「MONDO(モンド)」
モンドの不在は世界の不在

  魅力的な、妙に心に残る作品である。スピードとド迫力でせまってくるアメリカ映画とは基本的にちがう雰囲気の映画。といって、観念的では決してない。
  原作は、『調書』て知られるル・クレジオの短編『海をみたことがなかった少年〜モンドほか子供たちの物語』。監督は、自分の出自でもあるジプシーやマイノリティに焦点をあてて映画を撮ってきたトニー・ガトリフ。
  どこからともなくフランス南東端の町ニースのに現われた美しい目の少年。その少年の名は「モンド」。明らかにフランス名ではない。イタリア国境までわずか数十キロのニースには、日々多くの越境者がやってくる。それは、金持ちにとっての避暑地、観光の名所であるニースのもうひとつの側面だ。この少年もそのようなホームレスの越境者の一人なのか? 
  それにしても、この少年の目を通して描かれる映像は美しく、ユートピア的に楽しい。やがて彼の仲間になる人々は、みな、「社会」の主流からははずれている。演じるのは、プロの俳優ではなく、ほとんど映画のなかの「役柄」を地で行っている人々である。
  小鳥をトランクに入れ、街の片隅で物乞いをする老人。英語なまりのフランス語から、彼がイギリスから流れ着いた人であることがわかる。この老人は、ある時間になると、必ずある家の前に行き、窓を見上げる。すると、窓辺に赤子を抱いたクルド人の女性が現われ、赤子に乳をふくませながら、故郷の歌を歌いはじめる。彼女の夫は、大道芸人で、港の広場で手品や綱渡りを見せて生活している。永住権はなく、いつ国外追放を受けるかもしれない亡命者だ。
  海岸で少年が出会う老人は、引退した船乗り。釣りを楽しむ余生。もうビジネスや競争の世界とは縁がない。
  うっそうと木がしげる屋敷に住んでいる不思議な老女は、ベトナムからの亡命者だ。少年が、街をさまよい、ときには警官に追われながら、さまよいこんだのがこの屋敷。そこでは、なぜか金色の光が射し込み、部屋のなかの事物を金色に輝かせる。ここは、「現世」ではないのか?
  ポーランド出身でアメリカ在住のアーティスト、クリストフ・ヴォディツコは、かつて、「ホームレスは、われわれの近未来を体現している」と言ったことがある。実際、もはや、「ホーム」(拠点・家庭)はゆらいでおり、その日常的身ぶりも「ホームレス」に近づきつつある。ひとりごとを言いながら歩く人の急激な増加。彼や彼女らの手には携帯電話が握られているとしても、その身ぶりは、孤独なホームレスの身ぶりとうりふたつである。
  しかし、こうしたホームレス性が、時代の必然(たとえ誤った、呪うべき必然だとしても)だとすれば、それを嘆いてばかりはいられない。そこに、積極的なものを見いだすことこそが、いま必要だ。
  この映画の魅力は、モンドという少年をはじめとする「ホームレス」が、「ホーム」は依然として存在すると信じている「普通人」よりもはるかに生き生きと描かれていることである。ここでは、世界は逆転しているのである。ちなみに、「モンド」とは、ラテン語で世界や世間・現世を意味する。通常「世間」は、この映画の主役たちのような存在を排除するが、この映画では、彼や彼女らこそが「世間」の主役なのである。
  もし、ホームレスがわれわれの近未来を体現しているのだとすれば、ホームレスと共存できない社会や共同体には未来がないということになる。狭義のホームレス(路上生活者や放浪者)が、追い立てられたり、攻撃の対象になったりする都市には未来はない。
  だから、この映画で、モンドが倒れ、野良犬のように「収容」され、街から彼の姿が消えてしまうと、それまでうまくいっていたようにみえるこの街が、急変しはじめる。おいしいパンを焼いていた店では、パンが焦げ、建物や街路はまだ夏がはじまったばかりだというのに、冬の風が吹き荒れ、路上の車も凍りつく。モンドの不在――世界の不在。

(週刊金曜日、1997年7月18日号 、 p.42)