遊歩都市 8

怠惰文化の戸口で

 オーストラリアの都市を歩いてみて、おもしろいと思ったことは、行く場所場所によってたとえば一九五〇年代的なもの、一九六〇年代的なもの、一九七〇年代的なものが姿をあらわし、また同じ場所でも、そうした通時的には相異るものが共時的に姿をあらわすことだった。メルボルンの市内の大通りでわたしは、一九五〇年代流の自動車至上主義を目のあたりにし、うんざりした。しかし、別の日には、同じ地域で一九六〇年代のカウンターカルチャーそのままの大遊芸人やミュラル・ペインターに出会い、ひどくなっかしい思いがした。都心を少しはなれたセント・キルタでは、一九七〇年代のパンク.ロック文化がリバイバルのファッシヨンとしてではなく生きのこっているのをみた。そのうえ、メルボルンでもシドニーでも、台頭する”知識産業”社会に対応してニューヨーク的な都市の再活性化(シェントリフィケイション)が起こりつつあり、そこには明らかに一九八○年代があるのを感じた。
 都市のなかにこうした時代時代の歴史的イコンが並存していることは、ひじょうに重要なことだ。今日の東京では、あらゆる歴史的イコンは等価な記号と化してしまったので、都市の事物や風物から歴史を想起し、都市住人が都市に根をはることは大変困難であり、東京の街は、歴史を忘却させることによって”新しさ”をつくり、活気を演出しつづけるしか”発展”の余地がないところまで行っている。東京の街では、時代は単一な時間とともに歩んでおり、一九八○年代にはどこへ行っても一九八○年代の風物と時代状況だけしかみられず、その以前のものは、きれいさっぱり消去されている。むろん、ファッションやファッショとしての”過去”はいくらでもあるが、それらは所詮、現在の時間梢のうえにならべられたニセの過去でしかなく、端初との一貫性はたち切られている。この街には、”永遠の現在”しかなく、過去と未来へのフラストレイションは、万世一系の神話的時間を使って解消されるのである。
 その意味では、東京は、まさに純粋なテクノ・ポリスなのだろう。ハイデッガーも言ったように、近代の技術つまりテクノロジーの”発展”は、技術の本質をわれわれが忘却することによってはじめて可能となった。言いかえれば、テクノロジーは、われわれが歴史を忘却すればするほど”発展”するのであって、テクノロジーによって発明される諾々の装置は、現在という時間レベルからだけ見れば”文明の利器”ではあっても、歴史的なレベルでは歴史の忘却装置であり、その効率は、テクノロジーの”発展”とともに高まるわけである、 それゆえ、テクノロジーについての反省的な思考は、”文明の利器”をむしろ歴史の忘却装置としてとらえ、それがわれわれの記憶をどのように弱めてきたかを検討する必要があるだろう。実際、コンピューターは、人間が記憶と計算の”天才”になることを断念することによって”発展”したのであり、テレビも自動車も、それぞれある特定の文化を忘却することによって”発展”したのである。
 オーストラリアの場合、二十世紀における最初の強力な忘却装置は自動車だった。一八六〇年から一九一〇年ごろにアメリカ、ドイツ、イギリスを中心として進展した電気と石油化学のテクノロジーはやがて自動車を大衆化したが、オーストラリアでも、自動車は急速に普及し、人々はこれによって、それまで職場と同一の、あるいは職場の近隣の住居を郊外へ移し、職場と住居を明確に分離させていった。
 グレム・ダイヴィソンは、『徒歩のメルボルン』という魅力的な本のなかで、「一八六〇年には、メルボルンのおよそ四分の三の人々がまだ都心の遊歩距離(約五キロメートル)内に住んでおり、職場、店、娯楽施設は歩行者社会のためにつくられていた』と書いているが、こうした遊歩社会と遊歩文化は、一九二〇年代には早くも、自動車社会と自動車文化によってとってかわられつつあった。
 職場と住居が同じ場合には、仕事、生活、余暇は、たがいにわかちがたく結びついており、近代的な意味での賃労働(交換可能な労働)も、仕事から純粋に切りはなされた生活や余暇も存在しない。しかし、両者が明確に分離されてしまうと、職場での労働には”遊び”の部分がなくなり、純粋に利潤を得るためだけの労働になり、また住いの方も、職場と融合/近接していたときには、たがいに領域侵犯をおかしながらかちとっていた独白性(職場との差異)を失い、その内部に職場と同じ分業の論理をもちこみ、それ自体がサービス労働の”職場”となってしまう。
 自動車は、一九二〇年代においてすでに徹底的に分業化されたテーラー・システムの産物であったが、同時にこれは、それ白身、分業化を行なう装置であり、相互的・協働的な活動を忘却させる装置であった。自動車は、歩く者と乗る者とを分業化し、歩くということの積極的な面を忘却させ、さらに、運転する者と同乗する者とを分業化し、一方を運転というサービス労働の提供者、他方をその購入/借入者に固定することによってはじめて機能する。
