遊歩都市
アデレイド日記

 三月五日

 メルボルンから飛行機にのり、数時間後にはアデレイド市内のホテルに着く。アデレイ ドは、今日から芸術祭がはじまるのであらかじめホテルを確保しておこうと思い、メルボ ルンの南オーストラリア政府観光局で予約を済ませてきたのだが、着いたホテルにはわた ししか泊り客がいない感じだ。夕方には一杯になるのだろうか? 予約したとき、係の女 性は、「アデレイドのホテルはみなクリーンでモダンですよ」と言ったので、機能主義化 されたアメリカ式のホテルを想像したが、ここは、オーストラリアの最も古典的なホテル で、一階がパブになっている。オーストラリアでは、”ホテル”と言うと、酒を飲ませる パブのことを指し、いまではあまり人を泊めないところが多いが、ここでは、昔通り、飲 み屋と宿泊所とがいっしょになっている。これは、好奇心の旺盛なわたしにとっては決し て悪いことではなかった。しかし、この種の”前近代的”なホテルは当節、敬遠されるの か、わたしの部屋には人が最近住んだ形跡がなく、蛇口をひねって出てくる水は、いくら 流しておいても、赤さびのたまり水なのである。
 荷物を整理して外に出る。わたしの部屋の廊下を行きっめたところに裏口があるが、そ の戸はあけっぱなしで、この街の治安のよさを物語っている。裏道をノースニアラスと反 対にあてもなく進んだら、ヒンドレイ・ストリートというにぎやかな通りに山た。ここか ら先がアデレイドのメイン・ストリートらしい。ニューヨークのヴィレッジのエイトウ ス・ストリートにちょっと似たたたずまいがあるが、どの店にも街路に直角に箱型の看板 がっき出ており、それがまだま新しい感じがするので、東京の銀座や新宿に一脈通じた無 歴史性を感じさせる。一歩まちがえば東京のキッチ的な街並と同じになってしまうといっ た感じさえある。従って、ショウインドの飾りつけはメルボルンなどよりはるかに消費を そそるようになされており、物価も少し安いようだ。
 サード・ワールド・ブックショップという本屋に入る。中二階の棚にびっしり社会科学 の本がある。値段の高いのを別にすれば、英米の本もよくそろっている。深夜まで開店し ているというので出なおすことにする。
 ひどく暑い。三十二、三度はあるだろう。空港でタラップを下りたとき、ちょっと夏の 下田あたりの海岸遁りで経験するような熱波におそわれた。
 芸術祭の会場になっているザ・スペィスという劇場にロジャー・パルバースさんをたず ねる。彼はわたしをみるなり、「粉川さんが来るとどこも暑くなるみたいね」と言って笑 った。メルボルンのプレイボックス劇場からの出場作品として彼が演出するサム・シェヅ ハードの『飢えている階級の呪い』と『埋められた子供』の下稽古のために猛烈いそがし いのだが、彼はわたしのために、主要な出しものの切符をアレンジしてくれた。
 まだ飾りつけに忙しい会場を歩きまわり、エルダー・パークをまわってノースニアラス の通りに出る。欽遭駅のまえのパブでまたビールを飲む。ここでは、気温があがるほど乾 燥する。
 ヒンドレイ・ストリートのイタリア料理店でゆっくり食事をし、七時すぎにふたたびフ ュスティヴァル会場へゆく。すごい人。キング・ウィリアム・ストリートでは、思いおも いの仮装をした人々に出会う。
 フェスティヴァル・シアターの壁面にサイレント映画がうつっている。一九二五年の 『オペラの幻想』だという。すでに通路から公園までがいっぱいで、何がどうなっている のかわからない。色々なオブジェやパフォーマンス風の出しものが行なわれているが、エ ルダー.パークの中央にあるロトゥンダ(円形の建物)のなかに展示されている裸体の妊婦 の彫像があやしげな光をはなっている。これは、マーク・トンプソンの『死のパビリオン』 という作品だ。
