは一体どのようなものなのか? Kはいままでかつて、この十地ほど職務と生活とがからみあっていて、とさには、職務と生活とが場所を入れかわっているのではないかと思われるようなところを見たことがなかった。

   しかしながら、従来、こうしたディテールはほとんど無視され、ここにひそむKの自己変革的な姿勢とその有効性は全く看過されてきた。ギュンター・アンダースに言わせれば、「カフカの〃主人公〃たちは、ドン・キホーテのように問われざる問いに答えるのではなく、逆に問うてばかりいて、決して答えが得られない」(『カフカ』、弥生書房)ということになるが、これは、『審判』のKにはあてはまっても、『城』のKにはあてはまらないのだ。そしてこのことが、『審判』の物語の徹底的にパロディ的なトーンから『城』を??むろんKのヴォランタリスティックな姿勢がパロディ化されている側面はあるが??区別しているのである。
   エドゥアルト・ゴールドシュトゥッカーは、一九六三年にはチェコのリプリスで開かれたカフカ会議での報告のなかで、カフカはその晩年に至って長年たずさえていた宿命論を超克したと述べ、『城』という作品の独自性を次のように語っている。

「測量技師Kは、『審判』のヨーゼフ・Kのようにやむをえずではなくて自発的に、白己の運命を変革する闘いに入ってゆくのであり、たとえこの闘いが勝利に終わることはないとしても、測量技師は、この苦闘が無益ではなかったという成果を闘いとるのである。カフカかこの作品のなかで、第一次大戦後の一時期に彼の目に映じたままの革命家を彼なりに問題にしようとしていることは確かだとわたしは思う。」(『プラハの眼からみたフランツ・カフカ』、チェコスロバキア科学アカデミー出版、一九六五年)

   ここで第一次世界大戦後の一時期にヨーロッパの革命家が陥った困難な状況を詳述することはできないが、ドイツ革命、ハンガリー革命の敗北、イタリアにおける工場反乱と、ストライキの失敗を契機に、革命のエネルギーは急速に衰えてゆく。もはや自然発生的た革命勢力に依拠することのできないこうした状況下で、不可避的にヴォランタリスティックな姿勢を強調せざるをえたいディレンマは、多かれ少なかれカール・コルシュやジェルジ・ルカーチ、ローザ・ルクセンブルク、アントニオ・グラムシ等の革命思想のなかにみられるものである。
   測量技的Kの闘いはまさに、これらの革命家の困難な孤独の闘いに共通する一面があり、むしろ、そうした側面からみられてこそ『城』は生産的な意味をもってくるだろう。が、そのためにはこの作品は、そのテキストに対する厳密なレクチュールはむろんのことながら、一九一〇?二〇年代のトータルな文化状況のなかで読まれたければならないのであり、ましてやこれをカフカの私生活的レベルに閉塞してはならないのである。


初出:『未来』、1976年6?7月号;『現代詩手帳』、1975年7月号