 職場と住層の分離は自動車の発達と普及によって進んだが、この自動車に家族が乗ることによって、家族は職場の論理を学習し、家庭をサービス労働の交換市場へ近づける。夫が車を運転して家族を行楽地へはこぷ家族ドライブは、職場の労働を家族のまえで実演してみせるための”移動舞台”であり、この実演の労苦は、食事、育児、洗たく、掃除などの家事を主婦が提供し、それを夫と子供が、財産や家名などの”長期クレジット”で購入/借入する近代核家族の私生活のなかであがなわれるのである。
 近年、オーストラリアでは、アメリカと同じように離婚率が高まっており、統計では、締婚したカップルのうち、その四分の一が離婚している。フェミニズム運動も活発で、職場における女権はいちじるしく拡張された。独身者やゲイの文化も根をはりつつある。核家族の内部にも大なり小なり共生家族的な要素が加わり、家事労働を全面的に女性に負担させるマチョ主義は弱まっている。郊外の核家族の退屈な生活にがまんがならなくなって都心に飛び出して放浪生活をしたり、仲間をつくって共同生活をする青少年・少女もふえている。明らかに、一九二〇年代以後、自動車文化が潜在的なモデルになっている核家族主義の全盛期は終わったのである。
 その際、二大都市のメルボルンとシドニーを比較してみると、前者は旧タイプの都市文化(自動車文化)から脱しきれない過渡期の段階にあるのに対して、後者はマンハッタン型の新しい都市文化(遊歩文化)へ向かって変貌をとげつっあることがわかる。メルボルンでは、東京などにくらべると、商店の店じまいが早く、都心でも五時をすぎると店のなかに人の気配がなくなり、六時頃には街の大半がノーマンズ・ランドになってしまう。これは、オーストラリアの人々が一般に余暇を大切にし、必要以上にあくせく働いたりはしないということも無関係ではないが、もっと直接的には、メルボルンの都心部には住宅地域が少なく、仕事をおえた人々がひきあげる先は、大抵都心を遠くはなれた郊外だからである。その点シドニーには、都心にも個人住宅やタウン・ハウスが相当あり、キングス・クロスのような歓楽街以外でも夜間にかなりの人通りがみられる。また、とくに週末には、演劇や映画をみたり、コンサートをきいたり、小ぎれいなレストランで食事をしたりして、深夜までナイト・ライフを優雅に楽しむ人々の数がだんだんふえてきた。むろんメルボルンでも、都心のいくつかの地域にはこれと似たようなナイト・ライフがあるにはあるが、その客の大半は郊外生活者なので、店にやってくるのも帰るのも車を利用してしまい、自宅と目的地とのあいだの遊歩道の散歩を楽しむことは少なく、レストランが夜遅くまで開いている地域でもその街路にはあまり活気がないのである。
 新しい都市文化には自動車はなれの傾向があり、その伝でゆくとメルボルンはまだ自動車志向の強い都市であり、シドニーは少しずつ自動車はなれをして遊歩都市に変貌しようとしているようにみえる。歴史的にみると、メルボルンは、一九二〇年代以降、交通がどんどん郊外にのび、自家用車が普及しはじめ、都心から郊外への人口拡散が進んで、一九五〇年代以後には、自動車なしの生活が考えられないロサンゼルス型の都市になっていった。シドニーも、やはりメルボルンと似たような変化を経験し、都心と郊外とを給ふ重要な交通路として一八八二年に竣工されたシドニー・ハーバー・ブリッジも、たちまち自動車渋滞の名所になってしまった。しかし、シドニーでは、一九七〇年代末ごろから比較的都心に近い地域に住む者がふえてきた。これは交通費やガソリン代が肯同くなってきたこととも関係があるが、より根本的には、オーストラリアでも近年アメリカと同じように知識・情報集約型の産業が急激に発展しはじめ、情報密度と、情報効率の高い都心が、そうした産業の中心地となり、都心にアッパー・プロフェッショナルズ(比較的経済水準の高い専門職についている人々)が住みつきはじめたからである。
 アッパー・プロフェッショナルズのコミュニティが形成されるにつれて、そうした人々をあてにしたしゃれたレストラン、カフェ、ブティック、アンティク・ショップなどが出来はじめ、いままで殺風景だった所が急に活気づいてくる。これは、一九七〇年代後半にニューヨークで起ったのと同じ変化であり、街が新しい”ジェントリー”(アッパー・プロフェッショナルズ)の街になるという意味で”シェントリフィケイション”と呼ばれるが、シドニーではあきらかにこのシェントリフィケイションが進んでおり、ちなみに都心の各地域で目下建築中ないしは計画中の”高級マンション”が収容できる全所帯数は四〇〇〇所帯以上だという。
