『ザ・エージェント』

  「競争主義」を越えて

                 粉川哲夫



  アメリカ映画のおもしろさは、時代の変化をあたかも自己反省と決断の結果であるかのように行動する個人が登場し、それが、それなりの結論を提示することだ。だから、観客は、その人物に同化し、その人物の行動を追っていくなかで、時代の変化とそこで自分がやるべきことを知らず知らずのうちに教えられる。むろん、それは、啓蒙(ソフトなコントロール)装置であるはあるわけだが。
  六〇年代には、組織に盲従する「孤独な群衆」であることへの激しい反撥と離脱が表現された。七〇年代には、虚構化した家庭・家族への反省が出ていた。八〇年代は、テクノロジーと保守的なものが前面を飾った。
  原題が「ジェリー・マクガイア」という個人名になっている『ザ・エージェント』のような映画を見ると、いまアメリカでは、これまで支配的であった競争主義自体が少しづつ変わってきたのではないかということを感じる。実際に、それは変わりつつある。それは、必ずしも、人々の真摯な反省によるものというよりも、産業構造自体の変化にうながされたものであり、もはやこれまでのような人を押しのけての競争では利潤を生めなくなったシステムの変化の暗黙の要請という側面も無視できない。
  だから、この映画は、最近の「ホスピタリティ・ビジネス」の台頭といった面から見ると非常におもしろい。ホスピタリティというのは、サービスの先にある概念だ。サービスは、この三〇年間にすみずみまで値がつけられ、切り売りされるものとなってしまった。日本でも、いま墓参りの「サービス」業まであるではないか。
  サービスは、あまりにメニュー化されてしまったので、もはや、産業にとって、なんの新しさもない。そこで、それを越えるものとしてホスピタリティが登場する。要するに、これまで店の「常連」だけが享受してきたものを、もう少し広げて売り物にしていこうというわけだ。
  当然、そうなれば、階級差は強まる。ホスピタリティは、サービスのように切り売りはできない。持続的な人間関係があって、そのなかであるときは、利害を無視して「サービス」するというような面も出てくるからである。そうした持続的な関係をもつには、ステイタスやそれ相当の金がいる。それが出来る階級とできない階級とはおのずから別れてくるだろう。
しかし、この方が、金さえ払えば誰にでも均等に与えられるというタテマエのサービス社会よりは、個々の人間関係が基礎になっている点では、人間的であるとは言える。
 『ザ・エージェント』の主人公ジェリー・マクガイア(トム・クルーズ)は、芸能人やスポーツ選手の売り込みを一手に引き受ける一流エージェント会社のスゴ腕のスタッフである。ところが、ある晩、ふと、自分のやっていることがまちがっているというひらめきに襲われ、その思いを一晩かかってワープロに打ち込む。そして、表紙のレイアウトまでして小冊子を作り(DTPの功徳?)、翌朝、会社で配った。
  数で勝負するのではなく、より少ないクライアントで「多くの真実」をというジェリーの宣言は、会社中でウケたように見えたが、結果は、そのためにクビ。部下のうち、彼に唯一ついてきたのが、会計係をしていた一見パッとしない子連れの中年女性ドロシー(レニー・ゼルウィガー)。当然、それまでのクライアントは離れ、フィアンセにも軽蔑のパンチを浴びせられて捨てられる始末。たった一人残ったクライアントの黒人フットボール選手フランク(ジェリー・オコネル)は、落ち目の気配がある。
  ドラマは、この三人とドロシーの幼い息子を中心に愛と涙と笑いとをふりまきながらユーモラスに展開するわけだが、その背景には、競争主義から共生主義へ、単親家族から共生家族へ、量よりも質を重視する小規模経営のベンチャービジネスへと揺れる今日のアメリカ社会の変化がある。最近やたらと競争主義が強調される日本の現状と比較して見るのもおもしろい。
--------
(週刊金曜日、1997年6月6日号、p.66)