遊歩都市 6

思春期ブルース

 オーストラリアの映画界が過熱していることは、日本にいても何となく感じられたが、その”本拠”であるシドニーに来てみて、その実体をつかむことができた。
 オーストラリア映画がめざましい勢いでその活気をとりもどすのは、一九七〇年以降である。ここで”とりもどす”と言ったのは、オーストラリアの映画は、意外と古い歴史をもっており、すでに、パリのグラン・カフェでリュミエール兄弟がシネマトグラフによってはじめて映画を一般公開した一八九五年の翌年には、オーストラリアではじめての映画がつくられており、一九一〇年代から一九二〇年代にかけては、オーストラリア映画界は黄金時代をむかえていたからである(メルボルンやシドニーが、同じ時期にニューヨークやロンドンに比肩されるほどの活気ある都市文化を開花させているのは、映画や演劇活動の活発さが都市の活力をはかる指標になるという点で大変興味ぶかい)。言いかえれば、オーストラリア映画はアメリカ映画よりもながい歴史をもっていたはずなのだが、それがオーストラリアの都市文化と同じように、約五十年間にわたって休眠状態にあったわけである。
 それが、一九七〇年代に急速に活気をとりもどすのは、一つには、この時代に起こった”カウンター・カルチャー革命”の影響のためであるが、もっと直接的には、連邦政府が文化政策を重視し、オーストラリア映画開発公社—のちのオーストラリア映画委員会(AFC)を通じて映画製作の資金援助にのり出したからである。一九七四年には、シドニーにテレビ映画の専門学校が出来、ここから今日活躍している多くの映画人(たとえば『わが青春の輝き』のジル・アームストロング)が輩出し、またこの年に、オーストラリア映画のカンヌ映画祭参加が正式に認められた。『シネマ・ペイパーズ』の発行がはじまったのもこの年である。
 当時、オーストラリアでは、ウィットラムを党主とする労働党政権のもとで、社会と文化の大改革が進められており、実際に、対人関係、性関係、食生活、都市文化、メディアなどがトラスティックに変化しはじめた。かつての権威主義、家族主義、男性至上主義、郊外生活などにかわって、若者の造反や家出、女権の拡張、ビール志向からワイン志向への嗜好の変化、移民がもってきたエスニック・フ−ド、とりわけピツァの普及、マリワナの浸透、都市生活の再評価・・・・といった六〇年代以降のアメリカでおなじみの現象がオーストラリアの社会にも浸透してゆくのである。
 その意味で、こうしたカウンター・カルチャーが社会のなかにかなりの程度浸透した時点で作られたブルース・ペレスフォードの『渚のレッスン』(一九八一年、原題『思春期ブルース』)は、少なくともオーストラリア人にとっては、単に少年・少女の思春期の出来事を描いたドラマであるよりも、オーストラリアの社会・文化的な変化を郊外というやや時代おくれの環境のなかでとらえ、大勢としてはすでに過ぎ去りつつあるこの国の”思春期”を多少の痛みをこめて描いた”ドキュメンタリー”であり、このことがオーストラリアでこの映画をヒットさせる主要因になっていると言ってよい(『渚のレッスン』は、一九八一年十二月の封切以来、ニカ月間で四五万九千六二五ドルの純益−総収入から製作費と配給手数料を差引いた額—をあげた)。
『渚のレッスン』の舞台は、シドニー市から南方に二〇キロほど行った所にあるコネラである。一般的に言って、こうした郊外は、シドニーのような都心部にくらべると、カウンター・カルチャーの浸透度がやや弱い。そこでは依然、父−母−子供の核家族が健在であり、父親が働きに出、母親は家事に専念するという伝統的なライフ・スタイルが続いている。学校は依然権威主義的で、教師は生徒を威圧することに抵抗をおぼえない。男の子は男の子らしくふるまうことがあたりまえとされ、男らしさの度合は、サーフィンの技術や肉体的魅力によって測られる。女の子には女の子のライフ・スタイルがあり、男のやるものということになっているサーフィンに手を出したり、ボーイフレンドのまえであからさまにトイレに行ったりしてはならないのである。