 しかしながら、こうした都市の活性化は、知識・情報集約型の産業の躍進と関係があり、それは当然、マイクロエレクトロニクスやコンピューターの発達・浸透とも関連しているわけだから、都市が活気づけばづくほど、一方で高度のプロフェッショナルズの需要が高まると同時に、他方では、きまりきったルーティン・ワークや肉体労働の面で大巾な省力化が進み、人手が余ってくるという相反的な現象があらわれてくる。すでにオーストラリアでは、未・半熟練労働者のあいだで失業者がふえており、一九八二年三月の統計では、オーストラリアの欠業率は前年度の七パーセントから九パーセント増になっている。
 オーストラリア労働党の”陰の科学・テクノロジー相”と呼ばれるパリー・ジョーンズは、『眠れる者よ、目覚めなさい! テクノロジーと労働の未来』(一九八二年)のなかで、オーストラリアはいま、サービス祉会(脱工業化社会)からポスト・サービス社会へ向かいはじめていると言っている。サービス祉会とは、商業、交通、事務、メディア、教育などのサービス労働が、農業や工業の労働者を陵駕する社会であり、ジョーンズによると、前著の労働力が全体の労働力の五〇パーセントをこえたのは、オーストラリアでは一九四五年、アメリカは一九四七年、イギリスは一九四八年、カナダは一九五五年、スエーデンは一九六〇年、ニュージーランドは一九六五年、ベルギーは一九六六年、フランスと西ドイツは一九七二年、日本は一九七四年だという。
 サービス祉会は、通信と交通の技術の発展によって都市が拡大し、都市経済が発達するなかで形成されるが、この社会の基本的モデルは自動車文化のなかにあり、サービス社会は、いわば万人が自動車に乗るとき完成される。しかし、サービス社会の形成が進む間に、一九四〇年代にアメリカで進展した原子テクノロジー(極小なものと極大なものとを統合するテクノロジー)が、自動車文化の本質をなす一労働を送り手(運転者)と受け千(同乗者)とに分割し、物との直接的な接触(たとえば道路と足)よりも物との間接的な操作を優先させる一側面をより過激に、より大規模に実現し、サービス社会をポスト・サービス社会へ移行させた。
 これは、一面では”発展”であり、実際にサービス祉会はマイクロエレクトロニクスやコンピューターとともに飛躍的に発展し、多くの新しい仕事と職場を生み出した。しかし、他面では、この”発展”も忘却を含んでいるのであり、自動車文化からエレクトロニクス文化へ”発展”することのなかで忘却されたものがあるのである。それは何か? 自動車文化が遊歩文化を破棄したとき、それがかろうじて継承したものは、いかなる距離の移動においてもその移動に生身の身体が立ちあうという要素であったが、これは、エレクトロニクス文化には全く関心のないことなのである。エレクトロニクス技術は、生身の身体を不要にすることによってその本領を発揮するのであり、だからこそそれは、肉体(身体)労働を機械化できるのである。エレクトロニクス文化は、肉体的に”怠惰”な文化、肉体を生産的に使うことを禁ずる文化なのであり、生身でない  情報システムとしての一頭脳のみを生産的に働かせることを要求する文化なのである。
 すでにこうしたエレクトロニクス文化は、オーストラリアの社会で具体的な形をとってあらわれている。一九八○年代になってオーストラリアでもふえてきた失業者は、急速に進むコンピューター化によってルーティン・ワークの職を失った未・半熟練労働者であるが、彼や彼女らは、まさにエレクトロニクス文化のために”怠惰”であらざるをえないのである。また、近年祉会問題になっているホームレス・ユース(家出少年・少女)は、文字通りテレビの中し子たちであるが、彼や彼女らは、より本格的なエレクトロニクス文化を求めて家を飛び出し、都心の安ホテルや路上に漫然とたむろしてはこの文化の”怠惰”な要素を体現し、またロックを実演するパブに出かけては、わが身を猛烈な音響の攻撃のなかにさらし、身体を情報システムと一体化させようとするのである—わたしがシドニーのパブのロック.コンサートで見た少女は、踊っているその身体が文字通りVUメーターの針のようになって床のうえで激しく振幅するのだった。
  あきらかに、オーストラリアは、ポスト・サービス祉会への遭をすすみはじめているのであり、十年まえにはまだ移民労働者の”パラダイス”といわれたようなオーストラリアではなくなっているのである。とはいえ、オーストラリアには、”余暇中毒”ともいわれるようなある種の安息文化があり、今後、”働かなくてもよい”ではなくて”あまり働いてもらっては困る”ポスト・サービス社会が本格化する際、オーストラリアは、日本のような”働き中毒”の国よりもはるかに適応力があるはずである。



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