 九時半から公園ぞいのトレンズ川にブラス・パンドをのせたゴンドラが浮ぶというので 劇場のテラスで少し待ってみたが、あまりの混雑にうんざりし、ホテルにもどる。キン グ.ウィリアム.ストリートからランドル・モールにまがったら、会場の方から花火の音 がきこえ、人々が川のみえる路地に走っていった。
 少し眠ったが、のどがカラカラになり起き出す。水道の水はとても飲めないので、外に ミネラル.ウォーターを買いにゆく。店はまだいく軒もあいており、パブで十代の少年・ 少女たち(黒人やアラブ人が多い)が、レコードのロックにあわせて踊っている。


三月六日

ヒンドレイ.ストリートを東方にまっすぐゆき、キング・ウィリアム・ストリートをこ えると通りの名がランドル・モールという名に変わり、文字通り自動車の通らない遊歩道 になる。赤石は、東京の西武新宿駅の近くの通りのように、カラーの人工レンガをしきつ めたもの。キング・ウィリアム・ストリートを横切ろうとしたら、フェミニストの大きな デモにぶつかった。デモは、ランドル・モールに入り、気勢をあげている。オーストラリ アでもフェミニスト運動の浸透カは強烈だ。
 フェミニストのデモから何人かの女性たちがはなれ、セルフサービスのレストランに入 ったのでわたしもそこで朝食をとることにする。案の定、そこは自然食メニューを強調し た店で、スピニチのパイやフルーツ・サラダがよく売れている。
 フェスティヴァル・センターのメディアニフウンジ(ジャーナリストのたまり場)へ行き、 ビールを飲みながら資料を読む。メルボルンから来たフリーのライターだと称する男は、 「今年のフェスティヴァルは俗っぽいな」と言い、エルダー・パiクの例の妊婦の裸体像 の”俗悪さ”をこきおろした。『ジ・アドヴァタイザー』にも、これは「痛めゑ云術」で、子 供の教育にもよろしくないといった記鄭が載っていた。わたしはそうは思わなかったが、 まだこのフェスティヴァルの一端しかつかんでいないのでこの男と議論するのはやめる。
 市の中心街の南側をくまなく歩いてみる。たえず焚物の外装に気をくばっているのか、 どの建物もペンキの色がま新しい。それと、フエスティヴァルだというのに、唇間は、い くつかの目抜き通りを歩いている旅行客風の人々をのぞき、あまり人かげが見られない。
ヴィクトリア・スクウエアーという公園にも全く人がいない。そこのベンチで、今日買っ た『ジ・アドヴァタィザー』をすみずみまで読む。
 サーカス・オズのシヨゥをみに、ライミル・パークヘ行く。開演の八時まで間があるの で途中で食事をしてゆこうと思ったが、ヒンドレイ、ランドル・モール、ランドル.スト リートに建ちならぷ大半のレストランが閉っており、あてがはずれた。一軒だけ開いてい たイタリアン・カフェで軽く腹ごしらえ。公園に入ったら、あちこちの芝生のうえでバー ベキューをかこんでいる家族の姿が目に入り、メルボルンでも休日には公園でこうしたパ ーティに出会ったなと思ったとたん、今日が土曜であることに気づいた。土曜には、レス トランは、夜おそくなって店を開くところが多いのである。
 人の気配をたよりにライミル・パークの奥へ進むと、サーカス.オズの旗がついたテン トがあり、すでに五〇人ほどの列が出来ている。子供づれが多く、有色人種は全然いない。
クラウンのかっこうをした女性が列をととのえながら、ポスターやペンダントを売って歩 く。八時を大分まわってテントのなかに入ってざっと見まわしたら、八○○人ぐらい来て いるようだった。まだまだ客はひきを切らぬらしく、団員は客をたくみに誘導して席をつ くる。「一、二、三で席をつめましょう」というかけ声がかかったら、わたしの両はじに いたどちらも豊かな肉体の女性が思いっきり、わたしのか細いヒップに彼女らの巨大なヒ ップをぶっつけてきた。
