クールなノリだぜ

冒頭のシーンの文字がスタンプされるように現われるときに響くサウンドが胸にズーンと来る。最初からノリのよさに引き込まれる。この都市的な音楽性のなかに身を浸し、ぼんやりと画像をながめているだけでも、この映画は、十分「体験」しがいがある。
主役となる三人は、ヴォーカル(クッキー/ダンディ・ニュートン)とキーボード(ストレッチ/ティム・ロス)とベース/ラップ(スプーン/トゥパック・シャクール)を演奏するミュージシャン(といっても、いつも仕事があるわけではない)という設定だから、ノリがよくなくては困るのだが、映画でドラマの設定と映像の現実とが一致するとはかぎらない。それが、この映画では、すべてが、クールでカオス的なリズムで、見る者を最後まで魅了する。
この三人の関係は、クッキーとスプーンが恋人同士であるようだが、それがメインにはなっていない。ストレッチはゲイのようなところもある。が、三人の関係は、むしろ、異性愛でも同性愛でもない、言うなればサウンドで結びついている〈共鳴的〉な愛のなかにあるように見える。このへんも、この映画の新しさである。
フラッシュバックでそれぞれの過去の記憶が回帰し、すぐ消えていくが、このあたりの感じは、明らかにドラッグに酔った意識を想定している。ちなみに、この作品では、ドラッグを打つシーンや中毒やハイの意識に関して、専門のコンサルタントがつき、非常にリアルな表現に成功している。
ストーリーも、ドラッグが軸になっている。ヘロインを打ちすぎたクッキーが昏睡状態になり、慌てた二人が病院へ運ぶ。が、受付の対応は、機械的であり、人間らしい応対をしてくれる医者に出会うまで、さんざん待たされる。マフィアに追われる話もあるが、こっちの方がリアリティがある。
アメリカの大都市では、金持ちには限りない特権が許されるが、貧者には、総人口の七割以上が中流意識を持つ日本に比べると、信じられないほど劣悪な社会サービスしか与えられない。この映画でも、ストレッチとスプーンが、ドラッグ漬けの生活から足を洗おうと決心して、中毒治療のパブリック・サービスを受けに行くシーンがある。ここで皮肉たっぷりに描かれる窓口の応対のひどさは、アメリカの現実である。
郵便局でもバス会社でも、「パブリック」と名のつく場所で働く人々の官僚的な対応のすごさは、わたしも最初は驚いた。アメリカというようりも、旧ソ連時代の官僚主義的な諸機関を思わせる――こちらが、最後に卑屈な思いで「サンキュウ」を言わせられるかのような――威圧的な対応。こういう場面をいたるところで目撃できる。
福祉局の窓口で型にはまった対応をされるときにスプーンが見せるギャグは、アメリカのこうした環境のなかで培われた街っ子のしたたかさ(ストリートワイズ)にあふれているが、この映画(ヴォンディ・カーティス・ホール)がこういう活力ある表現に満ちているのは、社会をつねに下側から見ているからだ。
この福祉局のシーンで、外見はおとなしそうに見えるベトナム帰りの盲目の退役軍人が、最後に怒りを爆発させて、ささやかな自分の要求を聞き入れるように激しく要求する。おそらく、この場面でアメリカの観客たちは、一斉に拍手をしたに相違ない。パブリック・サービスの「安かろう、悪かろう」には、アメリカでも、誰もが頭に来ているからである。
この映画の公開を見ずに殺されてしまったトゥパック・シャクールの演技とラップも魅力的だが、向こう見ずで難しいことの嫌いな男を演じるティム・ロスが、実にいい感じを出している。ロスは、タランティーノの映画で有名になったが、わたしは、ニューヨークのブルックリンのロシア系ユダヤ人の街を舞台にした『リトル・オデッサ』(一九九四年)での殺し屋役がすばらしいと思う。本作では、それとも違った(しかし、ここでも社会の底辺を徘徊している)キャラクターをすばらしく演じている。
(週刊金曜日,1998年2月6日,60 p.)