 シドニーやメルボルンの都会人の目から見れば、時代おくれもはなはだしいこうした—プロテスタント的モラルにもとづいた—ライフ・スタイルも、郊外ではまだ生き残っているわけだが、それでも、時代の波はじわじわとそうした”文化的僻地”にもしのびよってきた。親や教師の目をぬすんで少年・少女が、タバコ、酒、セックスにふけるというのは別に目新しいことではないにしても、彼や彼女らが、マリワナやヘロインになじむのは、”カウンター・カルチャー革命”以後の現象だ。中流の小ぎれいな住宅で英国の田舎紳士然としてソファにくつろいでいる父親の耳に、娘のボーイフレントが何の抵抗もなく口にする「ファッキング」や「ファック」という言葉がとびこんできて父親を驚かせるのも、一九七〇年代以前にはあまりなかったことだ。それに、ミドル・クラスの娘(デボラ)と労働者階級の息子(ブルース—彼の父親はレンガ工)とがごく自然に対等につきあうというのは、以前にはそれほどあたりまえのことではなかった。また、この映画には、ピツァをたべるシーンが何度か出てくるが、ピツァがミドル・クラスの多く住む郊外にまで普及するのは、七〇年代の後半以後のことであり、ビツァは、いわば、既存のオーストラリア人からみれば下層とみなされるイタリア移民のマイナーな食文化が既存のイギリス的食文化を侵蝕してしまった象徴的な食べものなのである。
 だから、この映画の最も現代的な部分は、やはり、映画の終わりの方で、本来「女なんかがやるもんじゃない」と女性自身も思いこんでいたサーフィンにデボラが挑戦し、それを見事にマスターするくだりだろう。オーストラリアでは、一九七〇年代のはじめからフェミニズム運動が活発化し、たとえば、一九七二年にはシドニーのジャーナリスツ・クラブで女性ジャーナリストたちが座りこみを行ない、男性ジャーナリストと平等の権利を獲得したし、女権の拡張は(まだアメリカほどではないが)社会のあらゆる部分で急速に進んだが、サーフィンをマスターしたデボラの姿勢は、まさしくフェミニスト的であり、コネラのような保守的な郊外地にもフェミニズムが何らかの形で影響力をもってしまうような時代の趨勢を賠黙に伝えている。
 この映画が、オーストラリアで—都心でも郊外でも—ヒットしたのは、その二種類の観客に同時にアッピールする要素をもっているからである。すなわち、この映画は、前述のような内輪の屈折(ブルース)を十分に理解している都会の観客には、もはや過去のものとなりつつあるオーストラリア社会の”思春期”が愛着をこめて描かれているようにうつり、また、映画に出てくるような過渡期の生活文化が依然として支配的な郊外の観客には、この映画は、自分たちの身近な環境を生き生きと描いているようにみえるのである,ある意味でここには、一九七〇年代に再生したオーストラリア映画の大きな二つの流れ—劇映面的側面とドキュメンタリー的側面—がたくみに統合されているのである。
 ところで、一九七〇年以降のオーストラリア映画には、この『渚のレッスン』のように、ひじょうに地域的で、国内の観客にとって身近で、なじみぶかい出来事をあつかった大小の作品が多数あるが、その多くは日本ではみることができない。それは、むろん、国外にもっていっても作品の内輪の屈折が理解されず、興行成績をあげられないという見込みから輸入されないのだが、『渚のレッスン』が、オーストラリア映画をオーストラリア人の眼でみるきっかけを作り、たとえば(16mだが)思春期の若者たちの姿をもっと生き生きと強烈に描いている『マウス・トゥー・マウス』(ジョン・ドウイガン監督、一九七八年)や『パーム。ビーチ』(アルビー.トーマス監督、一九七九年)のようなすぐれた作品が輸入されるようになればさいわいである。日本で公開されているオーストラリア映画は、全く氷山の一角であり、ほとんど日本ではまだ公開されていない非商業的な実験映画や、いわゆる”ソーシャル・アクション・フィルム”の歴大な作品群のことを考えると、現状は全く淋しい限りなのである。
しかしながら、明らかに今後、オーストラリア映画が日本で続々公開されることが予測されるにもかかわらず、『渚のレッスン』のような軽度の国内的内容の作品ですら、これからはほとんど例外的にしか日本の商業映画の配給網のなかには入ってこない気配もある。
というのは、オーストラリアの商業映画は、いま、はっきりと従来とは別の道を歩みはじめているからである。