 サーカス。オズというグループは、ザ・ニュー・サーカスという空中サーカスと道化を 得意とする伝統的なサーカスのグループと、現代演劇の出身者たちがつくったソープボッ クス・サーカスとが合体し、一九七八年から現在のスタイルで活動している。舞台形式で は、ソープボックス・サーカスの影響が強く、ロックン・ロールの演奏(全員、複数の楽器 をたくみにあやつる)、アクロバット、ジャグリング、綱わたり、ブランコなどをやりな がら、政治的な風刺をもりこむ。今日は、ごくありきたりの曲芸からはじめて、次第に、 科学の歴史を寸劇風にやり(無重力状態の説明では、足にマグネットをつけてさかさづり になった男が、その姿勢でドラム演奏をしてみせる)、最後は、皿まわしを核プラントに みたて、ロボットと技術者のかっこうをした道化が皿を落すまいと悪戦苦闘するが、皿が 落ちて核が爆発してしまい、文明は崩壊して、人類は原始的な動物になって荒野を荷僅す る。曲芸、ロック演奏、演技、この一人三役を団員たちが次々にこなしてゆくのをみるの はスリルがある。


 三月七目

 今日から一時間時計がおくれる。これによって総エネルギーの一パーセントをセーフで きるという。
 覚悟はしていたが、日曜日なのでレストランはどこも閉っている。大きなホテルのレス トランヘでも行こうと思ってランドル・モールヘ歩いて行ったら、モールの中央にある簡 易なサィドウォiク・カフェに外国からの旅行者とおぼしき人々がたくさん集まり、そこ だけはなやいだ雰囲気になっている。十脚はどの簡単なテーブル・セットのかたわらにキ オスク風の売店があり、客はそこでコーヒーやサラダを買い、席にはこぶ。従業員はみな 中国人だ。昼間は、ここでくだものを売っていた。経営主は八百屋なのかもしれない。紅 茶、フライド・ポテト、アイスクリームであえたフルーツ・サラダで朝食を済ませるこ戸 にする。
 ポスト・サーヴィス祉会では、サーヴィス労働を”購入”するのはひどく高いものにつ く。休日や時間外ではなおさらだ。そこで自動販売機やセルフ・サーヴィスがクローズ・ アップされてくるわけだが、アメリカやオーストラリアでは、安いサービス労働を移民か ら手に入れる。一番安いのが東洋人というわけだ。
 地図でみると、ウユイクフィールド・ストリートを西方に行き、ヴィクトリア・スクウ ェァーをこえたところに”マーケッツ”と記されたブロックがあるので行ってみる。しか し、そこは大きなスーパー・マーケットで、閉店のため、人影は全然みられない。その先 から人が数人歩いてくるので行ってみると、大きなガレージのようなビルで”蚤の市”を やっていた。三〇セントの入場料をとられたが、ならべられているものはみなひどいガラ クタばかりだった。おそらく、この近所に住む人々が不用な雑貨をもちよってならべてい るのだろう。ニューヨークでは教会でよくこの種のバザーをやっていた。
 ヴィクトリア・ストリートから出ているドラムにのる。行先のあては全然ない。どんな 景色が展開するのかが楽しみなのだ。しかし、街並はすぐ終わりになり、あとはところど ころに人家があるだけの殺風景な平地が続いているだけ。三〇分ほどして、急にセント・ キルタのような街並が見えたかと思ったら、ドラムはそこまでで、その映画のセットみた いな街の向う側には大海原がひろがっていた。
 ヴィクトリア・スクウエアーにもどり、そこのベンチで街路についての細かな印象をノ ートする。乞食が一人芝生に寝ているだけで人影はみえない。名前のわからない脚のなが い鳥が飛びかっている。空腹をおぼえ、先程、”蚤の市”のそばで見つけたセル7・サービ スの店でスキャロップのランチ・パックを買ってきた。が、揚げているときはわからなか ったのだが、ずっしりと重いその箱の中味の大半はフライド・ポテトで、入っているわず かのスキャロップも小指の先ほどの大きさしかない。同じ経験をメルボルンでした。個人 経営の店は、こういうやり方で物価の高騰ど闘っているのだろう。