ある「女」の物語

  この作品については、すでに多くの紹介や批評が出ているが、わたしの目に触れたものは、一様に「老人介護」の観点から作品をながめていた。むろん、それはまちがいではないわけだが、最初からそのような観点でこの映画を見てしまうと、この作品が映画として表現したものを半減させてしまうのではないか、と思うのである。
  ここでは、「介護」以前に、人と人との新しい関係がある。「介護」という以上、それは、最初から介護されるべき者と介護する者との境界を前提している。まして「老人介護」ということになれば、「老人」という存在が前提されるわけである。
  そんなことはあたりまえではないかと言われるかもしれないが、この映画は、そういう前提そのものを越えたところで起こることを描いており、また、そういう前提をのり越えるのでなければ、「老い」や「老人」の問題は、解決されえないということをも示唆いているのである。
  その意味では、この映画の邦題『ある老女の物語』(原題は『ある女の物語』)は、映画の趣旨に反する。この作品は、ひとりの「女」が、女として、年令を越えて生きる物語であり、むしろ「老女」であることに反抗する物語であるからである。
  作中、主人公マーサ(シーラ・フロランス)が入浴するシーンでは、七八歳という設定の「老いた」醜い身体であるかのように見えるものが、彼女の仕草とカメラの移動とともに輝きを増し、若い女性のそれとは異質のエロティシズムを感じさせる。
  スっと男性の手を取ってダンスのステップを踏むマーサ。パーティのシーンでは、マーサは、不自由な身体をいたわりながらも、自分で料理を作り、精力的に食べる。他の「老人」たちも、よく食べ、よくしゃべる。彼や彼女らは、「老人」ではない。生物学的には「老いて」いるが、ここで生き生きと描かれるのは、彼や彼女らが老人であるということではなくて、彼や彼女らが、それぞれに個性的な男/女であり、個人であるということである。
  だから、この映画の重要な部分をしめるアンナ(ゴシャ・ドブロヴォルスカ)との関係も、まず、「看護婦」と「介護される老人」という関係をしばらく括弧に入れて見る必要がある。
  この映画を論じたある文章のなかで、老人を介護する看護婦としてのアンナの献身的な態度を賞賛したのち、彼女が恋人との逢引にマーサのアパートを使い、そのあいだマーサが公園で暇つぶしをするというシーンは余分だと書いているものがあった。わたしの見方では、むしろ、こういうシーンこそ、マーサとアンナとの関係をよくあらわしていて、必要な場面だと思うのだが、この論者は、これは、介護のプロにあるまじき行為だというのであった。
  そうだろうか?  この映画では、二人は、単なる職業的な関係(それがどんなにすぐれたものであれ)を越えて、真の友人として信頼しあっている。彼女は、看護婦としての義務からマーサのもとを訪れるのではなく、誰よりも深く愛しているがゆえに、マーサのめんどうをみに来るのである。その点では、二人のあいだには、ある種「同性愛」的なものさえ感じられる。だが、しかし、二人は、そんな愛すらも越えた新しい愛のかたちをつくっていると考えたほうがよい。そして、そのユニークさが、女としてのマーサを、看護婦としてのアンナをそれぞれに輝かせ、見る者に深い感動を与えるのだ。
  わたしは、この映画をその社会的コンテキストにおいてとらえる論調を拒否しているのではない。そうした批評が、そのまえに、映画としての表現レベルをちゃんとおさえたうえているかどうかを問うているにすぎない。映画は、コンテンツを容れる器ではないし、メッセージを伝達するための単なる手段でもない。映画は、まずもって、ドゥルーズが言ったような意味での「脳のスクリーン」であり、知覚とリンクしあった共鳴装置なのだ。

(週刊金曜日,1997年10月10日,42 p.)