 一九七〇年代の後半になってオーストラリア映画界の再生が講の目にもあきらかになると、アメリカの配給会社が次第にオーストラリア映画産業に関心を示しはじめた。今日、ハリウッドの製作コストは、一本あたり一二〇〇万ドルに達するほどになっているが、オーストラリアのそれははるかに安く、たとえば『マッド・マックス皿』は三〇〇万ドル、『ザ・イヤー・オプ・リヴィング・デンジャラスリー』や『キャプテン・インヴィンシブル』でも五〇〇万ドルであり、『渚のレッスン』は八九万ドルしかかかっていない。これは、主として、スタヅ7やキャストの支払いコストがハリウッドの半分だからで、『渚のレッスン』のブルース・ペレスフォードのような有名監督でも、一本あたりのペイはせいぜい五万ドルである。全世界に巨大な配給網をもつアメリカ資本の配給会社にとって、これはひじょうに好都合なことであった。
 アメリカの配給会社からの引きあいがふえてゆく一方で、文化産業としてのその将来性に注目した政府(マルコム・フライザーを党主とする自由党政権)は、一九七七年、映画製作に対する民間投資を奨励するために、投資者に対する税制上の優遇措置を決め、一九八一年六月二四日にそれを最終的に法制化した。それによると、大ざっぱに言って、映画製作に投資された額の一五〇%が税金控除の対象になり、また、オーストラリアを主題とし、オーストラリア国籍のスタッフ、キャスト、投資者による映画に対しては、さらに投資額の五〇%を所得税  現在、三二% 免除の対象にするという。
 こうした優遇措置は、にわかに民間投資家の目を映画産業に向けさせることとなり、一九七〇年代末を契機にして、映画産業への個人投資、民間企業投資が増大しはじめ、本年度は、そうした投資総額が一億二千万ドルに達すると見込まれている。西オーストラリアの鉱山を所有する億万長者ラング・ハンコックは、最大の民間投資家で、最近は、『マッド・マックスⅡ』と『ナウ・アンド・フォーレヴァー』に対して合わせて二五〇万ドルの投資を行なった。新聞(乗っ取り?)王リュバート・マードックも、ロバート・ステイグウッドと協力して、『誓い』に一八○万ドルを投資している。また、GWA、マクブロ・プラント・ハイヤー・グループ、ヴァイキング・エクイプメントなどの企業も、映画への投資に力を入れている。
 しかし、民間投資がふえた結果、オーストラリアの映画産業は、大型映画の製作が容易になり、また、AFCの援助のもとでは不可能な、外国人俳優や監督の起用が行なえるようになったが、他面、オーストラリア映画の将来にとって好ましくない傾向も強まっている。それは、映画が大型化し、作品のマーケットが全世界に広がるにつれて、作品をマーケットの要求に従って作る傾向も強まってきたことである。たとえば、作家の夫がレイプ事件にまきこまれる若い夫婦の悲劇をあつかった『ナウ・アンド・フォーレヴァー』(リチャード・キャシデイ監督)では、オーストラリアのベテラン俳優のジョン・アレンが夫の弁護士役で出演するが、シドニーを舞台としているにもかかわらず、この映画ではダィァローグ・コーチが起用され、アレンのオーストラリア英語のアクセントをアメリカの観客になじみやすいアクセントに変えるトレーニングが行なわれた。こうなると、オーストラリア映画は、ハリウッド映画と何ら変わらないものとなってゆく恐れがあり、しかも、その”ハリウッド映画”とは、あくまでも、一九五〇年代流のハリウッド映画なのである。その証拠に、いまや”映画王”の別名をもつ先述のラング・ハンコックは、次のような恐るべき発言をしている。
「わたしは、このごろあまり外に出ないので映画はみないし、自分の投資した映画がどんな映画であるかにはあまり関心がないね。投資の理由は色々だが、主な理由は、オーストラリアの映画産業がハリウッドのような社会主義的なプロパガンダ・マシーンに偏向してほしくないからなんだ」(『オーストラリアン・ビジネス』82年3月4日号)。
 いずれにしても、いま、オーストラリア映画は、矛盾をはらみながら前進しっづけており、大味な”ブロックバスター”が出てくる率が高まるかわりに、逆に、製作者や監督が資金の豊かさを戦略的に利用してすぐれた作品を作る可能性も同時に高まりっっあるわけだ。その意味では、オーストラリアの商業映画がおもしろくなるのはこれからだとも言えよう。



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