セント・キルタで顔見 知りになったギリシャ人の八百屋が、移民にとってオーストラリアがパラダイスだった時 代は一九七六年までだったと言っていた。物価があがってしまってどうにもならないと言 うのである。競争も激しいから品質を落して安く売るしかない。そこで、衣ばかりぶ厚い フライド・スキャロップが出来あがる。安い油で揚げたポテトにうんざりし、鳥たちにふ るまうことにする。ところが、三、四切れのフライド・ポテトを地面に投げたら、あの脚 のながい鳥たちがとめどもなく集まり、わたしのベンチのまわりがヒッチコックの『鳥』 のような有様になってしまった。
 パブリックニフィフラリーのまえのプリンス・ヘンリー・ガーデンズのなかで、児童画 のようなものを展示しているので足をとめる。しかしそれは児童画ではなく、布類を使っ たコラージュ風の作品で、反核、鯨の捕獲反対、女性差別反対といった七〇年代流のスロ ーガンをもりこんだものが多い。ビラをくばっていた女性にたのんで写真をとらせてもら う。
 九時からローヤル・シアターでザ・コミック・ストリップのショウをみる。このグルー プは、イギリスのソホーを本拠に、痛烈な政治的風刺やパロディを得意としている。荒井 注に似たアレクセイ.ザイルが座長で、男四人、女二人で激しい身ぶりのドタバタ劇を演 じる。猛烈なスピードで毒舌をまくしたてるので、わたしにはほとんどその内容がつかめ ない。パンク.ロックの歌詞に共通した体制批判、教会批判、中流階級のライフ・スタイ ルの風刺が主であるらしく、観客は笑いころげている。笑わない観客もいるが、彼や彼女 らは言葉が理解できないのだろうか、それともその内容のあまりの強烈さに不快感をおぽ えているのだろうか? こうしたパフォーマンスにとまどっている観客がいるところが、 オーストラリアの文化状況の一つの指標であり、ニューヨークとは大いにちがうところだ ろう。(翌日の『ジ・アドヴァタイザー』には、このショウの、冷い批評が小さく載ってお り、その見出しは、「堕落し、腐敗し、ひじょうに奇妙なシヨゥ」となっていた。)  雨のなかを歩いて帰る。夕方、サード・ワールド・ブックショップでみっけたヒュー・ ストレットンの『オーストラリア都市について思うこと』を深夜まで読む。これはすばら しい本だ。「……そのような巨大都市が人々やその文化を一層創造的にするだろうと期待 するのはたぷん誤りである。もっと小さな都市の方が、多様な芸術、大抵の製品、ほとん どすべての科学や発明の一層すぐれた産出者でありっづけるだろう」。この本のなかで、 ストレットンは、オーストラリアの郊外生活志向を厳しく批判し、そのムダを指摘してい る。「集合と競合の文化、劇場、ギャラリー、カフェ、大新聞、小雑誌の文化、意外な出 会いと知的な集落の文化、こうした文化は、逝勤者の都市ではごく例外的にしか力をもた ない。むろん、そのような文化は、通勤者も、旅行者や国際間を放浪するコミニュティの 人々をも魅了する。しかし、そのような文化には、帰住の地盤が必要なのだ。夜になると 人影のとだえるような地区.でそのような文化を見出すのはまれである。偉大な都市とは、 人々が住んでいる都市なのである」。


三月八日

 ランドル・モールの路地を俳個し、ジェイムズ・プレイスという路地に入ったら、ザ・ コーヒー・ポットという日本の喫茶店に似た店があったので入ってみる。豆をその場でひ いてのませるコーヒー・ショップなのだが、壁ぎわが、図書館の読書台のようになってい て、各国の新聞や雑誌がならんでいる。インテリアも渋く、雰囲気はよい。しかし、(セ ルフ・サービスなので)注文したコーヒーを受けとるとき、フェルト・リコ系の店員があ いそよく、「クリームですか、ミルクですか?」とたずねるので、「クリームをたのみま す」と答えると、彼女は、あっという間にスプーンで山盛りのクリームをドサッと入れて しまった。それは、コーヒー・エンド・クリームというよりも、,コーヒー・イン・ザ・ク リームで、久しぶりにひきたてのコーヒーを楽しむことはできなかった。
