記憶の解放

  ハリウッドの超大型映画を批判することが多いわたしも、この作品には、賛辞を送らざるをえない。近年のアメリカ映画のなかでも上位に属する傑作である。
  タイタニック号の沈没を主題にして製作費二億ドルをかけたというと、予想できるのは、飛行機の一機や二機、街のひとつやふたつ潰してもなんとも思わないという浪費主義と蕩尽のかぎりをつくしたカタストロフのシーンをメインに据えた「サスペンスとスペクタクル」の作品である。しかし、ジェームズ・キャメロンは、そんなハリウッドの語法をここでは採用しなかった。
 『スピード2』、『ボルケーノ』、『コンエアー』、『フェイス/オフ』、そして『エアフォース・ワン』と最近話題の大型映画は、みな、前半で実に繊細な作りを展開し、役者もきめ細かい演技を見せる場合でも、決まって、後半は、破壊と浪費のワンパターンに陥ってしまう。
  これは、ひとつには、映画が、テレビで出来ないことを追求した結果であり、テレビのスクリーンでは出せない迫力を劇場で体験させることによってテレビに差をつけるという単純な論理の行き着いた姿である。
  また、「迫力」あるスペクタクル・シーンは、昔のように、現物やセットを実際に破壊するのではなく、コンピュータによる特殊効果に依存することが多くなったが、そうした技術を蓄積した専門家や集団の数は限られており、製作会社や監督は違っても、同じ専門家・会社が特殊効果を担当するということが起きる。こうなると、同じスタントマンでカーチェイスをやらせるときのように、どうしても出来上がったシーンが似てしまうのもである。
  『タイタニック』は、決してそのようなパターンに陥らなかった。 ハリウッド映画の大半が幻惑と統合を主要な技法にしているとすれば、この映画は、発見と記憶をその技法にしている。深海探査機で海底のタイタニック号を探査するシーンから始まるこの映画は、やがて、この調査で発見された一枚のスケッチ画に関心を向けさせる。そして、その絵のモデルとなった人物ローズ(ケイト・ウィンスレット)は、事故の生き残りの一人として一〇二歳の高齢で生きていることがわかる。それからの展開は、彼女が、深海探査のスタッフたちにその日の出来事の記憶を物語るという形式になっている。
  歴史を一つに統合するのではなく、人の数だけある多様な歴史・記憶として解放すること。これは、ハリウッド映画の主流のやり方ではない。
  と同時に、この映画は、タイタニック号の沈没が、単なる事故ではなく、まさにこの時代に世界的な展開を開始した西欧近代の技術文明が、きわめてあやうい過信と思い上がりを宿しているということへの警鐘であったことを明らかにする。
  また、実際に存在した船内の階級制(乗客の区別と差別)を目のあたりにするわれわれ観客が、一九世紀以来の西欧社会の階級制の縮図をそこに見ることができるような隠喩的な作りをしている点も、この映画に、最近のハリウッドの大型映画には見られない深みを与えている。
  船のなかに社会や国家の縮図を映すというやり方は、別に新しいことではないが、それと同時に、そうした階級社会のなかで、階級制が越えられる瞬間があるということを見せてくれる作品は決して多くはなかった。
  金持ちと婚約しているが、自分が属する上流階級に疑問を抱いている娘ローズが、画家志望の青年ジャック(レオナルド・ディカプリオ)に導かれて、初めて三等船室を訪れるシーン。一等船室の取り澄ましたパーティとは対照的な祝祭的でアナーキーな空間。ローズが、その世界で生気をとりもどし、ジャックに惹かれていくプロセスの感動は、階級や支配を乗り越える瞬間のすがすがしさや熱い解放感を思い出させてくれるだろう。
(週刊金曜日,1997年12月5日,56 p.)