アメリカの身勝手


 ハリウッド映画というのは、要するに「アメリカ論」である。日本で好まれる「日本論」はもっぱら活字メディアで発表されるが、アメリカでは、商業映画というメディアによる「アメリカ論」が確固とした伝統を築いているのである。
 アメリカを旅すれば、「アメリカ」などという単一の国はどこにもないことがわかるが、さまざまな民族、文化、言語、風土が混在しているからこそ、「アメリカ映画」という国家装置が折に触れ、暗黙の「国家教育」を試みる。
『インディペンデンス・デイ』は、独立記念日の前日の七月三日に封切られて、たったの四八日間で二億六千七00万ドルの興行収益をあげたという。なるほど、「凶悪な異星人」が地球に襲来するというテーマとその映像的効果、民族・階級・職業の違いを適度に配置したエピソード、そして明らかに現大統領のイメージをただよわせる作中の大統領とその夫人――これだけそろえば、アメリカ人の誰が見ても、どこかで自分を同化することのできる部分を見出せるだろう。
 しかし、アメリカ人ではない者の目から見ると、ちょっと待てよという部分も多々見えてくる。たとえば、ニューヨークを初め、地球上の主要都市を巨大な宇宙船で片端から破壊しはじめた異星人の攻撃にたいして、必死の反撃を加える米兵士たちに檄を飛ばす大統領の演説である――
「もしこの戦いに勝利したならば、七月四日はアメリカの祝日だけでなく、地球上のあらゆる国家の独立記念日になるだろう・・・」(要旨)
 決戦の日が七月四日だったというだけのことにすぎないといえば、そうなのだが、ここには、何かアメリカ的な身勝手というものがよく現わされているように思う。実際、異星人が地球を襲ってくるということは、地球上の全人類をまきこむ事件だというのに、この映画では国連は一度も話題にならない。アメリカからすれば、国連はその程度の存在なのであろう。
 スピルバーグの『未知との遭遇』以来、ハリウッド映画では、異星人との和平的な通信や交流が流行りだったが、この映画は、五〇年代に流行した異星人=性悪説を復活させている。だが、それにしても、この映画ほど、異星人との和平交渉をおざなりにしている映画もめずらしい。捕まえたたった一人の異星人が言った言葉だけから、「こいつらは、一つの惑星を襲ってはそこを根こそぎにし、また次の惑星に移っていく害虫にすぎない」と結論づけてしまうのだから。骨の髄まで洗脳されているプロの戦闘要員が捕まえられたとき、素直に和平の意志をもらすはずがないし、彼らは、地球の代表と交渉する立場にもないのだから、これは、あまりの短絡だ。
 異星人の攻撃にたいする最終的な切り札は、異星人のコンピュータ・システムにウィルスを混入させることであった。だから、米ソの軍拡競争の時代にはやった――強力な爆撃にはより強力な爆撃力を対峙させ、最後には地球をも破壊しうる核兵器に頼るという破滅的な戦争観は、この映画では一応、時代遅れなものとみなされているように見える。しかし、この映画では、一度は、核ミサイルが発射されているのである。そのとき、大統領は、「子孫に申し訳がない」と言いながら、苦渋の表情でボタンを押したのだが、敵の電子的バリヤーにさえぎられ、何の効果もあげることができなかった。
 でも、核弾頭は、確実に地球の上空で破裂したのである。一体、その話は以後、どうなったのだろう? 最終的に異星人を壊滅させることに成功したからといって、どうでもよくなる話ではない。異星人は去っても、あとには、それこそ「子孫に申し訳ない」環境破壊だけしか残らないのではないか?  とすれば、この映画のフィナーレを、ホッとした気味で楽しむわけにはいかない。
とはいえ、こうした大味な映画があるからこそ、批判の小味のきいたオフハリウッドの映画が活気づき、それがさらにハリウッド映画を前進だせるという構造がある。この構造はうらやましい。  

(週刊金曜日,1996年12月13日号、p.42)