 パブリックニフィフラリーに行き、『月刊イメージフォーラム』に送る原稿を書く。オ ーストラリアではロックン・ロール文化が依然活力をもっていることについて書いたが、 それが、自動車文化と共通の根(ポスト・自動車文化としてのロックン・ロール)をもっ ていることにはふれることができなかった。
 オーストラリア人は、一般に、自動車が自由を実現する解放装置であるとみなしている ようにみえる。しかし、そこにはおのずから制度化された車のネットワークというものが 出来あがっている。オーストラリアの集団性は、車の”自由さ”に規定されており、車で 好きなときに好きな場所に行き、好きなときに去ってゆくなかで作られる”自然発性的” な集団性しかなく、拘束のなかで不可避的・意識的に作るような連帯性には乏しいように もみえる。もっとも、そうした欠如を補うものとして、ラジオのネットワークがあるのか もしれない。
 ゼネラル・ポスト・オフィス(中央郵便局)へ原稿を発送しに行き、係の男に、目方を はかってもらったら、その人の口から、「ロクジュー・ゴゼント・デス」というたどたど しい日本語が返ってきた。この人は、以前、日本を旅行したことがあり、奥さんは、ヒン ドレイ・ストリートの日本料理店で働いているのだと言う。
 八時から、ザ・スペイスでパルバースさんが演出するサム・シュッハードの『飢えてい る階級の呪い』をみる。この作品は、ナンシー・メックラーが演出したものを一九七七年 にロンドンのローヤル.コート.シアターでみたことがあるが、カリフォルニアの過疎地 の何とも味気ない家族生活の現場に居合わせてしまったような耐えがたい気持にさせる舞 台だった。
 フエスティパルのパン7レットのなかでパルバースは、この劇の環境がオーストラリア にもあてはまると言っているが、彼はあきらかにこの作品をオーストラリアの物語として 演出している。原作から想定されるものよりも、舞台のセット、俳優たちの衣装、しぐさ がやや上品で清潔になっているのは、このためか? 飲んだくれで、家屋を二足三文で売 りとばそうとする父親、愛人と共謀して家屋を売りばらい、夫を捨てて街に出ようとして いる母親、何が気に入らないというわけでもなく妹の描いた絵に小便をひっかけてしまう 長男……エゴのぶつかりあいの場でしかない家庭がそこにあり、それをつくっている物質 的な条件が問題なのだが、パルバースの演出は、これに登場人物たちの個人的な心理的条 件を加味させているようにみえる。ロンドンの舞台ではなかったバックグラウンド ミュ ージヅクの音楽が、それを示唆している。しかし、これでは、”飢えている階級の呪い” が気まぐれな心理的狂乱と同じものになってしまわないか? 父親役をやったゲリー フ イルスは、熱演だったけれど、全体として、その家をたたんで土地を離れるしかないこの 世界のどうしようもなさがこの舞台からは伝わってこない気がした。


 三月九日

 咋日から急に冷えはじめ、夜中に毛布をもう一枚かけなければならなかった。毛布はさ いわい洋服ダンスのなかに何枚も用意されていた。暑かったり寒かったりというのがこち らの気候なのだろう。
 パブリック.ライブラリーでシドニーのことを調べる。地図のディヴィジョンの係員は ひじょうに親切で、キングス・クロスやハイ・マーケットのあたりの詳しい街路図をさが してくれたが、グレゴリー社から出ているごく普通の市街地図しかなかった。
 図書館の横のキントア・アヴェニューからパスにのり、ノース・アデレイドに行く。ス トレットンは、「アデレイドは実は二つの都市である」と書いているが、実際、南と北で は雰囲気も住人も全くちがう。あいかわらずここも自動車志向が強く、人通りのない街路 のはだを車が猛烈な勢いで走っているのだが、メルボルンではあまりみなかった自転車の 姿を目にする。オコンネル・ストリートが商店街になっており、ここには住人たちの買物 姿がみられる。チャイルダース・ストリートに少し入ったところに、ドライブイン風の店 がまえをしたコインニフンドリーがあった。全体としてノース・アデレイドという○・六 平方キロメーターほどの地域は、ひじょうに”健全”な遊歩都市としての性格と機能を保 っているようにみえた。
 夜、ザ・スペイスで『埋められた子供』をみる。これは、一九七九年にニューヨークの サークル・レパートリーでロバート・ウッドラクが演出した舞台をみた。その後、カサベ テスの映画『グロリア』をみたら、この芝居でティルデンの役をやったトム・スーナムが マフィアの子分の役ではじめの方に出ているのを発見してなつかしかった、  パルバース演出の舞台は、昨夜の『飢えている階級の呪い』と同様に、アルバン・ベル ク風の音楽をバックに使っているので、これがわたしにはいま一っ納得がゆかず、俳優た ちの熱演が浮きあがってみえてしまう。それと、観客たちが俳優のっまらぬ仕草にどよめ いたり笑ったりするので舞台に集中できない。ここに来た観客たちの見方はあきらかにニ ューヨークの観客とは大分異っており、劇に”参加。するよりも、ちょっと距離をおいて みているように感じられた。どこかにある種のクールさがある。それとも芝居に慣れてい ないのか?


 三月十日

 午後からアデレイド大学へ行く。ヒュー・ストレットン氏にインタヴユーするためなの だが、少し早めに行き、キャンパスをうろつく。書籍売場をみたが、ラディカル・ペイパ ーはあまりおいていなかった。しかし、キャンパスにはのびのびとした自由さと活気さが ある。どんな教材を使っているのかと思い、テキスト・プヅクのコーナーに行こうとして 階段をのぼっていたら、すれちがった教授風の紳士の手にダニエル・フックスの『無情な、 呑酒場』がにぎられているのが目についた。この本は、ニューヨークのユダヤ人の生活を 活写したフックスの短篇を集めたなかなか魅力的な水なのだ。
 はじめて顔を見るストレットン氏は、いかにも英国の労働者階級出身といった風貌の人 で、映画『エレファント・マン』で病院長をやったサー・ジョン・キールガヅドを泥くさ くしたような顔をしている。彼の専門は政治科学で、大学ではマルクスの『経済学批判要 綱』などを使って環境問題を論じたりもしている。『オーストラリアの都市について思う こと』を書いたのは、「…についての本についての本についての本」について書くこと に嫌気がさして、都市という具体的現象をテキストにして彼の政治哲学を論じてみたのだ という。しかし、この本の成功によって彼は、時の労働党政権下の都市政策にコミットし、 ノース・アデレイドの都市改造にコンサルタントとして関わることになったという。たま たまベンヤミンのパサージュ論と批判理論の語が出たとき、ストレットン氏は、何気なく、 「わたしは左翼ですが、マルクス主義者ではないんですよ」と言った。”マルクス主義”と いうことによって彼は、”マルクス・レーニン主義”を指しているらしかった。彼からも らった『富める国と貧しい国における都市計画』(一九七八年)には、次のような一説がある。
「社会主義者の目からすると、近代の資本主義社会で良い住宅というものは信用がおけな いのであるが、それは一つにはそれが不平等に分配されているからであり、また、良い住 宅と家の所有権が広くなればなるほど、この社会の大多数の者がますます現状に甘んずる ようになりがちだからである。そこで、社会主義者は、全体として良い住宅を、個別的に は私有の家と庭をブルジョワ的価値のブルジョワ的産物と同一視するようになり、社会主 義社会はそういうものなしで済ませなければならなくなる。この論法は粗雑である  資 本主義社会は、食料品、ワイン、衣服、教育、その他の良いものをも悪く分配し、それら を競争的なブルジョワ的野望の対象にしているのだが、社会主義者は、社会主義社会はこ のようなものなしで済ませるべきだと断定しているわけではない。社会主義者は、それら をもっとよく分配すべきだと断定しているのである。」  ストレットン氏によると、私有資源と公有資源との関係も考えなおさなければならない のであって、両者は二者択一の関係としてよりも、相補的な関係としてとらえられるべ きだという。彼は、イアン・ハルケヅトの調査に依拠しながら、公立の公園、交通施設、 劇場にめぐまれたところに住んでいる人々は、その私生活においても、私有の庭園、自動 車、退屈でない生活空間にめぐまれており、また、家に本をもっている人ほど図書館を利 用し、よい図書館のある地区に住む人々は、家にたくさん本をもっているという一見逆説 的な事実を考えるべきだと言った。
 その点では、”姓がな社会”も、社会主義”社会も、この相補的な関係を等しく軽視し ているわけで、とりわけ”私有資源”を枯渇するにまかしている。しかし、ストレットン 氏によれば、「家庭、隣り近所、自発的な交友の活動のなかにこそ、最少の金銭交換、最 少の分業、最少の官僚制、生産と消費の最少の分割、所有権を抑圧的、搾取的、競争的に 用いる最少の機会、そして協力的で、寛大な、隠しだてのない、疎外されていない労働と 生活のための最上の機会の大半が存在するのである」(。資本主携、社会主義、環境・、一九七六年)。
 アデレィドは、オーストラリアで最も公共住宅が発達しているところで、低収入層でな くても、庭を共有する公共の建物に住むことをよしとする人がかなり多い。
  ストレットン氏は、アデレイドで目下行なわれている都市の実験については、現物を見 てもらった方が早いと言い、わたしをドライブにさそってくれた。が、大学のビルの地下 にあるガレージに着いたストレットン氏は、車をどこにとめたか忘れてしまったと言って 途方にくれた顔でずらりとならんだ車をながめている。手わけしてさがすこと十五分、彼 のプルーのステイションワゴンは無事見つかった。
 まずはじめにつれていってくれたのは、南アデレイドのカートリン・ストリートの近く の一画で、そこでは、一八六〇年代に貧しい労働者階級のために建てられた一、二階だて の建物を洗いなおし、改築して、経済的に中流以上のプロフェッショナルズたちが住む、 いわゆる”シェントリフィケーション”が進行中で、ニューヨークに以た現象をみること ができた。
 その近くには、公共住宅もあった。それらは、みな新しく建てられたプレハブの二階だ てで、共有の庭をかこんで長屋のように十数個の家がならんでいる。家賃は、三ベットル ームの二階だてで、週六〇ドルぐらいだというから安い。一体にオーストラリアでは、他 の先進資本主義国にくらべてまだ家賃や地価が安いが、オーストラリアのなかでもアデレ イドは安い方らしい。
 ストレットン氏との出会いは、アデレイドの滞在のなかで最も刺激的な経験の一つであ ったにちがいない。これまでわたしは、アメリカ、イギリス、カナダなどの外国で一通の 紹介状ももたずに色々な”著名人”にインタヴユーしてきた。それは、単にラッキーだっ たというだけかもしれないし、また”外人”の特権が効を奏していたのかもしれないが、 わたしの独断的な印象では、これらの社会には、日本よりももう少し風通しのよい、誰で も気がるに話しあうことのできる”広場”があるように思われてならない。
 アデレイド大学でストレットン氏とわかれたあと、小じんまりしたこの大学のキャンパ スを歩いていたら、この大学がもっているコミュニティニフジオ局5UVの標識がみえた。
勢いに乗じてこの局のスタッフにインタヴユーを試みようかとも思ったが、わたしのポー タブルニフジオできいたかぎりでは、延々と音楽ばかり流していることが多く、あまり思 想性は感じられなかった一という思いがわたしの疲れた肉体を制御し、その建物までま だ相当距離のある小路へわたしの足が向かうことをおしとどめた。
 フェスティヴァル・センターの管理事務所により、アンディ・ポール氏からこれまでみ た舞台の写真をもらう。ザ・コミック・ストリップの語が出、言葉がよくわからなかった ど言うと、彼も、半分ぐらいしか理解できなかったと言っていた。「それにしても、こい つはアグリーだな」と言いながら、彼は、リック・メイオールがよだれをダラリと流しな がら目をむいている写真をみせた。
 八時すぎにランドル・ストリート・カーパークにオール・アウト・アンサンブルという 左翼劇団による『晩餐のために身を売って』をみにゆく。そこは地下の自動車駐車場で、 会場に入ると、ロシア・アヴァンギルド風の絵やオブジェ、構成派的な図柄をうつし出し ているテレビがみえる。舞台のような一角があり、イスもならんでいるが、どこに腰を下 ろすのかちょっと見当がつかない。
 この劇団は、パンフレットによると、一九八一年に詩人、作家、ヴィシュアル.アーチ スト、俳優、写真家、彫刻家、画家、サウンド・スカルプター、パフォーマンス.アーチ ストが集まって結成され、ダリオ・フォやブランチャニプーメの作品を上演してきた。そ のスタイルは、「劇場においてパフォーマンス・アートを展開すること」であり、「さまざ まな芸術形式のあいだにきづなをつくり出しながら、われわれの世代を抑圧する罪に対す る暴力的な反応のなかにある失敗と凡庸さに反対する闘いを宣言する一方で、われわれ のオプティミズムを反映するイメージの純粋性を探求する」という。
 パフォーマンスは、マヤコフスキーの扮装をしたクリス・バーネットが舞台に立ち、イ ンターナショナルをうたうところからはじまる。観客はなんとなく舞台のまえのイスに腰 をおろすことになるが、座席の後方にいる人々が”マヤコフスキー”氏にあわせてインタ ーナショナルをうたいはじめるので、座席に混乱がおきる。やがてわれわれは、座席に腰 を下ろすことが無意味であることを悟りはじめる。オシヅプ・ブリーク、デイヴィッド. パルリユーク、セルゲイ・エセーニン、イサドラ・ダンカン、ジム・モリソン、ジャン・コ クトー、アレクサンダー・フニァイェフ、ルナチャルスキーという歴史的な名前を与えら れたバフォーマーたちが、次々に登場し、実在するテキストからの引用的せりふをぶっっ けあい、象徴的なパフォーマンスをくりひろげる。”舞台”は、何の知らせもなく次々に この広い地下駐車場のなかを移動し、ときには別々の場所で同時にパフォーマンスがおこ なわれる。観客が会場で分散させられるにつれて、会場にしつらえられたオブジェ、絵画、 テレビの機能が確認され、スライドと照明がこの空間を異様なものにしてゆく。スプリン グを天井のバイブにくくりっけ、その一端に自分の両足を結びつけるマヤコフスキー、メ イエルホリドの『堂々たるコキュ』の舞台そっくりのオブジェを身につけたブリーク、エ ーリヅヒ・ヘッケルの『白いサーカス馬』にみえる騎士のようなかっこうをしたコクトー ……最後は、一発の銃声とともに立ちつくすマヤコ7スキーの顔に白布がかかり、そこに スライドでまっ赤な血がうつし出される。すべてが静止する。パフォーマンスは終ったが、 絵画的な世界は持続している。それは、まさに、たったいままで再生されていたマヤコフ スキーの時代の革命的文化の生命が、けばけばしいオブジェとなって生きながらえている ように。バーネットは言っている、「六〇年代はあなたを生み出し、七〇年代はあなたを 殺し、八○年代が生き恥をさらしている」、と。




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